目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 UTAUTA=歌う田
2 白い花が美しい皐月
3 昇さんとフミちゃん
4 冬野菜と夏野菜の端境期
5 “堆肥の山”の新旧更新
6 その他
座標軸と羅針盤
5月・皐月は、NZのミーシャから來月の来報予定を知らせるメールで始まり、半世紀ぶりに再会したフミちゃんの4度目の来訪(内2度は妻と3人で庭仕事に当たった)で終わりましたが、他に多々トピックスに恵まれました。2泊3日の葉山への旅を含む計7回の外出と、2件の久方ぶりの来訪者、そしてこの間に、昇さんの助成をえて夏野菜の準備をし終えたこと、などです。
2泊3日の旅は岡田さんと一緒に真砂秀朗さんを(アイトワでの真砂さんのインディアンフルートの演奏が現実化することになり、その前に)葉山に訪ねておくことにしたのです。おかげで、この人と人生のいわば羅針盤や座標軸について語りあいたい、との計画を胸に秘めて帰途に着くことがことができました。
7回の外出は、池田望さんと下村知範さんの3人連れで滋賀県の“鉄工房銀ねずみ”訪問。久保田英和さんと“オードリーヘップバーン写真展”(似つかわしくないが)見学。知範さんと“匠の祭典”の打ち合わせに参加。加えて心臓の24時間チェックや眼科の関係でMRI検査のためになど3度の通院でした。
2件の久方ぶりの来訪は、今関信子先生が劉穎さんと一緒に訪ねて下さったこと。そして、徳本英明さんが長男をともなって訪れ、記念の一仕事に当たってもらえたことでした。徳本さんは、18年間も続いた仏教大学(社会福祉研究会)学生来訪プログラムの創始者ですが、この度の終了を知って、丹後から駆けつけてもらえたのです。
仏教大生来訪のプログラムは終わりましたが、昇さんに加え、フミちゃんというありがたい援軍にも恵まれることになった皐月でした。フミちゃんは、歳はちょっと下ですが、商社時代の1年先輩で、嵯峨めぐりの途上で立ち寄ってもらえたのです。余生は京都で過ごすことにしたことや、ボランティアで庭仕事にも携わって来たことなども知り、庭仕事に一緒に取り組む話しが飛び出すほど話が弾んだのです。初対面の妻も旧知の仲のごとしになり、3人で(フジの剪定に始まり、果樹園の草刈り、シンボルモミジ周辺の剪定、囲炉裏場周りの草刈りなど)2度も、ほぼ終日庭仕事に携わりました。
この間に、冬野菜やエンドウマメの畝を仕立て直し、夏野菜の準備を終えています。先月植え付けたわが家の5大夏野菜、トマト、キュウリ、ナスビ、トウガラシ、そしてインゲンマメと、トオモロコシ(伴さんに苗をもらった)に加え、当月は8種(モロヘイヤ、オクラ、義妹の畑で自然生えのカボチャ、そしてバジルの4種は苗から、コイモは種イモ、ヤーコンは無性芽、ニラは昨年播種して育てた株から、そしてゴーヤは自然生えをそのまま育てる))の準備を終えたのです。残るは、トウガンと2種のカボチャの自然生えを期待するばかりです。かくして畑は、支柱(5畝のエンドウ用)は一旦消えたのですが、すぐに5大夏野菜とゴーヤ用の6種に立ち、夏装束に一転した次第です。
他にも印象深いことが多々ありました。2泊3日の旅では北原白秋記念館と戦艦三笠記念館などに、銀ねずみまでの道中では白髭神社に、それぞれ立ち寄りました。食の面では、冬野菜と夏野菜の端境期を楽しむ新しい術の学習、キャラブキの新しい煮方を模索、サクランボの久方ぶりの収穫、あるいはサンショウの実を摘んで粉サンショづくりに挑戦、などに取り組みました。また、義妹にメダカをもらったのを機に、大水鉢の鳥害対策を始め、シンボルモミジの手入れ、あるいは“堆肥の山”の新旧更新などに取り組みました。
