1日、裕一郎さんを迎え、テラスの薪の積み替えも片付き、5日、知範さんを迎え、新著の表紙デザインの変更がかない、妻は気がかりだけでなく胸のつかえも溶けたようです。そして7日。急遽ニホンミツバチの師匠にお出かけ願い、最悪の時期に、巣箱を一時綾部に疎開。これは課題の1つの下準備でした。この折にミツバチ談義に花が咲き、ニホンミツバチにとって、とても好ましそうなニュースに触れ、嬉しかった。
この間も三寒四温の日が続き、TV番組では素肌に関して「やはり」と得心したり、ある遺失物では「うかつさ」を嘆いたり、久保田さんのミニ演奏会に出かけ、ほのぼのとした一時を過ごしたりしています。またこれもTV番組ですが、3・11がトゲ魚の世界で先祖返り現象を生じさせたことを知り、水都大垣時代のハリヨを振り返っています。
第2週は、ハクモクレンの花が咲き、アイトワのシンボル樹木(モミジ)恒例の剪定と、今年2つ目の支柱立て(ツタンカーメンのエンドウマメ)から始まり、急かされる思いで、この冬7つの課題の内の、次の3つに着手です。業者の手で、クヌギの高木(苔庭の4本と巣箱があった裏庭の2株4本)対策。モッテノホカの定住地への移植(そのために、カボチャとニラのコーナで大掛かりな下準備を要した)。そして、2か所でのセメント仕事です。残る4つは、新著の校了。4~5年に一度のシイタケのホタギづくり。防草土舗装の過去分の補修と一部新装。そして、7つ目は、既に先月片づけた2本の松の切り取りでした。
この間に、3つのトピックスに心を打たれています。まず9日、子を思う母の心に触れて。次いで11日、10年という年月を実感。そして12日は人の縁(?)の不思議さです。3・11に橋本ちあきさんから電話があり、急ぎ元アイトワ塾生の財木さんと喜びを分かちあいました。そして翌日は、新住人の挨拶周りでしたが、この(向に迎えた)新住人は先の住人とは雲泥の差、むしろ月とスッポンのような関係で、大喜びのビックリ仰天です。
クヌギの高木対策は、実質7日間で計6株9本を切り取り、ついでに1本の杉の背丈をつめました。畑では、菜の花が咲き始め、17日に第1次ナバナ漬け。畝の1本を夏野菜用に仕立て直しながら、急遽(使い残していた)ジャガイモ(を種イモ)に転用。週末にはスモモの花が咲き始め、ハクモクレンの花びらが散り始め、春を実感しています。
第3週は、岡田さんの今年初来訪に始まり、満開のハクモクレンが梶山さんを誘い、予期せぬ再会を喜び合いました。他に6つのトピックスが心に残りました。2つ目のセメント仕事に着手。電動薪割器を義妹の娘から借り、知範さんの助成を得て、大掛かりな薪割りに着手。新著の校了。堆肥の山の整備をかねたカラス対策。第2次スナップエンドウに今年3つ目の支柱立て。そして、第2次ナバナの収穫や大掛かりな除草。週末は、2度目の大薪割りと、右足の故障を嘆きながらギタリストを迎え、良き出会いを喜びました。
20日は「雨が降り出す前に」と、妻と3度目の薪仕事を始め、月末までに、なんとか苔庭の分を片づけ付けました。他にトピックスが7つ。事情があって山下有子さんを2度迎え、2度目の小林正秀さん(シンボルモミジにご着目)との出会い。心臓の定期検診でまた投薬剤が1錠増えた。岡田さん2度目の(竹酢液と高畠華宵について)来訪。3つの鉢仕事。4つの防腐剤仕事。ライター同伴の長勝親方の来訪。そして平野さんを迎え、アイトワらしい2つの打ち上げ(決算とパーティ)の相談でした。
快晴の月末、庭のヤマザクラが満開、財木さん来訪。何とか無事に過ごせました。
~経過詳細~
1、春になりました
スイセンからクリスマスローズへ、と始まった春の知らせは、ツバキ、ミツマタ、紅シダレウメ、ハクモクレンやヒメモクレン、サクランボの花、そしてスモモへ、と主役がリレーするがごとく華やいだ。
