アポイント制を敷かない医者に納得! から7月は始まりました。朝一番に訪ねて、採血などを済ませて帰宅。頂き物のハンモックの世話になりましたが、義妹がエダマメの苗をくれたし、天候も良かったので、午後に畑に出たのがヨカッタ。
翌日は、吐き気も治っており、午後に、妻に車で長勝親方訪問に付き合ってもらい、3日は午後に、法然院(わが家と京都の対極にある)を訪ねています。血液検査結果などで不調の原因がほぼ判明したので、予定通りに知範さんと出掛けたのです。以降10日までに多々トピックスに恵まれました。伴夫妻に馬糞をもらう。ピーターさん訪問。裕一郎さん来訪。小雨の7日は岡田さんを迎える。NTTと折衝。知範さんと郊外大手HCまで買い物に。そして小木曽さんたちと(小雨になった10日の夕刻に)最寄りの旅館で合流し、会席、など。ヒグラシの初鳴きは5日。6日にヘビと遭遇。サンコウチョウの初鳴きは8日でした。
このたびの体調不良は、前月末の甲状腺検査日の朝一番に発症した目眩(妻が「心配しながら待つよりも」と車で病院まで、初めて付き添ってくれた時)から始まっており、原因は、その2日前の深夜に降った大雨に大わらわ、がトドメであったようです。
中旬は快晴の下、小木曽さんたちを迎え、歓談の後、梶山さんも交えて蓮池を鑑賞することから始まりました。夕刻、コイモの畝の除草と、伴夫妻にもらった馬糞の施肥。畑で自然生えしたカボチャのツルで、初見のセミの抜け殻を見つけています。
その後。あるZOOM面談。米の「ホームランダービー」をTVで初鑑賞。心臓の定期検診で通院。古きNHK-SP『最後の戦犯』鑑賞。岡田さんを再度迎え、失敗学会のZOOMセミナーに参加と、当セミナーの講師を招き歓談。そして翌朝から京丹波に出かけ、橋本宙八さん(宅で平野さんと合流し)一家と歓談。ある夢を語り、ある施設の見学も。そしてこの留守中に訪ねていただいた長勝親方を、妻と一緒に再度訪ねています。
この間のトピックスは、「分別草刈り」に励み、堆肥の山を整備。12日から「朝飯前の一仕事」を始めた。サルにトマトやナスを襲われ、死角が分らず慌てた。庭の2か所で久しぶりの薪割。その後、岡田さんをZOOMセミナーで迎え、翌朝から橋本一家を訪ねたわけです。そして19日の早朝に、久しぶりにコジュケイが鳴き、安堵しています。
下旬は、妻の人形展というビッグイヴェント(コロナ騒ぎで2度延期になった)がありましたが、裕一郎さん夫婦に飾りつけに駆けつけてもらうなど、楽しげに運びました。私は留守番だけでなく、荒木先生と一緒に知範さんと会場に出かけたり、商社時代最後の秘書たちと再会したくて再訪したりしています。また、異常なオリンピックだけでなく、祇園祭とも日程がかぶさったおかげで、とても感慨深げな気分にされました。
他のトピックスは、NTTの電話システムの早期交換を決定。日本エネルギー・環境研究会の総会参加(24日)。歯の定期検診。30日は、後藤さんにオオバ提供と厭離庵ご住職父子を迎え歓談。夜はZOOM会議で外出の後、強い雨。31日、朝に右目上半眼の異常と夕刻に知範さん来訪。この間に、ニラとカボチャのコーナーの不備をサルにつかれ、カボチャの実を盗まれています。
畑仕事は、連日の快晴を活かして馬糞を干し上げ、ネギなどに施肥。電柵内に植えた白カボチャや自然生えのトウガンの手入れ。第3次キュウリなどの支柱立て。あるいはチョット大掛かりな薪作りや、分別草刈りなどに当たっています。月末にやっと雨らしい雨に恵まれ、庭は生き返ったかのように。でも、野草も暴れそう。自然にはかなわない。
~経過詳細~
アポイント
アポイントの大事さを心得てきたつもりだが、これを反省する1カ月になった。思えば、この大事さは、初めて訪れた欧米で(28歳、海外渡航自由化2年後の1966年9月のアメリカと、翌年2月の英仏伊への出張時に)思い知らされ、強く意識し始めている。とりわけパリでは、口頭ではなく、文字によるアポイントが大事、と認識させられている。
1日。起き抜けに「またか」と感じた。メニュエルのような目眩と吐き気がしたのだが、前日より激しく、しゃがみ込み、掌で口を抑えざるを得なかった。一息入れた後で、「今朝こそは一番に」(亡き母の掛かり付け医だった)町医者に走ろう、と思っている。そこは、アポイント制ではなく、先に着いて待った順に診てもらえる。
実は、前日(6/30)も、軽かったとはいえ同様の症状を呈していた。この日は、通院病院へ(甲状腺の機器検査のために)出かける日で、妻に車で初めて連れて行ってもらったが、2つのわけがあって、機器検査だけ済ませて、そそくさと帰っている。
帰宅後に、温室の水やりだけは済ませた。その折に、この庭の「橙色の4天王」が揃って咲く時期であったことに気付かされたり、遠き山を眺めたりしたが、そのうちに、気分が次第にやすらいで行くように感じた。
昼はソーメンの後、頂きものの(先月)ハンモックに(感謝しながら)体を横たえたが、「シイタケのホダギ場」が見える。その緑(今年も元気に出そろったシュウカイドウ)で眼を休ませているうちに、まどろんだようだ。
