キンモクセイが甘い香りを一帯に漂わせ、ツクヅクボーシが淋し気に鳴き、夕刻には遠方でシカが恋の季節を告げて、「やっと秋だ」を実感する1日から始まりました。だが10日もせぬうちに「もう冬だ」と体感するなど、変化にとんだ10月でした。
上旬は滋賀県守山に出かけ、今関先生や劉穎さんと息災を確かめ合うことで終わりましたが、他に、予定は2つ、久しぶりに岡田さんを迎え、あるZOOM-MTG(ミーティング)に参加と、白砂先生を迎え、K大学「プロジェクト25」での発表内容の調整、でした。だがこの間に、予期せぬことが5度も生じ、それが冬野菜の準備などにとても励みをつけたのです。
まず追加のダイコンの播種とミズナの苗を1本追加。その後、ホウレンソウのまき直し。シュンギク、ヒノナ、カブラ、コウシンダイコン、第2次のアイトワ菜の種まき。そして義妹にもらったチマサンチェの苗の植え付けです。野草が種をまき散らかせる前に、と除草にも励み、樹木の剪定はパーキング場沿いから手を着けています。
予期せぬことは、まず3日に網田さんのヒョッコリ来訪。5日は知範さんの来訪に合わせて瞳さんが、稲ワラを持参して下さった。7日は夕刻に、祐斎さんが卵持ちアユの贈物、と続いたのです。その上に、ホウレンソウのまき直しの都合で、コイモを1株掘り出しましたが、久しぶりにズイキの酢の物まで賞味できたことです。
中旬は近著執筆者のさちよさんが夫妻で来訪に始まり、近著執筆者懇親会の下打ち合わせで終わりました。その間にトピックスが13も。妻のヘルペス発症。オオスズメバチの飛来。シホウチクの収穫(9/12)。2台の新兵器(トリーマー)の試用と収納工事。サワガニの健在を2度確認。新腐葉土の使い始め。歯の定期検診。「カボチャの執念?」チェック。ヘビの抜け殻をプレゼント。秋一番(ムカゴ、カリン、そしてコイモ)の収穫。佛教大生の来訪再開。ブロッコリーの生育状況を観て「ヤッパリ」。加えて、水島さんに加齢対策の一環(カシの生け垣に恒常的な竹もどきの腰塀を添える)を依頼、の以上です。
とりわけ、さちよさんご夫妻を祐斎亭に案内し、近著執筆者仲間の乙佳さんが関わった「水鏡」を見学。そして、佛教大生第1陣来訪時に、フジバカマに惹かれてアサギマダラだけでなくキチョウなども乱舞、が印象的でした。この間に、2刀流の大谷選手の心掛けに触れて納得。久しぶりの雨になった16日の夜に、63年ぶりの映画(坂東妻三郎の『無法松の一生』)を鑑賞し、走馬灯を覗いたような心境にされています。
下旬は、快晴の朝一番に(風邪気味をおして、生まれて初めて)街頭演説の聴衆から始まり、第3陣の佛教大生を迎えることで終えました。その間に志賀師匠を迎え、三度感激したミツバチの点検。メジロの雛を妻が保護し、1時間のドキドキ。「プロジェクト25」のZOOM-MTGで、感激。「匠」のクラウドファンディングの打ち合わせは大詰めに。ピアニストのアリコさんを久しぶりに迎え、安堵。第2陣の佛教大生来訪時に、1つのメモリアルを刻む。そして白砂先生に誘われ、久保田さんと出掛けたピアノリサイタルでスペインを堪能。さらに、3つの久しぶり。知範さんを誘った1泊旅行(奈良橿原の八木町と今井町)。ギターの先生の来訪。そして未来さんに立ち寄ってもらえたこと。
それにしても、と思います。歳のセイでしょうか、まだ紅葉が始まっていないのに、カラダは冬を感じています。このヘンな気候のおかげでしょうか、冬野菜はいつになく元気溌剌、青々と育ち始めています。問題は紅葉。どうなることやら。
~経過詳細~
1、一転、冬になった
「やっと、秋だ」との実感から始まった当月だが、はや11日には朝の冷え込みに縮みあがり、ガスストーブを出し、16日に、冬到来を告げる朝焼けを観に出て、身震い。この日に、「もう昼間もいらない」と言って、やっと扇風機を仕舞った。
ふと気が付くとアシナガバチが(温室や縁先などの巣から)スッカリ姿を消していた(14日)。16日に、アサキマダラ(が1週間ほど前に、妻が一度飛来を観察していた)が、再飛来。ヒメアカタテハなどと一緒に、満開となったフジバカマの蜜に酔ったかのごとくに乱舞。
やがてカラスが、モクレンの赤くなった種を狙ってついばみ、次々と種房を枝ごと落し始めた。そして24日に、冬眠に入っていた土蜘蛛を掘り出し、アルミの折り畳み椅子の座布の間で、横着冬眠に入っていた変色したモリアオガエルをたたき起こしてしまった。
当月は、白砂先生、ピアノ、そして佛教大生との関り合が多かった。また、掬い捕って間なしの「子持ちのアユ」を塩焼きで賞味。児童文学の時空を体感。巨大なツルムラサキにビックリ。そしてカボチャの執念に(触れたがごとき現象に)感激。狂ったかごとき様々な蚊の発生に閉口など、初体験にも多々恵まれた。
蚊の異常発生は、これまでの網戸の開閉方式では(加齢でのろくなった)隙間を狙われるのだろうか、屋内に次々と忍び込み、パソコンに取り組みながら捕虫ネットを振り回す始末。
ピアノはまず、白砂先生にピアノリサイタルに誘われたのが予兆かのごとし。その後、2人の日本人が「ショパンコンクール」で好成績を収めたことをTVで知った。次いで、ピアノの即興詩人かのごとき弾き手、山下有子さんの久しぶりの来訪に安堵。さらに、奈良への1泊旅行の道中では、モーツアルトのピアノ曲をタップリと楽しんだ。仕上は久保田さんと出掛けたピアノリサイタルの夕べで、スペインを堪能。帰途も久保田さんと、互いのスペインでの思い出話だけでなく、コロナ騒動下の学徒も話題にあげ、余韻が残る夜になった。
白砂先生とは、ピアノリサイタルで会する前に、2度ご夫妻で来ていただけたし、ZOOM-MTGで1度お宅へお訪ねしている。来訪の1度は、佛教大生第1陣の来訪中のヒョッコリお立ち寄り、だった。