リスマスローズは一斉に咲き揃ってからの花の命がとても長い。だから、妻は大勢の人にお裾分けする。私も「久保田さんが演奏される」と知り、その展示会場に出かけたが、妻は、大きな花かごにクリスマスローズをたくさん盛り付け、持たせた。
民家をミニギャラリーに活かした会場だったが、展示の作品は、花をモチーフにしており、民家の内装に活かしたくなる絵画が並んでいた。
それにしても「不思議だなあー」と思った。昨年、コロナ騒ぎがかまびすしくなり、マスク姿が当たり前になり始めた時の最初の外出先は高槻だった。しかも、訪ねた先は民家を生かしたミニミュージアムだった。この度は、全国的な外出自粛要請の解除が取りざたされて初の外出だったが、高槻だし、民家ミニギャラリーだったからだ。
だから、ヒョットしたら、とわが身を振り返った。私の就職が大阪に決まった時に、父は通勤が楽になるように、と「この土地を売って、高槻あたりに」と考えて売りに出した。だが、売れなかった。もし、高槻に住み着いていたら、と想像を巡らせた。
この度のスモモの剪定は、その存在価値(全面天井窓の広縁を木陰と落葉での空調)を半減させるような乱暴なこともせざるを得なかった。だが、居間の窓辺あたりを彩る枝は、今年が最も華やいだ年になったのではないか。
ハクモクレンも見事に咲き、多くの人がその誘惑に勝てず、目を盗んで中庭まで踏み込み、ハッピーに吠えられた。だがそれは5日ほどの期間で、あとは苦難の日々が続く。今年は6~7千個を下らない花が咲いたと思われるが、がく片と花ビラはその4倍の数。初夏以降、6~7千個の子房を落とす。そして秋には、万の単位の落ち葉で埋まる。
だから「秋は、こんなもんじゃない」と思いながら、フタバアオイの芽などの上に落ちた花弁を、その都度拾い去る作業に始まり、25日にエンジンブロアーを取り出し、中庭の掃除に当たった。
早春、小鳥にさんざん痛められたツバキだが、空気が温み、山に餌が増えたのか、遅がけに咲き始めたシロツバキや網田さんにもらった変わり種は見事に咲いた。
2、幸運
予期せぬ電話に、これほど喜び、学び、はたまた幸運まで噛み締め直したことが、これまでにあったのだろうか、と振り返っている。
ケイタイが鳴った。ちあきさんの声が流れてきた。「あの日のことを朋香と話していました」と、末のお嬢さんはまだ側にいらっしゃるようだ。「あの日のこと? そうか今日は3月11日でしたね」と応じようとしたが、ちあきさんの声がかすれ始めた。
原発推進は、日本では国が国民に対する、そして世界では人類が生きとし生けるものに対する与太行為、と私は見る。しかし、皮肉にも、3・11原発事件が橋本宙八夫妻との出会いという、稀有な幸運を私には用意したことになる。
ちあきさんの電話の声は、あの日とは、橋本夫妻が家族連れでわが家を訪ねて下さった日のことを指していた、と気づかせた。この一家は、次の活動拠点を探す全国放浪の旅の途上で、ある人にアイトワを紹介され、立ち寄ってもらえた。それは10年前の3月のことだった。なぜかこの10年はとても長く感じられた。
たまたまアイトワ塾があった夕べだったので、テーマを替えた。終了後、泊まって頂き、翌日私は末息子の進路に関して動いたように思う。その間に塾生の1人財木孝太さんは市にも働きかけ、居住施設を確保したことは確かだ。市が勧めていた京町家の体験居住制度の活用で、期限は半年だった。だが、家主はその後、ルールが許す限界まで3年にわたり無償居住に応じている。そのような気にさせ得る一家と出会わせた日のことだった。
この間に計6回、節目ごとに私は被災地を訪ねたが、最初は夫妻が主宰するマクロビアンの拠点で落ち合った。ガイガーカウンターがまさにガーガ-と鳴った。樋の雨水が落ち、大地に染み込んだところではガーガ-ではなく、ガガガッと聞えた。
