目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 季節はスイフヨウ、アサキマダラ、そして柿の葉寿司へ
2 畑に妻が出たくなるように、冬野菜こそ!
3 作業ではなく創造の喜びを!
4 リズさんの里帰りと、民が主の国とは
5文化と焚火、そのココロ?
6いわば人体実験を報告など、その他
文化と焚火 と「さぁ大変」「庭宇宙よ」
スイフヨウ、アサキマダラ、トウガン汁、柿の葉寿司、そしてホトトギスへとつながる神無月の上旬、フミちゃんの来訪日・火曜日に開け、上旬は知範さんを迎えて当月記9月分原稿の引き継ぎで暮れました。雨にも恵まれ、気温が下がり、昇さんなど常連の他は、来訪者も(リズさんの里帰りと操体師の川上さんの来訪など)少なく、外出も野菜の苗と種を求めて出ただけで、夏野菜の失敗にこりて、もっぱら「冬野菜こそは・・・」と、励みました。
1日のフミちゃんは妻と除草。その出来栄えに私は苦笑。昇さんは5日(土)に “イノシシ坂の竹垣”の改修に手を着けたり、私と冬野菜の畝作りに励んだり、でした。また、妻は一人で、台所の出窓によじ登り、これが最後になってほしいと願った掃除に励み、私は一人で、残暑で作付けが遅れた冬野菜の育て方に、工夫を凝らして挽回を期しました。こうし合間に、懸案やルーチン作業をかたっぱしから片付け始めたのです。
懸案とは、まず優れモノの廃物が出たので、ある柱の気になっていたコーナーのカバーに活かした。次いで、不要になった雑巾掛けを、妻の老化に配慮して活用した。あるいは、剥がれかけた壁紙の接着など。ルーチン化した案件とは、定期的に行うツタの剪定。種を落としそうな野草 (イラクサやミズヒキなど)だけでなく、シュクコンソバも刈り取った。加えて、底がはがれた古いズック靴をまた取り出して、接着し、庭仕事用に下ろした、など。
これらの他に、次のようなトピックスもありました。2日のトッテンさんに始まり、くだんの叢書に関して4人の感想をありがたく伺った。広縁の雨漏り対策で、板金屋さんの治し方に感動した。妻はハッピーの散歩で、ヤマカガシと出くわし、ルートを変えた。あるいは、地べたで脱皮するクセがあるへビが、この庭に居そうだと感じた、など。
雨に恵まれなかった中旬は、焚火の最中に大勢の警察官に踏み込まれ、それが感激のひと幕に結び付くことで明け、20日は昇さんに加えて土橋ファミリーも迎え、庭仕事がはかどっただけでなく、賑やかな歓談で暮れました。この間に、次のような7つのトピックスがあったのです。
あらかたの夏野菜を始末して、畑をほぼ冬装束に改めた。失敗学会で知り合った浅井さんを迎え、翌月2日に迫ったアイトワでの花活けの下打ち合わせ。浅井さんと知り合う機会は、岡田さんが作って下さったが、岡田さんに立ち寄っていただけた。かつて被った深夜の(無断家宅侵入と器物損壊)事件で、続きの話があった。20日は庭仕事も賑わいましたが、それは妻が前日から手を付けた柿の葉寿司を、庭での昼食で、振舞ったオカゲが大だった。7つ目は、ガザでの殺戮に想いを馳せる機会に2度も恵まれ、人間の性について考え込まされたことです。
下旬は、水鉢で1つの実から育てたヒシが、11倍もの実をむすんでいたことを知ることで明け、月末は瞳さんを恒例の用件(藁と木灰の交換)でお迎えするなどビッグな1日で暮れました。
この間もトピックスが7つありました。まず、私淑する2人の医師と、妻のことでまた相談ができた。今後かかりつけ医になって頂く町医に、7月来続けてきたいわば人体実験を報告し、受け入れ態勢の心準備をしていただいた。宙八さんを久しぶりに迎え、同伴者が再訪であったことを喜び、次なる再会を期した。なんと枝豆を4軒から頂き、堪能させていただいた。庭仕事では、昇さんに庭木の大剪定に手を着けてもらった。畑では、冬野菜で試みた工夫などが期待通りに捗り、畑はスッカリ冬景色になり、妻が朝な夕なに野菜の収穫を始めたのです。
問題は、妻の症状に関して、2度仰天することが生じたことです。認識と現実の乖離を思い知らされたり、近場の地理が飛んでしまい、迷子になりかけたりしたことです。
~経過詳細~
1.季節はスイフヨウ、アサキマダラ、そして柿の葉寿司へ
例年なら冬野菜の準備を9月半ばまでに手を付けていた。今年は夏日が続き、路地での無農薬栽培では、種を蒔く気がおこらず、月明け早々から慌てぎみに挽回策に躍起になった。
それは、神無月が明け、初日に「間もなく気温が下がりそう」との、まるで“御告げ”かのごとき感触に恵まれたおかげ。それは、庭仕事を切り上げ、妻と温度計道をのぼっていた時のこと。萎んで落ちたフヨウの花に、背を丸めて食らいついた雌のクワガタムシを妻が見つけた。その甲虫が「急ぎ越冬に備えなければ」と慌てているかのように私には感じられた。
この庭では、この一重のフヨウは9月の10日から咲き始めていた。次々と咲くその花の蜜や花粉に惹かれ、チョウやアリなどが集っていた。ついぞ、クワガタムシがその萎んで落ちた花に引き寄せられとは知らなかった。凝視しているうちに思い出したことがあった。