まどろみながら、妻が(教室展を間近に控えており)とても多忙な時期であったのでヨカッタ。もし病院で、「ついでに、ここで診てもらいましょう」などと妻が言いだしていたら、どうなっていたか。1時間も2時間も待って、10分ほどの診察と、半時間ほどかけて大掛かりな機器検査に費やしていたに違いない。
もちろん大病院には救急受け入れ態勢は整っている。だがそれは、救急車で運び込まれるような患者が対象であり、「大事に至らぬ前に」と未病や発病未然を願う患者などは「人間ドックのご予約を」になるだろう。わが国の政府や国民は、病院を、対処療法機関のような立場に追い込んでいた。医術の本分は、病人を出させないことだろう。にもかかわらず、発病が需要の始まりのような存在に追い込んでいる。これは、自ずと医者と患者の心を、病身を挟んで対決姿勢にさせかねない。
かくして1日を迎え、8時半を待って出支度に整え、掛かり付け医に連れて行ってもらった。既に数名の先客があったが、この日は順番通りではなく、2人を飛ばして名を呼ばれ、飛ばした人の前を恐縮しながら進んだが、「どうぞ」とばかりに手をかざして下さった。
そのわけは、検査の待ち時間や料金計算などの間に漏れ聞いて、おおよそのことが飲み込めた。1人はよほどの常連患者と見た。もう1人は、ともかくこの医師とゆったり話し合うことがなによりもの薬のような人だろう。母もその1人だった。
帰路、どうやら、あのお二人は、と憶測した。順番を後に回されたことは、先生がそれだけ自分たちを身内のように扱ってくれた、とでも受け止めとたのではないか。
丁度2日後に機器検査結果を聴きに行った。その医師は、原因は一時的な過労、と診た。だから、薬は(飲んでも差し支えはないが)「捨てて下さって結構」だった。用心して、日付と「吐き気抑制」とメモし、わが家流宝箱の1つにある薬箱に収納。
次に、アポイント制に思いを馳せたのは、岡田さんの世話になったZOOMセミナーの翌日のことだった。「翌日は温泉にでも」と話し合って組んでもらってあった1泊2日の日程であったが、岡田さんは平野さんに声をかけ、まず橋本宙八さんのお宅で合流、となったという。「ありがたい」と思った。とても気になっていたことがあったからだ。
岡田さんの車で出立し、高速道に乗ったところでケイタイが鳴った。「今、お宅の前にいるンだけど」と長津親方の声が飛び込んできた。サー困った。門扉は創作休暇中で閉じている。やむなく「妻が応対します」と、チャイムのボタンの位置を告げた。次いで、妻に電話をと思ったが、控えた。私の電話が、親方との応答の邪魔をしかねない。
この顛末を知ったのは、帰宅してポストに鋸が入っていたことに気付いた時で、「シマッタ」と思った。妻はまた、コードレス電話を持たずに動き回わっていたのだろう。
岡田さんを見送った後、急ぎ親方にケイタイを入れた。親方は、どなたかの子どもさんお2人を伴って、隣のハス池観がてらの来訪だった。
「サテ困った」親方は明朝から一泊旅行で留守、とおっしゃる。その翌日は、妻は人形展の搬入日。向こう5日間は動けそうにない。
このやり取りを聞いていた妻が、「これから1~2時間なら」と提案。そそくさと飛び出した。おかげで親方が翌朝から留守になる事情も知りえた。「直井光男さん、ご存知でしょう」と、見覚えのあるチラシを取り出された。大勢の仲間での葬送だった。
この葬送は、前日の岡田さんとZOOMセミナーに参加し、その講演の1つ(~葬送最前線~コロナ禍で「死の現場」はどう変わったか)で知った現実とは対極であるように思われ、考えこまされた。
2 深夜3時間の水難
夕刻から雨になった6月28日、深夜。この雨脚なら「おそらく、もう」と、「ひょっとしたら」が心の内で錯綜したが、「もう(大丈夫) 」に賭けて、床についた。
寝入りばなだった。「警報ベルが鳴っています」との妻の声と、非常ベル(人形工房一帯の水難を知らせるために寝室の側に設けてある)のけたたましい音が、激しい雨音と同時に耳に飛び込んできた。時計は1時過ぎを指していた。
妻は、半地下構造の人形工房や喫茶店に走った。私はまず非常ベルのスイッチを切り、服装を雨具で整え、現場に急ぎ、途上の機器置場から(昨年買ってあった厨房用の新しい)排水ポンプと延長パイプを取り出し、駆け付けた。
人形工房や喫茶店などの2つの棟がある一角は、半地下構造(で、年中常温の井戸の原理を活かして冷暖房効果作を期待)になっている。
傾斜地(小倉山のすそ)に広さ500㎡ほど(深さ山側4m、公共道路側2m)の弁当箱状の空地を掘り(中央はテラスとして残し)、北と南の2つの壁面(の土)に沿わせて2棟が建っており、西面(山側)と東面には階段がある。
だから、山側の急な階段の奥上方には平屋の居宅の一部が位置するが、まるで3階かのごとくに見える。
当日は闇夜だった。西の方の急な階段を降り始めると、喫茶店やゲストルームの(照明を妻が灯していたので)石畳の床が、既に数cmほど浸水していたことが分かった。
