長月は、まるで「3度目の梅雨ですね」と嘆きあう日々で明け、上旬のトピックスはいずれも雨の合間、の感じでした。3日、池田望さんと下村知範さんの初顔合わせ。4日、5時半に石神夫妻を迎え、妻も交えて朝飯前の一仕事。午後、長津親方を迎え、「匠」の祭典について歓談。5日、澤食(さわい)の藤田恵子さんが素敵なスタッフ同伴で来訪。望さんが合流。9日は夕刻、囲炉裏場の山のごとき剪定クズを、わけあって妻と大焚き火で片づける。そして10日、アリコさんの“月待コンサート”で、西山から東山までの外出、でした。
畑仕事は、1日の朝飯前にワケギの球根を植えた他は取り組めず、収穫の喜びを味わいました。2日、3本目のツルクビカボチャを収穫。5日、「これが朝食用ヨ」と第3次5本目のキュウリに妻は感謝。昼に初収穫のイチジクをサラダに活用。ゴーヤは、自然生えの実を連日収穫。トウガンも自然生えが期待通りに結実など。他に、居間の電気スタンドの修理や加齢対策も意識した温室の掃除に妻と2人で取り組んでいます。
さまざまな訃報に触れて、さまざまな想いに駆られた日々でしたが、とりわけ“素粒子”でも知られる轡田隆史さんの逝去が辛くて、旧交を雑誌などで手繰り、偲びました。
中旬は映画会から始まり、人生上での予期せぬエポックを実感、で終わりました。トピックスは他に、裕一郎夫妻と久しぶりの声の交信。乙佳さんと今村さんの親切や、伴さんの来訪に感謝。恵子さんが(友人同道で)再訪。大きなヘビの抜け殻と生きたオニメンスズメガとの遭遇。連日のごとくに取り組めた朝飯前の一仕事。そして、予定通りに(超台風と恐れた14号の近畿最近日の翌日)20日にTV収録を決行し、無事に終えられたことです。放映日は10月13日で変わりなし、と確認。
畑仕事は変則的でした。ゴーヤとトウガンは自生に任せたし、カボチャの蔓も大いに茂り、畑の半分がそれらの棚で占領されたせいです。畑の空いたところを順に耕やして、冬野菜(レタス、バジル、ジュガイモなど)の準備に入らざるをえなかったのです。
台風のせいで、落ち葉で詰まった樋掃除や、鉢物の批難(割れないように)などが急がれました。今村さんの再訪は雨になりそうと分かり、急遽雨対策から取り組みましたが、彼のアイデアや心掛けに感動することシキリでした。午後は南面の生け垣で、3年ぶりの剪定を片づけました。問題は20日、TV収録が願った通りに済みそうと見て、急遽2つの展示会見学日程を前倒しして出かけたのですが、帰路の路上で人生上のエポックを体験し、落ち込んだことです。
下旬はこのリカバリーと商社時代の親友の死から始まり、SDGsがテーマの叢書づくりのZOOM=MTGで終わったようなものです。エポック問題は、大きなヘビ(縁起が良い)を庭で見たり、雨合羽持参の今村さんに勇気付けられたり、25日から翌日にかけて多々(3カ月ぶりの佛教大生の来訪、中村敦夫さんの声、あるいは望さんの奥庭の撮影などに)元気をもらったりすることがあり、気力面では随分旧に復させたつもりです。
その留めは、27日に急遽組んだエアコン工事で3人の外国人技能実習生(その仕事ぶりに感激)を迎えたこと、高等電気の向井さん(太陽光発電システムの時を得た点検)の来訪、あるいは月末の瞳さん(友人・立岡さんを同道し、共に庭仕事着持参)の来訪、あるいは恵子さんと吉田さん(過日、手焼きのパンとメダカを下さって)が共にご主人同伴で訪ねていただけたことです。
朝飯前の一仕事を25日に再開していましたが、月末の瞳さんたちと取り組んだ庭仕事で体力的にもすっかり元気をもらいました。この間にさまざまなナシやブドウ、あるいはスダチや鳴門金時などの季節の味覚にも恵まれています。ZOOM=MTGも楽しかった。あの、エポックだと落ち込まされた現象? が気がかりです。
~経過詳細~
忘れ難い思い出。長月は、雨模様の日々で明けた。4月(卯月)に次いで庭の花が賑わう時期だが、それは招かざる野草(ヒッツキムシなど)の開花が盛んになる時期でもあり、そう感じるのかも知れない。あるいは、忘れ難い思い出を伴う中国ホウセンカが賑わい、そう思わせているのかもしれない。
35年ほど昔のことだ。柳田聖山先生に誘われて中国は四川省、峨眉山の山麓まで(確か良寛の)石碑を立てる記念事業に参加したくて、出かけた。
その折に、省都・成都市で泊まったホテルの近隣を散策した。古びた家並の一角で鉢植えの八重の色とりどりのように見えた花が目に留まった。側で夕涼みをしていた老婆と手真似の会話を交わし、数粒の種を頂戴した。それが、中国ホウセンカと呼んで今に続く。このたび、池田望さんのカメラにもその姿を収めていただけた。
その後、20年ほど後のことだが、道具学会の探検旅行の一環で、中国、ラオス、タイ、そしてベトナムを巡る旅に、今は亡き山口昌伴先生と出掛けており、その折に、中国で色とりどりの一重のホウセンカが道端で咲いていた。それらの種は失敬して持ち帰ったが、これも庭で自生するようになり、一重の中国ホウセンカと呼んでいる。
両者の共通点は、共に背丈がとても高くなること。そして背の低い園芸種に比して開花期がとても遅く、9月に入り、少し一重が先に咲き始める。
山口先生との中国の旅でも、成都市に立ち寄って世界一と聞く大仏(摩崖仏)を訪れており、あの老婆も訪ねようとしたが、旧市街ごと消え失せていた。
わが家では、中国ホウセンカだけでなく、オキダリスやスズムシソウ、ゲンノショウコやヤブラン、シュクコンソバやニラ、シオンやムクゲ、マルバアイや本アイ、あるいはマンジュシャゲやさまざまなネリネも咲く時期だ。ジンジャーが香りを周りに振りまけば、水鉢ではホテイアオイがカエルを愛でる。
今年3度目の梅雨(空梅雨の後、これで2度目の戻り梅雨)のごとき天候は異常だ。セイヨウニンジンボクは、季節通りに咲いた花は既に種を結んでおり、異常な天候に合わせたのか、樹の上部では新たな枝を伸ばし、花を咲かせている。
