予期せぬことが多々生じ、予定していたことと絡み合って、目が回りそうな1カ月でした。庭はいよいようっそうとなり、畑は支柱だらけ。真夏日や蒸し暑さだけでなく、除草や草刈り、徒長した枝の摘み取り、あるいは次々と落ちるハクモクレンの未受粉の種房の落下などに追い立てられました。とはいえ、暦通りの「蟷螂生」も目の当たりにできたし、サラ、マチヨイグサ、そしてクチナシなどが次々と咲き美しかった。
予期せぬことは7日の深夜、妻の喫茶店での相棒・松原さん(前の日も元気にお勤めでした)の急逝の知らせで、これが最初。。2つ目以降は来訪案件で、8、9、13、16、19、そして23日と続きました。おかげで元気にしてもらえ、久しぶりの出張(27日から2泊3日)に意気揚々と出立しています。
8日は乙佳さんの、板前を目指した時の師匠を伴っての来訪でした。9日に、ヒョッコリお訪ねの久保田さんは、葬送から戻った義妹と妻との3人で、テラスの大水槽の大掃除。13日の中村さんは奥様同伴で、雲南の旅をご一緒した念願の1書を持参下さった。次の、チェンバロの制作でも知られる谷口照恭さんは、親孝行でのお越し。そして未来さんは、順調なその後の懐妊経過などを、23日の宙八ご夫妻一行は、未来世代を育む夢の現実化に向けて一歩前進を(賛同者・西川知さんを同伴で)、それぞれ知らせて下さった。
予定に入っていた大勢と来客は、後輩の松本さんを伴った今村さん。長津親方の愛弟子・高橋さん。池田望さんは2度。久しぶりの裕一郎さん。そして2人の佛大生など。他に、11日は、午後に映画会を開き、高安先生、知範さん、長津親方ご夫妻も、といった具合。
外出は、6度。11日の午前(映画会の前)に、岡田さんに連れられて古武博司さんを、高安先生を誘って、西陣の町家に訪ねるなど、京都の歴史を学んでいます。19日は、金久さんと知範さんを誘い、法然院で開かれた第108回風呂敷トークに参加。トークは梶田貫主でしたが、縁と運の法話(必然と偶然で峻別)に、とても心惹かれました。この日は初めて同院の墓地まで足をのばし、学ぶこと大。そして当月は、母の23回忌があり、25日に墓掃除、26日に法事。加えて翌朝からの久しぶりの出張(2泊3日)と月末の歯の定期検診でした。
この間に、商社時代の同期生と旧交を暖める好機にまず恵まれ、次いで“木の文化を未来に繋ぎたい(森の恵・木と共生した伝統的な木材加工技術)”とのクラウドファンディングが始まっています。20日から喫茶店は夏休み(1カ月の人形創作休暇)に入り、乙佳さんが2度(末富さんと、翌日は親方と)訪れて、妻が願う加齢対策に。そして久保田さんと、27日から2泊3日の予定で出かける旅、箱根の美術館を巡るプランの打ち合わせ、がありました。
そのようなわけで、月の半ばごろから庭仕事は怠りがち。1日に、キュウリとトマトの初成りを収獲。2日は、最後のスナップエンドウを収穫し、そのあとを耕して自然生えのゴーヤの畝に、から始まり、6日にインゲンマメの初収穫辺りまでは順調でしたが、後はとぎれとぎれに。生け垣の補充の苗木植え。ネギの畝作り。蔓性野菜(ツルクビカボチャ、トウガン、第2次のインゲンマメ、そして巨大ツルムラサキ)の支柱立て、が主なところ。妻は中庭で、クリスマスロ-ズの手入れ。トピックは、20日から朝食後すぐに(この日は妻と)庭に出て、果樹園の草刈りから取り組んだことです。この間、ハクモクレンの種房の落下がつづき、おおわらわでした。
雨らしい雨は21日(夏至の日)に降っただけで梅雨は明け、夏場の渇水が心配です。とてもありがたかったことが2つありました。ウクライナ問題で、トッテンさんにハッとさせられる助言を得た(https://kamogawakosuke.info/)こと。そして望さんと知範さんのおかげで、HPの刷新に取り掛かってもらえたことです。
その上に、久しぶりの出張も無事に終え、この度の水無月も(36年来欠かさずに)手作りのミナヅキで締めくくることがでたのです。
~経過詳細~
1、お守り。
ハクモクレンの未受粉の種房拾いから始まったような水無月。ハマナスの開花で明け、トラノオが咲き、フェイジョアが初めて花を付け、クレマチスが満開。そしてオニヤンマが次々と飛来し、初見のカミキリムシと出会い、縁先のスモモではキツツキがドラミング。これらが前祝のごとしだった。そして、懸案のクラウドファンディングが予定通りに始まった。