きっとその原因は、かつてと同様にトイレや厨房の排水口から逆流した雨水であろうと睨み、点検し、確かめた。なんとかこの逆流を防止する智慧が必要だ、と思った。
次いで最も心配な(テラスを挟んで向かい側にある)人形工房(上階は人形ギャラリー)に踏み込んだ。ここはテラスよりさらに40㎝堀下げて造りながら、床を板張りにした。
問題はこの部屋に井戸があることだ。元から井戸があった所に(地盤を4mほど掘り下げて)人形工房を造った関係で、(深さが半分になった井戸が)残っている。だから豪雨の祭は(井戸の水位が異常に上がって溢れ兼ねなくなり)非常ベルが自動的に鳴るように(井戸に仕掛けが)してある。
この非常ベルが鳴ったわけだ。だから、急ぎ床蓋の一角(井戸がある部分の床板)を持ち上げたが、緊急排水ポンプが唸りをあげる音が聞えてきた。
もちろん、井戸はハッチで蓋をしてあり、地下水がすぐには床に溢れ出さない。だが、ジワジワと水が(上昇した地下水の水圧で)しみ出して、溜まる。だから、専用の水中ポンプを持ち出して汲み上げ、ホースでテラスに流し去るように手を打った。これで、井戸問題はひと段落。
次いで2人はテラスを横切って喫茶店に飛び込んだ。そこには(この建物を1985年暮れに完成させてから34年間は、何ら問題が生じていなかったが)昨年の大雨時に初めて判明した弱点がある。厨房部分の10㎡ほどの床面は、客席の床より20㎝程堀下げており、そこに水が溜まりかねない構造(弱点)になっていたが、案の定溜まっていた。
もちろん昨年の内(初の発生時直後)に冷蔵庫と冷凍冷蔵庫には下駄をはかせており、共に(浸水による)故障の心配はない。とはいえ、システムキッチンの収納部分の下部が水に浸かっていたし、ごみ籠などが浮いてひっくり返っていた。
このゴミ箱などを妻が片付け始めたので、私は(持って降りてあった)新排水ポンプを活かせるようにセットして、溜まっていた水をテラスに汲み出すことにした。この時になって初めて、布製のホースは(ここでは折れて、水を通さない)欠点があることに気付かされており、手を添えていざるを得なかった。その間に、ここも排水口(からの逆流が浸水の原因と見たので、そ)の蓋を密閉式にすれば済みそうだ。この排水溝を活かした床の水洗いなどしたことがない、という。だから、後日、大型HCに走り、ハードパイプを新調したり、排水口の蓋を密閉する工夫を考えたりしている。
この豪雨対策に2時間ほどあくせくしたが、この間に20分ほどを割いて(激しい雨が降る庭を一巡しており)気になる2か所の点検を済ませた。
3時過ぎには雨脚が弱まった。2人は熱い飲み物で息を整え、居宅に戻り、寝直すことにした。だが私はさまざまなことを考え始めてしまった。
まず、「このイヤリングは(何だかわかりますか)?」と、妻が自慢げに問いかけた質問を振り返った。工房で私が眼を止めた人形があり、そのボーイッシュな少女のイヤリングだった。とても精巧な出来ばえで、ハートの形をしていた。
次いで「おかしなことだ」と思った。テラスは法定基準を守っ(て設計し、友人の一級建築士が建築許可をとっ)たものだから(1時間当たり50mm以上の雨が降ることを想定していなかったことになり)危険にみまわれるようになったわけだ。そもそも建設当時は50mmという数値すら私は知らなかった。
知っておれば、1日150mmの雨が降れば、この庭には500トンの雨水が降ることを知っていたのだから、異なる(もっと用心深い)判断を下していたに違いない。
だから、いたく反省しており、昨年の内に、第2次の手を打って(自動排水装置を仕掛けて)あったが、それがヨカッタ。ほどなくその自動モーターが作動し、事なきを得た。
もちろん、停電に備えてエンジン式排水ポンプも用意しているのが、1台なので、1台なりの活かし方を(諦める時点も含めて)考えておかなくては、と思った。あるいは、保険に入っているとはいえ、もう1台買い求めるか。
畑の冠水対策にも想いを馳せた。1時間当たり200mmの雨量まで(元の50mm対応のパイプに加え、100mm対応のパイプと50mm対応のパイプの2種を敷設して)処理する(第1次の)手を打ち済みだ。だが、他に2か所の気になるところがある。だから見て回った。
●6-5
その1つは、50mm対応のパイプが木切れや落ち葉などで詰まりかねないが、その防ぎ方は(どのように目詰まりが生じるか不確かで)定まっていないこと。この度の点検でも問題は生じていなかった。
もう1つは、山の方から(わが家の庭に)流れ込む余計な水の対策。ミニダムを設けたが、その点検だった。常日頃は完全に山水が枯れて(しみ出さなくなって)しまったので、ミニダムの底に設けてあった排水口が不要、と分かった。だから翌日、完全に塞ぐ仮の手を(山側の穴に)打った。
他にも、何か要配慮は? と思案している間にねむってしまった。
後日談。かつて「100年に一度」と言われた豪雨(1時間に89mmであったと報道さらた、まるで滝に打たれる思いだった雨)のあと、直ちに法定の4倍200mm対応の手を打ったわけだが、「なんと」翌年にも豪雨があり、早速に事なきを得ている。
