目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 真夏の花と、日本語は難しい
2 あわやの転倒で、痛く学ぶところとなった
3 妻へのお返しと、新たなルーチン
4 葉月の744時間、6度の共感とある非常事態モード
5 先楽園で、まるで3人の孫と
6 その他
先楽園と、生きるモードの切り替え
葉月の朔日(ついたち)、京都は39.5℃の中、花街の舞妓さんや芸妓さんが重い衣装を着けて、日頃お世話になっているお師匠さんやお茶屋の方々に挨拶回り、とTVニュースが報じるほどの酷暑でした。この日も私は4時前に目覚め“未明のルーチン”を済ませた後、PCを立ちあげ、当月記・自然計画の作文などに取り組みながら日の出を待ちました。
この調子で上旬は未明を過ごし、日の出とともに庭に出て、まず野菜につくカメムシ退治。その後はいわば日替わりメニューで、朝飯前の一仕事に取り組んでいます。
その主なテーマは、1日、2畝目のネギの土寄せ。2日、ニンジンボクの剪定。3日、自生のトウガン探し。4日、ゴ-ヤやインゲンマメの蔓の整枝。5日、ツルクビカボチャに補助の支柱立て。6日、ナタマメの蔓の整枝。7日、モッテノホカの挿し芽。8日、フジの第3次整枝。9日、喫茶店の“アプローチで砂利寄せ”。そして10日は、3本のバジルの苗と第2次キュウリの苗2本の植え付けでした。これらの主テーマの後は、妻が朝食だと柏手でポンポンと知らせるまで、さまざまな作業に当たり、やおら湯殿で汗を流し、朝食です。
この後は、17時頃まで、また日替わりメニュー。来訪者と歓談や応対。屋内で農作業の準備、たまの外出など。さもなければ、PC作業、TV、新聞、あるいは書籍などに関わりました。この間の他のトピックスは6件でした。高熱排ガス被害問題の決着。小嶋父子、萩原先生、あるいは橘さんの来訪。誕生祝いでの絵本。そして新型の転倒事件です。これらに加えて、株式の2日間で生じた乱高下。宮崎の震度6弱地震がキッカケの1週間。長崎の原爆平和式典とパリ五輪でのありよう。そしてウクライナのロシア侵攻が気になったことです。
中旬は、朝のイノシシ坂の手入れに始まり、昼は大井父子の来訪、そして午後は籐椅子の再生塗装へと続いた1日で明け、昇さん父子の泊りがけの助成に恵まれた3日間で暮れています。この間も、未明のルーチンの後は、日替わりメニューで朝飯前と夕刻の庭仕事が続きました。ただし、14日のみ、恒例の棚経で朝飯前はパス。そして朝夕に(4つの水鉢を活かす)“メダカの保護と繁殖”に躍起という新たなルーチンが加わっています。
この間のトピックスは、メダカに夢中の一件を含めて5件でした。13日からノバトの恋の季節が始まり、朝の一仕事が華やいだこと。ある日の夕刻のこと、大汗とシャワーの後のビールが、不作のキュウリを絶品にしたこと。目に入ったホコリがキッカケで、わが目の管理をどなたに託すか、で思案し始めたこと。それよりも何よりも、この最寄りの目医者に走った2時間ほどを含め、この10日間での外出は2度、計4時間ほどであったことです。残る236時間余をわが手作りの庭で過ごしたのです。おのずと“樽の哲学者”に想いを馳せながら、したい仕事が一杯あって、動き回ってしまい、それが何とか足の健在を維持できたようだと気付かされ、これぞまさに“先楽園”ではないか、と気づかされています。
かくして予定表がほぼ真っ白の下旬を迎えましたが、結果はトピックスが計11もありました。一人生えしたモロヘイヤ。旧に復していた井戸枠水槽。コメ問題での愕然。カラカラ天気の後の、ツルクビカボチャに生きるモードを切り替えさせた大雨。今関先生が贈ってくださった児童文学。電気関係での中尾さんと、住まいのメンテでの大北親方たちの親切。翻弄された台風10号。そして月末の右眼上半分のブラックアウト。これらの予期しきれなかったことに加えて後2つ。叢書が刷り上がり、持参いただけた。そして、月末の「『匠』の祭典」での寄り合いでした。これがわが家のお盆を迎えた葉月のありようでした。
~経過詳細~
1.真夏の花と、日本語は難しい、自然の摂理にゆだねた
花が少ない盛夏だけに、畑での黄色い花が目立った。先月から咲き始めたカボチャ、キュウリ、トマト、あるはオクラなどの黄色い花々に加え、2日から黄色くて大きなハナオクラ(トロロアオイの花で、エディブルフラワー)が次々と咲き始め、毎朝のごとく食卓を賑わし始めたのだから。写真ははカボチャ、オクラ、トマト、そしてハナオクラ。
やがて、小さな花だけどゴーヤの黄色い花も最盛期に入った。
水槽では「私も黄色だ!」と言わんばかりに、スイレンの一種が咲いた。
それだけに今年は、ササゲマメのピンクがかった花と、純白の大きな花のナタマメが加わったことが嬉しかった。これらは、昇さんに「近所の農家にもらった」と言って、各1本だが苗をもらったおかげ。
ツルムラサキやオクラなどの収穫も始まった。ササゲマメの葉とピンクの花はインゲンマメと見まがうが、実は細くてとても長い。わが家の畑では久方ぶりに育てた作物だが、他の野菜に日陰にされ、軽6本しか採れなかった。
ナタマメも久方ぶりに育てた作物だが、葉はインゲンマメに似ているがとても大きくて蔓も太い。花は、ピンクのインゲンマメと違って真っ白で大きいけれど、インゲンマメと同じく花を複数つける。大きな違いは、ハチはわけへだてなく媒介しているのに、インゲンマメと違って大きな実を1つ、せいぜい2つしか結ばないこと。ナタマメも、カボチャやゴーヤと混栽になり、日陰にされ、実は5つしかつけなかった。
鉢植えのこの(スイセンのように球根から育つ)ピンク色の花は、2日に満開になった。昨年は、この2倍ほどの花が、この鉢イッパイに咲いた。だから土替えを兼ねて3鉢分ほどに増やすつもりだったが、怠っていた。
サルススベリの花も咲く季節になった。庭には真っ白の花をつける2本のサルススベリを含め、6本あった。その内の3本は自生(自然生え)だった。
このたびは知らぬ間に、新たに3本が畑で自生していた。そしてこの1本に咲く花は、これまでの6本のどの花とも異なっており、妻好みの色だった。
残る2本は、まだ蕾さえつけていない。その1本は、すでに鉢植えにした。もう1本は温室の北出入り口の前で育っているが、これもいかなる花をつけるのか、興味津々。
問題は、妻が「この」と、妻好みの花をつける木を指さして、「種は、どこから飛んで来たのかしら」とある日呟いたこと。「どこからだろう」と私は応じた。これが後日、妻の不満を買うところとなってしまった。日本語は難しい、と追認させられた。
サルスベリといえば「百日紅」と書くように、かつては真っ赤が通り相場で、盛夏の象徴のごとし、であった。確か季語だった。だが近年は、百日紅にはめったにお目にかかれず、花がみな涼しげな色になってきた。