この度のクラウドファンディングの願い、“木の文化を未来に繋ぎたい”との想いは、未来世代にとって不可欠だ、と私は睨む。わが国の気候や風土では、健康上、経済上、あるいは安全上などあらゆる面で必然のプロジェクト、と受け止めている。わが国の恵まれた気候風土と木材資源を有効に活かすうえでも不可欠の技や術を保全し、補完し合う相互扶助の文化を守ろうとしている。もちろん私も、2口申し込んだ。
(https://readyfor.jp/projects/93798)。
それは、いつ起きても不思議ではない東南海地震などへの備え。腹ばいになった体勢であれ、木の柱ぐらいは片手で切り離せるノコギリがついたプランを選んだ。1つは居宅の、もう1つは人形工房の(「いざ」という時に手にしやすい)消火器の側にでも常備したい。ことあるごとに心を引き締め直し、願わくは使わずに済むことを期待する “お守り”ともいえる。
阪神淡路大震災の時に、2つの取材依頼があり、その生々しい惨状を目の当たりにした。ノコギリが1つあったおかげで幾人かを(押しつぶされた家屋の下で、体を挟まれたり、行く手を阻まれたりした災難者を)救い出し、火災の犠牲にさせずに済ませた話を取材できた。
都市には幾多の盲点がある。“素人の期待”と“玄人の配慮の範囲”との間には大きな食い違いが生じている。被災する恐れがある者としては、生き延びる(水や食べ物などの)準備もさることながら、その前に、まず“生き残る心構え”と“災難から自力脱出する備え”こそが先決、と思い知らされている。
返礼品の“折り畳み(の窓付き)鋸”を私は渇望していた。これと同じタイプの刃の、持ち手が固定のノコギリを2丁(目研ぎに出している期間を配慮して)持っており、妻も日常的に使っている。だから73歳になる「女の私でも、これなら(寝転んだ体勢でも、片手で)柱も切り離せる」と、分かっている。
短大時代の私なら、キット勤務時のカバンにも忍ばせようとしていたに違いない、と学長の白羽の矢がたった時のことを振り返った。妻にズキンを作ってもらっている。そのズキンは、常時は学校の椅子の座布団として活かしており、出校していた間は、学校と、学校の目と鼻の先にあったアパートの間をカバンに忍ばせて移動した。イザという時に慌てずに済ませたい、駆け付けたい、との心掛けだった。
この「お守り」のおかげだろうか、災難には合わずに済んだ。
もちろん今も、常時は座布団として活かしており、ズキンの機能を生かさずに済む人生であることを願う「お守り」と見て、大事にしている。
この1カ月、初見の虫や久しぶりの昆虫とたびたび出くわした。それだけに、何かにつけてご用心、と心に言い聞かせ始めた。
タケノコの力を思い知らされた12日に、温室内にすくった昨年のアシナガバチの巣を処分した。その折に、毎日幾度も出入りしていた温室の入り口(ツタの蔓の中)にも、作っていたことに気づかされた。だから「さすがは!」と褒めたくなった。
これらのアシナガバチは、スズメバチから身を守るために、足しげくやってくる私たち夫婦を用心棒代わりにしていたのだろう。
テンモクジオウなどの”挿し芽”をした日に、日本ミツバチの巣箱で異常に気付いた。大量の働きバチが、巣箱の外に出て、群がっていた。「なぜか?」。次いで、その側にある風呂焚き場で、小さなクモの巣を見た。クズの薪を入れた籠で、3mmほどのクモの子が、見事な巣を張って陣取っていた。さまざまな生き物が、それぞれ懸命に生きている姿に触れる生活に、心が安らいだ。
マチヨイグサがいつしか盛りを迎えていた。
2、松原多加子さんの急逝。
これが、わが家で撮った多加子さんの最後の写真。池田望さんに、6日に撮ってもらえたが、それが遺影になってしまった。
その日はクチナシ、アジサイ、あるいはサラ(ナツツバキ)が咲いていた。彼女も参加する人形教室があった日で、望さんもHPを刷新する関係で、おみえになっていた。だから教室の様子も写真におさめてくださった。
翌火曜日は喫茶店の定休日。写真の整理をしていた私は偶然一葉の写真を見つけた。だから「皆さんも若かったねえ」と妻に見せた。アイトワの喫茶店は、彼女を含め数人の近隣に住まう主婦が、日替わり店長を務めるような経営だが、このメンバーに彼女が加わった当時の写真だった(中央)。
この日も、私たち夫婦は、いつも通りに床についた。
「デンワ」と叫ぶ妻の声で目覚めると、すでに妻は居間に走っていた。時計を見ると、寝込んだばかり、と分かった。戻ってきた妻から事情を聞かされ、驚いた。
「明朝は早い」と、眠り直すことにした。
