目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 気温は乱高下、体は順調、3度の交歓
2 常照皇寺の桜見と伏条台杉探索
3 2度の交歓と、3つの事件
4 縄文の文化にあこがれれた
5 小さな巨人と百の姓
6 その他
2度の探索、多々交歓、そして3つの事件
卯月1日朝のこと。聞きなれない小鳥の鳴き声で目覚めました。満開のスモモの下でムスカリが、カフェテラスではサトザクラが真っ盛り。ハクモクレンに次いで、モクレンが花盛りに、「もう春だ」と叫んだのです。だが、ナツメは未だ新芽を出していない。
この日は、繊維業界で旧知の仲間4人が昼間に集い、酒宴に。衣料品のリサイクルやリメイク問題でも喧々諤々の仲でした。ほろ酔い加減で帰宅。夜は、庭のミツバの旬を堪能しました。
2日、フミちゃんの初来訪。妻はモンシロチョウが舞い始めた庭で、一緒に除草。私は水鉢の掃除に着手。3日、久しぶりに私は取材対象になった。昇さんが、近場で仕事があったようで、仲間と昼食でお立ち寄り。4日、義妹が長鉢で育て始めたサラダ菜の苗を、私流に活用。5日、池田望さんが来訪。庭を一巡して撮影の後、ホームページの改良。6日、昇さんと初の庭仕事。昼にSDGs関連のお2人がお立ち寄り。夜はNHK=TVで“プロジェクトX”のリフレッシュ版を鑑賞。7日、妻と2人で終日庭仕事。8日、懐かしいご夫妻の来訪。次いで未来さんに、歩き始めた子ども連れて訊ねてもらえ、お爺ちゃん気分。小雨の9日、知範さんと月記原稿の引き継ぎ。そして快晴の10日は、多田夫妻と常照皇寺を訪ね、“伏条台杉”の探索も。かく上旬は過ぎ去りました。だが、未だナツメは新芽を出さず、柑橘類の寒冷紗を外さず仕舞い。この間に、当月から始まったNHK=TVの朝ドラ『虎に翼』の鑑賞が、朝の日課のごとくになっていました。しばしば胸がすく思いがするのです。
11日は朝から“ウグイスの谷渡り”が始まり、その後2日続けてタケノコに恵まれ、春をハラハラしたり喜んだり。かく中旬は始まり、昇さんと第1次夏野菜4種分の畝作りの1日で暮れました。この間に、日本の広い範囲が夏日に。翌14日に、やっとナツメが発芽。16日にキアゲハとクロアゲハが各1頭、庭に飛来して舞ったのです。
他に、庭仕事の常連・フミちゃんの来訪を含め、10のトピックスがありました。内山さんと陶芸家ピーター・ハーモンさんがお越し。唐突に母屋の配電を止める工事人が現れ、仰天。さちよさん(ご自身で布団の上げ下ろしもして下さる)が出張の帰途、立ち寄り、泊って下さった。妻と『ゴジラ-1』鑑賞で外出。下村知範さんとともに長津親方を訪ね、匠の祭典収録動画の手直しに。商社時代の関東圏同期生の月次ズームMTGに初参加。望さんが「匠の祭典」収録写真集などを届けて下さった。お向かいのピーター・マクミランさんとある相談事。そしてデンマークの夏代ブラントさんと門夫妻の来訪でした。
下旬は雨で明け、土橋ファミリ-を迎えながら、歓談のみ。月末も雨で、歯の記念すべき処置で終わったのです。この間のトピックスも10でした。22日から知範さんと、諏訪経由で富士見町まで知友夫妻を1泊2日で訪ね、一帯の縄文時代の息吹を探索。この留守の間に、緑で鬱蒼となっていた庭で、夏野菜4種第1次分苗の植え付け。ある訪問予定が急遽中止に。ある老人と「難問」の相談。幼馴染と老後問題で面談。市民検診結果を町医者から聴く。佐久間さんの来訪。そして、昇さんは、1時間ほど私が留守にした間に、コイモの作付けを1人で1から10まで完了。加えて、久保田さんとソバの賞味とミニコンサートで外出。翌旗日も昇さんを迎え、新たな夏野菜用の畝を4畝仕立て上げたのです。そしてこの間の28日に、ある老人が3度目の来訪。最悪の結末を聴かされています。
夏野菜の準備に目鼻をつけ、加齢対策への配慮を1次元高め、日本人の弱点を追認したり骨休めの意味を骨身に染みて体感させられたりした1か月でした。
~経過詳細~
1.気温は乱高下、体は順調、3度の交歓
卯月1日朝のこと。中庭でムスカリが、テラスでは鉢植えのサトザクラと水槽に生けたスモモの剪定クズ(2/16に剪定を完了し、日陰で40日ほど養生させ、3/27にデビューさせた)が、それぞれ満開になった。
ハクモクレンのわずか5日ほどの満開期に次いで、モクレンがバトンタッチ。"個離庵"の前では、ハダンキョウに次いで、側の朱色のボケがやがて花盛りになりそう。
フミちゃんは、大水鉢に生けた“源平枝垂れ桃”の盛りを、なんとか見届けるこができた。
だから、「もう春だ」と叫びたいが、中庭のナツメ(降霜の指標樹)は未だ新芽を吹かず、遅霜が心配で、叫ぶに叫べず、柑橘類の白い霜よけの寒冷紗を外せなかった。
2日、かつて繊維製品のリサイクル問題で力を合わせた仲間の4人が、久しぶりに集う機会があった。2000年ごろは、消費者が手放す衣料品は100万トン近くあり、多くは廃棄されていた。だから、リサイクル法を適用すべきか否か、を審議した。その頃、低価格のファーストファッションの需要が旺盛になっていた。そこで私は、衣料市場は売り上げ総金額は減少し、総廃棄量は急増する、と予測した。
その後、この予測は、失われた10年あたりまでは的中していた。だが、2022年度の統計では総廃棄量は75万トン弱に大幅減。これが嬉しい予測ハズレであった。失われた30年は、コロナ騒動もあってか、消費者意識を大きく変えたようだ。おかげで、リサイクル法を適用せず、との提案(判断)がまんざらではなかったようなことになった。
宴が終わりに近づいた頃に、お1人が、かつて勤めていた会社(社友会?)から「還暦祝いが届いた」とほほえみ、私もほほを緩ませた。社友会から届く機関誌が、懐かしくなる年頃になっていたのだから。
3日は久しぶりに、取材が入っていた。若者に農的生活を勧め、広げたく願っている人だった。
4日、義妹がサラダ菜の苗を長鉢に密植していた。一刻も早くカフェテラスに鉢ごと持ち込んで用いたいのだろう。その苗を3分の1ほど間引き、畑の短い2畝に直に植え直した。ならば収穫期間と収穫量を共に3倍に出来るに違いない。この願いは、下旬になってからのことだが、ほぼ願った結果に結びつけられそう、と知った。
菜花が盛りの5日、望さんを迎え、HPの改良他3つのテーマでお世話になった。