8日、この巨大な(これもスイセンのように球根から育つ)ネリネの一種が、大きな鉢で咲き始めた。大きな球根が8つは入っているわけだ。
この日は、86回目の誕生日だった私は「これも今年は、鉢替えで増やそう」と心のうちで願っている。
またこの日は、ノーゼンカズラが2輪咲いていたことにも気付かされた。この花期は先月で終わったもの、と思っていたが、他にも蕾をつけた花序がある。
「狂い咲きだろうか」、それとも「今年は2度咲きか」などと、この時期には珍しいオレンジ色の花に、なぜか興味を新たにした。この木の後方に、2本の(自然生えの)色違いのサルスベリが見える。
この日は、“期待はずれ”であったことが分かって、とても悔しい日でもあった。ジャガイモの畝で自生した「この1本こそ」は“八重の乱れ咲きの中国ホウセンカ”に違ない、と期待していた。だがピンク色の一重に過ぎなかったからだ。
近年は、タカサゴユリもこの庭からずいぶん減った。9日に咲き始めたこの花1輪の1本を含め、8日時点では計4本しか見つけていない。
12日に、そのうちの花2輪の2本が同時に咲き始めた。妻は、このいずれかをお盆には、「墓前に供えるために切り取って」と望んだ。私はウンともスンとも応答しなかった。
わが家は、14日の朝一番に、僧侶が棚経を上げに来て下さるのが恒例だ。だから、前日の昼下がりに、仏花や仏前に備える果物などを求めて買い物に出た。その後、日が大きく傾きかけたときに、妻は庭の花を摘んで来て「ホレ!」とばかりに私に見せた。
これは、これから「お墓掃除に出かけますョ」との合図だった。8日に咲き始めた巨大なネリネのような花を妻は切り取っていた。
後刻、花束にした時も、9日から咲き始めたタカサゴユリを妻は摘んではいなかった。
それは、私に遠慮したわけではなかったことを車中で知った。出かける直前に「お父さんに」と言って、その1本を切り取って車につんでいたのだから。
その切り取りを躊躇したわけも、車中で知った。両親が生前、見慣れていたこのタカサゴユリを、この庭で早く復元する (そのために種を付けさせる) 方が先決ではないか、とおもっていたらしい。
墓地は40余日(過日の母の25回忌から数えて)の間に、また草がたくさん生えていた。
草を抜きながら、「私は墓などいらないよ」と、妻が考えそうなことをつぶやいた。両親の時代は「もったいない」との心がけが大事にされた時代だった。物的に乏しくて、つつましやかな世の中だった。だがたくさん子どもをもうけ、子どもに面倒を見てもらいたくて苦労して育てた。だから私は母好みの (父方の菩提寺の墓地ではない)墓を、父のために新たに用意した。
その時に私は、早晩時代は物的にはとても豊かになるが、人の心は一変するに違いない、と考えていた。
妻はこの日、墓前には父好みの庭の花だけで生けた。タカサゴユリが映えた。
帰途、広い墓地をあとにしながら、両親の墓がありそうな方向を振り返った。
翌14日の朝は、いつもより早く僧侶がみえた。仏壇には逆に、買い求めた花だけで生けてあった。こちらは母好みだ。
野菜篭も前夜から供えてあったようだ。このそばに、スイカを冷蔵庫から取り出して備えることを妻は忘れていた。僧侶を見送ってから私が取り出すと、妻は「ごめんなさい」と呟いた。
流しの側には、一緒に買い求めたキクなどが、なぜか使わずに残されていた。
お盆のお勤めをことなく終えた。残る半月は、私たち夫婦流の日々を予定していた。
15日に、ヒシの花が咲いた。
日照りの日が続き、16日は液肥を畑にタップリまいた。
後日のこと。昇さんを交えた3人で畑仕事をしていた時のこと。妻がお気に入りのサルスベリを指さして、また呟いた。今度は「この庭の(サルスベリの木の)子どもではないのでしょうか」だった。「そりゃーそう考えるのが妥当だ」と私は応じた。
突然、妻が「この前は、違う、と言っておきながら」と文句を言って、膨れた。私は、あっけにとられた。
その場を、妻が昼食の準備で離れてからのこと。やおら昇さんに「日本語って、難しいね」と愚痴った。
過日の妻の質問は、キット「この庭の木の子どもに決まっている」との想いを抱いており、その上での発言であったのだろう。ならば、どうして「この庭の子どもではないでしょうか」と、尋ねてくれなかったのか。ならばキット私も「その可能性が一番高い」と答えていたに違いないのだから。
それはともかく、妻がこの問題ではキチンと、前の対話を記憶していたのが嬉しかった。
2.あわやの転倒で、痛く学ぶところとなった
9日(金)のことだった。朝飯前の一仕事に、門扉から右に向かって喫茶店にいたるアプローチ(階段)と、左に折れてパーキングにいたる道の“砂利寄せ作業”を選んだ。その上で、庭に出た。
畑ではハナオクラがたくさん咲いていた。トウガラシ、トマト、ナス、そしてクロホウズキの順でカメムシを探してまわり、たくさん捕えた。
やおら、砂利寄せ作業に挑んだ。来店客など多くの人が、歩いて薄くしたり、パーキングに出入りする車が、カーブを切る折にずらしたりした砂利を、レーキと雪かきスコップで整える作業だから、老体にはかなりハード。
それだけに、風呂場で汗を流す冷水は心地よかった。いつも妻は、この所用時間を読んで柏手を打つ。
ハナオクラがたっぷり入った朝食のサラダは旨かった。
食後は、新聞の記事の分別にとりかかった。疲れた体が心地よく癒えはじめ、これも心地よい。この日は午後に、時節柄の来訪者が2件続いて入っていた。その後で、やおら取り組んだのが撥水加工であった。
小雨の時に(野菜の収穫などで畑に出るときなどに)羽織る一重のオレンジ色のジャケットと、ハッピーのパラソルに施してほしい、とかねてから妻に頼まれていた。
既製の缶入りスプレイ式撥水液を、均一に噴霧するだけだから、ハッピー好みの取り組み方を選んだ。ハッピーは常に、理由は何であれ、そばに私たちがいると嬉しいらしい。だから「ハッピーのテラスで行う」ことにした。
ジャケットは、補虫網にかぶせたまま取り出したから、簡単に済んだ。
そこは居間の前のピンコロ石を敷いた石畳で、3畳ほどの広さだ。ハッピーのハウスとベンチ、そしていくつかの水鉢などが置いてあり、パラソルを横にかざすと、所狭しになった。しかも、このテラスから3段下がったところから中庭になり、ゴッツイ手作りのコンクリ花壇もある。
なんとかして、ハッピーだけでなく、メダカやキンギョが棲む水鉢の方向にも撥水液が飛ばないようにしたい。均一にパラソルに吹きつける作業が始まった。ことは順調に進んだ。
テラス沿いに移動しながら、異なる角度から吹き付けようとした時のこと。滑りにくいピンコロ石が逆に災いし、躓いたようにふらついた。足を踏み外して中庭に落ちてはいけない。さりとて植木鉢や水鉢がある方向はもっと危ない、とまでは、考えたのだろう。
