「こんなことがあっていいのか」と、驚きました。予期せぬ電話や来訪で明けた卯月でしたが、上旬最後の夜のことです。広縁で忽然とアゲハチョウが羽化。70年来の願いがかなったのです。しかもこの10日の間に、庭は一段と彩りを増し、来訪者が続いただけでなく、祝い事や懸案解消など、多彩な喜びに恵まれています。
一日は、インゲンマメ(本年初の夏野菜)の苗の植え付けと、福岡の旧友からの電話で明け、午後に予期せぬ来訪者。夜はTVで十輪寺の夜桜と声明舞を鑑賞。2日は夫婦揃ってダウンの1日。よきインターバルに。3日、グミ夫妻の結婚式。4日、トマトとキュウリの苗の植え付けと財木さんから良き知らせ。5日、アイトワの喫茶店は36周年。赤飯とヤマザクラが満開。6日、ベニシダレザクラ満開。7日、八重の紅モモを剪定し、切り取った枝で生け花。8日から10日にかけて5件9人の来訪者。友人連れのさちよさんは泊りがけ。厭離庵に案内。10日は佛教大生と農業高校生の3人で庭仕事。その夜に、蝶の羽化にビックリ仰天です。翌朝、70年来の夢(昆虫採集マニアだった)がかなったわけです。
この間に庭は、一段と彩りを増し(4日、匂いスイセン開花。9日、タラの芽と2種のワラビの収穫、初見の小さな甲虫。10日、オドリコソウが咲き始め、河津桜が満開など)夏野菜の準備に追われたり、妻とカシの生け垣の剪定に当たったり。
中旬は、2人の仏教大生を迎え、2本の若木の植樹、2つのアーチの移動、あるいはレモングラスの地植えなど。畑では、トウガラシ、ナス、トマト、そしてキュウリの苗を植え付け、これで5大夏野菜が畑で勢ぞろい。さらに、フリルレタスやコイモなどの準備にも励んでいます。2種のエンドウマメが花盛りに。
収穫では、採りたての夏キャベツ、ワケギ、ニラだけでなく、家庭菜園ならではの醍醐味、アイトワ菜の花芽、ネギボウズ、あるいは自生のミツバを満喫。お裾分けも。この間に、カマキリ(4/16)とシャクトリムシ(17)が孵化。デシオが萌芽。シジュウガラが巣作りに励む。あるいはフジが満開など。
来訪者は2人の佛教大生の他に、長津親方夫妻やGumi&ひろ子夫妻に加え、初めて池田望さんを迎えています。外出は3度。掛り着け医(両親の代からの付き合い)で市民血液検査結果が出た。久保田さんと神戸で開催中のミイラ展に。そして知範さんと、郊外の大手HCまでさまざまな道具や資材の調達に。
下旬は雨の1日で明け、飛び飛びに雨の日が4日もありました。内3日は書斎で缶詰に。雨の日の合間の日々は快晴に恵まれ、庭の緑がうっそうとなり、畑仕事がはかどり、夏野菜がよく育ちました。。コイモ、トウガン、そしてカボチャの畝が整い、第1次インゲンマメとトマトの支柱を立て、バジル、オクラ、そして中国ホウセンカなどの種をポットにまきを終えました。当月2度目の強風は、エンドウの蔓を傷めました。快晴に雨が適度に混じり、3種のジャガイモの発芽を促しました。29日は傘をさして当月4度目の外出。月末にスナップエンドウとフリルレタスの収穫が始まっています
この間に、看取り医候補の来訪。茶づくり。徳本さんから次男誕生の知らせ。リズさんから退官の知らせ。ユキモチソウとムサシアブミの開花。アオスジアゲハの飛来。そして月末に友遠方より来たる。福岡の旧友が大垣の友を誘って来訪など、大団円になりました。だがプーチンは、テストステロンに毒されたようで、国連事務総長を侮るようなミサイル攻撃をした。
~経過詳細~
上旬は日替わりトピックに恵まれた。
卯月はさわやかな日和で明け、自生のスミレが次々と咲き始めた。朝食後、5mたらずの南北に走る畝で、心して取り組んだことがある。やがて巡りくるわが国の食糧難時代に備えた、ささやかだな一工夫。
腐葉土、堆肥、木灰、カキガラ、鶏糞などの還元肥料を活かし、多品種・超少量栽培を可能にする工夫の一環。2種の野菜と2種の宿根の花卉、そして自生したケシを同時に育てる手はずを整えた
わが家の主要夏野菜は5種(トマト、ナス、トウガラシ、キュウリ、そしてインゲンマメ)だが、まずインゲンマメの苗を植え付けた。この畝の北の端1mほどを活かして(インゲンマメが大きく育って日陰にするまでに収獲が可の)野菜・フリルレタスを育てることにした。そして、2種の野菜には、防虫と遮光を兼ねたネットを被せた。
この畝の南端50cmほどで、2種の宿根の花卉を育てている。畝の肩には、自然に生えたケシも。これは農作物の邪魔をしない限り、咲かせたい。
かくしてこの一畝では、野菜2種、宿根の花卉2種、そして自生のケシが育つことになった。インゲンマメとチマサンチェの苗は、共に温室で育ててあった。
午前のお茶の時間に、今は福岡で余生を送る旧友・鳥越さん(元インパクト21社の社長)から、おりよく来訪予定の電話があった。
アイトワの庭では、同社の上場記念樹のヤマボウシを始め、節目毎の記念樹が(2つの事情があって)数本育っている。そのヤマボウシはちょうど新芽を出したばかり。3本のベニシダレサクラのつぼみはまだ固い、と知らせた。
その後、好天が続き、6日に満開。
午後のお茶の後で、畑仕事をしていると「商社にお勤めだったようですが、どちらの…」と、声をかけて下さる人があった。
「先輩でしたか」とこの人は目を輝かせ、「私は…」と自己紹介。10年ほど後輩だが、多々接点がありそう、とみた。だから、手を休め、続きはカフェテラスで、と誘った。
伊藤忠に入社後、ハーバード大学に社命で留学。そこでライシャワー(元駐日大使)から瀬島龍三(当時、伊藤忠の取締役業務本部長)を同大学に招聘したいのだが、と持ち掛けられ、この要望に応えた。