その後、この日はある相談事が持ち込まれた。迎えた「老人」は、ある「市」の1つの「自治会」で生じたトラブルに巻き込まれていた。そのトラブルは、元をただせば市が自治会住民の存在を無視して、1つの権利を剥奪したに等しい事件だった。そのあらましは次のごとし。
迎えた「老人」は前日、お住いの「自治会」の新年度第1回自治会役員会と称する集いに、「新自治会長」の名の下に参加を求められ、参加した。その場で驚くべき報告を受けたことが事の発端だった。自治会が「わけ」あって長年取り組んで来た「公園」の清掃業務を市に移管した旨と、これも「わけ」あって公園に設置した自治会の「倉庫」を撤去する計画を、新自治会長が「決定事項」として報告したからだ。
これらのわけに精通していた老人は、その場は場違いだったし、発言を求められたわけではないが、公園の「掃除」は止めてもよいが、倉庫を自治会が自ら撤去することだけは止めるように、と穏便に「忠告」した。それは老人が、新自治会長がこの問題を、この決定事項を穏便に撤回できるように、とおもんばかったからだ。
四半世紀前のことだが、市は自治会の域内にある唯一の公園を、自治会に諮らず、都市公園から地目を宅地に変えて、域内で「広大な土地」を取得し、「豪邸」を作り、新規に住み始めていた1人の住人の所有物にした。そうと知った自治会は、自治会全員に参加を呼び掛ける「総会」も重ね、無記名での賛否も問いながら「総意」を形成し、公園として守るための「活動」に取り組むことを決めた。
まず、自治会の代表2名は当該法務局を訪れ、地目を宅地への変更をなぜ認めたのかと、そのわけを聴いた。法務局は市長印があれば、現場検証をせずに認可することになっている、と答えた。自治会長は、公園は今も公園のままだ、と指摘した。法務局は即座に現場検証をしたようだ。直ちに地目を公園に戻した。
そうと知った市は「公園に戻っても掃除などしてやらない」と電話で自治会長を恫喝した。自治会はまた総会を開くなどして、いわば「巨悪に一矢を報う」覚悟を固め、公園の掃除を総意で決めた。同時に、掃除道具や地蔵盆用具なども入れた自治会の倉庫を、活動拠点の「橋頭保」として公園に運び込み、自治会の「コンセンサスの象徴」と位置付けたのである。
以降今日まで、延べ20数人の自治会長が引き継ぎ、自治会長の下に自治会有志が集って掃除を四半世紀にわたって「定期行事化」してきた。自治会のいわば「文化」になったのである。だから老人は、この度の決定事項をコンセンサスが崩壊しかねない問題として受け止めていた。そこで私は、老人の忠告が活かされるに違いない、と期待する旨を伝えて、辞してもらった。
ちなみに、老人が所属する自治会は、自治会長はもとより、自治会役員は全員が輪番制の1年任期で、互選によって就任する。輪番制1年任期の弱点保全のために、自治会長の下に常任の「専門委員会」を組織してきた。自治会の委員は、単年度ごとの対処に努める。多年度にわたりかねない問題は特例の「案件」として専門委員会が引き継ぐことにした。
専門委員会は、かつて広大な水田が集合住宅地としての開発が始まった時に結成された。結果、この物件は豪邸や公園になった。だが、今日まで専門委員会は一帯の環境、景観、あるいは歴史などの破壊を防ぐ役目を背負い、案件が生じたり案件に大きな変化が生じかねなくなったりすると自治会委員と「合同委員会」を開くなどして活動してきた。
また、年度が切り替わる時は、新旧全委員が「引き継ぎ会」を開催し、新年度委員候補が新年度委員に就任し、始動する。こうしたやり方で、自治会は40余年にわたって運営されてきた。老人は専門委員であった。
ちなみに、このたび新会長が、かつて「専門委員会長を引き継ぎたい」と自薦したことがあった。その際に老人は、「文化の継承とタフな相手とハードな折衝を覚悟しておくことが必須だ」と、諭していた。
6日(土)はこの事件の他に、昇さんを始め顔見知りの多くの方々(SDGs関老人は連の人など)と交歓の機会を得ている。昇さんは“新兵器(小型のバッテリー型ソー)”と斧を活かす仕事(土手の木の切り取りと薪割り)に取り組んだ。私はその助手(その昔は、妻が引き受けていた薪運びや積み上げなど)。妻は除草と飲食の世話係。
かく6日間が過ぎ去った7日のこと。妻が「こんなツバキが、庭で!」と、見慣れぬ2種を見つけてきた。植えたことすら忘れていた栽培種だった。思案の末、一時ツバキに興味が湧いてことがあり、“天神さん”で苗木を買った記憶が、おぼろげだがよみがえった。
その後、おカネで買えるものは所詮、との想いが芽生えてしまった。
ヤブツバキを見て回った。この庭で自生したヤブツバキが、この時空が生みだした色違いの“色白タイプ”が健在であったことや、色黒タイプ(黒ツバキに近い)の木が1本増えていたことを知った。
10年ほど前に、庭で自生のヤブツバキの花を拾って回り“色揃え”をしたが、その時の写真で、当時の天然の多様性を振り返った。
そのおかげで、当時、オシベの変わり種が誕生し、喜んだ記憶も写真でよみがえった。だが、今やこの木がどこにあったのかさえ思い出せず、行方不明。われながら、我が好みや関心の移ろいに驚ろかされた。
その頃のことだ。妻はクリスマスローズの苗を10数本買い求めて来て、中庭のスモモの回りに植えた。そして、髪染めを止めた。還暦記念であった。
そのクリスマスローズは今や、一帯の石の隙間などでも自生するまでになっている。妻は髪染めの呪縛から解放されたのか、飛来する野鳥など野生の生きものとさえココロが通じるかのごとくになり、この時空の主、昔の「山の神」のごとし。
その昔の日本では、嫁ぎ先で女性の多くはいつしか“山の神”と呼ばれるようになり、“山の神”が一家の文化を受け継いでいた。妻が、“這性ローズマリー”の小さな苗を、井戸枠花壇の1つに植えたのもその頃だった。今や大きく育っており、魚のソテーなどでも活かされ、その芳香を誇るようになっている。この井戸枠花壇は、シーズンごとの模様替えは不要になったし、妻の手料理はまるで“おふくろの味”になった。
もう1つの井戸枠花壇では、意識的な加齢対策が功を奏した。終生手入れ不要の友としてクリスマスローズを主に、少しヒヤシンスを選んだ。今や勝手に華やいだり、種を周囲に振りまき、華やかせたりする間柄になった。
8日の朝一番のこと。テラスの大水鉢の模様替えをした。前日、花期が終わった“源平枝垂れ桃”を妻が抜き去ったので、“ハナモモ”に入れ替えたわけだ。
