いつになくイチリンソウが見事に咲き、夏野菜用への畝の仕立て直しも順調に進み、早い春の訪れを喜んだ上旬でした。1畝ではジャガイモが芽を吹き、また1畝ではナス3本とトマト5本の苗に加え、時無しダイコンの種を、もう1畝にはコイモの種イモ5個を、とそれぞれ手を施し終えています。妻は、花サンショ摘みに追われました。庭はすでに新緑でむせ返りそう。
この播種や苗の植えつけは10日のこと。1日は黄チョウが舞い、菜の花漬けに励み、ミツバチの師匠を迎え、小貫先生から新共著を贈っていただき、夕刻にはストーブ用の薪を震度5積にするなどハッスルの1日でした。この間のトピックスは、知範さんに月記原稿の引き継ぎ。妻とシイタケのホダギ作り。TV録画で『新聞記者』鑑賞。歯の定期清掃。教え子AGUの個展を妻と見学。祐一郎さんを泊りがけで迎え、2つのセメント仕事(防草対策)を完成。さらに3泊4日の妻の来客を歓迎、など。コロナ1周年は「わが国は何処へ?」と、騒動の思いで迎えました。
ミツバチの師匠の来訪は、ミツバチの帰還ではなく、元の位置に、巣箱の新設とルアーの設置でした。AGUの個展は、初日の終わりがけに妻と訪れ、京都駅まで送りがてらに夕食を共に。おかげで、私の教え子と妻は、表現者としての会話を楽しんでいました。妻の来客には古酒など私の好物だけでなく、ハッピーのフードまでいただき、薪風呂焚きを引き受けました。ペットフードは今や、無農薬や無添加をうたっています。
中旬は、4カ月ぶりの佛教大生2人を迎え、庭仕事の1日で始まり、20日は劉穎さんを2年ぶりに迎えた1日で過ぎ去りました。この間も、庭では、1畝仕立て直し、追加のコイモ6個とトウガラシの苗5本の植え付けなどハッスル。その合間も多彩。伴夫妻の来訪。ミツバチ一群の捕獲(4/13)。ハナケシ1輪開花(4/14)。新著の入荷。第2陣佛教大生2人は雨の中を来訪(4/17)。知範さんと(ケイタイの更新で)市街地まで初外出(4/18)。夜に、TV録画で『スパイの妻』鑑賞。そして、内外の友人に新著の献本作業で、海外便の郵便事情変更に辟易など。妻は5月の「教室展と個展を兼ねた催し」の準備で、ヒヤヒヤしながら日々大わらわ。
伴夫妻は、清太君を府立農業高校での入寮手続きまで済ませての帰途で、つくね芋の種イモをもらいました。ですから、中旬最終日は半日がかりで短い一畝の仕立て直し。そこは、1年がかりでワケギを育ててきた畝でしたが、スギナとドクダミに占領されており、大仕事になりました。この日、山形の山菜を贈ってくださる人があり、夕餉は山菜三昧に。
下旬は、ある原稿の仕上げとズーム会議で始まり、月末は戸石さんが、恒例の花を届けて下さり、異常気象を嘆きあうことで終わったようなものです。原稿は日本エッセイストクラブから寄稿のチャンスをもらい、コロナ騒動を私の視点でまとめました。ズーム会議は、ある大学の共同研究に加えてもらえたもので、2年をかけて一書にまとめます。異常気象は、4月の花が3月に、5月の花を4月に、と咲かせたわけで、カエルやトカゲはもっと大変でしょう。
この間に、心臓の定期検診では辛い思いにされ、アイトワで披露宴を開いたご夫妻との3年ぶりの再会で元気を取り戻し、ある2つの出来事のオカゲで人生の幸運に感謝、とスッカリご機嫌に。ある出来事とは、まずピーターさんと、グンと踏み込んだ関係になれたこと。もう1つは、「これぞ健全なコロナ渦の見据え方」と思われる意見があったことを知り得たことです。
庭仕事は、ベニシダレウメの剪定に妻と着手。挿し木や野菜の苗づくりなどの温室仕事。久保田さんにもらったカエデバイチゴの苗木植え。あるいはシイタケのホダギの2日続きの雨をひかえた手入れ。夜に妻とTV録画で『マイフェアレディ』を鑑賞、など。
