ウクライナがプーチンの侵攻にさらされて5日目に弥生は明け、日毎に膨らむ春をなぜか勿体なく感じました。日本の出番なのに、といらいらした気分にされたのです。
9日、白いラッパスイセンが初咲きの朝に、イギリス議会総立ちの拍手と、全党員がウクライナ問題で心を一つにする光景を見て、昼は初のフキノトウ茶漬けを満喫。13日は朝に、ウクライナから避難国別人数を知り、昼に初見のキチョウを眼で追った後、同国への支援義勇兵がイギリスを主に、52カ国から2万人、と知りました。その後、スウェーデンやフィンランドなどが武器供与を始めた、と知った。このぽかぽか陽気の日に、ミツバチが始動。
パラダイムの転換が求められている人類は、この戦争をいかに収拾し、活かすのか、との想いを馳せざるをえません。かつての冷戦時代の両雄が、今やトランプやプーチンを選ぶありさまを嘆き、戦争は逆行の典型だ、心の内で叫びました。そして、これがトランプ時代であったら、と心配しながら、除草や剪定に追われた1カ月になったのです。その間に、目からウロコが落ちる思いやご隠居さん気分が、程よく混じったのが幸いでした。
上旬は、乙佳さん夫婦の助成に感謝しながら、4回に分けてスモモの剪定を仕上げました。その間に、長津親方訪問。グミさんカップルの合奏に拍手。喫茶店の再開は6日、来店客は1人。久方ぶりにピーターさんと立ち話。TVで観た韓国の山火事と大統領選挙に関心と感心。タマネギとニラ、そして第2次のネギとエンドウマメに液肥やり。ブルーベリー畑の手入れ。そしてフタバアオイへのミニ客土など、がトピックス。
中旬は、ある先生の来訪から始まり、長津親方と出かけた「職人の集い」で暮れました。その間に、まず孫の里帰りのごとき7人連れの来訪。その後、常寂光寺のお上人。奈良は八木町の平田さんが木村尚さんとご一緒に。そして佛教大生の片野田さんが次年度のリーダー長谷部佑馬さんを伴ってなどと、久しぶりの来訪者にも恵まれました。
庭仕事にも励みました。その合間に、多肉植物の手入れやベニシダレウメの下での散髪など、ご隠居さん気分も。ハッピーに2つ目の芸・ジャンプの調教開始。さちよさんを泊りがけで迎え、祐斎亭と常寂光寺にご案内。後期高齢者の市民検診。あるいは「らしさ」や「一心同体」の解釈で、2度も目からウロコが落ちる想い、などがありました。
畑仕事は、花が咲き始めたハコベやホトケノザなどの除草。夏野菜の畝作りの本格化。インゲンマメのポット苗づくり。チマサンチェの苗を買って、ポット仕立てに。2種のエンドウマメの霜よけはずし。キャベツのトンネン栽培は、防霜から防鳥へと切り替え。あるいはタマネギ、ワケギ、そしてエンドウマメに液肥やりなど。
下旬は、岡田さん(の映画会)で明け、岡田さん(知人を引率)で暮れましたが、その間もトピックスが多彩でした。映画会は7人で鑑賞。その後、NZの友達から結婚60周年の知らせ。3回目のワクチン。心臓の定期検診。ミツバチの師匠が子息夫妻と来訪。SDGs研究ズーム会議。雨の土曜日は、佛大生1人と歓談。翌スモモが咲き始めた27日は「匠」のクラウドファンディンMTG。次の日は、初の山菜の天ぷらで、取材も。その後、金久さんと常寂光寺を訪ね、ご住職と3人で古地図を片手にミニ探検、など。
この合間を縫って、新種のジャガイモの植え付けなど、夏野菜の準備を本格化。おかげで心身までが春のごとくにリフレッシュ。庭はハクモクレンやレンギョウが満開(3/28)、スモモやヒメコブシが8分咲き、と春爛漫に。恒常化に努めてきた井戸枠花壇など、どうやら多くが軌道に乗りはじめ、これも加齢対策の一環ですから、ニッコリさせられています。
~経過詳細~
1、プーチンのウクライナ侵攻を嘆きながら、春本番を実感する日々が始まった。先月、剪定を済ませ、その剪定クズを生け花に活かしたシダレウメだが、それぞれ待通りに咲いた。まず月初に、屋内の窓際に生けた分は三分咲。その時の、テラスの大水鉢の分はちらほら。そして母家の玄関脇にある雨水甕の分は、日陰なので、まだ蕾は固い。
本体の紅シダレウメが八分咲きになった18日、甕の分はやっと三分咲きで、その5日後に花盛りに。こうして例年、剪定くずの開花期を本体の2倍ほどに延ばす。
かくアイトワの春は、落葉樹の蕾や新芽が、日毎に膨らむ春を楽しむ。
フキノトウは5日に頭をもたげ、9日の昼に「フキノトウ茶漬け」。わが家では、採りたてのフキノトウを刻んで用いて、ホロ苦みを珍重する。年を追うごとに苦みが美味に。今年はとりわけ、このホロ苦みが、炙(あぶ)った海苔の香り、ワサビの辛み、そして昆布茶がベースの注いだ湯の塩気と、ほどよく調和し、ニンンマリ。初あげのヒノナの漬物が添えられた。
フタバアオイに客土した9日、ナズナの白い小さな花が、ほころび始めた。ヒコバエから育てたネギの畝は、まるでナズナの畝だ。畑で咲くナズナを「キット妻は、始末してください」とボツボツ言い出すころだろう。
温室では既に、ポット鉢で勝手に芽生えたナズナが(オギョウやセイヨウサクラソウと一緒に)咲き、三味線のバチを連想させる種(ペンペングサと呼ばれる由縁)を、結び始めていた。だから、ある苦い思い出を振り返りながら、このポットを、野草を自生させている新果樹園に移動した。そして、この月記「自然計画」を「よくぞ」ここまで記し続けてきたものだ、と思った。