ところが、今年7月17日のこと。中国の河南省では1時間に201.9mmの降水があった。いったい何mm以上の降雨をもって想定外とあきらめるべきか、と考えている。
「これは何?」と、妻が問いかけたとても精巧なイヤリングは、何てことはなかった。ペンペン草(春の七草の1、ナズナ)の種だった。妻の口癖「自然にはかなわない」を思い出した。
3 印象深い5度の外出
最寄りの掛かり付け医院に駆け込んだ外出が最初で、30日にZOOM会議で友人のお宅を訪ねたのが最後になった。計14回の外出の多くは忘れ難い思い出になった。
その最初は、掛かり付け医での医師と患者の信頼関係に感心したこと。ついで法然院で過ごした外出3度目の3時間余だ。
この日、東山山麓にある(元は浄土宗であったが独立し、現在は単立宗教法人である)当寺院で「ふろしき研究会」の催しがあった。これに招かれた機会を、梶田真章貫主に知範さんを紹介する好機に活かしたくなった。
この住職は、環境保全面では西山の常寂光寺の先代住職(ご前さま)と双璧の関係であった。ご前さまは空き缶のデポジット制度を日本で初めて軌道に載せようとするなど(これは推進派助役が、1企業の都合をおもんばかる助役にとって代わられ空中分解した)制度改革に心血を注いだ人であったとすれば、梶田貫主は「共生き(ともいき)堂=法然院森のセンター」を境内に新築し、自然環境と親しむさまざまな活動に幅広く取り組む運動家で、今も続いている。
「ふろしき研究会」は、国内外に220人の会員を擁し、この度の「ふろしきトーク」は29年105回目で、法然院では初めて方丈での開催だった。この会の主宰者・森田知都子さんは誠実このうえない着眼大局着手小局のお一人だ。
帰りがけに知範さんと境内を巡った。ふと樹形に惹かれ、見あげて、2度目の感激。剪定は冷暖房に供させる手法だった。過年の台風倒木が1本、生けの上に。これを子どもを誘うかのごとき丸木橋にして活かしてあった。石畳みはその気にさえなれば誰にでも造れそうだ。
5日のピーターさんのお宅に招かれたが、心新たにする訪問だった。この時に1つの頼まれごとがあった。わが家の生ごみや落ち葉の処理方式に感心が大だったので、その関心度合いを問い、その想いに触れ、「ならば」となった次第。
落ち葉や生ごみの処理が目的ではなく、環境問題への関心の一環だった。ならばピーターさんの生活のあり様や、堆肥や腐葉土の活かし方(循環策)を後日一緒に考えましょう、となった。そして、庭で「山菜のごとくに自生する食材」を育ててみてはいかが、との提案もした。わが家では、私亡きあとの妻の生活を考えて、ミツバをはじめ自生化させている野菜類がある。後日、その最も簡単で丈夫な一種を摘んで、届けた。
その後、日を置いて試食結果を求評。さらに日を置いて、その1株を記念に移植して差し上げた。実は、その時に、1つの冗談を用意していたが、ピーターさんの物腰に触れて、控えた。それは、出張土産だといってピーターさんに頂いたカステラに金粉がまぶしてあったので思いついた冗談だった。
ピーターさんは江戸時代の文化に詳しい。だから、「誠の金プン」にめぐまれた、と告げようと考えていた。当時の日本は、見事な循環型社会であり、墨田川など江戸の川ではシラウオが獲れた。当時、セーヌ川やドナウ川は、メタンガスと悪臭発生に悩まされていた。江戸では、農家が町家から屎尿をランク別に値を決めて買い求めていた。裕福な武家の屎尿は最も高い値がつけられており「金糞」と呼ばれた。
梶田貫主、森田知都子さん、そしてピーター・マクミランさんと、いずれも環境問題に心を傾け、それぞれの身に応じた実践策で、解消に努めておられる。
次いで、京丹後の橋本宙八さんのお宅を訪ねた。何年か前に、ビル・トッテンさんと一緒に訪れ、2人してこれぞ「終の棲家」に最適、と推奨した。その後、改装初期にも訪れており、痛く反省し始めていた。この田舎家は、見えないところはほぼ朽ちていたようだ。まともに残せた(活かせた)柱は1本、と言ってよいほど、だったらしい。
その物件が、地元大工の技と家族の努力に加え、大勢のボランティアの加勢もえられたようで、羨ましくなるほど見事な建屋に生まれ変わっており、安堵した。
もとより環境が良い一帯だが、宙八さんたちの移住が輝かんばかりの地域にさせつつあった。なにせ幼子を持つ2組のお嬢さん家族も加わっている。養鶏も始まり、庭での農作業だけでなく、田畑を借りて、初めて見る農法も試みられていた。そこで、養蜂も、と勧めた。
宙八さんは、地域社会に新たな夢も描いておられた。その想いを抱かせるにいたったとおっしゃる施設の見学もした。何百人もの生徒を擁したであろう廃校だった。
コロナのことなど私はすっかり忘れていた私だが、フト思った。時代は工業文明型社会から生態文明型社会に替わる。このコロナ騒動はそうと気付かせ、移住を決める人を増やすのではないか。その人たちのためにも、適応力を組織的に授ける教育施設が必要だろう。このようなことを考え、廃校見学をしているうちに、温泉の話など忘れて帰路についていた。それがヨカッタ。この日のうちに長津親方のお宅を訪ねることができた。