そうした天候のオカゲだろうか、例年とは違い、第3次のキュウリが順調で、「ホレっ」とばかりに妻が、朝採りした野菜を自慢げに見せた。まさか異常気象に感謝したわけではなかろうが、ありがたいことだと喜んだ。だから、「有難い」という言葉について、その意味するところが、チョット気になった。
キュウリとトウガラシの間に見える野菜は、初めて育てたレタス系の野菜だが、とても大きく育ち、ととても固い。そこで、妻は工夫して、細かく刻んでかやくご飯のオニギリに混ぜ込んで活かし始めた。
畑では、ネギの畝にキュウリ(?)が1本、遅がけに自然生えした。だから、実を結ぶか否かを試すために支柱を立てた。その3日後に、写真を撮りに行くと、2本目が芽を吹いており、立派に育ち始めていた。土の中で眠っていたタネを掘り起こしたようだ。
3日、望さんと知範さんの初顔合わせ。妻は、初取りのツルクビカボチャでパンプキンスープをつくり、タマゴサンドに沿えて昼食にした。タマゴサンドは喫茶店の新メニューだが、簡単そうでとても手間がかかり、閑散期しか振る舞えないのではないか。
しかも、望さんの手にかかると、同じタマゴサンド(キュウリが盛りの頃の)が、かくのごとく美味しそうな写真になる。
4日、5時半に石神夫妻を迎え、妻も交えた4人で、朝飯前の一仕事に取り組んだ。3年ほど前に、石畳道に親水性舗装をしたが、このたびはその補修に手をつけることになった。
この写真は、親水性舗装後、まなしの頃。その舗装が様々な理由でボロボロになったので部分補修ではなく、塗り直すことになった。この日は、旧舗装をすべてはぎ取る日だったが、この夫妻の手際と、タッグマッチのよさを見て、一任することにした。
この間に、妻は懸案の(TV取材に備える)囲炉裏場周辺の除草。私も懸案の(10月下旬にある庭の学術的見学に備え)井戸枠水槽周辺の剪定などの作業に当たり、その剪定クズは温度計道を埋めた。この作業の過程でニイニイゼミの抜け殻と、久しぶりに出くわした。
温度計道に積んだ剪定クズを囲炉裏場まで石神夫妻に運んで片付けてもらい、朝飯前の一仕事を終えた。爽やかな朝食になった。妻は、ヨーグルトとアイスクリームにブルーベリーとブラックベリーのジャムを添えてデザートにした。
手土産に冷凍のアユをもらった。お2人は「この作業(舗装のし直し)は、私たちが仕上げますから」と言って、朝食後すぐに高槻にある仕事場、園芸療法を採り入れた介護施設に帰っていった。
5日、京都は祇園・宮川町(東山区宮川筋)にあるお茶屋建築(1897年に登記された)の宿・澤食(さわい)の藤田恵子さんが、スタッフを伴って来訪。彼女の紹介者・池田望さんにも合流願った。スタッフの尾池光太郎さんは木造建築士でもあり、いかにも頼もしそう。これから何かと当てにしたくなりそうだ。
雨勝ちの日が続いた。「ならば」と、幾つかの懸案をはさみ込むことにした。玄関のグリーン “鉢植えの青年の木”が背丈を伸ばし、根を太らせて鉢を割った。そこで、口径が大きくて浅い鉢に植え替えた。
居間の天井に冷房機を入れる工事をしたが、電気屋さんが電気スタンドを動かそうとしてしくじった。この電気スタンドやTV受像機などは、地震対策として固定してあった。「なんと」スタンドの底には“重し”として成形物が入っており、それが衝撃で崩れた。そこで私は(スタンドを再固定するために)チョッとした工具仕事に取組んで、達成感を味わった。
かねてから妻は、これらの固定した家具の裏側が「うまく掃除ができない」と言って不満タラタラだった。だから、この機にとばかりに電気スタンドの台の掃除もしたが、底に「クモの卵胞」を見つけて、「こんなところで」(賢いのネ)と、大喜び。
このように始まった葉月だが、小動物と触れ合う機会にも多々恵まれた。それは風除室で、死んだオニメンスズメガを妻が見つけることから始まった。その後、ジャノメチョウのようなガ。ハランで日向ぼっこするモリアオガエル。小さなヤモリやトンボ(イトトンボ?)のミイラ。1m23㎝もあったヘビの抜け殻。ハチの巣やヤモリ。初見のガ。子ヘビのミイラ。とどのつまりは「これが、キットあの抜け殻の」と思われる大きなヘビだった。
アオダイショウと思ったが、ヤマカガシかもしれない(赤い斑点も目立たないがある)。アオダイショウのウロコは下の写真のようにツルッとしている。ヒョトしたら、ハッピーに睨まれて、威嚇の様相で、ウロコもささくれさすのかもしれない。
2、表現者。アリコさんの「月待コンサート」に出かけてヨカッタ。中秋の名月の日に、夕刻から東山山麓にある橋本関雪の記念館で行われた。
この「白沙村荘」は初めての訪問だったので、早めに出掛け、妻と一巡することにした。すぐに聞き覚えのあるピアノの音色が、聞き覚えないのに旋律で伝わって来た。アリコさんが即興で、試し引きの鍵盤に向かっているのだろう。チョッと高い音がお気に召さないようだ。
「これは!?! 」と、脚をとめた石組みがあった。大茶会も開けそうな建物の玄関先の、蓮池に面して、それはあった。これは職人の発想と提案であったのか。それとも橋本関雪が思い付き、贅の限りを尽くし、職人をしばし没頭させ、唸らせた賜物の石組か、としばし思案した。
この職人技は、丁度19年前にわが家で試みた歓び、当時の吾が没頭と達成感を振り返らせた。65歳の時だった。幾つかの事情があって短大を去った。その1つの事情は、まだ体力的に恵まれている間に、と願ったエコライフガーデン作りの仕上げ作業であった。
まず、2トントラック1台分13,000円の廃石(京町屋の解体から出る自然石)を届けてもらい、パーキング場に降ろしてもらった。
その小山から、「何とかして」と思案しながら、「これは」と見込んだ6つか7つの石を選び出し、一輪車に積んで、母屋の中庭まで、50mばかりの阪道を運び上げた。次いで、それらの石をばらばらに置いて、ひっくり返すなどして石の形をあれこれと確かめ直し、4つを選び出してやおら合体させ、セメントを練って固めた。
