霜月に入った。ツルムラサキとトウガラシが主たる青菜になり、自生のアイなどタデ科植物が有終の美。最後のコイモを掘り出す。3日、熟柿を狙ってオオスズメバチが飛来。5日、妻が子ヘビの抜け殻で大騒ぎ。6日、リコリスが咲き、アイトワ菜を間引く。7日、紅葉が始まり、キンモクセイを見あげて「こんな狂い咲きは初めて」と驚く。オキダリスが満開。9日、霜が降る前にと、トウガラシを抜き去る。夜半から久しぶりの雨。翌朝、トウガラシのあとに、エンドウの種をまきました。
主な来訪者は、1日のピーターさんと造園師の中村さん父娘。7日の長津親方夫妻。その後、アリコさんがステキな報道関係者と。短大の教え子。さらに、浄水器のフィルター交換を依頼したら、木工作家の田中重希さんがお見えになった。
この間に、TVで恐竜の説教に喝采。知範さんとクルミの剪定に着手。そして、カシの生け垣の腰塀作りを、水島さんが完成させています。
終日庭仕事で始まった中旬は、終日庭仕事の1日で終わりましたが、その間に4度の外出。長津親方のお供をした亀岡での1日。FM京都で、アリコピ-ターズレストランの収録。心臓の定期検診。そして初参加の「栗の会」です。
この間に、清太君はダイコンなどを、伴さんは移住の予定を。高木先生と久しぶりの交信。2カ月ぶりの裕一郎さんの来訪。2年ぶりの鈴江さんを網田さんが案内。囲炉裏場で、乙佳さんと鉄板焼きのリハーサル。そこに、門先生夫妻の飛び入りなど。
庭仕事は、裕一郎さん来訪時に、知範さんが合流し、ベニシダレの剪定など。他に、佛大生の後を引き継ぎ、土手の手入れを。果樹園の手入れで、スズメバチの巣を確認。囲炉裏場での鉄板焼きのリハーサルに備え、妻は大焚き火。私は溜まっていた大枝などを薪に。この間に、シカが強引な侵入をしています。
畑仕事は、シーズンオフになった竹の支柱を、再使用分と焚き付け分に整理。タマネギの畝に、堆肥のマルチング。巨大ツルムラサキに防霜のカバーかけ。バジルを鉢植えにして温室に避難など。他に、妻はカリン酒作りや、イチジクのジャム作り。私はヤーコンの葉を薬茶葉になど、小まめに動きました。
下旬は、トピックスが3つ。まず、新嘗祭の日に、新米を青竹で炊き(岡田さんも交えた9人がアイトワに集い、次週に迫った近著執筆者懇親会のリハーサルで)賞味。これは新レンコンの大鉄板での試し焼から始まりました。次は27日、神谷明さんご一行を迎え、人形展示室を初めて喫茶の場に活かし、歓談。そして月末に、放射線の怖さと、ホウレンソウの移植が可能だ、と知ったことです。
この間に、冷え込みが本格化し、紅葉が見事になり、冬子の初シイタケが獲れるなど、冬を実感。妻は久しぶりの喫茶店の賑わいに(2度も下水道が詰まったこともあって)おおわらわ。私はひたすら、懇親会会場の整備に当たっています。それは囲炉裏場を片づけ、メイン通路になる畑の畝間を掃除し、かがり火用の薪を作り、さらに緑の天蓋を剪定し、夜間照明の下準備をしておく、などでした。
それにしても、と思いました。霜月は、「文明と文化」や「機会と道具」の峻別が必要、と思い知らされており、心を新たにしています。それは、パラダイムの転換が求められている今日の、必然の課題ではないでしょうか。
~経過詳細~
1、紅葉と、畑は冬姿に
1日の朝、ピーター・マクミランさんが、まず約束時刻に来訪。その時に、モミジの一枝に目をとめて、「撮ってもイイ」とポケットからカメラをとり出シ、パチリ。なぜか一枝だけ、見事な紅葉のグラデュエーション。「キレイ!」と一声。後刻、庭のあちらこちらでグラデュエーションが始まっていたことを知った。
かねてから、ピーターさんからアイトワのように、生活から出る落ち葉や生ゴミを庭で還元したい、と伺っていた。そこで、実働できる人を決めるように助言し、この日になった。
その造園師の中村廣良さんは、10分遅れに。知範さんにも(いずれ何かの役に… と思って)同席を勧めておいた。かく霜月は始まったようなもの。
話しが弾んだ。ピーターさんは1人住まいだし、畑作がなく、庭の大部分が竹藪で、アイトワとは異なる環境にお住まい。だから、アイトワの「腐葉土小屋」と「堆肥の山」を改めて中村さんと見てもらい、折衷システムを推奨した。
その時に、このプログラムの根本を、つまり有機物ゴミの処理ではなく、「バクテリアという生きものの飼育を始めるおつもりで」と助言。
この日、父中村さんを追って、その愛娘(まなむすめ)が合流し、賑わった。インテリアの世界に詳しくて明るいお嬢さんは、アイトワが、喫茶店でアルバーアルトの家具を用いていたことを知り、大喜び。なぜか、私もニッコリ、ほっこり。
テラスでは、大水鉢にセンリョウとシホウチクのタケノコが生けられていた。マユハケオモトが花盛り。大水槽のキンギョも元気。
その2日後の夜明けに、「そうだ」と、ピーターさんの目を引きつけた小枝を、私もカメラに収めたくなった。既に、一人真っ赤に着飾ったような小枝が、緑の樹海に飲み込まれそうになっており、「やはり」と思った。
午後、PCと取り組んでいると、門扉のチャイムがピンポン。「集金です」と社名だけ言って、プツンと切れた。急いで“離れ”まで廊下を走り、「お待ちください」と出窓から叫ぼうとしたが、既に喫茶店の人が応対に出ており、心配無用だった。
オカゲで紅葉が始まり、常緑のキンモクセイの緑が、一人クッキリ目立ち始めていたことを知った。
5日後に、「キンモクセイが狂い咲き」と妻に教えられ、点検。満開時とは別の部位(楕円形の樹形のテッペン)で、咲いていた。そして、気付かされたことがある。例年とは異なり、この狂い咲きの分も、香りがほとんど漂っていない。これは初体験。
翌朝、ニンジンボクの紅葉が始まっており、ネリネが咲き始めていた。
朝食に、いかにも「アイトワ菜」らしい間引き菜が、あえ物となってデヴュー。ナバナやハクサイなどの間引き菜は先月24日から始まっており、本格的な青菜シーズンの到来近し、と思わせた。