この親方は、伝統の匠が生態文明型社会にとって不可欠であることを直感で見透かしておられる。生態文明時代を迎えた時の、わが国の存立基盤の有力な1つになるだろう。
22日から妻の人形教室展が始まった。23日は知範さんの車で荒木先生と一緒に訪れ、大勢の顔見知りと交歓した。妻も詩人の山口さんにたくさんの写真撮ってもらって喜んだ。
私にはどうしても見届けたい2体の人形があった。「仕上げてほしい」との遺言をご主人に残された生徒さん作品と、ご主人をうしない、サンタクロースに生まれかわらせたかのような生徒さんの作品だった。
ちなみに、月末に、妻が作文に熱中していた。聴くと、遺作の仕上げに関わった方のご主人が、思い出の記のようなものをつくられるらしい。その1頁に、との文案だった。読むと、妻が嬉々と共作に取り組んだわけが分ったし、ご主人の心にも打たれた。
想いをつなぐ(案)
24日はエネカンの年次総会の日で、知範さんと京大の時計台まで出掛けた。駐車を最寄りの神社でさせてもらったが、おかげで2つの余禄に恵まれた。まず、神社には新たに「当神社に用のない方は駐車禁止」の注意書きがあり、知範さんが躊躇した。私は経験則で参拝を提案し、階段を上り、賽銭を投じて2礼2泊手1礼。次回はいかに、と思案していると、少人数の神前結婚式に出くわし、「いいものだなあ」と思った。
エネカン総会では、まず機関誌に知範さんの「ありがとう曼陀羅」が収録されていた。新宮先生考案のヒートポンプが話題になった。動くわけを理論的な文章で示していた時はサッパリだったが、念力で動くと称すると2万回のヒットをたちまちにして得たとか。話はウイリアムペティや重農主義、「1と無限の中間は2である」をへて、「時間はエントロピーである」に至った時に3時半になった。会が長引き中座。
急ぎ「キッズオリンピック」の会場まで送ってもらった。急遽そこで待ち合わせを決めた人たちがあったからだ。商社時代に、最後の秘書役などを務めてもらった人たちにも待ってもらっていた。とりわけこの秘書と妻は、ある一件で私にとっては共通の恩人である。たどり着き、久保田さんが会場で、2日にわたってスリットドラムによるBGMを奏でて下さったことをまず入口部で知った。
当月は2度も、長津親方を訪ねた。妻も、親方訪問には嬉々となる。光悦は刀の研ぎ師だったが、親方は鋸の刃の研ぎ師だ。親方が当時に生まれていたら、とフト思った。
4 橙色の四天王と初鳴き
先月咲いた赤っぽい橙色のザクロに次いで、当月はノウゼンカズラに始まるこの時期の橙色の四天王が次々と咲き誇る。そのたびになぜか暑苦しさが増すようで、今や私好みではない。とりわけオニユリは厄介だ。白い衣料が増える時期だけに、花粉をつけようものなら「またつけたのネ」と大変だ。
ヒグラシの初鳴きは5日の夕方だった。翌日は朝に、スミレの鉢で自然生えしたフウチョウカが咲き誇り、風に揺られていた。午後、歳の頃ならハイティーンの青大将を泉の側で見た。妻はそれより10日ばかり前に、堆肥の山の近くで見た、という。サンコウチョウの初鳴きは8日の昼。ツキホシヒーと鳴く。今年はこの鳥の巣を庭で2つ見つけており、妻はリースに活かしている。9日、シオカラトンボが頭にもとまった。
夜、初見の中型カミキリを屋内で見た。その後、イチジクの木で見つけたものだから、殺し始め、計5匹退治した。かつてイチジクに着く「オオカミキリの幼虫は珍味」と聞き、イチジクの実を犠牲にしてまで木を切り取り、3匹も得た。だが、その不気味な姿を見て、調理(ロースト)もせずじまいになった。
10日夜、書斎でアブを久しぶりに見た。その後庭でも見ている。
ニラとカボチャのコーナーで、3種のカボチャが実をつけていたのに、サルに盗まれ、盲点があったことを知った。その直後に畑で、トウガンに次いでカボチャの自然生えを見た。そのカボチャの蔓で初見のセミガラを見つけたのは11日。
14日には、自然生えで夏至の頃に咲く自然生えの花が終わり、倒れたので整理をしたが、忍者のごときカエルを見つけて中断。頭を指で撫でたが微動だにしなかった。しばし目を離したすきに姿を消していた。
テラスに三脚脚立を持ち込んだのは先月の末だったが、活かしたのは17日も後のことになった。遅れたわけは、1日のメニュエル状態のセイと、喫茶店が休んでいたオカゲだ。この日になったのは、岡田さんを迎える日であった(のでテラスを点検し、オオガハスが咲いていたことに気付いた)オカゲだ。この日のZOOMセミナーの講師は(ご近所在住で、講演の後で迎えた)僧侶だったので、3人で愛でることもできた。その後、19日の朝(コジュケイが、チョットコイチョットコイと鳴いた日)には、既にハスは花びらを落し始め、子房があらわになっていた。
23日の4時半、ヒグラシの鳴き声で目覚めた。夜は白け始めており「今朝こそは」と思ったことがある。前夕の内に高枝切りを用意してあった。ミツバチの巣箱を覗くと、夜番のハチか、それとも暑がりの涼みがてらか、ハチがジッとしていた。