国際色豊かな出来事にも恵まれました。マカオとオーストラリアからの来訪客と親しく触れ合えたことや、月初のミーシャの来訪予定の他に、来月は他に2件(イスラエルから迎える顔なじみのご夫妻と、今月知り合ったばかりのウクライナのお客さんが、知人を伴って来訪)の予定が入ったのです。
~経過詳細~
UTAUTA=歌う田
真砂秀朗さんのUTAUTAという催しが6日に葉山町長柄の田んぼである、と岡田さんに教えられ、一緒に出掛けた次第。
そこは、23年前は背丈を超す野草が茂っていた、との谷あいの土地であった。草を刈りとってゆくと水田跡が出て来た。今は、年中水を張っており、不耕起、不施肥、無農薬で水稲を順調に育てている。秘訣は、苗をこの水田の一角で育てるところにあるようだ。
半年間休ませていた水田では、オタマジャクシがたくさん泳いでおり、リュウキンカ(?)のごとき水草が黄色い花を咲かせていた。
真砂さんが語るこの山間での体験談は、アイトワの時空で私が実感させられてきた“ある想い”を振り返らせた。それは、真の人間の生きる資格と言ってよいのではないか(!?!)。同時にそれは、大海を行く船で言えば羅針盤、あるいは座標軸かもしれない。これらを人生の拠り所にすることができれば、おのずと幸せの源泉になりそうだ。アイトワでの催しが現実化した日には、是非とも、これらの点について、何らかの形で触れたくなった。
1日置いた8日、お宅に訪ねた。その折に“「あわうみ」愛と和の世界へ”との催しがかつてあったことや、来たる8月に“「愛和(あわ)」の世界へ”との予定があることも知った。
その昔、“アイトワ”との造語を考えた時に、もちろん“愛と和”や“愛と輪”も頭に浮かんでおり、ここでも想いを同じにするところがありそうに感じた。真砂さんの絵、書、あるいは版画にも触れたが、穏やかな心境に誘われた。
2. 白い花が美しい皐月
玉神木が芳香を一帯にたなびかせる皐月だが、今年は真っ白の花がよく目立った。
その始まりはほのかな芳香を一帯にたなびかせたテイカカズラだった。この蔓性植物は、山道を散策すると竹藪の穂垣などでよく見かける。わが家では “シンボルモミジ”と呼ぶ この庭では最高齢で、由緒のある樹に登らせている。毎年、この蔓がこのイロハモミジの樹幹を覆って弱らせないように、その年の秋口に手入れをしてきた。それは、モミジの枝に伸びた蔓が絡まりついてしまう前に引っ張り下ろして、ダランと垂らす作業だが、この度は年を越してしまい、今頃になった。だから多くの蔓をモミジの枝にからまりつかせてしまっており、引きちぎるようなことになった。
このたびの作業は、まず(今や私には重すぎる)12段脚立を知範さんに運んでおいてもらったオカゲ。その後、フミちゃんの助成に恵まれ、元気をもらい、取り組んだ。だから、これまで以上にモミジの枯れ枝も丁寧に落したし、テイカカズラだけでなく、フジの蔓ものぼっていたので、樹冠から引き下ろした。引き下ろした蔓は、人の目線で花を観賞できる位置(モミジの枝)に絡ませた。
マーガレットも咲き始めた。この花は庭の随所で自生させてきたが、今年あたりからチョット心を払い、増えるように手をほどこしたい。さもないと、日陰が増えたこの庭から消え去らせかねない。
エルダーの木は昨年、大胆に切り詰める(背丈を抑制せざるを得ない場所に植えてしまったせいで)剪定をした。だが、新芽を旧に復するほど伸ばし、花をたくさん付けた。