20年ほど昔のこと。このたびのクワガタムシと出くわした所から3mと離れていない所で、初めて目撃した不思議な光景があった。肉食の昆虫だとおもい込んでいたムカデが、熟して落ちた柿にむさぼりついていたのだ。
この、熟し柿を落としたフユウガキの木は、未だに大きくなっていない。このたびの萎んだ花を落としたフヨウの木を覆うかのように枝を伸ばした程度で、紅葉が始まっていた。庭のモミジはまだ青々したままだ。
温度計道をさらに数mさかのぼると、右(北)側にスイフヨウの木がある。蕾を大きく膨らませていた。この木にも、冬野菜の準備を「急がなくては」と急かされたような感じ。コカブやダイコンの種は、小雨で明けた3日にまくなど、挽回策は順調に進んだ。
このスイフヨウは、今年は8日から咲いた。夕刻になると酔いが始まり、翌朝には酩酊のごとし。よくぞ酔芙蓉と名付けたものだ。
温度計道のゆるい坂を毎日幾度も上り下りする。フユウガキがいよいよ色づき、紅葉した葉を落とし始め、日を追うごとその数を増やした。
幾つもの酔芙蓉がほろ酔い加減になったある夕刻のこと。私たち夫婦は、互いに落ち葉を拾って持ちかえっていた。いずれの葉が・・・と、その妍を競い始めた。
ある日、妻は午後のお茶の菓子受けにも生かした。脱帽。
庭ではジネンジョやイタドリが種をつけていたことをダイニングキッチンで知った。妻好みの、ジーッと眺めるほどに味わい深くなる種だ。
翌日、このような種もある、とばかりに庭の一角に妻を案内した。
ハクモクレンの種房を、カラスが落し始めた時は、妻が教えてくれた。
物忘れ症状は、こうしたセンスをむしろ敏感にするのだろうか。種が大きくなり、殻を破ってオレンジ色の姿を現すと、カラスがついばみに来る。
サンショの実が真っ赤に熟れた。縁先のサンショの木にもメジロの集団がヒッキリなしにやってきて、何かをついばみ始めた。小さな実がはじけ、黒い種子を食べに来ている、と妻は主張する。私は、大昔に幼友達がメジロをトリモチで捕らえて、すり餌で育てていたことを思い出した。だから、カイガラムシなどがこの時期においしくなるのではないか、と考える。
このいずれかが正しいのか、遠方からの老眼では確かめられない。近づけば驚かせてしまう。この正解を目撃する機会に、偶然間近で眺める機会に、恵まれたうえであの世に行きたいな。おもえば、双眼鏡を幾つも持っているのに、老眼になってからは取り出していない。
やがてノバトがこの赤い実をついばみに来て、種まきに貢献し始めることだろう。わが家の庭では、ノバトが木の枝にとまって食べる唯一の餌だ。
水鉢に植えたヒシは、8月半ば頃に最盛期を迎え、先月の半ば頃から衰退期に入っていた。ついに、若い葉も黄変し始める時期になった。
ある日、咲いたばかりのスイフヨウの一輪を妻は摘んで、ワイングラスに生け始めた。酔いが回る様子を、刻々と目の当たりにしてみたくなったようだ。
庭では日根野さんにイモをもらったキクイモだけでなく、ミョウガが黄色い花を、シュクコンソバが白い花を、あるいはオキダリスが濃いピンク色の花をと、次々と咲かせ始めた。ミョウガの花は、フミちゃんと一緒に妻が草抜き時に見つけたが、その日は、昼食のソーメンの薬味になった。
日根野夫妻に誘われていながら、足のケガで、今年も出かけられなかった。ぼやぼやしていたら、足が弱ってしまう。
19日と20日は、続けて昇さんに来てもらえることになった。19日は一緒に、この庭でアサキマダラの飛来を初観察した。
20日は、昇さんだけでなく土橋ファミリーも迎えることになっていた。妻はこの日、前日から準備していた柿の葉寿司を振舞った。
22日に、フミちゃんを迎えた。この日は、アサキマダラをまた迎えただけでなく、妻も交えた3人で、同じ蝶の仲間・タテハチョウも観察できた。
前日、玄関わきの水鉢で育ててきたヒシの、黄変した葉を始末した。「もう秋だ」との想いを強くした。ヒシの黄変した葉が腐植し、水を汚さないようにと、取り去ったわけだ。実の数を確認する機会にもなった。1つの実から11個に増えていた。
幼いころのこと。近所の池でヒシの実を採り、蒸してもらって食べた。外見は真っ黒だが、中身は半透明で白く、水っぽくて、期待した甘さがほとんどなかったように記憶する。
このたび初めて、ヒシは落花生(ピーナッツ) に倣って言えば、いわば“沈花生”だと気付かされた。花が水面で初めて咲いたのは8月15日だった。その花が水中で実を結んでいたことを知ったのは9月28日。その丁度1か月後に、実がこんなにもたくさん、と知り得たわけだ。
穏やかな日々が続き、次第に秋の気配が深まり、雨にも恵まれ、冬野菜の挽回策も順調に進んだ。
かくして28日を迎えたわけだが、この日の夕刻のこと、あろうことか、神にもすがりたくなるような迷子事件が生じてしまった。
2.畑に妻が出たくなるように、冬野菜こそ!
