「このような日が」、あるいは「このような週があるんだなぁ」と思いました。1日と最初の7日間のことです。アポイントが1日に3件と、5日と6日に各1件の計5件が入った週でしたが、この3日間にヒョッコリ来訪などが重なって計11件に。他の4日間はゼロのまま終わってしまい、「どうして」と、不思議に思いました。
1日は朝8時に乙佳さん、10時に家具職人の森さん、昼前に奥さん同道の裕一郎さんを迎える予定でしたが、思わぬ来訪や出会いが加わりました。おかげで、コロナ騒動を機にある決断を下す案が持ち上がったのです。5日は知範さんを、6日は健康食品店主を迎える日でしたが、5日は祇王寺のご住職他に、6日は前日の電話で(2児目に恵まれた)朋香さん一家と、その後、久しぶりに息子を連れて乙佳さんに訪ねてもらえたのです。
そしてこの1週間は、雨は4日に降っただけで好天が続き、庭仕事がはかどりました。5種(ナスビ、トウガラシ、トマト、キュウリ、そしてツルムラサキ)の畝に支柱が立ち、多くの冬野菜の跡を仕立て直して7種の夏野菜(オクラ、ネギ、ゴーヤ、ヤーコン、モロヘイヤ、バジル、そしてインゲンマメ)を苗や種から育て始めたのです。
トピックスは、わが家流の2つの宝物でドラマが生じたこと。「父の片身のごときタケ」がタケノコに囲炉裏場の舗装を突き破らせたこと。そして「アイトワの商標」が、裕一郎さんの正義感とコロナ騒動のおかげで、1つの難問が解消したことです。
次の週は、ドラマチックな日が3度もありました。まず8日。妻の奇妙な言動で明け、わが家流のもう2つの宝物(ある部品類や3種の家具)と、2人の職人に感謝感激です。10日は愛妻を失った知人を午後に迎えた日ですが、午前中に多様な「ヨカッタ」に4度も恵まれたのです。そして14日月曜日は、伴夫妻に(清太君を農業高校に送り届けた帰途?)立ち寄ってもらえたようで、嬉しい話を聴くことができたのです。
この間の農作業は、13日の小雨で明け、夜半にまとまった雨に恵まれたおかげでとてもはかどっています。まず妻が、「雨の日の作業に」と、干し上げたドクダミを居間に運び込みましたが、これがよき刺激になったのです。2畝目のネギの畝、訳あって3畝目のコイモの畝、そして第2次のインゲンマメの畝がこの1週間で出来あがり、畑はスッカリ夏姿に。ジャガイモを掘り出し、トマトやナスビの収穫が始まり、カボチャが棚の上まで蔓を伸ばし、ツクネイモの芽が次々と出るなど、元気ハツラツの畑になっています。
かくして雨の15日を迎え、毎夜モリアオガエルが縁先で鳴き始め、やがてミニ事件に至るなど、多彩な下旬が始まりました。当月の外出は4度(22日、4つのトピックスに恵まれた郊外小旅行。24日、知範さんと2カ所のHC訪問。28日、仁和寺であったある奉納式に参列。そして月末、甲状腺関係で通院)でしたが、すべて最後の9日間に集中です。
下旬の来訪者(!?!)は、2人、2度、あるいは2匹と、2にまつわることに6度も(コロナ騒動下の大学生に思いを馳せた2度の来客。クワガタムシのメスとの2度の出会い。ニンジンとフヨウが招いた2種の常連虫。2匹のタマムシとの2度の出会い。近著で“縁の下の力持ち”を担ってもらったお二人の初顔合わせ、に)恵まれたことです。
他に、芭蕉に想いを馳せたこと。久しぶりの水島さん。3軒で育てることになったカボチャ。新フキ畑つくり。泉の大掃除と第2次防人の布陣。クヌギのヒコバエの点検と選択、そして、“京”のこの日の菓子「水無月」に2度も恵まれたことです。
~経過詳細~
夏来にけらし
アジサイの一種(わが国の固有種)ヒチダンカの満開期から始まった5月。この庭で自生のクチナシの花が、芳香を一帯にたなびかせる時期を経て、やがてナツツバキの落花が、樹上での満開の様子を想像させる中旬になった。
この(沙羅双樹と教えられて植えた)ナツツバキは、落花を期待して育ててきたとはいえ、側の巨木になるハクモクレンと背丈を競い、見あげてもその白い花を、それらの葉が邪魔をして見せなくなった。しかも、この落花期がハクモクレンの子房(の未媒介分)が落ち始める時期と重なり、白い花が青い苔の上に点々と散らばる理想の光景など望めない。
「残念だなぁ」と思っていたら、ある早朝のこと。妻が(白い花が苔庭に点々と浮かぶ光景を望んだ張本人だが)「半時間ほど苔庭の掃除」に当たる、と言い残して庭に出た。その間、私は畑に出て、ジャガイモを掘り出すことにした。
この時期は、まず畑に着くと(気配を感じるとすぐに飛んで逃げる)ウリハムシを退治する。昨年までは捕虫ネットを用いていたが、今年は霧吹きを持って出て、飛ぶ前に見つけて霧を吹きかけ、飛ばなくしてからつまみ、つぶしている。その退治中に、側の畝で赤くなった初成りトマトを見た。
「インカの目覚め」というジャガイモを一輪車に積んで戻ったが、温度計道(と名付けた細い舗装道の登り阪)の中ほどで一休みした。息が短くなったせいもあるが、妻が掃除を済ませ(て、調理場に戻っ)た後の、掃除を終えた苔庭に、点々と白い落花が浮かびあがる光景をしばし眺めたかったからだ。