これは3/16日に昇さんが剪定で切り取り、側の防火用水バケツに生けたもので、その後私が18日に、日陰に移したもの。そこで3週間養生させてきた剪定クズだった。この間の4/2に、1~2輪咲き始めていた。
この日は昼前に、喫茶の来店客から「ご主人は?」との声をかけていただけた。着替えて、お目にかかって「やァー」と互に手をかざした。夫人はかつて妻の人形仲間。ご夫妻を一度BBQにお出掛け頂き、手土産の自社製品を参加者に配っていただいた。この日、共通の友(商社時代の同期生でアメリカに永住)の消息が分かった。
昼下がりのこと、お爺ちゃん気分に恵まれた。未来さんに、歩けるようになった子ども連れで訪ねてもらえた。母親似か、物おじしない女の子だった。
10日は、多田幸浩さんと常照皇寺に出かけた。この日は朝に、庭でワラビを摘み、アオキの茶色くて小さな花を愛でた。
翌日から、タケノコに(朝掘りに始まり)多々恵まれ、庭では自生のミツバなどが旬を迎え、今年も好物を堪能させてもらえそう。
11日、ウグイスの“谷渡り”で明けた。この大声で長きにわたる叫び声は警戒音声だ。ヒナは順調に育っているのだろう。わが家の庭でかつて生じたことを振り返った。
13日は日本の広い範囲で夏日になった。約束の時間に内山さんとピーター・ハーモンさん(白磁では屈指の陶芸家で、茶道の名取りでもある)に訪ねていただけた。内山さんはピーターさんの長年のファンで、私はこのお二人の共通の友になり、互いに “泊りがけの仲” になった。
夏野菜の準備が遅れ気味だったので、野良着姿のまま、昇さんと一緒に出迎えたわけだ。昇さんは、ピーターさんの2つの新作シリーズ(色使いとヘラ使い)にとりわけ興味津々だった。
卯月14日の昼のこと。昇さんが再訪。ヒノキ林で常緑樹の落ち葉カキを、これまでにない配慮(近年のゲリラ豪雨対策)の下に実施した。妻は庭掃除に当たっていたが、「もういいでしょう」と言って(霜が降るようなことはないと見て)柑橘類の寒冷紗を一人で外して回った。
落ち葉カキの後でナツメは? と観ると、新芽を吹き始めていた。
翌朝、まず私は2種のエンドウマメの霜よけカバーを外しただけで、庭仕事は控えた。体を休ませる1日にした。この日、急に真夏日を迎えたような1日になったのだから。
中庭ではイタリヤンベルフラワーが咲いていた。書庫の側では原種のチューリップとオーニソガラムが久しぶりに咲いた。かくして月の半ばを迎えた。
2.常照皇寺の桜見と伏条台杉探索
彫刻家でもある多田幸浩さんに同道を求められていたが、10日にご夫妻と常照皇寺を訪ねることになった。まず、サクラ“御車返しの桜”と国の天然記念物である“九重桜”をもう一度眺めたかった。次いで、檜皮を剥かれたヒノキを視直し、わが心境(先月わが庭で体験した檜皮剥きの後)の変化を自覚したかった。その上にもう1つ、多田さんのおかげで、この目で確かめたくなったことが生じていた。
多田さんとは“匠の祭典”で知り合った間柄。酒を酌み交わし、意見を掘り下げ合ったこともある。誠実な方で、職人魂に加え、創作者としての魂も兼ね備えた人。その人の提案で“片波の伏条台杉群”(歴史的な役務に供された古木で、巨樹でもある台杉)を探すことになり、3番目の再訪目的にした。
当初は14日を決行日に選んでいた。その後、13日は全国的に夏日になるなどの影響で10日に繰り上げた。わが家には、ヤマザクラが4本(内3本は小鳥の糞から自生)と、3本のベニシダレザクラ(内2本は記念樹)があるが、ベニシダレザクラは7日に満開になった。
決行日は快晴ではなく、常照皇寺の立地(京北の片波町)を勘案し、少しハラハラしながらご夫妻の車を待った。車は順調に走った。
たどり着くとまず案内板を読み直した。改めて一帯の「人為的」とおもわれた不可思議な森林分布に興味を引かれた。
山門を目指して階段をのぼった。すぐに、檜皮を剥かれたヒノキが視界に入った。その数は増えていた。わが心境の大いなる変化に驚かされ、反省の念にすら覚えた。
前回の可哀そうから、「スッキリしたネ」と、心の内で呼び掛けていた。その昔の「早く大人になりたい」と願った頃のわが身を振り返った。新たに檜皮を剥かれた太いヒノキが、とても誇らしげに見えたのからだ。
山門のくぐった
唐門を仰いだ。
寺務所の屋根にも“むくみ”があった。その手前には小さな八幡宮があり、自然石を敷いた道は歩みがたく、前回よりも険しく感じた。
サクラを「早く、」とのはやる心を押さえて、内部の見学を先にした。仏壇を天井から吊り下げた構造で、中空の仏を拝む様式に「観たことがありませんねぇ」と多田さんもつぶやかれた。
方丈から広縁に出て、縁先のサクラを観て「早すぎたかナ」
一番奥の舎利殿に至った。ここでも中空から仏像に出迎えられる。奥の間に踏み込んだ。多田夫妻も、しばし佇んでおられた。この間の仏は、まるでミイラであるかのような印象をこのたびも与えた。解像度の高いカメラを持参すべきであった。
この寺の普請に当たった大工は、あるいは施主は、よほど中空にこだわったようだ。
庭に回った。
最初に出迎えるサクラは“御車返しの桜”を挿し木で増やした、と思われる樹齢40~50年の後継(?)の木だろう。まだ蕾が膨らみかけた状態だった。前回は古木(親木と見る)と一緒に咲いていたが、と首をひねった。
歩を進めると、すぐに満開の九重桜が視界に入った。ここでは「記念の記の字が、どうして“紀”にしたのでしょうか」と多田さんも気付かれ、二人で首をひねった。
さらに奥に踏み込んだ。やがて、見るからに「ご苦労様でした」と言いたくなるような古木と再会した。多田さんは「みんな一重に見えますが」と、おっしゃった。
前回は同道の知範さんと、「ありませんねぇ」と一重を探し回ったことを振り返った。
時を変え、観る相棒が異なった拝観のありがたみに感謝しながら、見学を終えた。帰途、檜皮を剥かれたヒノキを改めて眺めながら、なだらかな山肌を下った。
この再びの拝観での最大の喜びは、檜皮を剥かれたヒノキの気持ちを、これまでとは異なる視点から推し量っている己に気付かされたこと、と総括した。
私たちは、電灯の発明や照明の発展によって、視覚に偏重した生き方に、つまり「観たらわかる」の意識に誘われ、今日のような世の中に、いわばトリックを歓迎し勝ちに、誘われていたのではないだろうか。だから衣服を肌の上の飾り物になどと、考え始めた?