苦い思い出とは、ペンペングサを庭で一度絶滅させたこと。目の敵のごとくに除草に励み、ある七草粥の朝に、消し去っていたことに気づき、慌てさせられた。その後、畑で自生させるまでに5年を要している。絶滅させるの(根を詰めたその除草)に10年ほどかかっていたはずだ。
あれからすでに3年ほど、そのタネを、野草が自生する場にまくなどしている。「来年こそ」再自生化(に成功した、と叫ぶ)元年になればいいのだが。
13日にキチョウの初飛来に気づいた。シダレウメの樹下で散髪をしてもらっていたが、そのぽかぽか陽気の昼前だった。小型のタテハチョウも飛来した。
16日、今年になって初めて、早朝に、寝室の北の窓を開けた。ハッとする香りを冷たい風が運び込んだ。次郎冠者のツバキの下で、チンチョウゲの花が咲いていた。
その2日後、曇天の朝。新聞を取りに出ると、エゾヤマツツジが満開。29年前は、父が息を引き取った2月25日に満開だった。雨が降り出すまでに、と急ぎ足で庭を巡った。
その中ほどで、菜の花畑の季節近し、を知る。来た小径を振り返り、今年は「サンシウも随分開花が遅れた」と、知った、小雨が降り出し、書庫のあたりまで戻ると、妻が花壇用の花の苗を用意していた。
この庭巡りの途中で、「それにしても」と思ったことがある。まずセイヨウサクラソウが、願ったように育っていた。庭の随所での自生だ。これも10年はかかっている。元は元アイトワ塾生の後藤さんにもらった鉢植えだった。
網田さんに苗木をもらった八重のツバキ。冨美男さんに植えてもらったヒイラギナンテン。大垣を去るときの記念樹の1・クロモジ。あるいは、阿部さん宅を最初に訪れたときに、花蓮をネンネコで背負った仁美さんが掘り起こしたシロモジ。
廃水桝や井戸枠を活かした花壇も、加齢対策で、恒常化(さしたる手入れが不要)に努めてきたが、その幾つかでニンマリ。手入れが簡単な宿根や自然生えに彩らせる作戦。
妻は還暦を記念して、幾種かのクリスマスローズの苗を(中庭のスモモの根元に)植えた。今や(干支で言えば、一回り後)、その交配種も誕生し、庭の随所にも広がっており、咲き誇る。
山菜の天ぷらも取材願えた28日、ハクモクレンは満開に。しかしその命は短く、月末には花びらの絨毯を織り始める。
月末には、フタバアオイがその下で、新しい芽を、いかにもけなげに、もたげ始めていた。
2、ご隠居さん気分になったり、オジイちゃん気分になったりの日々に恵まれた。それは3日の、義妹が届けてくれた“ちらし寿司”が予告編のごとし。妻は、未だ蕾が固いハナナの吸い物を添えただけ。その夕飯が、なぜだかオジイちゃん気分にさせた。
好天の翌日、広縁は一足先に春本番。ぽかぽか陽気に誘われ、ミニアトリウムの手入れ。その後、2度も陽気の下で、2つの多肉植物の鉢(夏場の花卉枯れ時期の眼の保養に備えた)にも取り組んだ。
「ならば」と、まず妻に遠方のHCに連れていってもらい、苗木など買い求めた。そして温室に持ち込んだ分で、チマサンチェの苗はポット育て(いずれ長鉢に本植えして喫茶店用)に。次いで、2つの観葉植物で(風呂場で活かす)鉢造りに。ついで、インゲンマメ(わが家の夏野菜の準備は、初期は4種だが、その1つ)のポット苗作り。
苗木は、喫茶店へのアプローチに。芳香を期待する八重のクチナシと目隠し用として書庫の側に植えた。
中旬はオジイちゃんオバアちゃん気分で始まった。宙八・ちあきご夫妻の2人の娘、次女と3女に、計3人の幼児と一人の胎児をともなって訪ねてもらえた。
次女の明朱花(あすか)さんはフィンランドから、家族連れで(2人目の出産にそなえて)の一時帰国。3女の朋香(ともか)さんは2人の子どもを伴って。
明朱花さんは、モスクワ経由だったが、チョットずれたら(コロナ再燃とプーチンのウクライナ侵攻で)と、ラッキーを語らった。夫のカールさんによれば、フィンランドでも出産は、マスク着用が勧められるようだ。この夫婦は、超(!?!)自然分娩主義の明朱花さんの両親(『自然に産みたい―5人の子供を自宅出産した記録』)の下で、と願った。
好天になった午後は、まるでオジイちゃんオバアちゃん。
フィンランドは、国民の幸福度国際ランキングでいつも上位を占める。一度しか訪れていない私だが、とてもつつましやかな国とみた。とりわけ、郊外にあった屋根も尖塔も何もかもすべてが木造の小さな教会に踏み込み、一人で穏やかな心境で、しばらくたたずんだことを良く思い出す。
夫のカールさんはカメラマンだが、1枚の記念写真を土産に。
朋香さんは、自分で育てた鶏の、色とりどりの卵と、母ちあきさんが漬けたタクワン。だから、「あの鳥小屋で…」とか「あの畑で…」などと、連想。
13日、シダレモモの下で、散髪。
19日、佛教大の顔馴染の3回生が、次年度のリーダーを務める2回生を引率。予報では午後から雨だったので、次回来訪時の作業に供えた下準備を済ませ、屋内に移動。昼食を一緒にとって、この日はお開きに。
コロナ騒ぎでこのプログラムも頓挫し、この2年余で来訪月はこれで、確か3回目(20数回の月数を数えながら)。この来訪のオカゲで、コロナ明けから、旧に復すのでは、とおもった。文化になると強い、とおもった次第。文化にまで育んだ学生に感動。
この2人を見送ったあとで、このプログラムを始めた徳本さんに電話。彼は、かつて私が「このプログラムはもはや文化だ」と当月記・自然計画で触れていた、と指摘した。