冬の光が射しはじめた中庭を眺めながら、ニンジンボク(ニホンミツバチの蜜源)の剪定方針を妻と相談。「来年は、二回りほど大きくははびこるように(剪定)しよう」となった。食後すぐに庭仕事の服装に着替える。
翌日、「霜が降る前に」と、トウガラシを抜き去り、そのあとを「ツタンカーメン(のエンドウ豆)用の畝に」と、源ちゃん方式で(夏野菜用のマルチングを鋤き込みながら)仕立て直した。畑では日毎に青菜が大きく育っている。
夜なべ仕事は、トウガラシの葉を佃煮用にちぎったが、その1枚で、蝶のサナギを見つけた。こうした時に、「好奇心に富んだ孫の1人でもが」と、つくづく思う。
14日にも“離れ”から門扉方面の樹海を眺める機会が生じた。妻が(来客用の大きな布団にカバーをかけようとして難儀して)私を呼び、手伝わせたからだ。
その時に「ひょとして」と、ピーターさんの一枝が気になり、手伝いを済ませた後、駆けつけてみて、「やはり!?!」と、思った。
その日から冷え込みが始まり、日一日と紅葉が進んだ。
畑がスッカリ冬の様相に。5株のミズナも、期待通りに育ち、冬の夕餉の楽しみの1つ“ハリハリ鍋”を4、5度は楽しませそうだ。
霜月の下旬にはいると、あの「キレイ!」の一枝はスッカリ葉が散り去っており、「やはり」が「案の定」になり、有終の美であったことを教えた。
29日の早朝、PCのある部屋(居間や玄関など四方が別の部屋で囲まれている)の室内温度でさえ10℃を切って、初めて9℃になった。
今年は、久しぶりに「紅葉が見事な年になりそうだ」と思っていたが、その通りになった。
2、目に見えない糸
今年も調理用ローズマリー(舌平目のソテーに活かせば抜群)にオキダリスが色を添えた。これはチョット自慢の混栽。畑では、自生化したアイ(畝間で芽生えた分は抜き去らない)が花盛り。庭の随所で、タデ科の野生の花が妍を競う。ちなみに、アイは枯れても抜き去らず、その場で土に還し、種を落させる(右端の写真は月末に撮影)
新しいシイタケのホダギ(を佛教大生に移動させてもらっておいたが)を、これまでの(役割を終えてボソボソなった)ホダギと取り替えながら立てかけた。この折に、残した左側の(未だ役目を果たし続けている)ホダギを眺めながら、「冬子(ふゆご)のシーズンがボツボツ到来」と目を細めた。
一足早く役割を終えて、運び出したホダギを、フェイジョアの根元に(乙佳さんに苗木をもらった果樹の若木)に、置き肥として移した。側では、さちよさんにもらったアーチチョークが元気に育ち始めている。
ホダギが(数年にわたり、シイタケを出し切って)ボソボソになったのは、目には見えないキノコ菌など微生物のなせる技だ。その偉大な働きに感謝した。庭では、落ち葉が盛んに降り注いでおり、キノコのシーズンがまだ続いていた。
「それにしても」と思った。微生物は電子機器などの発達によって、次々と可視化がかなってきたが、見える人には見えるのに、見えない人にはどうしても見えない何かが世の中にはありそうだ、と。
「落ち葉はゴミ」と見てしまう人がいる。庭のありようも、お金持ちでないと作れない一糸乱れぬ庭を愛でる人があれば、「野にあるように」と願う人もある。そう考えているうちに、ふとTVで見た恐竜を思い出した。
恐竜(不可抗力で絶滅した)が人類への提言をした。それは、人類よ、(人為的な)絶滅の道を選ぶな! だった。それは、目には見えない“自然の摂理”を尊び、「不自然を謹んで!」との忠告のように、私は観た。
「そうだ」とばかりに実行に移したくなったことがあって、わが家の小さな竹やぶに走った。昨年、祐斎さんが、愛でたように、落ち葉のジュウタンを愛でる人が、一人でも多くなるように、と願ってのことだった。
ほどなく、庭は紅葉の落ち葉がグラデュエーションに。
霜月はかく始まったようなものだが、その後、月に1度あるかないか分からないほどの喜びに、4度も5度も巡り合える1カ月になった。その最初は、高木由臣先生から届いた1本のメールだった。実は、かつてこの先生のオカゲで、胸を張って処女作を33年前に世に問うている。
まず「私たち高等動物は『死ぬ』のではなく『死ねる』のだ」と教えてもらえた。おかげで、「人生観」は完全に「死生観」に切り替わった。心が中空を舞うがごとくに軽くなった。そのおかげだろうか、想いを(たとえば、落ち柿を小鳥の身になって、居場所を替えるなど)形にしやすくなった。
ファッションビジネス界に属していた当時、このビジネスが水商売と呼ばれる所以を突き詰めたくなっている。ある仮説をたてることで、ついに謎が解けた。だからファッションビジネスを「上流社会化産業」と定義もし、「儲け続ける秘訣」を手に入れた気分になった。それは同時に、ファアッションビジネスの範疇を、自動車産業や弱電産業など耐久消費財にまで広げさせたし、ついには足を洗わせるキッカケにもなった。
今にして思えば、レジャーランド乃至は(その後出現した)ゲームソフトやファイスブックもその範疇だろう。要は、欲望を解放する産業、と睨んでいた。
だが、仮説は仮説にすぎない。「金儲け」には活かせても、胸を張って文字にはまではできない。だが、この先生の裏書を得たような気分になって「言い切ってヨシ!」と、私は心に決めた。つまり、高等動物は「3つの脳」を持っているが、人間のみが、その2つを「動機の発信源」に活かし、我を忘れかねなくならせかねない、との指摘だった。
だから「本能に溺れないように」と心がけると同時に、逆に、煩悩に負けた人に対して、とても寛大になれたように思う。
決定的に未来が見通しやすくなった、かのように感じた。おかげで、バブルの初期に「ポスト消費社会の旗手」を目指そう、と副題で呼びかけることが出来たし、次著では(バブルがはじける前だったが)「はじける」との啓示を記せた。