気が付いたら、倒れていた。左の掌が異常に痛かった。一歩を踏み出せたようだし、水鉢と広縁の間の隙間へと、体を巧みにひねることができたに違いない。それが余計にバランスを崩させたのではないか。地べたにおでこもぶつけていた。
掌が異常に痛かった。血は出ていない。骨にはどこにも異常がなさそうだった。
妻は人形工房にこもっていた。午後のお茶の時間がいつになく遅かった。おかげで、衣服と額や手の汚れはぬぐいとれていた。もちろん防水加工は仕上げてあった。事故の報告は「ちょっと転んだ」で、これも簡単に済んだ。
問題は翌朝だった。朝食時に妻が、左手の内出血を見とがめた。「アレレ!」とおもって掌をひっくり返して、合点がいった。痛みは収まっていた。「内出血で済んだンだ」。
妻はこの日も工房棟に降りて行った。新聞記事を私は選別し始めた。頭の片隅で「このたびも何かに救われたようだ」と、幸運を喜び、「おかげさまで」と考え始めた。
おでこをぶつけた真横には、15cmほど切り残した数本のナンテンの切り株があった。後ろに倒れていたら、頑丈なコンクリ花壇があった。「もしも!」と考えて、ゾッとした。
京都新聞を広げていた。記事の選別をしていたわけだが、手が止まった。このところ、京都新聞も妻より私が先に読み始めるようになっていた。
妻の要望でとり始めた新聞だから、これまでは妻が読んだ後で、主に国際面の共同通信の記事に目を通してきた。朝日新聞の、広告主に遠慮しかねない自社記者の記事と、それが不要であるはずの共同通信社の記事を読み比べたかったからだ。
6日のこと。妻が数日分の京都新聞を読まずに積んでいた。私は手を伸ばし、目を通し始めた。予期せぬ記事が目に留まった。先月の“自己免疫疾患”に関する市民講座の取材記事であった。確か、朝日新聞は、京都面でも取り上げてはいなかったように思う。
この病気は、わが国では、近未来の大問題になるに違いない。多くの母親が、子育てで、真面目に不真面目なことを (抗菌グッズや嫌虫など、子どもがあまたの微生物などに接触しないように)しているようにおもわれてならないからだ。
これがキッカケで、私は京都新聞も先に読むようになった。それがヨカッタ。16日の総合面で、京都新聞のもう一つの意義に気付かされたような心境になった。それは、共同通信の記事を国際面やスポーツ面だけでなく、総合面でも実に巧みに生かしていたからだ。
日本の新聞は、押しなべて、日本の国民を“井の中の蛙”にしがちで、自虐的にしている恐れがある。間違いなく内弁慶にしている、と私は危惧してきた。
同じ敗戦国のドイツでは逆に、国が犯した悪しき現実も主権者にキチンと繰り返し教えており、悪しき現実に熱狂した国民をグローバルな国際感覚に押し上げ、同じ過ちを国に繰り返させない、あるいは国が犯さずに済ませる主権者にしようにしているかのように観える。
ドイツは、陸続きで歴史的宿敵と対峙してきた国だ。それら宿敵も、ドイツのこうした動き(加害の施設もキチンと保存し、複数の言語での説明を添え、小中学生にも引率して見学させている。あるいは近隣諸国と共通の歴史教科書で学ばせているなど)を、好意的に受け入れてきたに違いない。いまやNATOの一員であるだけでなく、その優にまで押し上げてもらえるまでになっている。
わが国も、日本の国民が近隣諸国の人々から尊敬のまなざしで見つめられ、当てにされ信頼される存在にすべきではないか。それは、この国が国民を、あるいは権力を監視する役目が大事なジャーナリズムが、購読者や視聴者をいかに民主的に主権者として位置づけるか、その心得次第で容易にかなえられるに違いない。
近年の、多くの観光客が抱いて帰る日本国民に対する印象は、とても良好だ。この安全、安心、あるいは親切が築きあげつつある民間外交の信頼感を、徴税(観光収入の増進など)のために生かすだけでなく、世界平和のために生かすべきではないか。
たとえば、第2次世界大戦での報道でいえば、口火を切った日本が反撃され、310万人もの民を死に至らせたり、日本が侵攻した先々では、2000万人とも3000万人ともいわれる人々を兵士に殺害させたりしたことをキチンと報道し、国は清算し、だから憲法9条を持つに至った、と国民に明言し、憲法9条と現実を乖離させず、世界に向かって国民が胸を張れるようにしてはどうか。
ならば、大国間の猜疑心を溶いたり、アワヤに割って入ったりする国を目指すことも容易にかなえられるに違いない。これこそが、我が国にとっての好ましき安全保障ではないか。
攻撃力のある武器や兵、乃至はそれらを生産や保有する施設などがないところへの攻撃は、戦争犯罪との認識が国際的に広がっている。それら軍備などに要するお金や人を、自然災害の分け隔てのない国際的救援活動に回してはどうか。民間外交力がより底力を発揮するに違いない。ならば日本国民は、今の国の沈滞など一気呵成に吹き飛ばすような活力を、国の隅々にまでみなぎらせ始めるに違いない。
このたびの転倒でも、偶然に私は救われたようにおもった。だから、いつものように、あわやで済んだり、命を取り留めたりした時と同様に、感謝し、そのわけを追い求め始めた。だがこの度は、とほうもない脱線をしてしまい、また肝心の当たるフシには至れなかった。。
3.妻へのお返しと、新たなルーチン
朔日(ついたち)は4時前に目覚め、“未明のルーチン”に取り掛り、ヒグラシがその中ほどから鳴き始めた。
未明のルーチンとは、まず半世紀余にわたって毎朝励行してきた“恒例の洗面”(厳冬であれ上半身は裸になり、首筋と二の腕も冷水で洗う洗面で、夏バージョンは風呂場で全身を洗う)である。
次いで、20年来毎朝欠かさずに続けているサラリーマ時代の“妻へのお返し”であり、後ほど詳述する。この日はこの途中からヒグラシが鳴いた。
その後は、夏場は、日の出までPC作業、新聞の斜め読み(熟読したい記事選び)、あるいは前夜までに溜めた資料の仕分け直す。その上で、やおら庭に出て未明のルーチンの3番目・朝飯前の一仕事に臨む。
この朝飯前の一仕事の直前と、夕刻の庭仕事の最後に、今月から新たに加えたルーチンがある。それはメダカの保護と増殖のための作業である。まず保護では、メダカの水鉢にカエルやヘビが跳び込まないように、覆いを水鉢に日没前に被せておき、日の出前に取り除くことにしている。
さもなければ、メダカの動きが鈍くなった夜分に(昼間はその現場を見たことがないが)、パクリ! パクリ! があったのではないか。
繁殖では、4つの水鉢 (産卵と孵化用、稚魚用、そして、人の年頃でいうなら小中生用と、ご隠居さん用)を、柄杓と2つのバケツを駆使して上手に使い分けること。つまり、孵化したばかりの稚魚を(目ざとく見つけて、ヒシャクで水ごと素早く掬って)救い出し、稚魚用水鉢に水ごと移す。その柄杓で、稚魚用水鉢に増えた相当量の水を(こんどは稚魚が入らないように静かに)汲み取って、水換えに(植木鉢の水やりなどに活かし)供する。そしてくみ取った方の水鉢には新しい水をそそぐ。
