ネギの花が咲き、タマネギが薹を立て、キツネノカミソリやアザミの蕾が膨らんで明けた五月。もう夏だ、と心を引き締めました。なぜかいつもこの時期になると「生きる」とか「生きている」という事が気になったり、不思議な想いに駆られたりします。
畑では、わずかに残っていた冬野菜の後を耕し、カボチャ、ツルムラサキ、あるいはヤーコンなど、奥手の夏野菜を植え付け、冬野菜の種採りを仕掛けました。薹を立てたタマネギは早々に抜き去り、葉を青菜として、未成熟な玉は、根菜としてそれぞれ活かします。そうすることで、それぞれの生きがいに応えたように思うのです。
冬野菜と夏野菜の端境期を埋めたワケギ、エンドウマメ、あるいはニラはシーズン末期となり、2種の洋野菜(5大夏野菜の畝の肩で育てるフリルレタスとチマサンチェ)にバトンタッチ。野では、ミツバは末期。フキやシュクコンソバが盛期。サンショウの実は積み時を迎え、フキの葉柄とキャラブキに。フキの葉は炒め物に。
小鳥は、いっそう賑やかに鳴き始め、早朝の目覚めを促し、まだ冷こい新鮮な空気のおいしさを教えます。昆虫の活動には泣かされたり、悲鳴をあげさせられたりし始めます。とりわけカ対策とハチ対策に神経をとがらせ始め、鬩ぎ合いの始まりです
交友に恵まれました。堀田夫妻を迎え、野鍛冶の見学に「いつの日にか是非」と誘われました。京都の観光政策に一家言を持つ金久さんを迎え、ある夢に共感。アザミの花を見て、後藤さんを招き、シャクヤクの開花を知り、冨美男さんに誘いの電話。鳥越さんには、ありがたい写真を送っていただけた。長津親方とは行き来して、匠への想いを分かち合いました。かつてドイツの環境調査でお世話になった中曾さんや、日経での拙著の出版でお世話になった酒井さんにも立ち寄っていただけた。詩人の山口さんには妹さんとお越しいただけたし、瀧野夫妻を始め顔なじみの面々にも多々お目にかかれました。
日本都市農村交流ネットワークの面々を迎え、年次総会の後、アイトワの生き方を紹介し、庭を見学していただき、ギターの井上先生には、コロナで2年越しになった集いを、やっと実現していただけた。白雲釜の村山さんを、堺町画廊に訪ね、旧交も暖めました。2カ月に1度開催のSDGs関連のズームMTGがあり、白砂先生のお宅で参加。終了後の雑談で、チョウやガのことで幾つかの謎が解けました。岡田さんとは2人の同伴者を交えて歓談。そして佛教大生を2度にわたって迎え、多用な庭仕事に一緒に携わり、昼食と2度のお茶の時間などはさまざまな話題で賑わいました。
外出は、市中に2度(白雲釜の陶芸展と、心臓の定期検診)、ズーム会議で白砂先生のお宅までに加え、知範さんと郊外の大手HCへ買い物に、の4度でした。
この間に、離れの窓から渡り廊下の端まで10mほどを、年に2度だけ、朝の陽光が差し込む現象が生じます。日に日にその日が近づく様子は夏の到来を実感させます。
庭では、25日に卯の花が満開。この時期の花が次々と咲き始めました。畑では、2種のエンドウマメの収穫が終わり、それぞれの畝を仕立て直し、一方にはオクラとモロヘイヤの苗を植え付け、他方には第3次のインゲンマメの種をまく予定です。タマネギを収穫し、そのあとに銅葉のツルムラサキの苗を初めて植えました。一昨年分の腐葉土の畑への投入を終え、今年度の落ち葉(常緑樹分)を積み込み開始。堆肥の山では、新しい山を築く新たな作戦に取り組み始め、これも加齢対策に1つ、と気づかされています。
~経過詳細~
1、“体の夏至”を満喫。五月は冬野菜と夏野菜の端境期。インゲンマメの畝に支柱が立ち、その畝の肩などで育つフリルレタスが、収穫期に入った。畑は半ばケシ畑。冬野菜は種を結び、熟れはじめ、採種分と小鳥の取り分の仕分けを始めた。
ネギ坊主が美味だった季節も終わり、その種を取る分にはハチが集う。やがてタマネギの不具合組が薹を立て、結球が不完全になる証拠を露わにし始める。わが家では葉タマネギとし順次収穫し、炒め物などに活かし、小さい玉は、サラダ、シチュー、あるいはビールの肴などに重宝する。