この拠点は私を仰天させた。その生きる姿勢が形作らせた証し、数えきれないほどのシイタケのホタギに無数に出たシイタケなども見て、無性に悔しかった。だからその後、妻を2度、そしてアイトワ塾生を1度案内し、この3回は、この元マクロビアンの拠点で泊めてもらっている。
過日、「あれから早や7年が過ぎ去っていたのか」と「光陰矢の如し」を実感していたが、このたびは逆だった。とても長く感じられた。仮に、亡き両親の、あるいは先月失った姉の歳まで生きることができたとしたら、まだ10年も残っている、と感じた。こうした思いに結び付けた出会いの反芻が、当月最初の幸運の実感であった。
次は翌日のこと。お向かいに住まうことになった新しい住人の挨拶回りがあった。文化人とは聞いていたが、詩人であり、小倉百人一首の英訳者ピーター・マクミランさんとは知らなかった。先の住人が藤原定家(の住居跡とか、研究者の住まいだったなどと真っ赤な嘘)を騙(かた)ったボッタクリ商法者だったが、今度は藤原定家の遺業・小倉百人一首を世界に広めた人だった。何たる幸運、と思った。
その後、わが家のヒコバエのサクラが咲き始めた日に、新聞紙上で既に見慣れていたピーターさんの顔写真を見た。その母を、あるいは女性の立場を思う心にも触れ、なぜかアイトワの庭を案内したい、との衝動に私を駆り立てた。
久しぶりに山下有子さんを2度にわたって迎え、まず「なるほど!」と1つの謎が解けた。彼女はまるで即興詩人のごときピアノの弾き手だが、それは幼児期の父の教えの賜物だった。高度な技術や権威で意識を縛るのではなく、心を解き、創造性を触発する教育の大切さに気付かされた。そして2度目の来訪時は幸運を伴っていた。
「知人に車で送ってもらえた」と大喜びだったが、その人はアイトワの「シンボルモミジ」に何かをお感じ、だった。だからテラスに案内したのがヨカッタ。
ついに話題は樹木と素粒子の関わりにまで及んだ。「なぜこの人が府の職員なのか」と感じたし、「クリの研究では日本の第1人者」と知り得たが、植物の心がお分かりの様子にも心惹かれた。この日、妻は今年最初の草餅をつくったが、小林正秀さんにも賞味していただけた。
3度目の幸運は、岡田さんの再訪に伴って届いた。前回伺った樹木の研究家・野村隆哉先生のパートナーを同伴だったし、高畠華宵(松山の出身で、竹下夢二時代の大正ロマンの体現者)の資料も届けて頂けた。この何か月か、私は炭紛を飲み続けているが、確かな手ごたえを感じている。また、この1年間、コロナ騒ぎが社会に及ぼす影響に興味を抱かされて来たが、その一端は美意識の変化にも際立った変化をもたらせそうだ、と睨むに至っている。竹炭や竹酢、あるいは大正ロマンの作品に触れ、幸運を感じた。
3、この冬7つの課題
この1カ月は、薪で始まり、薪で終わったようなものだ。初日は裕一郎さんを迎え、テラスの薪の一部積み替えから始まった。月末は妻と2人でほぼ終日を割いた薪作りと、その収蔵で終わったようなことになったが、この間に随分懸案が片付いた。
コロナ騒ぎをいいことに、この冬は7つの課題を心積もりしたが、当月はその内の5つにカタをつけた。昨年から手がけた新著づくりは、当月16日に校了し、2日後に表紙のデザインを改めている。13人通りの(手を汚して土に馴染み、額に汗する創作作業に精を出す仲間の)幸せ観を、私は一著に収録したかった。発行日は5月8日を選んだので、4月中には手に取ってみることができそうだ。出来ればレイチェル・カーソンの没日を発行日に選びたかったが、作品『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』を残したゴーギャンの命日を選ぶことになった。