これが66歳の思い出の1つになった。誰しもがその気になれば取り組める方法や手段(経済的とか独力でなど)を駆使して生み出す庭づくりの一環だった。その実践例の1つとして生み出した。前後の石は、義妹夫婦が買い求めた田舎家の庭から、手前は網田さんの友人の仕事場からと、いただきもの。
ある、母が不在の日の親孝行も思いだした。その日は庭を駆け巡り、片手で持てる程度の石を数十個拾い、母の4畳半の居間の前に運び集めた。そして、やおらセメントを練って、組み立て作業に没頭した。
母は当時、居間の縁先に小さな花壇をもっており、世話をしていた。ある頃から、その縁先からの出入りが「おっくうになった」と呟くようになった。その一言が思い付かせた石組みであった。母には一夜明けてから教えたが、その時の母の声が今も耳に残る。
母亡きあとは、樹木が茂り、日陰が花壇は消させた。軒先は薪置場になっている。
「白沙村荘」の広い庭のそぞろ歩きは続き、初めて見て、心惹かれた花もあった。
見学の最後は、2階建ての(大きな素描がある)ギャラリーだった。テラスに出ると、東山が間近に迫り、五山の送り火の「大」の字が山肌に浮かび上がった。
アリコさんの演奏は、心地よく、無事に終わった。アリコさんは音の即興詩人だ。ココロの移ろいまで旋律で彩ることができる表現者だ。
いまはなき私淑する友・住吉弘人さんはその画集で、「音を拾い集めて この世にないメロディーを創るように 絵具を運び 地上にない美しい色と形を 結晶させたい 蝶よ お前がその使者だ 」と語っていた。
このお二人に出会っておいてもらいたかったなぁ。旋律と色彩のセッションがごときハーモニーに、ふと想いを馳せた。
この日の演奏は、音響効果に少し残念な想いが残った。会場となった建物の建具が、残暑のために、ことごとく開放されていたからだろうか。あるいはアトリエの跡であったがためか。それとも、私の耳も、遠くなったのかもしれない。
14日のこと。色とりどりのメダカを頂いた。約束の時刻どおりに澤食の恵子さんが、手仕事が得手とおっしゃる友人・吉田さん同伴で来訪。手焼きのパンや、ご主人が自家繁殖させたとおっしゃるメダカを頂いた。望さんにも駆けつけてもらえた。
ソプラノ歌手でもある恵子さんは歌で、その友人は手仕事で、そして望さんはウクレレなどの楽器でなどと、それぞれの表現者は賑わった。
この日の夕刻のこと。別の来訪者から1冊の短歌集を預かった。妻が、3人の元生徒さんを迎える日であったが、そのお1人が親しくされている歌人の一書であった。
なんと、この歌人はその昔、わが家を訪れたこともある商社時代の仕事仲間だった。
妻の生徒さんのご主人も陶芸を通しての表現者であった。紡績会社の社長で、短大時代の私は陰ながら随分お世話になっていたことを、後年になって知った。そして、このご夫人を通してだが、毎年1つずつ、まるで“生きる証し”であったかのごとくに焼き物を届けてくださり、干支がそろった。
25日に、表現者の表現者たるゆえんを学んだ知友と、電話でだが久しぶりに交歓する機会に恵まれた。まず朝刊で知友の顔写真が目に飛び込んできた。次いで、愕然とさせられ反省することしきりとなった記事を読み終えた。
半世紀も前から統一教会に目を光らせ、調べ始め、93年にはニュースキャスターとしてTVで問題化し、批判し、98年には国会で参議院議員として追及した、とあった。
「シマッタ」とおもった。大事な声が通りにくい国会の制度やシステムなどを話題にしたことがあったが、その制度やシステムなどに怒りを私は感じてしまい、問題提起した具体例を伺うことを忘れていたことになる。
夜を待って電話を入れ、話し終って切って、やおら紙面を見直した。そこでやっと、異なる表現者の意図に気づかされている。
キット多くの読者は、紙面を開き、すぐにこれは問題の源泉を示唆する表現であろうと気付いていたのではないか。私は、気付くのに半日も遅れてしまったわけだ。
かつて、首相ともあろうものが街頭演説で、「あんな人たちには負けておれません」と言わんばかりの非難をし、国民の分断を図ったことがあった。あの分断でいえば、私はいずれの側に属していたのか、「気付けた人」か「すぐには気づけなかった人か、と思案した。
間違っても、騙せる人と騙せない人での分断ではあってはほしくない。
3、揺るがぬ自信を授かった。その一人であり、2歳年上にすぎないのに轡田隆史さんが、ついに帰らぬ人になった。悲しい。
ゴルバチョフ逝去の報に触れた折に、まず思い出したのは轡田さんだった。この人なら、 この訃報を3行計30文字ほどで、いかようにおまとめか、とおもった。
朝日新聞夕刊のコラム“素粒子”のファンだった私は、しばしば前日の新聞を引っ張り返して、数十の文字に凝縮された元の出来事を確かめたものだ。
その後、「この人だったのか」「珍しい苗字だナ」との出会いに恵まれ、すぐに肝胆相照らすと言えばおこがましいが、仲よくさせていただいた。無念。
幾度もアイトワを訪ねていただいたが、その繊細な観察眼と、「晴~れた空、そ~よぐ風」で始まる歌声に、いつも心打たれた。轡田さんの訃報を知った時に、庭ではこの人がとても惹かれたジンジャーの香りがたなびいていた。
書斎にこもり、思い出を振り返った。まず雑誌『森のクラス会』2001年冬号を引っ張り出した。創刊を応援した雑誌だが、記憶通りに「あった!」。特集「木造校舎でのクラス会」で轡田さんと仲間になっていた。ながい付き合いだった、と振り返った。
その後、ゴルバチョフ関連のニュースに触れるたびに、轡田さんを偲んだ。
1988年暮れの、国連でのゴルバチョフは確か、久方ぶりに登壇したソ連の首長だった。「環境問題は人類共通の敵」と訴えた。これが、実質上の冷戦解消宣言ではなかったか。時の英首相も「鉄のサッチャーから緑のサッチャー」へ、と変身宣言した。