今年も、2種のエンドウマメには随分お世話になった。スナップエンドウが朝食の主材となる日もあった。キャベツやフリルレタスなど端境期の野菜と、あるいは葉タマネギと組み合わせて大活躍も。今年はスナップエンドウを2次に分けて(3次に分けて育てた昨年の、2次分を省いた形で)育てたが、播種の時期をもっとあけておけばヨカッタ。
五大夏野菜の2種、インゲンマメやトマトが順調に育ち始めた。インゲンマメの畝の肩ではフリルレタスが収穫期を迎え、この畝で芽生えた自然生えのケシは開花期に入り、畝の南端ではキツネノカミソリが咲き始めた。隣のトマトの畝の肩ではチマサンチェが順調に育ちつつある。このケシは、幸か不幸かありふれた花を付けた。
この畝間の道は畑のメイン通路。特に一輪車の通行上で邪魔になるから、このケシは植物園の花壇のごとく(人間サマ中心とばかり)に、老醜を晒す前に抜き去られてしまった。花はタネのために咲いたのに。
やがてフリルレタスが主たる青菜となる一時期を迎える。その計画的な収穫を目論んで、それぞれの畝の中央には第2次のトマトの苗など5大夏野菜の苗を植えて行く。コイモの種芋を植えた畝の肩では、チマサンチェが順調に育ち始める。フリルレタスは早、収穫して屋内に持ち込むと、「ホレっ!」と、妻は見せびらかすほど、日毎に大きく育つ時期に入った。
自然生えのダイコンは、幾本かを採種用に残すが、実をつけると、種を結ぶ前に幾分かは収獲して、野菜として活かす。これも家庭菜園の醍醐味の1つ。
キュウリやナスの苗(五大夏野菜の2種)を、ウリハムシが襲い始めた。やむなく防虫ネットで守ることにした。
やがてチマサンチェが立派に育ち、残り少なくなったフリルレタスにとって替りそう。畑はいよいよ夏装束露わの時期にる。
この間に、日一日と夏が近づくことを実感させる装置(図らずもこの仕掛けをこしらえてしまっていた)に気付かされ、今年も感謝した。わが家には他の2つ仕掛けと合わせて、偶然が用意した3大観測装置がある。大工さんのしくじりが幸いし、トイレのコルクのタイルが浮き始め、異常乾燥を実感させる。シルバーセンターの失敗が幸いした過湿状態を実感させる装置もある。
これらの装置の有難さに気づかされる時期が(夏至より一足早く)近づくと、畑ではいつも、わが家の五大夏野菜の5種目のトウガラシ(万願寺と伏見)が収穫期に入る。今年はいつもよりチョット育ちが早いようで、月末に初収穫した。
2、急かされる
小鳥の鳴き声が目覚めを誘う時期だ。いつも曙を覚えさせる私の春眠は、初めて聞く小鳥の鳴き声をとらえた。寝室の北の“腰窓”を開ける。キハダの木の白い幹が目に飛び込み、新鮮な空気が流れ込む。次いで南の“掃き出し窓”を開けると、そこはシイタケのホダギ場。サーッと爽やかな空気が部屋のなかを流れた。
この時期は、ハチの活動が始まれば、カも動き始める。それぞれの対策も、と気づかされ2つの捕蝶網を取り出した。スズメバチはミツバチの巣箱を偵察中に(巣に帰還して仲間に報告させる前に)退治するために、巣箱の側に取り出した。屋内に忍び込んだカを採る網もなんとか探し出せた。もちろん、水鉢などではボウフラを湧かさないように、キンギョに(産卵に来るカを)待ち構えさせる。
その後、最初の小型スズメバチは20日に捕獲。屋内でカを捕らえたのは26日が最初。
新聞を取りに出ると早、温度計道にハムモクレンの未授精(?)の種房が落ち始めたことを知る。月末には落下が盛期に入り、今年は、1万個は拾わなくては、と先が思いやられる。
ポストまでに、2つの水がめの横を通る。ボウフラ退治のためのキンギョはいずれも元気だ。「そうだった」と思い出した。泉に1匹で棲まわせているキンギョが、とても腹を膨らませていた。抱卵だろう。「ならば!妻に」と、目論んだことがある。
テラスの大水槽で、執拗に他のキンギョを追い回すのがいて、追われるキンギョが可愛そう、と妻が話していたからだ。排卵を促そうとメスを追っているのだろう。泉に移せばと、ある企てを実行した。