ファッションビジネスの新定義を立てることもできた。その後、世の中は、その新定義にそって動いている、と言ってよいだろう。余談だが、、ここに民主主義の危機の源泉を見ている。
このようなことを振り返っていると、またハプニングに恵まれた。妻もとても慕う医師であり友人の門祐輔先生が(薬剤師である夫人と)ヒョッコリご来訪。おかげで、忘れがたい思い出(妻の奇病)を久しぶりに振り返るキッカケになった。
折よく、囲炉裏場では、石組みの囲炉裏の上に無煙炭化器を移動させて、乙佳さんが鉄板焼きの試験中だった。これは、見えない糸で結ばれた仲間が一堂に会するための下準備であった。そこに、梶山壽子さんを招いていた。彼女には新著の実質上の編集人のような役目を引き受けてもらったので、 “一堂のゲスト”として参加して頂くことになっていた。
おかげで、門先生には後日、メールで「お会いできた2人の女性も個性的で、お話も面白く」と喜んでいただけた。
その後、立て続けに4つの知らせに恵まれた。その最初は、豊作のカリンの実が次々と落ちて、「カリン酒を漬けろ」との知らせだった。次いで、ヤーコンの葉が寒さで焼け始め、またイチジクの実や葉は寒さで縮みあがり、「茶葉にせよ」とか「甘露煮に」などと迫った。さらに冬子のシイタケのハシリが出て、その味覚の到来を教えた。
イチジクは、多くの青い実をとった後、来年の豊作を願いつつを剪定を済ませた。
この1カ月は目には見えない糸に操られたような一面もあった。目には見えない糸とは自然の摂理(多くの人が神と見まがうチカラ)の波動かもしれない。
3、道具は人間の延長
「失敗しても捨ててはイカン」「親方とは、弟子が失敗したものを直して“売れるもの”にする。それが芸術家と違うところダ」と、「親父(親方)に仕込まれました」とある鍛冶職人。この人と13日の朝に、1時間余、また語らうことができた。
この日からさかのぼること6日の、7日の午前、長津親方を迎え、3つの話題で心がなごんだ。まず、ある資料を取り出し、原発の危険性と不採算性などをご指摘になり、情報を交換した。そこに真の職人の想いと姿を見た。
「文化が育んだ真の職人の誠実さ」を秘め持つ心には、「工業文明のオトシゴの1つ」原発は(いわんや原爆は)馴染まない、はずだ。使い込むほどに人間を進化させる道具と、頼るほどに人間を退化させる機械の差異が、その分水嶺だろう。
道具を駆使させられていた奴隷は(機械化が進んだが故の)失職(リストラ)を、自他ともに「奴隷解放」と見たし、今も見られている。だが、昨今の機械化が進んだが故のサラリーマンのリストラは、誰も解放とは呼ばないし、呼べない。ちなみに、奴隷解放はイギリス、フランス、そしてアメリカへと、産業革命に波及の順に、進んでいる。
「包丁一本、晒しに巻いて」とはいかない。いわば、文明はすべての人を寄生虫にしかねない。大げさに言えば、地球に寄生し、地球を食いつぶさせる。平たく言えば、文明が生み出した“開発の機械”は“破壊の機械”である。
話題の2件目は、日帰りで「職人の世界」を垣間見ては! との案内だった。最後は、念願の列島に、泊りがけで出かけるプランであり、これにも前のめりになった。
そして午後のこと、有子さんを迎えた。まず、アリコ(有子)さんがお持ちのラジオ番組に、夫婦でゲストに、と誘われた。その後、これがキッカケかのごとくに、ステキな報道関係者同道の再訪や、とても楽しそうな映像コンサートへの案内。あるいは、ある寄り合への参加を勧められた。
「職人の世界」を垣間見る機会を生かしたくて、13日は当月最初の外出になった。「全国削ろう会」の第36回大会が亀岡で開催された。そこで、搬入を手伝いに駆けつけた鍛冶職人と会った。
全国から集った大勢の大工さんがミクロン(0.0001mm)の世界に挑戦した。この人たちを支える様々な職人も全国から集ったし、そのあり様に惹かれた一般来訪者でも賑わった。
「削りの名人」コンテストには女性が2人挑んでいた。「こんなカンナがあったんだ」と、初め見るカンナにも感激した。
そういえば、と乙佳さんとの出会いを思い出した。12年昔のこと、1枚の抜き刷りを彼女の母親から紹介され、妻と2人して心惹かれた。
「全国削ろう会」の会場には、24の(大工仕事を支える応援団とも言いうる)個人ないしは組織が集っていた。天然砥石は、資源の底が見え始めて久しく、人造砥石は発達途上にあるが、比較検討する機会を得て、先は明るい、と安堵した。墨壺職人とは語らいもした。さまざまな鋸や刃物を新たに知ったし、カンナくずをストローに再生するアイデアにも触れた。
問題や(この大会の先行きへの)疑問がなかったわけではない。つまり、よき大工は薄く削れるのだろうが、「逆も真なり」と言えるのか、との不安であり疑問だ。一点突出型の「いびつな人」を生みだし、ひいては「いびつな社会」に誘わないか。その積算が、環境破壊へと文明人を誘って来たのではないか、との不安でもあった。
わが(画期的な「鋸の目研ぎ」を紹介する)長勝鋸のブースも活況を呈した。それまでの鋸では(一尺角ヒノキを)3mmより薄くは切れなかったが、長勝の目研ぎ鋸では1.98mmを達成している。
その「匠」に魅せられた一般入場者の中に、若き日の妻のごとき目を見たが、たちまちにして「案の定」になった。
その後、次々と頭のやわらかそうな人たちに、体験や経験を重ねてもらえて頼もしく感じた。とはいえ、「幸い島のイモ」ではないが、年老いたオス(男)は既成概念を打破しにくい(既製概念から脱却しにくい)ようだ。それだけに、人類には、10年も15年も(その世代交代を)待っている猶予がなく、頼もしげな若い人たち(未来世代)に、申し訳なく感じた。
これも「職人好みだろうか」と、思わせられる出展や、出来事にも多々出くわした。その極めつきはゲンノウの柄に用いるための様々な用材だった。