これらは、わが処女作で工業社会の破綻と、“第4時代”の創出と移行を提唱したが、陽の目をみてから何カ月か後のことであったから、よく覚えている。
ゴルバチョフが打ち出した新思考に、レーガンやブッシュ(父)が同じ新思考で(国益レベルの話におさめず)応えていたら、と妄想した。いまのウクライナ問題はなかっただろう。NATOも解体されただろうし、核保有国は増えていなかったに違いない。アメリカの権威の失墜も避けられたであろうし、国連の脆弱化も招かずに済んでいたはずだ。
世界は猜疑心から解きはなたれ、気候変動など地球を慈しむ方向に眼を見開き、コロナ問題も国家間を分断させずに、人類共通の敵として扱っていたに違いない。
2002年春の『森のクラス会』創刊3号も開いた、「五十代からの新友、親友」では轡田さんは「合言葉は『おおらかに』」との題で寄稿されている。
読み直しているうちに、はるか以前に逝去された『おおらかに』仲間の一人も思い出した。当時、この人たちにとても励まされたことがあった。
わが農的生き方は「変人とか、時代に逆行」などと笑われたものだが、それが「まんざらではない」と感じさせていただいた方々だ。へこたれずに済んだ。
それは、“第4時代”の普遍性や、実現可能性にまで夢を広げさせた。“第4時代”は「ヒト」を「人」にする時代でなければ、と意を強くした。
住吉弘人さんの一書、2006年にいただいた『蝶のひとりごと』も引っぱり出した。その末尾にあった一遍の詩を読み直したかった。
この、昨日コラム書いた人の1人は轡田さんだった。あの日、轡田さんは、前日に青竹で作った酒杯を、手土産にもらってよい、とおっしゃった。
大きくて重い、住吉さんの詩画集も取り出した。その2編の詩が、とても心に留まった。堤清二さんが贈った一文も目に焼き付いた。
くそ真面目に、人類にとって、本当の幸せや豊かさとはなんだろうか、と考えてしまった。考えれば考えるほど、工業社会は異常だと思われた。その目で、住吉さんの絵を見直した。初めてウォール街に立った時の、孤独な気持ちも思い出した。
エリザベス女王の逝去は、畑でイチモンジセセリを久しぶりに見かけ、テラスの階段で2頭目の生きたオニメンスズメガを捕獲した日に知った。その後で、イギリス中の(と言ってよい、とみた)国民が悼む様子を、TVや新聞で触れた。初めてロンドンを訪れた冬を思い出した。
イギリス病を、なぜか憐れんだ思い出だ。当時、わが国の食糧自給率は7割ほどだったが、イギリスのそれは3割程度に過ぎなったからだ。当時はわが家の一帯で、そのイチモンジセセリが飛び回っていた。たしかその頃だった。西ドイツの大統領が「食料自給率が8割を切れば、最早国家ではない」と語った。
やがて日本は、西ドイツを抜いてGNPで世界第2位になった。
その後、イギリスは植民地を次々と失いながら、食料自給率を高め、今日では7割近くになっている。その内訳を見ると、輸入が止まっても自給で忍べる内容に見える。
わが国は逆に、食料自給率を3割台に落しており、わが家の一帯でもオニメンスズメガと出くわす温暖化を進めている。
この期間は、この女王の統治下だった。
女王の葬儀に天皇ご夫妻が参列、と知った。国民の象徴としての参列と感じた。
轡田さんならこれを“素粒子”でいかにおまとめか、とまたもや思った。今日の“素粒子”子は、次のように記した。
英女王を葬送する生中継を見ながら、
27日の日本武道館を想像した。
ため息が出た。
心から悼む思いの広がり方の違い、
いかんともし難く。
恨めしや「最大級」14号。
列島を駆け抜け爪痕を残す。
せっかくの3連休も台無し。
『ほんとうの時代』も引っぱり出した。特集「『ゆっくりした人生』って、いいもんだ」でも「たしか !?!」とおもったからだ。
轡田さんと仲間になっていた。特集「自然と共生する循環型の暮らしの魅力」では、わがスローライフも採り上げてもらえた。轡田さんは「秋の『京都の達人』になる」をご寄稿だった。
その後、今年の天候は異常だ、まともな梅雨はなかった、と振り返ったり、初めてオニメンスズメガを庭で掴まえたのは12年前のことだった、と思いだしたりした。12年前は、捕まえる時に声を出して驚かせたが、妻が手にとるとおとなしくしていた。
この温暖化の生き証人のようなガを、生きたまま捕獲したのはこれで2度目になる。その2頭目(1頭目は死んでいた)は鳴き声だけでなく、チョット触れようとすると、あでやかな柄の胴を露わにして威嚇し、ビックリさせた。
驚かされることが続いた。それは旭硝子財団から届いた郵便物の、調査報告書に挟まれたニュースリリースにあった。まず本誌を見た。「人類存続の危機に関する認識-環境機器時計」では、「さもありなん」と感じた。
同封されていたニュースリリースに目を移し「第3回生活者の環境危機意識調査」の幾つかのデーターをみてビックリした。とりわけ「環境への取り組みが進んでいるイメージのある国トップ10」で、なぜか日本が1位になっていたからだ。
わが体感とは大きく異なっており、油断大敵、と心に言い聞かせた。
23日金曜日の昼前に、伊藤忠の社友会から誠に辛い弔事連絡があった。同期入社の親友の1人・同期会の幹事として世話になった藤野安男さんとの永別だった。淋しい。
「ならば、今のうちに」と「土俵入り3人組」と自称し合った仲間との歓談を画策し、誘いをかけた。いつも3人揃って独身寮の大風呂を使った親友だが、その1人は極度の痴呆症に陥っていたことを知った。つらい。
時代は悪化する一方なのに、励まし合える仲間は次々とアテに出来なくなる。
4、親切とエポック。葉月は石神夫妻に訪ねてもらい、庭仕事の助成を受けることから始まった。その後も、幾つかの訳があって、幾つもの親切により甘えてしまうような一カ月になった。それは、予期せぬ身体的不調に見舞われたせいでもある。