早めに朝食を終えたが、その時には既に、出かける用意を妻は済ませていた。朝食用の野菜を採る時に、多加子さん好みの花を庭で摘み、ガラス容器に収めたのだろう。歩いても10分と掛らないお宅まで、私もついて行った。
穏やかな寝顔のごとし、だった。
前日の、30年余昔の妻たちの写真を私が見せていた頃は、多加子さんには何らの異常はなかったわけだ。夕食の準備時も、家族には翌日の喫茶店での予定を語っていた、という。その後、異常事態が発生し、救急車も間に合わず、かつて患った心臓の発作で、帰らぬ人になった。。
一つ違いの妻は、心が相当騒いだようだ。家族葬で、と聞かされながら、妻は人形教室の同じクラスの仲間に(家族のごとくに見たようで)お通夜の連絡をした。翌日の葬送にもこの仲間と立ち会って、見送っている。
妹の車で葬儀場から戻ってきた妻は、テラスで妹と一息入れていたようだ。大水槽で異常が生じていたことに気づき、「さてどうしよう」と思ったようだ。その時に、久保田さんがヒョッコリ来訪。数匹のタナゴ(久保田さんが釣り上げて、下さった川魚)が「病気に罹っていた」。
この3人は即刻、大仕事に手をつけた。この水槽を設置した36年前からこの方、行ったことがない水のかい出し作業だった。これまでは水替えはしょっちゅうしていたが、3人は、底に入れた土まですべて、ミズクサごと取り出し始めた。
タナゴとキンギョを別々の容器に移し、久保田さんの助言を得て、まず常備している二ガリ(を水に、1%ほど溶かし込ん)で、手当てとした。
この時点から私も参戦。小さな植木鉢を取り出してきて、そこに水草を植え込む作業を引き受けた。この鉢のまま水槽の底に沈める方式だと、水草の掃除も水替えもしやすくなるはず。
陽が裏山の小倉山に落ちる前に片づき、4人でお茶の時間にした。久保田さんに教わった薬を購入することになった。
数日後のことだった。水替えをした時に、キンギョの受精卵をことごとく捨て去っていたことに気付かされた。水槽の水が少しバケツの1つに残っていたが、数ミリの黒い幼魚が1匹だが、泳いでいた。この1匹を、妻はオオガハスが育つ大きな水鉢に移した。そこはこれまで、水槽では成魚の餌食にされかねない幼魚(水替え時に汲みだした卵が水甕で孵化した分)を育てる場として活かして来たところ。
月末のこと。桑原さんがいつものごとくミナヅキを作って、持参してくださった。この人のおかげで、アイトワの喫茶店は誕生している。人形工房の建設が終盤に近付き、工房併設の喫茶室の内装工事が始まった。その時だった。通りかかった桑原さんが立ち寄り、「喫茶店にして、一般解放して」、「働きたい」と提案してくださった。
爾来この日、水無月の月末には、いつもミナヅキを作って、届けてくださるようになった。
ミナヅキを京都では、1年を折り返すこの日(6月30日には「なごしのはらえ=夏越祓」という神事が行われる)に食べて、前半年の邪気を祓い、暑い夏に備え、残り半年の無病息災を祈願する。
桑原さんのミナヅキを妻と賞味しながら、4日前に23回忌を執り行った母を思い出した。終生、年に2度、母にはある役割があった。端午の日の“ぼたもち〈牡丹餅〉”と、中秋の名月の“おはぎ(御萩)”を作り(それぞれ2日前から母は取りかかり、たくさん作って)皆さんに配ることを習わしにしていた。
おのずと、松原多加子さんがつくるワラビ餅も「そういえば」と2人して思い出した。「3週間ほど前にも賞味したなぁ」。多加子さんのワラビ餅は格別だった。ご冥福を祈る。
3、親孝行。
チェンバロの制作者としても知られる“たくぼく舎(京都・洛西)”の谷口照恭さんは、93歳の母親に付き添って訪ねて下さった。これまでに2度、お目にかかっている谷口さんだ。一度は、西京区春日町の大原野神社境内にある蕎麦屋“そば切り こごろ”で。2度目は、ご自宅のサロンで催された共にチェンバロの演奏会だった。
チェンバロはピアノの原型といってよいようで、ルネサンス音楽やバロック音楽で広く用いられたという。だが、18世紀後半にピアノが誕生し、その興隆と共に徐々に姿を消した。しかし20世紀に入り、古楽の歴史考証的な演奏のために復興され、現代音楽やポピュラー音楽でも用いられるようになった。このチェンバロの制作に谷口さんは取り組み、成功し、この面でも知られる人になった。
ご一行の来訪をナイセンで知らされ、喫茶店に駆けつけた時は、来訪記念の写真を撮ろうとされている最中だった。訊くと、母親の要望にこたえ、妻の人形を求めての来訪だった。