この木は、苗木を鈴木さちよさんにもらって育てたし、この花が原料の清涼飲料水の素も彼女にもらい、その味を知ってしまった。だから今年は、挿し木をして、もう1本増やしたく思っている。
ハクウンボク(妻が友人からもらった記念すべき木)も成木になり、見事に咲いた。
自然生えのエゴノキも、期待通りに咲いた。大きく育つ木だが、大きく育ち始めた木は切り取ってしまい(写真左は、その切り取る前の姿)、その種から芽吹いた分を1本残し、人の背丈で咲かせる工夫をし始めて3年目に入った。
庭に3本あるヤマボウシも咲いた。この木は花を天に向けて咲かせるので誇り高き木と見られている。しかも、山で道に迷った時など、この花が咲いておれば、北がどちらか教えてくれる指標木。この純白の花をつける一本は、今はなき会社の創業記念樹だ。この会社は好調裏にあったが(親会社が決算の都合もあって株式を高値で売り払ってしまい)今はない。
カルミヤも咲いた。この花の命は短く、すぐに黄変が始まり、種房だけ残して花が落ちてしまう。見事な花を翌年も咲かせようと願うと、この種房を人工的に取り去らないといけない。チョット手のかかる木でもある。
この時期は他にもユキノシタやミツバなど、白い花をつける草木がたくさんある。ということは、夜分に活動する昆虫が多い季節かもしれない。夜分に目立つ白い花をつけた草木がかくも妍を競い合うのだから。
3. 昇さんとフミちゃん
今年の夏野菜の準備は、今村昇さんの助成を得たおかげで(北欧旅行での)遅れを取り戻すことができた。除草作業の遅れは、ヒョッコリ立ち寄ってもらえた、フミちゃんと呼ぶことになった羽尻文子さんのおかげで、見通しを立てること出来た。
「余生は京都で」と西京区に住まいを定めたフミちゃんは、17日は嵯峨めぐりの途上だった。アイトワの前を通り「ヒョトして」と、立ち寄ってもらえた。これが縁で、これまでの音信不通であった半世紀のあらましを伺い、またわが家のような庭が好きなことも知り、「ならば」と私たちは誘いをかけた。
最初の約束をした日は妻の希望で23日(火曜日は、人形工房と喫茶店の定休日)になった。フミちゃんは予定より1時間以上も早く、手袋と幾つかの使い込んだ道具、そして弁当持参でご到着。まず私と2人でフジの剪定を済ませ、妻が参戦してから果樹園の草刈りに手を付けた。その時に「ドクダミをもらって帰ってもいいかしら」とご質問。白い花が咲き始めた今が採取のしどきだし、化粧水を作るとおっしゃった。実に楽しい昼時になった。
果樹園には膝丈以上の草が茂っていたが、3人がかりだと草刈りに弾みがついた。ドクダミはもとよりフキも沢山採れた。「2年分の化粧水ができそう」とフミちゃんは収穫量を喜び、「明日、とりに来て」よろしいか、とおっしゃった。
次いで私は、12段脚立に登ってシンボルモミジにからむテイカカヅラの始末に、女性軍はこの一帯の除草や剪定に。シンボルモミジには白い花をつけるフジも昇っており、樹幹を覆い始めていたので引き下ろした次第。
翌日は、フミちゃんは一人で歩いてご到着。バスだと「1回の乗り換えで済む便を見つけた」。だから「駅までの出迎えは無用」。「今日も、昨日の続きを」と、庭仕事にとりくみながら、続けざまにおっしゃった。
手土産に、マーマレードを下さったが、夜にその包装を解いた妻は心打たれた。イタリヤに駐在していたころに買い集めたとの、センスの良い手刺繍のレースだった。
次の庭仕事の日は翌週の火曜日30日に、と決まった。
その間の28日の日曜日は、当月最後の昇さんの来訪日だった。まず草ぼうぼう(写真、左の2枚は月初)だったニラコーナーの2畝を耕し始めた。