「そういえば」と、思い出したことがある。ヨモギがずいぶん大きく育っていた。これも、妻と相談しなければ、とおもう。ヨモギは、私が摘もう。
この度初めて、ヨモギ餅つくりにも駆り出された。餅を平たく伸ばして手渡せば、妻が餡子を入れて丸める。餅が冷える前に仕上げなければならない。
朝食の準備に入った妻に、風除室で、初めて見る小型のカミキリムシが大発生、と聞かされた。室内でクヌギの薪を保存しているが、そこで育ったのだろう。遮光簾を張るために出たついでに、薪を確かめてみると、虫食い痕が随所にあった。
虫をつまんで捕り始めたが、キリがない。そこで、すべてが羽化し、飢えて死に絶えるまで、部屋を密閉しておくことにした。
この春から、初めて聞く小鳥の鳴き声が気になっていたが、初めて目にするカメムシなど昆虫も増えた。逆に、「ツチビル」と呼んでいる軟体動物にはめったにお目にかかれなくなった。
最後の冬野菜(第5次アイトワ菜)のあとと、キャベツの畝の北端分の1つを収穫し、そのあとを耕すなどして、トウガンと2種のカボチャ(ツルクビカボチャと、まだワークルームの常温で腐らずにもっている白カボチャ)を育てる手はずを整えた。
小雨の26日朝、「見てください」と妻の声。ハッピーが散歩を嫌がっていた。成犬になるまで屋内で育った(クセが未だに直らない)せいだろう。この時に妻が、クリスマスローズの種(お気に入りの花をつけたのだろう)を、初めてタオルを敷いて採る方式を試み始めたことを知った。ボツボツ私も、ツタンカーメンのエンドウマメの種を採る時期だ。
ブルーベリーの実が膨らんだ。妻に急かされて、2人でブルーベリー畑の下草刈りもした。わが家の1年をつなぐ3大ジャム材の1つ。
3、交友にもめぐまれた。堀田さんが奥様同伴での来訪に始まり、顔なじみの方々との交友に日々感謝するような1カ月だった。
堀田さんは1つの言葉、「らしい」を「男らしい」と「変人らしい」とに使い分けてみせ、ハッとさせた人だが、初めてご夫妻での来訪。人形ギャラリーに案内した。そこで、若き頃の私の習作まで妻は紹介した。
彫塑は、学生時代のデスマスクが始まりだが、後年妻の石粉粘土に手を伸ばしたことがあった。ロダン美術館で、初めてローズ・ブーレの存在を知ったことがキッカケだった。「いつの日にか妻の工房で」と、彫塑台も手作りしたが、まだ生かしたことがない。
金久さんが、常寂光寺でのミニ探検(保津川から嵯峨まで水を引く、江戸時代の隧道計画を探ったが、その検証)結果を持参してくださった。むしろその他の実績に驚かされた。小倉山隧道は、高低差から見て、実現不可の構想だった。
かつて隧道調査された菖蒲谷隧道(現存、奥嵯峨一帯の水田を潤した)の不思議(取水口と排水口の両方から掘り進み「ここで合致、でしょうね」と、曲がりくねった隧道に感心など)を追認。金久さんは、京都のしかるべき観光政策を視野に入れておいでだ。
庭の随所でアザミが咲き始めた。後藤さんの母親(アザミを好むウシに、「よう刈って与えた」と語っていた)を思い出し、コーヒーに誘って切り花を持って帰ってもらった。その折に、釣り人の間では今、オニヤンマグッズが大人気と(蚊よけに活かせる)と聴き、「さもありなん」とおもって取り寄せた。
山本幸二さんのギターの音色が、心地よくテラスに響き渡った。コロナのセイで、2年越しのミニ演奏会だった。言われてみれば、ギターを私も持っていたことがある。
鳥越さんの礼状に、ありがたい写真が添えられていた。29年前のある日をありありと思い出した。インパクト21(ポロ・ラルフローレンの国内展開)社の上場は7月11日だったし、妻のアトリエとギャラリーの竣工は3週間後の8月2日だった。