階段の上り下りがとても困難とおっしゃる母親のたっての願いにしたがって、上階のギャラリーまで付き添われ、1体の人形の前に立ち止まった母親に、まだ「あってよかったネ」と声をかけられた、という。この人形を、写真集かなにかで目星をつけておられたようだ。
聞くところによれば、谷口さんは家具職人であり、その技量を活かす勤め人としての半生を過ごされた。その後、残る半生を、憧れの楽器作りにも振り向けておられるわけ。
自宅を改装し、20人ほどが集えるサロンを用意し、演奏会を催すなど、いわば音楽三昧の半生の真っ最中、のご様子。
そうと知った時に、なぜか93歳で他界した実の姉を思い出した。洗礼名を持つ人で、欲のない人だった。だが、あの人生でよかったのだろうか、と振り返ってしまった。
最後に会ったのは父の年忌法要の時であった。その時も、「あなたが生まれた時から私は、(お姫様から)奴隷になったのヨ」と漏らした。父にとって、私は10年ぶりに恵まれた男児。孝行息子を願って私の名は決め、姉に対する期待を一転させ、姉は私の召使いかののごとき、になった。
その上に、戦況が悪化し、あこがれだった女学校の1年生で、京都に疎開。人生2度目の一転の憂き目にあっている。
その後はお決まりの人生だった。見合い結婚をして、妻として、あるいは母としての立ち場を演じる人生だった。「そこに何の不満があるの」と母は叱った。だが、母だけでなくその不満を、父も十分承知していたようだ。
父が唐突に危篤状態になった時のことだ。1週間後に妻の個展の日程が迫っていた。妻は、常日頃から、家族に一大事が生じたら人形作りをやめる、と覚悟して始めていた。
だからだろうか、母は秘かに私を呼び止め、あることを言いつけた。妻が東京に行けるようにするのが私の役目だ、との命だった。「あの子は、あの子にしかできないことをしている」「私もしたかったことだし、お父さんも、そう望んでいる」と(いったようなことを)意識のない父の手をとって、言い切った。
教室の生徒さんや妹に人形の飾り付けを頼んだ。その会場に、葬儀を終えた妻は、開店前に駆けつけた。
母は一人残されたが、7年後に、父と同じく享年93歳で父のもとに行った。その直前に、私たちは母を白骨温泉まで案内できた。生涯に1度の、母を旅に誘った外出になった。これはひとえに長野の友人・百瀬夫妻(喫茶店の元はお客さんで、そのうちにわが家で泊まってもらえるまでになった)のおかげであった。
姉もおなじく93歳であの世に行った。コロナ騒動の最中でもあり、その死に目に会えなかった。だが、跡取り息子(甥の春樹)は、その昔、苦労して両親が強く願う学校への合格を果たしながら、即刻独自の判断で、福祉関係の学校に進むことを決め、両親を唖然とさせている。後日、それは「母が病弱ゆえに」と語っていた。
4、京都の歴史。
岡田さんに誘われて、高安先生を誘い、3人で西陣の町家に古武博司さんを訪ねた。
3人の落合場所は京都市考古資料館前だった。まずこの館内を巡り、初めて知ったことが多々あった。秦氏がのさばっていた当時、聞き覚えがある複数の氏族が入り乱れるかのごとに京都に分かれ住んでいた。
わが家は戦時中に京都に疎開したが、転がり込んだ先は、父方の伯母の家で、秦姓だった。いずれにせよ先住民は(政府も認めざるを得なかったように)縄文人であり、いま日本にのさばっている私たちは皆、朝鮮半島を主に、渡来した帰化人だ。
「西陣の町家・古武」での勉強会はエキサイティングだった。主宰の古武博司さんの豊富な知識や情報に触れ、近いうちに、と言っても涼しくなってからだが、せめて西陣一帯だけでもフィールド調査を、と願った。
京町屋の構造や成り立ち、その活かされ方、あるいはこれまではあまり知らされてこなかった実体などを知るに及び、「もっと早く」と残念な想いに駆られた。
次いで、法然院で開かれた風呂敷トーク(“風呂敷の会”主宰森田智都子さん)に誘われた。第108回目とあってトークは梶田貫主、と知り、また森田さんの活躍ぶりが京都新聞で紹介されていたこともあって、知範さんと金久さんを誘って参加した。
まず法然院森のセンターに立ち寄った。ここは「森の子クラブ」「自然観察会」「観察の森づくり」などの環境学習活動を繰り広げる市民グループの拠点。地域の自然環境保全に貢献している。この日も子ども連れの母親が大勢集い、賑わっていた。
「縁に導かれて」と題する法話は、「縁」と「運」を「必然」と「偶然」で峻別することから始まり、僧は「縁」の世界で生きている、と学んだ。