~経過詳細~
春本番
五輪は福島「復興五輪」からいつしか「新型コロナウイルスに打ち勝った証としての五輪」になり、「今や」の観だけに、「日本丸は何処へ?」の想いで4月は始まった。
わが家では満開のイチリンソウと、ライラックがヤットこの庭で定着しそう、と思わせるような花が咲き、私が胸を膨らませば、妻は「ハナサンショがもう積み頃に」と慌てることから始まった。
日本ミツバチは13日に、一群が棲みついたことを確認し、志賀師匠に報告。持ち帰っていただいた一群にはチョット異常が生じていただけに、元気そうな一群を捕獲できてヤリヤレ。ハナゲシは14日に1輪咲き、月末には早ケシ畑の様相になっている。
この間に、庭は「いよいよ新緑でむせ返りそう」になり、世間は「コロナ渦が、いよいよコロナ騒動の観」に踏み込んでいる。このような状況下で、月末に「これぞ健全なるコロナ渦の見据え方」と安堵させられる意見、その「覚悟」と「視点」に共感を覚えた意見に触れており、胸がすく思いをしている。
この春も、ナバナを何度か大量に摘んで、菜花漬けにした。その跡を夏野菜用の畝に仕立て直し、その一畝に追加のコイモの種イモなどを植え付けたが、これで今年のコイモは計11株を用意したことになる。スナップエンドウの収穫が始まり、妻が採ってすぐに調理して「塩コショウだけで」と、幾度も味自慢をした。下旬に入るとジャガイモがはやつぼみをもたげ、キクナのつぼみがほころび始め、なぜか気ぜわしげな春だった。
先月は「室」を開いて(小雨の3/21)この冬最後の「おでん」を賞味したが、今月は夏キャべツの収穫が始まり(4/22)、昼食に「お好み焼き」が混じるシーズンに入っている。また、先月はわが家の山菜三昧を喜んだが(3/26)、当月はトッテン里美さんから山形の山菜をおくってもらい、懐石料理のごとき贅沢な山菜三昧に恵まれた。
わが家の山菜は末期に入った、タラの芽を私がわが家流で収穫すると、妻がわが家流の調理をして賞味した。そして、この味を里美さんにもいつの日にか「味わってもらいたいものだ」と思った。
月末には戸石さんが恒例の花を届けて下さったが、「5月の花が次々と咲き始めて」と、驚きでもあり不安げでもある言葉を残された。そういえば今年は、二条城の観測木・ソメイヨシノの開花が3/16と2002年より2日早く、観測史上初の早い春の訪れであったことを思い出した。
そういえば、先月は「三寒四温」に思いを馳せたが、今月は「気ぜわしい春」を実感しているわけだ、と戸石さんに感謝した。その目で庭を見直したが、まずこの庭でオドリコソウが定着しそうになっていたことを確信した。これは、10年ほど前に井浦さんにいただいた株が元だろうが、思わぬ離れたところで生き残っていたことになる。次いで、カエデバイチゴが花をつけたことも知った。これは久保田さんにもらった苗木が元で、根を日当りが良いところまで伸ばして芽吹かせ、花をつけさせていたわけだ。
畑が早やハナゲシ畑の観を呈し始めた月末に、ある一文を仕上げてメールで送った。「コロナ渦の森さん」とでも言った一文を、と声をかけてもらった原稿だが、窓口の人から、信濃追分方面でも「GWに咲くサクラやミツバツツジが、もう散っています。各種の蜂や小鳥たちが、季節の早すぎる変化に適応できずに、人間のコロナ禍以上に困っているのではと心配になります」と、知らせていただいた。だから、こちらではフジの花が「当たり年」で、どこともきれいに咲いていましたが、今や末期ですと応えた。そしてフト、あることを思い出した。
「熊と苺」の話だった。2カ月ほど前の当月記で、話題に出した記事のことだが見当たらず、添付できていなかった。その後、華道の元祖『嵯峨御流』の機関誌『嵯峨』に投稿した昔の記事であった、と分っていながら、そのままになっていた。