この人は造園家(特にバラ園づくり)の権威(だし、サルボダヤ運動を彩るスリランカの拠点で、その造園を設計・監修にも携わった人)だが、ZOOMーMTGのおかげで、その造形の「裏打ち」であるかのごとき想いに触れた。人類は、地球(が生み出すいわば利子ではなく、元本である地球そのもの)を食いつぶしつつあることを憂い、生態系がなかりせば灼熱の天球であった、との不安を訴えていらっしゃる。
これまでの私の認識は、逆に、寒冷化(する、との学者の意見をうのみしての認識や判断)だった。だが、灼熱の地球の方が「なるほど」と(ガイアの思想の凄さを再認識させられ、寒冷化説の評価を見直す必要性がありそうだ、と)思わせられた。つまり、灼熱の前兆として寒冷期がありそう、と感じさせられた。そして、さらにその前兆現象として、異常な降雨や、異常な旱魃などが生じるのだろう。ならばつじつまが合う。いずれ目からウロコのごとくに得心させられ時が訪れそうだが、3年や5年では無理だろうな、とチョット残念だった。
No one will be left behind.の和訳は、どなたとも話し合ったわけではないが、いずれ「誰一人取り残せない」と訳し直したくなりそうだ、と思っている。
2、佛教大生の来訪再開
コロナ騒動のせいで(もはや文化となっていた)佛教大生の来訪が、2年近くにわたって途絶えたのも同然、になっていた。それだけに、嬉しいことに(全国的なコロナ自粛解除と共に)再開の打診があり、月の後半の空いた日を知らせると、予期せぬ返答があった。通常は月に1度の来訪だが、なんと3度にわたって(各二人で)との希望の声だった。さらにもう1つ、異例があった。月に2度もエントリーした学生があったこと。
初回は、朝焼けで「もう冬だ」と実感した土曜日になった。経験者の3回生が、初参加の2回生を伴って、きっちり10時にご到着。用意していた初歩的な4つの作業に取り組んだ。
それは、剪定クズを囲炉裏場に、常緑樹の落ち葉を腐葉土小屋に、とそれぞれ運び込む作業と、シイタケのホダギを「伏せ場」から「起こし場」の側まで移動させる3つの作業に加えて、囲炉裏場で焚き火をしてイモを焼き上げる作業だった。これらはいずれも、このプログラムでのルーチンワークの部類。
往年の私が行えば、一人で(焚き火と並行して3つの作業を片づけて)2時間もあれば済む作業だが、今では1日仕事になっている。第一、足元がおぼつかなくなったから、いつ強い風が吹き、焚火が周りへ引火するか知れたものではなく、並行しては行えない。
この日は、それぞれの作業毎に、その意義と要領に始まり、こうした生き方をするうえでは必然の作業だ、などとの説明にタップリ時間を割いた。
いつものことだが、こうした作業のために1日を割き、訪れる彼らの考え方(むしろ感受性の賜物と言った方が適切だろう)には感心させられる。経済成長期に学生時代を過ごした私には、思いもつかない(もちろん知人のお手伝いにはよく当たらせていただいたが、このプログラムは定期的・継続的だし、メンバーが年ごとに入れ替わる)時間の過ごし方だ。
このもはや伝統となったこのプログラムを、これも伝統の焼き芋を(舌が焼けるほど熱い芋を、冷たい牛乳で冷ましつつ)楽しみながら振り返った。
第2陣は、2人の常連の3回生だった。だから、それにふさわしいテーマ(大鍋を、畑の一角に埋め込み、水槽の役目を果たさせる2年越しのテーマ)に取り組んでもらった。
311を私は八重洲口で体験したが、それを機に、炊き出し用に、と手に入れて保管していた大鍋だが、宝の持ち腐れになっていた。だから、畑の水やり用水槽への転用(ステンレス製だからいつでも掘り出せる)を思い付いた。だが、コロナ騒動のセイで、過去2夏は雨不足だったのに、出番をうしなっていた。
この作業では、水平感覚も磨いてもらいたくて、2人が穴を掘り上げた時に口を出し(大鍋をいったん引き上げて、穴の底を整地し直し、水を満たすなど)水平感覚を確かめてもらった。その上で、2つの思いを込めて、メモリアルの1つにすることにした。
この過程で2人は、私(は畝を耕していたが)を呼んだ。土中から「骨が出てきた」と思ったようだ。私は竹の切れはしが土中で腐食したもの、と見た。共に見間違いだった。白い被膜が張った細い穴を砕くと、冬眠中の土グモが現れた。
次いで、午前のお茶の準備時に、折り畳み椅子を取り出したが、そこでモリアオガエルが冬眠に入っていたことを知った。横着をしたのだろう。もちろん、目覚め時のことを考えて、安全だし、惑わない場所を選んで、再び眠りにつかせた。
実は、この第1陣と第2陣の来訪の間で、知範さんが調べたコロナ騒動に関する4つのデーターに触れており、モシヤとの想いを頭の中で駆け巡らせている。
国は、ヤケに感染者数にこだわり、国民は(不安をつのらせたり、安堵したり、と)一喜一憂させられてきた。だが、肝心の検査母数が示されてこず、そこにむしろ私は不安を抱いていた。ところが、厚生労働省はその母数も明らかにしていたことを知った。
だから飛びついたが、そこに不親切を見た。横軸を統一したグラフではなかったからだ。いずれにせよ、母数を一定に(調べ方を明らかに)せずに、新規感染者の実数のみを(比率を添えずに)発表し続けることは片手落ちだし、不安を感じる。
第2陣の2人は(いわばベテランだったが)、満を持していたかのごとくに作業に取り組んだ。だから私は、お茶の時間をタップリとり、未来(いわばSDGs時代)に備えて、各人の心構えや、生き方などを話題に選んだ。それにしても、空白の(足かけ2年におよぶ)期間が恨めしく思われてならなかった。