同様に、稚魚用水鉢で大きく育ち、稚魚を共食いしかねなくなれば掬い取って、次の小中生用水鉢に移動させる、など。
さて、2案目の未明のルーチンについて。それは妻へのお返しだが、これも自発的に始めたこと。
サラリ-マン時代の私は、妻に強要していたことがあった。最寄りの駅の始発に間に合うように、毎朝私を送り届けるための1時間半ないし2時間余の拘束であった。早起きして野菜の収穫から始まり、2人乗り自転車での見送りで終わる。さらに難題は、雨の日や雪の日は半時間ほど早く起き出して、その分早く徒歩で出かけることだった。往路は手に私の皮靴をぶら下げており、帰路は長靴が手荷物になった。
もちろん、結婚する前に覚悟してもらっておいた拘束の1つだが、このタイプの通勤をした13年間で、寝坊をしてバナナと牛乳だけで送り出したことは幾度かで済ませている。ともかく、電車に乗り遅れたことはない。
35年ほど前にサラリーマンを辞めて、初めて分かったことがあった。まず、妻は睡眠を日に8時間はとりたい体質であったこと。にもかかわらず、昼寝をしなかった。目と鼻の先に住むわが両親の、なにかと面倒を見たいという心境に燃えていたようだ。
だから、短大を辞めた20年前から、この拘束へのお返しを始めた。15分余の早朝マッサージである。それは妻を2度寝に誘う。もちろん妻の足首を回したり、指の間を広げたりするときは、私は己の首を回したり、右に左にと曲げたりする体操にも供する。
コロナで自主的に母屋に移動し、屋内隔離に甘んじた1週間ほどを除き、欠かさずに守っている。
4.葉月の744時間、6度の共感とある非常事態モード
ついたち(朔日)のこと。朝飯前の一仕事に、2畝目のネギの土寄せを選んだ。
大事な来訪案件が朝と午後に各1件あった。まず、予告なしに顔見知りの夫人が、日ごろの不調法を詫びに妻を訪ねてみえた。同席を妻に求められ、その原因と事情に同情した。
2件目は、前の公道の舗装時に、生け垣に高温排ガスが与えたダメージの点検と善後策の相談であった。おみえになった責任者の考え方や姿勢に、おおいなる共感を覚えた。保身や釈明、いわんや対決などの発想はみじんもなく、生け垣の再生力への期待と、他所での再発の防止など、自然の摂理に則した解消策を考えることになり、意気投合した。
写真は月末時点の、私たち2人の期待通りに再生しつつある生け垣。
もちろん、うまく再生しなくてもよい。誰しも失敗はつきものだ。その失敗を認め合い、卑劣にならず、生きる糧にしたい。
2日、朝はニンジンボクの剪定から始まり、夕はコイモの土寄せで終わった。
3日、自生したトウガンに気付き、キット他でも、と一帯を探し回った。今年は、自生をあきらめかけていただけに嬉しかった。
夕刻、何度か4月にお迎えした老人が、また訪ねてくださった。地域の分断がさらに進みそう、との危惧の念をうかがった。その1つの具体例は、第3者から指摘されて初めて知ったとおっしゃる証拠であった。それは、誰の目にもあってはならない行いと映る実例で、明らかに立場を我田引水に活か卑しい行いであった。
こうした地域の麗しき文化を根底から崩しかねない独断専行や分断に、老人は文書で丁寧に警鐘を鳴らしておられた。
4日、ゴ-ヤやインゲンマメの蔓の整枝が日課になった。妻が収穫し易やすいようにと、蔓を高く伸ばさずに低く抑える作業。
この日、商社時代の親友・小島さんの子息に、約束通りに埼玉から、長男同伴で訪ねてもらえた。四半世紀も前に夭逝した親友の子息だが、共感のひと時になった。
この日は夕刻にはげしい雷雨。久方ぶりの恵の雨。この雨は、畑で生じているある心配事をキット解消させるに違いない、と期待させた。
ツルクビカボチャは本格的な着果時期に入っていたが、水不足に備えてか、自衛のモード(種づくりに専心)に入っていた。だがこの雨でタップリ水を得て、異なる繁栄を期し、生きるモードを切り替えるに違いない、と期待させた。
5日、2番成りの白っぽいツルクビカボチャが大きくなり始めた。補助の(実が重くなっても耐えうる)支柱を立てた。
この日は好天で、また日照りに逆戻りか、と心配しながら朝食。「目にヤニが・・・」と妻に急かされ、最寄りの眼科医に連れて行かれた。その女性院長の初診患者を扱う采配に、いたく共感を覚えた。
ここは社会人になるまで幾度か世話になった医院だった。先代の女性院長の娘のようだ。先代のお仕込みか、血筋か、それともご本人のセンスなのかなどと、不遜このうえない想いを巡らせた。
この日、妻は肩の外科手術で入院中の妹に請われ、新鮮な庭の野菜やブルーベリーを差し入れた。
6日、ナタマメの蔓の整枝を始めた。
午後に、「学会が関西であるので」との約束通りに、群馬の萩原先生に立ち寄ってもらえた。この人には、私が鹿児島大の非常勤講師であった時から、立場が世話になるがわに替わっている。近年の萩原先生の地域社会への貢献(わが国の大学がおろそかにしてきた)のありようを伺い、共感した。
陽が傾いたころ、かなりの雨量の夕立。「これで、いよいよ・・・」と、ツルクビカボチャが生きるモードを切り替えるに違いない、と感じた。それは自然の摂理だ。
立秋の7日、モッテノホカを挿し芽。奥には以前の挿し芽が、根着いている。
水道局から料金支払いの督促状が届いた。妻から事情を聴いていた時に、門扉のチャイムが鳴り、給水を止める予告書をポストに入れておきます、でプツン。慌てた。よく見ると、納期まで5日の猶予がある。電話で異議を唱えた。
責任者と思しき人が飛んでみえた。下請けの手違い、では言い訳にもならない、と認めた上で、料金問題の実情にも触れられた。その実態に同情すべきところがあり、個人的に共感し、にこやかに分かれた。
問題は、郵政や関電にも通じることで、何かが匂ってきた。
ちなみに、この代金は母屋用で、生きていたら124歳になる父名義であった。ライフラインという和製英語を作った日本だが、その関係者が、代金が入りさえすれば生存者として認めるような顧客管理のままでよいのか。暗澹たる気分にされた。これを機に、関電の場合と同様に、名義変更と銀行引き落としにした。
なぜかマイナンバーカードに想いが及び、深刻な問題が多発するに違いない、との心配を深めた。本人(生命や尊厳)とは別に、一般社会では本人よりも本人(出自や財産などの属性)として扱う人工物を普及させようとしているわけだから、人為的な悪しき問題の発生源を作っているように見えてならない。
しかも、取得は任意(自己責任)で、といって始めておきながら、次第にあれやこれやと巧妙に、今や強制の色あいを濃くしている。振り返れば戦争末期の特攻攻撃も任意参加であった。だが、実態は巧妙なる強制になっていた。手口がとても似ている。