その気持ち、私にもよくわかる、とニンマリ。記号化出来ないのが、いや記号化してはいけないのが、個々の人間の“かけがえのなさ”ではないか。要注意は、文明は”人間をステレオタイプ化する装置”と言えなくもない点だ。
23日、新著執筆者懇親会リハーサルの日だったが、新嘗祭の日であった。乙佳さんはこの当月2度目の来訪は、家族3人で。瞳さんはご主人と。かくして知範さんを交えた6人に加え、新著のキッカケを作った岡田さんに(梶山さんに次いで)駆けつけてもらった。
主目的は、ガーデンでの、さまざまな料理の段取りや、宴の心積もりや役割の分担だった。もちろん、雨の場合は、も考えておきたかった。
乙佳さんのご主人・哲さんは24人前の鉄板焼きのリハーサルも。乙佳さんが先日、鉄板の焼け具合をテスト済だったので、うまくいった。瞳さんは知範さんと2人で太い竹を切り出し、大ちゃん(こと乙佳さんの息子の大成君)と竹の食器作りもお試し。瞳さんのご主人(旧交を久しぶりに温めた信義さん)は、什器やコンロを調整し、ご飯を炊く竹の容器をつくり、滋賀の米ミズカガミの新米の試し炊きも。
かくして新嘗祭の日に、新米を食するという初体験に浴せた。
瞳さんが、お茶は「竹の葉茶を」と言って、大ちゃんと作った竹の器の試作品を活かして振る舞った。その間に、大ちゃんは竹で箸作りに没頭。リハーサル終了後、瞳夫妻は太い竹を持ち帰り、箸、コップ、あるいは炊飯する竹の器などを作って下さることになった。
乙佳さんは、息子が道具をねだった時は惜しげなく買い与えるようだ。だから、かつて記したエッセイの1本を、思い出した。創る遊びを尊び、つぶす喜び(既製のオモチャに遊ばれてしまう)を危惧した一文だが、これは見えない糸を吐き出しよくする秘訣の1つであるように思う。
27日にも旧交を温めえる機会があった。菓子やケーキにかけての匠・職人技でいえば、この人の「右に出る人は・・・」と思っているNoéの石野夫妻に立ち寄って頂けた。シュークリームやショートケーキなどの生菓子は、赤穂の店でしか味わえない。なんとか「もう一度訪れたい」と、願った。
当月は、木工作家の田中重希さんと、およそ縁がなさそうな案件がキッカケで触れ合い、2度にわたって語らう機会をえた。
その動機は「恩返しでやっています」と聞かされ、そのわけを詳しく知りたくなって、再訪時は昼食にも付き合ってもらった。本職の作品を知りたくなり、写真を持参ねがってあったが、その1つを知って「残念」な思いがした。両親のためにコンパクトで個性的な仏壇を選びたかった。
職人は、「想い」を願い通りの「形」にしたくて、自分専用の様々な道具を揃えるものだ。だから自分専用の道具はカラダの延長、と考えられている。
言葉を変えれば、多くの生きものは、幾世代にもわたって進化を重ね、己の「想い」や「願い」をかなえてきた。だが現生人類(ホモサピエンス)は、特殊な進化方法を編み出した、と言える。その典型例は、「道具」の開発と駆使する「技や術」の習得による一代限りの超特急進化だろう。それは”人間の解放”ではないか。だが、その後、文明は逆に、人間を”欲望の解放”に誘う。
その田中さんの道具を基盤にして、ご子息が己の想いを形にしようと願い「技や術」を磨いている、とおっしゃる。愛弟子と親方の厳しい間柄を見る思いがした。この「匠」の世襲が”文化財”を生みだして来た。逆に文明は、「利権」の世襲をすすめさせ、”ごみ”を生みださせてきた、と言えなくもない。
この方向(「匠」の世襲)は、持続性が望める未来を目指させそうだが、地球の寄生虫と化した人間の余命がある限り(世代交代が進まない間は)ご用心、それとの鬩ぎ合いにご用心と言いたい。
水島さんには、また新たなレパートリーが増えた。加齢対策の一環として、生け垣に腰塀を添える工事に挑んでもらったが、見事な腕前だった。この一帯では(耐震性にも配慮した)生け垣が奨励されてきた。だが、高齢化や空き家の増加で手が回らず、枝の張り出しという問題が露わになりつつある。この点を見込んで、加齢対策の一環策として可視化したかった。
この作業は余禄を生んだ。道行く人の声を水島さんは拾っていた。話題の多くは2つに分類できた。1つは、昨年までの「ボッタクリ商法」という負の遺産。
「ここらあたりだけど、止めたようね」とか「ヤッパリ、あれではアカンかったんやろう」との発言が主で、その前後に「どっち側やったんかなぁ」などが伴っていた、という。「住人が入れ替わったのでは?」との見方は1つもなかったらしい。
「そうであったのか」と、パリを思い出した。観光地として繁栄してきたパリだが、そのシステム(悪しき住人の入れ替わりを用心したシステム)に想いを馳せ、「さすがは」と敬意の念を抱かざるを得なかった。
2つ目は、手植えでつくり上げたモミジのトンネルへの評価だった。「紅葉(の時も)も観たいなぁ」とか「もういっぺん、来ましょうョ」と、例外なく触れてもらえたらしい。このトンネルは、月末近くに霜が降り、60年前のイメージ通りに紅葉した。
この半世紀がかりになった手作りの生け垣を眺めながら、フェイスブック社の身の処し方に想いを馳せた。同社は、フェイスブックがアメリカで社会問題化すると、満を持していたかのごとくに社名を「メタ」に変更していたからだ。
わが国も、こうした目には見えにくく、数値化が難しい問題(課題)に、その本質に、一刻も早く精通しなければ取り返しがつかないことになるだろう。これも「設ける秘訣」の1つであり、3著目『ブランドを創る』(講談社)で経験談を紹介した。
4、サトイモで、閃いた
サトイモは3回に分けて掘り出したが、最後の3株はいかにも未成熟で、通常の株に比し、いかにも貧相だった。それは、種イモが(妻が食材に使い残した)小さなイモだったし、植え付けが遅かった上に、葉を(2度にわたってことごとく、黒くて大きな)イモムシに食べられてしまい、成長が遅れたからだ。