大学は、学生のカラダを思い、いわば自宅謹慎のような自粛をさせたのだろう。だが、なぜそのココロを憂い、私的時間の拘束に疑問をはさまなかったのか。せめて、成人年齢にたっした学生には、自己責任の下に(もちろん保護者と相談し)、自由裁量を許すべきではなかったかなどと、勝手なことを心の内では考えないでもなかった。ならば、机の上では学びえないことを学ぼうとする若者なども現れ、それこそ多様性が求められる時代に即した学校のあり方や、カリキュラムなどを検討しえたのではなかろうか。
そのようなわけで、この2人にはもう1つの(加齢対策の一環である)懸案の事項、急な斜面に石の階段を設ける作業に取り組んでもらった。この土手下に(生垣を剪定するために、これまで)脚立を抱えて上り下りしてきたが、加齢とともに滑ったり転んだりしかねなくなっていた。そこで、かねてから転ばぬ先の「階段を」と願っていた。
これは作業手順の工夫力や平衡感覚だけでなく、美意識なども関わる作業だった。にもかかわらず、目的、材料、道具、そして完成時のイメージの4つだけを2人に提供し、肝心の手順などには触れず、好きに取り組んでもらった。
この間に、私は焚火を始め、芋を焼きはじめていたが、2人は(囲炉裏場にやって来て)相談を持ち掛けた。手順を教えていなかったものだから、2人は(坂の上から作業にとりかかっており)万事休す、になったようだ。
折よくイモが焼き上がりそうな頃だった。手じまいの時刻も近づいていた。そこで、あとは私が引き継ぐことにして、熱々のイモと冷たい牛乳の時間にした。
午前の大なべを埋けた作業を、1つのメモリアル事業にしたが、そこには2つの思いを込めていた。その1つは、この2人には「運」の強い人になってほしい、と願ってのことだった。この2人は、これまでも進んで体に負担をかけきたが、この日もかけた。だから大谷選手の(「運」を強くする努力の)ことを思い出し、2人にとって記憶に残る1日にしたかった。
実は昼食時に、「案の定」と言ってよい気持ちにもされた。2人が(私と同様に)持病の持ち主だと知らされたからだ。だから、一病息災ではないが、それもプラスに活かすアイデアや意気込みのようなことを話題に選んでいる。私は少年時代に肺浸潤を知り、青年期に一種のカケに出た。当時の安静方式に反し、いわばエンストさせない範囲の負荷をかけるような手を採用した。それが心身共にヨカッタようだ。少なくとも、近年のNHK=TV番組「ヒューマニエンス」での、脳と身体各部との相関関係を取り上げ報道内容には目からウロコで、得心させられている。
月末の第3陣は、当月2回目の黒田さんと、初参加で力持ちの2回生だった。ついに1回生の参加がなかったわけだ。だから、まず「大鍋埋め」で掘り出した土の移動から手をつけてもらったが、ある危惧が的中しかねない、と心配していた。おそらく、コロナ騒動のセイで、クラブ活動自体が活発に行えなかっただろう。いわんやおや、このクラブは、と思った。
この日、私は土手に(前回の2人が)設け始めていた石階段の仕上げに取り掛かり、仕上げてみせよう、と目論んだ。だから土運びをそそくさと終えた2人には、わが家の聖地の1つ(愛犬や小鳥などの墓地でもある)の整備の一環(竹の切り取り)に手をつけてもらった。
その間も私は石階段づくりに精を出した。おかげで折よく、2人が竹を切り取り終えた時には石階段づくりが終盤に入っていた。そこで、この石階段の仕上げともいえる作業(階段に踏み出す前の最初の踏み石を据える作業)に2人で取り組んでもらった。それは1つの四角い切り石を、どこに、いかに水平に(緩やかな傾斜地に水平に感じるように)据えるかが課題の作業であり、結構美意識が求められた。
これをもって廃物(用済みの支柱の基礎など)も活かした石階段づくりは完了した。何もなかった土手に、階段を設ける作業だったが、私としては、意欲と「あるチカラ」を身に着ける機会にしてもらいたかった。
あるチカラとは、正解は過去に求めるものではなく、未来に向かって己が生み出す「モノ」もしくは「コト」だと心得て、意欲的に創造力を駆使したくなるクセ、と私は見ている。
いつ、どこで、であれ、こうした(使い勝手だけでなく、改善や改良などを心掛け、美意識も傾けて)無から有を生みだす意欲とチカラの大切さに気付いてもらいたかった。
だから、1枚の四角い石を、チョット移動したり、チョット浮かせて土をかませたりしてもらい、どこに、いかに落ち着かせるべきか、と悩んでもらった。
その上で、2人にはこの石階段を活かす作業(階段を上り下りしながら土手の竹を切り取り、ササなどを刈り取りとって運び出す作業)に取り掛かってもらった。その間に私は、急ぎ焚火に取り掛かっている。
午後のお茶を遅がけに取りながら、前回の「大鍋埋め」をメモリアルにしておいてヨカッタ、と思い直した。コロナ騒動は、このいわば文化の継承を危うげにしてきたが、もしや断絶させるのではないかとの危惧の念が、現実化しかねない、と不安になったからだ。
それはコロナ発症者数のみを発表して、母数を明らかにしてこなかったやり方に、もし作為があったとすれば第6波到来が現実化しないとも限らない、と疑ったからだ。
この危惧や疑問が杞憂でおわらず、現実化した時は、このメモリアルは思い出の足掛かりとしてとても役に立ってくれそうだ。カラダを守ろうとしてココロのことを忘れがちになった国民的判断が、いつのことであったのか、と記憶をたどるメモリアルになる。
土手の整備は途中になったが、日が傾いていた。イモが焼き上がり、食べ終わった時にはすでに陽が落ちていた。1日は終わった。この日も私にとっては希望であり、勇気付けになった2人を見送りながら、なぜか短大時代(に学生と交わした約束など)を振り返った。
