イチジクの収穫から9月は始まり、自然の不思議や冬への準備などで明け暮れました。
1日は、知範さんと当月記の引き継ぎの後、コロナ騒動が気付かせたエッセンシャルワーカー観などを語らったりしています。この間に2時間弱を庭仕事(2台のエンジンブロワーを持ち出し、檜林一帯の落ち葉掃除)に、1時間余は昼食に当てています。彼は粘菌を、私はキノコを次々と見つけて大騒ぎ。昼食時は、立ち寄ってもらえた久保田さんにもイチジクジャムやうらなりキュウリのピクルスなどを賞味してもらえたのもヨカッタ。
翌小雨の2日は、最後のブラックベリーを活かした朝食で始まり、穏やかな1日でした。アシナガバチの分蜂を初めて見てビックリ。忽然と枯れたサンショの木の切り取り。水鉢カエル事件。バッタ、モリアオガエル、そしてハスに食らいついたミノムシと初見のケムシなどと挨拶。畑では、第3次キュウリの畝跡から冬野菜用の畝に仕立て直し始めた。
その後、竹の入り口周辺のスダレとヨシズの手入れに着手(9/3)。NTT電話システムの改新。ツチバチの巣が動かなくした雨戸を、水島さんが修繕。自然生えのキュウリと初の秋ナスを収穫。よく考えて2回目のワクチン接種(9/6)。友人夫妻と日露交換コンサート参加(おかげで、ソ連圏の思い出や鳥インフルエンザ事件を思い出す)。そして、翌9日は昼間に、ある売込みがあり、庭の開放と喫茶店の経営に取り組んだ意気込みまで振り返ったのです。
中旬は快晴で始まり、妻は温室わきでローズマリーの手入れから手をつけ、ガマガエルと久しぶりに遭遇。私は獣害ネット沿いの除草から手を付け、ミンミンゼミの抜け殻を見つけた。その後、川上さん来訪(妻は姿勢をよくする指導を受けた)。知範さんと書籍の交換。心臓と眼の定期検診(16日)。翌日は祐一郎さんを久しぶりに迎える日でしたが、折よく久保田さんに生きた川魚持参で訪ねてもらえ、初顔合わせをしてもらえました。
この合間に、スダレ類の手入れ(取り外し、洗浄と乾燥、そして防腐塗装)と、冬野菜の準備(ホウレンソウ、ダイコン、アイトワ菜、そしてナバナなどの種まき。ネギ苗やワケギの球根の植え付けなど、)を挟み込んでいます。また、イモリの棲み処を始末し始めましたが、わけ合って大掃除をする羽目になったり、ヘビの抜け殻を見かけたり、久保田さんにもらった川魚(婚姻色のタナゴやニゴイの稚魚など)の棲み処を用意したりしています。
下旬は、ほぼ終日、PC作業に割く1日(前週に読み終えた2著も引用し、重めのエッセイに着手)から始まりました。この間に3度の気晴らし(観葉植物の手入れ。穂を出したイネ科植物の選別除草。そして、知範さん来訪)を用意していましたが、格好のインターバルに恵まれたのです。長津親方に(直前の電話連絡で)立ち寄っていただけた。
その後は、来訪者や催しに恵まれました。川上さんがステキな人を同伴で再訪。幼いころはヤンチャだった直大君の立ち寄り。乙佳さんの嬉しい報告。梶山さんが、ある取材でアイトワを使って下さった。そして元アイトワ塾生・野口さんと久しぶりの喧々諤々。あるいは、小雨の26日は堺町画廊の催しに妻と揃って参加など。
この間に、スダレとヨシズの手入れを完了。それを機に、網田さんと冨美男さんにご機嫌伺いの電話。NTTの機種更新作業の完了にともなう獣害監視カメラの調整完了。これで終生(向こう5~7年ほどは)活かせそうです。庭では、草刈りに(キイチゴ周辺分は久保田さんに見てもらった。トンネルアーチ周辺では妻の大焚き火とコラボなどで)大奮闘。祐斎さんの嬉しい誘いに乗り損ねた、など。
~詳細報告~
キノコと粘菌
9月は、ブルーベリーやハナオクラの本格的収穫に始まり、曲がりなりに4種のカボチャを収穫することで終わったようなところがある。
その間に、10日にオオモクゲンジが黄色い花を誇り、20日にピンク色の「風散布」式の種にかわっていた。
また1カ月を通して、イネ科植物とヒッツキムシの選別除草に勤めた。ネコジャラシやスズメノカタビラは随分減った。ススキは一株になり、その尾花は(種を振りまかないように)刈り取って生けた。だが、この優雅に見えた一本はなぜか抜き去れなかった。
1日は、当月記8月分の原稿引き継ぎから始まった。知範さんを迎え、この作業を終え、2台のエンジンブロワーを持ち出し、落ち葉掃除に取り掛かった。私は「方丈」の辺りからヒノキ林に向かって、知範さんはイノシシスロープ一帯を担当し、エンジン音をあたり一帯に振りまいたが、方丈の前庭で、赤いキノコに気付いた。