次いでエンドウのあとの(前回耕した)2畝に腐葉土を運び込む作業など、多様な作業に携わってもらえた。
その間に私は、ジャガイモの畝や畔の草抜きとか、自然生えのゴーヤに支柱を立てるなど、夏野菜の準備に精を出した。ナワシロイチゴを見つけて昇さんに進呈すると、少年時代を振り返ってもらえた。
妻が「小鳥がほとんどついばんでしまった」とサクランボの実を話題にした。見るとまだ半分ほど残っていた。だから、昇さんに手伝ってもらってカバーをかけた。おかげで今年は庭のサクランボにありつけた。後日、ユスラウメも収穫した。
昇さんを見送った後、耕し終えてあったニラコーナーの2畝にカボチャの苗を植え付けた。次いで、トウガラシの畝に瞳さんにもらった切り藁を被せ、畝の肩にコーヒーカスをまいた。
30日は雨模様と分かり、フミちゃんの来報は翌31日に順延。囲炉裏場周辺の手入れから3人で取り掛かることになった。懸案だったフジバカマの手入れ(一緒に茂っている三つ葉やミズヒキなどを刈り取る面倒な作業)をフミちゃんに受け持ってもらった。妻は、周辺の通路の除草。私は元フキ畑(その再現を願っている)の草刈りを分担した。フミちゃんは続いて、ニラコーナーの獣害ネットに沿った土手の除草に手を伸ばし、妻は囲炉裏場の階段に手を付けた。
3人だと仕事に弾みがつき、ほどなく見通しが立った。
刈り取った草は一輪車に積んで、私が竹藪の土手に捨てた。いずれは肥料となって太いタケノコに生まれ替らせることにした。
この要領で、ブルーベリー畑や囲炉裏場の剪定くずの整理などに3人で取り組んだ。願わくは、フミちゃんと昇さんが顔を合わせる機会が早く巡ってきてほしい。
4. 冬野菜と夏野菜の端境期
毎年、この端境期になると、野菜のやりくりで何かと苦労させられる。スーパーなどの店頭では、年中あらゆる野菜が並んでいるが、わが家は自家菜園の露地栽培野菜をことのほか大事にしているせいだ。つまり、わが家では“旬”と“身土不二”を大事にしているわけだ。チョット大げさだが、それが生きる座標軸を見定めさせ、確かな羅針盤を用いて人生行路を切り拓かせる秘訣のように視ているからだ。間違いなく、それが心を落ち着かせるだけでなく、自己同一性の原点であるかのように感じさせる。
最初のイギリス出張で、ロンドン支店長にコックスというリンゴを教わった。「イギリス人は貧相なリンゴを…」と私が口走りかえたときのことだ。「もしハムレットが、リンゴが旨い」と語っていたとしたら、イギリス人は今も、「この味なんだ」と実感するんだ。イギリスの女性は代々、このリンゴでパイも焼けばジャムも煮て、子どもや夫に食べさせるんだ」と、彼は言葉をつないだ。
この時期は、冬野菜の小鳥の取り分に配慮しなければならない時だ。来年用の種を採る分には防鳥ネットを被せ、小鳥の取り分は採餌しやすいように残したり、採餌しやすい場所にぶらさげたりするようにしている。
この度の端境期(青菜がなくなる)は、2種のエンドウマメ(スナップとツタンカーメン)、さまざまな畝の肩で育てたレタスの残り、越冬させたジャガイモとコイモ、自然生えのシュクコンソバやフキ、そして同じく自然生えのウコギやミツバの軟らかい部分などを重宝した。
キンカンやユスラウメも活かした。
今年は、多くのタマネギが薹を立て、ネギボウズを付けた。そこで、薹を立てたばかりの、まだ薹が軟らかい時点で、“葉タマネギ”とみなして収穫し、ネギに代替させた。ネギは既にすっかり長けて、チョウやハチを盛んに招き寄せており、葉は硬くて食用にはならない。