大谷選手が、子どものころから心がけていたという8つの項目(挨拶、ゴミ拾い、本を読む、あるいはプラス思考など)を思い出し、ニヤリとした。よく似たことを、ストレートに、時には癖ダマで、なんとか女子学生の心に届けようと足掻いたような10年だった。
3、ニホンミツバチにバンザイ
巣箱の定期点検で志賀師匠に(いつものごとくトラックで)訪ねてもらえた。まず師匠を現場に(「この度は日々、元気に活動していました」と報告しながら)ご案内。
師匠はいつものように巣箱の底部から写真撮影し、その映像を見せてくださった。わが家では初めて、6段重ねの巣箱がいっぱいになるまで(底のひと箱にまで)巣作り活動が繰り広げられていたことを示しており、最初の感激。
師匠は直ちにトラックに戻り、初めて見る(新兵器・鉄材で作った)大きな道具を片手で引き、もう一方の手で2段分の空の巣箱などを抱えて戻り、採蜜作業、となった。
屋根を外した段階で、蜜があふれんばかりの巣がはみ出していたことが露わになり、その上蓋を切り離すと、ビッシリと巣が形成され、蜜で満たされていたことを確認し、2度目の感激。
6段分の巣箱に新兵器を設置し、持ちあげると、巣が底の箱から垂れ下がらんばかりに形成されていたことがわかった。もち上げた隙間に、空の巣箱を2つ、挿し込んだ。
次いで上から2段分の蜜で充ちた巣箱をとり外し、プラスチック容器におさめた。後は、再び上蓋を設置し、屋根を載せ、新6段の巣箱をロープで固定。
この間に、会話が弾んだ。この新兵器のオカゲで、この力仕事が1人で行えるようになったこと。師匠が考案し、販売も始めたが、直ぐに模倣品が出回ったこと。日本はまだ、そのようなことが生じうる国であったのか、と残念に思(い、半世紀前の欧州での思い出を師匠に語)ったこと、が主たる話題だった。
イタリヤのある会社で、パリで活動を始めたばかりの若きデザイナー・高田健三の存在を知った。その会社のスタジオで、ベストの胸部に大きくて真っ赤な唇の柄が施された試作品を見たが、それは「ケンゾーのアイデアであり、製造許可を得た」と、日本人の私を祝福するがごとき説明があった。
その後、パリに移動し、教えられたアドレスにケンゾーを訪ねた。廊下に洋服ダンスが飛び出しており、その開き戸を開けてくぐると、ケンゾーがいた。ジャングルジャップと名付けた小さなブティックだった。
真っ赤な唇の柄は意匠登録された柄ではなく、いわんや特許」などではなかった。日本でなら、無断で真似をする人が出ていたに違いない、と思わぬでもなかった。間違いなく、「こうして欧州では若き人は育ててもらえるのだ」とうらやましく思ったことは確かだ。
密で充ちあふれた2つの巣を喫茶店に運んだ。閉店後だったので、「巣蜜」を切り取ってもらい「紅茶で巣蜜を」となった。巣蜜は2度目だが、この度の味に、三度目の感激。おそらく、透明性、香り、あるいは糖度などから見て、採蜜した花々が前回とは異なるのだろう。
年内にもう一度、師匠に来ていただけるかもしれない。ハチが元気に活動を続けたら、再度採蜜しても、越冬用の(餌になる)密にハチは事欠かないだろう、とのこと。
月末時点、ニホンミツバチは元気に活動している。
4、「むこだまし」は雑穀の名か、餅の呼び名か
ある昼時、TVをつけて妻と食事をとっていたら、3人のそれぞれ夫に先立たれた高齢の農婦が、おしゃべりしながら田舎やで、餅づくりに興じ(る番組が流れ)ていた。
つき上げた餅をこの3人はまるめながら賑わい、「むこだまし」との言葉をなごやかに発し合った。だから私は、貧しき時代の「嫁の智慧や心遣い」を自慢げに振り返っているのだろう、と心温まる心境になった。
その後、場面は変わって、餅を村の神社に供えにでも出かけたのだろう。石階段に3人は並んで座り、おしゃべりを始めた。賑やかな語らいの途中で3人は、こうして3人で共同作業に当たったり、一緒に食べながら語ったりする一時を過ごせる今が、人生で最も良き日々だ、と語った。その光景を観ていた妻が、しみじみと「そうでしょうね」と呟いた。
だから私は、2つの気になったことを問いかけた。まず、夫とは妻に「それほどプレッシャーをかけているのだろうか」だった。
どうやら妻にとっては、「プレッシャー」や「わずらわしさ」ではなく、常に気がかりな存在、いわば「不自由さ(張り合い)の火ダネ」のようなものらしい。そのタネが細い根を次々と張り、心の中ではびこり、茂り、解放感から遠ざけゆく存在、であるようだ。
「なるほど」と思った。つい30分ほど前まで、妻は人形工房で幾人かの生徒さんと人形づくりに関わっていた。昼時になったので、いつものようにその場を抜け、私の昼食づくりのために居間に戻っていた。
おそらく妻は、食事時に私が側にいる限り、「食事を手作りして振る舞って見せる」との思い(新婚当時に訊いた私の「幸せのバロメーター」)に縛られているのだろう。
おそらく先の3人の高齢の農婦は、と勝手な想いを馳せた。それぞれ息苦しく感じることも多かったはずの村で、舅や姑などの下で気兼ねしながら(?)子育ても無事に済ませ、ついには張り合いながら連れ添ったに違いない夫を見送っていたのではないか。
そして今や、村の文化の継承者であるかのごとき存在になっており、3人はその文化を育み合う連合艦隊のような間柄ではないか。法律で押し付けられている条文などには関わりなく、自らも参加しながら体得し、ついにはその体現者のごとき存在にする文化を、折に触れて育みあっている同志だろう。
その文化さえきちんと守れば、次の代も、その次の世代も同じような生涯を送りうる、とカラダとココロで得心しており、今や後進にとっては環境のごとき(春のようにもなれば、厳冬にもなる)存在ではないか、との憶測で区切りをつけた。