檜林一帯の落ち葉(自然生えしたカシやモチなどの落ち葉だが、緑樹は夏に葉を落して更新する)掃除だったが、遅ればせに手をつけた。次年度用腐葉土を仕込む準備である。
次いでヒノキ林に踏み込んで、こんどは初見のキノコ(カマンベールチーズに薄黴が吹いたようなおもむき)を次々と見つけたが、形がそれぞれ異なるので異なる種類かもしれない。
さらに、素焼きのオブジェ(陶芸家・北村信樹さん作)の辺りまで進むと、蒸しパンのごときキノコと、頭にジャガイモを頂いたようなのを1つずつ見かけており、「キノコの季節、本番到来だ」と思っている。丁度この時に、「粘菌を見つけた」といって知範さんが掌をかざして近付いてきた。
さらに掃除は、今は亡き母が70数年前に残した畝の痕が(縦にうっすらと)残る一帯に至ったが、「なんと」と思わせられた。硬軟交えた黒、白(は薄黴が吹いたカマンベールチーズタイプ)、そして茶(はジャガイモを頂いたタイプ)の3種のキノコが並んで生えていたからだ。
粘菌を知範さんが最初に見つけたのは、竹の切り株だった。その後、彼は「粘菌かも」と、おぼしき微生物を次々と探し出した。私は、倒した竹の腐食が進む切り口の内側に、2つの小さなキノコが生えていたことに気付かされた。
粘菌とキノコに沸いた2時間弱だったが、私は落ち葉で埋まった周回路の一部の掃除にも手を伸ばした。おかげで、1つの石組みを記念碑にしておいてヨカッタ、と思わせられている。知範さんを紹介してくれた桑原さんの作だった。
この日の昼食は、わが家の農作物オンパレードだった。ブルーベリーや煮たてのイチジクのジャム。バジルソース。そして、ツルムラサキの炒め物など。
オンパレードを満喫し、イチジクジャムの作り方を妻が講釈していた時に、門扉のチャイムがピンポン。久保田さんに立ち寄ってもらえた。この人は、お里から何かが届くと、ご近所にお裾分けされるようだが、その1軒にチョット遠方だがアイトワも。
この日は他に、きれいな景色の写真を見せてもらったり、趣味の1つである釣りの様子を伺って、タナゴのオスの婚姻色に夢を馳せたりした。
後日、知範さんには、粘菌コレクションを紹介する写真を届けてもらったし、私は庭で様々なキノコを見かけている。
2、冬や終生への備え
当月は、気温がガクンと一段下がって始まった。早朝に目覚め、8月分月記の仕上げ作業に当たったが、半袖シャツでは肌寒く感じた。だから「ボツボツ」と感謝しながら、誕生日にもらった絵手紙をボードからはずした。厳しい暑さを、オカゲサマで多々笑って過ごすことができたことを喜んだ。
新聞を取りに出ると、ハクモクレンが第二次の種房を落し始めていた。1つだけ受精した分が、一足早く赤く稔って、自然に落ち始めたわけで、気が急かされた。いずれは、2つ3つと受精した分がカラスに狙われ、そのついばむ衝撃で次々と落ちる。
朝食用野菜の収穫から戻った妻は、「今朝も、イチジクが」と、自慢げに見せ、2つを半分こし合って味比べ。1ずつ味が異なる。残りは都度、電子レンジで成長を止めて置き、単位になったらジャムに煮る。
朝食の準備中の妻が、振り返り、「10年後、そんなに(私のこと)元気に私は動けていないと思う」と呟いた。10歳とチョット若い妻だが、時々先のことを考えてボ・ヤ・ク。そして、10年後は「孝之さんは93、お父さんが亡くなった歳。私は82。ちょうどイイカ」と、独り言。セカセカと私はエンジンブロワーや混合ガソリンを取り出し、庭仕事の準備にとり掛かっていた。
「だから」と、背に向かってまた同じ注意を促した。「背筋を伸ばしなさい」の一言だが、言ってから「シマッタ」と思った。これが妻にとっては一番辛い忠告のようだ。躍起になると、妻はいつも猫背になって取り組んでしまい、背を伸ばすこと忘れ(背筋力を弱らせているように思われ)る。
朝食を取りながら、別のことでも「シマッタ」と思った。残暑が厳しいものとみて打った手が、ことごとく「裏目に出そうだ」と感じたからだ。「遮光ネット代わりに」と、自然生えのトウガンやカボチャに竹で棚を組んで用意して、葉を茂らせたが、日陰を作らせていたようなことになった。