その「縁」は、「四縁」(因縁、等無間縁、所縁縁、そして増上縁)に分かれ、「因縁」は「六因」と「十因」からなる。さらに、「六因」は能作因や、倶有因などから、「十因」は隋説因や観待因などからなる、などと解説するレジュメが配られた。
「僧」とはサンスクリットでサンガであり、共同体を意味し、漢訳では僧伽(そうぎゃ)、その略が僧である。つまり「僧」は出家者個人を表しておらず、佛教に帰依した人々の集いを指しており、「僧」を敬うとは仲間を大切にすること、を意味する。
仏教に帰依することは、三宝、つまり佛法僧(真理に目覚めたブッダ・佛、その真理・教えであるダルマ・法、そしてサンガ・僧)を敬うこと。次第に「僧」の世界や生き方に惹かれていった。
たとえば、「十因」の一つ「隋説因」は、言葉はモノやコトを表するから、言葉はモノやコトの因である、ということを意味している。
今は亡き母は「口は禍の元」と教えておきながら、いつも物議をかもしかねないストレートなもの言いをした人であったことを振り返った。その直後に、梶田貫主が、母と同様に四国は徳島の人の血を引いておられたことを初めて知った。
帰途、この日の白砂壇の模様(質問時に金久さんが触れた)が見たくなり山門に回った。そして、山門を出た先の、東山の麓に広がる墓地(質問時に知範さんが触れた)を初めて訪ねた。それもヨカッタ。
まず、九鬼周造の墓を探したわけだが、個人墓がとても多い墓地であることにまず気づかされた。
九鬼周造の墓は、知範さんがすぐに見つけた。赤みがかった御影石に個人名が彫り込まれていた。それが、西田幾太郎の文字であったことなどを次々とスマホで調べ、教わった。
半年ほど前に、甲南大学で、九鬼に宛てた多くの文化人の書簡が大量に見つかった、と報道されていた。また、わが国の「粋」という概念が「媚態」「意気地」そして「諦め」から成り立っていることを明らかにした人でもあった。だから、興味津々にされた。
帰途、赤御影石が「万成石」と呼ばれることを、この道にも詳しい金久さんから学んだ。知範さんは、その側面に見たゲーテの詩の何たるかなどを語った。
「万成石」で作られた墓を、鹿児島で、西郷隆盛の墓の側で見た(人斬り以蔵と呼ばれた岡田以蔵の墓であり、確か京都の粋筋の女性が贈った)ことに私は触れたが、この時に金久さんが鹿児島の人だと知った。
5、大仕事が出来た。
1日、第1次のフジの剪定に妻と取り組んだ。2日、7つあるコンクリ花壇の除草。3日に、2度目のドクダミの収穫とカシの生け垣で(歯抜け状態部分に)ヒサカキの苗木3本を植えた。これは3年もすれば十分に育ち、様になるだろう。
ここまでは順調だった。この後の庭仕事はペースが落ち、怠り気味になった。理由は、暑さの問題だけではない。チョット気が張る講演依頼があり、これを勿怪(もっけ)の幸いに、好機にとばかりに取り組み、勝手に大仕事にしてしまったからだ。
おそらく世の中に、私の見定めた「生きる理念」を1973年に、半世紀近くも前に思いついた人はいない、と思う。ロンドンからの帰途の機中で、清貧ではなく清豊をと願い、それは環境に負荷をかけずに手に入れうる豊かさであろうと思って、見定めた。これは多分に、ジョンブル魂に感化された一面(オイルショック時のロンドンでは、街中のネオンサインはもとよりあらゆる照明を消して、真っ暗な夜を過ごして見せた)もある。だから、だろうか。案の定、この度の「マスク騒ぎ」では、わが国とは逆に、着用の足並みはそろっていない。
帰国翌日、手作りの額に入れて、掲げ、心密かに自ら実行に移してみたくなった。そのせいだろうか、その後は、離婚もすれば、2度も脱サラまでしてしまい(離婚と脱サラの1度目は、この理念の普遍性を確かめたくなった。2度目の脱サラは、この理念の妥当性を記しておきたくなって)今日に至っている。だが、母には逆に「フラフラしている」とコッピドク叱られ、嘆かせてしまった。
もちろんその後、地球の写真をトイレに掲げるなど、さまざまな工夫もして、わが身を諌め続けた。そのおかげだと思う。四半世紀が経過した時に母は臨終を迎えたが、さんざん嘆かせてきた私をしげしげと見据えて、お前は「信念を貫いたね」と呟やいた。筆談になった。孫から「返事がない」と気にしていたが、その返事があり、知らせた時のことだ。「延命策不要」「後は2人に任せます」と母は返した。
この間の1986年の春に、見定めた理念を「もうよかろう」と思って喫茶店の店頭に、2年後の初夏には処女出版物で、さらに2019年には“未来が微笑みかけてくる生き方”の秘訣として、少しずつだが実感を積み増しながら、公表してきた。