夏野菜がシーズンに入った。わが家の五大夏野菜が根をしっかりと張り、あらかたの畝に支柱が立ち、トマト、ナスビ、トウガラシ、キュウリ、そしてインゲンマメの順に今年は花をつけた。
この時期はニンジンを「この花のために育ててきた」と言ってもよい季節である。冬野菜として育てたニンジンが(薹を立て、私の背丈より高く育ち、緑色の蕾を日ごとに大きく膨らませながら白く変色して)花を咲き誇り合う。
今年も、このジャガイモには青い実が着いた。ジャガイモはトマトと共にナス科の野菜だが、このたび初めて、その実にはかなりの差異があることを知った。
ジャガイモは小さな芋(直径5mmほど)まで拾いあげておいたが、それがヨカッタ。「期待通り!」に、小さな芋が(乾いてしぼむ前に)好みの料理になった。
大きい芋は、最後のスナップエンドウと、先月末に収穫したタマネギなどと一緒に、「ほれ!」と妻は自慢げに水煮にして見せた。その半分は味付けされて一品に、残りは異なる味をつけて、丼になった。
11日、ハマナスが一輪、咲いた。30年程前に、オホーツクの海岸から苗を持ち帰って育ててきた。友人が紋別に住んでいた頃の思い出だ。その奥方は、この花びらでジャムを煮て、送ってくれたこともある。今は病気治療のために引っ越して、札幌にいる。
畑では、ホウレンソウ、ツルムラサキ、オクラにハナオクラ、モロヘイヤ、そしてネギやニラ(いずれも虫害に悩まされにくい野菜)に加え、芋類(コイモ、アンデスポテト、そしてツクネイモ)が順調に育ち始めた。とりわけ今年は、コイモは第3次分まで植え付けた。それは妻が、使い忘れた分を種イモに「(活か)してください」と、いいだしたからだ。第1次分はすでに、腐葉土を被せ、その上に生葉の野草でマルチング済みだ。
かくして中旬を迎えた。カボチャと旧来のニラのコーナーでは、ニラは収穫期に入り、カボチャは棚仕立てにする引導が始まる。
その近辺で育つニンニクは花を咲かせ、ノビルはムカゴ(珠芽)をつけ、中国ホウセンカが順調に育っている。ノビルのムカゴの中には、胎生かのごとくに芽を吹かせるのも現れるので、バラバラにして増殖させたいところにばらまく。
キュウリの初収穫は強い雨が降った翌16日に、2本収穫。各半分こして2人で丸かじり。それぞれ味が異なる。次の収穫分はキュウリもみに。ナスビの初収穫は「天ぷらに」と、妻は庭を馳走、エビと頂き物の納豆を加えた。
真竹のタケノコの収穫も始まった。昨年は不作の上に、ことごとくサルに襲われ、賞味できなかった。今年は数が多そうだし、期待できそうだ。サルより先に、と妻は力む。この竹は、今は亡き父の片身といってよい。まだ私が野良仕事を本格化する前に、細い1本の苗を買い求めて来て、育てるように命じた。それが、農的循環型生活を成り立たせる上で不可欠の作物、と後年思い知らされ、宝の1つになる。
フキも収穫期に入り、幸運にも今年はかつてない太くて大きなフキが採れ始めた。これは2年前からモミジの落ち葉でマルチングをし始めた所での現象だが、またとない私への贈物になった。タケノコとワカメの炊き合わせが大好物の私だが、甲状腺の不具合は、海藻類の摂取を控えるべし、との助言に結び付けた。そこで、妻はフキと炊き合わせた。ワカメに引けをとらない。
この時期は、タケノコの佃煮やフキと昆布の佃煮を、サンショウを効かせて煮てもらう。折よく今年は、手土産に若アユの甘露煮とキャラブキを煮て持ってきて下さる方があり、炊き立てのご飯でニンマリ、も味わえた。
朝にスイレンが水鉢で咲き始め、昼に赤いザクロの花が夏を実感させ、夜はマチヨイグサの花が夜陰に浮かんだ。昨年芽生えた1本だが、花をもたげ始めたわけだ。
翌朝、その奥のベンチの手前で、幾本ものマチヨイグサが新しい芽を吹かせていたことを知った。キット来年の今ごろは、この網田さんにもらったベンチに腰掛けて「マチヨイグサの林」を愛でられそうだ。
例年より21日も早く始まった梅雨だが、中休みを経て月末に、やっと梅雨らしい雨を恵んでくれた。この間に、早々と夏日が続く日が襲っており、炎天に悩まされてきた。だから畑では自然生えのクロホウズキが次々と芽生えた。妻は次々とそれを掘り出して、円形花壇に移植している。ムクゲやトラノオも咲き始めた。
週3度のドラマチック
8日火曜日の未明、ガバッと妻が起き出す気配で目覚めた。寝室では既に、北と南にある窓を網戸にして、風を通して休んでいる。妻は静かに起き出し、ガラス戸をスーッと閉じた。「どうしたの」と問うと、「小鳥がうるさいの」といって、寝直した。
奇妙だ。かつて妻が、小鳥の鳴き声を「うるさい」と訴えた覚えがない。私は、ヒヨが争う声や、子どもを引きつれたコジュケイが唐突に発する危険信号の鳴き声に、時には「うるさい」と感じたことがあった。だが妻は、結婚来「うるさい」と口にしたことなど思い出せない。「おかしい」と思いながらまどろんだが、「そういえば」と先月のある思い出がよみがえらせてしまい、寝入ることはできなかった。