そのオカゲかセイか分からないが、先月末に、1本しか採れなかったキュウリを、妻は貴重な品でるかのように喜んだし、当月は早々に1本採れた秋ナスを、「何に活かそうかしら」と、とても喜んだ。
だから早速、ナスに日陰を作らせていたゴーヤやトウガンの蔓は、ことごとく取り除いた。だが、切り返したナスの木は、元気がなく、あまり期待できそうにない。妻によれば早や行きつけのスーパーでは野菜の値段が上り始めているとか。
この日、暗くなる前に、最寄りのHCまで妻に車で連れて行ってもらい、ブロッコリー、ハクサイ、そしてミズナの苗各5本と、ネギ苗一束を買い求めた。
小雨で明けた2日、今が盛りのシュウカイドウが雨に打たれて美しい。朝食ではブルーベリージャムと採りたてのブラックベリー(は種が気になるので舌でつぶして食した)を添えたヨーグルトを試みながら、チョット慌てた気分にされている。それは冬野菜の準備と、台風への備えだった。
この日は、まず水島さんに電話(動かなくなった雨戸の補修などの依頼)を入れた上で畑に出て、第1次のキュウリ畝の跡を仕立て直し、ブロッコリーとミズナの苗を植え付けており、これが、夏野菜から冬野菜への切り替え第1号となった。
トウガンの実は1つを真冬用に残し、他は幾人かの人と分けあった。次に手をつけた冬野菜用の畝は、第2次のキュウリの跡を仕立て直し、買い求めたネギ苗を植え付けた。
かく夏野菜の畝を次々と仕立て直しており、主要な冬野菜の第1次の準備を、中旬の終わりまでにし終えている。ハクサイは買い求めた苗を、ナバナ、ダイコン、ホウレンソウ、アイトワ菜、そして第2次のハクサイは種をまき、コオロギなど虫よけカバーを被せ、ワケギは残っていた球根を植えつけた。畑に残っている支柱は、遅ればせに実をつけた2種のカボチャの棚と、巨大ツルムラサキ用だけになり、半ば冬の畑の様相になった。
だからここ当分は、食卓を賑わせる野菜は、トウガンと巨大ツルムラサキの他に、自生の在来ツルムラサキ、モロヘイヤ、2年越しのヒコバエから育てたネギ、オクラ、ハナオクラ、2種のトウガラシ、残り物のゴーヤ、そして線香花火のような花が咲き始めたニラが主になる。
チョット慌てた台風への備えは、まず、昨年の今ごろ、雨戸を閉めようとして2か所で閉まらず、慌てた。それが、そのままになっていた。この日、水島さんに「手の空いた時間があった」といって立ち寄ってもらえ、ツチバチが戸袋の中で巣を作り、動かなくした雨戸と、もう一カ所、引き戸の駒が錆びて固まり、動かなくなったカラス窓などの補修をしてもらった。ツチバチの巣は、壁土を塗り固め接着材かのごとくに頑丈だ。
もう1カ所は安普請の(基礎工事が不十分だった)温室だった。ガラスの自重で歪が出ており、一人ではうまくロックが効かないガラス引き戸が、数か所で生じている。だが、これは冬場に(ガラス戸の外側で育つジンジャーなどが枯れ、刈り取った上で)妻の手を借りて(内と外から力を掛け)ロックし、「開かずの引き戸」にする予定。
その後、18日の変則台風(沖縄近辺で迷走した)を前にして、チョット慌てたが、風の心配が生じておらず、事なきを得た。
3、スダレとヘビと派生作業
当月の大仕事は、竹の入り口周辺の竹製スダレやヨシズなどの手入れ(これで、死ぬまで持たせるため)が第一だった。8日に取り外しに掛かり、27日に完成した。
竹の入り口とは、母屋の勝手口辺りと、私たちの居宅をつなぐ渡り廊下の一角に、宿泊来客が風呂を気軽に使えるように、と7年前に設けた出入り口。
躯体は水島さんに作ってもらったが、床や敷居に竹を用いたのを見て、網田さんが竹をさまざまに活かす(勝手口仕様の一角を、瀟洒な玄関仕様に改める)ことを提案。光とり窓は丸窓になった。
網田さんは、アルミサッシや、母屋に引き込むガスのメーターや管は、ことごとくヨシズで隠したり木製に取り替えたりすることを提案。ならば、と木製の扉は鷲鷹工芸の森さんが担当。私は竹の花生け(母の嫁入り道具だったが、約100年後、母の死後に)活かしたくなり、網田さんの指導を受けて花台を私が手作り、と段々おおげさになった。
渡り廊下と母屋の勝手口のアルミサッシ家具が不要になったが、後日、個離庵と呼ぶ庭のトイレを作った時と、床下倉庫に(太陽光発電機用バッテリーを設置し、風通しが求められた時に、木製の戸に替えて)転用した。
