葉月とはよく言ったものだ、と感心しました。庭では木の葉がうっそうと茂り、木陰が濃くなったのですから。おかげで、左京のお宅からここ右京のアイトワまでバイクで通う池田望さんに、2度、3度と「ここは違う、涼しい」と言って頂けました。ところで、旧暦で葉月とは? とチョット気になりました。
トピックスに多々恵まれた1カ月でした。まず灼熱の3日、妻の警告に従って中尾さんに下見をしてもらい、ついに盆明けに、居間に空調機を設置。その間の4日は、ボーカル仲間とお越しの望さんを迎え、喫茶店のメニューを撮影。6日は、『表現の不自由展』に急遽今村さんを誘う。7日、予定通りに今村さんと初の庭仕事。8日、幾つものありがたい贈り物に恵まれ、その1つは刷新したHPの公開。望さんが「縁起のよい日を選んだ」とおっしゃれば、私は「今日は私の誕生日です」と返し。偶然の一致を喜びました。
その後、13日にモリアオガエルが鳴き始める。15日は、今村さんの要望で、息子さんを交えた庭仕事。だから一旦月初めに片付けてあった囲炉裏場が、また剪定クズの山に。16日から翌日にかけて、4件10人の来訪者。その内の1人が久方ぶりの知範さん。『表現の不自由展』に一緒に行く予定でしたが、一家でコロナ渦に。それを克服し、7月分当月記の原稿をやっと引き継いでもらえ、なんとか公開できた次第です。
庭ではさまざまな夏虫の鳴き声で賑やかな上に、しばしばスコールのような雨が降り、野草が一斉に花軸や花柄を伸ばし、除草や草刈り作業を急かせました。14日にタカサゴユリが咲き、オクラを初収穫。そして15日にはツクツクボーシが初鳴き、秋の訪れを感じさせました。そう言えば、葉月とは? と調べ直し、旧暦では今の9月上旬から10月上旬を指していました。葉の落ちる月、でした。どうりで、と思い直し、5日から始めていた朝飯前の一仕事に、いっそう拍車を掛けた次第です。
その手始めの5日は、2人で庭に出て、妻はブルーベリー畑の掃除。私はその南にある旧フキ畑のうっそうとした草刈りに挑戦。それがヨカッタ。その後、日替わりメニューよろしく、日々の目標を見定めて、草刈りなどに励んだわけです。ところどころで種を結んだネコジャラシなどを見かけると、丁寧に刈り取って、その都度温室にある消却袋まで運び込み、種を落させませないようにしました。
畑では、ネギの苗を植え付け、第3次のキュウリの畝に支柱を立て、自然生えのグングン伸びるトウガンの蔓に急かされて、棚を広げました。わずか2本のサツマイモのために、畝を広げたり、ワケギの球根を、植え付けたり、友人に送ったり。妻は、末期のトマトはピクルスに、バジルはソースに、ブルーベリーは2~3日毎に収穫し、次々とジャムに煮ています。
この間に、望さんにはしばしばご足労願い、HPの中身の刷新に取り組みました。また23日は、ソプラノ歌手でもある藤田恵子さんにご足労願い、望さんと妻の3人で(引き継がれて間がない)澤食(さわい)をお訪ねする1日にしました。宮川筋で最古の茶屋旅館として有名ですが、その建物の構造や、収蔵品に香り立つ何かを感じています。
とても心配な知らせもありました。27日にはコオロギなど秋虫が庭の主役になっていたことにも気づき、チョッと焦りもしました。また、差し歯の門歯が1本、ポロリと落ちて(好物の麺類が楽しめず)難儀もしています。しかし、妻がスモモでケムシの発生に、私はトウガラシでカメムシの大発生に、それぞれ気づき、奮起しています。アリコさんには2度もお目にかかれたし、30日は久保田さんに誘われて滋賀(ピカソ展と水性植物園)の1日に割いており、気を取り戻して葉月を締めくくっています。
~経過詳細~
1、葉月は、きれいな朝焼けで明けた。だから、木の葉がうっそうとなる1カ月のことだろうとおもったが、葉月と命名した由縁は? とチョット気になった。
庭仕事は、囲炉裏場で、溜まっていた剪定クズの始末(大焚き火とマルチングに活かす)から妻と2人で取り掛かった。