夜は5時まえに白み、やがて朝日が射し始めた。ソーッと起きて、カメラを取り出して来て北の窓から、見慣れた光景なのに写真に収めた。そこはまだ明けやらぬ庭の北西の角で、わが家では一番の高台であり、ミツバチの巣箱がある。
「これで分かった」という気分にされた。この時期は「ここが(わが家の庭では)最初に朝日が差し込むスポットらしい」。複数の小鳥が鳴き声を競っていた。
カメラをダイニングキッチンの引き出しに戻し、「あれは?」と、中庭を眺めながら、未明の一連の想いを振り返った。なぜ妻が小鳥のさえずりを「うるさい」と感じたのか。やがて夜は明けて、小鳥が一層賑やかになった。妻は気にせずに、眠っている。
まずミツバチは「朝日が好みのようだ」と気づかされた。ミツバチの巣箱は、この一帯に2つ据えてある。これまでは、10mほど南に据えつけた巣箱にニホンミツバチが棲みついた試しがない。そこは昼頃からの南から射す光しか届かない。
ここでやおら洗面。次いでこのところのお決まりの墨の微粉末をドクダミ茶で飲んだ。そしておもむろに、未明に寝床で思い出していた先月の出来事を振り返った。お向かいに越してきたマクミランさんと、夏虫の合唱を話題にしたときのことだ。午後のお茶を遅がけに、梶山さんを交えた3人で、わが家のカフェでとった日のことだった。
ピーター・マクミランさんが「ご近所」になった当初は、小倉百人一首を世界に紹介した人との理解に留まっていた。その後、芭蕉の句に触れたピーターさんのコラムに触れ、「ならば是非とも」とそれ以来、心密かに願って来たことがあった。
それは60有余年来の夢と言ってよい。二十歳になったばかりの真夏、私は山形県の面白山で不思議な体験をしている。耳をつんざかんばかりのセミの鳴き声が、ふと気が付いたら消えていた、という思い出だ。その瞬間にあの芭蕉の句を思い出している。
幾日か後に、そのボランティア工夫を経験した地を離れることになり、隣の駅は「山寺」(面白山駅はスキーシーズンだけの臨時駅)であったことを知った。そこは立石寺という寺の門前駅であり、大きな石碑があった。
「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と彫り込まれていた。
「そうか、芭蕉と同じところで、同じ心境に」私はされていたことを実感した。学生になって最初の旅だったが、忘れ得ぬ思い出になった。
だから「是非ともピーターさんに」と、私が想う芭蕉の偉大さを開陳し、共感の一時にしたくなっていた。だが、意外な展開となった。だから余計に、話題に持ち出したことを有意義に思った。ピーターさんには、ある出版社の依頼で「芭蕉をテーマにした一著」の予定があり、この句を取り上げるか否かは思案中、と知ったからだ。
「知っています。有名な句です。しかし矛盾を含んでおり、どうしようかナと悩んでいます。でも、とり上げないといけないでしょうね」と言ったような反応だった。私にはすぐに「ピン!」と来るものがあった。
西洋人の耳には、日本の夏虫の鳴き声が雑音に聞こえる、とものの本で読んだ覚えがあった。日本人が右脳で受け止めているとすれば、西欧人は左脳で反応している、といったような実験結果の解説が伴っていた。
願わくはピーターさんにも、この句は時空を超えた「生きもの共有の根源的なチカラ」を詠んだ句、としての視点で考察を深めてほしい、と願い、あらかじめ用意していたコピーを持ち出した。二昔前の、私のエッセイだった。
ある時、井上ひさしに「参りました」と二重に脱帽し、虜にされたことがある。まずその「時間」の定義(!?!)に心惹かれた。「時間」は宇宙の大王だと記す。そして、芭蕉は時間に50年で殺されたが、「時間」に打ち勝った人だ、と説いていた。
その一例に「閑さや岩にしみ入る蝉の声」を採り上げ、「周囲が騒々しいほど静けさがいや増すという一瞬」があり、この心証を17文字にまとめ、書き留めることで、芭蕉は命を末永く留めるであろう、といったようなことを綴っていた。
もちろん私の体験とは微妙に異なる。私の場合は、ある一瞬を持って(であろうが)、機械的とも言えそうな騒音が(気にならなくなり)消えてなくなった感じだった
この2日後。日に幾度も「ヨカッタ」と思わせられることが重なった10日も忘れ難い。未明にハッピーが激しく吠えて、起こされた。だが「昨夜は早く(10時)から寝ておいてヨカッタ」と、まず思った。その後、小鳥がさえずり始めまで床でまどろんで待ち、4時半に起床。やる気満々になっていた。
朝食後、スカッとした気分で1時間余、畑に出た。最後のスナップエンドウを収穫し、その支柱を解体。「この畝を2畝目のネギに」と考えながらジャガイモを掘り出したが、畝にジャガイモの青い「実」が1つ落ちていたのを知って「ヨカッタ」と思った。同じぐらいの大きさの赤い初トマトが1つとれた。それらを1輪車に積んで引き揚げながら、もうすぐ庭仕事は「朝飯前の一仕事」の季節になる、と考えている。