始まりは13年ほど前。内藤正明先生の最後の引率(講座の一環)があったが、そこに徳本さんは参加しており、後刻このプログラムを発案。月1のペースで始まった。
4年目に入った時に、過去4人のリーダーが集ったことがある。女性参加者が過半の時も。課題は力を合わせて取り組む作業や焚火の仕方など。危険な作業にも。眼を放していた間に、女子学生が、もあった。
この仲間の大学祭を、3度(3年続けて)覗き出かけ、その自己責任能力の一端(彼らは食器の洗浄と再使用に取り組んでいたが、他の学生は多くが食べ物屋さんなど)を追認。
社会人になってから再訪する人も。
3、日本の出番ではないか! と叫びたくなった。月初めに「9条の会ニュース」がポストに放り込まれていた。「世界の宝 憲法9条」というフレーズを新たな気持ちで視た。「9条の会ニュース」は、どの号でもこのフレーズを載せてきた。だが、この真の意味をこれまで知らなかった。高安先生に借りた本のおかげで、心にも胃の腑にもヤット落ちた。
その本・『占領神話の崩壊』に再度目を通した。同書で、マッカーサーや、その右腕ホイットニー准将などが、新憲法策定当時、日本が世界に冠たる道徳的指導者になる事を期待していた、と読み取っていたところの再確認だった。
日本の当時の代表者たちは、明治憲法を手直しする域の意識に留まっていた。だからマッカーサーは「いよいよ」となれば、直接国民に意見を求めればよい、と日本の代表者たちにジャブも入れ、国民のための憲法制定へと誘導したようだ。
この間にあって、民間人7人(憲法研究会)が新憲法案を創案し、国とGHQに提出した。わが国は握りつぶしたようで、いまだ行方不明。GHQの分は、民主的との高き評価とともに保管されていた。
「こうしたことを、もっと早く知り得ていたら」と、幾つもの思い出が脳裏を駆け巡った。海外出張初期(1967~1970頃)に体験した幾つものクヤシイ体験がよみがえった。まだそのころの私は、10年余早く生まれていたかった(ならが特攻隊員を志願できたのに)、などと考えるような頭だった。
そうした頭の持ち主だったが(頻繁に海外出張の機会に恵まれ)日本が戦地でなしたことを、現地で五感で受け止める体験や経験を積み重ね、意識が変わり始めている。
それは、今にして思えば、ウクライナ問題で、ロシア人が知らされる情報と、その外部が知る情報のごとしギャップだった。
日本人として世界に冠たる生き方をしたい、と願うようになった。その想いは「9条の会ニュース」でも、求められるままに2度に亘って寄稿している。
あながちこの想いは、夢想でもなしえぬ理想でもなかったわけだ。敗戦当時の日本の指導層が、民を主に心を開きさえしておればかなえられていた。GHQの後ろ盾を得て“世界を道徳的に導く指導者への道”に踏み出そうと決意していたら、なし得ていたわけだ。マッカーサーやその右腕コートニー・ホイットニー准将と、民政局マイローE.ラウエル陸軍中佐(弁護士)などは、当時の日本にその道を選ばせ、胸を張れないものか、と願っていたに違いない。
もしそれが実現していたら、世界で甚大な天災が生じたり、深刻な国際紛争が生じたりするたびに、「日本の出番だ!」と叫び、活動して、世界に当てにされ、胸を張る国家や国民になれていたことになる。
中立国以上の発言力を持つ存在感を、わが国は示し得ていたに違いない。
「そうであったのか」と、思い当たる節があった。なぜマッカーサーに「あんなこと」を言わせたのかとの疑問が、解けたような気分にされた。マッカーサーは帰米後に、日本人の精神年齢を中学生並み、と称した。私に、これが謎だった。
それは、当時のわが国指導層の(世界の道徳的指導者の道を選ばなかった)レベルに、ほとほと愛想をつかせた言葉ではなかったか。だから、日本をアメリカの三下並みに扱わざるを得なくなり、その忸怩たる思いが発せさせた言葉ではなかったか。
仮に、日本が世界の道徳的指導者への道を選び、世界の平和に貢献する、と決意していたら、天皇を守ったマッカーサーは、ファシズムだった国を、次元を超えた国に生まれ変わらせた業績の持ち主となり、歴史に残った。そうした期待を日本に寄せていたに違いない。
『占領神話の崩壊』によれば、原爆を投下された直後に、わが国はこの非人道的な殺戮を国際法違反として、スペインを通して国際社会に訴え出ていた。当時、スペインは中立国を堅持しており、こうした役割も広く引き受けていた。だから今も、国連での公用語の1つにスペイン語は数えられている。
こうした想いに浸っていた矢先に、ロシアのウクライナ侵攻が激しさを増した。だから、今こそ「ウラジミールなどと呼び合えた仲」を誇った努力を、世界のために活かす時ではないか、と強くおもった。
ある日ポツリと、妻が「ハッピー(生後4年)は、わたしより長生きしそう」と呟いた。ハッピーの散歩から帰ってきた時のことだ。わが家の愛犬は、その平均寿命は16年強(2年ほどで、ころっと死んだコロも加え)だ。あり得ぬ話ではない。だからその日から採用した案がある。
散歩以外では、ハッピーは小屋に引きこもり、寝そべっていることが多い。そのあり様は、かつてのケンに似ている。そこで、2つ目の芸「ジャンプ」を仕込むプログラムを私は発案し、妻の賛同を得た。折よく、アジの干物を沢山いただく幸いにも恵まれていた。