今年もシャクヤクが蕾をもたげた。ミニザクロなど2種の灌木(いずれも苗木や株を冨美男さんにもらった)が花を付けた。ならばと、満開の前日に冨美男さんに電話。杖をつかなければならないが「訪ねたい」との返事。妻は“季節の昼餉”を(ツタンカーメンのエンドウやシュクコンソバの新芽など活かして)用意したが、食べてもらえなかった。リハビリの日であったことを失念していた、という。もちろん、花は明日も、と誘い、何とかとの返事を得たが、声の交歓だけで終わった。
いつもヒョッコリだが、この度も山口さんが妹さんを同道で、訪ねて下さった。居合わせた瞳さんと乙佳さんにも紹介。
NPO法人日本都市農村ネットワークの有志を迎え、アイトワの生き方と庭の紹介をさせていただいた。その折に、活動の一環で、子ども向けの“芋ほり” も、と聞いたので、むしろイモの“苗の植え付けから”などと口を挟んだ。解散後、3人が残られ、お茶の時間となり、喧々諤々。良き1日になった。
「この人のおかげ」で、日経から『「想い」を売る会社』(企業の社会的責任を説いた)を出せた、と言ってよい酒井さんに、近所の鵜飼さん(元日経で、今は僧侶。廃仏毀釈問題などをテーマに名著多数)と訪ねてもらえた。
長津親方とは3度にわたって行き来した。話題はおのずと「匠」、木造建築面での職人。次代は、現代(人間の合理化を計る大量生産時代だった)に替って、「素材の合理化」の下での繁栄を期待する時代に戻ることにな(り、「匠」が不可欠にな)る。「匠」が招かれ、ドイツで、鳥居をたてた話しも伺った。
白雲釜の村山さんが、個展中と聴き、堺町画廊に訪ねた。そこに義妹が、ヒョッコリと訪れた。わが家には、村山さんご指導のピザ釜があるが、義妹の亀岡の(畑地付きの古民家を手に入れ、アイトワに倣った生き方を目指す)家には陶芸アトリエがあり、村山さんご指導の窯業釜がある。
村山光生さんの焼き物は、持続可能社会型だが、唯一の心配は割れた場合だった。だが、リサイクル磁器の小木曽順務さんと知り合って、その心配もなくなった。堺町画廊は、次代を予見する作家が集う画廊、と観がある。
SDGsをテーマに、ある大学からいずれ叢書が誕生する。そのズームMTGがあり、いつものように白砂先生のお宅で参加。その後のお茶の時間で、白砂さんがチョウ採集のマニアであったことを知り、話しが弾んだ。わが家で羽化したカラスアゲハは、ミヤマカラスアゲハであり、しかも稀にみる柄の一頭だし、その食性はキハダだと知った。このたびのサナギはワークルームで見つけたが、その側にもキハダが1本ある。寝室の窓から毎朝一番に目にする木だ。
今月見かけた初見のチョウは、クモガタヒョウモンであり、「なんで」となった。かつてキマダラルリツバメを近所で3頭ばかり採ったことがあると話せば、白砂さんはイシガキチョウを観た、とおっしゃる。 ,
ついに、オニメンスズメガを話題にした。12年前(2011)に奇妙なイモムシを庭で見かけた。たまたまTV取材中のお一人から、九州以南に棲む「オニメンスズメガの幼虫だが、まぜ?」と教わった。その後、さまざまな色柄のオニメンスズメガのイモムシを見かけている。
5年後(2016)に「セミ?」と見た奇妙な昆虫を見つけ、その姿から推し計り、オニメンスズメガに違いない、と睨んだ。まず触った時に鳴き声を発し、再び「セミ? ではないか」になり、飛び去る姿を見て「ガ」に違いない、になった。このたびやっと、オニメンスズメガであったことや、鳴くことも確認できた。
SDGs叢書のズームMTGの前後2回にわたり、延べ9人の佛教大生を迎えている。当月最後の来訪者は岡田さんご案内のお二人、京都は西陣に詳しい人と京都発祥で世界に知られる気鋭の会社に勤める人を交えた4人での雑談だった。
話題はおのずと未來志向になった。コロナ騒ぎにしろ、ウクライナ問題にしろ、見方によれば(次代に移行する上での)好機到来という面で共通項がある。現在の延長線上にはあり得ない未来に備え、意識改革が必定だが、その好機だ。だが、日本は小手先のしのぎ方で(莫大なつけを未来世代に回しながら)汲々としている。
2025年にいったん日本は破綻すると(この30年来)みて来た私だが、その(時にあげていた)要因が次々とあらわになっている。淋しいし、残念だ。