トマトとジャガイモは同じナス科だが、その実は構造上で大きく異なる点がある、と一見してわかる。だから同じナス科のサツマイモを連想し、サツマイモやジャガイモの原産地を訪れたい、との若造のような夢が湧き、「ヨカッタ」と思った。
幼い頃、全面畑だったこの土地の3分の1ほどを(主食として)サツマイモを栽培していたが、畑の中程で1度、アサガオのような花をつけたが実を結ばなかった。なんとかサツマイモの実を、この目で見とどけたいものだ。
この日は、愛妻を失った友人を迎える日であったが、三世代で訪ねていただけた。父娘の3人には、揃ってケーキセットを選んでもらえたので「ヨカッタ」と思った。今は亡き夫人も、いつもこのケーキセットをご所望だったし、開店来35年余一切レシピを変えていない。この一家には、ハッピー2世以降のわが家の5頭を紹介しているので、この日はハッピー4世を紹介させていただいた。初孫の人見知りは、帰り際になってヤット収まったし、ハッピー4世のオカゲもあって、友人にも笑顔を取り戻してもらえた。
そして夕刻に、もう1度「ヨカッタ」があった。妻と一緒に庭仕事に出たが、久方ぶりにそろって畑仕事を選び、しかも、1つの畝の仕立て直しに一緒に当たった。妻が除草を済ませたしりから私が耕す作業だが、テンポがあった。これまでは備中鍬を振りまわし、急き立てたものから怖れられたが、加齢のお陰もあって嫌われずに済んだ。チョット前に思い知らされたおしどり夫婦であったが故の友人のつらさをシミジミと思い出した。
この夜のこと。朝方に収穫したジャガイモと一緒に麻紐(エンドウの支柱を解体した時に回収した)を持ち帰ったが、その紐の整理に私は手を付けた。その姿を妻が見とがめ、「私がそういうことをしていたら、孝之さんは止めさせるでしょう」と言った。一瞬とまどったが、再使用しやすいように巻き直した。
いわれてみれば、その紐の量は、3巻き100円の品の6分の1ほどで、金額にすれば15円分ほどに過ぎない。だから私も投げ出そうとしたが、「キット」と思い直し、いつもの己の勘を信じてやり遂げたわけだ。
かつては、経済と環境に配慮して、使用済みプラスチック紐を(紐類の廃物容器から取り出して生かし、幾度も)使いまわしていた。だが、加齢対策の一環として麻紐を(買い求めて使用し、エンドウのツルなどと一緒にシーズン末には堆肥の山に積み)土に還す方式に変更していた。ところが、今年はなぜか無意識のうちに回収していたわけだ。
それは習い性のセイではないか、と思ったが、「キット」と思い直した。このところ、無意識に下した(と思われる)判断が、後になって「よろしき勘に誘われていたわけだ」と得心することが多々生じるようになっていたからだ。
これで「ヨカッタ」わけだと確信したのは3日後だった。畑では雨のお陰でキュウリはツルを、ナスとトマトは背丈を急に伸ばし、急いで紐で吊るしたり支柱に結わえたりする必要があった。だから回収したアサヒモを誠に重宝し、思い出し笑いさえ誘った。
新品を用いて吊るした時の失策を思い出したからだ。手が滑り幾度か麻紐の玉を落し、それを拾ったりハサミを持ち直して切ったりしたわけだが、その都度難儀した。わが身が思ったように動かず、狭い畝間でよろめいており、我ながら滑稽だった。
3わが家の宝物
誰しもが(他の人には見向きもされそうもないものも含めて)一人悦に入って、宝物のように大事にしているシロモノを持っているはずだ。ご多分にもれず、わが家にもそれらが沢山あるし、私だけの宝物もあり、そうした宝物に囲まれた暮しを夢見て来た一面さえある。そのおかげだろうか、お金さえ出せば誰にでも手に入るシロモノへの興味が次第に薄れ、そのうちになくなってしまうのではないか、とさえ思っている。
当月は、月初めにそれら宝物の5つと関わった。その1つは、わが家流の生き方にとって不可欠な「ボルトとナット」類。他に、この生き方の心臓部のような2つの部屋「野小屋」と「風除室」。この生き方を彩るチョットした贅沢の「白木の家具」。そしてこの生き方のスピリットの象徴であるシンボルマークの要部「アイトワ」という商標であった。
1日火曜日。8時に「木造建築(有)大北」の乙佳さんに大工の末富さんと来てもらい、「野小屋」の天窓屋根を(カラートタンやコーキング剤などで)補修し、水漏れを防いでもらった。この小屋は、庭を活かす仕事上での心臓部であり、3年分の薪の備蓄場でもあり、時には社交場にさえなる。
次いで10時に、「鷲鷹工芸」の森さんにお出まし願った。かねてから居間(ダイニングキッチン)の備え付け家具(の扉)とシステムキッチン(の引き出し)で不具合が生じていた。また、毎年一度(夏休み期間中の6/20~7/20の間に)行ってきた喫茶店の(身分不相応な)「白木の家具の点検と補修の時期が近づいていた。だから今年は、コロナ騒動(の自粛閉店期間延長)を幸いに、早めに修繕や補修に取り組んだ。