出入り口は四方にあるが、肝心の(好みの東南東向きの)入口を伸びた野草が塞ぎかけていたので切り取った。2度フラッシュを浴びたがハチは動かなかった。
やがて庭中の夏虫と一帯の小鳥の鳴き声が合唱となり、賑やかになった。
この日から巣箱に、小型スズメバチがチョッカイをかけるようになり、退治し始めた。昼過ぎに、ウグイスが谷わたりと呼ばれるさえずりを盛んに繰り返していた。
翌日、ハッピーが騒いだ。妻が点検に行ったが、「サワガニでした」と膨れ面で戻って来た。
ハッピーは1年近くもブリーダーも兼ねるペットショップで過ごしており、犬だけと共存する育ち方しか知らず、自然や自然の造形部に触れていない。だからだろう。カタツムリやカニに大騒ぎする。小鳥(が時々ガラス窓に映る光景を錯視し、激突して落ちることがある)でさえ、噛み殺しながら食べることはできない。だからいつも私たちが土に埋めて成仏させる。このサワガニは、世紀以上も前に私が入植させたカニの末裔だ。かくいう私も、珍味だと聞くオオカミキリの幼虫を食べられなかったわけだ。
25日にニイニイゼミを久しぶりに見た。かつてこの一帯の初夏は、このセミの鳴き声から始まった感があったが、いまや昔の話。
蚊の(一網打尽ならぬ)一袋包尽作戦の実践は28日から始まった。専用の自家製道具を13日に完成させていたが、その活用(ホウキグサの軸を上部に結わえ付け、レースカーテン地の袋を被せて、タンクの蓋をずらして明け、そこに「カ」を舞い上がらせ、殺虫剤を噴霧して殺すのはこの日になった。
水洗トイレの屎尿タンク(発酵漕)は、ボウフラにとってはこのうえない養殖池らしい。この作戦であれば、農作物を殺虫剤や農薬で汚染させずに「カ」を退治できる。とはいえ、面倒な作業なので、その都度、密閉できるバケツに余分を取り置き、自然死させ、液肥として活かす。
28日の午後は、温室仕事に割いたが、仰天のち安堵、の日になった。妻が「挿し芽床」で発根させたポトスをポット仕立てにしたり、イチジクの挿し芽に取り組んだりしたが、夢中になっていたので気付かなかったことがあった。午後のお茶を運んだ妻がそれに気付き、「ホレっ」と指さした。その先にはアシナガバチが大きな巣があり、仰天。
近年はどうしたわけかアシナガバチの姿をあまり見かけない。それだけに、この巣の活発さに仰天した。毎日の水やりでその下を通っていたのに、気付かなかった。これからも、いつものように何食わぬ顔をして付き合おう。このような巣がふた昔ほど以前ように、庭のあちらこちらで増えてほしい、と願った。
この日は、トウガラシにつくカメムシの一種の退治を(落ちて逃げるクセと、水に溺れやすい弱点を突く戦法で)始めている。後日、この虫は、ナスビやホオズキも好みの範疇と知っている。
ひょっとしたら、このカメムシの天敵はアシナガバチかもしれない、とも思った。アシナガバチの健在ぶりを知って安堵しながら、いたく反省もしたわけだ。その窮状の主因は、その生活を脅かしているはヒョットして、と気が引けた。
人類は今、ヤット気候変動におののき始めているが、いずれもっと恐ろしい生態系の変動に、その恐ろしさに気付かされるに違いない、と思った。
5 考えた
この人は何を貫き通したのか。なぜ、かくも頑張れたのか。それが知りたい。知りたいというより、広く多くの人が知りうるようになってほしい。そのように思わせられる人に、今月も巡り合えた。松本喜久子さんだ。1970年の大阪万博ではコンパニオンとして鳴らし、その後、西大和学園を立ち上げ、軌道にのせた。東大や京大などへの進学率では灘校を上回っている。大和大学の誕生も彼女が基盤を確立しており、実弟に運営させている。これらの事実は、何か貫き通した心棒と不断の努力なくして成し得ないことだと思う。
小木曽さんに紹介された人だが、小木曽さんと似た一面を見る思いがした。彼は「海のプラスティックごみ問題」解消に不断の努力を傾けておられる。有名な寺の5男に生れ、世界を巡る船乗りになり、今や海洋に漂うプラスティックごみを危惧。
船乗りを止め、地元が窯業名産地であったのを幸いに(?)だろうか、リサイクル食器を開発し、給食用食器として全国の小中学校に広めつつある。今は、その会社運営は息子にまかせ、当人は役員収入を投じて海のプラスティックごみ問題解消に奔走。この人も、持ち合せた心棒と不断の努力を貫きつつある人だと見る。
きっとこのお二人は、心棒と不断の努力を貫いてきた同志として、互いの琴線に触れあう何かがおありなのだろう。ご一緒した数時間は爽快であった。最後の1時間余は、ハスの観賞となったが、梶山さんにも声をかけた。お隣の小倉池のハスが見ごろになれば「お誘いする」と約束していたからだ。わが家のイノシシ坂からだと、少し高みから眺められる。
18日、宙八さんのお宅を訪ねる道中で考えたことがある。小さなICで一息入れたが、カブトムシペアーを500円で売っていた。問題は、その雌雄の差だった。メスはことごとく身を隠しており、それなりの扱い方で守られていた。オスは日の下に出て相争っている。なぜかふと、イスラム教とキリスト教に見る差異の1つに想いを馳せた。