この日、尾がなくなったばかりのカエルを、オレンジプールの側で見かけた。
8日、フジの第3次整枝を選んだ。
この日、86歳になった。頂き物の中に、なぜか絵本があった。そのベストセラーだとの内容に共感し、ひ孫にでも恵まれていて、一緒に暮らしていたら、と夢想した。
9日、喫茶店の“アプローチなどで砂利寄せ”。そして当月2度目の外出は、近場のHCでネギの干し苗などを買い求めた。
10日、その3本のバジルの苗と第2次キュウリの苗2本を植え付けた。
この日、レオ財団の橘さんを迎えた。拙著『人と地球に優しい企業』(1990年 講談社) が縁で、一時期顧問を務めさせていただいた人だ。今年最初の来訪だったが、今日まで断続的に付き合ってきた。このたびも公私にわたる心遣いに感謝した。
かつて『標』なる著作を贈ってくださった。「企業の目標は儲けることではない」との文字での認識表明に共感した。その認識が生み出させた財の活かし方に、今は心血を注ぐ身でおありだろう、と睨んだ。
この日、ネギの干し苗で、昇さんに3本目のネギの畝をつくってもらった。彼は、腐葉土を取り出したついでに、バクテリヤが腐食を促進する様子を体感したい、といって袋詰めの実験に入った。
11日(日)、イノシシスロープの除草や剪定に着手。
大井夫妻に、長男とその婚約者を伴って訪ねてもらえる日であった。この夫妻とは四半世紀来の付き合いだが、このたびは「やっと長男が、家業を・・・」との継承の紹介もあった。この2つ目の喜びと、婚約者が家業に乗り気と分かり、共感を覚えた。
この夜、初めて見る小さなハチが忍び込んできた。
翌朝、花3輪のタカサゴユリが咲き始めていた。
13日はお盆恒例の行事(棚経で僧侶を迎える予定)を翌日に控えた日で、当月3度目と4度目の外出日になった。昼間の買い物と、陽が傾いてからの墓掃除の2回で、計3時間余になった。
この2つの外出の間にパラソル他1点の防水加工に当たっており、転倒事件を起こしたわけだ。この日はまた、1番なりのツルクビカボチャが何者かに引きちぎられて盗られていたことに気付いている。同時に、オレンジプールで、何者かの排便(プチトマトの皮が大量に出た)を見て心が騒いだ。人間には狭すぎて、行えそうにない
また、TVで1つの報道に触れ、政治の偏狭を嘆き、再発乃至は再現事態への備えかも、と若者が気の毒におもわれた。
ドイツでは、内外の民間の戦災者に手厚い医療サービスや年金給付などをして来た。日本では戦犯の刑死を「公務死」にして手厚く扱いながら、民間人の空襲被害は突き放している。だから、日本の軍人恩給60兆円強を「口止め料」とみて受給に応じなかった元軍人さえいた。
7日以降は灼熱の日々に戻っており、畑はまたカラカラになった。夕刻、バケツで何杯も何杯もの液肥をくみ出し、夏野菜にタップリまいて回った。この夜は、そそくさと汗を流し、わが家流のビールのひと時になった。キュウリが2本とれたが、姿の良いキュウリが2本一緒に採れた初めての日であり、後日これが最後の日であったことを知る。
14日の棚経の後で、久方ぶりにコメツキバッタの雄を庭で見掛けた。だが、このバッタが飛翔時に立てるキリキリキリと聞こえる大きな羽音を聴くまでは付き合えなかった。
夕刻、ワケギの球根を植えつけ、目立つツルクビカボチャにカモフラージュを施している。
ヒシの白花が咲いた15日、トウガンも黄色い雄花を咲かせ、トウガンであったことを追認した。
だからこの畑の外で芽生えたトウガンに3本柱の棚を用意した。
この日も、ある報道に心が揺れた。この司法の想いをテコにして国際的主張に出来なかった政府の不甲斐なさ、主権者尊重の精神を発揮する機会を与えられなかった役人の歯痒さに、想にを馳せざるをえなかった。これも国民が麗しき愛国心を養い合う好機であったのではないか。
妻はこの日、小さなラッキョを漬けた。
16日、ヒメギボウシが咲いていた。最後のトマトの畝を解体した。
17日、オニユリだとばかりにおもっていた花4輪のユリが咲き始め、5本目のタカサゴユリであったことが判明した。
かくして18日(土)を迎えた。お盆休みの昇さんを2泊3日で迎える日であった。加えて翌19日から昇さんの長男・ 慧生(けいしょう)クンには1泊2日で来てもらえる。
だから昇さんと集中的に取り組む5つのテーマを決めていた。①温室のガラス屋根磨き。②ヒノキ林の落ち葉掃除。③温室内の (あまりにもはびこり過ぎた) ツタの始末。④囲炉裏場の剪定クズの処分(焚火)。そして⑤ブルーベリー畑でのある保全作業であった。
当日、昇さんは②を片付け、①で用いる噴射水式洗浄機の試し使いなどに当たった。私は温室のホンコンカボックの大剪定から取り組んだ。
この日、フミちゃんに電話で、恒例の火曜(20日)だけでなく19日の夕刻も、と来訪を要請した。19日の夕食は庭でBBQを、になったからだ。
慧生君が到着し、噴射水式洗浄機で②に当たり、昇さんは温室内で暴れていたツタの始末(あまりにもはびこり過ぎた)にとりかかった。
私は延焼が心配な③と、囲炉裏場でのBBQの準備を受け持った。
フミちゃんが見えた頃からあいにくの雨が降り出した。慧生君は、雨をついてガラス屋根の掃除を続行。私は温室の側面ガラスを磨き。残る3人は温室の大々的な掃除を始めた。夕食は雨のために、BBQ変じて居間で、になった。
20日、雨は上がっていた。昇さんは野小屋と旧玄関脇にあった太い薪をテラスに運び込みから始動、私が積んだ。
慧生クンは、前回ブルーベリー畑で取り組んだ作業で、何が不備であったのかを学び、その保全に着手した。
再訪したフミちゃんは妻と、温室の大掃除に取り組み、夕刻までに仕上げた。
この日、採り忘れていたゴーヤが熟れて裂けていた。その赤くて甘い種を慧生クンにしゃぶってもらった。
この野菜が導入された当時は、この種が子どものオヤツ (当時は甘いものに飢えていたはず)として栽培された。今も小鳥は、実がニガイ(ゴーヤが嫌がっている)間は手を出さず、熟れてから甘い種を丸呑みし、周りの甘い果肉を消化し、種まきを引き受けている。
慧生クンには最後に、老人にはチョット危なかしい作業に取り組んだ。それは、石階段の側で育つカルミヤの手入れ(種房を取り除き、翌年度の花付きをよくする作業) で、足腰が弱くなったジジイが孫に頼るような気持ちで頼んだ。
21日、トウガラシでカメムシを5匹見つけ、退治。天声人語がコメ問題を取り上げた。
22日、ハッピーがハウスに向かって吠え始めた。好機到来と喜んだ。なぜならこれまでに、夜分にしばしばハッピーに起こされて閉口してきたからだ。吠えたてる相手を未だに確認できていなかった。だから「どうせ、カエルでもが・・・」とおもってハウスを覗き、ギョッとした。大きなヘビが忍び込んでいた。