葉タマネギとして収穫した分は、玉部分はビールの肴に、葉の部分はさまざまな料理に活かし、総菜にした。
タップリ葉タマネギを用いたカレーライスは絶品だった。
この度の草刈りで、フキをたくさん一緒に刈り取った。キャラブキにしたが、加齢対策の一環として、一工夫した。キャラブキは、フキを皮ごと煮るものだが、皮をむき、筋もとる工夫だった。面倒だし、嵩は半分ぐらいになってしまうが、試みてヨカッタ。
タマネギと同様にネギも、ネギボウズを出したばかりの軟らかい時期がある。その昔は、天ぷらの具材を始めとして、さまざまな料理に妻は活かし、楽しませた。だが、今年は、ついに活かさなかった。この点を指摘すると、妻はその逸品さえ、過去の写真を見て初めておもい出す始末だった。だからチョット心配になった。
妻は、臨機応変力を駆使して頑張り、私はもとより来客にもさまざまな料理を振る舞ってきた。こうした生き方をしてきた人が、歳を重ね、頑張りが効かなくなると、どうなるのか。ぼんやりとした記憶は不安をさそう原因にはならないか。果ては、羅針盤を失ったり座標軸を欠いたりしたような心境(その時々の良かれ、に目を奪われ、漂流船のごとし)になり、思考意欲を萎えさせ(砂糖と視ればたかるアリのごとし、になってしまい)勝ちになったりはしまいか。来客を喜んで迎えていた妻だが、それが今度は不安の原因にならないか。
5. “堆肥の山”の新旧更新
5月になるといつもおもい出す諺がある。「春に3日の晴れ間なし」である。
生ゴミを“堆肥のヤマ”まで運んでゆき、投入する役目を私は引き受けようとしているが、生ゴミを運び出そうとしたときに、折り悪く雨が降りだしたことが今年は多く、困った。それは、堆肥のヤマがあるところを、“サンクチュアリ”の1つに選んだせいもある。
草が生えるに任せ、この庭に住み着いているヘビなど野生動物にとって楽園の1つにした。当然、堆肥のヤマや周辺にも草は茂る。それが、非力になった私には(雨の日は、片手に生ごみが詰まった容器を、もう一方の手で傘をかざし、堆肥のヤマまで分け入ることになり)ことのほか“厄介な作業”になってしまった。
そこで、思い付いた。“堆肥の山”に至る小径の除草を“皐月の一仕事”にして(定期的に行う習慣にして)おけばよかったのに、と。ならばこれも1つの生きる自信に結び付けていたのではないか。そう考えて、ともかく草を刈った。
冬野菜が最盛期の冬場は、庭では野草もたいして育たず(枯れたシンジャ―などを積んでおいても)すぐに生ゴミであふれんばかりになる。
幸か不幸か、冬野菜が末期に入るこの時期は(夏野菜の準備のために、長けた冬野菜を次々と抜き去る時期であり)堆肥の山が長けた冬野菜で高くなり、生ゴミを投入する穴が深くなる。このゆとりある機運が思いつかせたことがある。いっそのことこの時期を、“堆肥の山”の新旧更新の時期にしてはどうか、だった。これを“皐月の一仕事”にして、わが歳時記の1つに組み込んではどうか。
晴れた日に、早速手を付けた。
まず新しい堆肥の山を作る位置を決め、長けた冬野菜を井桁に積み上げ、生ゴミを投入する穴を作り始めた。この山が少し落ち着いたところで、生ゴミを投入し始める。次いで、旧の山の上部、腐食していない部分を掬い取って新しい山の上に移動させる。異動させ終わったら、その上に、長けた野菜などを積んで落ち着かせる。
新しい山の形が落ち着けば、新旧更新作業は完了だ。生ゴミの投入と投入する穴を深くする作業の繰り返しが始まる。月末になると、ヒコバエをとった後の長けたネギがたくさん出るので、一時期だがチョットみっともない山になる。