次いで「ムコダマシとは何だろう」だった。私は「混ぜ物のない餅のごとくに増量できる雑穀」の名称だと思った、と意見を述べた上で問いかけた。
なんと妻は、「混ぜ物を入れて造った餅」そのものの名称であろう、と解釈しながら番組を観ていた、と応じた。もちろん、私はその後、PCで調べた。餅米に混ぜてついても、混ぜ物を入れたことが分からない餅に仕上げる白い粟の名称であった。
だが、この連想の差は大した問題ではない。相手をおもんばかった「むこだまし」であったのか、なかったのか、が肝心だろう。
「願わくばあの誇りと自信に満ちたお三方には」と願った。夫が待ち受けていると信じる来世があってほしい。その時空へと一歩一歩近づいている、と実感する日々であれ。そして、再会した夫や姑などに、さまざまに語りうる思い出を、あるいは笑い飛ばし得る思い出を、次々と積み増す日々であってほしい、と願った。
彼女たちは、生きんがために嫁いだ時空で生きた人たちだろう。こうした場合に「二人扶ち」という言葉を用いる場合があったように思う。1人では生活が成り立ちそうにない(稼ぎの)男と知って嫁ぎ、あるいは嫁がせ、2人でなら(その稼ぎでも)やりくりして生計を成り立たせるに違いない、と(女性の力量に)期待した結婚だ。それが嫁の器量、と思われていた時空の(彼女たちは)生き証人であったに違いない。わずかな稼ぎの夫であれ、子沢山であろうと「腹いっぱいに餅を食った」と喜ぶ姿を見て安堵し、安眠を得るような日々を過ごしたことだろう。
だからついにはお「おかみさん」とか「山の神」とも呼ばれるようになったわけだし、主婦です、と胸を張っていたに違いない。
それにしても、と思った。妻の人形創作には一切(求められない限り)私は関わらず、放任してきたのがヨカッタ、と思った。これまで、その想いが、夫婦げんかをするたびに仲良くなっています、と私にうそぶかせてきたが、その追認であった。
ヒョットしたら、とも思った。思えばケンカの種は、妻が精一杯張り合ってくるものだから、いつも手の抜き方を助言してきたが、それが上手く通じず、ケンカの火種になっていた。妻にとっては、真の自由の下に創作という行為に取り組めることが、最大の喜びではないか。そしてその創出物が、人生最大のご褒美ではないか。私がそう感じる度合いに合わせるがごとくに、妻は家事への念の入れように熱がこもったように思う。だから、願わくば妻にも、「むこだまし」を沢山上手に作れるようになってほしい、願わぬでもなかった。
5、久しぶりの一泊旅行
当月は2度、県外へ出かける機会があった。滋賀県の守山に9日。今関先生が主宰の児童文学勉強会を覗かせていただいた。ある願い、子どもの心に迫りうる文章力を身につけたい、との願いを心に秘めた参加だった。
結果は、せめて10年若ければ、になった。だが、先生は劉穎さんにも声をかけてくださっており、会の後でお茶の時間を3人で、になり、落ち込まずに帰途につけた。
ベストセラーにはなぜか手が出ない私だが、わけあって『人新世の「資本主義」』を読んだ。その動機と成果などを知範さんに話していたら、ある児童文学書の存在を知らされた。興味を抱き、ネットで買い求めてもらおうとしたら6000円の値が…。
知範さんによれば、コロナ騒動以前のことだが、94円で買った、という。この差は何だ、と思った。足かけ2年の時の流れが、コロナ騒動のセイもあってか、かくなる現象が生じさせていたわけだ。なぜか私には『人新世の「資本主義」』がもてはやされている由縁と、根は同じ(一脈通じるところがあるか)のように思われた。
『アミ 小さな宇宙人』を借りて読んだ。奇妙に私の心に突き刺さる言葉が(宇宙の基本法を知る。世界の統一をはかる。宇宙の基本法に基づいた組織をつくる、などが)随所にちりばめられていた。
宇宙の基本法、それは「自然の摂理」と、私は読んだ。世界の統一をはかる。EU同様に、わが国も、無知で幼稚な時代は、藩が群雄割拠して争っていたではないか、と思った。宇宙の基本法に基づいた組織、それは「パラダイムの転換」のススメに違いない、と汲み取った。
アミは、宇宙にはかつての地球のような緑あふれる天体があり、そこではすべての人が穏やかに生きており、「愛と親交にみちあふれたところ(時空)」と、語る。
そこは、SDGsがうまく機能し、覚醒した人々が再生させた地球を連想させた(が、私は逆に、このままではSDGsは免罪符にされ、問題をより複雑にして先送りさせるに違いない、と危惧している。だが、もちろんそれを望んでいるわけではない)。
アミは、その天体に誘うにたる地球人を探すために地球を再訪しており、よく似た歳頃のぺドロ(この物語の主人公。アミは、地球時間で言えば、相当の高齢だが)と出会い、ペドロは連れていってもらう。こうした設定に、まず心惹かれた。
その天体には、5000年ほど前に一度(森林破壊をすすめ、崩壊が予見され始めた古代文明を連想した)地球から救い出された人々がいた。彼らは、ある基準を満たしていた。そうした人たちにペドロは、地球に愛、統一、そして平和を持って行ってほしい、と頼まれる。こんな風に、勝手に(本を返したので)一気に読みすすんだ(ように記憶している)。
振り返ってみれば、大きな矛盾を含む部分もあったが、それがかえって奇妙な説得力(肝心のことを訴えるチカラ)を感じさせた。要は、読んだ人が「愛と親交にみちあふれたところに行ける人に、私もなりたい」と願い、心がけ、行動に移(し、地球の再生と、人々の安寧に供)すことが肝心だろう。