この日、納税で外出。一期分の納付を妻が忘れていたことが分かり、4期分を全納した。これまでは妻に関わってもらってきた作業だが、私が管理しなければならないようだ。
23日 “餅トウモロコシ”(種を阿部夫妻にもらった) が穂を立て、ひげ状の雌シベを吹いた。原種の1つであるらしい。採り立てのあの味を再び、と胸が膨らんだ。
この日、今関先生が近著『アメリカから来た友情人形』を送り届けて下さった。
ナタマメを2つ採って、試食。残した3つで種がとれたら、来年再挑戦することにした。
24日、昇さんを迎え、井戸枠水槽周辺の手入れに当たった。イザという時のわが家の生活水源だが、期待通りに水をたたえ直していた。
オーバーフローした水を流す排水管には木の根が詰まっていた。
この日は、オレンジプールでまた排便を見た。昇さんも不思議に思ってか、犯人を憶測する仕掛けを試みた。
25日、3日ぶりにカメムシを、2匹だがトウガラシで捕獲。ナスでは見かけなかった。トマトとクロホウズキは畑からなくなったし、これが最後であれと願う。だが、どこかで生きながらえているに違いない、と覚悟もしておくことにした。
居宅のガス給湯器で不具合が発生。夕刻から未明にかけて大雨。台風10号の前兆だろう。
26日(月)、前夜の大雨で、人形工房の床 (サンクンガーデンであるテラスより、さらに40cm掘り下げて冷暖房効果を高めた) に、雨水が流れ込んでいた。雨量が建設当時の法定基準をはるかに上回るようになったので、自動揚水ポンプを設置してあった。だが、その揚水能力も上回ったのだろう。迫りくる台風10号と相まって、「何とかして・・・」と知恵を絞らざるを得なくなった。
この日、乙佳さんから電話。かねてから頼んであった2つの補修の日程は、2日後の「28日では・・・」との問いあわせであった。
丁度この時に、中尾(電気店)さんに頼んであった用件(ガス給湯器の不具合と獣害電柵の漏電問題の解消)で、訪ねてもらえた。揚水ポンプは妻の報告通りに作動していた。
加えて、工房への浸水を話すと、観音開きの窓のパッキングが腐食していたことに気付いてもらえた。おかげで、水が流れ込まないようにする緊急対応策法を思いついた。好ましき資材の持ち合わせもあった。イザという時は2時間もあれば、と胸をなでおろした。
台風の進路がいよいよ気がかりになった27日(火)が明けた。
トウガラシに8匹もカメムシがいた。フミちゃんを迎えて、妻は母屋の中庭で除草。私は、くだんの叢書の編集人が、刷り上がった叢書を届けて下さることになっていた。この人とは、見解の相違を埋めるために努力を重ねあった仲だ。
とはいえ、最終確認をするゆとりがなく、おまかせにせざるをえなかった。幾点にもわたって「残念至極」があった。とはいえ、いずれの見解が妥当であったのかは、時代の変わり目の渦中にある現時点では、測りしれない。ともかく、高め合おうとする態度と情熱に対して深く感謝している。
平たく言えば、食べるために生きる意識を、生きるために食べる意識に改めよう、といわんばかりの意識の転換のススメを、実体験を通して忌憚なく提案したかった。だが、またぞろ自慢話として受け止まられかねない、との助言を得たわけだ。
工業文明は、“すべての人が共有する欲望の解放”と“消費の増大”を繁栄の源泉かのごとくに位置づけた。それが、今日の環境破壊や気候変動などに結び付けた、と私は睨んだ。そこで、“地球環境を復元”しながら多くの人の心が落ち着く方向の生き方を模索した。結果、それぞれの人が、“それぞれ持って生まれた潜在能力の発見と発露”、そしてそれを可能にする"心がけ"の特定こそが肝心、と直感し、実践した葛藤の記録である。
まず、心がけとして"生きる理念”を見定めた。その理念に沿って判断を下す方式で私生活から取り組み始めた。幼き頃の記憶がよみがえり、美意識や価値観が一転し、生きる自信と誇りを自覚し、心が落ち着きを取り戻した。その余勢をかって、勤務先でも"生きる理念”が誘う美意識や価値観に沿って、許された権限を行使した。あえて言えば、私の任務は、この"生きる理念”に誘う美意識や価値観に沿う発案と叱咤激励が、つまりひと手間二手間かける喜びを攪拌することが役目になった。関わった組織はことごとく、ことがうまく運ぶように動いた。その紹介をしたかった。
28日、乙佳さんには、末富さんと一緒に訪ねてもらえ、1つの課題は解消した。次いで、雨水流入を話すと、親方にも駆けつけてもらえた。親方にはまず、揚水器は作動しているが揚水能力が極端に落ちていたことを突き止めてもらえ、補修がかなった。乙佳さんは私の意見に沿って対処療法を考え始めていたが、親方・夫の判断に対して尊敬の眼差しを注いだ。作動=フル稼働と思い込んでいた私は乙佳さんの姿に共感した。
この日、ツクツクボーシが庭で盛んに鳴いた。妻にワケギの球根をラッキョの要領で漬けてもらった。
29日、6度目の外出は近場の眼科医。目の老化現象などを総合診断し、次回は3か月後に。帰路、眼科医の向かいのお宅の門口で足が止まった。「寄せ植えか!」
午後、元アイトワ塾生代表お二人を迎え、しばし歓談。
30日、台風は南にそれた。だが予測進路は北に反転することになっている。畑では、蔓性作物(ゴーヤやカボチャなど)が、水分に恵まれてぐんぐん伸びていた。だが、その矯正は台風が過ぎ去ってからにした。
31日、匠の祭典の打ち合わせは、予定通りに実施。募集要綱を兼ねたパンフレットが刷り上がっていた。今回のパネルディスカッションでは、日本でのしかるべき住まい・木造建築のあるべき姿が問われる。池田望さんや下村知範さんが収録し、編集する。
かくのごとく31日間を過ごした。外出はすべて近場で7回。その所要時間は20時間ほど。残る724時間余を3500㎡の空間に閉じ込もっていたことになる。さまざまな自然現象に触れた。
この時空に、よくぞ『庭宇宙』と名付けておいたものだ。また、この生き方や暮らし方を強いた時空、あるいは許した時空を『先楽園』だと睨み、対峙し始めた頃を、とても懐かしげに振り返った。
おのずと古代ギリシャの「樽の哲人」に想いを馳せた。同時に、その心境にこの私が近づくためには足も酷使して、足掻かざるを得ないだろうとの覚悟もした。だから、先に楽しんでもイインダ、との想いが『先楽園』を発想させた。
5.先楽園で、まるで3人の孫と
その最初は4日のこと。商社時代の親友の長男に、「息子を連れて・・・」と、埼玉から訪ねてもらえた。
親友は独身寮仲間であった。数年で商社を引いて家業を継いだ。それが親交をより深めさせた。互いの想いを語らいたかった。地元の仲間を集め、年間セミナーも組んでもらえた。二夫婦で温泉旅行もした。ついに妻は、東京での個展のおりに、泊りがけで埼玉まで、1人でお邪魔させていただくまでの仲になった。
「息子の仲人を」と言ってもらえたし、親友が夭逝した折は夫人から、葬儀委員長をお仰せつかった。この度は、その孫の成人姿にお目にかかれた。