コロナ騒動に対峙する姿勢でも新たな差異に触れ、興味津々になった。かねてから、隣国同士でありながら「デンマークとスウェーデンの差」にとても興味を惹かれてきた。このたび、フランスとイングランドが打ち出した方針の差にも興味津々にされている。
あらかたの先進工業国と、ワクチンに恵まれない農業国との差異にはもっと興味をひかれる。これは貧しさゆえに生じていることだが、真の人間力が問われている点では似ていそうだ。いずれ一方は、自滅するまでほしいままに振る舞うか、地球環境の破壊率が格段に少ない生き方に戻るためにギヤーを切り替えるか、二者択一が求められそうだ。
19日の朝、ちあきさんから前日の集合写真が届いた。そこに「朝焼けです」とのメッセージが添えられていた。「不思議だなー」と思った。というのは、前日の親方訪問からの帰路、夕焼け空を眺めながら、「昼は、あの山の向こうで」ちあきさんのソーメンをご馳走になった、と考えていたからだ。
後日、もっと不思議だなぁ、と思うことが生じた。予期せぬ再会に恵まれたことだ。商社時代最後の秘書から電話があり、妻が受け、仲間を誘い合って人形展に訪れてもらう約束を交わしていた。私も再会を願い、その時刻をずらしてもらった。この秘書と妻は、ある案件で私にとっては共通の恩人である。
在籍中に私は、解雇用件の1つであった御法度(先物取引)に手を出して、電話で大っぴらに繰り広げた。もちろんその恐ろしさを知らぬままの暴挙であった。
秘書に預金通帳とハンコを預けていた関係で、このご法度の取引で赤字が出たら、現金を引き出し、その集金人に支払っもらう役目を彼女に託していた。
スリル満点の取引だった。帰途、駅で買い求めた新聞で「100万円も儲かった」とヌカ喜びし、朝刊で50万円の損で終わっていたことを知るような日が続いた。もし運が着けが、元金が雪ダルマ式に増えて、1カ月で1億円の稼ぎも夢ではなかった。
ある時、「森さん、もうやめて下さい」と彼女がいう。それは通帳が底をついた、との報せだった。裏目続きになったわけだ。もちろん、さまざまな経緯があって始めた行為であったが、トヤカク言わずに打ち切った。
その数日後、いつものように帰宅して、着替えを手伝ってもらっていた時に、妻が「もう止めたのですか」と問う。父から「孝之は危ないことに手を出している」と聞かされていたようだ。父が郵便物を取りに出る役割を担っていたが、その郵便物が2~3日途絶えていたわけだ。「止めた」「どうしてですか」「お金がなくなった」と進んだ。
そのお金は、結婚後一からせっせと溜めたトラノコの540万円だった。だが、妻は「今度は、お金を溜めてからにしましょうネ」と言った。母ならキット、「そんなお金があるなら私に下さい」と父に迫っていたに違いない。
幾つものことを私は学んだ。こうした取引に誘う人は、私とは異世界のヒト、とまず学んだ。だから、近年、もっと実体のないギャンブルをビジネス化し、日本でも広めようとする動きがあるが、とても心配だ。私は、20日間ほどだが、その恐ろしきスリルを体験した。いい年をした者がたわいなく心を焦がす思いだった。楊貴妃にうつつを抜かした玄宗皇帝の心境やいかに、と思ったほどだ。断ち切れないヒトが続出するに違いない。
秘書は、預金がなくなるまで、との指示に忠実に沿ったわけで、そのたわいもない心の高鳴りを限界まで味合わさせてくれた。それにも増して妻に感謝する。この2人のオカゲで、2度とギャンブルのごときスリルには惹かれない心構えができた。
今にして思えば、これも遠因の一つだったのかもしれない。11カ月にわたる慰留を振り切って、私は退社している。何割か減額された依願退社退職金は300万円だった。まずこれを3等分して、遅ればせの新婚旅行に投じている。
もう3分の1で井戸を掘ったが、近年は豪雨の度にハラハラされているだけで、一度もまだ「おかげさまで」という事態(よくぞ掘っておいた)にはいっていない。むしろ逆だ。最後の3分の1で墓地(の永代使用権)を買ったが、父が死んだ頃には、それがバブルで7倍になっていた。おかげで、墓地や墓が必定と見る母を喜ばせた。
それにしても、と思う。会社都合で辞めると割りまし金がもらえ、依願退社だと割り引かれる。分かるようで、分らない。会社の御法度であれ、見て見ぬ振りをしてもらえば、たった1度を掘り起こして適用もされる。これも、分かるようで、分らない。どちらが健全な未来志向か、健全な成長要因か分からない。
コロナ騒ぎのセイで、今年も祇園祭の山鉾巡行が流れた。これは疫病退散を願って始まった行事ではなかったか。科学がもっと進み、気候変動が今以上に変則化し、恒常的になると、免疫力が肝心と見る方向に打つ手が一転するに違いない。
6 その他
種を取るアイトワ菜の長けた分は、4本ともに温室に取り込んであった。だから7月は、すっかり冬野菜が畑から消えた状態で始まった。今年は4種の個性豊かな種を取った。