思えばこの20年の間に科学は進み、脳を持たない生きものの思考にもずいぶんメスが入っている。私たちの脳は腸から生じた臓器であり、皮膚も同様で、共に五感を備えていることまで分かっている。粘菌に至っては単細胞なのに「脳を持たない天才」として研究が進んでいる。
こうしたことが予告編かのごとくに私の心に作用して、月末に触れた「これぞ健全なるコロナ渦の見据え方」と見た一文に、痛く共感を覚えた次第。
2,コロナ騒動
佛教大生の来訪が再会。4/11と17の2度は、各2人を迎えたが、25日に予定していた第3陣は、コロナ騒ぎの再燃で、学校は学外活動まで禁止し、流れた。第2陣の2人には、雨の中を訪ねてもらえたのを幸いに、またこの春で3回生になったこともあり、妻が持ち出してきたマスクをつけ、テラスのテント下で、幾つかのテーマを取り上げて歓談した。
11日の第1陣は、過去4カ月の間に溜まっていた薪束を、一輪車で運び上げることから手を付けてもらい、最後は恒例の焼き芋づくりで、囲炉裏場の剪定クズを片づけるなど、再来を愛であった。この日、知範さんにも来てもらっていたが、別途の作業に1人で取り組んでもらった。
焚き火の終わりがけには、咲子さんが妻の工房で保育カバンを作りに見えた。この頃には学生もマスクを外しており、咲子さんについてきた3兄弟と仲良く、残り火での火遊びに興じ、すっかりコロナ騒動から解放されたかのような様子だった。
3兄弟と、2年後には社会人になる2人の学生が無心にたわむれる姿を眺めたわけだが、ふとコロナ騒動のありように思いを馳せた。私たち大人は、子どもや若者を新型コロナウイルスから守ろうといているわけだが、本当に今の守り方で大丈夫か、と考えた。
もちろん自分たちが死んだ後も、健全に生き抜く子どもであれ、と願ってのことだろうが、大丈夫か。私の目には、親が子どもより長生きし、子どもを守り通せるとでも思っているかのように守り方に映ることがあって、不安でならない。シベリアでは、タイガの永久凍土が封じ込めていた未知の巨大ウイルスが溶け出し、暴れ出しかねない、と心配されている。
そのようなわけで、雨の土曜日に迎えた2人とは、社会人になる心構えの参考にでもなれば、と考えて、幾つかの意見を述べた。心密かに、かつての就職氷河期の人たちのように、また気の毒な世代にしてしまうのではないか、との心配がよぎっていたからだ。政府は、性懲りもなく、また後手に回りかねない雲行きで、辛い世代を作り出しそうで心配でならない。
私が社会人になった頃は、4輪乗用車の輸出がまだできていない時代だった。そこまでさかのぼって、目の当たりにしてきた企業社会の栄枯盛衰から語り始めた。当時の学生が憧れ、入社を喜んだ大手企業のあらかたは、今やすっかり様相を変えている。
最後に持ち出した例は、それより少し前の時代に「金の卵」ともてはやされて田舎から出て来て、当時の憧れの企業に採用されながら、一念発起して脱サラした友人の話だった。
まず夜鳴きラーメンの屋台を引いて小金をため、中古の機械を買い求めてソフトクリーム屋に転じ、ついにアパレル企業を起業した人の話であった。夜鳴きラーメン屋の体験と、その過程で知り得た人情や情報が功を奏しさせたようで、ソフトクリーム屋で当て、アパレル企業を創業し、これも当てた。要は、間違っても勤労を「お金を得る手段」とは位置付けないように、との助言だった。「自分の能力のほどや、自分そのものを発見する好機」を与えられたものと見て、抑制や制御の声を掛けられるまでは職務に励め、と薦めた。それが、自分自身や、社会の仕組みの発見に役立ち、自分の足で立ち、自分の頭で考え、自分の手で自分なりの未来を切り開きたくさせそうだ、と気づいて欲しかった。
