天の助け。最初の来訪は6/10であった、と桑原さんはいう。わが家からほど近い寺を何かの催しで訪ね、そこで出あった人に案内され、アイトワを訪ねてもらえたそうだ。だが、4時を過ぎており、喫茶店は終わっており、門扉は閉じていた。だが、その案内した人は、顔見知りということで強引に門鈴のボタンを押し、妻は迎え入れた。この青年は、一歩庭に踏み込んだときに、何かを感じとった、という。拙著『次の生き方』を買い求め、読んでもらえた。アリガタイ
2度目の来訪は単独で、佛教大生を迎えていた日(6/17)に当たった。妻には見覚えがあり、拙著を求めてもらえたことを思い出し、要望に沿って庭まで案内した。
私にすれば唐突な話で、女子大生3人と庭仕事に取り組んでいる最中だった。だからろくな応対しかしていない。いつものケースなら、大阪からわざわざ訪ねてもらえた人だった、との記憶だけで終ったはずだが、終わらなかった。彼は引き取らず、私たち4人の活動に沿って動いた。すでに焚き火を始めており、イモを燠(おき)に埋めた後であったようだ。
彼は囲炉裏場までついてきた。焼き芋を取り出した私は、彼にも進呈した。3人の女子学生も、事情が分からないままに、自然に振る舞っていた。いつものように妻は牛乳を運んできたが、妻は彼の分のグラスも用意しており、ごく自然に仲間に入れた。記念撮影となった。
この人・桑原恭介さんとの出会いはこの程度しか記憶にない。確かなことは、彼は庭仕事を手伝いに来たい、といったことだ。大阪から10時にはアイトワにたどりつける、という。
おりよく私には、気になっていた力仕事があった。女子大生には頼みがたい課題で、この日もパスしていた。最早一人では取り組めない作業だから、助けてもらうことにした。いわば「出会い」と「課題」がうまく化学反応したようなもので、まさに天の助のように思われてならない。おかげで、自然計画を継続させる話にまで結び付くことになったのだから、不思議だ。
3度目の来訪は月末だった。坂地に落ちた重たい石を元の位置まで持ち上げたくて迎えたが、彼は佛教大生と同様に昼食(手作りのおにぎり)と軍手を持参していた。一緒に庭仕事をする条件として私が話してあったのだろう。庭仕事に入る前に、2人で少し何かを語り合ったと思う。
大企業から採用通知をもらったが、勤めなかった。個人で起業し、起業精神に富んだ人が円滑に起業できるように手助けすることを仕事にしており、食っていけている、と聞いた。
「さて」っと、イノシシがタケノコを狙い、邪魔になる石を牙で跳ね上げ、落下させた石を、元の位置に戻すことになった。普段なら、この達成時点で「ありがとう」と言って終わっていたはずだ。だが、終らなかった。これこそが天の助けといっていいのかもしれない。
後日私が1人で取り組んで、仕上げていたはずの作業に手を付けたわけだが、それをはるかに超えた取り組みになってしまった。もはや作業ではなく、創造活動と言った方が適切だと思う。
実はこの日、朝方に乙佳さんから電話があり、土をもらうことになっていた。親方の土を積んだ軽トラと、乙佳さんが運転する軽4輪が、ほぼ同時に到着した。既に大きな石を桑原さんと持ち上げ済みだったし、土をもらう受け入れ準備も済ませていた。「こうしておけば、残った土を雨に流されずに済ませやすい」と、言ってブルーシートを広げて敷いておいた。
土を下ろし、4人でお茶の時間となった。これはよきインタ-バルになっただけでなく、これこそが天の助けかもしれない。この土を早速活かしたくなり、あるプランが頭に浮かんのだから。
セメントやコテを取りに走り、バケツを用意したのは私だ。バケツに水を汲んで運び、一輪車に土を積んで運んだのは彼だ。複数の石を組み合わせる作業・力を要する作業は2人で行ってあった。最初のセメントを練ったのは私で、あとは彼が受け持ったはずだ。彼が石の間にセメントを流し込み、私がコテで修正した。親方にもらった土を彼がとりに行っている間に、なぜか私はこの作業を記念碑のように仕立て上げたくなり、その手はずを整えている。未だかつてなかったことだ。
今にして思えば、不思議なことだが、ある予期せぬ意識が目覚めていたのだろう。そばにあった幾つかの石を組み合させている間に、その意識が若者に乗り移ったかのごとくになり、予期せぬ創造物を生み出せたようだ。そのための資材などを運び込む作業と、ありあわせの石などを組み立てて固定する2つの作業を並行して進めた結果が、1つのオブジェ<a>を生み出させたわけで、記念碑にしたくなった。