だからこれまで以上に、おかずの魚を(人用、犬用、そして“堆肥の山”用にと)丁寧に分別して食し始めた。
ハッピーより2代前のケンは、17年生きた。だが最後の数年は、後ろ足部に装着する車輪装置を造り、使わせ続けた。私たちはまだ若かった。
これと同じ厄介を、私たち2人が亡き後のハッピーを引き継ぐ人に、なんとしても背負わせたくない。そこで、ハッピーに「ジャンプ」を教え込むことにした。後ろ足強化運動である。犬・人双方にとっての加齢対策だ。
散歩から帰ってくる度に、餌を小分けして与え、幾回もジャンプをさせることにした。この2つ目の芸を、ハッピーは10日ほどで覚えた。
当月は、韓国で大統領選があった。0.75%の僅差で優劣が決まった。アメリカ大統領選での不正を云々した暴動事件、あのわだかまりの記憶を新たにした。なぜか弥生が明けた、と月初めにおもった当月だが、晴れやかに気分になった。
この少し前に、韓国での山火事の報道にも触れていた。私にとっての韓国は、山という山が禿山だ、との記憶(商社時代の出張)に始まっている。その後、久しぶりに訪れた(道具学会の探検での)韓国では、南端からソウルまで車を乗り継ぐ旅だった。その時は、禿た部分が残る山を1つも目にしていない。これが韓国を最後に観た印象だ。
この間に私は、日本人の血は、弥生人(渡来)の血が濃い、縄文人(先住)と混血のごとし、と学んだ。その前に、生きる理念も見定めていた。あるいは、西郷隆盛の征韓論は歪曲で、どうやらEUの先を行く東洋の連合国を構想していた、との感触も得ている。
こうしたことが重なって、晴れやかに気分になったのだろう。その目に、ウクライナでの戦火はいかにも残念であり、はかなく思われた。その思いで、日々は流れた。
プーチンは間違っている。月末時点になってもなお(月の後半はかなり積極的に、ウクライナ人のロシアへの保護活動に力を割いたに違いないが)、ロシアに保護を求める人はわずかに留まっている。これは、プーチン支持率のリトマス試験紙のように私は見た。
それだけに、ここらで「ウラジミール!」と誰かが直接手を差し延べないと、何が起こるか知れたものではない、と感じた。。
4、さすがはプロフェッショナル、と感嘆する機会に多々恵まれた。その最初は、バンスリー(インドの横笛)奏者のGumi中口さんとフィアンセのひろ子さん(インドで、ヨガの指導者育成に当っていた)のお二人との触れ合いだ。
Gumi中口さんを、元アイトワ塾生の網田さんと、アリコさんのピアノと幾種かの楽器奏者とのセッション(真如堂・本堂で開かれた音楽の催)に出掛けたが、その折に知った。眼帯姿で吹く横笛に心惹かれた。
今では、結婚披露の衣装をいかにすべきか、との相談もしあえる仲になった。それがために、2度3度と訪ねていただく間に、一度TV取材の日に当たった。それが幸いした。報道記者とGumiさんの受け答えに、さまざまな発見があった。
音楽とは何か、もその1つだった。また、Gumiさんは、アイトワの庭を1人で巡ったときの感想にも触れた。それらを通して、自然とは何か、と語り合いたくなった。
この日は、ひろ子さんの演ずるアイヌの楽器と、Gumiさんの合奏にも恵まれた。
この2人はインドが取り持つ縁のようだ。夫婦喧嘩をするときは、とても深刻な内容になった時は、言葉を用いずに、互いの楽器で掛け合うように、と薦めたい。
わが家では、楽器を操れないから、銘々が勝手な行動に移る。その多くは、無言劇のごとくに、先に交わしていた約束に沿って動くことにしている。たとえば食事時。妻が造り、一緒に食べる。どうやら妻は激昂すると味覚も高まるようで、何を言い争ったのかさえ、忘れさせてしまう。
18日、NPO法人 海辺つくり研究会理事・事務局長の木村尚さんを迎えた。海洋の許容能力にも限界がある、と肌で感じた。名刺の怪魚は、古代ザメ・ラブカ。その何たるかを知り、海の神秘を実感。石川県能登半島のご出身で、井戸水を白湯にして飲む地域であったそうだ。その生活の一端(いわゆる「水になれる」エピソード)にも触れ、ググっとのめり込んだ。その実践と実体験を尊ぶ志を知り、なぜか海に誘われて、導かれ、命を預けて潜っているような心境になった。
関心事は、愛・次は夢・そしてロマンと語りたそうなこの人は、海に惹かれ、40歳にして100人20億円の事業を育てあげた。そこで卒業し、現職に。より公共的な活動にお移り、と見た。
万人が、海洋にも許容能力の限界がある、と気づいた時は「時すでに遅し」、手遅れのようだ。物静かな語りぐちだが、屋内に気迫が充満するように感じた。 海が、今日の陸のような悲鳴を上げたら、ターニングポイントを踏み越えてしまった証だろう。
この日は、奈良は八木町の、由緒あるお宅に生まれた平田千夏さんのご案内だったが、雨の日に当たり、アイトワの庭を、陸の一端の、言わば料理の仕方の1つ、をご案内できなかったことが残念だった。
20日の日曜日は肌寒い曇天だった。長津親方に誘われて、庭師・亀岡の佐藤夫妻の拠点を訪れ、終日を過ごした。そこは、幾年も前から有志が集い、これ以上高尚な遊びはなさそう、と思われるような職人の集いが催されてきた、と理解した。
真の「遊び」とは、真の自由と創造が成り立たせるヒトの営み、その最も好ましき1つ、と私は解釈している。