このたび、大小さまざまなスダレやヨシズなど(渡り廊下の裏側分3枚を含め)計8枚を取り外し。風除室でタワシでの洗浄。乾燥。防腐剤塗布(にはチョットした工夫を要し、3日に分けて行った)。乾燥、そして取り付け、と20日間近くをかけて一仕事を片づけた。
この間に、廊下の裏側の2枚のヨシズは痛みが進んでおり、かつて風除室で用いていたヨシズ(を、細いヨシズ製に替えたので、余っていたが)を、小さく加工して取り替えた。
また、網田さんがその後に、丸窓の下に用いる竹のはかま(?)を作ってもらえたので、その防腐塗装もした。刷毛では塗装ができず、霧吹きを用いた噴霧塗装を思い付き、実施した。「もしや」と思って100円ショップ品を用いたが、案の定、使い捨てになり、ごみをつくった。
この作業のおオカゲで2つの付録、派生作業と予期せぬ出会いに恵まれた。
予期せぬ出会いにはギョ! とした。傷んだヨシズを取り外す際に、大きなヘビの抜け殻に出くわしたからだ。樋から丁寧にめくり取ったが、元より頭と尾が欠けていた。だが、「まだこんなに大きなヘビがいたのだ」と嬉しくなった。
同時に「ヘビ学の専門家に出会いたいなぁ」「積年の謎が解けそうだが」と思った。過日、来客中に小さなヘビに出くわし、来客がケイタイで動画に収めた(9/1)。ひょっとすれば、「あれは、このヘビの子どもではないか」と感じたからだ。
というのは、そのヘビと同じぐらいの小さなヘビをその後も見かけている。写真に収める間もなく見失ったが、その色彩が問題だった。赤みが勝ったオレンジ色だ。動画に収めた子ヘビは、その色柄(首のあたりに黄色の首輪があった)から、ヤマカガシではないか、と見てきたが、同じぐらいの大きさの赤みが勝ったオレンジ色の子ヘビを見て「?」となった。もしやヘビの戦略で、子ヘビの間は「!?!」と感じたからだ。
かつて、ヘビの卵を見つけたことがあるが、20個ほど生んでいた。おそらくその多くは、孵化後鳥やイタチなどの格好の餌食になるのだろう。だから、幼児期のヘビを、さまざまな色柄にして生き延びる確率を高くしているのではないか。もしそうなら、これまでの謎のいくつかが解ける。かつて色とりどり横縞(トラの尾のような)模様の子ヘビを捕まえたこともある。
その後2度、ギョッとている。まず、幾日か前に頭のなかった抜け殻を取り外した所で、またヘビが脱皮していたからだ。そこが脱皮に適した安全地帯だろう。
その抜け殻を取り去らずに、新しいヨシズをぶら下げたが、後日それが大問題を生じさせた。それは、その隣に長くて重い竹のすだれを、妻の加勢を得て吊りさげた時に生じた。ヘビが嫌いな妻への親切のつもりで(脱皮の安全地帯であることを教えたくて)「小夜子、右上を見てごらん」と呼びかけたが、それがマズかった。事前説明をしておくべきであった。妻は生きているヘビ(は見慣れた)より、抜け殻の方が怖い、という。かくして、渡廊下の裏側の作業も終わった。
2日後、同じく母家の、今度は父の寝所だった縁先の屋根で、樋から抜け殻がぶら下がっていたことに気付いた。この3匹分を並べて、頭と尾があった2匹の採寸をしたが、124㎝と120㎝だった。この庭には、まだ120㎝級のヘビが、確実に2匹は棲んでいることになる。
この3匹分の抜け殻を、撮影した後で、そのまま風除室に放っておいたのがマズかった。妻にコッピドク叱られた。その後、3つに折りたたんで、透明の袋に入れておいたが、これもまた妻の目に留まり、誤解を生んだ。
私としては、家に棲みついたヘビは「家の主」と教え込まれていた。また当時は、その皮の一部を己の財布に入れたりして置く人が大勢いた。やむなく、不透明の袋を被せて、妻の目につかないところに保管した。
派生作業は、防腐剤を出したついでに、幾つかの懸案を片づけたこと。まず、記念の竹のランタン。次いで、カフェテラスの花車の留め置き台(モミジの玉切り)。そして、ハッピーのベンチ(と、妻が命名)。
とりわけ竹のランタンは、40年近く前に新婚記念として手作りした1つだ。事情があって、新婚旅行に出かけられなかったので、2人で様々な大工仕事や細工仕事に取り組んだ。
ハッピーのベンチは、乾くまでカバーを被せた。ベンチにのって寝そべるわけにはゆかなくなったハッピーは、これまで見せなかった関心(手を出さず、ジーッと見つめる)の程を示した。
4、2種のハチでドラマが