3,新しい生き方
当月最初に恵まれた一書は、小貫雅男・伊藤恵子共著の『生命系の未来社会論』だった。副題の「気候変動とパンデミックの時代」とか「抗市場免疫の『菜園家族』が近代を根底から覆す」や帯の文字を追いながら、「時を得た一書」と私の心はいやがうえにも躍った。
その後、わが編著書が刷り上がって来た。そこでまず、表紙のデザインを一晩で刷新してもらった知範さんに感謝した。そして、小貫・伊藤両先生に、返礼かのごとくに献本した。
翌々日に小貫先生から電話があった。一気に読み終えていただけたようで、「ありがたい」と思った。丁度その時に、劉穎さんを迎えていた。彼女は「アイトワの生き方を知ってから」と切り出し、食材として市場で買求めたネギやチンゲンサイの根元を切り残すようになり、「まず、その根からプランターで育て、使っています」など、ベランダに新たな役割を与え始めたことを伺った。
末期のフジの花を2人で愛でながら見送ったが、テラスに戻り、喫茶店用に育てたチンゲンサイは? と覗くと、8割方が残っていた。来店客に、無農薬有機栽培の野菜を味わってもらおうと育てたものだが、コロナ騒動で当たり年のフジと共に愛でられる機会を失った。
無農薬有機栽培といえば、当月は「目からウロコ」の機会が2度あった。まず、3泊4日の妻の友人が、ハッピーのために2種のドッグフードを下さったが、共に無添加まで謳っており,ニンゲンサマの食べ物より神経が行き届いていたことを知った。次は、この度の新著づくりで、この人の助言を得ていなければ「どうなっていたことやら」と、感謝している人から得た体験談で、「イの一番」に献本した時のことだった。
「ニンゲンサマよりイヌの方を優先とは?」との思いを込めて、ドッグフードを話題にした。とても思慮深いその人が、「私も同じでした」と体験談を語って下さった。東京に居住し、ペットを飼っていた時に311に遭遇した。東京では水道水の放射能汚染が心配されており、市場からペットボトル飲料水が「アッ」と言う間に消えた。見れば冷蔵庫に残るペットボトル飲料水は限られており、「さて」となった。おのずと、ペットに譲ったという。理由は簡単明瞭で「こんなに小さな体に」との気づかいだった。
おそらく妻も、わが身よりハッピーを優先するだろう。「子は鎹」とは良く言ったものだ、と得心した。子なしのわが家では、ハッピーのおかげでずいぶん助かっている。
思えばこの4カ月、夫婦ゲンカらしいケンカをせずに済ませてきたが、ハッピーのオカゲが大である。私が叱らなくなったので妻が不気味がっていたのは2カ月ほど。その後はハッピーと同じですぐに増長し、自分勝手にご機嫌斜めを露わにし? 積年の恨みがごとくにかみつき出した。そうした時は、ハッピーを可愛がれば、条件反射的にご機嫌がすぐに直る。
そこで、当月は2つの懸案に手を付けた。まず、いつしかハッピーのベンチになった長椅子の、ハッピーが爪で傷をつけた木部の修理。防腐剤をタップリ塗って干しあげてあったが、その傷が雨水を溜め、腐りかねなくなっており、特殊なパテで埋めた。
引き続いてある尻拭い。ホームビルダーを養成したくて、さまざまな作業の試験台にわが家を生かしてきたが、ピンコロテラスの拡張ミニ工事はその1つだった。その道のプロがつくった本体部分と違って、広げた部分は残念ながら、雨が降ると水たまりが出来る。
長年放置してきたが、これもコロナ騒動記念の1つに選び、私なりのデザインで補修した。ところが妻が、どなたかが躓いてはいけない、と言いだし、不細工なことになってしまった。