なだらかな山裾に、長くて広い敷地があり、その一番奥にご自宅があった。その手前の空地の北側に、屋根のかかった長い仕事場がある。そこを通り過ごした奥、お宅の手前にパーキング場があり、その左手南の奥に、一段低い敷地があって、果樹や菜園もが望めた。
薪を沢山用いる自然豊かな生き方のようだ。その生き方は、1m20cmほどありそうな青大将に、もう一人の主のごとくに振る舞わらせているようだ。
長い屋根のかかった仕事場には、鍛冶も可のブースを含めて、4つに仕切られており、随所にさまざまな道具や機械が見られた。薪が随所で積み上げられている。薪材には不自由しない職業のはずだが、薪をとった時の端くれも、大事に(プラスチックの苗籠などを活かして)保管。キット佐藤さんも、こうしたクズをくべると、それだけ安堵感が増し、心まで温まるのだろう。この心も、「これから」の「一心同体」の根本の1つ、と見た。
この仕事場の手前、橋を渡ったすぐ右手に、チョットした空地がある。そこではすでに2つの釜が用意されていた。長い簡易テーブルも側にあって、既に昼食の準備が始まっている。奥の方の釜では、シカのスぺアーリブが炙られており、匂いをたなびかせていた。ほどなく手前の釜(ステンレス製のダッチオーブン)で焼き芋が始まった。
親方は早速、先に集っていたお一人と、長い柄の枝打ち鋸を取り出して、台杉相手に鋸の試用から活動。仕事場の一角では、特殊な釜に細長い手作りの缶が乗せられており、湯気を立てていた。訊くと、それは幾本ものアオエンジュの枝を、蒸すがごとくに煮ている最中だった。
主の佐藤さんは分厚い帽子をかぶり、親方は野球帽姿だった。帽子を忘れて出たことがいかにも残念だった。髪が薄くなるにしたがって、寒さが身に染みる。
鍛冶場では堀田さんが、既に鍛冶仕事に手をつけていた。その部品は佐藤さんが必要としている代物らしい。おそらく堀田さんは、到着してすぐに、阿吽の呼吸で、この部品作りを始めたのだろう。この鍛冶場は、私には果しえぬ念願の空間に見えた。
堀田さんは、過日わが家に迎えた時に「らしさ」との言葉に関して、目からウロコが落ちる想いをさせた人だ。生粋の職人らしく、口数は少ないが、歯に衣を着せぬもの言いが、その内容が、私の耳にもいつもこの上なく心地よく響く。妻は初めて体験だが、心惹かれたようだ。
親方には、エンジンソーの手入れと目立てを、個人レッスンで…。ヤリガンナの試用も、堀田さんに次いで、許され、その歴史や種類も学んだ。
2人引きの大きな試作鋸の求評もあった。ミクロンの(薄く削る)世界に取り組む名手に、鉋(カンナ)の指導も受けたし、その難しさも体験した。名手の削りカスを持ち帰り、干していたら、妻がとり上げ、ジップロックに仕舞った。
極め付きはゲンノー(玄翁)だった。その使い勝手を試し合い、1つのゲンノーに感嘆する人たち。「善作」の名で知られる(明治~戦前にかけて活躍した)伝説の職人が残した品を、私も試させてもらえた。「たかが金槌の一種」と言われそうだが、「されどゲンノー」だ。よく観れば、素人の私にも判別できる工夫が施されており、写真に「撮らせてほしい」とおもったが、現在進行形で論文の対象になっていた。「出版した暁に…」と遠慮。
玄翁は日に数万回と振り下ろす作業もある。真の職人は、理想を瞼に描き、道具を体の一部、あるいは延長であるかのごとくに位置付けて、渾身の匠と化すはずだ。
工業化は、この技や魂を不要にする知恵や術ではなかったか。物的には(誰でもお金さえ出せば手に入るモノで)豊かになったが、それが諸悪の根源かのごとくに作用したのではないか。環境破壊、資源枯渇、ごみ問題、労働観の低下や心身の障害、あるいは孤独化や家庭崩壊などに結び付けたのではないか、などと考え始めた。
昼になった。楽しい昼食だった。話題は尽きず、タバコを吸う人はいなかった。デザートの焼き芋は甘く、頭と体を元気づけた。
側に生えていた灌木も話題にのぼった。イボタノキ(水蝋樹)を初めて知った。この木に寄生するイボタ虫?カイガラムシの1種(?!?)から採れる蝋は、レコード盤の保護にも役立つ、に始まり、古来の効能を学んだ。桐箪笥(たんす)の保護に、鉋(かんな)の滑りを、あるいは、敷居の滑りをよくするなど。「鍛冶場のフイゴでも使います」との堀田さんの意見が、締めくくった。葉の1枚をもらった。ネットで調べると、モクセイ科で、ギンモクセイのような香りを放つとか。その花は、かつてわが家の庭にもあったヤコウボクの花に、チョット似ている。
この集いの大団円は、市場では1本800円ぐらいで手に入るとのチョウナの柄を、全員参加で試作に挑んだこと。この1つの大工道具の部品を、何年か前から試作、点検、新たな作り方に挑戦、が繰り広げられてきたようだ。
4年前の試作20本は全滅、から始まり、昨年分は4本に1本が成功だった。この度は、また新たな技が採用され、4人がかりで10点を試作。来年まで屋根下の空間で保管し、固める。ほかにもさまざまな試作に取り組んでいる様子。
その2日後だった。トッテンさんから、「アシスト社は50周年日を」迎えた、との知らせがあった。6人で会社を興し、初年度の売上は2,900万円強だった。
その後、40年間で、従業員937名、売上高200億円(約1億6900万ドル)に、そこで70歳になったトッテンさんは、後継にバトンタッチし、会長に。