温室に棲みついたアシナガバチは、次第に巣を大きくして、ハチであふれんばかりになった。他方、ニホンミツバチは、小型スズメバチに日課のごとく襲われた。このアシナガバチと小型スズメバチの身に、ある日予期せぬドラマが生じた。
アシナガバチの巣は、祐一郎さんを驚かせた。帰宅時(9/17)に彼を案内したが、群がるハチは、時間が停まったがごとくに微動さえしなくなった。私たちが、そこまで接近するまで、いつものごとく鉢植え植物の水やり程度とおもい、警戒音を発しなかったのだと思う。慌ててあと一歩踏み込めば、総攻撃する態勢を固めたに違いない。
その後、幾日かして、妻がビックリ仰天した様子で戻ってきて、温室で団子になったハチの群れに触っていた、と報告した(9/21)。一瞬「シマッタ」と思ったが、すぐに「ヨカッタ」と思い直している。妻はキット、私が水やりを怠っていたことに気付き、萎れた植物を見て、無私無心で水やりを急いだのだろう。だからハチには刺されずに済んだようだ。温室やその周辺で、2度にわたってハチの団子に触れたことに気づかなかったわけだ。
水やりが一段落し、「あれは?」と、凝視し直してみてビックリ。共に小さな(握り拳大の)ハチの団子だった。ゾーッとして足早に戻ってきた次第。水をやりながらキット、無意識のうちにハチのボールが視界に入っていたに違いない。ひと段落して「まさか」、と思いなおして確かめて、ゾットしたのだろう。元の巣は、通常の人口密度に戻っていた。
ハチは、敵愾心乃至は蔑視(人間が、人間も自然の一部だとの自覚を忘れ、自然にたいする畏敬の念を失った態度)、あるいは嫌悪の心を抱かない限り、めったに刺すことはない。
だから、警戒心を抱いてしまった妻に「そうと気づいた以上は、巣に触れたり、あまり近づいたりしないように」と注意を促し、その上で、現場まで案内させた。予期したように、まさしくアシナガバチの分蜂、と観た。この歳にして初めて目にしたドラマだった。
3日目には両のボールは消え失せていたが、大きい方のボールは温室内の狭い水やり通路に、小さい方は温室横のカキの木の垂れた枝にあった。
何処であの2つの群れは? とか、アシナガバチの分蜂は、2つが通常か? とか、年に一度か? あるいは、元の女王蜂の命はこれで尽きるのだろうか? などと考えた。いずれにせよ、春先まで新女王蜂は生き残り、単独で営巣を始める。
妻は、ハチにあまり増えてほしくないようだ。後日、「この巣は取り除いて下さい」と言って、広縁に案内した。「やはり気付いていたんだ」と思った。
幾日か前に、広縁の先に生えたサンショウの木を、2本ともに(妻の要望で)頭を詰めたが、その時に気付いていた巣だ。もちろん私は、この要望は受付けない。
小型スズメバチとよく出会う1カ月になったが、オオスズメバチとは今年はまだ、一度も出会っていない。昨年は、2度にわたって計30匹ほどを捕まえ、2度目の分は生きたままガラス瓶に詰め、蜂蜜を流し込んで(薬酒よろしく)「スズメバチ漬けミチミツ」を造ったが、これがテレパシーで恐れをなさせたのかもしれない。今年は一度も来ていない。淋しい。
小型スズメバチは、計40匹近く(その半数は妻が)やっつけた。多くの場合は、単独でチョッカイをかけているが、時には2匹で来たこと、もあった。「いずれは」佐々木小次郎ヨロシク一振りの網さばきで複数匹を捕獲したい。
ある時、2重の間違いを犯した。時々、スズメバチだけでなく、ミツバチまで一緒に捕獲したことだ。一度は、ミツバチは逃がせたが、2度目はあまりにも両者が網の中で近くに居すぎて、片方だけ逃がせなかった。次の瞬間だった。スズメバチはすれ違いざまに、一撃でミツバチを嚙み殺した。これでチョッカイをかけに来ていたわけが分かったような気分になった。
巣箱に留まっているミツバチを襲えば、キットニホンミツバチの反撃に会い、おそらく団子状態にくるまれて(袋叩きに)されてしまうのだろう。小型スズメバチはニホンミツバチが近づくと激しく羽をゆすり、威嚇音を響かせる。
ある日、妻が息せきって私のもと(PCの前に陣取っていた)に駆けてきた。カマキリが飛翔するする小型スズメバチを捕獲した、という。駆けつけて、土手の上にのぼり、妻が指さす長けたワラビの当たりを目で探った。
小型スズメバチは、ミツバチを空中戦で捕獲せんと躍起になっていたのだろう。カマキリは、ワラビの先でチャンス到来を待ち構えていたに違いない。両の鎌でサッと刈り取り、飛んでいた小型スズメバチが瞬時にして消えた、という。