それが縁で、竹本繁さんは帰国後、6年間瀬島本部長(元陸軍参謀本部部員で、伊藤忠の入社では私より4年の先輩に過ぎないが、雲の上の人に見えた)の秘書も務めている。その後、イトーヨーカ堂に出向して常務になど。今は(株)ブイシンクの会長。再会を約し、見送った。
後で分かったことだが、この出会いは4つも5つもの“たまたま”が重なっていた。竹本さんは京都の一人旅で、奥嵯峨に足を踏み入れ、たまたま通りかかったアイトワに立ち寄ってもらえた。そして店頭の一角に並ぶ拙著に目をとめ、一著を購入。パラパラッと目を通し、そのまま引き上げずに、庭内に足を延ばし、たまたま居合わせた私を見つけ、声をかけてもらえた。午後の嬉しい出来事。
夜は夜で、正統な聲明と聲明舞に(TV映像の報を得て)触れた。この聲明の伝承者・十輪寺の泉浩洋法主と聲明舞の伝承に努める後藤有美さん(芸名花衣天女さん)は、2020年(コロナ騒動で海外旅行が途切れた年)の12月にお迎えしており、TVを通してだが、再会だった。
十輪寺は桜の名所でもあると伺って、「コロナが収まれば来春にでも」と約束していた。だが、すでに2度もその機会を失っていたことになる。
2日。諸葛菜が花盛りを迎えた。妻はハッピーの朝の散歩時に足をくじいた。私は私で、数日来の眼の披露から食欲をなくし(嘔吐感におそわれ、生涯で初めて食べる気が起らず)揃ってダウン。Gumiさんの結婚式を翌日に控えていたので、2人は良きインターバルとばかりに養生に努めた。
目の養生には、なんといっても緑が一番とばかりに、午後は庭に出てみた。モミジが新芽を吹き、日毎に変わる庭を眺めていると、むかつきが落ち着いた。だから、除草と温室仕事を交互にはさみ、背を曲げたり(吐き気を催すと)伸ばしたりして、何とか過ごした。
畑では、「たとえ美味しくても、これはいただけない」と思うアイトワ菜が花芽を付けた。チョット躊躇したが、引き抜いた。温室では、ドライチェリートマトを妻たちが作り始めていた。
あいにくの3日は小雨になった。途上の駅で義妹と待ち合わせ、3人で九頭竜神社に出かけた。そして、妻たちはひろ子さんの着付けに取り掛かった。その間に、この神社の歴史(私より若い)を学んだり、集う信者の敬虔なる振る舞いを観察したりした。
やがて装いが整った新郎新婦が姿を見せた。
とても印象深い結婚式であり、披露宴だった。披露宴は、Gumiさんがその仲間とはからって、新婦ひろ子さんに贈るハプニングだった。
ひろ子さんは、何も聞かされておらず、ハプニングに泣き出してしまった。私たちはもとより、美容師の友人(群馬から幾日も前から駆けつけていた)も口止めされていた。
新婦の母親が、次いで新郎の母親が、と進み出て、それぞれなりの挨拶をした。見事だった。父親の出番はなかった。実に爽やかで、伸びやかで、新鮮な様式だった。
宴会場には熱気が漂った。Gumiさんは途中で、そっと立ち上がって、会場の大戸を開け、冷たい空気を流し込んだ。私はGumiさんたちの後ろにまでまわっていって、会場の様子を写真に収めたくなった。マスク姿が極めて少なかった。
集合写真を撮ってインターバル。
新郎新婦と妻たちは、お色直しに取り掛かった。その間に、参集者は銘々が、めいめいなりの昼食をとった。ハプニング仲間の夫妻が、スナックの出店をひらいていたが、私は食欲がまだわかず、プヂングで済ませ、神社の様子を眺めて回った。
新郎新婦が(妻が推奨のお色直し“崩し”を、リハーサル通りに整えて)昼食の折弁当を手に再登場。歓喜と驚きの声が混じった賑わいが会場に渦巻いた。
宴は後半に入った。私たち3人も折弁当をもらったが、1つを3人で分け、腹の虫を抑え、おいとま。雨は小降りになっていた。
夕食は、1つの弁当に、ビールと2つの澄まし汁を添えて、妻と半分こして済ませ、早々に(義妹もキット、この弁当で、と語らいながら)やすんだ。
4日、快晴。黄色のラッパスイセンと白いニオイスイセンが咲き始めた。ムスカリやハナニラが花盛りに。トマトとキュウリの苗各3本を義妹にもらい、植えた。菜の花畑を順次、夏野菜用の畝に仕立て直す忙しい時期だ。
財木さんから、実父・ダダカン(平和主義者)が一著になった、と知らされた。その母は(国から、夫は過激な国賊との言いがかりをつけられ)離縁を強いられ、一粒種の息子には戦死のように思わせた。その父は、独り身で逝った。著者は、仙台市在住の千咲陽さん。
5日。喫茶店の36周年。庭で大木No.1のヤマザクラが満開。夕刻、知範さんを迎え、先月分の月記原稿を引き継ぐ。恒例の赤飯は(喫茶店が定休日で)翌日回しになった。
6日、快晴。窓先のスモモは、花が新芽とよくマッチして、その風情はヤマザクラのごとし。
畑で除草に励んだ。ベニシダレザクラが満開の午後、陽気は妖気を誘うのか、近隣の精神不安定者が大声で独り言、耳障りだし、目に余る。1人身の若者、親亡きあとの準備は、大丈夫か。
夕刻、カズラやアケビの、古くなた蔓性の籠類を幾つか取り出し、防腐塗装に当たった。
夕食は赤飯に、菜の花が浮く澄まし汁を添えた。妻は開店来の店の仲間と36回目の祝いに安堵した。私は赤飯に舌鼓をうち、今年から年に「2度か3度は…」と提案。
7日。朝に紅のハナモモを剪定し、そのクズでカフェテラスの大鉢に生けた。昼に、ハッピーのパラソルを早々と出した。そして夕に、来客とテラスで、陽が長くなったことを喜んだ。鉢植えの河津サクラが花盛り。