まず、旧舗装を石神夫妻に引っぺがしてもらった後、再舗装するために、旧舗装を痛めた樹木やシノベなどの根を取り除いた。かなりの作業であった。
写真は石畳道の防草土舗装時と、木の根やシノベなどを取り除き始めた時点、ならびにそれらの根。
その後、上旬は雨天続きで庭仕事に向かず、来訪者と心ゆくまで歓談したり、懸案だった手仕事に取り組んだりするなど、元気ハツラツだった。
とりわけ9日(金)は(喫茶店が季節休業日であり、人形教室もなかったので)妻と午前は温室の整理(加齢対策の一環でもあり、大きな鉢物などの処分)に。午後は囲炉裏場で大焚き火をして剪定クズの処理に当てた。
大焚き火は、27日にある最後のTV収録・知範さん一家との交歓への備えで、囲炉裏場の掃除であった。だから、「チョット早すぎるかも(それまでの間は剪定くずの置き場がなくなる)」とおもったものだ。
その後、TV収録日の予定が急遽20日に、と1週間早まった。放映予定は10月13日と前もって知っていたので、「ヨカッタ」と安堵した。
そしてTV収録当日。「無事に終えられそう」と分かった時に、「ならば」とある日程の前倒しをした。この日から25日までの間にどうしても出かけたかった2つの展示会があった。後片づけは帰ってからのことにして、知範さんの帰路の車に便乗さえてもらえたらありがたい、とおもったからだ。
展示会場では、それぞれ願った通りに出展者と「お目文字がかなった」と妻も大喜び。その1つは、中村均司夫人が属される団体(社団法人創元会)の催しだった。かねてから雅子夫人の教育者としての理解度を深めたかっただけに、じっくりと鑑賞した。
中村雅子夫人は、「公益社団法人京都府少年補導協会」『みちびき』夏号でも、特集「育む・育てる」でとり上げられた3人で、トップバッターをお勤めだ。
2つ目の会場は、モチーフを「石」に見定めた若き作家の2人展だった。私には「石」ときけば思い出す、中学生時代の1頁がある。最初の夏休みに「化石採集」を課外活動に選び、参加した。その旅行で「石」の何たるかに目覚めている。山のてっぺんの岩から貝が出て来た。石に歴史をよむ浪漫に惹かれており、今に至っている。
おそらく妻も「石」をモチーフに選んだ表現者と、その作品に、直に触れたかったのだろう。
その1点を手に入れて、後日、手に取ってしげしげと眺めることになる。
帰途は、繁華街を散策し、柄にもなく妻を喫茶店に誘った。しかも「いつものように、バスで帰ろう」と、上機嫌だった。
問題は、最寄り駅で下車し、自宅まであと3百mほどのところで生じた。人生のエポックではないか、と愕然とする悪しき現象に襲われた。
「これでもう、海外出張などは望めないカラダになった」と妻に、初めて身体上の弱音を吐いた。鋭痛などはない。腰が異様に重く、動くとチョット鈍痛がある。むしろ、抜けるような気だるさだった。
ここで「待っていてください。車で迎えに来ます」と妻は、一足先に帰ろうとしたが、私は一緒に帰ることを願い、ポトリ、ポトリと歩き進めた。途中の階段では手すりに頼り、腕力で体を引っ張りあげる要領で、なんとか門扉までたどり着いた。
温度計道の緩い坂も難関だった。かつては息苦しくて上れない体験をした。このたびは「力が抜けたようで」「カクッ」と膝から崩れそうで、不安だった。
のどは乾いてはいなかったし、汗もかいてはいなかった。「ヒョトすると」、とおもった。轡田さんの死に触れて、チョット弱気になっていたせいかもしれない。
TV収録がもし、予定通りに27日であったら「どうなっていたことやら」と想像もし、無事に済ませていたことを喜んだ。超台風が襲来と恐れた14号は、前夜の内に過ぎ去っていたし、被害はなかった。当日は屋外でのBBQにはもってこいの天候だった。
ジャガイモやタマネギは採り置いてあった分だが、キュウリ、ナスビ、あるいはシソなどの野菜は取り立てを活かせた。ナスビは、村上瞳さんにもらった藁を活かし、1本だけ延命しておいたのがヨカッタようだ。
「それにしても」とおもった。水屋の水道が無事に使えたことが何としてもありがたかった。もし乙佳さんがつかまらないとか、快く応じてもらえていなかったらどうなっていたことか。前のように流しの下に体を縮めて潜り込んで、息を積めて配管工事に当たっていたはずだ。おもっただけで息苦しくなった。
知範さん一家と食事をともにするのはこれが最初だった。だからチョット不安もあった。それは知範さんに「迷惑をかけないか」との心配だった。
春にあったわが家のTV収録時に、たまたま居合わせたのをいいことに、アイトワ流生き方に家族ぐるみで取り組んでいる、といったようなイメージを振りまきそうだが、「大丈夫か」との危惧だった。苦い体験が私にはあるだけに、心配した。
結果は、順調に進み、これがキッカケになり、一家を挙げて自然循環型生き方に取り組んでもらえれば有難い、とおもった。それがいずれは一家に喜んでもらえるに違いないのだから。こうした気分が、「そうだ」とばかりに、2つの美術展に出かける日程の前倒しを思い付かせた。
この日に放映時間や番組名も知った。知範さんはその知人や友人に(「ニュースおかえり 」 朝日放送テレビ/15:45〜19:00で15分ほど)も観てもらいたい、と喜んだ。
結果は、こうして月末には身体的にも「旧に復したのでは」とおもうまでになっている。だから逆に、いったい「あれは何だったのか」と、次第に振り返らざるを得なくなっている。妻に、「もう一度、ミルフォードトラックに行けそうだ」と言って、「歳のほどを自覚しなさい」と叱られたほどダ。
これがヨカッタ。原因は老化現象であろうとみて、後学のために、その前後の日程などをレビューした。行き着いた先は、こうした機会に恵まれやすい生き方を選んだ幸せ、そのものに思いをはせることになった。多くの人と得手を出し合い、愛であう生き方のありがたさ、と感謝した。