次いで11日(日)のこと。電話で「長男に婚約者が・・・」と、大井夫妻から聞いていた通りに、4人連れで訪ねてもらえた。この夫妻も、頼まれ仲人だが、かかわらせていただいた。その後、今日まで四半世紀にわたり、毎年2度、3度と顔を見せてもらう仲を保ってきた。
かつて「息子の首が、やっと座った」といって連れて見えた時は、「字は違いますが・・・」と、私と同じ読みの名を息子に与えたことを教わった。その後、野球に夢中になった息子を連れて見えるようになった。夫妻は幾度か、息子を呼び捨てにして叱るたびに私を思い出す、とおっしゃった。
この間に、今は財団のトップでもある橘さんを迎えた。今年最初の来訪だが、拙著『人と地球に優しい企業』(1990年 講談社) が縁で付き合いが始まり、植林活動などの社員旅行でUAEやエジプトにもご一緒した。その後、今日まで、断続的に付き合ってきた。
人形工房の屋根部は草屋根だが、橘さんが社長当時の東邦レオ社に、実験プラントとして手がけてもらった。草屋根の民需拡大を私は夢見ていた。樹木医でもあった常務(この制度の第一期生) の木田さんが、自ら取り組んでくださった。これは、自然の摂理に添う生き方を目指す上で、大事な工夫だと思っている。
だから、その後2年でこの地にふさわしい植生をかなえ、私は自動給水を不要にしている。
こうした成果のほどは“ガーデニングブーム”を作った雑誌『私の部屋ビズ』の編集長・八木波奈子さんに、記事として取り上げてもらったこともある。
次いで18日から、昇さんに泊りがけで来てもらう予定があった。これが、3度目の孫を迎えたような気分になるキッカケを作った。この子息・慧生クンの来訪は、実は3度目で、待ち受けていたようなところがあった。
最初の来訪時は父親譲りの“頑張りやサン”とみた。2度目の折に、新たな一面に気付かされた。未来を見据える話題を好む若者だった。その農的仕事ぶりは、未来に備えるための学習かのように感じさせる青年で、「この必然性を、直感で」見通せているのでは、と感じたものだ。そこで、独自のテーマを用意して取り組んでもらった。それはセメントを用いる“階段づくり”であった。彼は、セメントが乾いて固まった時への配慮を欠いていた。だから「しめた!」と、わが身を振り返りながら喜んだものだ。
キノコで私は、逆の失敗をしている。先に、毒キノコがあることを学んでしまい、いまだに「万が一」が不安になって、勇気がわかない。
待ち構えていたテーマは、2日目に取り組んでもらった。それは、工事に要した杭が、セメントと一緒に固まって抜き取れなくなっていたこと幸いとみたテーマだった。このままでは坂を下りる人の躓きの原因になる。だから、コンクリートを割って取り除き、その痕に長いポールを打ち込む作業であった。いわば、ブルーベリー摘みをする人のために“転ばぬ先の杖”を提供する作業であった。
彼の頑張りはこの日も尋常ではなかった。それをより有意義にしたくて、助言もした。失敗は活かしようで、応用力、発想力、あるいは挑戦力などを育む源泉になる。
その後、チョット空き時間ができた。 “カルミアの種房取り”なる新たなテーマ選び、昇さんを通さずに直接提案した。あっという間に片づけた。
もちろんひいき目になった祖父のごとき見方だろうが、彼の動き方は今道友信が『ダンテ「神曲」講義』で述べた言葉を思い出させた。「天国とは働かずにグウタラに過ごせるところではなく、やりたい仕事がいっぱいあって好きなだけ勤しめるところ」だ。
同時に“先楽園”を発想させた恩人を振り返った。二十歳の時に10日ほどお宅に尋ねた(その5年後に夭逝された)大内義男さんから学んだことだ。釈迦と後楽園や偕楽園の関わりを伺い、痛く感じ入った。
“先楽園”を文字化できたのは、40年以上も後のこと。大本山大覚寺の華道・嵯峨御流の機関誌「嵯峨」にエッセイの投稿をと言っていただけたからだ。2001年1月号で“先楽園”を発表した。その後、チョと加筆して『庭宇宙』で引用した。
古(いにしえ)の文化を尊び、近代科学の成果物を活かし、なんとしても“地球環境への負荷”を控えながら、自己の潜在能力の発見と発露がかなう生き方はないものか。私なりのこたえを得たような心境になりつつある。分かって来たことは、その生き方は千差万別で、2つとして同じものはない。にもかかわらず、相通じるものがある。それは、互いに高め合おう、助け合おうとする意識ではないだろうか。そのような心境にされる触れ合いが多々、の葉月に感じられた。
6.その他
1、クレオパトラが好んだ野菜が、庭で自生したk
この夏も、ゴーヤ、ツルムラサキ、エゴマ、オオバ、そしてハナオクラだけでなく、トウガンもこれまで通りに、自然生えで賄えそうになった。ここに、クレオパトラが好んだと聞くモロヘイヤも、いずれは加えることができるのかもしれない。
今年のモロヘイヤは、義妹にもらった苗から育てることになった。だが、その苗を植えていない場所で、いわんや種などまいていないところで、「モロヘイヤに違いない」とこの11日に叫んだ植物が、いつの間にか芽生えていた。それがグングン育ち、この28日には花をほころばせ、「間違いない」と確信するに至ったのだ。
義妹にもらった苗の分は、4カ所に分けて植えた。月初から整枝を兼ねた収穫が始まり、本格的収穫は中旬から。以降次々と枝分かれする枝を順次軸ごと収穫し、葉をちぎり取って食用にしてきた。写真は28日の収穫。
だから今年もこれまでのように、種を結ぶ機会を晩期まで与えないだろう。にもかかわらず、このたび初めて1本だが芽生えた。だから、この自然生えは大きく育つにまかせ(今後とも軸も葉も収穫せずに)種を好きに結ばせ、存分に落とさせてみることにした。
エジプト原産と聞くモロヘイヤだが、この庭が自生するまでの気候になったのかもしれない。
2、これも自然の摂理? ツルクビカボチャが生きるモードを切り替えた
今年は、3か所で5本のツルクビカボチャの苗を植えた。その2本はニラコーナに植えたが、うち1本が順調に育ち、最初に着果。その緑色の実は大きく育ち、写真に収めようとした時に、既に何者かにもぎ取られていたわけだ。
その後、この蔓は新たに1つ、緑色の実を結んだ。この実は畑全体で言えば3番目の着果だと観ている。もっとも、このカボチャは一重の中国ホウセンカなどと混栽状態だから、気付いていない実が隠れているかもしれない。
次の1本は、自然生えのゴーヤの第1の畝の北端に植えた。白い実だが、畑全体では2番目につけた。この畝ではゴーヤが、次いでツルムラサキが自生し、その後1本のナタマメの苗も植えており、混栽状態になった。そこで2つの緑色の実を結び、計3つが育っている。この間に、白い実と、緑色の実の1つには白い布でカモフラージュした。