当月は7度も、池田望さんのお世話になって、HPを刷新したが、望さんは「縁起が良い日に!」と思って、とおっしゃったが、わが誕生日から公開になった。
そのトップペイジのデザインに、おもわず感嘆と感謝の声を上げてしまった。
この他に、厳重な警戒下にあった”京都・『表現の不自由展』”の見学。茶屋旅館・澤食(さわい)を訪ねた1日(おそらく最古の茶屋建物)。あるいは、滋賀(ピカソ展と水性植物園)を訪れた1日など、多々トピックスに恵まれた。
佛教大生は、第7波コロナのせいで迎えられなかったが、今村さんのおかげで、大学生になって半年の若者(ご子息)と一緒に庭仕事に当たることができた。また、3色のサルスベリが初めて揃って咲き誇った1カ月でもあった。
先月解体し、冷凍してあった食用ウサギの肉を、望さんにお裾分けし、互いに初賞味など、楽しい食に多々恵まれた。久しぶりの雑煮。8日の赤飯。中華おこわ。最後のトマトの熟れた分を活かしたスパゲティ。冷麺タイプの冷ソーメン、あるいは出先でのオープンオムレツなど。食欲の秋のリハーサルも済ませた感じ。
とはいえ、月末近くになって、とても心配なニュースに触れて、天に祈る気持ちになったり、差し歯の前歯がポロリと落ちて、弱気になったりした。だが、これも自然のお恵みだろうか、まず庭にタテハチョウのオスが、続いてメスがやってきたり、雌雄が絡むキチョウが舞ったりして、なんとか気を安らかにしている。
か、とおもっていたら、スモモでケムシが発生した、と妻が気付き、私は畑で「案の定」。カメムシがトウガラシに大発生していたことに気づき、去年の間に作っておいた虫捕器をとりだし、きりきり舞い。しばし躍起にさせられてしまった。
かくのごとく葉月は、酷暑の下での焚き火に始まり、もう秋だ、で暮れた。
2、HP(ウェブサイト)の刷新。「3つの面から」見直さなくては、との池田望さんの助言と助成に甘え、刷新することになった。振り返れば、池田さんとは不思議な触れ合いだった。私にとっては、何年か前の、アリコさんの真如堂でのコンサートで、映像収録をお務めの人、が最初だった。だが、池田さんは、京都は嵐山の“花灯路”が始まった20年ほど前(2003年)から、毎年アイトワの前を通り、「なんじゃ、ここは」だったようだ。
ブランコに乗ってライトアップされた人形が、お出迎えしていたのだから。
その後、3度ばかり、音楽がらみの催しで、映像収録に携わる池田さんをお見掛けし、言葉を交わす仲になった。その過程で、3つの面から(「スマホ」での検索・閲覧に不便。「自然計画」は「はるか以前に終わっていますね(旧「自然計画」しかヒットせず)」に加えて、「アイトワは何者か」が分かりづらい)と、助言して頂いた。
だから是非とも助成を、と願ったが(gumi & ひろこ の結婚式場で)、「全部(出版済みの本を)読み終えた上で」と、オアズケを喰らった次第。
「明日伺います」との電話があった時は、既にアイトワの夏休みは終盤だった。ウクレレ持参でお越しになったが、妻は喫茶店のメニューの刷新中だった。その写真をご覧になって、「チョッと待った」とばかりに「撮り直したげますわ」とご提案。甘えることになった。
写真撮影だけでなく、ウクレレの名手でもあることを知って、第2回執筆者懇親会(7/17日開催)にお誘いしたが、そこでギターの名手でもあることを知った。さらにその後、ボ-カルグループもお持ちだし、さまざまな活動にも携わっておられることを知るにおよんだ。
第二の人生のエキスパートであり、その資格のようなものにも感心した。
これまでのHPは、アイトワ塾生だった後藤佐次郎さんの善意で、30年前につくってもらっており、アイトワ塾目線だった。その後10何年かの情報追加はあったが、ここ10数年分は希薄になっていた。