居間の2つの家具の不具合は(私の手に負えなかったが)、森さんの手にかかればドライバー1つで1時間とかからず、調整や修理が済んだ。それはひとえに森さんの腕と、わが家の宝物のお陰であった。引き出しの補修時に、ボルトのようなネジくぎがなくなっていたことが分かり、宝物の中から代替品を探り当てた。
この他に、釘やネジくぎ、樋、水道管、屋根瓦、あるいは板や針金など、補修に要するさまざまな部品などを備蓄しているミニ倉庫もある。
帰途の森さんに、不具合が生じていた3客のアルヴァ・アアルトの(真のモダニズムを学生時代に気付かされた)椅子(100年200年と時を経るごとに、よりモダーンに感じさせるに違いないと憧れ、35年前に買い求めることができた)を持ち帰ってもらった。
このワゴンに至っては、価格を聴いて諦め、「見るだけでも」と言われて見てしまい、負けた。モノをあまり欲しがらない妻までが心惹かれ、私はこれを家宝のごとくに見る私の価値観を追認されたかのような気分にされ、買い求めてしまった。
森さんを見送った直後に、予定通りに、裕一郎さんが夫婦連れで到着。まずはお茶の一時にしたが、雑談中に弁護士事務所から商標「アイトワ」に関する電話があった。
長年にわたって商標権を侵害する会社があったが、片目をつむってきた。ところが、わが家の生活に祐一郎さんが合流し、この生活を紹介するインスタグラムを立ち上げ、「#アイトワ」などで検索できるようにした。そして、こんな行為を「放っておいていいのですか」となった。その後、それは幼稚や無知などではなく、悪意(フリーライド)を見出すに至り、拳を振り上げた。
ところが、「コロナ騒動のおかげ」と言っていいのだろうか、振り上げた拳をおろさせた。相手は「アイトワ」を主要部に活かし、「愛永遠に(アイトワに)」と謳いあげる宣伝で、結婚披露宴式場を経営してきた。だが、需要が激減し、7月末で廃業するので「不問」にしてほしい、という。
この話には続きがあった。同じ施設に異なる看板を掲げ、葬儀場経営に転用するという。ついては、7月末まで入っている予約は、他の名称に変えると「愛永遠に」と売り込んだ手前、途中で替えたのでは可愛そうなので7月末まで使わせてほしい、と言う。
苦笑させられた。このフリーライド意識の欠如にあきれた。また、中に入ってもらった弁護士の態度には心打たれ、不問にした。多額の経費をかけて守ってきた商標だが、損害賠償請求などの手続に入らなかったわけだが、争う時間をこの弁護士も無益と見た。
おかげで、この日は(冬場の北風からダイニングキッチンを守る)「風除室」のガラス磨きというミッションを、裕一郎さん夫妻と私たちの4人で気分よく済ますことができた。この部屋は、冬場や雨の日の仕事場であり、漬物樽置場、タマネギやジャガイモの干場などに活かす部屋だが、ヨシズを広げ、夏仕様にした。
4来訪者
工業社会を支えてきたハウツー型の人が、昨今ではリストラなどの辛い立場に立たされつつある。これは、もはや生身のロボットのような人の時代ではなく、逆に、これまでは瀕死の状態に追い込まれてきた手工芸的な職人が、次の日本を支える人たちになる時代に踏み出している兆候、と私は睨んでいる。そう思う私にとっては、当月は6職種8人の職人に延べ(10回)14人にわたって世話になるなど、とても愉快な一カ月になった。
その始まりは一日の乙佳さんたちと「鷲鷹工芸」の森さんであり、最後の職人は垣根の相談で訪ねてもらった水島さんだった。この間に2か所の雨漏りの補修で3人に延べ(2回)5人。次いで4種の家具の補修や塗装で2人に延べ(3回)5人。そして喫茶店の音響機器の突発的不具合で1人に2回。さらに東面のカシの生け垣を割り竹の垣根にする相談で1人に1度、そして最後は、調理人であり粋人の帰化人だった。
まず1日の野小屋の補修の後。お茶の準備を1人分増やして待つと、鷲鷹工芸の森さんが約束時刻通りに到着。嬉しい顔合わせに、と思っていたことだが、ご両者はいかにも親し気に挨拶を交わした。
かつて一度、「職人の集い」を催し、個別に世話になっていた複数の職人に声をかけ、顔合わせの機会を設けたことがあった。それを期に、乙佳さんと森さんは仕事関係になっていた。
次いで電気職人の中尾さんに助けられた。突如、喫茶店の音響設備に不具合が生じ、「明日から当分手が空かない」と言って、その夜のうちに応急処置。
6日は、健康食品店の主宰者を迎えたが、午後に、前日のアポイントで朋香さん一家がやってきて、3つの嬉しい知らせを届けて、帰っていった。まず夫が、生計を庭師で成り立たせることになったこと。次いで、家族で養鶏も始めたといって、色とりどりの卵などを。そして、残る1つは、2児目に恵まれたので「しばらくは訪ねられない」との報告だった。
この一家を送り出し、座がまだ冷えぬ間に、乙佳さんが当日の電話で在宅を確かめ、息子と、5回に分けてお茶の時間の友になったパンを伴って来訪。息子の大ちゃんは私より上手に写真が撮れるようになっていた。