4、佛教大生は2度にわたって。15日(日)と29日(日)の2回、来訪予定があった。だから幾つかの受け入れ準備をした。助け合う意義に気づいてもらう準備だ。
若者と私たち老夫婦が得手を分担しあい、上手な完成のさせ方と、好ましき完成形を学生に学んでほしい。この“上手な”や“好ましき”は、持続可能な時代と社会が求めるあり様を追求している。
この度はまず、前回来訪時に学生が設置したアーチを(土中に打ち込む工夫を凝らして)打ち込んだり、風で倒されないようにアンカーを基部に打ち込んだりして固定させて、仕上げておくことだった。
このアーチを土中に打ち込むにはひと工夫を要した。知範さんの提案で、建築現場の足場組立用部品(100円足らず)を買求め、木切れ(用意した金具では幅が狭すぎた)を咬ませて成し遂げた。
次いで、前回の作業で壊した2つの道具を修繕(水溶性ボンドを薄くのばして、裂け目に充分流し込み、染み込ませてから縛る)しておき、安堵してもらう。
落ち葉掃除は、かき集めておく作業は老体が分担し、腐葉土小屋まで運び込む力仕事は学生に期待して、済ませておく。
かくして15日の朝。好天だったので、パーキングの木陰にテーブルを用意した。いずれもが3回生だが初参加だったので、まずこの庭での過ごし方を語らうことにした。落ち葉を袋に詰めるコツや、竹の枝を掃うコツ、あるいは焚火の意義や安全で有意義な焚火の仕方などを学習してもらう1日にした。
時間通りに3人は到着し、予定した作業をこなした。2度のお茶の時間と昼食、そして最後の焼き芋の一時もたっぷり時間をとって、さまざまな話し合いに活かした。
29日組みは人数が多く、午前と午後で、2つのグル-プに(コロナ騒動のセイで)分かれることになっていた。午前は、4回生のベテラン・片野田さんと本年度のリーダー・長谷部さん3回生が、2人の初参加の女子学生(ともに3回生)を伴って到着。
顔なじみの2人の男子には、ミニ土木工事(2つ目のミツバチの巣箱を移動させる準備、その設置台つくり)から、2人の女子にはビオトープの落ち葉掃除から、それぞれ手をつけてもらった。その際に、60年近く前に放したサワガニのエピソードを語った。
当時は下水を庭で自ら処理しなければならなかった。だから母が不純物を水路に流せないように、とサワガニやドジョウを(24時間監視員と名付け)放した。その末裔を、この度も(落ち葉をかき集めていた時に)見かけたことを告げた。
この4人はラッキーだった。この日は最後のエンドウマメを収穫したので、私の昼食にと、中華おこわを妻は用意することにした。だから、喫茶店のマカナイと学生のお相伴分も用意した。
午後の組は、男女各2人の4人で、いずれもが初参加の3回生だった。だから片野田さんに無理を言って(キハダの太い枝落しが途中だったし、孵化したてのカマキリを見つけたし、昼食時にはヘビに気づいたこともあって)居残ってもらった。
男子は片野田さんの指導の下に、レンギョウの若木を鉢から降ろして地植えに、女子はスギの落ち枝拾いに、から手をつけてもらった。もちろん、スギの葉を拾う意義を、風呂の釜で実際に着火させ見せ、効能を確認してもらった。
昼食を終えた時に、片野田さんがキハダの枝落しに手間取っている、と話した。「もしや」と私は心配した。折よく茶を運んできて側に居合わせた妻が、「私が」と現場までついて行った。それがヨカッタ。切り口がふさがり良いように、との親切な鋸の入れ方を教えたが、深切になり過ぎていた。
急ぎ妻は、補修の仕方を指導し、事なきを得た。もちろん、直ちに私は防腐処理。妻は切り取った枝を、人形展示の小道具に活かす、という。
片野田さんは後輩に、焚火の指導もした。焼き上がって熱々のイモを、冷たい牛乳を活かして舌が焼けるのを避けながら食べる、アイトワ流を味わってもらった。
この日、彼らのおかげで、ランタナの長鉢はテラスに、マツバボタンの長鉢も所定の位置に、とそれぞれデヴューし、シーズンを終えたテンモクジオウなどの鉢は温室に戻され、養生に入った。