8日は来客が重なった。午前は、5月に催すNPO法人日本都市農村交流ネットワーク協会の集会に備え、下打ち合わせ。協会の長、立命館大学の国際関係学部長の川村律子先生、事務局の今西静生さん、そしてこの設定に当たった中村均司さんを迎えた。午後は、岐阜の養老から友人・内山栄一さんを迎える予定だった。
その間に、顔なじみで久方ぶりの飛び入りがあった。華道「嵯峨御流」の機関誌『嵯峨』に、幾年かにわたってエッセイを寄稿させていただいたが、その時の縁。利休の「野にあるように」を教えたもらった庄司信洲さん。私にとって華道史の先生。
伝統華に加え、心象華の提唱者。この神髄を、絵画史における印象派のように捉えていたら、嵯峨御流は今頃、と今も思う。
庄司さんは、愛知県共済主催の市民講座・『万葉植物から伝統文化を学ぶ』は、2006年9月の第1回から今に続く。最近の講座2022年3月の第93回では、子太草(しだくさ)がテーマであったとか。子太草は、のきしのぶ(軒忍)も指す、と教わった。
影向(ようごう=神仏が一時、仮の姿をとって現れること。神仏の来臨)も学んだ。軒忍との関係があったのかなかったのか、来客がかさなり、気もそぞろで、訊き洩らした。
9日は、さちよさんを先月に続いて泊りがけで迎える日だった。今回は高校生時代からの友人連れで、観光だった。この日、ハナズオウが咲きそろった。
さちよさんたちの庭案内で、この日、キイチゴが初めて花を付けたことを知った。妻が幼い頃を良く思い出し、しばしば「美味しかった」と話題にした木苺。この黄色い実がなる灌木はトゲが強い。
このキイチゴの実の味を、すでに私は知っている。最初に味わったのは311原発事故後のことで、福島県はいわき市の山中だった。
それは3度目の、橋本宙八夫妻の拠点を訪ねた翌朝のこと。庭めぐりで「これヨ」と妻が見つけた。放射能のことを忘れて2人でつまんだ。この話題が元で、久保田さんが(信州の山で見つけた、と)苗木をくださった。
宙八さんの拠点を最初に訪ねたのは、さちよさんと、だった。関東出張時で、無理を言って案内してもらい、ビニールカッパ姿の橋本夫妻に迎えてもらった。事故後間なしのことだったので、ガイガーカウンターは雨樋の水が集まるところなどでガーガーと唸った。こんなことも思い出しながら、夕食時になった。
昼過ぎに初収穫したワラビやワケギなど庭の幸で、妻はお惣菜を振る舞った。長け気味のタラの芽を、アスパラガスのごとくに活かした一品は初挑戦とか、3人はケイタイに収めた。
夜、さちよさんたちが風呂をいつでも(玄関や居間を通らず)好きなように使えるように(渡り廊下の入り口を活か)して、早寝した。
翌朝、さちよさんが一人で、未明の散歩に出たことを食事時に知った。
食後は、厭離庵に案内。妻にクリスマスローズを持たされたが、咲子夫人が床の間に生け、玄果和尚に一服の茶を振る舞っていただいた。
ほどなく私は一人でおいとま。この日は2人の若者を迎える日でもあった。佛教大の4回生になった片野田さんと、府立農業高校で2年生になった清太君。2人は予定時刻に到着。ムベとクコ用の2つのアーチが、共に(周りの樹木が育ち、日陰にされ)要をなさなくなっていた。まずこの2つを所定の位置に移動させた。共に一人では運べないし、基礎のコンクリートが重いムベ用は、3人で運んだ。
この日、オドリコソウが咲き始めていた。
昼食は、「若葉の下で」と、モミジのトンネルで準備した。さちよさんたちも合流。お2人は厭離庵の後、祇王寺まで足を延ばしていたことを知った。
だから、このモミジのトンネルは「祇王寺の…」と、その由緒を語りながら、稲荷ずしを5人でつまんだ。
この時期は、3か所ではびこったイチリンソウが咲きそろう。
さちよさんたちは帰路についた。2人の若者は、薪運び(私の手には負えかねなくなっていた)を肩代わりした。野小屋の周辺に溜まっていた幾つもの薪の束や、まともな薪にならない端切れを積んだ幾つもの籠を、風呂焚き場の近くなど3か所まで、坂道を運びあげた。
かくこの日は暮れた。この日はなぜか、妻が風呂をつかうのが遅れた。おかげで、と言っていいのだろうか、この夜更けから翌朝にかけて、さらに次の日にかけて、予期せぬ歓びに4度の恵まれることになる。
まず、居間でTV録画を見ていたら、風呂から上がった妻の感嘆の叫び! が広縁から聞こえた。それは風呂の湯加減への感謝ではなく、私を呼ぶ叫びだった。
薄暗い常夜灯の下で、その飛翔体に出くわした。「見たことがない」と、元昆虫採集マニアはカメラをとりに引き返し、フラッシュを焚いた。「カミナリチョウ(アオスジアゲハ)かも、とおもったが、オッポがあるし、時期が早い。アオスジアゲハはネギボウズが割け、咲くころに来る。
ガラス戸を私が開け、妻が蝶を両のたなごころで包むようにして、そっと逃がした。蝶はひらひらっと引き返してきて、網戸にとまった。これが、上旬最後のトピック。
中旬は快晴で明けた。「まだ、とまっています」と、カーテンを引いた妻がまた叫んだ。確かめた。
外に回って、遠くから「ともかく」と、1枚撮った。近づきながら次々と撮った。まじかに近づき、飛び切り上等のカラスアゲハであったことを知った。
昨年の暮れのことだ。畑から採り込んだ野菜の1つに、何かのサナギが1つ、着いていた。それを、鉢で育つアボカド(転居を決めた伴さんにもらった)の葉に、ボンドでとめておいた。それは、ヤーコンの葉を茶葉に、と採り込んだ時のことであったようにおもう。そのサナギが割けていた。