この冬2つ目の課題は、先月片づけた2本の松の切り取りだった。だから当月は、残る5つの課題に初めて手を付けることになったが、当月中に4つまで片づけることができた。
まず、7株9本のクヌギを業者に切り取ってもらう作業だった。チョット大げさな言い方だけど、クヌギの木に関していえば、これで人生上の1つのケジメを付けることになった。
苔庭の5本のクヌギから手を付け、このついでに1本のスギの背丈を半分に切り詰めてもらったが、この後に、幹部と太い枝は残してもらったので(枝は持ち帰って処分してもらった)、自分たちの手で薪にする大作業が残った。
次いで、裏庭の2株4本のクヌギも切り取ってもらい、これも幹部と太い枝は残してもらった。この始末は翌月回しになった。
「この人生なら生まれ直したい」が私の思いだが、生まれ直せば「これも改めたい」と思うことが、これで1つ増えた。それは、この度のこの切り取り作業を10数年は早く済ませておくべきこと、と気づかされたことだ。
ならば、自分の手で切り取ることもできただろうし、その後は数年おきにヒコバエから再生させ、適当な太さの段階で切り取り、シイタケのホタギや薪として活かしながら、気力や体力のバロメーターのごとく生涯のルーチンワークにできていたことだろう。
こんなことを反省しながら後日、初めて用いる薪割り器と、知範さんの加勢を得て、苔庭分の薪作り手を付けた。私がエンジンソー担当、知範さんが薪割り器を操り、半日がかりで幹部の玉切りを薪にし始めた。妻が薪を一輪車で運び、個離庵の側面に積み上げた。太くてヒニクレタ(枝分かれ部など簡単には割れそうにない)部分は、腐食させる。
日を変えて、太い枝部には1人で取り組んだ。エンジンソーで薪の寸法に切り、薪割り器で割るわけだが、シイタケのホタギに出来そうな(真っすぐで、疵がなく)素直な分は数本残した。半ば、薪づくりが進んだところで妻が加勢、一輪車で母屋の軒先まで運び上げた。初日と2日後の2回は各朝食後の2~3時間かけた。そして月末は3日続けて夕刻に取り組み、ほぼ収納もし終えた。
4つ目の課題は、食用ギク・モッテノホカに定住場を与えることだったが、これは1石3鳥を願う作業だった。この定住場所は獣害フェンスの裾部だったので、ササやハトムギなどの宿根野草も巣くっていた。これらを取り除く機会に活かした。さらに、カボチャとニラのコーナーとの隣接場だったので、このコーナーの仕立て直しの機会にもした。
5つ目の課題は、2か所でのセメント仕事だったが、これも獣害フェンスが関わっている。獣害フェンスを張り巡らせる前に宿根野草などを取り除いておけば手間は半減以下であったことだろう。この作業は防草工事の一環だが、防草のための下塗りを済ませた。上塗りは、翌月回しになった。
6つ目の課題は、昨年までに手を打った防草土で舗装した箇所の随所で、補修を要しているし、一部では新装を予定していたが、これは翌月回しになった。
そして7つ目は、用意できたシイタケのホタギに、種駒を打ち込む作業だが、これも翌月回しになった。
この冬は、恒例のルーチンワークで重い作業が控えていた。それは2本のシダレウメの大剪定と、カリンの大剪定だった。この3本の手入れの必要性を気にしながら、遅ればせにシンボルモミジの剪定を片付けたが、高所恐怖症の妻にはいつも以上に感心してもらえた。とりわけ、12段三脚脚立の天板に乗って、モミジの枝に絡みつきながら上ったテイカカズラの蔓を解き、引き下ろす作業(はモミジの枝につかまりながら行える作業とはいえ)は結構気が張る。とはいえ、来年も十分に取り組めそうに思った。