伏条台杉探しが始まった。
山道を車で随分分け入った。未舗装の離合できない道に入った。多田さんは、伏条台杉のことを、この一帯の管理や監督面で関わり、仕事上で精通している共通の知人から教わられたようだ。「そこ(常照皇寺)まで行くなら、ついでに」になったようだ。
ついに車は停った。軽四輪車を反転させ得る場所だった。幸い、ケイタイがつながった。「ならば」とその精通した人に問い合わせた。
さらに分け入ることになった。耳が、標高が相当高くなったこと教えた。やや日差しが増した。植林された針葉樹海を抜け、落葉した雑木が豊富になっていた。白い花をつけたコブシが点在する山肌を駆け、ついにコブシを見下ろす体験が始まった。
今度は忽然と山道が広がり、舗装が視えた。ほどなく車がまた止まった。「ここでいいんだ」とおっしゃるところで車を降りた。通せんボのロープが張ってあったからだ。
そのロープは、容易に手で外せたし、そこから2車線の舗装道だった。だが、「歩いた方がいいんでしょうね」とおっしゃる多田さんに着いてなだらかな坂道を、過去を振り返りながら、上ることになった。
アゴが出始めた。先を行く多田さんが「これでしょうかネ」と、道の側に立ち、山から見れば下った方の側に生えた巨木を指さし、奥さんに話しかけておられた。夫婦間の言葉遣いが丁寧だ。
立ち止まったご夫婦の側にたどり着き、「来た甲斐がありました。これで想像がつきます」と私は、今から考えれば、愚かな発言をした。
その昔、スギの巨木が台風か何かで折れ、倒れた。その後で、スギはヒコバエを芽吹かせ、再生した。その姿がヒントになり、台杉産業がこの山の裾部で始まったに違いない、が私の想像だった。そう想い込みながら、さらに舗装道を多田夫妻の後を追うようにしてさかのぼった。
次々とそれと思しきスギの巨木があった。だが、人工的な台杉のような複数のヒコバエがそびえたつ巨木には行き当たらなかった。それで当たり前と思った時に、多田さんは不満げに「素人の私たちには探せないんでしょうね」と語り、引き返すことにした。
だから私は、その後は、2つのことに留意して後に続くことにした。
その1つは、2車線の舗装道路が途中で100m余も途切れていたが、その確認だった。舗装したゼネコンが異なっていたのでは、と睨んだからだ。
2つ目は、登って来た折に、山の高みの側に視た巨木を、今一度観察することだった。「あれこそは」と、気になっていた巨木があったからだ。
かくして探索は終わった。帰途、多田さんはやや不満げであった。私は充分満足しており、異なる興味に駆られていた。直ぐに舗装道路は切れた。次第に細い山間を縫う地道になったからだ。
その昔の、ある審議会での経験(同じように、山間に舗装道路や谷あいの陸橋を、とぎれとぎれに作ってしまった)を振り返りながら、車窓から山道を観察した。
後日、多田さんからのメールに、1枚の写真が添付されていた。それは後日、“京都京北ナビ”で知ることになる。
私も調べた。私の想像・自然現象がヒントになった、はゲスの勘繰りであった。
1本のスギの切り株から数本の幹を育てる杉を台杉と呼ぶが、この台杉の巨大化したものを“伏条台杉”と称するようだ。私たち3人が訪れた一帯は、御杣御料(皇室の御料地)として古くから守られてきた所で、長岡京や平安京の造営時や御所炎上時に、膨大な建築用材が必要になり、この地から供給されたという。
南北朝時代から放置されたこの台杉仕立ての杉は、大きくなり過ぎてしまい、用材としての価値を下げ、伐採の手から逃れ、今日に至っていた。つまり、天然ではなく、人為的な古木であったわけだ。勘ぐりを恥じた。
“京都京北ナビ”は、多田さんが送って下さった写真の他に、幾本かの伏条台杉を紹介している。
どうやらその1本は、この度の探索往路の時だけでなく、帰路でも気になって(「これぞ!」と思って)写真に収めた株ではなかろうか。
ちなみに、御料地は明治時代に入って解体され、民間に払い下げられていた。だから、忽然と山の中に、誰も使えそうにない2車線の舗装道路(途中で100m余途切れた)が現れるような事態に、無駄に、供させたのではないか。
それはともかく、天然と人工を、余念をもって見間違え、既製概念にしかけていたことを痛く反省した。これがこの日のなぜかご褒美のようにおもわれた。
3.2度の交歓と、3つの事件
コウシンダイコンの花に混じって、自生化したケシの第1輪が咲いたのは、好天の16日だった。
テラスでは鉢植えのオオカナメモチが初咲き。堆肥の山に生ゴミを捨てに行くと、"サンクチュアリー"はショカツサイの花畑になっていた。
ブルーベリー畑ではイチリンソウがジュウタンのごとし。その側でキイチゴが、パ―キングではジャーマンアイリスやキランソウ(別名イシャイラズ)が咲いた。
喫茶店の階段を覆うフジが、今年は見事に咲きそうだ。
この日は、朝はフミちゃんの、夕はさちよさんの来訪に恵まれた1日になった。そして昼間にはキアゲハが、次いでクロアゲハが庭に飛来した。共に初のお目見え。正確には初の目視である。
実はこの日、小さな事件が生じた。5日に持ち込まれた騒動(コンセンサスの破壊事件とみた)に次ぐ、2つ目の事件だった。これは、"6、その他"で、造語・ライフラインを発想させた潜在意識!?! と題して触れる。
17日は午後に、知範さんと長津親方を訊ね、匠の祭典・第5回の記録動画について親方のご意見を伺い、知範さんは微調整に入った。
18日。朝はイカルが「ツキ・ホシ・ヒー」と囀り始めた。三光鳥とも呼ばれるずんぐりした鳥だ。わが家の庭でよく営巣する三光鳥(目の周りが青く、尾が黒くて長く、小柄で細身)とは別物で、その鳴き声は「月・日・星」と私には聞こえる。
昼間は商社勤め時代の、主勤務地が関東中心の同期生と、ZOOMでのカジュアルトークに興じた。NYの仲間が加わったことで昼間に実施、になったとか。またこの集いの永年幹事は、初期アメリカ出張時に、家族で駐在中のお宅に呼んでもらったりした人だった。
これまでは大阪勤務者が主の同期会に出ていたが、コロナ騒ぎと幹事の健康問題などで頓挫していただけに、嬉しかったし、楽しかった。
夕は、お向かいのピーター・.マクミランさんと有機物の循環問題などを語らった。
19日の朝、ナツメにクモの子が営巣し、初夏を思わせた。同時に、ナツメも随分用心深くなったものだ、と同情した。卯月は押しなべて言えばとても暑い日々がつづいていたたが、弥生に似て、気温が急に乱高下した。だからナツメは、降霜の怖れを警戒すべきか否かで迷っていたのかもしれない。
この日は、デンマークで2度会した仲間が、わが家で会するという3度目の幸にも恵まれた。夏代・ブラントさん(デンマークの子育てや女性問題などの著作でも知られる)が来日される機会を活かし、立ち寄って下さったからだ。
しかも、これにあわせて門夫妻(医師と薬剤師のカップル)が、鳥取から駆けつけくださったおかげだ。この参集ではありがたい余録にも恵まれた。
まず、ゆかりさんが私たち夫婦のために1冊の本を持参してくださったし、お三方を庭案内にお誘いできた。
かつて私は門院長を頼って、心臓疾患の定期検診病院を替えた。やがて先生は移動。後任の世話になっており、不満はまったくない。だが、わが身の心臓よりも、妻の心労の方がはるかに気になるようになった。そこでこの度は、この定期検診を、歩いて行ける町医者に切り替える案を相談した。