この2日前にも乙佳さんは(かねてから頼まれていた)モミジの苗木を受け取りに来ていたし、この間の5日の午後に、偶然とは思えないハプニングが生じていた。
この苗木は、この庭の最古木(樹齢64年)であり由緒ある木の、何代もの末裔であった。実は、1958年の夏(学生時代最初の長旅で、訪れる恩人への手土産にと)祇王寺の庭で、3本の苗木を庵主さんに掘らせてもらった。そのうちの1本がこの庭で育っており、アイトワのシンボル的存在になっている。
当時の庵主は智照尼さん(は東京新橋の元名物芸妓「照葉」であり、悲恋を凛たるケジメで締めくくったことでも有名)で、母と付き合いがあり、私も顔なじみだった。
アイトワの庭にあるモミジは、あらかたがこの末裔だ、と乙佳さんに話すと、彼女はその元木を写真に収め、「この苗木を」これらのストーリーを添えて活かす、と言い残して去った。その翌日のことだった。門扉のそばで庭仕事に当たっていると、声をかけて下さる人があった。「なんと今は、祇王寺の住職」だとおっしゃる。20年ほど前に(エッセイを連載させていただいていた華道の機関誌)『嵯峨』でお世話になった大覚寺の僧侶だった。旧交を温め、智照尼モミジ(と呼んでいる)と一緒に写真に納まっていただいた。
森さんには、これまでとチョット異なる補修を頼んであった。その2種9客の椅子が8日にやっと上がってきた。そこで1つの判断を下した。アルヴァ・アアルトの家具は、これまで通りに年に一度、森さんに点検と補修をお願いする。だが、この度試みようとした塗装(新品のように仕上げようとする)は断念し、疵つき防止程度の塗装にとどめる。
そして6客の(発展途上国で機械的に生産された)椅子は、ギシギシという音(見かけを優先した設計上のミスが原因)だけ止める補強をして、使い捨てることにした。
アルヴァ・アアルトの家具は、手工芸ゆえにバラツキがある。だから、幾度も補修を要したものもあれば、まだ1度も補修を要していないモノもある。このバラツキや補修の跡をどう見るか。時代は人々の価値観や美意識を変えるが、今後の方向はどっちを向いているのか。私の見定める方向に狂いはないはず、と信じている。
その後、友人父娘一家を迎えたが、その4日後に伴夫妻が「清太(週末は帰宅している)を(寄宿生活の学校に)送り届けてきた」といって立ち寄り、嬉しいニュースと1株のタロイモを届けてもらえた。清太君は「1週間が早い、早い」と言い出したようだ。生物の成績が6番になるなど、張り切り出した、ともいう。「これまでは、尻から6番はあっても、上から数えたことはない」と父、明さんも嬉しそう。私は(前回もらった)「ツクネイモが順調に発芽した」と報告した。
このまた4日後に、荒木真由美先生を知範さんがご案内。先生の受け持つ講座に(ゲストスピーカーとして)迎えてもらったようだ。先生は近く引退されそうだから、学生の評価がよければ「知範君に」と、考えておられるのかもしれない。
お二人から気が安らぐ話を伺った。先生の講座はコロナ騒動下に関わらず、対面講座を続けておられるし、学校も必要に応じて許す方向、という。「ホッとした」。もし私が短大にいた時にコロナ騒動が生じておれば、物議をかもしていたはず、と心配だった。
学生に(もちろん学生が望めば、だが)覚悟をさせた上で対面講座を優先していたに違いないからだ。なにせ教員に「専門を通して人間を教えてほしい」と要望していた手前、おのずと対面の必要性が多々生じていたに違いない。
この2日後だった。顔なじみの佛教大生の1人が、サイクリングの途上だといって立ち寄った。3回生の彼は、週に17の講義を受けているが、その1つが対面だという。
荒木先生は、対人関係のあり方について、卓越したキャリアの持ち主だ。これから世の中に出てゆく若者にとって、とても必要になる要素であろう。知範さんなら、その期待に応えられるに違いない。
この翌々日に「田植えで忙しかった」との平野さんを久しぶりに迎えた。そして22日に、4つのトピックスが彩った郊外小旅行に出かける機会に恵まれた。帰途は日蓮宗法伝寺の山中是道住職に送ってもらいがてら、迎え入れ、庭を案内し、アイトワのあり様を見てもらった。その感想が、「腐る(腐食)が根本」であった。循環(未来)の根本が「腐食」だと小1時間ほどの滞在で見抜く人は少なく、とても話が弾んだ。
この小旅行でのトピックスの1つは、調理人であり粋な帰化人との触れ合いだったが、これは「4度の外出」のコーナーにまわす。
翌23日、コロナ騒動を機に、と思案し始めた判断案件で、顔なじみの先生を迎えており、基本方針を定めた。そして次の日に知範さんを迎え、加齢対策の一環としてフキ畑の再生に取り組んでいる。
かつてフキとミョウガを混栽したような(この2種の山菜がはびこる)一角があった。そこが「緑の天蓋」(囲炉裏場を木陰するように育てたクヌギ)に日陰にされ、また灌木のヒメガキが(横に広く根を張り、その先々で新芽を吹かせて)はびこり、この2種の山菜を絶やした。そこで、加齢対策の一環としてフキ畑に戻すことにした。