旧の山で腐食した分(堆肥)は、いずれ掬い取って畑に投入する。
あと何回、この作業を繰り返すことができるのか、それは分らないが、この時期の新旧“堆肥の山”の更新を、わが家の歳時記の1つにしよう。
6. その他
A、匠の祭典 。プログラムの作成と、この祭典の恒常化を語らう集いがあった。顔なじみが集ったが、そのお一人が彫刻家でもあり(写真中央で腕組み)その作品に触れ得る機会を紹介された。この度は無理としても、いつかは直に鑑賞したい。
B、アカンサス。白砂先生のお宅の庭で、地植えのアカンサスを見て、ある残念な思い出を振りかえった。かつて鉢植えのアカンサスをもらったことがあるが、枯らした思い出だ。地植えが効くとは思っていなかったからだ。この事情を知った先生は、苗を翌日届けて下さった。
二十歳の時に西洋美術史の講義で初めて知ったアカンサスだが、なぜか憧れの植物になった。この度は野草がはびこりかねない場所に植えて野草の成長を抑制させる役目も与えた。その後、植えて10日もせぬうちに花軸が立ち、新しい葉も出た。どのような花が咲くのだろうか。
C、鉄工房銀ねずみ。 “野鍛冶”を自称する堀田典男さんの鍛冶場は、かねてから希望していた念願の見学先だった。野鍛冶は、わが国でも工業社会の進展とともに、減った。再び随所で野鍛冶が必要とされる“新たなる時代”が誕生してほしい、と願いながら訪ねた。
その昔、わが家が当てにしていた野鍛冶も廃業した。そうとは知らずに、廃業間なしに、備中鍬などを携えて訪ねた時のことを今も覚えている。とても怖い顔で、私に廃業の原因があったかのごとき口調で、「止めた」と吐き捨てるかのごとくに、通告された。
その後、10年程後の1986年のこと。著作に手を出した私は、その編集人のお宅に招かれた。そのときに野鍛冶を消えさせた時代を嘆いた。すると、その東京の人の口から「まだ、こちらにはありますよ」との言葉が飛び出した。日野市にお住まいだった。
早速、鍬や備中鍬を計4丁、宅急便で送った。
待つこと半月、送り返されてきた4丁は、継ぎ刃も見事な仕事ぶりだった。早速、喜び勇んで振り下ろした。「ボン」といったような音と共に大地に跳ね返された。原因はすぐに分かった。刃先と柄の角度が少し変えられていた。
事情はすぐに理解できた。東京の土質、砂のごとき軟らかい土質に合わせて角度を修正したに違いない。その時に、本来の道具と機械の違いの一端を知り得たような気分になった。
道具は本来、使う人の体の一部であり、体の延長であったのだ。工業社会は、本來の道具を消したのではなく、個の身体的特色や個性を軽んじ始めたのだ、と睨んだ。
だから、「野鍛冶だ」と(「鍛冶屋だ」ではなく)自己紹介する堀田さんの鍛冶場を、そのような想いで訪れた。工業社会は逆に、「刀鍛冶」という言葉をはやらせたが、「野鍛冶」とは決定的な差があるに違いない、とも睨んできた。
神棚があった。その両側に“お守り”か、と見まがうものが4つずつ並んでいた。
聴くと、それぞれに“稲刈り釜”と“蔵のカギ”を象徴する金具がついていた。それは、「稲を刈って蔵を一杯に」してもらえるように、と念じる「野鍛冶」の想いの象徴だ、と言ったような説明があった。野鍛冶の使い手を第一におもんばかって打つ精神、その心意気の象徴であったわけだ。
日野の野鍛冶が修繕した農具は、わが家では死蔵され、農具倉庫で眠って来た。なぜかそれが、この度の鉄工房銀ねずみを訪問できたおかげで、死蔵とは思えなくなった。日野市の鍛冶師の想が、別の形で語るかけて来そうな錯覚さえ誘った。