新社長は、この10年間で、30%の人員増で年間売上高を2倍にした。この50年間、アシストの事業内容は、企業経営のためのパッケージソフトの販売と、そのソフトに関連したサービスでまったく変わっていない、と後継者を讃える。
その後に「さすがは」と驚愕するニュース。株式の位置付けとその扱い方。実は、私は非上場会社の株式問題で、30余年前に矢面に立たされ、心が痛む思いもした。結果、これが、わが国の事業文化を尊びながら、究極の優良会社づくりの決め手、と言ってよい仕組み(株式を活かし方)に気づかされ、推奨し、問題解消の目処をつけた。
トッテンさんは、その上を行きそうな仕組みを半世紀も前に気づき、実践していた。私の場合は、その仕組みを歓迎しない匂いを嗅ぎつけ、その輪から離脱した。だが、その後の経過も見てきただけに、「さすがはプロフェッショナル」とトッテンさんに感嘆し、後継者に期待を寄せ、胸を膨らませた。
30日のこと。先月の来客・嵐山で「名瀑の跡」を探り当てた金久さんを再び迎え、常寂光寺に案内した。中学生時代の私が探検した横穴の位置を、確かめたい、との要望だった。
もちろん、その理由を示す古書の写しをご持参だった。
金久さんは、北嵯峨野にある江戸時代の隧道(水を引いて水田開発に供した)の再発見者、としても知られる人だ。この日は、もう1つの隧道計画の跡を探り当てたくて、常寂光寺のお上人に案内に立ってもらった。小倉山の山腹(常寂光寺の境内)にある、それと思しき横穴までたどり着いたが、金久さんの眼差しに、これぞプロの輝きを見た。
5、らしさ と Boys! Be Gentle。世界幸福度ランキング2021年版が発表された。 フィンランドが4年連続1位で、指数7.842。2位はデンマーク、7.620。そして9位はニュージーランドの7.277と知り、なんだか我ごとのように嬉しかったし、実感をともなった。
先月は、デンマークのカイ&ベンテ夫妻から贈り物を得ていた。コロナの前年、妻と同国に出かけており、この夫妻の寝室を拝借して逗留させていただいた。ゲストルームがあったが、同道の医師と薬剤師のご夫妻(カイ&ベンテ夫妻の友人)が使用。19世紀半ばの木造家屋だった。
当月は、フィンランド人のカールさんと結婚し、里帰りした明朱花さん一家を迎えた。
さらに、ニュージーランドから、レイ&ロビン夫妻から結婚60周年の知らせがあった。この夫妻とは、同国で知り合い、最初は1人でホームステイ。その後、数度触れ合っており、妻と一緒に泊めてもらったこともある。
幸せとは? この幸福度は、1.一人当たり国内総生産(GDP) 2.社会保障制度などの社会的支援 3.健康寿命 4.人生の自由度 5.他者への寛容さ、そして6.国への信頼度をモノサシにして計られている。日本は56位で、5.940。
かつてわたしはスウェーデン(同7位、7.363)への移住を夢見たことがある。半世紀ほど前に、初めてスカンジナビア諸国を訪れたが、第一歩を踏み入れた国だった。乗り合わせたワンマンバスの運転手が、乗客といかにも親気だった。聴いて分かった。市長夫人だった。夫が公職(まるでボランティアのごとき)についたので、いつ夫人同伴の用件が生じるか知れたものではない。だから自由度が効く職業に替えた。
この時は1泊2日の日程で3カ国の首都を巡ったが、日本以外の国での生活を夢見た最初になった。直感での判断だが、妻に相談したところ「それはヨカッタですね」で終わった。この40日もの出張の間に、妻は親戚から仔犬を1頭もらっており、「だから」クローネと命名した。
その後、デンマークでは(仕事の関係で知り合えた人のおかげで)家庭生活も垣間見るようになった。さらに、ニュージーランドを身近に感じうる幸運をえて、1週間単位の旅で数度、2軒の私宅での滞在もかなった。この両国も移住先としてより強く夢見るようになった。
今でもこの3国には憧れている。それは政治の清潔度に対する直感のなせるわざだろう。
仮に日本が、憲法9条を盾にして世界の道徳的指導者を目指していたら、間違いなく世界幸福度ランキングでは恒常的に上位を占めていたに違いない。もちろん私は、無二の愛国者になっていたと思う。今のような政治でも、離れていないのだから。
それはともかく、スモモの古木が(40年ほど前の私の無知が原因で、根元部を傷めてしまい)傾き、添え木で支えないと剪定が出来なくなってしまった。しかも頼んであった水島さんの応答がない。限界(剪定の日限)と見て、急遽乙佳さんに頼み、「明日に」となった。
なんと、翌朝一番に水島さんから、折り返しの電話があり、沙汰なしの詫びと「3月いっぱいは無理」と知らされた。もちろん、乙佳さんの世話になる事を告げた。
乙佳さんと親方は、私の電話での状況説明と希望に沿って、しかるべき道具、角材の當木、そしてロープを持参し、到着後小1時間で、処置を済ませた。そして「これ以上、添え木を木の脇に近づけると」腕をもぐようなことになる、との助言をえた。私は「こんな道具があったのか」と感心もしたが、なぜか救われたような気分にもなっている。
クリスマスローズとシダレウメが満開になった日に、京都で前泊したさちよさんを泊りがけで迎えた。前泊は、麻の繊維に関する文化講習への参加で、その作品を見せてもらった。わが国の麻文化に郷愁を抱く私は、4年前に四国大学まで出掛けている。今上天皇の大嘗祭で用いられた衣も麻製だが、徳島でつくられており、その勉強会だった。