こえまでは、緑の天蓋の手入れ(毎年晩夏の大剪定)を催事記かのごとく取り組んできたし、妻も「タカユキさんの巣ごもりが始まった」と喜んでいた。
だが、加齢はこれを負担に感じ始めたし、妻も「老いの木登り」と態度を変えた。また、この2本を切り取っても(天蓋を形成する他のクヌギが広く枝を伸ばしており、囲炉裏場の木陰には)支障がなくなったので切り取り、シイタケのホダギにした。
この度、その一角の草を刈り取って、知範さんの来訪を待ち、2人でヒメガキの根を掘り起こして地をならし。知範さんを見送った後、歩道に進出したフキを掘り起こし、移植。その過程で、慌てて飛び出したミミズの引っ越しも手伝った。
当月最後の来訪者は月末の「水無月」持参の久保田さんと、30年来手作りの「水無月」を届けてくだる妻の友人だった。「水無月」は京都らしい菓子で、年に一度、この日にだけの1つだが、今年は2度味わえた。
4度の外出
6月の外出は、22日の京都郊外、花脊への小旅行に始まり、最後の9日間に集中した。30年ほど昔、顧問をさせてもらった東邦レオ社の中興の祖、橘さん(レオ財団理事長)に誘われたものだが、橘さんらしく、爽快で有意義な1日を過ごさせてもらった。
まず、廃寺寸前と言ってもよさそうな福田寺に支援の手を差し伸べたので「同道を」との誘いだった。そして当日、幾名かの「同行者を募った」と言って、2台の車に分乗しての小旅行になり、3つの付録を用意してもらえていた。
まずチョット寄り道。鞍馬寺(牛若丸でも有名な)拝観。次いでチョット忘れ難い昼食。そして帰途は、日蓮宗法伝寺住職山中是道さんに、アイトワの見学を兼ねて、送り届けてもらえ、「循環(未来)の根本は腐食」で共感した。
花脊の一帯は、京都の辺境の地だが、平安時代からの由緒ある地域だ。だから私は、一帯にある久多や大見を幾度も訪れてきたが、花脊は、これまでは帰途の経由地で終わっていた。花脊はその昔、林業でとても栄えた地であり、いつの日かその名残に触れたかった。
鞍馬も(かつては京都で唯一の温泉があった地だったので)、学生時代の仲間などと同窓会やシシ鍋の集いで一夜を過ごしたり、友人と幾度か温泉目当ての日帰りに興じたりした。だが、真横にある鞍馬寺には立ち寄っていない。だから「本殿金堂まで、ついに登らず仕舞いの人生になりそうだ」と呟くと、橘さんに「いっしょですわ、僕も通天閣にまだ上ってません」と慰めてもらった。狛犬はトラだった。観光地なのに、閑散としており、土産物店はほぼ閉まっており、見かけた地の人はマスクをしていなかった。
福田寺は、橘さんの支援で手入れが始まっており、由緒正しき寺の面影を取り戻しつつあった。日蓮宗の読経に初めて正式に触れた。
昼食は、古民家レストランでとった。そこは、オーストラリアの有名ホテルでシェフだった人が、日本人の妻に帰日の要が生じたのを機に来日。終の棲家を2人で探し回り、林業華やかなりし頃の金満家の屋敷を探し当てた。今は日に1組の食事や宿泊に応じる [ケルガード サイモン & 慶子] 。
テーブルには菜園野菜のサラダ、ナン、あるいはディップが用意された。食卓で斜め向かい合わせになった吉田南美さんは、19歳短大生時代にカンボジアの実情に触れ、20歳でNPOを立ちあげ、支援に乗り出し、電気や水道もない地で10年にわたる活動をしてきたという。他にも心惹かれる若い人が集っていた。
2日後、知範さんに郊外の大型HCに連れて行ってもらった。エンジンソーの修繕が主目的だったが、2番目の願いはかなえられず、時代と疑問を感じさせる模様替えを観た。前者は、小型エンジントリマーがなかったこと。後者は、元レストランだったところが各種ペット売り場に新装なっていたこと。コロナ騒動後も維持できるのか、と扱われている生きものが心配になった。
28日は友禅画家「あだち幸さんが“不動明王”を仁和寺に奉納」する式典があった。商社時代の後輩に誘われたものだが、友禅技法で仏画を描けば右に出るものがない夫人の奉納式だった。御室御所とも呼ばれる門跡寺院の宸殿で行われた。五大明王大祭の日であったし、京都では最も高地に建つ五重塔と背丈が低い八重桜でも知られる。
月末は病院での甲状腺の検査。
6その他のトピックス
父の片身のごとき竹の子に(2本が力を合わせて防草土舗装を破られ)肝を冷やされた。サルと野鳥に、初成りのビワをことごとく傷を着けられたり食べられたり。悔しいので、良いところ取りをして味見をしたら「なんと美味しいこと」。次年度こそ、と期すモノがあった。キュウリやトマトが襲われ、その手口からサルと断定。
スモモが(異花受粉のため、相棒の木を失ってから不毛の年月が流れ、代わりの木を苗からそばで育て)久方ぶりに多くの実を結んだ。だが、サルや小鳥に襲われ、わずかしか残らず、味わえなかった。「せめて1つでも」と、袋をかけておいた分を妻と半分こしたが、なんとも美味。「何とかしなくては」と話し合った。