ならば、これを好機に、と考えた。「このままの状態で、来年の春に植え付けたら、ひょっとして」と、考えたわけ。
熱帯で育てられていたら、どうなっていたのか。掘り出さない限り、母が子を、子が孫を、と次々と(クローンを)増やし続けていたに違いない。そして、祖母にあたるイモになると順に、次々と土に還っていっていたに違いない。
つまり、この貧相ながら、頭イモ、コイモ、そして孫イモから成り立っている3株を(越冬ではなく)冬眠させることが出来で、春に植え戻せば、そのまま成長を再開し、全体として大きくなるのではないか、と思ったわけ。しかし、冬眠のさせ方が分からない。
かく考えながら、貧相な3株を丁寧に新聞紙に包んだ。そして、先に収穫した分の半分(残る半分は既に「室」に収納済み)を、春までに食す分として(これも、頭芋の腐りやすいズイキ部分を取り去ったうえで)発泡スチロールの箱に収納した。
サトイモは一般的に、コイモを越冬させて、それを種イモとして翌春に植えつける。それが親芋となってコイモをつけ、コイモが順調(?)に育つと孫イモをつける。この間に種イモは役目を終えて土に還る。この時点で、日本では冬を迎えるから掘り出すことになる。この時に、親芋を頭イモと呼ぶようになる。
ここで、また新たなことに気付かされ、考えた。この貧相な株を越冬させ、翌春に、頭イモとコイモと孫イモを、それぞれバラバラにして植え付けたら「どうなるのか」。おそらく、「サトイモの気になって考えれば」、頭イモも含めてすべてが芽を出し、増殖するに違いない、と思った。コイモと孫イモが芽を出すのは自明だが、親イモ(子や孫をもぎ盗られてしまったた頭イモ)も芽を出すのではないか、と考えた次第。なぜなら、野生で、野獣に、孫イモやコイモを襲われたら、親イモは腐って、この株は絶えてなくなるのか。「そうは、柔ではないだろう」。キット、絶えずに、新たなコイモをつけるに違いない、と思ったわけ。
だから、なんとしても来年の今ごろまでは元気でいたい。この考え方の是非をこの目で確かめた、と願った。
良いことが重なった。第二のカボチャを見定めることができた。夏に収獲して、屋内にぶら下げておくだけで越冬したカボチャがあった。その白いカボチャを、この5日に、ポタージュにして朝に、煮て夕に食したが実に美味。
日焼けして、表皮の色は変わったけれど、収穫してから1年4カ月も日持ちしたことになる。種を残した。第一のカボチャは、同様においしくて果肉が各段に多くとれるツルクビカボチャだが、これからこの日持ちの実験をしたい。ならば、来年の暮れまで黒い目を輝かせて置きたい、と願った。
このような気分で裕一郎さんを16日に迎えた。実はこの日は、知範さんが近所まで、別件で訪ねる日であった。だから、その要件の前に1時間ほどわが家に立ち寄ってもらい、PC作業をこなしてもらうことになっていた。
幸か不幸か、知範さんは、要件がドタキャンになってしまったという。つまり、ついでに立ち寄ってもらうことになっていたが、そのついで(約束だけ)を「わざわざ」果たして訪ねてくれた。そこで、PC作業をこなしてもらった後で、パーキング場沿いの木の剪定作業に3人で取り組むことになった。
2人でする予定が3人になり、ならば、と急遽1本の記念樹、ベニシダレザクラの大枝落しという懸案に、知範さんに取り組んでもらうことにした。それがヨカッタ。
まず、大枝から分かれた小枝の切り取りから手をつけてもらい、その小枝を囲炉裏場まで運び去る役目を、裕一郎さんが引き受けてくれた。おかげで、私の手が空き、知範さんの作業ぶりを眺めておれた。それがヨカッタわけ。
小枝を切り落としている途中で、つまり小枝がまだ1本残っていたが、ストップをかけることが出来たわけ。その小枝を残しておいた方が、樹形上で、良い、と分かったからだ。
「そうであったのか」と気づかされた。それは庭師の親方の役目だ。親方は弟子の作業を眺めているが、それは、順々に落す枝を決め、落させて行きながら(絵描きが次の一筆を考えるように)全体のバランスを考えて、(絵描きは足し算だが、庭師は引き算で)考えていたわけだ。それが、弟子の指導でもあったのだろう。
この日は、裕一郎さんと大事な相談事があった。それでなくとも(ベニシダレザクラにまで手を出したので)時間が押していた。だから、ベニシダレザクラの仕上げは後日に回し、中断した。それもヨカッタ。
翌日(一見では)枝打ちを終えたようなベニシダレザクラにのぼり直し、切り口の補修(樹肉で覆わせるため)に取り組んだ。おかげで、幾年か前の枝打ちで失敗していたことも分かった。だからその分の補修もする気になった。
剪定作業に弾みがついた。先週、知範さんに(私の手に負えない)太い枝を切り落してもらった(が、不都合な細い枝が残っていた)クルミの木に取り組み、のぼって仕上げ作業に取り組んだ。
次いで、2本のキハダの枝落しに移った。キハダでは、この樹種の剪定法をマスターし、完成の域に達していたつもりだった。だが、未達であったことに気付かされており、反省しながら、補修した。
この反省と補修の余勢を駆って、囲炉裏場の緑の天蓋にも手をつけた。この作業は、次週に控えた懇親会(ガーデンパーティ)の準備作業でもあった。だから強引に仕上げたが、午後のお茶を運んだ妻に、コッピドク叱られた。
なぜなら、スライドハシゴを、ほぼ垂直に立てて使つかっていたからだ。去年は、こうした作業は、ハシゴが倒れないように未来さんに支えてもらった。今年は知範さんに支えてもらっていた。だが、それがかなわなかったので、万一の場合は(後ろにデングリ返っても)ツバキの木がクッションになる、と読んでいた。だが、妻の耳には屁理屈に聞こえたようだ。「歳よりの木登り」という諺があります、とお袋のごとく諺を引っ張り出した。