彼女の所望で、まず祐斎亭に案内し、その新春の設えを見学した。
常寂光寺も案内し、展望台まで上った。幸い住職が新しい納骨堂で、仕上げの庭づくり最中だった。挨拶をかわし、方丈に通され、さちよさんに相応しい話も伺えたように思う。
当月2度目のピーターさんとの接触は、日経新聞がキッカケだった。講読していない私は、貸してもらったが「これはすごい」との感激のコメントを添えて返した。最後まで到底見届けられそうにない私だが、嬉しい。
ミツマタとサクランボの花が共に満開になった日と、その翌日にかけて、同じDVDが1日違いで2回届いた。クラウドファンディングで制作されたDVDで、中村さんと、しばらくぶりの声の交換もした。
岡田さんの映画会では、まず『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』で、600万人の餓死者を(ウクライナの穀倉地帯で)だしたスターリン時代の惨状を観た。午後は、韓国映画『国際市場で逢いましょう』で、植民地時代から今日に至る国内事情、ベトナム出兵の現実も知り、認識を新たにした。
今回は、2つのキッカケ(失敗学会関西の活動で、小林さんとの下打ち合わせと、前回の参加を逃した高安先生が「ボツボツ」との問い合わせ)が急遽実施させた。だが「なんと7名が参加、満席となった。長津親方は、前日ご一緒した車中でこの会を知り、未来さんは「ぼつぼつまた、アイトワで」との挨拶がキッカケだった。
日本ミツバチの師匠・志賀さんの定期検診(ハチは元気か、の点検と、分蜂への備え)だった。所帯を持った息子ご夫妻同道で、日本ミツバチ・バンザイの心境になった。
手土産に”鳥の巣箱”を頂いた。ちょうどモンツキ・ジョウビタキのメスが北に帰った直後だったので、なぜか淋しさを紛らわせた。「この口の直径を、あと2mm太くすれば」など、師匠の研究熱心に触れ、小学生時代の悔しさを振り返った。巣箱を山に設置する工作の時間があったが、点検時に、上出来の私の箱も、大工さんの娘のプロの分も空だった。
だから、このたびは、設置する高さや方角を気にしながら、小鳥用とフクロウ用(コノハズクの鳴き声がする)を、それなりに考えて設置した。
27日。「匠」の技を収録して「未来につなごう」との、クラウドファンディング構想に加わって来たが、その最終打ち合わせがあり、堀田さんが送り迎えに立ち寄って下さった。「ならば」と、妻は朝のコーヒを用意し、堀田さん好みの席を私につくらせた。
この人は「らしさ」について、まっとうな意見を述べ、目からウロコが落ちる想いをさせた人だ。庭ではヒメコブシが咲き始めており、世間では「らしさ」が話題になっていた。それは、いわゆる“ブラック校則”問題で、東京都教育委員会が、この春から多くの高校が撤廃すると発表していたからだ。
その1つに「高校生らしさ」があった。堀田さんが東京在住で、子どもを高校に通わせていたら、この論議はどうなっていたか、と想わぬでもなかった。
これは“日本語の問題点”の1つをクローズアップさせた、と言ってよく、改める1つの好機にすべきではないか、とおもった。同時に、クラーク先生を思い出させた。
クラーク先生が招聘されたときの農学校では、校則をいかにすべきか、で騒がしかった。先生は、一言、ゴチャゴチャと議論されていた細則をしり目に、“Boys! Be Gentle”だけでよい、といったそうだ。
実は私もその昔、「らしさ」を都立高校並みの解釈をしていた。だから、「男らしさ」や「女らしさ」の世の中ではなく、次代は「人間らしさ」を問う、と偉そうに叫んできた。ほどなく世の中では「Miss」や「Mrs」ではなく「Ms」になった。だから時代は変わり、社会も変った、と思わせられた。
堀田さんはこの「らしさ」に疑問を挟む。「らしい」が推量の意を含んでいるのになぜ、いつの間に、との疑問だろう。
それはともかく、クラーク先生の想いは、学生にジェントルとは、と考えさせよう、考えさせるべきだ、にあったのだろう。そして、良き答えが引き出せるようにするのが教育の役目ではないか、であったに違いない。もしこの意見が採用されていたら、さらに素晴らしい北大になっていたかもしれない。
28日、伴一家を迎えた。妹の藍花さんは4月12日から、兄清太さんの後輩になる。しかも、彼女は畜産コースを選んだ。心の内で、おもわず私はバンザイと叫んだ。
このバンザイの気持ちが通じたのだろうか、翌日の京都新聞は、藍花が選んだコースを大きく紹介した。
この28日から30日にかけてのアイトワでは、ベンジャミンゴムが越冬場から所定の位置にデヴュー。白いラッパスイセンが咲いた。そして、イモリの赤ん坊がお出まし。
”Girls! Be Gentle” ”Girls! Be ambitious” ”清太!Too”
6、アイトワ菜の自生化を一段と進められたのかもしれない、と春本番の庭を愛でる1カ月となった。外食は、庭師の佐藤さんのお宅で匠たちと昼に1度、のみ。
遅ればせのアイトワ菜が、タマネギやワケギなど、日光を得やすい畝に、わが世の春、とばかりに芽吹いた。その1本1本異なる(と言ってもよさそうな)野菜を、煮る、炒める、あるいは湯がくなど、向きそうな用途を考えて妻はさまざまな総菜に活かした。