献本いただいた最後の一書は、ピーター・マクミランさんからだった。おりよく新聞で彼の生きる姿勢を知り得ていたので、勇んでわが新著をお返しに活かした。
直ぐに嬉しい反応があった。庭の手入れに当たっている庭師と国文学の研究を始めた青年を伴って、わが家の生ゴミ還元システムと腐葉土小屋の学習を望まれた。
思えば月初の『生命系の未来社会論』は「生き方を改めよう」との壮大な提唱であり、中旬のわが新著はその1つの実践例の紹介といえなくもない。平たく言えば、この両著は共に、人類が「欲望の解放」に血眼になって陥れ合った状態、いわば「奪い合えば足らぬ」から、「人間の解放」を目指して生き方を改め、「分かち合えば余る」ことに気付くべき時だ、と共に訴えているように思えなくもない。
下旬の小倉百人一首は、農業文明時代の貴族社会、当時2%に満たなかった人たちの間での出来事、確か新築祝いであったように思う、の1つだろう。当時は身分社会であり、はなはだしい貧富格差があったはずだが、今のように絶望的であったのだろうか、とフト考えてしまった。
少なくとも当時は、辺境の地まで異常気象などが及ぶことはなく、許しがたく不満な人は、あるいは小競り合いに敗れて身に危険を感じた人たちは、辺境の地に逃れ、理想郷を開くことが可能だった。だが昨今の新身分社会では逆に、都市化や難民問題を深刻にしている。
月末に、新聞で、コロナ騒動にともなうペット受難の記事を見た。巣ごもり生活がペットの需要に火をつけ、高騰させたが、既にその反動、放棄問題が生じているらしい。コロナ騒動が沈静化したおりの、ペットの立場やいかに、tougetsuhat思いやられる。
4,若者と夢を
当月は、「若者と夢を」との思いを抱きあってきた人たちと、親交を深める機会に多々恵まれた。その最初は7日。短大時代初期の教え子。当時18歳だったAGUに「京都で個展を開く機会を得た」と知らされ、初日の夕刻に妻と駆けつけた。
本名勝山あゆみさんも、心の内の何かが命ずるままに創作活動に取り組むお一人のようで、モダーンプリミティブ派だろう。
「あやつり人形」を原点にした総合芸術だが、「あやつり人形」の本場チェコの、その道の第一人者の目に留まり、認められた。
最近は、ある物理学者の心を射止めたようで、コラボ展を開いたことがあるようだが、その指導も受けた作品も出ていた。上手くバランスをとって動かせば、ブラブラと不規則にズーッと動き続けるらしい。また、「音響にも」と、手を広げ始めていた。
お土産も手づくりだった。夕食に誘っておいてヨカッタ。お好きなものを、と薦めたしレストラン街では一巡もしたが、誘った時の希望通りにオムライスに決まった。だから、話しながら食するのにピッタリで、妻と話が随分弾んだ。
私は、ある思い出を語った。彼女とは教員になって初期に出会ったが、その後私は10年にわたって勤めている。その間に、情報量でいえば、何倍にもなっていたように思う。とはいえ、学生にとって、いずれが望ましいのか、と問われたら、答えに窮する。懐かしいのはもちろん初期だし、私なりに初々しかった時代の方が、人生にとって大事なことを伝えていたのではないか、と思わぬでもない。30年近くも昔のことだ。
11日、第1陣の仏教大生を迎えた日の終わりがけに、咲子さんが3人の子供連れで、カバンを急遽つくる必要が生じた、といって工房に妻をお訪ねになった。三男冬青(そよご)君が保育園に入った。彼とは病院での初対面来、早や3年が過ぎ去っていたわけだ。
これまでは「泣くことを知らない子かも」と思っていたが、後日知ったことだが、初日の保育園では終日泣きべそであったとか。保育士さんの腕の中で、母に持たされた保育カバンのアップリケの3兄弟を指さし、保育士さんに仲の良さを説明したとか。