その昔に、逆の光景を見た。同じ種類の中型カマキリが、オオスズメバチの餌食になった場面だ。それだけに、この度の場面も「観たかったなぁ」。
ちなみに、アイトワの庭では少なくとも5種のカマキリと私たちと棲み分けている。
5、堺町画廊の催しと、ある売込み
「ガジュマルの森」の絵はがきが、堺町画廊から妻あてに届いた。その案内に心惹かれ、無理を言って紛れ込ませてもらった。
「ここだったのか」と思った。かつて幾度か覗いていた。妻の人形教室展はいつも京都文化博物館で行うが、最寄りの地下鉄駅とつなぐ堺町通りに面していた。
アニミズムの、私の理解はまんざらではなかったようだ。早く駆け付けたおかげで、詩人・山尾三省(1938年生まれ、20年前に病死)を、この度初めて知っただけでなく、トークが始まる前に、夫人と子どもに宛てた遺言に目を通すこともできた。「生きとし生けるものを想う心」、その継承を願っていた、と見た。その書斎の様子も紹介されていた。
同い年の人だし、その騒然とした学生時代にも想いを馳せた。家族と、インドとネパールへ1年間の巡礼に出たり、屋久島の廃村に移住したりした人生に、痛くなるほどの覚悟や共感を覚えた。
書籍が並んでいた。最初に手に取った『ヤクシマザルを追って』は、この画廊の主が、夫と2人で自費出版したモノクロの本だが、昨年(屋久島の自然に相応しい)色付けで復刻された一著、と知った。次に手が伸びたのは、堺町画廊から届いた案内状と同じ「ガジュマルの森」が表紙の一著だった。
この集いでのスピーカーは4方で、屋久島と山尾三省でつながっていた。なぜかとても晴れやかな気持ちになり、良き1日の締めくくりを感じた。
それはどうしてか、と夕暮れ時の道すがら、考えんながら阪急電車の駅まで歩いた。電車に乗り込んだ。思っていたより混んでいた。「そういえば」と、座った時に思い出したことがあった。10日ばかり前のことだった。
それは、据え置き電話が鳴ったことから始まった。まず「アイトワは、トリップアドバイザー評価で4.5前後をもらっている喫茶店だ」と、教えられ、なぜか前のめりになった。次いで、アポイントを取りたい、と続いた。遠方からの取材だろう、と思って迎えることにした。かくして闊達そうな女性を、約束の日時通りに迎えた。
旅の雑誌を出版している会社、を思わせる自社紹介から始まった。魅力的なプレゼンテーションが続いた。だが、質問はなく、喫茶店のメニュー、とりわけ四季折々のケーキの提供のあり方など、提案のごとき発言が多かった。
それが「取材方針の説明ではなさそうだ」と気づいた時に、来訪目的が分かった。広告宣伝媒体の売込みであった。アイトワには無用の提案だった。
アイトワでは35年来、1種の手作りケーキしか用意しておらず、いつしかそのケーキセットが主要メニューになっている、と切り出した。同じく、宣伝広告費は一切投じて来ておらず、代わりに、日本初の禁煙飲食店になったし、有償で太陽光発電機を日本で最初に採用した時空にもなれたことを話した。さらに、あたえられたコラムなどを通して、折に触れて、憲法9条の堅持や活用策、あるいは原発反対を訴えてきた、などと付け加えた。
後日、山尾三省さんの遺言を読み直し、無性にお会いしたかったなぁ、と思った。幾度か屋久島に出かける機会があっが、稔っておらず、残念に思われた。
6、その他のトピックス
ヒグラシが鳴き止み、庭ではシュウカイドウが末期を迎え、サンショウの実が色づき、フヨウに次いで、中国ホウセンカやスイフヨウ(酔芙蓉)が咲き始める季節になった。
久方ぶりにミンミンゼミの抜け殻と出くわし、それが7月にミンミンゼミを見かけた所(7/30)と真近くだったので、脱ぎ忘れた羽衣かのように感じられ、オブジェに活かした。
サンショの木がわけもなく(?)枯れて、ご苦労さま(長年にわたり、ハナザンショをずいぶん摘んだ)と声をかけながら切り取る時期でもある。
今年はカエルと出くわす機会が多い年だった。玄関わきの幾つかの水鉢に、それぞれ1匹ずつ棲みつき、メダカを入れた鉢ではことごとく餌食にしたようだ。ある日、側に(増え過ぎた水草を取るために置いてあった)バケツに、2匹のカエルが夜の間にはまり込んでいた。