「それにしても」とおもった。この社会福祉部には2回生の部員が、コロナ騒動のセイで一人もいない。1回生も、幾人応募するか、わからない。3年前までは1~2回生が主に訪れており、3回生になると早、就職活動に入っていた。
今月は2度に亘って計11名(6名が女子)を迎えることができた。内10人が3回生で9人が初参加だった。なんとかコロナ騒動をクリアーできた、と安堵した活動だったが、今後につながるのか、との心配が残る。
「それにしても」と、またおもった。短期大学ではこの2年間にどのようなことが生じていたのか。もし私が運営に関わっていたら、どのような策を講じていたことだろうか。キット、災い転じて福となさん、と躍起になって、くたびれていたことだろう。
5、加齢対策。クモが随所で巣を張り始めた、うっかり庭を歩けない時期に入った。そうと思い付かずに庭に出て、巣に引っかかって、その季節であったことに気付かされた、
ノーゼンカズラが芽を吹いている。樹形をここ1~2年で、アーチに沿わせて固めたい。中国ホウセンカの苗がそろった。鉢植えの準備をしたい。ワラビ路は、妻が毎日幾度も行き来する一角だ。整備したい。
水鉢などではボウフラが湧きだしたし、堆肥の山でもボツボツなど、さまざまな「やりたいことがいっぱいだ」。弱体化するわが身だが、やりくり策と段取りの改良で、乗り切りたい。
蜘蛛の巣を払う棒を持たずに庭に出て、2度も3度も立ち止まり、顔にへばりついたネバネバの巣を拭わなければならなかった。という事は、液肥タンクは格好のボウフラ養成池になる時期に入ったわけだ、と気づかされ、心がはやった。
液肥を汲みだす時に、大量のカを野に放しかねない時期になったわけだ。急ぎ、蚊を一網打尽にする(アイデアを、これまでも駆使してきたが、この度はその)道具を完成形にして、残りの生涯を通して使えるようにしたくなった。これが当月最初の加齢対策(タンクからカは飛び出し、袋の上部にむらがる。そこを見計らって、対峙する)の作業となった。
次いでノーゼンカズラの剪定に手をつけた。
野草対策にも取り組んだ。かねてから、この庭では「絶えてもよし」の野草、生き残らせる場所を制限する野草、あるいは大事にして複数個所で育てる野草、などと色分けして、除草作業に割く時間を減らす努力を重ねてきた。
ヒメジオンとスズメノカタビラは随分減った。今年から、インゲンマメの原種のごとき野草、キツネノボタン、そしてカラスノエンドウに狙いを定めた。
キツネノボタンは、例外を除き、花をつけた株はことごとく、種を落させないために(抜く時の振動で種が落ちるのを怖れ)切り取った。宿根の根は、この冬から翌春にかけて、順次抜き取りたい。
例外は第2果樹園。そこはヘビの狩場の1つと見ており、野生動物のプチ・サンクチュアリにしておきたい。堆肥の山を築く場でもあり、その跡でイチジクを育てるコーナーでもあるし、“哲学の穴”と呼ぶ(堆肥の山には積めず、有機灰にしにくいが、樹木が好むものだけ放り込む)穴もある。
インゲンマメの原種のごとき蔓性の野草は、これからは “目の敵”( 見つけ次第抜き去る)にして、この庭からなくしたい。大小2種あるカラスノエンドウは、とりわけ大きい方は、大幅に減らしたい。これらの3種は、ヒメジオンとスズメノカタビラ同様に、この庭では食害にあったようすがない。
バラとアジサイの鉢植えを下さった方がある。とっくの昔にバラを(自生のノバラを除き)育てる自信をなくしてしまった私たち夫婦だが、妻が「このバラは!」と言い出した。
5月はバラの開花期のようで、3年来育てて来たノバラが、獣害フェンスで咲き始めた。ハマナスもバラ科と見えて、咲き始めた。ともにさしたる世話をしていない。
そうと知った義妹が「モッコウバラなら育てるのは簡単」と言って、その幾本かの枝を切って、持って来てくれた。挿し芽をした。