この一書には、次のような助言もあった。「おとぎ話のように書くべきだ。そうでないと人はみな君をうそつきか頭がおかしいんだと思うよ。おとぎ話のようにして、本当のことを言うんだ」と教えたり、「子どもの童話のように、おとぎ話のように書くべきだ。小説を書くのが趣味の君のいとこに手伝ってもらうといい。君が話して彼が筆記する」と薦めたりするくだりもあって、ハッとさせられ、今関信子先生(「推薦図書」に3冊も選ばれた児童文学作家)に電話をしたくなった。
勉強会への参加を勧められ、出掛けたが、結果は、かくなる文章力は、私の2年や3年の努力では身につくものではない、と気づいた。ほろ苦いお出かけになった。
ちなみに、後日、知範さんに「5000年ほど前に」ではなく、「今から数千年前」ではなかったですか、と指摘された。事程左様に、2年や3年の努力で私の身につくセンスではない、との思いを強めている。
次は、日帰りもできる奈良への一泊旅行だった。先月、近著執筆者の一人・川上文子さんにステキな女性・平田さんを紹介されたが、この平田千夏さんを当てにした旅行であった。2日がかりの日程にしたのがヨカッタ。
彼女の生家は八木町にある江戸時代の建物で、その敷地の一角には昔懐かしい赤いポストが立っており、しかも現役だった。
千夏さんのご両親・伸一さんと啓子さんにあたたかく迎えていただいた。ひとしきり歓談の後、伸一さんに屋内を案内願えたが、上階の天井裏の梁(キチンと残して、見えるように改装されていた)には、古の落書があるなど、歴史、当時の繁栄と賑わい、そしてご両親の想いを忍ばせた。
向かいには、平田家が寄付し、今は「八木札ノ辻交流館」という文化施設があった。この2軒は四つ辻の2つの角を向かい合って占めており、往時は2階部に東西をつなぐ中空廊下があったようだ。この辻の側には変った形の井戸枠が望めたが、それは、平田家にあった六角形の井戸と姉妹関係ではないか。
平田家とは何たるか、に加えて「札の辻」とは? も気になった。千夏さん(が主宰する組織CROSSの資料)によれば、概略次のごとし、である。
橿原市の「札の辻」(北八木町・八木町)は、東西路の「横大路」と7世紀中頃に整備されたとされる南北路の「下(しも)ツ道」(中街道)の交差点であり、日本最古の国道交差点といわれる。
八木町は古くからこの周辺を中心に発達し、中世から「八木市(いち)」が開かれ、南大和の物資の集散地として繁栄し、江戸時代には高札場になっていた。だから「札の辻」と呼ばれるようになった。
江戸時代には伊勢参りでにぎわい、横大路は伊勢街道とも呼ばれた。交差点の北側に、東西の平田屋が宿屋を営んでいた。平田家では大階段や天保4年(1833年)の宿泊客が書いたと思われる「梁の悪戯書き」が当時のまま保存されている。
四辻に出た。中世の面影が色濃く残る家並が心地よい。その際立った一軒を、ご両親の計らいで紹介された。しかも、この家の主・福島慎一郎ご夫妻のご厚意に甘え、高取藩主の参勤交代時の定宿(であり、当時のままに保存されている建物)にも立ち入らせてい頂いた。ちなみに、その臣下は平田家で投宿した。また、高取城は、日本国内では最大規模の山城であり、松山城(岡山県)・岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城の一つである。。
2日目は、隣町、今井町を千夏さんの車で案内願えることになった。朝、市街を散策し、壁面を飾る大きな浮彫モニュメントを見た。遣唐使船ではないか、と思った。
後日、遣唐使船であった、と千夏さんが知らせてくださった。知範さんは遣隋使を話題にした。オカゲで、当日の(肌寒い朝風に吹かれながら、胸に熱く刻み込んだ)古への想いを、二度も三度もよみがえらせた。
今井町への道中も、心が弾んだ。藤原京跡の真横を走り、左向こうに耳成山を望む。右に左にと折れると正面に天の香久山が迫った。
今井町は、八木札ノ辻の西南の方向700メートル程のところにあり、このたびは2度目の訪問であった。一度目は、幾年か前に(飛鳥で開催されたマクロビアンの半断食道場での1週間で、そのロードワークを活かし)今井町を(アイトワ塾生だった網田さんに教えられ、誘われて)訪れていた。
600戸ほどで環濠のある町を形成し、今井札と呼ばれる紙幣の発行と流通も認められていた、と千夏さん。自治領としてとても栄えていた、とも聞いた。
今も家並はその面影を色濃く残していた。千夏さん(CROSS)によれば、戦国時代末期の天文年間(1532~55)に称念寺を中心とする寺内町(寺院の境内に形成された町)として成立し、その後在郷町となる。町は東西600メートル、南北310メートル程の広さで、周囲には堀、土居の痕跡が認められ、環濠城塞都市の面影が残っている。かつては町の周囲に九つの門が配されており、防備は厳重だった。町人による消防組織が整い、防災意識の高い町だった。
富商も多く住んでおり、今も保存地区内には八軒の町家が重要文化財に、二軒の町家が奈良県指定文化財になっており、江戸時代の面影を残す歴史的建造物が五百棟もある。このたびの訪問は、一度目の「見たらわかる」と思ってのぞんだ訪問とは違い、(通訳案内士でもある千夏さんのおかげで)格段・格別の旅になった。
昼食は千夏さんの推薦で、石舞台に近いレストランで古代米食を試した。窓越しに様々に時を過ごす人たちが望めた。原っぱで飛び跳ね合っている若者の一群に眼が吸い寄せられた。それは「時が永遠に続くもの」とでも思っていた頃のわが心を振り返らせた。
八木町に取って返し、「八木札ノ辻交流館」の案内を受けた。2階から、変形した井戸枠も眺めた。平田家で視た井戸を振り返り(汲み上げモーターと共に、手動ポンプもあった)ご両親の心の奥行(便利さや安上がりに走るのではなく、肝心を見失わないように、との心掛け)に想いを馳せた。