それはともかく、高く伸びた枝を無事に切り取り終えた。おかげで、十分に木漏れ日が通るようになったので、この木の下部に常設している植木鉢に、パンジーを植え付けることも出来た。メデタシ、メデタシ。
霜月は同やら、コイモで一考、のおかげだろうか、気分や脳が活性化したのかも知れない。バジルとネギで新たな試みをしている。
ネギは、加齢対策の一環でもあり、新植栽と新収獲法を採用し、妻を大いに喜ばせている。詰めて植栽し、畝に苗を植えていない部分を残す。収穫は、1株毎に収獲し、根の部分を少し残して使い、根の部分を畑に戻す方式だが、早ければ、来月にも紹介できそうだ。
これは1つの「正解」を創出しつつある実例、であるかのように思う。料理に応じて(薬味には細目を、など)収穫できるし、翌春まで畝をエンドレスに活かせそうだ。
バジルでは、生葉が活かせる期間延長に、挑戦し始めた。2倍にはできそうだが、次年度は4倍にする試みを、とイキリたっている。
以心伝心だろうか。妻はカキの実を初めてサラダに活かし始めた。
次年度のサトイモとカボチャの実験予定で夢が膨らみ、勢いがつき、思わぬ大仕事?(文明的視点で見れば、足掻き)を次々と終えられたような気分だ。ちなみに、”緑の天蓋”の剪定から出た(切り取った)枝は、目立たぬところに(佛教大生の焼き芋に備えて)積み置いた。
5、生きがいと生き方
このたび(アイトワの喫茶店にとっては必需品である)浄水器の部品を交換した。今は亡き親友(元蝶理の常務で、重度の肝臓疾患に苛まれていた伊藤淳平さん)の推奨で、10年余前に(高価だったが)設置した代物だ。
伊藤さんは、年に幾度かの歓談が楽しみの親友で、この(水道水を逆浸透水にする)浄水器のオカゲで命を随分長らえていた。
この浄水器の問題点は、何年かに一度、フィルターの交換が必要なことだ。フィルターが(ろ過した不純物で)詰まってくると、ろ過水量がさがる。
このたび、その交換に、木工作家の田中重希さんが当たっていたことを知って、まずビックリ。次に、「三原菌」と呼ばれるとても優れたバクテリアが、「なんと」国によって封印された経緯を聞かされて、2度目のビックリ。
この生ゴミを見事に分解するバクテリアは、細菌学者の三原博士によって発見されたが、生命力に欠けていたらしく、商品化する(延命させ増殖させる)うえで逆浸透水が必要になった。そこで、この(完璧と言ってよい)浄水器が開発されたが、そのタイミングが悪かった、という。
国によってこのバクテリアは封印されてしまったらしい。オウム事件が騒がれていた最中のことで、骨まで即座に分解してしまう点が問題視されたようだ(真偽のほどを私は確かめたわけではない)。結局、この浄水器だけが残ってしまった、という。
他方、当時、田中さんの奥さんは重度の消化器疾患にさいなまれており、医師から逆浸透水を飲用することを勧められ、探し回っていた。ついに噂を聞きつけ、九州の三原博士を訪ね、商品化を計っていたこの浄水器に巡り合った。おかげで今も夫人は健在だし、蝶理の伊藤さん(と知り合い、その疾患を知り)にも紹介した。
振り返れば、最初の電話応対から、チョット変わっていた。まずこちらの住まいを聞き、「伺えるのは早くて明日」とおっしゃった。わが家とは京都の反対側にお住まいだった。次に、交換するフィルターの値段を説明し、最後に「私の経費として5000円をいただきますが」と申しわけなさそうに付け加えられた。
お迎えし、現場に立ち、まず「コップを貸してもらえませんか」とおっしゃる。浄水器を経た水は含有物“000”で不純物なし。次いで、水道水は“800”だった。
不慣れだが、丁寧な手つきや段取りを見て「?!?」の気分が倍加した。その慎重さは痛々しいほど。だから質問を始めた。田中さんがご存知の範囲で言えば、京都の水道水では、伏見区がわが家に来ている水道水より不純物が多く、大阪のそれは5割余多く不純物を含んでいるらしい。
本職も伺った。次いで「恩返しのつもりで」のわけ(夫人の延命)も知り得た。さらに、この度は、わが家の機械はフィルターの交換だけでなく、貯水タンクも不具合だ、とおっしゃる。
その交換の必要性を気の毒そうに説明し、ケイタイでその在庫や価格を問い合わせて下さった。タンクが届くまでに両3日ほど待たなければならなかった。
観光シーズンだったが、幸いなことに(?)閑散としていたし、喫茶店用に一両日分の水はとり溜めてあった。私たちの煮炊きは、水道水で充分だ。
そもそも、好ましい水に対する私の認識は、不純物が零を願っているわけではない。むしろ、20万年もの歴史を経てきた現生人類の身体には、土地柄に則した自然の水が一番望ましく思われる。悪いのは不自然、つまり人間が創出した(これまでこの世になかった)化学物質や、自然物とはいえ、その量の急激な変化や、人体に有害な細菌や、毒物の混入などだろう。
わが喫茶店に電話を入れ、コーヒーの出前(私にだけ許されている)をたのんだ。おかげで話題は、田中さんの身上や心情、あるいは信条にまでが広がった。
田中さんを見送った後で、ネットで「三原菌」を調べたが、ヒットしなかった。だが、昨今の水道用水が、いかにも危険な状態にさらされつつありそうだ、という点を追認した。
余談だが、私はこの水に加え、橋本宙八さんの半断食道場参加を経て、3錠に増えていたワーファリンが不要になった。また、元気に庭仕事も出来ている。だから、私にとっては、今や機械というより、生きる道具の1つになったいる。
幸い、タンクは2日後に入り、工事は完了、水質検査で、もちろん不純物は000。問題は請求書明細だった。日当が5000円になっていたからだ。田中さんは、2日分など「とんでもない」と真顔で応じられた。
この人は真の職人だ、と思った。印象派など近代芸術以前の芸術家(アルチザン)と同様に、相手の身になってしまわれるのだろう。この人が言う「恩返し」という言葉の重みを知った。