カリンの大剪定は、訳あって次年度に回した。コロナ騒ぎは、のどの薬として(咳をせずに済ませるために)カリン酒を大量に消費させた。だから、この秋には実をたくさん着けさせて、カリン酒を仕込み、大剪定はその後に回した。
2本のシダレウメの大剪定は翌月にでも実施したい。
4、胸がすく思い
近年は胸がすくような成果報告に接する機会が増えた。過日、腸に新たな視線が向けられ、新たに発見された機能(脳は腸から派生しており、腸は味覚なども備えているなど)を紹介したが、このたびの肌の(色覚などを備えた)機能にも、膝を打たされた。
「それは当然のこと」との想いであり、胸がすく思いでもあった。私たちは単孔動物の時代も経ている。脳が腸から生まれて当然だし、腸や肌が五感を司っていて当然だろう。胸がすくというより、「案の定」と言ってよいだろう。
当月はおりよく、知範さんに、飼育中の粘菌の写真や話題も届けてもらえた。アメーバと菌類の特徴を合わせ持つ「粘菌」は、単細胞生物だし神経などないはずだが「脳のない天才」と称されて久しい。その“知的”な性質の研究の最前線に夢を馳せた。
この数十年の間、年年歳歳私は、動物よりも草木の方が賢いのではないか、と思わせられてきた。この気持ちを未来(人間中心主義の反省が迫られるに違いない次代)の母親には是非とも、との想いがこうじて、職権の15分間を設けたこともあった。
この度、クヌギの切り取る関係で、ミツバチの師匠・志賀生実さんに無理を言って、ミツバチを巣箱ごと疎開させたが、その折にチョット4段の箱が傾き、慌てたミツバチが巣箱の外に飛び出した。それが巣箱の中に戻るまで、師匠は隙間を空けてジッと待った。その間に委ありがたいニュースを聞いた。
蜂蜜の自給率は6パーセントのわが国だが、輸入品はきっと熱処理などをされているに違いないと思われ、「なんとか」と思わせられる。また、身土不二の精神で言えば、外国の花の蜜であることが好ましいはずがない。栄養価などにそん色はなくとも、いずれは免疫効果などで、その差異が判明するに違いない。
そう思っていた矢先の朗報だった。さすがはわが師匠、と思った。長期密着取材に耐えなければならないようだが、ニホンミツバチの生態をくまなく紹介されそうな番組の取材対象に選ばれた、と知らせてもらえた。
新著の作業過程でも3度、胸がすく思いをさせてもらえた。その最初は、アイトワの紹介を、といってフルカラーのグラビアページを挟み込むことになり、これがその1つのキッカケになった。私としては、呼び掛けた13人に前面に立ってもらいたい。だから当初はたとえ実費負担とはいえ、気が引けた。だから、アイトワの紹介に留めず、相乗りする人を募集したが、乗ってもらえる人が1人出た。これがヨカッタ。ある幸いが相まって、新著が秘め持つ1つの特色を紹介するページに活かせることになった。
ある幸いとは、思い余って本の構成を大きくいじくりたくなった時に、その想いを決定づける助言を、2度にわたって受け得る出会いに偶然にも恵まれたことだ。結果、8ページのグラビアページを「序論」として活かせることになった。この時の、助言と結果に2度胸がすく思いがした。
3度目は、校了後に生じた。下村知範さんには表紙のデザインに関して、思い余ってのことだろうが、「このままでは・・・」との苦情と、1晩でよいので時間を貸してほしい、との要望を届けてもらえた。ギリギリの段階だった。上の2つの助言に次ぐ、3つ目の救いの手だが、これらの親切に恵まれて居なかったら、と思っただけでも「ゾッ」とするほど胸がすく思いにつなげた。
実は、かねてから妻は「私の人形が皆さんの足を引っ張ってしまいそう・・・」と苦悶していた。だから知範さんに「人形の写真を外してくださって結構」と付言したが、これもヨカッタようだ。翌朝、メールで届いた新デザインを一見した妻が「これが私のイメージしていた表紙」と安堵。次いで「女の子に(未来を)指ささせているでしょうと歓喜の声が続いた。