一帯ではさまざまな「講」が発達していたようだ。今井札のことも振り返り、興味津々の屋内見学をしながら、再訪の願いがこみ上げてきた。
奈良の市政にも敬意を表した。なぜか、そのむかしアメリカで、200年来の生き方を守っているアーミッシュ(人口は総勢15万人ほどだった)の村々を4度にわたって訪れた時のことを思い出した。その間に、見学者は年間500万人ほどに増えていた。だからか、アーミッシュの生活を乱さないために、模擬生活空間(で見ただけでは知り得ない肝心のこと、アーミッシュの生きる姿勢や生き方の由縁など、を学びうる施設)を用意するまでになっていた。
かくして八木町や今井町の見学は終わった。この両町には「真のSDGs」、つまり「免罪符で済まさせないSDGs」に誘うヒントが沢山隠されていそうだ、と睨んだ。そのパラダイムの再転換に供するに違いないヒントに迫りたい、と願った。
千夏さんに見送られ、帰途についたが、興福寺に立ち寄った。空海ゆかりの南円堂に知範さんが立ち寄りたい、と願ったからだ。良い旅の締めくくりになった。
6、その他
庭で唯一本のキンモクセイが満開になった金曜日に始まり、「もう 冬の日射しね」と妻が朝食の箸をとめた日曜日、で10月は終わった。
それは、喫茶店の再開準備で明け、夕べは(妻がとり忘れた夕刊を取りに出て)、照明を消し忘れ、2つ折り扉も閉め忘れていた人形の出窓が、いかにも淋し気に感じられた1日から始まっている。この日の来店客は「お1人でした」と聴いた。
そして月末は、「写真に収めておいてヨカッタ」と夕べに思わせられることで暮れた。第3陣の佛教大生2人を見送り、後片付けをして、1カ月が「アッ!と思う間に過ぎ去った」と振り返りながら居間に引き上げた。そして「手を洗おう」と洗面所に向かったが、広縁は片付いていた。妻が寸暇を惜しむかのごとくに過ごした(昼間に見た)名残が消えていた。
この1カ月は、多々エピソードに恵まれた。予期せぬ歓び、ひたすら感謝、恥ずかしい思い出、野生のスゴサに感激、あるいはよくやった、との自画自賛など。
予期せぬ歓びは、まず網田さんのお立ち寄り。京都で久しぶりの茶道の集いがあった、といって九州のお仲間一人をご同伴。
網田さん手作りの袖垣などの防腐塗料が、ちょうど臭いを飛び去らせた後だった。
先月わが家で、孵化したばかりのヘビを見て、大喜びして動画に収めた今村昇さんが、ヘビの抜け殻(かつて大人たちは、縁起を担いで財布に忍ばせたりした)を求めてご来訪。これは私にとってありがたかった。かつてヘビを極度に怖がった妻が「やっと生きたヘビならこの庭で見慣れました。でも、抜け殻はイヤです」と、いまだに訳が分からないことを言っているからだ。だから、こうして「ヘビを大事にする(人が育んだ)文化」が生きていた頃は、と妻に説いた。環境破壊(水を汚したり無駄にしたり、も含め)は、罪悪だとの意識を人々に抱かせ(真の勿体ないの意識を尊ばせ)ていた。自己都合による自然忌避が、環境破壊の第一歩などと語り、挙句の果ては異常気象(が原因の洪水、旱魃、あるいは竜巻など)に泣かされる羽目になる、など。
祐斎さんから電話。陽が落ちた亀山公園を越えて「夕食に」と、掬い捕ったばかりのアユを届けてもらえ、「水鏡を観に、是非…」と薦められた。これが今年のアユの食べ収め?
近著執筆者のさちよさんが、夫の伸幸さんと予定通りにご到着。祐斎亭案内を希望され、案内したおかげで「水鏡」も見学出来た。水鏡一帯の造作は、近著執筆者仲間の乙佳さんが関わった仕事であり、「さすが」と思ったし、祐斎さんにも(紹介を)感謝された。土産に子アユの丸干しをもらい、これをもって食べ収めにした。
久しぶりに岡田さんを迎えた。今や機械音痴の私のために、一緒にZOOMーMTGに参加してもらえたわけで、感謝。
その後、未来さんにも久しぶりに立ち寄ってもらえた。夫・和樹さんの故郷で、2人で仕事に精を出している、とか。安堵
恥ずかしい思いは、長津親方の仕事場でのこと。この一カ月、親方とは、ご推薦の2台目(大きい方)のトリマーを持参いただいたり、クラウドファンディングの件で出かけたり、と数度にわたってお会いしたが、親方の仕事場で茶をよばれたときに生じている。ちなみに、充電式トリマーには、キチンとした収納場所を与えた。
目ざとく取り上げた鋸があたったが、その時にボロを出した。この補修と、新調する場合の代金を気にかけてしまい、親方の顔を曇らせた。あわてて「大事な人から引き継いだ道具などは…」と、取り繕い、名誉挽回した。常日頃は、私も大事にしている心だけに… 残念だった。道具は職人の魂だし、糟糠の妻のごとき間柄だ。
もう一つの道具にも目が留まった。親方の発明で、マツの木の剪定を円滑に進めさせることこの上なし、との小鋸。いつしかこの鋸は、アノニマスデザインになっているに違いない。
野生は「スゴイ!」と思わせられることが幾度かあった。まず、サルに襲われた自然生えのツルクビカボチャ。種を結ぶ下半分をもぎ取られたが、その後、子孫を残そうとの執念(?)だろうか、残った上半分を太らせ始めた。その勢いは、そこにタネを宿すのでは、とさえ期待したほど、だから後生大事に棚を残した。
異変が生じた。数日後に、その実がポトリと落ち、半ば腐っていた。その時に、次の小さな実を新たに着けていたことを知った。だから、養分を集中的に新しい実に注ぎ始めた、に違いないと見て、後日スッポリと実が隠れるようにサル対策をした。
その後、3つ目の実を結んだ。だが成長は芳しくなく、むしろ2つ目の実が急速に育ち、変色した。そこで摘果してみて驚いた。かつて見たことがない大きい実(長さ59㎝)が覆いの下から現れた。ちなみに、3つ目の実は育たず終いで、蔓がまいあがった。