まず18日(14号台風の前日)に今村さんを迎えたのがヨカッタ。1つの懸案を解消した。それは大雨の度に悩まされてきたもので、雨や雨だれから建物を守る小屋根をかける作業であった。もちろん、事前に受け入れ準備をしてあった。
妻と取り組んだ樋の掃除であった。快晴の日を選び、母屋の樋から取り掛かり、最後は渡り廊下をとり着けた部分だった。複雑な屋根の構造であり、大量の雨水が集まるところだから、大型の樋に替えてあった。だが、集水口を探るのに苦労するほど落ち葉が溜まっていた。へッピリ腰の作業になった。
作業の途中で夕焼けになった。作業を終え、大地におりて、一息入れた時に、「この庭の主ではないか」と思うほどのヘビの抜け殻に気づかされ、ニンマリした。
かくして今村さんを迎える日になった。もちろん私は朝飯前の一仕事に今村さんの助成を当てにした作業を選んでおり、1人でほぼ済ませてあった。彼に屋根材を支えてもらい、獣害ネットを部分的に切って差し込んで、仕上げたらよいようにしてあった。
ところが、今村さんはこの現場を一見して、「どうして」と疑問を呈した。もっと簡単で合理的な屋根材のかけ方があったことに気づかせられた。
「そうであったのか」と気づかされたこともあった。私は背が低く、脚立が使えない狭いところでの作業であったから「この手のやり方」に気付けなかったのだろう。
この日の最後は、温室やミツバチの巣箱を始めとする強風対策だった。
今村さんのおかげで、翌日の台風の夜も、高いびきで眠りこけていたようだ。
次の大事な来訪予定者は、25日(日)の2人の佛教大生だった。だから前もって23日(春分の日)に、今村さんに再訪してもらえるように依頼した。
18日は午後に剪定作業に取り組み、大量の剪定くずを出した。だが、囲炉裏場には運び込むわけには行かなかったので、23日に運び込んで、佛教大生の焼き芋に備えておく必要があった。
23日はあいにく雨になったので、屋内作業を目論んだ。だが彼は、途中にある100円ショップで買ったというカッパ持参で訪ね、やる気満々だった。
実は、この間に予期せぬ問題が生じていた。14号台風は思わぬ被害をもたらしていた。悪しき剪定が原因でカシの木が倒壊した。その被害の補填を事情があって、不本意ながら引き受けざるをえなくなった。
なぜなら、その被害(交通遮断など)の発生原因を造った人が、あろうことか常時人手を抱えている善意の人に訴えて出た。その人はわが家のことを思って、復旧作業を半ば済ませた上で、わが家にことと次第を知らせて下さった。
そこで、善意の人に縷々事情を説明し、こうした事情を正確に理解できて、冷静に対処できる職人に頼るべし、となった。翌日、その願い通りにことが運んだ。
私が候補にあげた職人がヨカッタ。同志社大学の大学院の講座で触れ合った人であり、アイトワ流の生き方に賛意を示した人だった、おかげで、事無き結果を得た。
25日は、ヒノキ林の(自然生えのカシや竹などが混じる)苔庭(常緑樹の落ち葉が積もっていた)の掃除に、佛教大生に取り組んでもらった。
余勢を駆って、青竹の切り取りなどにも取り組んだ。だがこの日は、学生は2人ともに、早めに切り上げる用事を抱えていた。だから、囲炉裏場の山を高くするだけで、焚火は出来なかった。
望さんの撮影への備えは整い、10月下旬の見学者来訪への対応も楽になりそうで、大助かりだった。学生とは、2度のお茶と昼食時に語りあえた。その質問にも適切に応え得たようだとの感触をえて、精神的な充足感に浸った。
私の学生時代と異なり、誠実な若者(こうした庭仕事の助成でやってくる人を、私はそう見る)は、未来に計り知れない不安と疑問を感じていそうだ。
翌日、望さんを迎え、撮影してもらった。「これがわが家の庭」ですか、とか「私が苗木から育てた林」ですか、と言いたくなるような光景に切り取って下さった。
おかげで、気力はもとより体力的にも、かなり自信を取り戻せたように感じた。そこで、予定表が空白だった29日を、季節の切り替え時に採用する庭仕事のパタ-ン(10時から昼食までと、16時以降日没までの間が庭仕事)の1日にした。
ブロッコリーは苗を買って植え付け、ダイコンやカブラは種をまいた。
ありがたいことに、その途中でヒョッコリと久保田さんが来訪。これ幸いに、と午後のお茶の時間を共にしてから庭に出た。二十世紀ナシ(今年の初物)のお裾分けに浴した。
その後、カボチャ、トウガン、ゴーヤ、そしてツルムラサキが絡み合った棚の整理に当たり、約半分のツル類をほどき取った。
とどめは月末の、予定通りに友人連れで訪ねてもらえた瞳さんだった。会話も弾んだし、着替えも持参と聞いて、懸案の1つ(獣害フェンスにはわせたブラックベリーの、虫害で枯れた枝の切り取りと、その裾部に植えてあったシュクコンソバの根の掘り出しに取り組んでもらった。元気付けられた私は、一帯の草刈りに励んだ。
この一連の作業を私は半日仕事とみ込んでいた。3人で当たったおかげで、1時間余で片づき、楽しい半日になった。瞳さんには例年いただく藁はもとより、飛び切り美味の和菓子や、クマザサで造った効能書きを添えた妙薬まで頂いた。
同道の友人が下さった手作りのパンプキンケーキは、お茶の時間に賞味した。
この2人を見送りながら、「あれはいったい何だったのか」と、人生のエポックだと覚悟させられた体験を振り返った。精神的にも不思議な思いで振り返えった。そして最後に、「そもそも、あれが」と15日の大北乙佳(いつか)さんをおもいだし。
樋や水道管工事の下見にみえた乙佳さんの第一声は「知ってますか」だった。京都市が組んだコロナ騒動に基づく補助金の話だった。知ってはいたが、手が出せていなかった。
「コンピューターを貸してもらったら、私がやりますよ」といって、取り組んでもらえた。簡単そうに言ったが、調べ事もあって、ゆうに2時間を要した。その間に妻は、乙佳さんの用事だと思ったのだろう、嬉々と法務局に走っている。