常日頃から、総合的に身体的疾患を診てもらい、臨終に立ち合い、頓死の場合も飛んできて、確かなる診断を下してもらえる医師を持ちたくなった。歳が年だけに、これまでの方針(少々のけがや病気は自分たちで加療)を改め、足しげく行き来する間柄の医師を、妻共々作りたい。
どうやら国は、主治医制度(?)を勧めているらしく、両医師との相談を勧められた。デンマークではそれが当たり前のようだ。
楽しいだけでなく有意義な時間だった。再会を期し、締めくくった。
20日(土)。昇さんと、夏野菜用の畝を、取り急ぎ4カ所用意した。耕して、腐葉土を運んで来て、畝に被せておく、が昇さんの担当。私は、この前と後の作業が担当。前は、耕せる状態の畝にまで(長けた夏野菜を抜いたり、野草も取り去ったり)しておく。後は、被せられた腐葉土に、灰や油粕などを足し、鋤き込んで苗を植え付けられる状態にする作業。
21日は、土橋一家を迎える日であったが、また雨にたたられ、歓談で終わった。手土産に湯がきあげたタケノコも下さった。借りている農地の一角で「採れた」とおっしゃる。
22日から2泊3日の旅に知範さんの車で出掛け、諏訪湖を経由し富士見町にたどり着いた。大垣時代の友人・安田夫妻の世話になる旅だった。このご夫婦は“理想の余生”と私がみる生活を営んでいらっしゃる。
大垣時代の私は、大垣市環境基本計画など同市の多くの環境政策に関わらせていただいた。その一環として“大垣市環境市民”という団体も立ち上げ、安田さんに支えていただいた。この旅は、次の4で詳述したい。
24日は小雨で明けた。庭は、たった2日間の留守の間に緑でうっそうとしていた。この日は予定していた約束が急遽とても辛い理由でキャンセルになった。友人と行動を共にする訪問予定だった。電話で急遽「延期してほしい」と知らされた。そのわけは、そのお宅が迎えていた親戚の老人が、寝所で予期せぬ突然死。救急車の通報で警察も駆け付け、検死対象にしたという。
この件は、私にとっては由々しき事件におもわれた。最も悲しんでいる人が、まるで容疑者のような扱いを受けたようだ。"人間の尊厳を踏みにじる事件"のごとくにおもわれた。
この一件は、私の背を(心臓の定期検診を病院から町医者に替えるべし、と)強く押した。と同時に予期せぬ空き時間を生じさせた。
小雨が降っていたが、夏野菜5種の苗を買い求めに出かけ、第1次分として4種の苗(ナスとキュウリ各2本、トウガラシ3本、そしてトマト5本)を直植えした。オクラの苗は、複数本が固まって発芽したポットだったが、秘訣を駆使して1本ずつに分け、1本仕立てにし直して、養生させた。
次いでトウテイラン(土替えを3年も放っていた)は新しい芽を2本しか吹かなかった。そこで、挿し芽をして発根させる方式で、再生に手を着け、遮光カバーを被せた。先月、瀕死の状態だったテンモクジオウを、これは植え直す方式で見事に再生させたので、気を良くしたわけだ。
25日は朝一番に、コンセンサスの崩壊を怖れる(5日に迎えた)老人が、資料を手にして再訪された。資料は、自治体が4月15日に発行した回覧板で、見出しは「公園の掃除を市に移管しました」であり、来たる27日を公園の最後の清掃日にして、倉庫を撤去する、と記されていた。
こうした回覧版は自治会長が発行し、あるいは案件が絡むときは専門委員会長と連名で発行し、複数の組からなる自治会の組ごとに各戸回覧する。この回覧と回収は各組長が当たっている。
老人は忠告を受け入れられなかったことを憂い、回覧板に閲覧印を押さず、回覧板の巡回ルールに沿ってお隣に、しかるべき事情を伝えて回した。その回覧板が、老人宅に戻された。老人宅とお隣さんが間違って飛ばされたようだ、とのメモが付いていた。見ると、お隣も押印せずに回していた。
お隣は居住後間がないので、ことを荒立てずに、ただし正当に収めたいもの、との意向の表明と推測した。同時に老人は「まだ間に合う」と胸をなで下ろした。
早速、回覧板を当該組長に、この旨の説明をそえてそのまま手渡した。
当該組長は27日の公園の掃除日までに、老人と接触することを新自治会長に勧めていた。
加えて、とある人が20日近くも前に、更なる手を差し伸べていたことも知った。この人も「総会を開かずに」ことが勧められたことを重大視していた。この人は、自治会の決まり事やこの件の歴史などに精通した老人と意見交換することを自治会長に勧めていた。
老人は、新自治会長が目覚めて、コロナ渦での変則もコロナ渦以前に戻し、倉庫の位置づけを尊重し、これまで通りに自治会の誇りの象徴として率先して守ってほしかった。
つまり、なぜ市が、市の公園にある自治会の倉庫を自ら撤去しないのか、自治会が撤去することを望むのか、を当然疑問視するものと期待した。つまり倉庫の位置づけは、国家間で例えれば、まるで大使館ではないか。
老人は27日の公園の掃除日までに、新自治会長の覚醒を期待して待つことになった。
25日は、次の来客は10時だった。小学生時代からの旧知の仲で、私が持ちかけた相談に応えて訪ねもらえた。今は一線から手を引いていらっしゃるが、老人介護問題に関する権威者だ。
老人介護問題の根本は「心や身体をその道のプロに委ねるか、主体性を尊重したいのか、の二者択一の課題」ではないか、と理解した。
26日、朝一番に、年に1度の市民検診結果を聴くために町医者を訪ねた。看取り医に、そのためにまず家庭医に、と願っている医師だった。
10時に、佐久間さんを迎えた。過日の豊島の旅での忘れ物を、幹事の岡田さんから預かっていた。よき歓談の一時になった。
午後は畑に出て、まずアイトワ菜を主に長けた冬野菜を3種に選別(種をとる5本、小鳥の取り分の10本余、その他の大量は堆肥用に)した。この畑に残す計10数本に竹の支柱を立て、倒れないように縛った。次いで、選に漏れた大量の長けた冬野菜は、順次堆肥の山に積み上げるが、まず一輪車3台分を抜き去った。
これしきの作業でヘトヘトになり、切り上げて、今年最初の“夏場の楽しみ”を享受した。この日は、半年ほど熟成させ(てしまっ)たチーズと、薄切りにしてカラカラに焼いたパン、そしてビールのとりあわせで、正に醍醐の味だった。
27日(土)は9時に昇さんがみえて、終日畑仕事。冬野菜用の畝を耕し、腐葉土を取り出して畝に被せる。私は畑の周辺部(除草を後回しにしていた)の草を刈り、その側で育てているイチジクやシャクヤクの置き肥にした。
妻はイノシシスロープなどの庭の除草と、3人の昼食と2度のお茶の準備、そして喫茶店が混んだ時の皿洗い。夜は洗濯物をたたんでいた。
28日の朝一番に、また老人を迎えた。
前日あった公園の掃除は、新自治会長が手配した倉庫を撤収する業者が見守る中で強行され、そのやり方は傍若無人にさえ見えたらしい。
ことここに至る過程で知り得たこともあった。まず老人の悩みを知ったある人が、公園の"掃除の廃止と、倉庫の撤収"について18日ごろに新自治会長に質したらしい。結果は「皆と相談して決めた」との返答を聞かされ、老人がごてているだけ、と見たらしい。「皆と相談して・・・」の皆の中身が、「自治会から見ればごく少数の新役員」に過ぎない事をこの人は確かめなかったようだ。