この日、2人の若者は囲炉裏場から母屋の出窓の下まで、薪を運び上げたわけだが、感心させられたことがある。翌日に知ったことだが、薪を風呂焚き場などへと運んだ彼らの配慮だ。もちろん、運び込んでもらう前の案内時に、「サクラソウだ。きれいだろう」「自然生えだ。大事にしてやって」と、注意しながら私は歩んだ。
薪を、彼らは両手でぶら下げたり、一輪車で運んだり、と幾度も行き来していた。それだけに、感心した。1本も、踏み荒らされていなかった。
この日、この小さな庭宇宙では、カナヘビガお出まし。小さな甲虫を初見。お気に入りのボケが咲きそろうなど。かたや地球では、その一角ウクライナで、プーチンの残虐蛮行が続いていた。
3日後のこと。さちよさんから来訪時の写真、未明の散歩の様子が送られてきた。夜半にハッピーが吠えた時に、彼女は起き出し、出かけたのだろう。
見たことがない光景が切り撮れられていた。この光景を私は知らなかったし、キット直には触れずに死ぬだろう、と感謝した。と同時に振り返ったことがある。27年前、リズさんの生家を訪ね、未明の散歩に出た折のことだ。早朝の様子を私はノートに収めたが、そのスケッチに両親は目を輝かせた。その心境を知り得たように感じた。
一帯を彼女は二回りしたのだろうか、大井川が深夜と日の出時の2度にわたり撮られていた。
2、権力ドロボウになど騙されないぞ。
穏やかであり、ドラマチックな10日間であった。だが、ウクライナでは悲惨なことが繰り広げられた。新聞やTVで知り、これが事実だろうと感じたことが、ロシア当局は否定し、捏造だとののしり、ロシア国民には真っ逆さまに伝えられていた。
自虐行為、と私の目には映る。だが、をの主役・プーチンの支持率は上がり、これを疑う者は犯罪者にされて当然のようだ。ダダカンやその妻、その夫婦の息子、わが友・孝太さんをおもった。
わが母も一度だが、戦時中に、国賊だったか非国民だったか、ニガニガしげに吐いた言葉を思い出した。
あわただしく京都の田舎(当時)に疎開した1944年の夏の日暮れだった。母は私の手を引いて村の10数軒を、マッチの小箱(貴重品だった)2つを手土産に、あいさつ回りした。最後の一軒は、京城大学(ソウルにあった9帝大の1)の教授だったと聞いた金子さんのお宅だった。
応対に出た金子さんは、藪から棒にとても甲高い声で、「奥さん、日本は負けて、真っ二つにされますよ」と叫んだ。夜道を帰りながら、憤る母の姿を見た。何度も、「国賊」だったか「非国民」だったかを、小声で盛んに繰り返した。
今から思えば金子さんは、短波放送で聞きかじったばかりの情報を、「やはり!」とばかりに、つい口走ってしまったのではないか。
1年後に、母の金子さん像は一転し、子どもの私の心に何かが焼き付けられた。これが人生にとって1つの原点になった。その何かがいつしか、新聞記事などを切り取らせるようになった。記憶と記録の違いや、時の移ろいの検証だ。その1つ、ごく最近の1つを取り出して、読み直した。より説得力を感じた。
2年前の記事も思い出した。コロナ騒動を、なんとか「災い転じて福となす」にしなくては、と思案してたいた時に出くわしており、その写真記事を切りとった。文明人が、チョッと行動を自制すると、「かくも!」と思い知らされた。ちょうどその頃に「おかげさまで、家族4人が揃って」住まいづくりや生活改善に励んでいます、などといった知らせが続き、一著づくりを思いたっている。
それだけに、プーチンのウクライナ侵攻が嘆かわしかった。宇宙船地球号そのものが危なげなのに、地球の一角で起こした利己的なおこないが、「それ(宇宙船地球号)どころの騒ぎではない」との心境に世界中の人々を引き戻した。
たった一人の男の、権力の横暴な行使が、世界中の人々を巻き込む“ネコだまし”かのように感じられて、悔しかった。この男がコロッと死んで、同じ権力を引き継いでも、このような横暴な判断は引き継がないはずだ。「権力ドロボウ」を恨んだ。
同時に「案の定」と思った。2年前の拙文も振り返ろうとした。だが見つからない、そこでお世話になった人に問い合わせた。それもそのはず。
「あれはホームページ用の第一回(初回)の原稿で、紙に印刷されたものはありません。下記のURLをCtrlボタンを押しながらクリックしてください」と、教えられた。モリカケ、サクラで騒々しいころの拙文であったように思う。
ウクライナの人々には気の毒だが、この戦争で、世の中はだんだん戦争遂行自体を犯罪視する方向に走り出した、と観た。これまでさんざん弱い者いじめをしてきたアメリカだが、それを棚に上げて、率先してプーチンの判断が生じさせた現象を戦争犯罪だ、と声高に叫んでいる。
先月読んだ一著『占領神話の崩壊』によれば、東京大爆撃などナパーム弾の絨毯爆撃の遂行は、負ければ逆に(日本国民をファシズムから解放できなければ)戦争犯罪で問われるだろ、とルメイ(その責任者)が発言したことも記録している。
これを機に、と願ったことがある。これら絨毯爆撃の被害者に報いるためにも、真の愛国者が現われてほしいものだ。現れて、日本は「世界の道徳的指導者になる」と名乗りを上げてほしい。今からでも遅くはない。好機だ。
だが無理だろう。そのためにはまず、ドイツが欧州の雄になったように、せめてアジアでの信用を構築することが望まれる。それが先決だ、とおもっていた矢先に、朝日新聞が好ましき記事を載せた。恒例の“長谷部×杉田の対談”に+加藤陽子で、鼎談論考を掲載した。