残る2本は、畑の中ほどにある畝に1mほど離して植えた。乾燥しやすい畝だが、2本共に順調に育ち、やがて実を結び始めた。だが、日照りが続いた。
この2本のツルクビカボチャは子孫を残すことを第一にしたような非常時モードに入り、種が入る下部に全精力を振り向け始めたわけだ。
その後、激しい雷雨と夕立が、中1日の快晴の日を挟んで降った。この十分なる水分補給とその後の快晴が、この2本にモードの切り替えに踏み切らせたようだ。それは種が入らない鶴の首状の部分を太らせるモードである。だからだろう、2本共に最後に着果した1つを、いわば流産のごとくに落とし、最初の1つの上部を太らせ始めた。
この時点で、3つの実を結んだ方は、2番目の実を太らせるか流産させるかで悩んだのかもしれない。その2日後に、太らせるモードに決めたようで、いびつだった上部が日ごとに修復していった。
2つの実をつけた方は、残した1つに集中的に勢力をそそぐ性向を明らかした。やがてこのカボチャが、まるで理想のスタイルを追求していたかのごとし、になった。
もちろん、これは十分な水と太陽光がなせる業だろう。だが、ならば犠牲など出さずに、着果したすべての実を残し、結んだすべての種を育てる方が理にかなっているんではないか、と当初は疑問が残った。だが今はこの疑問が晴れた。“理想のスタイル”で種を採ろうと思っているからだ。
3、誕生祝い
86歳の誕生祝いとして、なぜか絵本を贈って下さった方があった。
まず、幼いころの思い出をよみがえった。父におねだりして幾度も聞かせてもらった物語だ。それは、おいしいマンゴーの実が断崖絶壁に実っており、それを工夫してサルに採らせて、味わう話だった。
次いで「どうして!」と疑問がわいた。鬼退治をして宝物をせしめる物語なども聞かされていたのに、この話を一番に思い出したのか。おかげで、このマンゴーの話は父の作り話であったのかもしれない、とも考え始めている。
加えて、もしあの頃に、このたび頂いた絵本を、父に読んで聞かされていたら、どうなっていたか。さらに、この想いを父の想いとして語り聞かせてくれていたら、と考えもした。なぜだか、この絵本をベストセラーにしている人たちに言い知れぬ共感を覚えた。
4、コメ問題で、真面目に不真面目なことが
17日の夜、妻の姉から電話があった。用向きは「コメを分けてもらえないか」だった。18日に迎えた昇さんに問うと「スーパーにも(コメの棚に)ありませんよ」とコメ問題をご存じだった。
21日に天声人語も取り上げた。「油断していた」と私は痛く反省した。
西ドイツの初期の大統領は「食料自給率が80%を切ったら最早国家ではない」と語っていたように記憶する。それを知ってかどうかは分からないが、フランスのドゴール大統領は「1%でも下回ったら国家ではない」との認識を示しており、在任中にフランスは食料自給率を130%にしていた。今も100%を大きく上回っている。
わが家では20年前から、定期的に (代金を何回分か前払いして) コメを送ってもらう約束を、特定の農家と交わしていた。スリランカ旅行でのツイン部屋の相棒で、人柄に触れたのがきっかけだった。
問題はこの後だった。私と相談せずに、必要な時に必要な量を後金で送ってもらうように変更していたのだ。 私にすれば、約束を反故にしていたことになる。なぜ「システムは変えずに」量だけ減らして、元の姿(わが家の分だけ)に戻さなかったのか。こうした変更をする場合は、なぜ相談してもらえなかったのか、と猛烈に反省した。
わが国は、ライフラインという和製英語をうみだしておきながら、国際的には、あればあるに越したことがないモノを輸出して、なければ生きてゆけないモノを輸入して、国を成り立たせている。
5、ワケギの球根をラッキョに見立てた。
畝の仕立て直しの都合で、何年も植えたままになっていた小さなラッキョ (経年で、数は増えるがラッキョはおしなべて小さくなる) をこのたび掘り出してしまった。
小さなラッキョは掃除が極端に面倒だし、私は1年ものの大きなラッキョの方が好みだが、この小さなラッキョの粗掃除を引き受け、面倒がる妻に漬けてもらうことにした。
それは、チョット想うところがあったからだ。母は、食べ物を選り好みする男を嫌ったから、ラッキョでも文句が言えなかった。ラッキョの漬物を母にせがんでも、小さい方が高価なのに、小さい方しか買ってくれなかったことだ。なぜ小さい方にこだわるのか、気になっていた。
このたび気付いたことがあった。ワケギの球根を、ラッキョを漬ける要領で漬けてみてはどうか、と思いついた。初めてワケギの球根の掃除にとりかかり、妻に漬けてもらうことにした。
6、苗代より高くついたキュウリだが
これも幸運の1つだろうか。13日に初めて、姿がよいキュウリが2本揃って採れた。この夜は、キュウリの個性差をこよなく愛でることになったのだから。
夜も酷暑だったからか、珍しいことに妻はグラスを2つ出した。だからブルーチーズをクラッカー代わりに焼いたパンに塗りながら、いつもの丸かじりではなく、両のキュウリを真っ二つに切ってもらった。それがヨカッタ。
これが、粒ぞろいのキュウリが2本揃って採れたこの夏最後になった。
7、目覚め時の、加齢対策
父が愛用した品で、妻が嫁ぐ時だったか誕生日に父に贈った籐椅子がある。この日焼けした上に籐がすっかり乾ききった寝椅子を、家具師の森さんに習った方式で(塗装と湿り気を与える塗装で)で再生してみた。
このところ、恒例の洗面の後でも、なぜか体がしゃんとせず、しばし横たわっていたくなることがある。だから半日がかりで、この再生仕事に取り組んだ。
この保湿がうまくゆけば、年に1度のルーチンワークが増えることになったが、何かの作業を削ることで新たな生活スタイルの模索をはじめてみたい。
8、キセルガイの生態に、やっと近づけた
かねてから畑でキセルガイの抜け殻を見つけてきた。この庭では、かなりの種類のリクガイが棲んでいることは分かっていた。これも私たちの第一級の宝物にしてきた。
わが家のリクガイの中で、最も不可思議な1つがキセルガイであった。抜け殻にはしばしば巡り合うのに、生きた姿にはこれまでに1度しか出会えていなかったからだ。
この度、野小屋の前で雨ざらしにしていた薪を分別し、昇さんにカフェテラスまで運んでもらうことになった。その分別時に、一度に2つの生きたキセルガイに出くわした。
大声で昇さんを呼んだ。見つけたキセルガイを指さしながらるる事情を説明した。その第一声は「いっぱいいますよ、2匹と違いますよ、」だった。
それはいずれもが、よく似た大きさだし色だった。ここで発生した兄弟姉妹かもしれない。初めて知り得たキセルガイの生態の一面に触れたわけだ。この時空への想いがまた深まり、老いた胸が膨らませながら、幾つもの薪をこの場に残し、キセルガイをこれら残した薪に移動させた。