このたびの刷新では、後藤さんにも “今週の花”のデータ移転などで2度もご足労願うなど、随分お世話になった。また、望さんのおかげで、後藤さんの過去の工夫や努力の程を存分に教わり、知るところとなって、感謝の念を新たにした。加えて、“新・自然計画”をネットに乗せる作業を頼っている知範さんおかげで、新・旧自然計画の紹介が円滑にできるようになった。
3、『表現の不自由展』。6日(土)に、知範さんと出掛ける予定だったが、前日になって「第7波コロナに」見まわれた、との知らせを受けた。
一緒に行けるかどうかの判断は「明日、下そう」と言ってケイタイを切った。なぜなら、「一緒に行ければありがたいが」と私が言えば、彼も「できれば行きたい」だったから。
だが、当日の朝に「行けそうにない」となって、急ぎ同伴者を募ることにした。その最初の候補者が今村さん(翌日曜日に庭仕事をご一緒することになっていた)だった。
3時間後に会場の前で落ち合うことになった。
物々しい雰囲気の中を、会場にたどり着いた。そして、テント張の待合場所で、強い雨の下で開場(入れ替え制の入場)を待っていると、街宣車のスピーカがガナリはじめた。
おもわず、「盛り上げてくれますネ」と、感じた。
すぐに、従軍慰安婦の少女像が目に入った。勧められるままに私は隣の席に座した。チョット緊張しながらある思い出を振り返った。それは、愛犬ハッピーの意思表示。
わが家の犬、ハッピー3世には、3つの芸しか教えていない。2つ目に教えたのが“ボール”。“甘噛みグセ”が激しいので、ゴムボールを咥(くわ)えないと、側によって「なでなでしない」ことにした。それがヨカッタ。余禄があった。それはハッピーの意思表示。
他所から妻が戻って来た折ですら、ボールを咥えないことがままある。逆に、私の姿を認めるや否や、ボールをキョロキョロと探しだすことがある。
だから、ハッピーがボールを咥えたり、探し始めたら、私はどんなに疲れたり、急いだりしていても、近づき、対応する。
ボールを探して、見つけて、前足を伸ばしても、届かない時がある。その時は、手助けする。そして、たとえ一瞬であれ、相手をする。ボールを咥えない時は、そっとしておき、決して手を出さないことにしている
少女像の側を去った。そして歩を進めると、また声をかけて下さる人があった。
「この度の、新たな出品です」との白色の漁網があった。その下部の箱に、紙製の手作りチョウチョウがたくさん入っていた。その1つを、私も網に付けた。付けようと網に触れたら、網がゆらりと動いた。なぜだか、強烈に寄る辺なさを感じた。何かに関わる幸せや誇りを感じたが、チョット不安げな気持ちもいだいた。
この度の展示では、石膏のようなもので己の性器を模って、公開しようとした物体は、出品を見合わせたようだ。賢明だ、と思った。
展示会場を折り返したときに、先刻チョウを付けた網が目に入った。背伸びしてチョウを付ける若き女性を見た。
少女像には、制作意図や工夫のほどを解説したプレートが添えられていた。「先ほど」並んで座って写真に納まった時は、と振り返った。この作家の、こうした想いにまではココロが至っていなかった。
もうチョッと詳しく知りたいことがあった、3点の出版物を買った。
4、今村さんと、1度が4度になった。当月は今村さんと4度も会した。7日(日)の午前中を「2人で庭仕事に」割く、の約束は先月から交わしていた。それが、4度になった。
こうなることは、ひょっとしたら、5日に妻がテラスの物陰で、死んだ子ヘビを見かけ、私に教えたことから始まっていたのかもしれない。どうしたわけか私も処分に気が回らず、そのまま取り置いてしまった。それがヨカッタわけだ。
わが家での今村さんは夫婦間で、「子ヘビを愛でた人」が共通認識になっている。その後、ヘビの抜け殻を“縁起物として愛でる文化圏”の人でもある、と知っており、ヘビ嫌いの妻も、不思議なことに、彼に好印象を抱いている。
翌6日は急遽、 “表現の自由展” を一緒に見学することになった。知範さんから「行けない」との最終判断を当日の朝に聞かされ、まず今村さんに声をかけた。土曜日ゆえに在宅で、同道できた。かくして、翌7日となり、2日連続で行動を共にすることになった。