もちろんこれで終わらなかった。この日は他に心積もりにしていた力仕事が2つ残っていた。彼は一も二もなくは片づけて、返っていった。
その後、彼が大阪に帰り着いたと思われる頃に、礼のメールが入った。「自分のためをはるか超えて、日本や地球のためになる働きだと確信しました」とのくだりがあった。私はこれまで口にはできなかったが、半ば私の心の内を言い当てられたような気分にされ、とても嬉しかった。
私は60年安保世代だ。学校の立地と雰囲気、実習が多くてさぼれないカリキュラムなどが関係してデモには出掛けられなかった。もちろん、肺に侵入した細菌とも語り合った。その鬱積した気分が、自由な時間を野良仕事に立ち向かわせたように思う。やがて心の中で、次第にその意義を膨らませている。当時は誰一人として道行く人がいなかった人里離れたところで、寸暇を惜しむように荒れ地に取り組んだが、やがて私も「自分のためを超えた何か」に気付かされていた。
だから、当時は、世の中に逆行していると笑われながら、一人汗をかき続けたものだ。私と同じような立場の若者が、他にも大勢いるのではないか、と考えていた。そうした若者の情熱とエネルギーこそが、最も尊いように思われたが、世の中はうまく受け入れていない。悔しい思いがした。
私が取り組んでいることは、そうした人の鬱積の晴らし方として、とても有効であり、最も確かなる1つではないか。その気にさえなれば誰にでも取り組めそうだし、多くの人が参画すれば、私が求める未来が、きっと目に見える形になるだろ。その1つのヒントにしてもらえるのではないか。などと思うようになった。間違いなく世間に、きれいな酸素をふりまけている。
そのようなわけで、浅間山荘事件やオウム事件のように、社会を震撼させる事件が生じて、若者が関わっていたと知ったときは、とても悔しい思いがするようになった。この私のモデルに触れていたら、中にはキット別の選択をしていたのでは、と思わせられることが多々見出されたからだ。
私はかつて、戦艦大和のファンだった。だから次のような争いが、特攻出撃した艦内で生じていたことを知った時にもとても悔しい思いがしている。
兵学校出身者と学徒出身者が論争になり、2派に分かれて殴り合いが始まった、という。兵学校出身者は「国のために、君のために死ぬ、それでいいじゃないか」「天皇陛下万歳と死ねて嬉しくないのか」と言う。学徒出身者は「それはどういうこととつながっているのか。何か普遍的な価値にむすびつかないのか」と悩む。割って入った大尉がいた。「日本は私的な潔癖や徳義にこだわって本当の進歩を忘れていた。敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるのか。おれたちはその先導になるのだ。日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか」
米軍機との死闘は50分におよんだ。6艦が撃沈され、3721人が死んだ。戦果は米10機を撃墜し、パイロット12人名を道連れにしている。
この殴り合った若者が、今の世にいたらどうしていたのか。当時、私がその年ごろなら、おそらく志願兵になっていただろう。特攻隊を志願していたに違いない。現実に、30歳代半ばまで、庭に日章旗をへんぽんとたなびかせ、挙手しかねない心の持ち主だった。だがその勢いを、暴走させずに済んだのは、この庭づくりだったように思う。
私は結核菌に襲われていた、だからある一面では、落ちこぼれのような気分にもされた。19歳の時に、いったんは就職や結婚をあきらめている。その鬱積した心を晴らしたくて、この庭づくりを始めたようだ。それがヨカッタ。次第に、生きとし生けるものが乗り合わせた地球を守るうえで、最も手堅い時間と汗を集積出来る活動ではないか、と思うようになっている。
この青年を迎えたおかげで、なにかがスッキリしたような気分になった。さらに、自然計画の更新に関りたいとの希望を得て、勇気を与えられた。そのようなわけで、その後はPCの虫かのごとくにしがみつき、思うところを綴ることになった。もちろん綴る中身の是非は別問題だ。このような問題や課題で思考停止する人は私に近づいてくれないはずだ。むしろ、多くの場合は反対意見をぶつけたくて近づいて下さる人が集まっている。だから、キット、この若者も、己が求める時空を確かなものにしたいものだから、その創造活動の触媒の1つと見て興味を抱いているのだろう。それにしても嬉しい。
問題は、その嬉しさのあまりに、右ひじの腱鞘炎を再燃させそうになっている。