もっと残念なことがあった。自治会は掃除を「権利」として見定めて実行し、四半世紀にわたって公園を堅持してきた。だが、新自治会長は就任前から、自治会長然として「義務」と言い換え、義務から解放すると呼び掛けており、このたび倉庫まで自ら取り除いたことだ。これは案件の重大な変更だから専門委員会で諮り、合同委員会の同意を得て総会を開き、コンセンサスをもって実施しなければならない。
正式な自治会長といえども、独断での決定権は何1つ許されていない。いわんや自治会の私有財産である倉庫やその中身を、総会どころか合同委員会さえ経ずして処分してよいはずがない。倉庫を自治会が自ら一旦撤去したら、公園が駐車場にされたり、第三者に貸されたり売却されたりしても、自治会はこれまでのような強い立場で公園を守ることはできないだろう。
この日、朝日新聞の朝刊コラムが 『折々のことば』で“時を得たような意見”をとり上げていた。老人は、老人の想いを言い当てた文章と見ていた。
老人に対して「分断が始まった自治体をいかに修復するか、に努めざるを得ませんね」と慰めながら、一縷の期待を寄せたわが身を、慙愧に耐えないおもいで見送らざるを得なかった。
この日は11時から、久保田さんに誘われた外出予定があった。昼食は久保田さんと大原野神社の境内にある蕎麦屋“そば切り こごろ大原野”での“あら曳きそば実に美味しい。
2時から"啄木舎"の代表で知人の谷口さん(チェンバロの名製作者としても知られる)が開いたサロン「プリマヴェーラ大原野」で開催されたピアノ演奏会に参加した。。下村彩菜さんの演奏が、リストの『愛の夢』に至った折は、夭逝した親友のピアニストが思い出されたこともあって、高揚した心境に。
他に、オルゴールづくりの名手が自作の電動式オルゴールの披露や、誕生日を迎えた人のハッピーバースデーの余興も楽しかった。
29日は、午後3時過ぎから雨との予報であったが、昇さんを迎え、新たに4つの夏野菜用畝作りに取り組んだ。私はまず、前回彼が耕し、腐葉土を鋤きこんだ畝の最後の仕上げをして “畝の完成形”として彼に見てもらった。
この日は2時から1時間、ピーターさんのコンポスト対策の相談に乗ることになっていた。それがヨカッタ。昇さんはこの1時間の留守を活かして、4つの畝を昇さんなりの完成形にまで仕立て上げていた。畑は半ば夏の装いになった。
月末(土)は雨で明けた。身体がギクシャクしており、歩く姿はロボットのごとし、であった。
10時に来客予定があった。その人は「時代は芸術!」と見て、サラリーマンしながら就学できる芸術大学に40歳を過ぎて入った。話題はおのずと、未来志向になった。NHK=TVの「虎に翼」と“プロジェクトX”のリメイクを高く評価しあった。
フミちゃんには、雨が上がったと見て、2時に訪ねてもらえた。
4.縄文の文化にあこがれれた。
自宅を22日の朝7半に発つ。昼食は駒ヶ岳ICで天ざるソバ。ロボットが運んできた。品を取り出して背面の“完了”ボタンに触ると、去ってゆく。
諏訪湖畔で一休み。知範さんは初めての諏訪湖だった。前回より水が濁ったように、私の目には見えた。
出発から4時間余で友人の拠点にたどり着いた。まず「一番うまいところを!」といって、デンマークのブタとアンデスのピンク色の塩、そしてサクラの木片だけで作った本物のベーコンを切ってもらえた。うまい。ビールにもよくあう。
勘を尊重し、より磨くが故に、品質にばらつきが出ないようにコンピュータでの管理も徹底。
小鳥の飛来も大事にする庭を後に、近隣をドライブ。縄文時代に栄えた地域であり、ここがフォッサマグナ地帯だとも知った。
縄文遺蹟がそのまま残っていそう、と期待した最初の探索は、車を捨て、小川に沿って、なだらかな坂道を登り始めた。やっと“あと400m”にたどり着いたあたいから水芭蕉やクリンソウ、あるいはトリカブトなどが目に飛び込んで来た。
最後の100歩ほどでは「来年なら、登れなかったかも」と呟いた。急な山肌を登った先に黒っぽい大きな岩が壁をなしていた。 “ほこら”があった。その岩肌から清水が染み出し、流れていた。子どもは口をつけて飲んだことだろう。
縄文早期の人だけでなく、その後も様々な時代の人が暮したようだ。窪みを背にして一帯を見渡した。足元には、ヒトリシズカが髄所にたたずんでいた。
帰路、弥生人や江戸時代の人は、どのような事情で、どのような人がここに、などと思いを巡らせた。往路では気づけなかったが、山野草の宝庫でもあった。カタクリの花さえ、往路でのはやる心は見落とさせていた。
再び車の人になり、洞穴を背に一帯を見下ろした時を振り返った。古代の子どものはしゃぐ声が聞こえたような気がした時のことだ。この錯覚が最も強く心に残りそうにおもわれた。
次いで片倉館で“千人風呂”に浸かることになった。
湯舟は胸元までと深く、底に黒くて丸い小石が敷き詰めてあった。ここ諏訪の工場まで、田舎の故郷から勤めに出てきた工女たちは、古代ローマの浴場のごときこの風呂で疲れた体を癒しながら、「おばあちゃんに、一度でいいからこの風呂に・・・」などと親元に想いを馳せたことだろう。
親に、いわば売られた身でありながら、月々仕送りをし、盆と正月には土産を背負い、何10kmもの道のりを歩いて往復した、と書物で読んだ。文化が人々の心をつないでいた時空、「水を汚してはならぬ、タラの芽を採る時は…」などと、自然やしきたりを守る厳しかった生活に想いを馳せたことだろう。今の自分の生き方は「いつかバチが当たる」と、落ち着かない気分になったかもしれない。
この日は、GRÜNのヒゲ爺こと安田瑞彦さんに、この地を選んだわけも伺った。医者の家系で、ご子息は諏訪の病院勤めだった。異色の道に進んだ瑞彦さんが、本物のベーコンに余生を捧げた気概がより深く理解できた。お手製のハムやさまざまなジャムもご馳走になった。
翌23日は早起きした。欲張って“尖石縄文考古館”と“黒曜石鉱山展示館(星くそ館)”を昼までに訪ねたくなったからだ。
現実は、この前と後で、私にとっては2つのドラマが待ち受けていた。
まず朝のこと。聞きなれぬ小鳥の大きな鳴き声は、ガビチョウ(画眉鳥)だと知った。次いでその何たるかを、そして願った通りに手の届きそうなところまで飛んできて、歌う姿までカメラに治めさせてくれたのだから。
愛称"クレオパトラ"のこの鳥は、江戸時代に、鳴き比べさせるために輸入され、やがて野に捨てられたようだ。
尖石縄文考古館に着いた。国宝の土偶“縄文のビーナス”や“仮面の女神”もある。その出土状況も分かった。
海外の有名なビーナスのレプリカもあった。古代人の、共通の願いが読み取れそうな気分になった。それにしても、どうしてかくなる多様性が・・・
土器には、私の目には縄文が見当たらず、だった。
黒曜石に恵まれた地域であり、交易が盛んであったようだ。
栄養の摂取の仕方は、私好みであったようだ。理想の1日分×365日=Aではなく、自然の恵みに則した1年分の総計=A であったわけだ。
衣服は「もっと緻密な織物が収蔵品にはある」ようだ。体験や学習に力が入っていた。
次の“星くそ館”は、さらに生活臭や人いきれさえ感じた。
この一帯の1万年ほど昔の繁栄に思いを馳せた。
この施設も体験や学習に力が入っていた。