ベトナムの日笠が真価を発揮し始めた。麦藁帽などでは頭が蒸れて、長くはかぶっておれない。日本もそうした気候に近づいた、と気づいたわけだが、ベトナムに行く機会(を毎年作ってくれていた友人)が亡くなってなくなり、残念でならない。
「選別草刈り」に励んだ。畑はまだインゲンマメやキュウリの蔓などが健在で、残滓がでない。だから種を結んでいない野草や余分のミントなどを選んで刈り取り、堆肥の山を築かなければ、生ゴミを放り込む余地がなくなってしまう。
この時期はキノコが出る時期だが、炎天が続いたために、すぐに干上がらせていた。
キノコが生木に出ると、速やかにかき取らないと、木を腐食させ、傷めてしまう。そのキノコが「スモモに出始めた」。急ぎワークルームに走り、チョトした感激に恵まれた。再発見が「あった」からだ。いついしか古道具屋で見つけ、何かに役立つはず、と思って買い求めてあったわけだ。流石はわが家の宝箱、と思った。次回取り出すまで、わが家流に改良しておく目処もたった。
モモに恵まれた。JR東海の事故のせいで、JR西日本まで影響があり、岡田さんは岡山で新幹線を乗り代えなくてはならなかった。それが、モモにも詳しい岡田さんを「いかにも旨そうだった」と突き動かし、手土産に選ばせ、最寄り駅から歩いて届けて下さった。モモが好物だった母に、この最初のモモを供えた。
ブラックベリーが本格的に収穫できるようになった。かつて(30年余昔)は、種が舌に触って好みではなく、また一気に稔るので小鳥の餌にされやすく、枯れるに任せた。この度は、舌で実をつぶして食べる知恵に気付いた。来年はジャムにして裏越しを、と考えている。
ブルーベリーも実り始めたが、初採りはサラダで活かされた。本格的収穫は、今月の最長期宿泊者(と言っても3晩にすぎなかった)の四国から時々通う(妻と同姓同名の)生徒さんと一緒に、滞在最終日に妻が試みた4kgだった。
小夜ちゃんと呼ぶ彼女のおかげで、この度は初めて口にする酒に感心した。辛口の酒を、ブランデー、バーボンウイスキー、そしてウイスキーの樽で仕込んだという。この想いつきは、高く評価されるのではないか。
オクラの収穫が29日から始まり(モロヘイヤは既にシーズンに、ハナオクラも初期だがシーズン入っていたので)ネバネバ四君子の季節になった。
今年はトマトのなり年で、チェリートマトからシーズンに入った。時々サルが満喫するようだが、私たちは例年以上に腹がたたない。ただ、サルも熟れた実の皮を嫌うようだし、青い実はちぎり取っておきながら捨てるようになった態度は許しがたい。
シキミに実が着いた。この木は雌雄異株と聞くから、どこかに雄木があるのだろう。
インゲンマメの蔓の矯正に励んだ。蔓は上に、上にと伸びるので、3日にあげず人工的に横にはように矯正し、収穫しやすくする。同様に、ツクネイモの蔓も同様だ。
クヌギのヒコバエが出そろう時期だった。フキの畑にするころのヒコバエはすべて切り取った。シイタケのホダギに使う分(もう1度ホタギを用意する歳までに死ぬとは限らないので)2~3本仕立てにする。ミツバチの巣箱の側にある木の分は、幾本かを、手前の斑入りのアオキと共に、巣箱に日陰をつくるように剪定したい。
トウガンは今年も自然生えに頼れそうだ。故に、畑には変形の支柱を思わぬところに立てなければならなくなった。既にハチが媒介し、実を結んでいる。
同様に、カボチャも変形の支柱を張り巡らせることになりそうだ。上出来だったニラとカボチャのコーナーの3種各1個のカボチャがサルに襲われて、なくなった。
厳冬を腐らずに堪えるカボチャがあったことを知ったこともあり、遅ればせの栽培に手を付けた。
エダマメを久しぶりに、わずか4株だが育てることになった。かつて一度試みて、無農薬では育てにくいことを知って、あきらめていた。
原種のトマトが育ち、白い花をつけた。前回は一度、ことごとく一般種と配合させてしまい、種を採っていない。ツタンカーメンのエンドウのように、配合していない実が分別できれば、と願っている。
久しぶりに馬糞をもらった。だから、もらった状態でもまいて用いるだけでなく、一旦は乾燥させてから用いる試みもして、伴さんに結果を報告したい。
樹木の手入れでは、クルミの1本を(年末にでも)切り捨てる予定で、まず主要の枝を1本切り取りシブガキへの日が当たり易くした。
薪作りに励んだ。エンジンソーの修繕がかない、わが家の宝の1つ、ワークルームに目研ぎの装置も用意できた。それらを駆使した。
初めて体験する苔の病気に見まわれた。木酢では直せない。焼き殺すか、農薬を用いざるをえないのか、悩んでいる。
ありがたい頂き物にも恵まれた。それは、まず私の加齢性疾患を知って、かつて宙八さんが開発し、商品化した玄米コーヒーを勧められた。残っていた1箱を頂いたが、製造する機材は健在とか。次いで「もしも」と言って送ってくださる人があった錠剤や、開発中の栄養補強剤にも恵まれた。これらに共通している点は、免疫力を高めそう、と思われること。このうえなく有難く思っている。