加藤さんは、ウクライナ問題の考察に、かつて日本が、自国の安全観を確保するために隣国に進行し、短期決戦を挑んで失敗した歴史、を振り返っている。
今からでも遅くはない、こうした学者にこそ頑張ってもらいたい、との世論が渦巻く日本になってほしい、と願った。日本学術会議の会員候補6人が任命拒否された案件は、発覚から1年半がすぎても、手詰まり状況が続いている。ここらで風穴を開けてほしい。風通しの良い国にしてほしい。昨今の日本をジリ貧状態から脱却する上で、避けて通れない関ではないか。
学術会議は独自性を発揮して、この6人を、客員会員なり常任アドバイザーなりに起用する制度をつくってはどうか。もちろん「ハイそうですか」では済まない問題だろう。それが好機だ。その争いを、白日の下にさらし、世論を喚起し、黒白を付けるべきだ。
いわゆる国体なるもののありようを、世論を巻き込んで明らかする好機に活かしてはどうか。その民主的な活動の過程が、国家の未来のための真の国民教育になるのではないだろうか。
3、女性の時代に。
NZのアーダン首相が来日し「Be kind」なる名言を残して帰った。彼女は、現実をとことん国民に知らせ、自ら判断してもらおうとする人のようだ。
20日に夕刻、昨年のカリン酒を取り出して、“のど薬”(ウオッカと割る)に活かし始めた。TVではちょうど、スウェーデンのアンデション首相やフィンランドのマリン首相までが、NATO加盟問題について、その想いを公表していた。
だから、あの男が死ねば、安堵の乾杯を世界でどれだけ多くの人が交わすことか、とあらぬ夢を見たわけだ。だから、「そうだ」とばかりに、2日前に録画したNHK-TV「映像の世紀・バタフライエフェクト『ベルリンの壁崩壊 宰相メルケルの誕生』」を観はじめた。
ベルリンの壁崩壊と宰相メルケルの誕生がテーマだったが、東西ドイツの統一は、東ドイツの若き3人の女性(アンゲラ・メルケル、カトリン・ハッテンハウワー、そしてニナ・ハーケン)が成し遂げたも同然であった、と承知した。
同時に、男の一人として、テストステロン・男性ホルモンに、未だに振り回されているかのように視えるプーチンを、憐れに思った。私は、35~6歳ごろに、その誘惑に勝る情報や考察に恵まれ、一皮むけたような体験がある。
アンゲラ・メルケルの父は、西ドイツ・ハンブルグで牧師だった。だが、社会主義に傾倒し、家族で東ドイツに亡命を、1954年に選択している。その数年後から北朝鮮では、地上の楽園キャンペーンを打ち始めていた。
アンゲラは大学で物理学を専攻し、科学アカデミーに就職。1986年に、国家に忠実な人にのみ許された西ドイツの旅行に出ている。
カトリン・ハッテンハウワーは学生時代に、「自由な人々による開かれた国」をスローガンに掲げ、月曜礼拝後に社会運動をはじめる。この画策を、月曜デモとして軌道にのせる。
ニナ・ハーケンは歌手。1974年、19歳の時に「カラーフイルムを忘れたの」が大ヒット。多くの人々(メルケルもその1人)の心に自由の火をつける。1976年、イギリスに亡命、後に西独でパンクの女王に。
1989年6月天安門事件。4か月後の10月3日、運命の日。
1人の政治局員は「翌日発効。VISAがあれば」を「即時に」と歴史的な失言。半時間後には数万の人々が検問所に押し掛け、ゲートが開く。メルケルもその1人だった。
ほどなくメルケルは政治の世界に転身し、冷静さや判断力で、頭角を現す。
女性・青少年担当相になったメルケルは1992年に、ドラッグ問題がテーマのテレビ討論会にのぞみ、パンクの女王になっていたニナ・ハーケンと正面衝突。ニナは席を蹴って、がなりながら退室。
2007年の暮れ。メルケルは首相としてロシア・ソチにプーチン大統領を表敬訪問。メルケルが犬嫌いと知っていたプーチンは、会談の席に犬を連れ込む。「あのやり方には覚えがある。人の弱みに付け込んで利用するKGBの典型なの」とメルケル。
2015年、難民問題で、メルケルは受け入れを容認し、東ドイツの人々を主に大反発にあう。だが、メルケルは「ドイツは難民を追い返さない」と引かず、ピンチを向かえる。この時に、メルケルを救った女性がいた。
画家になっていたカトリン・ハッテンハウワー。東ドイツの著名人46人と連名で、メルケル首相への公開書簡を10月23日の新聞に載せた。その締めくくりは、26年前のデモのスローガン、「自由な人々による開かれた国」であった。
この年、ドイツは難民100万人以上を受け入れた。
かくして2021年12月2日、76歳のメルケルは退任式典を迎えた。恒例の宰相を送る曲に、メルケルは46年前にニナ・ハーケンが歌った「カラーフイルムを忘れたの」を選んだ。
メルケルだけでなく、メルケルを欧州の母にまで育んだドイツにも想いを馳せ始めた。ダッハウ強制収容所などで知り得た国の姿勢が思い出された。体験者の証言や物証を掘り起こし、それぞれの実態を写真やレプリカで示し、4カ国語の説明も添え、観光資源にしていた。そこに小学生の時代から自国民を引率し、戦争の何たるかを学ばせていた。その光景を、世界中から集う観光客も眺めていた。
こうした姿勢と努力の積み重ねが、対外的には信用の、国民にとっては真の(あらぬ影におびえない)愛国心や(鞭におびえない)自信の源泉になるのだろう。
プーチンはこの逆の、自虐行為をしている。そうとは知らされない国民が気の毒でならない。