素敵な施設の広い実習室で、素敵なカップルが体験学習に取り組み、夫人は時間を要しそうな黒曜石の加工を選んでいた。幼児は眠っていた。
見学の後、もっと足元がおぼつかなくなった時のために、この一帯をわが心が駆け巡り始めそうな一書を求めた。
この後、一度はかった白樺湖に眺めた案内された。
次いで、家族が経営する北欧料理のレストラン。ニシンの酢漬けが前菜の"ガラムスタン"に案内された。そこで、星くそ館で語らった幼児連れのご夫妻と再会した。夫人は磨き上げた黒曜石の鏡を見せて下さった。安田さんのカメラで、私たち4人を収めてもらった。
ここで、安田夫妻と分れた。
後日の封書に、この度の富士見町訪問では望めなかった富士山と、南アルプスの貴公子・甲斐駒ケ岳の写真も添えられていた。
5.小さな巨人と百の姓
卯月は、菜の花畑で明け、“骨休め” の意味するところが身に染みるおもいで暮れた。3度の事件で砂をかむような想いになったわけだが、それだけに友人や知人のありがた味や、植物の知恵(進化?)に深く想いを馳せたり感謝したりする1か月でもあった。
初日、菜花は“菜の花漬け”になり、昇さんのオカゲで水鉢の手入れに手を出す心のゆとりもできた。
庭では、久しぶりのケシの花と、キノコがお目見え。テンモクジオウの復活に成功した。
旬の味が庭仕事のご褒美になり、ビールがうまさをました。
夏虫が次々と生れ、モグラがあばれ、名の知れぬ鳥が襲われ、カメムシは死んで“去年の異常気象”を振り返らせた。
久しぶりにスジグロモンシロチョウが舞った。イチリンソウが野生化し、フジがテラスで咲いた。畑では、種をとる冬野菜を選び始めた。
選に漏れた冬野菜は、次いで小鳥の餌としての取り分を選び、残りは來年用の肥やしにする。畑で自生したケシが、次々と咲はじめた。
第1次の4種夏野菜の苗が根付き、義妹が用意した長鉢の間引き苗(2種のサラダ菜)が、畑で願ったように育った。婦人病の漢方薬でもあるナツメがついに、芽吹き、日々順調に若葉を伸ばした。
30日間の陽光は、初日に仕立て直した水鉢を、願い通りに茂らせた。
この間に、冬と夏の“野菜の端境期”に入っていたわけだ。青菜はしばらくの間は、菜花の残りと、採れ始めたスナップエンドウとサラダナが主役に。
輝かしいブンブンが玄関に忍び込み、カメラで追うと、これで隠れたつもりに。かくして卯月は、去った。
昇さんは、アイトワ菜の何たるかと、植物の知恵(進化?)に興味をそそられたようだし、コイモの作付けに1から10まで関わる好機を見つけている。
まず、13日のこと。朝日のスポットが書庫を照らした。私は草刈りをして、イチジクと、冨美男さんにもらったシャクヤクの置き肥にした。この側で昇さんはキュウリとナスの第1次分畝作りに当たった。
この畝の端で咲いていたムラサキハナナ、別名諸葛菜の処置について昇さんはご質問。「残しておこう」、種を振りまかせよう、になった。
話題は広がった。ムラサキハナナはダイコンと姉妹関係にある。アイトワ菜はダイコンやムラサキハナナと共に十字架植物である。アイトワ菜は、ハクサイ、コマツナ、ミズナ、あるいはチンゲンサなどさまざまな十字架植物の混雑種だが、なぜか、ダイコンやムラサキハナナとは交雑しにくい。
もちろん、この間に、畑のあちらこちらで、それぞれの代表例を探し、現物で示した。種を取るために残したダイコンの花にも、真っ白から紫がかった花まであった。コウシンダイコンはダイコンに近しい野菜だろうが、その花は、ダイコンの花の最も紫がかった花に等しい、などなど。
アイトワ菜は、アイトワの畑での十字架野菜の交雑種だが、この交雑に加わり難そうに観えるのが、ムラサキハナナはまだしも、ダイコンである。このあたりから昇さんの好奇心に火がついたようだ。
ここまで話題が広がった頃は、私はダイコンの“種をとるための1本”の他は、抜き取って、堆肥の山に積み増す作業に移っていた。
これらダイコンはすべて、前年度の1本のダイコンの種からの芽生えた代物だったが、まとめて抜いて気づかされ、追認させられたことがあった。
“ませる”のが早いダイコンは、いわゆるダイコンらしい根に恵まれにくい傾向がありそうだ。“ませる”のが早く、しかも極端に根が太らないダイコンが1本あった。その花の色はムラサキがかっていた。
色々な想いや疑問が生じた。私の心でも、次年度への楽しみが、ムラサキハナナは、などと渦巻いた。
次いで27日のこと。昇さんは、1時間ほど私が留守をした間も活かし、“コイモの作付け”を1から10まで、初めてこなしたわけだ。来月はこの土寄せや、追加のマルチングにも取り組んでもらおう。
昇さんのこの庭との関わりを振り返った。木の剪定と木の切り取りから始まった。腐葉土の作り方や畑の耕し方に次いで、ブルーベリー畑の防鳥工事、ブルーベリー小径の舗装、エンジンブロワーやエンジンソーの駆使、屋根の塗装、風除室のガラス磨き、スイレンなどの玉肥づくりなどへと進み、当月は薪割り、腐葉土の取り出しとその鋤き込み方などに加え、作物作付の1から10までに参加したことになる。
そのうちに、昔の百姓のように"小さな巨人"となるのではないか。
加えて、ヒノキ林でチョッと大掛かりな掃除にも当たっている。来月はこの庭の豪雨対策にも手を着けてもらおう。
アイトワ菜とは、にも興味を持ってもらいたい。この庭で、さまざまな十字架野菜に交雑させ、その種から育てたアイトワ菜同士での交雑もさせてきたが、その末裔が1つの方向を目指しているように見えてならない。今後は、いかなる方向を目指し、いかなる事態に至るのだろうか。
6.その他
1、チョット大掛かりになったヒノキ林の掃除。
昇さんは当月、西山の1つ、小倉山の裾部に位置するヒノキ林の苔庭で、カシなど常緑樹の落ち葉をブロワーで集めて腐葉土小屋に積み足した。私はその一角で、主に針葉樹の枯れて落ちた枝や葉を、2つの狙いを見定めてサラエで処分した。
この落ち葉や枯れ枝は、ヒノキ林の山側に吹き溜まったようなことになっていた。そこには、洪水対策用ミニ土木工事をするために、土を袋に詰めて置いてあった。これを妻は醜いと言って嫌い、隠すようにして落ち葉や枯れ枝を被せてきた。
このカモフラージュに妻が用いた落ち葉や枯れ枝を主に、まづサラエでかきとり、苔庭の北西と南西の隅に寄せ集め、半日がかりで山を造った。年月をかけて腐葉土にする。再びむきだしになった土袋は、昇さんのパワーを当てにして、ミニ土木工事に取り組もう。
2、予行演習が始まった。
かつてゲリラ豪雨が始まった時に、畑の冠水が問題になった。2本のパイプを埋め込むことで、畑の冠水は解消した。
次に、更なる豪雨が全国的に始まり、「かつて体験したことがない」などといった表現が流行り出した。わが国の建築基準法の予測を超える豪雨が降るようになった。その時に、この2本のパイプでは間に合わず、畑はもとより一帯を湖のごとし、にした。
佛教大生などの手助けも得て、さらに太い口径のパイプを2本用いて、当面考えうる雨量程度の雨に耐えるようにした。そうと知った昇さんはこの度、これらパイプの配置や仕掛けに興味を持った。
そして、先の2本の不首尾(廃水部が半ば埋まり、パイプが詰まりかけていた)をまず見つけ、掃除をした。
3、造語・ライフラインを発想させた潜在意識!?!