出生時からの付き合い、と言えば清太君もその1人だ。このたび府立農業高校での入寮をすませた、と伴夫妻から報告を受けたが、そこを推薦した手前もあり、いずれよきタイミングを見てその男子寮まで、私は睨みをきかせるためにも訪ねたい。
アイトワが誕生して間なしに、一人の企業の中堅幹部がテラスの一角にパワースポットを見出し、毎年のごとく夏に京都に充電にみえると、浴衣がけでアイトワを訪ね、その都度このパワースポットを愛でていただけるようになった。
この人は晩婚になったが、披露宴をアイトワで行い、まるで私たち夫婦を仲人かのごとくに挨拶もさせてもらった。その3年ぶりの来阪は、京都の出の奥さんの年老いた母とそのペットに加え、馴染みの泊所で長年愛用した浴衣を引取るのが目的だった。つくづく人柄が引き寄せ合った縁、晩婚のすばらしき姿を目の当たりにした。
月末のこと。端午の節句のしつらえを初めて写真で教えてもらえた人がある。新著に加わってもらった共著者の1人で、しんがりを務めてもらった門村幸夜さんだ。新著の出来栄えを喜ぶ報せに添えられた一葉だったが、手前みそにもなるが、「さすが!」と思った。
その昔、親子連れで訪れ、わが子「真大の人形を」と妻に依頼。その人形が、端午の節句に活かされていたわけだ。この写真には「お人形は変わらず可愛いのですが、その前でゲームに興じる真大に、可愛らしさはありません。時は流れます」とあった。そこで、親子3人で見えた時の写真を送ったが、「かわいい写真があったのですね。素直な頃の息子です」と返事があった。
可愛くて仕方がない息子は、今や人間特有の思春期のようだ。時は流れます。
5,庭仕事
ヤマザクラが散り始め、ペチコートスイセンが咲き、セイヨウサクラソウの自生を確信し、今年はカリンの実を収穫したくてたくさん花を咲かせた4月の始め。志賀師匠を迎えてミツバチの巣箱の新設と夏野菜用の畝作りから手を付けた。畑にはまだ、支柱はエンドウマメにしか立っておらず、ナバナ畑の様相だった。
特記事項は、まず、前月の伐採で生じたクヌギ材を、シイタケのホダギにしたり、薪束を収納したり、あるいは新たに薪作りをしたり、と随分時間を割いた。
薪の収納は、まずストーブ用として1年分余を、喫茶店のピクチャーウインドウ脇に震度5の地震でも崩れないように工夫して積み足した。何せストーブ用にはイレギュラーな薪を当てるから、きれいには積み上げにくく、妻の気にいってもらえず、2度手間になった。だが、いったん積んだ薪をひと思いに崩すのは結構面白かった。
シイタケのホダギ作りは、3か所で伐採した用材を使った分を、私が一カ所に集めておいた上で、2人で手分けして取り組んだ。上手く行けば、来年の今ごろからシイタケの収穫がはじまり、5年ほどは年に2回採れそうだが、切り倒した時期がバラバラゆえに不安が伴っている。
ホダギは向こう半年ほど、打ち込んだ種ゴマの菌がホダギに蔓延するように、日陰で寝かせる。綿のシーツを2枚被せ、麻布をその上に被せ、さらにその上にとても大きなバスタオルを被せた。雨が降り注いだり、炎天続きの時はジョウロで水をかけたりするが、水が染み込みやすくして、適度に湿度を保たせよくするためだが、最後のLuLuのバスタオルではひとしきり思い出にふけった。
海外提携製品だが、提携先の社長がビバリーヒルズに住んでいたハネカエリ者であったおかげだ。赤いキャデラックのオープンカーで冷房の強風を顔面に浴びながらヤシ道を駆け抜け、モンローが自殺した居宅の前を通り過ぎ、サミー・デイヴィスJr.を訪ねた思い出もある。サミーはとても良き人柄のように見受けた。その時も、帰宅早々、畑仕事に励んだ。