逆に、手土産の追加を頂いた。私が亀のコレクターと知って、「これは黒檀、これは神代ケヤキ(火山灰に600年間も斜めはすかいになって埋まっていた欅)」などと言って、下さった。百貨店の発注で、帯留めとして造ったが、売れ行きがとまり、引き取ってもらえず、キーホールダーに改造した、とおっしゃる。なんだか、大きな借りが出来たような気分になったし、ご子息の幸せを願った。
霜月2度目の外出は12日。有子さん(がαステーションでお持ち)のFMラジオ番組・アリコピーターズコレクションのゲストに、と誘われた夕べだった。自己完結能力と自己責任能力をやんわりと訴えた。コロナ騒動下だったので、夫婦個別の収録となった。だから、それで(私とともに、抑制的な生き方を共にして)「幸せですか」とでもいった質問を妻にしてもらいたかったが、なかった。
次の外出は翌日の午前で、心臓の定期検診。腎臓や甲状腺も安定してきた。4度目の外出は、その日の夜に開かれたある寄り合いだった。
京都府の職員でありながら、世界の栗に精通した人として知られる小林正秀さんが主宰の「栗の会」。「天喜」の社長宅に25人が集い、栗三昧の夕べを過ごした。
このような余暇活動で、しかも乱暴にも見える活動で、私よりゴツイ手になるほど打ち込みながら、役人が務まっている。よほどクリーンで律儀な一面がないと務まらないはず、と勝手に思い込み、その興味に背を押されての参加だった。
「皆さんは、ブドウを買う時はデラウエア―下さいとか、マスカットを」などと言うはずだが、なぜクリは「栗ください」になるのか、との発言にまずハッとさせられた。次いで、美味しいクリの見分け方(重さ、匂い、そして粘りの点検)、クリの美味しい品種を始め、クリは(ビタミン、ミネラルをはじめ、植物繊維にも富んでおり)薬でもある、などと多々学んだ。
わが家のシバグリ(秋の味覚の1)は小さいが、味は格別で、妻は1つ残らず丁寧にむいて活かす。シバグリ同様においしくて大きなクリ(1にミクリ、2にポロタン)があることや、シバグリの10倍以上も大きいクリがあることも知った。
実生のシバグリと、品種改良した大きなクリのいずれが、より薬効に富むのかナ、と思う。いつか、この人に、職人が役人を兼ねたようなこの人に、尋ねたい。私は、シバグリの方が優れているはず、と思っている。
宴は、サラダから始まり、メインの天ぷらを始め、栗ご飯、そしてクリ尽くしのデザート(絶品)などを堪能した。参加者のスピーチは、副業や余暇活動を主に紹介するように、と促されたが、これもヨカッタ。
スイスに学んだというフォレスターアカデミーが本年、日本で誕生したこと。あるいは、日本は子宮頚がんワクチンで躓いたが、その仕切り直しに注いだ女性の情熱も知り得た。台湾との親善。あるいは、着物の仕立ては、いまやカンボジアに依存しているなど、参集者の多様さがしのばれる自己紹介が続いた。
この間にあって、清太君をともなって訪れた伴さんに、「清太が育てた」という太くて大きなダイコンを2本、私の不在中に届けてもらえていた。早速フロフキダイコンにして賞味。さすがは農業高校生、合格の育て方、とニンマリ。
その後、「これから行っても」との電話の上で、家族で訪ねてもらった。清太君の頼もし気な姿を見た。1つ違いの妹、利発な藍花が、兄の学校に私も、と願った気持ちがよく分かった。己の願い(想い)が、願ったように「形」となって実を結び、自他ともにその成果を体感し、共感する。これがその自信の源泉だろう。
仲間と育てた野菜やモチ米、あるいは豆腐やヨーグルトをもらった。
伴さんは新たな夢をくれた。ゲストハウスを閉めた後、伴さんは主夫となり、妻の葉子さんが現金収入を得るために働きに(パートでホテルに)出た。ほどなく正規に採用され、掃除担当の采配を振るっている。
この間に伴さんは第3の人生、おそらく終の棲家を見定めようとしていたのだろう。移住先を決めたようだ。「そこなら昨日、出掛けていた」と大笑いした。『次の生き方Vol.3』が出せる時には、参加してもらいたく思った。
6、嬉しい知らせや来訪者
今夏はオオスズメバチ(この庭では昆虫界の頂点を占めているように見てきた)と1度も出会えず、心配していた。だが、先月の末近くになって(アシナガバチや小形スズメバチが、それぞれの巣から姿を消した後で)恵方屋台の周辺を庭掃除中に、その飛来を妻が羽音で気付いた。最大級のオオスズメバチだった。2人はその動きを1~2分ほど目で追い、妻は時々首をすくめ、私はケイタイで幾度もシャッターを切っている。だが、ことごとく失敗しており、ガッカリだった。
ところがこの3日、恵方屋台からそう遠くないところで、熟柿にむさぼりつくオオスズメバチを見かけた。やや小型だった。おそらくこの夏に、どこかで分蜂した新女王バチが、冬眠前の採食のために訪れたに違いない。
これが、茶の木の中にあったスズメバチの巣を思い出させた。果樹コーナーの草刈りを、ハチの警戒音を聴いて以来、中断していた。
睨んだ通りに大きな巣だった。おそらく、私たちが2人で4~50匹(ミツバチの巣箱にチョッカイをかけた分)の小型スズメバチを退治したが、その巣に違いない。
5日、「どうにかしてください」「あの人が見つけた子ヘビの…」と妻が息せきって、喫茶店の朝の掃除から返ってきた。カフェテラスの階段下倉庫で、子ヘビの抜け殻を見かけての大騒ぎだった。
常は鉄の扉を締め切った掃除道具の倉庫の中だから、子ヘビの脱皮には安全上、打ってつけだろう。だが、問題は、その出入り。誰かが扉を開け閉めする隙をつくしかない。しかも、周りには身を隠すものは何もない。「さすが!」と、子ヘビを褒めたくなった。
翌日、厭離庵の慧桃君が自転車で、1人で初めてお使いができた。
その後、妻がパンジーの苗を買いに出る車に便乗し、最寄りのHCでタマネギの補充苗20本と、冬キャベツの苗を10本買い求め、遅れ気味だが植え付けたり、ツタンカーメンのエンドウの種をまいたり、と畑仕事に精を出している。