「母家」の3月分の電気料金を振り込んでおきながら、妻は2月分の振り込み(期限4月7日まで)を失念していた。しかも、この督促状(期限4月15日まで)を見逃していた。
そうと私が知ったのは翌16日の昼だった。親会社が派遣した2人の男が、脚立を携えて唐突に現れ、事情を告げられて、知った。当方の事情(両親が死に、息子が跡を継いだ)を説明し、急ぎ振り組む約束をし、振り込み方を教えてもらった。2人は「3月分を払って」いることだし、と同情し、止めずに帰った。
即電話をしたが、機械が相手で苦労した。振り込めたのは18日になった。入れ違いに同情の色を示した男から「振り込んでもらえたか」と、問い合わせがあった。親会社からせっつかれたようだ。
母が93歳で死んだ後も、名義変更を躊躇し、今日(今年25回忌)に至っていた。父はその7年前に死んでおり、死後32年が経過していたが、急ぎ名義を変更し、私の口座引き落としにする手続きに入った。「それにしても」と思った。ライフラインは和製英語だが、誰の造語かが分かったような気分にされた。
『次の生き方』(平凡社、2004)の取材で、電力会社SMADを訪ねた折の思い出がよみがえった。米加州の州都サクラメント市民立の電力会社だった。
その設立理由は、生きる上で不可欠である電力を、権力に握らせておくわけにはいかない、だった。だから、アメリカには電力会社が3000数百もあって、これら電力会社間で供給過不足を互いに融通しあっていた。訪問の主目的は、設置したばかりのランチョセコ原発の廃棄を決めたが、その理由を知るためであった。答えは簡単で、その危険性に市民立ゆえに市民がすぐに知り得たから、であった。
わが国は、工業国の中では最も自然エネルギーに恵まれており、その利用技術も進んでいる。にもかかわらず、自然エネルギ―を疎かにして、原発を重視する国の魂胆が透けて見えたような気分にもされた。
4、『ゴジラ-1』鑑賞。
前回の映画館での鑑賞は2019年の『パラサイト 半地下の家族』だった。その時と同様にひどい睡眠不足状態で出かけたが、前回同様に一度も居眠らなかった。ただし、空虚な気分で帰宅。感想を語り合う事さえしなかった。その場限りの余興程度に終った。
せめてものなぐさみは、満席を怖れて、小1時間の余裕を持って出かけて、最終上映をロビーで待つことにしたことだ。まず、キップを初めて、側にいた高校生の指導をえて、機械で買うことができた。
次いで、ロビーを行き来する人の流れを眺めながら、初体験の小腹の満たし方に挑戦した。なんともゆっくりした時間が流れた。1人で出かけていたら、キップを無駄にして、帰っていたかもしれない。
さらに、空いていたロビーを、ものうげに行き来する人を眺めることができた。女子中学生がカバンと制服のまま、ポプコーンと飲み物をもって通り過ぎた。
なんとも不思議な時間になった。
5、素敵な絵本。
商社時代に知り合った取引会社の知人が、脱サラし、関わった絵本が送られて来た。読み進みながら、子どもの想像力を掻き立てる内容だろうと気づいたときから、急にページの繰り方が遅くなった。
ふと、幼児の頃、父に眠らせてもらった時の思い出が、82年ぶりによみがえった。父は私が3歳の時に結核病棟に入院している。
父に何度も何度も同じ話をねだった思い出だった。断崖絶壁で実るマンゴーの実と、サルに採ってもらう場面しか思い出せなかったが、人生最初の思い出に、これが新記録を更新させたことになりそうだ。
6、歯の記念すべき処置。
ついに、上下共に、部分入れ歯のお世話になった。この不自然な感触にいつまで悩まされ、活舌の不具合はいつか慣れるのだろうか。
7、『虎に翼』で学ぶ。
「あっぱれNHK」と、新番組に喝采。この4月からの番組編成で、最初の喝采は『虎に翼』。わが国初の女子法曹人がモデルの物語。しばしば胸のつかえがとれるおもい。
離婚訴訟に敗訴した女性が“嫁入り道具の一部”を返還するように求めた訴訟でも、胸のつかえがとれた。当時の法律では、女性は結婚すると無能力者になり、嫁入り道具は夫の管理下に入る条文があった。だが勝訴の判決を担当判事に出させた。その判断理由は、善意をもって妻を守るべき夫の「権利の乱用」との判断だった。
この番組の仲で、主人公の父が、疑獄事件で容疑を認めたエピソードもあった。検察を支配下に置き、自白で事件をでっち上げさせようとする力が働いていた。モリカケ何がしかを連想させた。行政が、検察まで支配下に入れようとしていた流れへの警鐘にもみえた。
次は、『ピロジェクトX』(1989~1990)のリフレッシュ版のスタート(4/6夜)に喝采。わが国は、高度経済時代のごときものづくり大国に戻るべき時、戻るべき文化の国との直感が、リフレシュさせたのではないか。これも早晩、誰しもが「あの時に!」と、思い出させるエポックの1つになりそうに感じた。