わが家自慢の1つ、生ごみ処理装置・堆肥の山。このたび、この新しい山を作る新方式(旧来の山を使いながら、新しい山をつくり始め、いずれは新しい山に一本化する方式)を編み出すことにした。加齢対策の一環として試み始めた。
まず新しい山の基部を作る。右手に古い方の山が映っている。左側の新しい山の中央の窪みが、生ゴミを放り込めそうな深さになるまで、畑や庭の残渣を積み重ねて行くことにした。
次いで、山の周囲が生ゴミを投入できるほど深くなれば、古い方への投入は中止して、新しい方への投入を始めた。
第3ステップは、古い方の堆肥の山は、生ゴミの分解が進むと中央の窪みが下がって深くなる。その周囲の未分解分を農業用フォークですくい上げ、新しい山の上に移動させる。同時に、新しい山には庭の残渣をの積み重ねて行き、生ゴミの投入を続ける。
この作業を繰り返しながら、古い山の周囲の未分解分がすべて新しい山に移し終えた時点が、新旧の切り替えが完成した時点となる。このやり方だと(これまでの半日をかけて、一気に未分解分を移動させ、その上に新規の残渣を積み重ねていた方式に比し)老体にかける負荷は随分軽減されそうだ。
エンドウマメの蔓を吊るした麻紐を、これまで通りに今年も回収した。その折に、「買えば100円もしないのに」といつになく思っており、これは老化が促す意識変化ではないか、と考えた。だが、この紐で、2日後にキュウリの蔓を吊るしたが、捨てずに回収した新たな価値に気づかされている。
新品の球状になった紐をほどきながら用いるよりも、はるかに具合が良い点にまず気づかされた。加齢とともに不器用になるのか、紐球をよく落し、拾って巻き直したりすることが増えていたが、その心配がない。その上に、風雨に晒されて油が抜けたぶん紐が柔らかくなっており、使い勝手がすこぶる良い。これも加齢対策だ、と気づかされた。
6、庭宇宙で当月は。「こんなに小さなケシの花が」と、妻は私の側にやってきて、矮性の自生種に大喜び。草木の逞しさに目を見張るような日々の始まりだった。
ショウブ、アヤメ、早咲きのスイレン、ピンクのキョウガノコ、白いホオズキ、あるいはモモイロヒルザキツキミソウなどが次々と咲き始めた。
糧飯の材、ウコギの新芽が最盛期に入った。山形の米沢に出かけた折に、無理を言ってもらった苗木から増やしたが、いつも上杉鷹山を忍びんがら、味わう。
先月はサンショの花を、当月は身を摘んだ。キャラブキに、塩コブにと活かすために妻は摘んで下処理し、保存する。
わが国のアジサイの固有種・ヒチダンカも咲き、白い卯の花、ヤマボウシ、さらにミツバチが大好きなニセアカシヤの開花へと続いてゆく。
灌木に絡んだクレマチスが咲き始めた。モミジの高い木にのぼったテイカカズラやパーキング場の屋根を覆って愛車を寒暖から守るジャスミンが芳香を放ち始めた。カキの木に活着したフウランは、と覗くと木陰で咲いていた。
獣害フェンスでは白いノバラに次いでピンクのブラックベリーが、その合間に随所で自生のピンクのヒルガオが。
畑ではトマト、インゲンマメ、ジャガイモ、地では苔の花が、と咲き始める。
この時期は動物も活発に動き始める。ケシに集まるハチ。ジャガイモの葉を狙うバッタ。さまざまなチョウ。
冬眠中を起こされてビックリしていたムカデだが、この時期になると「こんなに大きいのが家の中にまで」と、ゾットさせられる。「もしやアブラムシが」とその出没を狙って忍び込んだのだろう。だから、アブラムシの餌になりそうなものは寝る前に、ことごとく片付けておかなければならない時期の始まりだ。
腐葉土小屋では、一昨年運び込んだ落ち葉の分を11日に使いきった。この空にした区画に、4日後の15日から、今年度の常緑樹の落ち葉を佛教大生が運び込み始めた。2週間後の29日に、仏教大生第2陣が異なる場所の落ち葉を積み足している。
その3日後から、昨年度の腐葉土を隣の区画から運び出し、使い始めた。初回は一輪車2杯分を積み出すだけに留まったが、前年度と同じく、カブトムシなど甲虫のイモムシはもとよりミミズも見つかっていない。2年来の異常だ。