ついにトノサマガエルを見かけなかった(9月末時点)が、久しぶりに大きなガマガエルと出くわした。妻が温室脇で、クリスマスローズの手入れをしていた時に落ち葉の下に隠れていたところを見つけた。そうと分かった後の10枚ほどの落ち葉を1枚ずつ取り除いている間も、その後も、しばらはく(私たちが見つめていた間は)、微動だにしなかった。
新たな川魚(婚姻色のタナゴやニゴイの稚魚など)がわが家に棲みつくことになった。久保田さんが釣り上げ、5匹だけリリースせずに届けてもらった。だから新たに、温室に、ニゴイの稚魚とメスのタナゴを入れる中水槽を用意(イモリの棲み処から転用)した。
うまい具合に広縁で使っていた中水槽が空き家になっていたからだ。それは、イモリの棲み処として使っていたが、妻が「ズーッと見たことがありません」と言ってきかないので、仕舞うために掃除をした。ところが1匹だけイモリが(逃げ出さず、生き残って)棲みついていたことが分かった。そうと知った妻が、そのイモリに「ゴメンナサイ」と痛く詫びたので、極小水槽を取り出してきて、新たな棲み処を用意して蓋までかぶせた。
婚姻色のタナゴはカフェテラスの大水槽(キンギョと一緒に、先住のタナゴが数匹棲んでいる)に放した。その後、大水槽の手前にはびこっていた水草を抜いて、妻は奥に移動させる作業にも取り組む大掃除をした。
ミミズの新たな習性に触れた。好天の朝、防虫トンネル栽培のカバーをめくりに出た時のことだ。小雨が降ったようで、なぜかミミズがにわかプールに集って(放っておけば干からびてしまうか、小鳥の餌食になりかねない状態になって)いた。
楽しい人との触れ合いにも恵まれた。心臓の定期検診があった日に生じた偶然の重なりは忘れ難い。帰途を車で迎えた妻が、行きつけの薬局に立ち寄っている間に、車窓から釈迦堂(清涼寺)の門扉に見とれた。幼い頃は、母に火祭り毎に連れられたが、その時の賑わい(道の両側に出た夜店)思い出し、懐かしんだ。
その日の午後、長津親方が「清凉寺まで送ってきた人が」あった、と言って2巻のDVDを届けて下さった。その時はまだ、この偶然に気付いていない。
その直後に、ズシリとくる封書が届いた。高校時代の同窓生が、私家本を贈ってくれた。宮司の息子で、ニックネームは「ポースケ」だった。その父が常用していた呼び方で、当人も自然体で受け入れており、私達も本名で呼んだことがなかった。
京大の工学部に進み、大阪ガスに就職した。そして、定年後に父の跡を継いだ。穏やかで聡明なこの友人を、かくのごとく導いた父親を思い出した。「ポースケ」は、20年かけて(?)この本を編纂したのかもしれない。脱帽。
感心していると「どなたから」と妻が問いかけたので、行きつけの薬局の前で偶然に出会って「呼び捨てにし合った人がいただろう」と応えると、すぐに通じた。
長津親方から借りたDVDを夜に観て、驚いた。向こう1000年にわたって高野山で、弘法大使に食事を届ける唐櫃(儀式用)で、未来の国宝候補が誕生する経緯や経過などが収録されていた。かく、いろんなことが空海でつながった。
今日に息づいている匠や、その心意気などの、いわばタイムカプセルの紹介であった。長津親方の匠(鋸の研ぎ)が可能にした透ける木片。気が遠くなりそうは組木細工。0.1mmまで薄く削った螺鈿、あるいは1200年近くにわたり1日も欠かさず(金剛峯寺の境内にある奥の院の「弘法大師御廟(ごびょう)」で)毎日2回食事を届ける「生身供(しょうじんぐ)」の様子も紹介されていた。空海は今も、御廟で瞑想(めいそう)しているものと信じられている。
川上さんには2度にわたって、2度目はステキな人をともなって、訪ねてもらえた。その変わらぬ姿に触れて、妻は姿勢を正す指導を請うた。再訪時は、平田千夏さんの生家が奈良にあり、江戸時代の建物と伺い、無性に生家(と、こうした建物を残してきた環境や文化に)触れたくなった。
幼い頃に時々遊びに来て、ヤンチャぶりを発揮していた西田直大君に、ヒョッコリ立ち寄ってもらえた。そのヤンチャぶりに惹かれ妻は、とても大事にしていたが、大学生になったその姿に触れて感心し、再訪を約して見送っていた。
頼みごとをした野口誠さんに訪ねてもらえ、久しぶりの歓談に時を忘れた。今必要なあらかたの話題に触れ得たように思う。エッセンシャルワーカー観や「ゆらぎ」の話題では時の流れを忘れた。私たちは2つと同じものがない(自然は2つと同じものを生みださない。完全なる直線や平面が存在しない)環境で生まれた。だが、今や自動機械が生み出す幾何学的な複製品に囲まれて生きている。