改めて、テストステロン(武器を手にすると分泌量が100倍にもなるという男性ホルモン)の奴隷になりさがりたくない、と思った。なりさがったかのようなプーチンにも想いを馳せた。だから自ずと2年前の一文にも想いをはせ、健康的な女性への期待を膨らませもした。
4、“地獄の門”は世界に8つ
アメリカの長女、とわが家で呼ぶリズ(受け入れた外国人学生ホームステイの第一号で、アメリカ人)から「AKP(ニューイングランドの幾つかの大学が、同志社大学を受け皿にして提携した日米学生交流プログラム)は今年、五十周年を迎えることになりました」との知らせがあった。
「それを機に『50年を振り返って』という小本を作成することになったのです。私は、学生、客員教授、そして所長という三役を勤めさせていただきましたので、短いエッセイを頼まれました」、ついては1葉の写真を使わせてほしい、との問い合わせだった。もちろん、一緒にとった他のお二人の了解もえた。
リズさんは20歳、私は34歳、そして妻が24歳からの1年間の同居生活だった。この写真は、一著『未来が微笑みかける生き方 AI時代の自給自足』を3カ国語(日米中)版にするうえで協力しあったメンバーで、妻が撮った。
リズさんは寺山修司の翻訳もしている。劉穎さんは残留孤児3世で、日中民間友好に腐心。喜田真弓さんはビル・トッテンさんの語学上での右腕。
この本では、望ましき未来の姿(炭素や水の循環と、水の潜熱の活用などが必然)を問い、パラダイムの転換(価値観や美意識の転換を伴う)への備え方や心構え(その根本)を訴えた。ハウツー型人間やマニュアル人間(工業文明が生み出した分業化・専業化適応人間)からの脱却のススメでもある。
だから、アメリカでの取材時(1995年)を思い出した。ニューイングランド(のメイン州)にあるリズさんの実家を訪れ、その父親(大学の総長だった)に未来学(当時、日本で話題になっていた)の何たるかなどの意見も伺った。わが国で未来学者と紹介されていたアルビン・トフラーが歴史学者であったことや、「彼が来訪時は、このテーブルで語らった」などと伺った。
また、アメリカの中学生を(リズさんの甥が遊びに来ていたのを幸いに)育む授業のあり方(も話題になり、その未来志向)に仰天させられた。いずれも『「想い」を売る会社』に収録した。
この際に「確かめておかなくては」と、気付かされたこともある。ロダンの “地獄の門”は世界に5つ(石膏オリジナルとその砂型で鋳造した4つ)あり、そのすべてをこの目で見た、との心ひそかな自慢の確認だった。
その最初は、パリのロダン美術館で見た。その時に、これは砂型鋳造の2番目であり、最初の1つは日本の上野にある、と知った。
3つ目はチューリッヒ美術館を訪れたおりに(写真には1994年3月15日とのメモがある)観た作である。
4つ目が、実はあいまいだった。ペンシルベニア州のフィラデルフィア美術館(砂型鋳造の1つがある)で撮ったもの、と思いこんできた写真を持っている。だが、メモがない。ニューイングランドにはよく出かけ、リズさんの車で(取材時に)走り回っているから、おそらくその時に、と考えて来た。
このたび「この確認を」と思い立った。なぜならその後、由緒正しい“地獄の門”が8つ(後年、蝋型で3点鋳造した)あったことや、その内の1つがスタンフォード大学内のロダン庭にも(残る2つは、静岡県立美術館と韓国・ソウル・ロダンギャラリーに)ある、と書籍で知ったからだ。スタンフォード大学なら、リズさんと1995年の取材時に訪れている。
だから、リズさんに「記憶をたどってもらおう」と、問い合わせることにしたが、まだ返事はない。
ちなみに、石膏の原型は、パリ郊外(ムードンのロダン美術館・ロダンのアトリエであった)にあった頃に訪れており、観ている。前庭にあったリンゴの木に実がたわわにみのっていたことや、一番見応えがあった石膏原型を鮮明に記憶している。ちなみに、今はパリ・オルセー美術館に移されているようだ。
それはともかく、砂型鋳造の4作をすべて観た、との自慢は崩れそうだ。だが、石膏の原型と砂型鋳造(の作品を3つ)だけでなく、蝋型鋳造の「地獄の門」も観た、との満足感に変えることになりそうだ、心秘かに思い始めている。
5、半世紀を振り返った。
「カラスアゲハだった」と11日の朝、70年ぶりの念願成就
次いで、「そうか、あれは?」と、半世紀も前に見かけた「紅一点」
不思議な昆虫の群れを思い出した
その後、月末にかけて数度、「紅一点」を
ありありと回想させる出来事が生じた
「紅一点」の写真を探しまわった
「あった!」
「紅一点」に抱いてきた夢はくずれた
この桜の木がまだあった頃を振り返った
この家探しで、懐かしい写真も見つけた
リズさんだった
「アメリカの長女」と呼ぶ、ホームステイ第1号
半世紀はどの時が流れ去っていた
「なんと」と、月末につぶやいた
リズさんから、久方ぶりの知らせがあった
12日、待ち焦がれていた1著が届いた
かつての顧問先。当時の社長から
2つのお誘いの言葉を添えて、
社の歴史も知りたいし、
あの味を、もう一度、とも願う
今月、妻たちがなぜか、ドライトマトをつくり始めた
「虫が動き出す前に」と、知範さんと郊外のHCに出かけた
籠つくりの材料を探したかった
だが、格好の既製品が目に留まり、誘惑に負けた
早速、ザルで半ば乾いたトマトを入れた
ピッタリだった
月末、この籠に、キノコが入った
この時のHCで、エンジンブロアーの修繕も頼んだ
月の半ば、久保田さんを誘って神戸に出かけた
ミイラ展がお目当て
館内撮影可、の部分があった