小倉池を望む生け垣と、その周辺の手入れをテーマに選んだ。
この垣根の剪定と、手前の土手の手入れは私が、と手分けして見通しを立てた。かなりハードなテーマだった。
この日の剪定クズで、一旦は片付いていた囲炉裏場に、再び剪定クズの山が出来た。
汗をぬぐい、午前のお茶を一緒にとったが、今村さんから1つの要望があった。大学生になったばかりの息子にも、これを体験させたい、だった。男手が1つ加わるのなら、竹の切り取りをテーマに選ぼう、15日に実施、となった。
当日、7:30に今村父子を迎え、妻と4人で朝食をとった。その時に、子ヘビのことが話題にのぼった。食後、今村さんは先ずそのミイラ化した遺体の確認に当たった。
この日のテーマは、余分なところに生えた若竹数本と、藪(ミニだが)に生えて寿命がきたり枯れたりした太い竹を数本に加え、カシの枯れ木を切り取る作業に加え、南門近くの生け垣の剪定を、とチョット欲張った。
結果、タケを10数本と立ち枯れたカシの木を、父子2人で切り取った。その間の私はイノシシスロープ(と呼ぶ道)で徒長していた木々の剪定に当たった。
次いで今村さんは、息子には竹の枝祓いを受け持たせ、ご自身は南門扉脇の生け垣の剪定を仕上げた。囲炉裏場には2つ目の剪定くずの山が出来た。
この日、今村さんに再訪を要請した。望さんから、HPの件で調べ事があることを聞かされていたので、調べてもらいたくて、21日に迎えることになった。
当日、今村さんは訪れるや否や、まず子ヘビの埋葬をご希望になった。妻は(小鳥などの埋葬ならすぐに手を付ける人だが)、子ヘビといえどもヘビには困りはてていたようだ。
この日のおかげで、私は(初参加にもかかわらず)かなり厳しい庭仕事に当たった若者の感想を知り得た。大学より勉強になった、と言い残して東京へ、バックツ―スクール、と伺った。
5、滋賀県(ピカソ展と水性植物園)での1日。久保田さんに誘われて出かけたが、有意義にして楽しい1日になった。
ピカソは、60年以上も昔(1958~59年ごろ)に来日しており、山田新一(大学で油絵や彫塑を習った芸術家)が桂離宮を案内している。その折に、好奇心旺盛だった私は質問を託しており、回答を得ている。その経過はチョット、確か処女作に盛り込んだはずだが、と思ったりした。
その折のワクワクした気持ちを、この度は(大勢の人がモクモクと見て、説明を読んで、また観て回る流れにのって)新たにした。個々の作品にではなく、一連の、一貫性を持て集めたのであろう作品群とその展示から、ピカソの何たるかが伝わって来た。先月の、ラリック美術館での喜びに似ていた。
流石はイスラエル博物館の所蔵品、と感心した。名だたる作品を綺羅星のごとくに集めるのではなく、1人の人物の存在とその人への理解を深めようとする意図が見て取れたような気分にされた。ピカソは86歳にして、347点ものエッチングを7カ月で生みだした、との紹介もあった
軽やかな気分になり、いかにも重苦しそうな建物から解放され、次の訪問先へと急いだ。初訪問の“草津市立水生植物公園みずの森”で、水生植物を愛でよう、だった。
残暑が厳しかった。そそくさと館内を目指した。
まず、73年前の(6歳になる手前で私は京都に疎開したが、当時の)原風景を、感受した。動くものを小川に見て、裸足になって踏み込み、初めて水中を覗き込んで小魚を見た。水田に恐る恐る踏み込み、ゲンゴロウやタニシをつかまえた。当時の心の高まりが、ありありとよみがえった。
「これが、ウーパールーパーの」と、初めて見るアルビノを凝視したり、「これで、身を潜めているつもりだろうが」と、モリアオガエルの初めて知る生態を覗き込んだりした。
スイレンの館では、ここで働く人を「羨ましいな」と、眺めた。
パピルスを見て、遅ればせになった新婚旅行(エジプト)を振り返った。また、ハスの再生と繁殖に励むコーナーもあった。かつて一面がハスに覆われたとても長い池(?)があったようだが、忽然と消え去ってしまったらしい。