祐一郎さんが泊りがけで2つのセメント仕事(防草対策)を完成させた。これは加齢対策の一環で、4つ予定していた作業の2つで、残る2つはコロナ騒動のせいで順延にして、佛教大生のために取り置いてある●22-1●22-2●22-3●22-4●22-5。
清太君が農業高校の寮に無事に入った日に、伴さんにはツクネ芋の種イモを土産として持参してもらえた。その3分の1を知範さんに譲り、私としては清太君の高校入学記念として育てることにした。スギナとドクダミ畑のごとくになっていたワケギ後は、半日がかりの畝作りになった。
月末には種用と小鳥の取り分用の夏野菜とエンドウ豆の畝、加えてタマネギ、ジャガイモ、花を咲かせ始めたシュンギクとつぼみをあげたニンジン、そして夏キャベツを除き、畑から冬野菜は消えた。かわって、時無しダイコン、トウガラシ5本、巨大ツルムラサキ2本、つくね芋6株の他に、第2次分までのコイモ11株、トマト9本、ナス7本、そしてキュウリ7本の苗の植えつけが終わり、第1次分のトマト、トウガラシ、そしてナスビの支柱が立った。
スナップエンドウは最盛期に入り、夏キャベツとニラの収穫が始まった。この他に、自然生えの青菜、ミツバ、あるいはシュクコンソバなどが食卓を彩る。
これから、カボチャ、インゲンマメ、モロヘイヤ、オクラ、ハナオクラ、ゴーヤ、ヤーコン、そしてチマサンチェなどが、苗や種から畑に加わる。
畑では、この歳になって初めて試みたことがある。何せ60年近くにわたって耕作してきた畑だから、連作障害や養分の偏りなど問題が多々集積しているようにおもう。そこで、この度の夏野菜から、藁や刈り取ったスイセンの葉などの上に腐葉土を被せるマルチングを、土壌改良の想いを込めてはじめた。その成果やいかに、と興味津々だ。
6,日本は何処へ
ヤットの思いでクルミの掃除に手を付けていると、妻が「今年はクサノオウが3本に増えました」と嬉しそう。クサノオウは毒草であり薬草でもあるわけだから抜き去り
はしないが、この幾年かは見かけなかった。だが昨年、ポツンと1本芽生え、今年は3本になった。この庭の土には見えざる様々な種も眠っているのだろう。
この歳を残念に思ったことがあった。1本の自然生えの夏野菜を抜き去ってみて、その根がスグキ菜並みの大きさ、と知った時のことだ。青菜としておいしかったアイトワ菜の1本だったが、抜き去らずに種をとり、意図的に栽培に努め、種を固定できていたとしたら、と悔しい思いがした。この畑にはこの種の兄弟姉妹が眠っており、来年にも芽生えるかもしれないが、この偶然の交配種は遥か先でした再現は望めないかもしれないからだ。
当月は、心臓の定期検診で甲状腺数値の悪化が進んでいたことを知り、(これまでの腎臓の劣化は漢方的対策で止めているだけに)辛い思いをした。だが、幾つかの出来事のおかげで月末にはスッカリ気分をとり戻している。そのトドメは月末近くに知った、「これぞ健全なるコロナ渦の見据え方」と見た一文であり、おかげですっかり心が安らいだ。
おりしも私は、「コロナ渦と私」とでもいった一文を綴ってみませんか、とエッセイストクラブから寄稿の機会を与えられていたし、当月末が締め切りだったから、同好の士、と見て胸のすく思いがしたのだろう。
マスクを私はわが家では着けていない。妻は、公共スペース(営業中の喫茶店や人形工房など)にいる間は着けている。なぜか私にはマスクがアマビエのように思われてならないし、戦時中を知る防空頭巾や時にはタケヤリにも見えかねないからだ。
だからといって防空頭巾をバカにしているわけではない。短大の学長を引き受けた時に、まず妻に防空頭巾をつくってもらい、登校する時に携帯し、常備品にした。震災や火災に遭遇すれば用いたい、と思っていた。今も、PCの座椅子のクッションとして流用している。