ロゼッタスト-ンもみた
レプリカだった
半世紀昔を、振り返った
何年か遅れの新婚旅行で
このオリジナルを、二人でみた
神戸は大きく変わっていた
三宮駅前界隈はさらに大きく変わる、
久保田さん弁
アメリカにまた、近づきそうだ
そのアメリカが、工業文明が危ないのに
帰宅して、着替えていると
「ホレ!」とばかりに、妻が菜園のネギを見せた
今年のできは、新記録。ネギを育て始めて数十年
ふと、紅一点との因果関係に想いを馳せた
シジュウガラが今年も
巣作りに励みはじめた
その建材に、ハッピーの落し毛
妻は日々、ブラッシングに励んできた
フェルトをつくるために
シジュウガラは文化だろう
妻は、文明に違いない
温室で水やりをした
パプリカの鉢植えで、夘月の半ば
孵化したばかりのカマキリをみた
温室ゆえに、だろうか
“七十二候”では、
蟷螂生(カマキリ生ず)は、6月上旬のこと、
去年の新聞で、読んでいた
17日、当月2度目の佛大生が来訪
常連の片野田さんと、長谷部さんは向こう1年間のリーダー
2つのアーチを常設し、2本の植樹
そして4株のレモングラスを移植
いずれも、土を掘り返す作業だった
だが2人は、自然生えのニホンサクラソウを傷めていない
この日二人は、二本の道具の柄を、折ったりヒビを入れたりした
これも私は高く評価した
若さの情熱と感受性とみた
ニホンサクラソウを傷めなかったことも、
二つの道具を痛めたことも
次代に夢をはせさせた
焼き芋のひと時
片野田さんが何かに気付いた
孵化したばかりのナナフシ
18日、直ったエンジンブロワーをとりに
再び郊外の大手HCに知範さんと出かけた
ついでに、植木バサミの研ぎを頼んだ
売り場もみて歩いた
あれも、これも、と夢が広がり
修繕に要しそうな道具や資材を買い求めた
フジが満開の19日、Gumi夫妻を迎えた
記念樹に、と苗木を持って帰ってもらった
後日、ひろ子さんから、写真が届いた
記念樹の元木の下で、撮ってもらった一葉
学生時代が始まった春に植えたこのモミジ
招かれていた恩人への手土産になった木の姉妹
祇王寺の庵主、智照尼さんに苗木を掘り出させてもらった
この木の子や孫で、モミジのトンネルもつくった。
翌日、池田望さんを迎えた
拙著を「あらかた読んだうえで」と伺っていた
その願いが、かなった
ゆったりと、時は流れた
お土産に、ネギボウズを持ち帰っていただいた
翌朝、写真でお返しがあった
妻のレパートリーが1つ増えた
この時期、家庭菜園ならでの自慢、
まず、ハシリのネギボウズ
他に、最盛期の菜花
ウコギの新芽
この日、ある一畝を仕立て直した
ヒコバエから育てたネギ5種が育っていた畝
ダイコンとアイトワ菜は抜き去り、堆肥の山に積み終えた
薹のたったホウレンソウと蕾のついたシュンギクを抜き取った
ホウレンソウは、良いところ採りをして、峻別
妻の活かやすいように
シュンギクも、良いところ採りをして花瓶に
残りはいずれも堆肥の山へ
ネギは、ヒコバエをとるために残した
この畝は、トマトの畝になった
月末には、義妹がくれたチマサンチェの苗を、肩に植えた
トマトが茂るまでに収穫を終える
その後、シュンギクは幾つかの器に分けられ
ほころび始めた。
小果樹園ではこの日、新たな堆肥の山を築き始めた
いずれ、隣のこれまでの山の上部を、未分解分を、
この新しい山に移動させ、積み足す
小果樹園は、ヘビなどのサンクチュアリの1つ
野草の天国にしいている。
裏庭ではモミジの剪定をした
若い2本のモミジ、背丈を詰めた
急な坂の土手を上り下りするのは危険
杖の代わりをさせる木として活かしたい
だが、ワラビやフキの畑を、日陰にはさせたくない。
23日、看取り医に、と願う矢間先生に
父を看取った医者の娘婿に
やっと訪ねていただけた
その父親は、わが家の主治医だった
その2人の息子も医者だが、別途開業。跡は娘婿に継がせた
自分の患者には、娘婿がピッタリ、と視たのだろう
そのピッタリが、私の心にも響いた
看取り医に、と決めていた
人柄がピッタリ、が結婚でも好ましいように
看取り医は、このピッタリが大事、とおもう
片思いかもしれないけれど
父の最後はまるで植物人間だった
ジーット動かずに、眠っていた
「森さん」との呼びかけに、パチッと目を開いた
主治医の呼び掛けだった。すぐに、閉じた
これが父の、昏睡来、最初で最後の開眼だった
先生を見送った後のこと
茶摘みをした。ウドの収穫に当たった。
シラユキゲシが盛りを迎えていた
茶葉は、その日のうちに妻が、蒸し、揉んで、干した
23日、ケシが咲き始めた
24日、トマトが初咲き
その後、エビネラン、タツナミソウ、あるいはジャーマンアイリスが
それぞれ根付いた幾カ所かで、それぞれ咲き始めた
庭は一段と、はなやいだ
タテハチョウ、アオスジアゲハ、モンシロチョウ
さまざまなチョウがやってきた。小鳥のさまざまな鳴き声が聴こえる
フタバアオイの花に、初めて気がついた
今年もクサノオウやユキモチソウが咲いた。
ハハコグサが減って、七草粥の日に妻は苦労した
それは3年前。今年は期待通りに増やせそうだ
喫茶店でトッピングなどに用いる野菜
テラスで育てる試みを、妻たちは始めた
今月は2度、澄まし雑煮がすでに出た
つど野菜がかわる
今年から、年に1度と決めていた赤飯のルールを
破ろう、と語らった
例年より早くハッピーのパラソルを出した夘月
半ばに、孵化したばかりのカマキリをみた
“七十二候”での蟷螂生は、6月上旬なのに