それにしても、と思う。ポトリと落ちた上半分のカボチャを切り開いて、その中をどうして確かめなかったのか。確かめておけばヨカッタのだが、とクヤシイ。多分、種を結ぶ仕掛けをつくれなかったのだと思う。
昨年から、ツルムラサキは、巨大ツルムラサキ(種が獲れないF-1?)の苗を2本買って育て、在来種は自然生えに頼っている。その自然生えの1本で「さすが!」と、感心させられた。小さな鉢で芽生えたものだから、「なんとか」とばかりに6つの花をつけた。なんとかして種を残し、未来に夢をつなぎたいのだろう。
サワガニの健在を2度確認した。最初はミツバチの巣箱がある土手の下。泉とビオトープを結ぶ水路で見かけた。二度目は、居間の縁先で(ハッピーが奇妙に吠えるので、妻が覗き込んで)見つけた。
下水道が来ていなかった1963年(に小さな家を建て、排水路を設けた時)に、24時間監視員の一員として(母が水路に合成洗剤などを使って流せばすぐ分かるように)10匹ほどを放したが、その60年後の末裔。このたびの2匹、いずれもビオトープに戻した。
「やはり」と思った。ブロッコリーは、5本の苗を植えたが、その1本が集中的に虫害にさらされた。虫も(正常な環境では)、やたら食い散らかすのではなく、宿主を未来に健全に残したいのだろう。私はこの狙われた1本に、生き残って、虫害にたえる強い種を結べ、と感謝と声援を送る。
巣立ちしたばかりのメジロの雛を妻が保護した。サー大変、の時間が始まった。幸いなことに「巣蜜」があった。ヤットのことで元気をつけて、ソット地べたに放したようだ。虫害で熟した「落ちガキ(カラスかヒヨがついばんだ後だろう)を雛は見つけ、タップリたべて、飛んでいきました」と、妻は上ずった声。
昨年度仕込んだ腐葉土を使い始めた。播種し、コオロギなどにタネを食べられないようにB反のカーテン地を活かす。発芽するとトンネル栽培に。野菜は2人分だから、多品種超少量で。自慢は、レースカーテン地もビーニーシートも、洗ったり、干したりして使いまわすこと。だから私は、化石資源を掘り出すこと自体は否定はしない。問題は、億の単位の年月をかけて植物が固定した炭素化合物を、短期間で酸化して炭酸ガスなどに戻すことだ。つまり、エネルギー源として燃やしたりするを問題にしている。地球での居場所を替えて活かすことは「是」と見る。
江戸時代の持続性が期待されるいわば「清貧」の生き方をヒントにして、持続可能な「清豊」の生き方を編み出す上で、化石資源に居場所を替えさせるだけなら許されていいのではないかと思っている。その原初的な一例が、腐りにくい合成繊維の生地やビーニーシートを使いまわすことではないか。
除草にも、野草に「種を振りまかせる前に」に、と励んだ。今年は、このイネ科植物を目の敵にした。
喫茶店を切り盛りする女性軍が、竹帚を使い古し、「灰に(して、肥料にして下さい)」と捨てた。私はビニールコーティングした針金を(一緒に燃やしたくないし)廃物利用したかったので、分解し始めた。この中心部を活かせば、女性軍にピッタリの軽い竹箒になり、延命できる。
最後の夏野菜(?)と、冬野菜のハシリの季節だった。生半可な私の記憶が幸いし、何年振りかでズイキの酢の物にありつけた。何年も前のこと、赤ズイキだったのに、妻はかぶれて「とても痒い思い」をした。だからこの度は、「木灰であく抜きをして」と助言したら、「違います」とキッパリ。夕食に赤い方のズイキが活かされた。
この日は、アイトワ菜の第1次間引きも始まった。オカゲで、青菜料理がおいしいシーズンも始まった。
義妹にもらった丹波グリと、庭で拾ったシバグリで、クリご飯も堪能した。
長いムカゴを2つぶ、見つけて採って持ち帰り、「今年は採り忘れた」と言ったのがヨカッタ。「私なら」と昼食後に妻は庭を巡り、夕食にムカゴ飯を用意した。
シホウチクが出た(10/12)。佃煮と、さまざまな料理で今年も味わった。
今年はカキがタップリ採れそうだ。と言ってもわが家のカキは、さんざん虫の洗礼をうけており、傷だらけで小さい。だからひとさまに喜んで受け入れてもらえる代物ではない。そこで妻は、良いところ取りをしてサラダにタップリ活かし始めた。カリンは、しばらくの間はその芳香を楽しませていただく。
愕然! もあった。歯の定期検診で、残る歯の1本(下の第一大臼歯)の根元に深い穴が見つかった。実は、当月、調子に乗って、昔懐かしい「するめでぬる燗」を始めていた。
レントゲン診断でゾッとした。歳が歳だからと、セメントを詰める処置(減れば詰め直す)で忍ぶことになった。しかも、処置の過程で麻酔をかけてガリガリ。この麻酔が夕刻に切れ、「これはタマラン」に。生まれて初めて(記憶の限り)鎮痛剤を(これまでにもらった分も取り出して)服用しながら、気弱(?)にさせた老いを嘆いた。
その嘆きをしばしの映画鑑賞が忘れさせた。19歳だった年の3月。受験結果を聞いて、東京から駆け付けたもらえた人(中学生時代の化石採集がキッカケで知り合い、お礼のハガキが文通につなげた)があった。その人と2本立ての映画を見た。その1本が『無法松の一生』だったが、TVで見た。この人は4年後にポックリ他界したが、葬儀にもどうしても出掛けられなかった。だから今も、この恩人は私の中で生きている。だが、心にはポッカリ穴が開いたままだ。
この4日後に、明るい気分で当月も越えられそうだ、との気を取り返している。近著執筆者の集いをヤット開けそうになったからだ。若手(といっても瞳さんには孫が出来た)の3人に集ってもらえ、集いの切り盛りをしてもらえることになったオカゲだ。
かくして残る日々も嬉々と過ごさせ、「むこだまし」に熱くなった1カ月が過ぎ去った。