また、中旬は4度の外出もあったし、嬉しい来客にも恵まれたが、とりわけ短大時代の教え子・三浦さんと、元アイトワ塾生の鈴江さんに会えたのが嬉しかった。
三浦由紀さんは、在宅を前日の電話で確かめ、訪ねてくれたが、学校ではいつも廊下を走っていた人だし、これまでに幾度か訪ねてもらっており、妻も顔なじみ。今回は「先生が」言っていた通りの「世の中になった」と言いたくて、名古屋から(出張を活かして?)立ち寄ってくれたようだ。近著『次の生き方Vol.2』をギフトした。
鈴江朋子さんは、網田さんと連れだって、待ちに待っていた嬉しい報告を携えての来訪だった。
この頃、シカの侵入が始まっていたが、ついに円形花壇のパンジーが丸坊主にされた。その後、獣害柵の扉の一か所を閉め忘れた夜は、畑のホウレンソウが食い荒らされてしまった。
「シカの仕業だ」と思ったが、侵入口の近くには他の野菜がムクムクと育っていたのに、見渡しても一切被害がなかった。そこで、ままよと「これを好機とすべし」とばかりに思い直し、抜かれたホウレンソウを植え戻すに留めた。初めて試みるホウレンソウの移植である。
その後、良いことが3つあった。先ず、畑の奥の方の畝間で、糞を発見しており、シカだと断定できたし、他の野菜にはいっさい手を出さず、侵入口からすれば随分奥の畝の若いホウレンソウだけをつまみ食いしていた、との事実を知り得たこと。
2つ目は、ホウレンソウは、引き抜かれ、葉を噛み切られた分であれ、移植が効くことを知った。これは、シカの被害が幸いした大きな収穫である。
3つ目は、畑に侵入するには、その前に、まず庭に侵入しなければならない、から始まる。その侵入口は探しまわり、残るは「ここしか」と、目星をつけた。また、妻は、いつものようにパンジーなどの植え替えを、と言ったが、辞めさせて私流の手を打った。それは薪の端くれを活かし、言い訳の立札を円形花壇に立てたことだ。
加えて、門扉の内側に防御柵を立てて寝るようになった。
そのおかげで、だろうか。一度シカは防御柵に脚をひっかけたようで、これを機に、今のところ侵入がとまっている。この他にも、人や天からの贈り物が続いた。
ある日、緑色のカメムシと、この庭では初見のカメムシを、共に見かけている。これを喜んでいたら、夜には、とても小さくてすばしこく動く初見の昆虫が、食卓に現れた。寸法を、と目を離した隙に見失った。
樫原の八木町から、先月訪れて案内してもらあった平田千夏が、今井町の資料などを送って下さった。おかげで記憶を新たにした。
新聞記事で、今年は10頭ほどしかアイトワの庭に飛来しなかったアサキマダラに関するニュースに触れた。
かと思うと、祐斎亭の水鏡が新聞に載り、祐斎さんの声を聴きたくなっている。
この間に、瀧野喜八郎さんには2度もお訪ねいただけたことを知った。ヒョットすれば瀧野さんは24時間、奥さんと連れ添って行動されているのかもしれない。
26日には山中夫妻に立ち寄ってもらえ、旧交を暖めた。その昔、大丸の幹部をアメリカに案内したことがあったが、その時の若手現地駐在員だった。その後、京都支店長になったのを機に、思い出してもらえ機会があり、親交が始まった。この度は、ある共通項に気付いていただき、訪ねて下さった。
さらに、当月の大団円がごとき来訪者に恵まれた。神谷明さんご一行だが、かねてから神谷さんには妻の人形を気に入っていただいてきた。だからだろう、妻は初めて「ここで喫茶を」と、人形展示室に案内した。
その上で、「いらっしゃればご主人も、とおっしゃっています」と、知らせてくれた。もちろん私も、短大時代から、存じあげていた。
日本で最初に、大学と名がつくところでストーリー漫画やアニメなどを対象にしてマンガコースをつくったが、それが視界を広げさせた。宇宙戦艦ヤマトや北斗の拳などの声優や、俳優、あるいは教育者などとマルチタレントの人として認識した。
おかげで、このたびもタレントのタレントたるゆえんに脱帽。互いの教職の思い出話しでは、自慢たらしい話までしてしまった。
予期せぬ知らせにも触れた。私がこしらえた庭先の小さなブランコに、妻は人形を乗せ続けてきたが、それが幸いした一葉の礼状だった。
翌日は壮大な朝焼けで明けた。
温室で、一号鉢?(一番小さな鉢)に野スミレを植えていたら、その1つで、春への備えの1つに触れた。どのような昆虫だろうか、と思いを巡らせていると、三崎さんがトビの写真を届けてくださった。
三崎美夫さんは、放射線治療で命を長らえた人だが、ここに来てついに筆談となっておられた。だから、この7日に長津親方と交わした話題、原発を思い出した。
人類にとっての原子力は、イブにとってのリンゴではないか、とまず思った。そしてランチョセコでの思い出を振り返った。カリフォルニア州の州都。サクラメント市民がこしらえた発電所が、原発を設置しながら、そそくさと廃棄していた。そのいきさつを『次の生き方』(平凡社)に盛り込みたくて、訪れたおりの印象だった。
それにしても、と思った。腐葉土小屋で、今年は腐食がまったく、と言っていいほど進んでいない。雨不足が原因か、と思ったが、違ったようだ。ついに、カブトムシの幼虫を見かけていないし、ブンブンの幼虫もほとんどいない。だからだろうか、ミミズもわいていない。これも、生態系の輪を切った弊害の1つ、ではないか。
過去数年ほど、大勢の人が夏の夜に隣の池に来て、土手に生えるクヌギの木に鉈で傷をつけ、樹液を出させ、カブトムシを呼び寄せ、採っていた。
年ごとに、アイトワの腐葉土小屋の幼虫の数が減った。この夏は、誰一人として夜の虫取りに来ていなかったが、昨夏は、カブトムシが1匹も卵を産み付けに戻っていなかったのだろう。
かく霜月は暮れた。畑ではポツンと支柱が残っている。妻の願いで巨大ツルムラサキの支柱に霜避けカバーをかけたからだ。10日ほど収穫期を伸ばしたいのだろう。