その池は、久保田さんが指さした先に遠望できた。
屋内にもどり、食堂でソフトクリームを注文した。全面ガラスの窓の向こうに学生らしき若者がたむろしていた。彼らは、何かを申し合わせたようで、食堂にむかって近づき始めた。その向こうにあった橋を、パラソルの女性が渡り終えようとしていた。
たむろしていた若者は、皆でソフトクリームを食おう、になったようだ。元の場所に戻って皆で食べ始めた。その少し先に目をやると、1人の若者が先にソフトクリームに手を出していたようで、半ば食べ終えていた。
腰を上げ、帰路についた。珍しい花を見た。パラソルの女性が渡った橋に至って、振り返ると、ソフトクリームをほぼ食べ終え若者たちの姿があった。そこに、60年昔のわが身を見たような気分になった。
ゲートに戻った。入園時は見過ごしていた花壇だが、逆の方角から眺め、なぜか立ち止まった。黄色いヒマワリだけではないことに気づいた。
6、その他。酷暑で始まった葉月だが、13日にモリアオガエルがパートナーを求めて鳴き始め、14日にタカサゴユリが咲き、15日にツクツボーシが初鳴きした。そして、スズメバチは弱ったアブラゼミを餌食にした。はや秋の訪れを感じた。そして、27日に虫の主役がコオロギなどの鳴き声で、秋の虫に代わっていたことに気づいている。
来客。最初の来訪者・青木さんに「さすがは」と感服した。ニチメンという商社の繊維部門と、30年ほど昔に顧問契約があった。その頃の幹部で、欧米出張もご一緒した懐かしい人だった。今は立ち上げられた会社の会長だが、セーターを編む高名な精密機械を10台も導入し、1つの夢をかかげけていらっしゃる。
わが国のセーターは、今や輸入製品が95%を占めている。その0.5%を、目の黒いうちに1%にする、が夢だった。
16日から17日にかけて、来訪者が続いた。まず岡田さんが友人連れで立ち寄ってくださった。商社時代に触れ合っていた可能性があったかもしれない。この日も、夕刻に、またスコールか、と思いきや、それで終わらず、翌朝まで断続的に降り続いた。
雨で明けた翌日、10時に知範さんを18日ぶりに迎えている。次いで、雨が上がり、曇天になった14時に岡田さん。そして17時に小林さん。小林さんは、飛び込みの来客があったようで、環境問題に関心があり、アイトワへ行くなら一緒に、と望んだという人たちを同道だった。この日、差し歯の前歯がポロリとおちた。夜、またもや豪雨。
次いで、元アイトワ塾生の柴山さん一家に立ち寄っていただけた。10数年ぶりの姉妹(お嬢さん)との再会を果たせた。彼女たちの記憶はあらかた私の脳裏にも焼き付いていた。
最後の来訪者は25日のアリコさんだった。9月にリサイタルがあり、夫婦で訪れることにしていたから、とても有意義な(音楽の知識に触れる)時間になった。彼女は忘れ物をしてしまい、3日後にも再訪、この日は歓談中に、タテハチョウを窓先に見た。それがメスと知って、中旬から庭にいつく同種のオスに想いを馳せた。
澤食(さわい)を訪ねた1日。茶屋旅館・澤食を引き継いだ藤田恵子さんと、紹介者の望さんのお世話になって、茶屋として設えられた古き木造建築物であり、旅館として活かされてきた建物の見学に、妻と出かた。
五条通りから川端通りをチョッと北上した東側にあった。表の格子窓には、一枚の古い鳥瞰図が張り出されていた。浮世絵だから、誇張や省略に要配慮だろうが、鴨川には大きな中洲があり、その片方を宮川と呼んだようだ。描いた時期は夏だろう。長刀鉾がそびえている。
澤食は木造3階建だった。
ここは、その昔に(40年ほど前に)知っておきたかったなぁ。公私ともに、欧米からの来訪客をしばしば迎えていたころのことだが、紹介したかった。
料理などを注文し、(人目をはばからずに)座敷に直接届けてもらえたようだ。手繰り式のエレベータがあった。引き戸の裏には隠し階段もあった