「なぜ防空頭巾を」と妻に問われたときに、私は「覚悟」と「視点」という言葉を思い浮かべていたが、上の2つの一文も、共に「覚悟」や「視点」と何らかの関係がありそうに思う。いずれ私の一文の方もネットに載るだろうし、本月記にも収録したい。
これはインターネット(SNS)を通じて知ったという人からのまた聞きだが、マスク着用のあり方にいたたまれなさを感じてだろう、学校や保育園に掛け合いに行った保護者があったようだ。どうやら共感どころか理解さえもえられなかったのだろう、今も街中でさえ「マスクをつけない」を貫いていらっしゃるらしい。このニュースを知った時に私は思わずニンマリした。
もし短大時代に、こうした保護者が私の前に現れていたら、と考えたからだ。キット私なら、私もマスクを外すキッカケにしていたに違いない、と思ったからだ。もちろん立場柄、地方新聞の取材が入っただろう。「あの方がつけてくれるまで、私もつけない。それだけです」とだけ言って、後は地域の人たちの憶測にまかせたと思う。
当月はTV録画でだが3本も映画を見た。異例なことだ。『新聞記者』は、新聞広告で番組案内を知り、観た。かねてから見たかった1本だが、案の定、幾つかのこれまでの思い出がよみがえり、この映画の予告編であったかのごとくに思われて「ありうる話」と見た。
足かけ3年前になるが中国東北3省に出かけており、731部隊の一部始終を知り得たような気分になっていた。また、政府が3段仕掛けかのごとき手段を講じて、かねてから大学を軍事研究に引きずり込もうとしてきたが、その足取りも振り返った。
3泊4日の妻の来客もヨカッタ。私は風呂焚きを担当したが、クズの薪を生かす好機とみて釜に付きっ切りで焚いた。この炎を見つめる薪風呂焚きの一時と、除草の時間は、私をディープシンキングにいつも誘う。だから、あの見え透いたウソやなりふり構わぬ慌てようをありありと思い出すことができた。
ステキな友人に誘われて、ある大学のSDGsに関する研究に加わることになったが、これもヨカッタ。SDGsを私は不安視している。これまでの生き方を改めるのではなく、これまでの生き方を維持するために「せめてSDGsでも」とその部分が個別に免罪符として生かされ、問題をより複雑にして先送りさせはしまいか、と心配でならないからだ。
次いで、TV録画で『スパイの妻』を鑑賞した。これは「事実であって欲しかった夢」として観終わった。実は昨年、あることを確かめておきたくて杉浦千畝記念館を訪ねている。わが国はこの人を敗戦後、真の愛国者として、つまり人道的に正当な評価を、今もしていない。だから、この国の姿勢は、今後も同じ態度で臨む国であることを内外に知らせているようなことならないかと思われ、不憫でならない心境にされたことを思いだした。
それだけに、戦中の雰囲気を知る私としては、『スパイの妻』のような人を、わが国が排出でき得ていた、とは思えないのだ。もちろん、こういう私も、高度経済成長時代の中ほどまでは、異なる考え方に縛られていたからだ。それだけに、あって欲しい話だし、これからの若者の中からは次々と生まれる国になった欲しい、と願わずにはおれなかった。
誰しも一時の勢いなどで、思わぬことをしでかしかねない。国家でも同じだろう。その時は、多くの国民は、時の権力になびいたり、尻馬に乗ったりしかねない、と思う。だが、一時の熱病のごとき事態に侵されず、異なる「覚悟」や「視点」の下に身を張った行動に出る人があってほしい。これを雑多ではなく多様性と見て愛でる心が頼もしい、と私は思う。
宇宙船地球号は、そうした方向を目指す国でなければ、金の切れ目が縁の切れ目かのような扱いをしかねない方向を目指すだろう。そうはなってほしくない。