また、サルの被害が出た。タマネギが3本、被害にあった。その様子から「テッキリ」と思って、腹が立たなかった。かねてから「あんな子でも、生きて行けるのですね」と、妻に聞かされていたからだ。歳の頃にして14~15歳の「片方の足が悪いサル」が、単独で“方丈”(と名付けたミニマムの棲み処)の近くでたたずんでいたという。
急ぎ(異常なまでに)不作に終わったタマネギを収穫したが、まともな大きさの球は抜けなかったようで、直にかじり付いていた。それが今年の一番大きなタマネギだった。
フリルレタスやチマサンチェ(キク科)は(異常なまでに)上出来だったし、アボカドでは「どうして」という事が生じているだけに不思議だ。亀岡方面に引っ越す伴さん一家からもらった鉢植えだが、訳が分からない育ちぶりだ。
その後、ジャガイモが、次いでニンニクが、さらに最初に出たタケノコが、と日替わり被害が出た。その翌日にハッピーが激しく終えた。案の定、サルの集団の出没だった。急ぎ電柵のスイッチオン。それ以降は、ハッピーが吠えるたびに飛び出して、威嚇した。おかげか、被害は以上の微少にとどまっている。
夜はTV録画を観て過ごす日が続いたが、それにしても、と思われるほど不思議な番組だった。まず裁縫する小鳥。チガヤの葉を、綿毛を紡いで縫い合わせ、巣をつくる。これはこの小鳥の世代を超えた文化になっているのだろう。
バッタが激減した地域でのことらしいが、オオカマキリが、己の体重の何倍もありそうな小鳥を襲い始めた、という。その狩りのやりくちは、昨年わが家のミツバチの巣箱の近くで観察した狩り(スズメバチを刈り取った)とそっくりだ。だが、体重差が大きく異なる。窮鼠ネコを咬む、を連想したがチョット違う。
自殺するカマキリにはギョッとした、話には聞いていたが、映像では初めてだった。わが家では、水辺がない密室で餓死した(?)カマキリから、ハリガネムシがはい出す(?)光景に時々出くわす。水辺があれば、この(ハリガネムシに寄生された)カマキリは水場に惹かれ、入水自殺をしたのだろう。
それはハリガネムシの生態に起因する。水中で繁殖するハリガネムシの幼虫は、回り廻ってカマキリに食べてもらい、水辺に誘い、飛び込ませる、との筋書きらしい。かつて、フィトンチッド(天敵に襲われた植物が放出する一種の毒)が発見されたが、その頃のありようを思い出す。次々と同様の、ついには寄生した害虫の天敵を呼び寄せるSOS物質まで出していたことが知られるようになった。
ホッとするTV番組も観た。桜の皮を活かす樺細工を知ってはいたが、それが江戸時代に浪人が創出し、手内職として広めたとは知らなかった。秋田県の角館には2度ばかり訪れており、観ていたのに、無知を恥じた。
殺人剣を活人剣に改めた時代の産だが、今流に言えば、まさにSDGsを地で行くような時代の創作であり、新業種であったのだろう。
庭の一角ではイワタバコが咲き始めた。「これは指標植物の一種」と佛教大生に教えた。深い山で遭難し、この花を見かけたら、その崖は北を向いている、と見てよいらしい。
花の傾きで北を教える指標樹ヤマボウシの花は末期。この木が芽吹いたら、もう霜は降らないことを教えるナツメは、スッカリ枝葉を茂らせている。昼間は真夏日が早続きだした。
妻が面白いことを始めた。魚を焼くグリルの油汚れを掃除したが、掃除に用いた木灰を団子にして「肥料に活かせないかしら」と問いかけて来た。これまでは灰ごと堆肥の山に放り込んで(肥料にして)きたが、干し上げて、効能実験をしたいという。
わが庭宇宙はいよいようっそうとなり、さまざまな生き物が鬩ぎ合い始めた。小鳥の使い古した巣が、草刈りをするこの時期と、秋の落葉時によく見つかる。妻にとっても天国のようで、近場の買い物以外には出たがらない。当月も様々なことがあった。
月末は喫茶店の定休日だった。チョット寝坊した妻が「今朝の野菜はぜーんぶわが家の庭の賜物です」と胸を張る。庭ではジャム材のブルーベリーが、温室では、バジルの苗が順調に育ちつつある。