そのオカゲだろう。当の私は「まだまだフラフラしている」と、わが身に言い聞かせながらのことだが、見定めてから半世紀近くをつつがなく生きることができた。
それはひとえにこの生きる理念のオカゲだとおもう。多くの幸せに恵まれるようになった。裏返して言えば、さまざまな予期せぬ不運な出来事や、未来への不安が、この私にこの理念を見定めさせたわけだから、それらの不運や不安が幸せに恵まれるようにさせた、ともいえそうだ。そのようなわけで、不運や不安、災難や禍を、いかように位置付ければよいのか、といった切り口から、未来への備えに想いを馳せる原稿を、ここらでまとめておこうとおもいつき、このたびの講演依頼を好機、と感謝した次第。
9日、PCの前に連日陣取っている私を妻は見かねたようだ。中庭で、クリスマスローズの掃除(枯れた葉や、花をつけた後の黄ばんだ花茎を刈り取る作業)に根気よく1人で取り掛かった。
還暦記念に、と髪染めをやめ、「ここをクリスマスローズ畑に」といって20株程の苗を植えた。それが今では100数十株を下らないし、妻はほぼ白髪になった。
10日、ハクモクレンの未交配の種房を温度計路で、折に触れて拾っていたらバケツに3倍分になっていたことを知った。この日、妻は温度計路の両側に沿う砕石を敷いた分部の(カタバミを主に)除草に取り掛かり、私を庭掃除に誘った。
苔庭の手入れに取り組むことにした。木陰ゆえに心地よく、しゃがみ込んで根気よく取り組み、刈り取った野草で一輪車を一杯にした。ここで2人は切り上げ、それぞれの持ち場(人形工房とPCの前)に分かれた。
18日、佛教大生を2人を、共に3回生を迎える日だった。初参加の男子学生は、無煙炭化器に溜まった灰を一輪車にすくい取って、庭にまいて回る作業から、女子学生にはカルミヤの花殻(種を結びつつある)取りから、それぞれ手をつけてもらった。カボチャとニラのコーナーでは、サルの侵入を防ぐように、番線ネットで隙間を防ぐ策に取り組んだり、枯れて落ちた太い枝を処分する手はずを整えてもらったりした。
昼食に、かやくご飯のおにぎりと、庭で採れた野菜のサラダを用意して、学生さんにも、と妻は勧めた。女子学生は自家製のおにぎりを持参しており、妻は褒めた。
締めくくりは恒例の焼き芋だった。
この2人の学生にも元気をもらい、よき2つ目のインターバルになった。
20日は陽が傾くのを待って妻を誘い、果樹園の草刈りに取り組んだ。猛烈な蒸し暑さであったし、4時間も要してしまい、へとへとになった。心地よく冷えていた残り湯につかり、体をさました上で、キュウリをかじり、チーズ片をつまみ、ビールで生き返った気分になった。妻は、と見ると、そそくさと夕飯の支度にとりかかっていた。
夏至の21日は本格的な雨になり、これもよきインターバルになった。
その後、望さんを迎えたり、母の23回忌を務めたり、明朱花さんを迎えたりの予定に加え、飛び込みの来客案件が3度もあって、庭仕事には(3日も放っておけば草ぼうぼうになることを知っていながら)月末まで出ていない。
その根の詰めようと、パワーポイントを選んだおかげで、90分15回ほどの講義内容を、150分ほどに短縮するかのような作業を無事に終えた。もちろん参考資料を、丁寧に読めば100分ほどかかりそうな印刷文を添えた。
これから1年をかけて、これを柱にした文字化に取り組みたくおもっている。要は、いずれは皆が、追い詰められて、取り組まざるを得ないこと。さもなくば計り知れない自然の反撃(自然災害)に苛まれる。だから、そうと覚悟して、前もって取り組めれば、覚醒させられ、この人生ならもう一度、と思いたくなる、そうと気づかされた記録だ。
6、その他
まず夏野菜。畑は支柱だらけになった1日、トマト1個とキュウリ3本が初成り。ただしトマトはカラスに盗られた様子(1本のキュウリの被害から憶測)で、翌朝には消えていた。
2日、最後のスナップエンドウを収穫し、支柱を残したままあとを耕し、畝に仕立て直し、ゴーヤの畝に、と(昨年もゴーヤの畝だったので、種が自然生えすることを)願うことにした。この日の朝食から毎度のように「すべて庭で採れた野菜!」と、妻の上機嫌が続くシーズンに入った。
3日、第3次のナスの苗を2本植える。4日、第1次ナス(連作障害のようで不出来だが)の実が採り頃を迎える。5日の朝、そのナスの実が消えていた。そのうえにジャガイモやニンニクが抜かれ、ニンニクはかじられていた。サルの仕業だろう。