団らんや娯楽の部屋も。
裏の部屋や納戸には、髪型の模型や市松(いちま)人形など。簾をはじめ季節の用具。あるいは催事の小道具などが所狭しとばかりに収納されていた。
義母を丁重に扱う恵子さんの様子もうかがえた。私は横目で、通り過ごしたが、妻は立ち止まり、背をかがめ、何かに見入っていた。
3階から1階への表の階段とは別に、上階に設えられていた隠し階段は、1階の出口は隠れておらず、裏道につながっていた。
一歩外に出ると、狭いが、用途に即した瀟洒な道が互いに入り組んでいた。今は昔も堪能しうる時空を、彷徨えたかのように感じた。
生き物との触れ合い。バッタがスイレンの葉を好むことを妻に教えられ、初めて知った。月末には妻が風除室で、死んだオニメンスズメガを拾い上げたり、喫茶店のテラスでサワガニを見つけ、「どこに放しましょう」と相談に来たりしたことで葉月は過ぎ去った。この間に、生きものとさまざまな触れ合いや出会いがあった。
ある夜に、喫茶ルームで来客と応対中のこと。ピクチャーウインドウ(と呼ぶ、幼児か、地を這う虫の目線になれる)窓があるが、その側で奇妙な音がした。何かがガラスにぶつかるコツン、コツンに気がついた。確かめると、大きなカエルが来て、明かりに集まるガを狙っていた。
翌日、テラスの鉢(水槽の水替え時に活かす)の底に、3匹のカエルがはまり込み、はい出せずに困っていると言って、妻が救い出した。ところが、同じこと(3匹のカエルが跳び込む事態)が翌日も生じた。だから、妻は一工夫した。
そして、言ったことがふるっていた。「後は、もう知らないから」。ニタっと私は微笑んだ。二昔も前の記憶を手繰りたくなり、書斎で調べた(ビズ ”楽園の資格” 2000年春号)。
朝飯前の一仕事に励んだ。それは、かつてのフキ畑の再現を願ったコーナーの手入れから、だった。そこは、草が伸び放題だし、2本の伐採したクヌギのヒコバエが茂るなど、いわば難所で、手をこまねいていた。
小径から草を刈り始めたが、朝一番とは言え、途中でへこたれた。正方形のコーナーの東面から、朝日を受けての正面突破は、老体に鞭打ったが、厳しかった。
ならば、やや日陰の山側(草の成長ぶりがひ弱)から、と考えたのがヨカッタ。小径を南北に通すように刈って、切り拓いた。
その途中で、モグラの塚(まだ、この地で生きていた証し)を見かけた。切り拓いた時に、その先にあるブルーベリー畑で、妻が草刈りに勤しむ姿が見えた。なぜか元気をもらって、2時間で片づけた。
次の朝は、パーキングの水槽桝花壇がある土手沿いの草刈りにも挑んだ。
テラスのフジで第2回目の剪定もすませた朝もあった。
ネギの苗を植え、その畝に灰と腐葉土まいた。
温室沿いの草刈りもとりくんだ。
人形ギャラリーの模様替え。初挑戦した彫塑・デスマスク(目で見るより、指先の方が実態を正確に把握することが多々あることを学んだ)を中心に並び替えた。ピカソを桂離宮に案内した山田先生だった。
塗装にも。時間を割いた。
1年の仕込み。妻は、1年分のブルーベリージャムを煮あげ、ブラックベリーの活かし方を見定め、バジルはソースに、あるいは様々なウラナリ作物でのピクルスづくりにも励んだ。私は、干し上げたネギ苗から取れる廃物の活用は、ソーメンの薬味などに抜群だろう、とキッチンに持ち込んだ。
贈り物。最後のナスビの収穫と、最初のツルクビカボチャの収穫が葉月を締めくくった。その間の8日のこと。新装なったHPの公開と、満84歳になった日を愛でてくださる寄せ書き、あるいはランタンなどの贈り物に恵まれ、とりわけ線香花火や創作カワセミに元気をもらった。
この日の昼は、ざるそばだったが、その薬味にも心が引き締まるような元気をもらった。干したネギ苗を植える段に、萎れた上部を切り取るが、その廃物利用だった。
その後、HPを充実させる都合で、妻が初期の作品に手を加え(ほこりを払うなどし)て、デビューさせたたが、40年ぶりに観た人形にも元気をもらった。かく葉月は暮れた。