サツキが、五月を待でずしてシーズンに入った
ウノハナのつぼみは、夘月の末なのにまだかたい
29日から、スナップエンドウに加え
フリルレタスの収穫も始まった
ネギボウズは、美味の盛りを過ぎた
ワケギのシーズンも終わった
自生の三つ葉も盛りを過ぎた
夏野菜の収穫が始まるまでは、
ニラ、そして自生のシュクコンソバと共に
この畑の2種が、食卓の主役
雨の日が21、24、そして26と、多い下旬だった
29日も雨になった
この雨を好機と、久保田さんが趣味の教室展に出かけた。
会場は祇園石段下近くにある築50年のビル、4階だった
このビルが出来た当時、見学に出かけた
びくともしておらず、今もモダンだ
この会場から見る東山は美しい。
当月は、メタボリズムなどと世界中で騒がれたビルが
メタボリズムの効果を発揮せずに、東京で解体が始まった
まるで、工業文明のあだ花であったかのように
淋しい
久保田さんは書道と篆刻に加え
レパートリーを広げていた
その腕を、2人の孫への贈物で、初試し
書や篆刻の、心惹かれた前でも
会話が弾んだ。
かくして最後の1日を残すのみになった
月初の電話来、待ち受けていた日だ。
6、友、遠方より来たる。
鳥越孝治さんを、福岡から迎えた。「お一人で」と思っていたが、同伴者があった。なつかしい寸田秀範さん。大垣時代の友人。
このお2人は、アイトワでの出会い以来、つき合っておられた、という。自ずと話が弾んだ。
この庭には、鳥越さんが発案の記念樹が、沢山ある。それは、オンワード樫山がポロ・ラルフロ-レンとの提携を機に、子会社(株)インパクト21をつくったことに始まる。社長に鳥越さんが選ばれた。その鳥越さんに頼まれて、上場来、親会社と合併するまでの間、節目、節目で、6本の記念樹が、アイトワの庭に植えられた。
元をただせば、話しはさらにさかのぼる。伊藤忠の繊維部門は、私の発案で、取扱主商品を“原料から製品”に転換することになった。そこまでさかのぼる。
その戦略会議に、若造の私も呼ばれた。この大転換事業を引き受ける本部長、それまでは貿易部門長が、「という事は」と、私に質問した。
当時、既製服業界の雄だった「樫山」と、競う関係になるのか、と。
「手を携えたほうが良いのでは」と、応えた。
そこで、樫山に、私はある提案をすることになった。すでにジーンズやポロシャツなど綿製品が市場にあふれ始めていた。
だから、「ウール(背広)の樫山から、コットンにも強い樫山になりませんか」、と。それがヒットした。
このプロジェクトの伊藤忠側の窓口になった。半世紀も前のこと。1つの提携事業を持ち掛け、実り、オンワード樫山と親しい間柄になった。
寸田さんは大垣で、あられ造りを生業にしていた。合鴨農法で米を育てることから始めるような人であり、親しくなった。
短大を去った後のことだが、NZ旅行を寸田さん誘われ、ミルフォードトラックに、出かけたこともある。
鳥越さんは、柳生博さんと親しかった。その若き老衰死も話題になった。
その息子の案内で、社員を引き連れて鳥越さんは八ヶ岳に踏み込み、遭難しかけた話も飛び出した。「この小倉山で、迷ったことがある」と私。「山は怖い」と、山岳部員だった寸田さん。
「さすがは」鳥越さん。見事な方法を思い付き、指揮をして、難を逃れた。
寸田さんのNZ旅行は、胃の全摘手術10カ月後に、当時“世界一美しい散歩道”と言われたトラック4泊5日の踏破だった。私は、出立数日前に、ギックリ腰になっていた。だが、キャンセル代が惜しくて決行した。
このNZで、寸田さんと分かれた後、無理して予定をこなした。さまざまな縁ができた。それも話題にした。海詩やレイさんは元気かな。
昼食や午後のお茶を挟み、話題は尽きず、ついにマッカーサーの「精神年齢論」におよんだ。初耳だった。それは、日本人のそれを12歳と見た謎を解くもう1つの理由、かのように感じた。
1つの理由は、先月の月記でふれた。当時の政府要人が、憲法9条を拠り所にして、世界の道徳的指導者の立場に日本を育てあげようとはしなかったこと。これに加えて、マッカーサーとしては、もっと口にはできない理由があったわけだ(!?!)。
精神年齢論とは、アングロ・サクソンの精神年齢が45歳とすれば、ドイツ人もほぼ同年齢にある。だが日本人はまだ12歳の少年である、とのマッカーサーの帰国後の発言である。
この精神論を知って、日本はさまざまな顕彰記念行事などを取りやめたようだ。多くの日本国民も、マッカーサーを神のように敬っていたにもかかわらず、一瞬にして気持ちがなえ、過去の人にした。
このたび知り得た理由とは何か。それはマッカーサーの離日時での1つのエピソード。マッカーサーは天皇の見送りを望んだが、日本政府は応じなかったこと。
解任されて離日する無冠の人を、天皇が空港まで見送りに出るわけにはゆかない、と考えたようだ。もしそうなら、国民の1人として残念だ。
天皇は、マッカーサーの要望を聞かされていたのか。国民は当時、この事実があったことを知らされていたのか。
「天皇がお忍びで」と願えば、国は国のために放っておくわけには行かない、と言って、それなりの護送をすればよい。国民は沿道を埋め、歓喜の声をあげたことだろう。ならば日米は、少なくとも国民の心は、対等の付き合いを始めていたに違いない。
その後、ズーッと後のことだが、ブレア首相は「国民のプリンセスだ」と叫んで、離縁後のダイアナの事故死を、国として悼んだではないか。
こんな想いを抱かきはしたが、「それはともかく」と、3人の交歓を優先した。