今を去る事80年前、母は病身の夫をかかえ込んだ。しかも、あの戦中戦後を、初めて握るその農具で一家を支えなければならなくなった。その母が使用した農具を、鍬は鍬の、備中鍬は備中鍬の収納庫で、私が買い求めた農具の奥で、私は眠らせて来たことになる。それは、死蔵ではなく、消耗品として私に使わせなくさせた出来事でもあったことになある。うがっていえば、この土地の“お守り”かのごとき役目を果たさせてきたかのように思われ始めた。
D、白髭神社。“鉄工房銀ねずみ”を訪ねる途上で立ち寄った。幾度目かの訪問であった。「もう1度、見定めておきたい」と願う細工がこの神社にあったからだ。石組である。
自然石を用いる石組は、観れば組んだ人の想いや器量などが手に取るように解る、とこの度も言いたくなるような気分にされた。
この石階段を上った先にご神体(?!?)がある。
E、今関先生と劉穎さんの来訪。この日、かつて冨美男さん(友人)にもらったシャクヤクと、紋別の海岸から持ち帰ったハマナスが咲き始めた。妻が、誕生日のお祝にもらったという八重のサクラが「まだ咲いています」と言って、初めて私に見せ、写真に収めてほしい、と願った。この3種の花の共通点を基調として、差異のごとき味わいに満ちた会話が、2時間余も続くお二人との一時であった。
F、マカオのフェイさんほか。多くの外国人に触れる皐月でもあった。妻は、マカオから来たとおっしゃる女性の期待に沿い、いわば短期集中講座を用意した。私は、オーストラリアから、とおっしゃる来店客と、瞬時にして旧知の仲のような気分になった。
G、妻と座敷前の庭で、ヘトヘトに。16日火曜日のこと。午前中は旧玄関前(居宅の北側中央あたりにある)の庭掃除を2人で済ませ、午後も場を替えて(居宅の南側中央あたりにある客間の前庭で)頑張った。久しぶりに2人揃って庭に出て、同じテーマに取り組んだ。午後の作業の途中で、一度私はバランスを失い、チョットした傾斜地でデングリ返った。夜のニュ-スでその頃に京都は30℃、今年初の高温になっていたことを知った。だから、デングリ返ったことよりも、水を飲んでいなかったし、汗をかかずにいたことが気になった。
H、カエル。今年はカエルが、あちらこちらの水槽や水鉢で陣を構え始めた。そばを通るたびに水音を立てる。この1か月、数を減らした様子はない。未だにヘビが姿を見せないのも気がかりである。
I、蝉の幼虫など。小さなセミの幼虫を今村さんが掘り起こしたことから始まった。除草中の妻は、石を外して別のセミの幼虫と目があった。次いで私も、セミの幼虫を掘り出した。同じ日の、ほんの1時間余の間の出来事だった。
その前に、ある夜分に大きな羽アリや、見知らぬ小さなガも飛び込んできていた。その後、奇妙な虫を妻が見つけて私を呼んだ。何かを口に咥えているのだろうか。初めて見る幼虫だった。
サワガニが玄関先にいた。この庭に私が小さな居宅(今の居宅の中心部)を作った1964年から2年ほどの間に、遠方の沢から移住させたサワガニの末裔だろう。その時に放した水路から南北に10mほど離れた位置でいたわけだ。この間に増築で東西に延びた(太陽光と風通しに配慮した)居宅がある。その横幅は今や20数mを下らないと思う。いつこのサワガニが新しい玄関先にやって来たのか、興味津々にされた。
その住まいや繁殖地は、今は玄関先から10mほど先にある貯水槽を周辺だと思う。
J、封じ込めた虫。畑には支柱がたくさん立った。その竹の1本を打ち込んでいた時のこと。その竹を握っていた左手の薬指の先に鋭い痛みを感じた。その痛さは、マムシに咬まれた時の、最初の警鐘時(ボクシングのジャブのごとき、ひと咬み)に似ていた。見ると何の(指先には)異常もない。あろうはずがない。