「これで」と、立ちあがり、「お昼ごはん遅らせて、スミマセン」と言って去ろうとした。「一緒に」とすすめたが、手提げかばんからクッキングホイルに包んだオニギリ(常備しているという)を取り出し、「急いでますので」と応じてくれなかった。
5、このままでいいんですか。野菜作りの加齢対策で、まず「このままでいいんですか」と自問した。「自生種」をいかに増やすべきか、と考えた次第。雨水の活かし方では、一段階進歩したが、何で今頃になって、と反省した。
日本は「このままでいいんですか」と考え込まされる事案にも出くわした。先月は、異常高温に音を上げて、居宅に冷房機を設置したが、今月は、業務用の補助金付き設置制度の紹介を受け、省エネ型との付け替えに応じた。この営業マンは抜群! と評価したが、同時に日本は「このままでいいんですか」と叫びたくなった。
まず今年の夏野菜。トウガン、ゴーヤ、そしてツルムラサキの3種は、すべて自然生えに頼った。ツルクビカボチャも、自然生えに頼れそうだ、との感触を得た。
トウガンにいたっては、堆肥の山があるごく小さい果樹園でも自然生えしており、あちらこちらで実を結んだ。だから、新たな挑戦に挑みたくなった。
この夏は、この4種が伸ばす蔓に合わせて支柱を増やし、好きなように育てた。結果、それらの蔓で、畑の半分近くが覆われたようなことになった。
案の定、冬野菜との切り替えに支障をきたした。来年は、この制御をいかにすべきか、と課題を残した。ツルムラサキは、次々と大量の種を結び、その場で種を落したり、落ち切らなかった分は、種ごと蔓を抜いて堆肥の山に積み上げたりすることになる。だから、種が混じった堆肥を畑に鋤き込むことになり、制御は容易だろう。不都合なところに芽生えた分から抜き取って収穫しキッチンへ、都合の良い芽を残すことで制御できそうだ。
試しに、と邪魔な分を大量に引き抜き、キッチンに持ち込んだ。妻は「保存します」と言って大喜び。その葉は分厚いこともあって、冷蔵庫でかなり長持ちするようだ。
巨大ツルムラサキだけでなく、紫ツルムラサキも苗を手に入れて今年は育てた。来年から、種が採れない巨大ツルムラサキは栽培しない。紫ツルムラサキは”彩り野菜”として重宝した。だから、種を採ったり落させたりして、自然生えを期待できるものか否かを確かめる。
ゴーヤも今や、次々と採り忘れた実が熟れて、黄色くなって破裂し、赤い種を振りまいている。チョットした工夫で、制御は可能とみる。
心配は、トウガンとカボチャ。調理くずとしてタネも一緒に堆肥の山に積めばよさそうだが、おもったようにはゆかないだろう。種の数が少なく、かたまって入っているので散らばりにくい。都合が良いところに出た分を残し、他は間引く手法では無理だろう。
しかもカボチャは、ツルクビカボチャ1種に絞るわけにはいかない。今年は、2種のカボチャを頂戴して、味わうことになるが、長期保存がきく品種も育てたい。
その候補は白カボチャと呼ぶことにした一種だ。今年は自然生えがなく、種をまいた分もサルに実を襲われて、1つも収穫できなかった。昨年は小さな実しか育たなかったが、その1つが今も、色は変色して緑がかったが、未だに常温下で腐らずに残っている。今年は頂き物の大きな分で、その保存性を確かめたい。
もっと早くから、この土地で、この程度の広さの畑での、こうした自然生え作戦を工夫しておくべきであった、と反省している。
この逆の反省はシュクコンソバだった。この土地での適地を探そうとして、あちらこちらに植えた。それが、アダになった。宿根があまりにも逞しいだけでなく、種を次々と振りまいて増える。今年は3か所で根絶させるために、宿根を掘り出す手を打たなければならなかった。
雨水の活かし方では、一段階進歩できた。雨水がかからない軒下にある花壇の側に、一輪車を留め置いて雨を待つ(溜まった水を、一輪車を傾けて花壇に注ぐ)ようなやり方は、これまでの方式の1つだ。
このたびは、ハクモクレンの種房を捨て忘れ、雨をかぶらせたまま放置していたことが新たなアイデアに結びついた。生葉の養分を抽出し、簡単に活かしうる。
何ごとも、「このままでいいんだ」とのおもいで固まらないことが大事、と喜んだ。だが妻に、「お年ですね」と冷やかさた。その昔は、「このままでいいんだ」なんて考え方は頭から私はしなかったようだ。その頃から、加齢対策を意識しておけばヨカッタわけだ。
27日は、忘れ難い1日になった。業務用省エネ空調機の工事日だった。その上に、朝に電話があって午後に、高等電気の向井さんに訪ねていただけたからだ。
業務用省エネ空調機は、居間に取り付けた空調機と同じメーカーの製品だった。前者は、街の独立した電気屋さんが仕入れて、設置した。後者は、いわばメーカーの直売店型の会社の拡販活動、と見てよいだろう。
居間に取り付けた空調機は、最寄りの個人経営店(仕事がきれいで、台風や大雨などイザッという時に駆けつけて、丁寧に難儀を解消してくださる)に取り付けてもらった。だから、高くついたが、不満はさらさら抱いていない。
これが望ましきあり方(未来は、使い捨て型ではなく、修繕や補修などが当たり前の時代にならなければならない)とみているからだ。問題は、この個人経営店は、業務用省エネ空調機の補助金制度はご存じなかったこと。勉強不足かもしれないが、こうした補助金制度は、大手のための制度のようなことになってはいないか、心配だ。むしろ未来を読んで、きめ細かなサービスに主眼を置いた系列店制度を敷くべきではないか、と考えた。
それはともかく、直営店のごとき会社が派遣した工事担当者4人と触れ合ってみて、「このままでいいんですか」と叫びたくなったことがあった。
この4人の仕事ぶりに感心し、お茶の時間を設け、好ましきチームワークの源泉を知ろうとした。なんと、工事責任者以外の3人は外国人であった。よき工事責任者と見た人は、この3人の外国の若者を高く評価し、日本の若者など使えたものではない、と嘆いた。積極性、進取性、勤労観、あるいは相手をおもうココロなど、あらゆる面で高く評価した。
