複雑な心境。一村が生きていたら決して開かせなかったはずの中身であっただけに、誘ってもらえてヨカッタ。つまり、一村の「謝意がこもった作品」だけでなく、「思いあぐねたり、猜疑の心に揺れたりした作品」など、一村が生前、回収して焼却したいと願った未鑑賞の作品までが多々出品されており、その生涯理解を深める上でとてもありがたかった。
とはいえ肝心の「これが私だ」と一村が自認する作品の多くは出品されておらず、一村に初めて触れる人には気の毒に思われた。もちろん、その詫びの一文や、猜疑の原因を匂わす説明文も添えられており、知る人ぞ知る親切を見た。
実は私は田中一村を取り上げて、ある想いを綴ろうとして、数年にわたって取材もした。わが能力のなさを見る想いがして、未だに指すらつけられていないテーマの1つだ。そのようなこともあって、とてもありがたい見学になった。田中一村の理解も深められたし、世間や人情の移ろいにも触れる機会になった。死んでから一村は孤独から解放されたようだ。だが一村が生きていたら、余計に人間不信になっていたかもしれない。
この日は、朽木まで足を延ばし、太いおろしそばを堪能し、栃餅の善哉や温泉に浸かる幸運二もよくした。畑仕事が朝飯前になってから、初めて湯を使った。