おかげで今年は、野菜の端境期を嘆かずに済むかもしれない。28日にこの春最初の山菜をめでる夕食は、TV取材にも応じ得た。コゴミ、タラの芽、シュクコンソバ、そしてドクダミの初物に加えて、自生化したミツバや、畑のキクナと菜の花を添え、天ぷらに。
これ以前は、9日のフキノトウ茶漬けだけ。この後は、作り終えたフキ味噌をチビリチビリと味っているだけ。次はタラの芽の本格化やワラビを待っている。
正常に(昨年の暮れに)発芽して、大きく育ったアイトワ菜(その多くは、既に花芽を付けている)の1本を抜くと、根菜のような根が現れた。今月に入ってから発芽した分にも、いかにも根が太りそうな1本があった。その気になれば、とても根が太くて根菜としても活かせそうなかった品種も、つくれるかもしれない。
カールさんがみえた3月11日には、まだ霜よけが施されていた。だが13日にはない。
あらかたの野菜が花芽をつけ始め、花芽漬けの季節を迎えたわけだ。野菜を毎食大量摂取する時期の始まりだ。トンネル栽培のビニールも順次はがす時期でもある。はがしたビニールは、半日ほど干して収納し、再使用する。畑は日毎に菜の花畑と化す。
今年は、ヒヨが好むブロッコリーがサルに襲われ、早々と畑から消え去った。だから、キャベツが犠牲にされ始めた。そこで、キャベツの側で干したビニールを、ヒヨを脅すためにしばらく置いていた。案の定、妻に「いつまでも、醜い」と叱られた。
急ぎ、長い間仕舞いこんであったネットを引っ張り出して、防鳥ネット代わりにかぶせた。その時に、獣害をキッカケに試みた(ホウレンソウとダイコンの)移植は「その後?」と気になった。ダイコンは5本ともに根付いており(3本を抜いて確かめた)、2本を畑に残し、更なる実験に供することにした。ホウレンソウも根付いており、苗での植え替えが効くことを初めて知った。
除草に随分励んだ。畑の一通りの除草は上旬に仕上げ、抜いた草は果樹の根元で置き肥に活かした。抜き忘れた分(野菜の陰に隠れていたなど)は、花が咲き、目だったところで見つけて抜き去る。
この根気の良さを、数年前まで妻は「すぐに(匙を投げ)元の木阿弥(草だらけしてしまう)よ」とばかりにあきれた。昨年あたりから感心するようになった。とはいえ、1本のハコベを昨年(パーキング場で)抜き忘れたのだろうか、「元の木阿弥よ」と言われそうな実例をみて、気を引き締めた。
2種のエンドウの花が、25日に揃って初咲き。白い花はスナップエンドウ、赤の方の元はツタンカーメンの墳墓に行き着く。
遅れていた剪定が「ギリギリ間に合った」の感。それは、乙佳さんのオカゲ。傾いたスモモに、親方と2人で支柱を立ててもらえた。だから、月初からスモモの木に安心して登ることができた。
この間にあって、例年のように、てっぺんから傾いた方の幹へ移動を試みた時のこと。ここというところで昨年のように、ヒョイッと足が出ない。下から妻が「危ない!」。「これを最後にすべきかも」とおもい、ならばヘッピリゴシで「ここから」と、ケイタイを取り出して、庭の様子を収めた。
目が座敷の屋根に移った時に、チョット静止し、瓦を見つめた。古い上部は1963年に葺いた分。下部は1990年(27年後に、廊下の建て増しという夢をかなえた時)に葺いた。
日を置いて、さらにヘッピリ腰になる脚立仕事に挑んだ。それはシンボルのモミジの剪定。この木にのぼらせているテイカカヅラの蔓を、ほどいて垂らす作業が最も難事。
かくして月末の朝が明けた。岡田さんの案内で、最後の来客を迎える日だった。洗面を終え、PCに向かおうと広縁を通り、カーテンを引いた。春爛漫の庭が目に飛び込んできた。
新婚記念の手作り花壇、妻の還暦記念のクリスマスローズ、あるいは苗木から育てた木々だった。
事情があって新婚旅行ができず、このコンクリートの花壇や、幾つかの家具(この側でも用いたくて、木製の椅子やテーブルなど)作りに休暇を活かした。
その時には、奥にそびえるハクモクッレンやピンクのヒメコブシの木はなかった。2本のモクレン科の木が夏に木陰をつくる座敷の廊下も、広縁もなかった
来客は、愉快な4人連れだった。かつて岡田さんに紹介され、私が関心と感心を示したある文化財の復旧事業があった。それに関わったお二人(向かって右から2人目と3人目)がご一緒の4方だった。
価値ある建物が西日本豪雨水害からよみがえった事例(旧家の屋敷と茶室)を、かつて紹介されたが、その写真に短歌を添えて紹介する手法に、とても心打たれた。
吉田龍彦さんは、和風建築に造詣が深い。数々の名だたる建物に見る幻の構造などを、分解解明するなどして、記録に残し、後世に引き継ぐことをライフワークにされた。その情熱が語らせるエピソードに、しばし時の流れをわすれた。
小野田隆さん(徳洲会の創始者徳田虎雄の右腕のごとく走り回ったりした人だが)今は認知症ケア指導者だが、再会も果たせた。新たな冊子『やすらぎ』の紹介も受けた。ともかく明るい声が止まず、賑やかの2時間余だった。
かくして弥生は終わったが、ウクライナ問題もあって、時代は「一心同体」の定義も、パラダイムの転換を求めている、トの観を強くした。
「一心同体」を、苦楽を共にし得る心と、と考えるならば、「これまで」と「これから」は、苦楽の位置付けを一転させなければ、未来はない、との50年来の想いを追認した。プーチンは化石だ。