どうして個人経営店はこうした若者を雇い入れないのか、それとも入れられないのか、などと思案した。こうした外国人受け入れ制度が、もし大手の人手不足の補填に活かされがちになっているとすれば、わが国は大きな禍根を残しそうだ。
こうした制度がもたらすいわば「浮利」が、日本の若者をスポイルするようなことになっていないか、と心配になった。
この度せわになった営業マンの家庭に想いを馳せた。外国人受け入れ制度などで企業は潤い、高き給与を維持していないか。その収入で、この営業マンは息子や娘を甘やかせ、スポイルしてはいないか、との心配だった。
こうした心配が頭をもたげていた最中に、高等電気の向井さんを迎えた。
6、その他。そう言われてみれば、としげしげと眺めた。それはインゲンマメの原種のごとき蔓性野草の変わりダネだった。赤みがかかった青い花の方は、まるで”眼の敵”かのごとくに私は意識し、庭から消そう、と願って来た。このたび、久しぶりに黄色い花の方を妻が見つけ、愛でたが、私にも可愛らしく思われた。身勝手なものだ。
映画会は急遽決まった。「老後の資金不足を危惧するコメディ」と、今は亡き「鍛冶職人」を採り上げたドキュメンタリーの2本を観た。
年金制度の破綻は眼に見えている。健康保険制度は実質上で破綻している。日本は「これで立国するのだ」といった次の産業などの目処は立っていない。こうした国のありようを危惧しながら、この2本を鑑賞した。
コメディが、こうした危惧の念を抱かせ、「鍛冶職人」の方が、地下資源に事欠くわが国の立ち向かうべき方向を気付かせたように思った。
伴さんに、清太君同道で訪ねてもらえた。京都市内に出てくる用事があったツイデだが、清太君が昼食はアイトワで、と提案したようだ。もちろん私は、妹の藍花さんのことが気になっていた。清太君は農業コースで学んでいるが、藍花さんは畜産コースを選んだ。
彼女は、案の定、へとへとになっていた。畜産コースは、出産期だし、彼女は頑張りやさんだ。しかも、学校の彼女への期待も大きいようで、3重のストレスを抱えている。だから、秋には収穫祭があるに違いないと見て、オジイチャンよろしく、ある想いを込めて「お訪ねしたい」とお願いした。この日、居合わせた今村さんを紹介した。
利休の切腹問題に触れたTV番組をNHKで観た。だから、「若者は“ミニ利休”」の第1章で始まり「だから利休は殺された」の23章で終る拙著『人と地球に優しい企業』を振り返った。
その昔、日本メンズウエアー協会が「ベストドレッサー賞」制度を立ち上げ、毎年お歴々を表彰式に呼び出した。石津健介さんが健在の頃だった。私も関係者として表彰式に招かれたが、その何回目かの懇親会で、受賞者の千宗室さんとしばしの立ち話をした。
当時から、茶道会のありように私は危惧の念を抱いていた。千利休の“詫びさびの”提案(念願)から大きく外れてしまっており、日本のためにならない、ひいては地球のためにならない、と見る(利休が当時の日本に、秀吉型虚飾から詫びさび型への移行を願ったように、日本は今の世界に、そうした意向を促すべきである)からだ。
だから、この拙著を千宗室さんに献本した。このたび、千宗屋さんからチョット安堵する発言があった。実態が伴うことを願った。
向井さんを迎えた。まるで以心伝心だった。なぜなら、超台風14号のニュースが、わが家の「排水ポンプは大丈夫か」との不安を抱かせていたからだ。降雨量50mm/H(当時の法定基準?)を超えると問題が生じかねないがウイークポイントがわが家にはある。
その危険は、ソーラ―発電機の更新時に大型充電器を導入し、停電時にも自動的に排水ポンプを作動させ、得るようにしたした。とはいえ、イザッとなった時の不安があった。
これら機器の更新と充電器の導入時に、高等電気に抱いた期待と信頼感はとても大きかった。その後の動きも、その想いを裏切っていない。とはいえ、とおもっていた。
そこに、このたびの以心伝心だった。早速、再度点検しましょう、と言ってもらえた。
時代は、好ましき企業と好ましき需要者群が支え合う社会を必定とするだろう。
カボチャのコロッケ。カボチャとトウガンの当たり年だった。カボチャは長さでは前代未聞、と言いたくなったツルクビカボチャもあった。急いで採って自慢げに使い物にしたが、75㎝はあったはず。トウガンも大きいのが採れた。
妻は、大勢の私的な来客に恵まれた時に、カボチャのコロッケを作って振る舞った。お相伴に預かったし、カボチャコロッケのサンドイッチも上出来だった。瞳さんの友人は美味しいパンプキンのケーキをお作りだった。
とはいえカボチャとトウガンの大成功は、最初で最後にしたい。
大団円は3夫妻で大笑い。長月最後の来客は、恵子さんと、その友人の吉田さんが、それぞれご主人同伴で訪ねてくださった。”笑い”とはいいものだとおもった。およそ2時間、笑いこける話題が続いた。エポックのことなどすっかり忘れてしまった。
とはいえ、とても気がかりなことを残す長月になった。裕一郎さんが、人生上のエポックに直面している。私のエポックは、一過性の、老化現象のごとしであり、要注意に過ぎないようだが、そんなものではない。私たち夫婦に何かできることがあればいいのだが、と心配している。
当月は、次の言葉に触れ、メモった。
分裂のある所に、和合を置かせてください。
誤りのある所に、真実を置かせてください。
疑いのある所に、信頼を置かせてください。
絶望のある所に、希望を置かせてください。
Where there is discord, may we bring harmony;
Where there is error, may we bring truth;
Where there is doubt, may we bring faith;
And where there is despair, may we bring hope.