5
中旬まで三寒四温の日が続き、TV番組では素肌に関して「やはり」と得心したり、ある遺失物では「うかつさ」を嘆いたり、久保田さんのミニ演奏会に出かけ、ほのぼのとした一時を過ごしたわけだが、以上で記し終えておらず、記憶にとどめたいことがある。
まず、三寒四温は中国から伝わった4文字熟語であり、わが国での使われ方とは意味が違っていたことを知ったことだ。
私は、日本で用いるニュアンスに、つまり日に日に気候が温まってゆき、ついに春になる分けではない、といわば注意(思わぬ寒い日にも襲われようが、との)喚起を感じさせる用い方に、いわば七転び八起き的な用い方に軍配をあげたい、と思った。
17日に、第1次のナバナを収穫し、翌朝から賞味し始めた春の喜び、ナバナ漬けも、コロナ騒ぎの最中だけに喜びをシミジミと感じさせられた。冬の間に欠けていた栄養素や元気の素を補給しているような気分になった。
このたびは、第4次までナバナ漬けを作り、月末になおナバナ畑を楽しめたが、これも目の保養になったように思う。濃い黄色のアイトワ菜、薄い黄色のブロッコリー、白い花のダイコン、そして他にカラシナやルッコラなど花が色を添える。
山菜摘みの旬でもあった。コゴミ、野生化させたミツバ、ワラビ、ツクシ、タラの芽とつづいたが、天ぷらと菜の花弁当で賞味した。
ヨモギでは、初めて妻はうるち風のヨモギ餅に挑戦したくて餅をついた。おかげで済まし雑煮にもありつけた。
3つの鉢仕事も忘れ難い。この1つがキッカケになり、防腐剤仕事に、やや大々的に手を付けた。まず、ホウキグサの鉢を、と恒例の気の鉢を取り出したが、この1年で腐らせそうに思われた。これがキッカケになった。
「ならば」と、ハッピーのベンチに手を付けた。もちろん私も時々用いるが、ハッピーは毎日用いる。その都度、強い爪でベンチの座に疵をつけ、そこに水が溜まって腐食を進めさせかけていた。防腐剤を染み込ませ、乾き上がったところで特殊なコーキング剤で窪みを埋め、出来ればハッピーの寿命まで持たせたい。その頃が、妻の命が尽きるころ合いあいではないか。
ならば、ともう1つ、母屋の玄関わきのベンチにも手を付けた。これも、思えば網田さんに譲ってもらった。それだけに、長もちさせたい。
予期せぬ人との出会いもあった。そのトピックスはあるギタリストとの出会いであった。かつて、山下有子さんにラジオ番組に誘われたが、そのオンエアーが出会いのキッカケでの出会いとなった。アイトワを訪ねていただけ、気に入って頂けたようで、縁が深まりそうな予感がした。
22日に室を開き、この冬最後のオデンにコイモをタップリ用いた。
月末に、財木さんと旧交をあたためた。自転車事故で体を傷め、自動車にも久しく乗っていなかったとかで、慣らし運転を兼ねて訪ねてもらえた。
不図今だけを1本切った。薪を積み上げる敷居にしたが、ちょうど18mだった。
木の治療にも励んだし、夏野菜用にと、畝の仕立て直しに手を付け、腐葉土を取り出したが、カブトムシの幼虫を1匹だが見つけた。かつてはウジャウジャといたが、業者が近隣で成虫をとるようになり、このありさまとなった。
庭のボケ、シロモジ、ハナモモが咲き始め、月末に財木さんを迎え、旧交を温めたが、彼は自転車に乗っていて事故に遭い、この日の運転まで自動車を控えて居っという。満開になったヤマザクラを一緒に眺めた。ヤマザクラは木の肌に苔が広がり樹勢が弱ったと見た妻が、この切り取る心配をし始めていた。これが見納めになるのか、それともこの苔などモノともせずに、庭での一番の大木を誇り続けてくれのか、この半年で見極めがつきそうだ。京都の桜、ベニシダレザクラが八分咲き。