草刈りに精を出した1カ月でもあった。畑では、獣害フェンス沿いの除草から手をつけた。祐一郎さんにセメントで固めてもらい、防草工事したが、その効果を確かめた。半時間でらちがあくことが分かった。
久保田さんにもらったキイチゴの苗木が、3年目にしてヤット茂り始めたが、その一帯(ブルーベリー畑沿いの一角)の草も刈り取り、彼にこの木の育ち具合を点検してもらったところ、来夏には実を結びそう、とのこと。
その過程で、小鳥の巣(?)を見つけた。これが、カヤの間で作られておりもっと小さければ(かつて棲みついていた)カヤネズミの巣と観たはずだ。それにしても、蚊やブヨの攻撃には閉口した。
冬野菜の準備にも励んだ。ネギは、買い求めたネギ苗から育てる1畝を用意した。ネギ苗は上部を切り捨てて植え付けるが、切り取った未だ枯れ切っていない部分を私は簡単には捨てない。妻は「こんなことに半時間もかけるなんて」といった目で眺めるが、水を切られて苦しんだその青い部分は、とても優れた薬味になる。
自生化した2種のアイ(本藍と丸葉藍)、オオタデ、ホオズキ、そして白いネリネが今年も元気。ホオズキにはトウガラシに着くカメムシが襲うことが分かった。
恒例の焚き火にも2時間を割いた。次々と私が刈り取った草を無煙炭化機に積み上げていったからだ。この焚き火の間に、妻は初見のガを見つけた。私は畑などで、イモムシ、バッタ、あるいは初見のケムシを見かけた。
こうした合間に、知範さんと、中村均司夫妻のオカゲで2度の忘れ難い清涼剤に恵まれた。
先ず、知範さんが創案したとう「言霊短歌」。46種のいずれもが、私にはズシーンと来たし、身につけたい至言のごとくに思われた。「運も実力の内」といわれるが、その「運」を呼ぶ体質というものがあって、その体質を育み、整えるビタミンかミネラル、あるいはホルモンのように感じた。
中村均司夫妻に誘われて、久しぶりにコンサートに出かけた。とても近し気に感じられた歌唱であり演奏であったし、温かさが伝わる出演者だった。おかげでさまざまな思い出にもふけった。
初めてロシアを身近に感じたのはソ連時代で、モスクワ経由での欧州航空路が開かれた年だった。空港ではカメラを出せない時代で、中継(給油など待ち)ロビーでは笑顔や笑い声にまったく出会えない時空で、1ルーブルが400円だった。
その国内に踏み込んだのは、カザフスタンに出かけた折のことで、モスクワを経由した。白タクの中で、運転手がウオッカを買わないか、と薦めた。夕暮れ時の車窓から遠望したアパートの照明(ほとんどが真っ赤)に、目が舞いそうになった。一軒残らず確かめようとしたからだ。7割が赤いランプシェードで、そのほとんど(例外を見つけられなかった)が同じデザインだった。
貨物機のようなロシアの飛行機で食事となった。ロシアの青年が、首を傾げ、ニンマリしながら、黒パンに洋ガラシをタップリと塗った。真似てみて、(硬い黒パンが初めて)オイシイと思った。
この旅行中に、1ルーブルが40円から20円に下がった。地元の人にとっては1週間の差で、パンの値段が2倍になったわけだが、旅行者は2つ買えた。ベルリンの壁が崩壊することなど考えも及ばなかったころのこと。
中村さんが府の職員だった時に、京都で最初の鳥インフルエンザ問題が発生した。その事態収拾からの帰途、立ち寄ってもらえた。どうしても確かめておきたいことがあったからだ。万の単位のニワトリが生きながらにして殺されたが、その実態を知りたかった。
いわば、ニワトリにとってのパンデミクだったが、案の定だった。何十羽かが感染死したので、万の単位のニワトリがクラスターと見立てられ(人間の風評被害を怖れて)生きたまま土中に埋められていた。この質問を始めた時に、彼はおいおいと泣き出し、首を縦や顎を横に振ることで応えるばかりで、声を出せなかった。
妻は29日から、喫茶店を切り盛りする仲間と集い、再会店の準備に取り掛かり、10月1日に備えた。テラスに誘う木の手すりに塗装を施し、シンボルマークの旗を再生させ、花壇に向こう3カ月を彩るパンジーなどにデヴューさせた。テラスでは、オオガハスの枯葉の整理を引き受けたが、ミノムシとケムシを見かけた。この2種の虫にも来店客を迎えてもらう。
かく1カ月が過ぎ去り、次の1カ月が始まる。