伴さんのおかげで、初めてツクネイモを育て始めたが、小型のブンブンの好物であることを知った。その技を確かめたが、さほどの業ではない。
久しぶりのカメムシや初見のカメムシに多々出くわした。その1種は偏食者で、セリ科の植物のみ(ニンジン、フェンネル、ミツバなど)がお好みのシャレ者。偏食と言えば、フヨウの葉でしか見かけたことがないこの青虫も。その後ニンジンの花で見かけたこのお二人さんは、偏食か否かは要観察。
クワガタムシのメスを2度見かけた。後の方は元気がなく、かなり飢えていたので、アリに襲われない環境でまず元気にした。その上で野に帰した。タマムシを久しぶりに「見つけた」と喜んだが、死体を4つも見かけた。植木鉢の下を「巣に見立てたアリ」には気の毒なことをした。
玄関先でカエルが毎夜、にぎやかに鳴きはじめた。確かめに出ると、メスのモリアオガエルが、オスを呼び集めていた。ここ、玄関先からチョット南へ行った先(母屋の玄関近くにあるナツメの木)に、産院(産卵場所)を用意してあるので、鳴き止んだ翌朝に確かめに行ったが「白い泡巣」を見つけられなかった。
その後、3日ほどした雨の日に、傘を取ろうとしてビックリした。傘に産み付けていた。死角だった。しかも、下にある水鉢から少し外れていた。そこで急ぎ、カサごと所定の産院に移動させた。
泉の掃除は半日仕事になった。落ち葉(主にクヌギの葉)を網で掬いあげ、水をかい出し、水が張るのを待って水草とキンギョを入れ、カワセミカバーを被せる。掬いあげた落ち葉は、今年はコイモの畝にまいた。
今年もネギを沢山育てることにした。先ず前年度のネギのヒコバエを収穫し、干して、太い分は葉を切り取り、細いのはそのまま植え付ける。
切りとった葉は、うどんなどの薬味に抜群。畝に植えた細い方は、水を吸って葉を伸ばすと、一株おきに切り取って食材にしてゆく。後日、ツタンカーメンのエンドウの畝を仕立て直し、苗(種から育てた)を買い求めて、2畝目のネギの畝にした。
この時期の大仕事の1つは、冬野菜などの畝を夏野菜などの畝へと切り替える作業だが、とりわけ1本の畝に幾種もの作物を育ててきた畝は大仕事。4度に分けて耕した畝もある。まず手前の4分の1にニラの種をまいた。その芽だけでなく、自然生えの野菜や野草の芽が伸び始めた頃に、奥(南側)の半分を耕し、義妹にもらったチマサンチェの苗と、ヤーコンの無性芽6株を植えつけた。
最後に残った中程の部分は、第3次のキュウリ用に、と仕立て直した。この一連の作業でおかした失敗がある。それは、最初にタネをまいたニラ(背丈が低い作物)の位置。その南側(最後に仕立て直したところ)でキュウリが育てることになるが、背が高くなるキュウリにニラは日陰にされる。
この一帯の畝の仕立て直しで、たくさんの石(毎年、大きな石から順に取り除いてきたので、いずれなくなるはず)が出て来たし、ドクダミやスギナの根を掘り出したが、これは絶やせないだろう。
アイトワ菜(この庭で自然交配した十字架植物)やノラボウナ(自然交配しにくい)などの種採り(整理)は、翌月回しになった。
このたびは、大きな(スグキナほどの)根がついたアイトワ菜を残し、種を取ることにした。その種で育てたアイトワ菜に、こうした根(カブラのような根)が着く野菜が生まれたら、食材になるか否かを確かめる。なると分かれば、以降は優先する。
下旬には、棚育てのカボチャが実を結び始めたが、もう一種のカボチャの苗をポットで育て、遅ればせになるが育てることにした。
実は、幾種かのカボチャに冬を越させたが、その1種がワークルーム(北西の2面がガラス戸)で、この度の厳しい冬を2つ共に無事に越した。そうと知って、急ぎ種を取り、苗を育て、知範さんと義妹にわけ、3軒で育てることにした。
時無しダイコンの第3次間引き分は煮物になった。その1週間後、初収穫の1本はおろしそばに用いたが、辛みダイコンの代用をした。
妻は熟れたウメの実を拾い、ハチミツ漬けにしてシロップをつくり、漬けた後の梅はジャムにした。
第1次ドクダミの干しあがった分は、雨の日に私が刻んだ。第2次分が風除室で次々と干し上げられつつある。
父の日の贈物をはじめ、手作りや心のこもった贈り物に恵まれた。吉田南美さんに「カンボジア奮闘記」を送ってもらえたが、同国では「青い悪魔」と呼ばれる水草でつくったカゴなどを添えて下さった。義妹が届けてくれたメダカも、水鉢に防人配置してゆく上で助かった。
ブラックベリーが苗を植えて3年目に入り、はびこるようになり、月末にはその逞しさ、実を結んだり花を咲かせたりと本領を発揮し始めた。
雨が嫌いなハッピーは、ごろ寝が多くなった。成犬になるまで、ペットショップの狭い空間で育てられており、雨を知らなかった。雨の日は散歩さえ嫌がる。くるくると左回りしかできないクセ、あるいは、餌をともかく早く胃に収めてしまおうとするクセは治りそうにない。