即刻、電柵をオンに。昼間はオンにしておくことにした。トウガラシの初収穫、今年は過去2年続いて発生したカメムシが、月末時点でまだ発生しておらず、専用の捕獲器(ポトポト落ちて逃げるこの虫の習性を、逆手に取って退治する手作り器)の出番はまだない。
6日、インゲンマメの初収穫。これで、五大夏野菜の初収穫がすべてそろったカタチ。
誠に素晴らしい「研究書」を頂いた7日のこと。タマネギの畝のあとを耕し始めたが、思わぬ大仕事になった。ニンジンの自然生えを、と願い、前年のニンジンが長けるに任せ、種を落させたまま耕さずに長期間放置していた。それがドクダミに、根を好きなようにはびこらせていた。
義妹に倣ったニンジンの自然生え式栽培をあきらめ、2日に分けて畝に仕立て直して、バジルの苗を植えた。
翌日は草刈りにも励んだ。隣の畝でコイモが芽を出し、獣害フェンスではブラックベリーが花を沢山咲かせていたので、下草を刈り、ブラックベリーの根元に伏せて、置き肥にした。
12日、フリルレタスが収穫時期のピークを迎えた。13日、ジャガイモを2本だけ初収穫。この様子から、サルが5日に抜いた分にもそれなりのイモが入っていたに違いない、と悔しがる。
かくして、冬と夏の野菜の端境期をつないだフリルレタスとチマサンチェに加え、五大夏野菜が本格的なシーズンに入った。これらに、自然生えのツルムラサキ(の間引き菜)、盛りを迎えた宿根そば、末期だがニラ、あるいはネギのヒコバエが色を添える。
朝食では焼いたトウガラシやキュウリの浅漬け。昼のソーメンには薬味として水で晒した大量のタマネギ。夕には、キュウリの丸かじりなど、夏野菜を満喫する季節に入った。
今年は、第1次のナスは連作障害で失敗。第2次のナスの初収穫は22日になり、そのぬか漬けの賞味は翌朝になった。
孫にまた恵まれそう。乙佳さんから大ちゃんの成長ぶりを聞くことからこの喜びは始まった。早いもので大成君は実学に取り組み始めていた。薬効のある植物を学び(ゆるやかな山肌にある自宅とその一帯で、茶葉に向いたドクダミ、クマザサ、あるいはカキノハなどを収穫し)、乙佳さんの助成を得て(?!?)“天然ミネラル茶”の茶葉づくりに取り組み始めていた。その30g入りを1袋もらった。
この子どもの育て方はおそらく、乙佳さんの(アメリカで高校時代を過ごした成果であり)流儀だろう。頼もしい。
「真に清豊の食」とのおもいで、頂きものの稲荷ずしを賞味した日のこと。水鉢のスイレンの手入れ中に、側に生えているナツメの木肌で「蟷螂生」に触れた。この「10日ばかり誕生が遅れたカマキリ」をからかっていたら、妻から来訪者の案内。未來さんが、母親と実兄を伴っての挨拶だった。実兄は芸術家だが、京都に戻り、母親の手助けをする。懐妊した未来さんは、順調な経過の報告だった。そのおなかに手を添えさせてもらった。
24日、明日香さんが妹の朋香さんと一緒に来訪。明日香さんの2児目の無事(3790gr)誕生と、良好な経過、並びに1週間後に清豊の国フィンランドに帰る、との挨拶。赤ちゃんは、ズーッと眠っていたこともあって、抱かせてはもらえなかった。
朋香さんも2児目を伴っており、とてもはにかみ屋さんだった。1時間余の滞在だったが、見送りの時には、自ら腕の中に飛び込んできてくれた。
清豊の生き方を目指して。予期せぬ旧交に恵まれそう、から水無月は始まった。1日付の小林さんの便りには懐かしい写真を伴っていた。その1枚は、5つのグループに分かれて撮った同期生の写真で、私たち2人は同じ写真に納まっていた。
2度目のアメリカ出張で、ヒッピーの巣窟と言われたグリニッジ・ヴィレッジで数日間逗留した。世間の見方と実体は大違いだった。この時であったのか3回目だったのかは不確かだが、小林さんのお宅で家庭料理にあずかったり、ヒッピーを紹介したりしている。この“世間と実体”の乖離は、“既製概念とその打破概念”の差のごとし、と気づかされている。
長津親方の愛弟子・高橋さんを5日に迎えた。親方流のノコギリの刃と、その研ぎ方も話題にした。私の目には、これに勝るノコギリの刃は見当たらないし、ありえそうにはない。
仮に、この刃が最初からあったノコギリの刃であったとしたら、その後、現在普及している刃が開発されて売り出されたら、どうなっていたか。よほど安価でもない限り、見向く人はいなかったのではないか。
このノコの特色を如何なく活かせそうな仕様途は、に思いを馳せ、「できれば」と、その求評の機会が巡ってくることを秘かに期待した。