竹の杭打ちを再開した。またチクリっと、鋭いが小さな鋭痛。見ると(竹を覗き込むと)丸い小さな穴があった。犯人は、竹を割らないと分からない。そこで、その穴に詰め物をして、この支柱を解体するときの楽しみにした。
K、徳本さん父子。転職先でどのような暮らし向きか、に私は関心があった。今の転職先で、学生時代の彼にひと汗かいてもらったこと(それが、転職のキッカケになった!?!)があり、チョット気になっていた。このような人が幸せにならないようでは、次代が思いやられる。
対話がしやすい作業を選んだ。私はクンシランの植え替えを選んだ。彼は2児に恵まれ、居を構えており、何の相談事もないようだった。次代は、農業が火急的課題になるだろうが、彼の仕事場は、農地にしうる。安堵した。
L、楽しいホテルだった。「UTAUTA=歌う田」を訪れるために泊まったホテル。ナルホド、と思った。元はある会社の施設であったからだ。
おそらく女子従業員の多くが利用したに違いない。簡素だが、あってほしいものは揃っている、とみた。
M、京都の夏至。久保田さんとある関心事があって、「似つかわしくない」と言われそうな写真展に出かけた。京都駅ビルでの開催だが、期待通りであった。男の2人連れは私たちだけ。大部分が女性だった。男性に出会えた機会は、中高年の女性が夫を伴って、だった。私のある関心事は充分に満たされた。オードリーヘップバーンは、女性に好まれる女性のように感じてきたからだ。
むしろ、帰途に予期せぬ喜びがあった。京都の夏至のあり様を(京都市街の南に位置する高所から、北に向かって遠望できる機会があり)初めて知った。
京都には1000m近い山が2つある。その2つを遠望した。夏至の日は、その東にある比叡山から日が登り、西にある愛宕山に沈む、と教わった。比叡山からの日の出は、即座に理解できた。だが、わが家から北北西に見える愛宕山への日没は、今も想像できない。
N、戦艦三笠。「UTAUTA=歌う田」で出かけた2泊3日の中日に、これもある関心事があって、戦艦三笠を見学した。この記念館の位置から皇居までの手前に、広大の米軍の基地や居留地がひろがっていた。甲板は元チーク材であった。こうしたことを知り得た後で、艦の幹部が使う部屋や施設を観た。来たかいがあった、と初めて感じた。戦艦三笠は、船どうして対峙して沈め合いをするいわば消耗品なのに、消耗品の設えとは思えなかったからだ。館長などをその細胞や臓器のように位置付けるかのような設えであった。艦が沈められるときに、艦長が、艦と命を共にする心境が分らぬでもなかった。なぜだか、農業文明と工業文明の決定的な差異の1つに気付かされたような気分にされた。
同時に、戦艦大和などを振りかえり、太平洋戦争でさえわが国は、農業文明の心意気で工業文明に対峙したわけだ、とおもんばかった。日本の戦艦は、敵の戦艦と対峙したかった。工業社会の先導国アメリカは、むしろ輸送船をねらった。戦艦大和は、飛行機で沈めた。人的被害は大和は3000人以上。アメリカは確か、16名だったかのパイロットのみ。このたび、特攻隊の理解の仕方に奥行きができたように思われた。
結果、憲法9条の堅持を日本のアイデンティティにしなければいけない、との想いが強まった。さもなければ、ニッポンがあぶない、との実感を深めた。今は、人同士の戦いに興じたり、慄いたりしている時でも次元でもない。まず、日本の座標軸と羅針盤を見直さなくてはならない。