8日、乙佳さんには、板前を目指した時期(生きてゆく術として父に勧められた)があった。この日、その時の師匠を伴って訪ねてもらえた。懐石料理と宿で知られる近又(創業享和元年)の、七代目又八、総調理長でもある鵜飼治二さんを紹介された。
近年もうけられた岩倉亭は「乙佳さんの世話になった」とおっしゃる新しい施設だが、木造建築(有)大北の施工例の1つだろう。
アイトワの庭は、このところ荒れ放題だが、乙佳さんに勧められるままに鵜飼さんは一回りして下った。おそらく、岩倉亭のコンセプトは清豊にあり、とお見受けした。
11日の午後、恒例の映画会を開き、岡田さんご推奨の『グランドジャーニー』を鑑賞。高安先生、長津親方夫妻と愛弟子の高橋さん、そして久しぶりに知範さんも参加。
物語は実話に基づいており、両親の離婚と思春期に揺れる少年が主役。生まれて初めて動くものを目にすると、それを親と思いこむ渡り鳥が準主役。まるで『七人の侍』のごとく、さまざまなストーリーなどが絡む筋書きに、すっかり心惹かれてしまった。
残念なことが生じた。ポストにお菓子と名刺を残し、留守と思って引き返されたご夫妻があった。大垣時代に世話になったご夫妻で、元は地元百貨店の社長。今は社会貢献や地域住民の交流の場となるファームを目指し、付加価値の高い6次産業化に取り組む会社の役員や、サービス関連の会社の顧問。当時語らった夢、心豊かな生き方の普及を目指していらっしゃる様子。
11日、妻がお待ちかねの裕一郎さんが来訪。それは、ハッピーを散歩に連れ出し、「脚力が強くなりましたね」との評価を聞くためであった、と分かった。
12日、部下が転勤する前にといって、今村さんが松本翔太さん同伴で来訪。是非とも(サラリーマンしながら手作りできる庭を主に)アイトワの生き方を参考にしてもらえたら、と願った。
翌日、中村均司さんを、今一度見直しておきたい私見があって、お迎えした。夫人同伴だったのでとても心惹かれる一時になった。
中村さんに誘われて参加したフィールド調査の報告書に、オブザーバーとしての意見を述べさせていただいたことがあった。10年余の時を経た今、その主旨を是非とも振り返っておきたかった。その書籍名を失念したので、探していただいた。
この願いがかなえられただけでなく、もっと大きな成果があった。夫人は、義務教育に携わっておられたが、その教育方針や実践事例を伺っていたく共感。しばし時の経過を忘れてしまった。改めてお聞きしたいことがある。
2日後、所用で高安先生がお越しになった。予防の大事さを(病気を治すより、病気にならないことが肝心と)訴えてきた医師の考え方に改めて触れ、有難いお茶の時間になった。
23日に、嬉しい話題を携えた宙八夫妻を迎えた。長年アメリカで、しかもダラスでも生計を立ててきた、とおっしゃる西川知(とも)さんを同伴だった(隣)。
ダラスと言えば、私も移住することを、チラッとだが、商社勤め時代に考えたことがあった。それはアイトワ流の庭造りをその一帯で広める仕事であった。西川さんも当初は庭仕事に関わり、近年はコンピュータを駆使する仕事にかわっておられる。
宙八さんの願う(未来に備える)人づくりのアイデアに意気投合した人、とお見受けした。
母の23回忌に、25日から翌日にかけて、足しげく携わった。母のたっての願いで、父の郷の菩提寺にではなく、歩いても行けるところに用意した墓だが、それがヨカッタ。
朝一番の墓掃除(除草が主)では、寺の心遣いではないか、と思しき草(昨年はなかった)が生えており、それは残した。昨年以前の30年間は、妻が1人で墓掃除をしてきたが、初めて見る植物だという。
夕刻に、父好みの庭の生花ではなく、生花を妻は買い求め(母好み)、試し生け。これには初めて付き合った。
当日は、久しぶりに(学生時代に家庭教師をした)住職の読経。母が最も近しげにつきあった起代子さん(実兄の娘)にも駆けつけてもらえ、すべて母好みで進んだ。
大団円は、翌朝からの出張で原子力研究者と夕食を共にできたこと。私のかねてからの矛盾をぶつけることができた。それは、今日の“原子力”発電(危険極まりないエネルギーの)利用には大反対の私だが、日々の太陽の恵み(地球にとって唯一のインプットであり、“原子力”エネルギーである)の範囲で生きたく願っていること。
この矛盾を解くような研究が進んでいるのかもしれない。清貧ではなく、清豊の生き方の泣き所は、エネルギー問題とにらんでいる。農業文明時代の善意の人力交換や、麗しき畜力の利用などではもとよりおぼつかない。自然エネルギーの活用も、今日並みのエネルギー消費を願えば副作用を生じさせかねない。