プロローグ
このたびの夏野菜の不作は、わが家流の生き方に一石を投じた。ナス、インゲンマメ、そしてキュウリはほとんど採れなかった。トウガラシの出来は惨めなほど小さかった。その上に、トマトが早々と末期を迎えてしまった。
わが家の生き方と、わが加齢の進み具合をかんがみて、考え込まされたわけだ。二者択一を迫られたような気分にされた。この生き方に対する想いが、グラッときた感じだった。
日々の「採るものがない」と妻は不満の声を漏らし、足を畑に向けなくなった。私がモロヘイヤ、ハナオクラ、あるいは出来の悪いゴーヤとトウガラシを収穫し、持ち帰るハメになった。
おのずと妻は買い物に出かける回数が増えた。1回当たりの買い物の目方も増えた。だからついて行くことも増えた。ある日のこと、妻がスーパーの売り場で、次々と野菜に手を出していた時のこと。ボーっと考え込まされた。
妻の動きが、無農薬有機栽培の路地で多品種超少量生産に当たってきた身と比べ、いかにも安易で安楽そうに写った。しかも値上がりしたと聞いていた野菜だが、いかにも安価に見えたのだ。戦中戦後は、エンゲル係数が過半を占めていた。
この時に、ハッと気づかされたことがあった。「今夜は何が食べたいですか」と妻がしばしば問うようになっていたことだ。これまでは妻任せになっていたから、やむなく、咄嗟に「マーボ豆腐」と応えた。
次に同じことを問いかけられた時は「エビチリ」と応じている。3回目からは「マーボ豆腐」か「エビチリ」で通すことにした。妻はあきれて、問わなくなった。同時に「造る身にもなって下さい」と初めて愚痴った。
これまでとまるで逆さまだ。これまでは私が在宅だと「造る気が興るので」と、目を輝かせていたのに。
「どうしたものか」と、思案した。何せ食事は、妻が用意したものをありがたくいただく、をモットーにしていた。それが、亡き母の教えでもあった。「男は、出されたものを、ありがたくいただくものです」。
「どうしたものか」、と二者択一を迫られたかのような気分にされた。選り好みの手軽な生き方があるのではないか。
料理に対する意識を妻は大きく変え始めていたわけだ。わが畑で主要な野菜を得ていた時は、収穫しながら妻はメニューを決めていた。今は逆に、安易に野菜を買えるようになってから、メニューを決めてから買い物に当たるようになった。
このどちらが、健忘症が始まった妻のために、よいのか。悪いのか。
やがて、「冬野菜こそ・・・」と気を取り直した。「冬野菜こそ」との想いで畑に立ち向かいたくなった。選り好みの手軽さに惑わされ、お金に振り回され始めたのではないか。挙句の果ては・・・と、想いを巡らせ始め、「イカン!」と我に返った。
おもえば、この気持ちに火をつけていたのが、あの雌のクワガタムシではなかったか。
畝の仕立て直しを昇さんに頼れたことが、誠にありがたいことになった。いにしえの“結”(相互扶助システム)に想いを馳せた。
まずアイトワ菜の種を厚まきしていた。ハクサイやブロッコリーは、種まきが遅れた分を取り返すために、買い求めた苗で挽回の手を打った。チマサンチェは、2本だけ苗を買って育て、この葉をかき取って用いている間に、後続の収穫がかなうように育つことを願い、種から育てる分を用意していた。
チンゲンサイやサラダ菜などのまいた種は順調に育った。昇さんをあてにして、夏野菜の畝を次々と冬野菜用に仕立て直してもらった。
中旬には「キット妻は、毎朝・・・」収穫篭を片手に畑に出て、あちらへこちらへと畝を巡ることだろう。限られた数の野菜の中から旬の野菜に呼びかけられて、メニューを夢見始めるに違いない。半世紀にわたって続けてきたこの生活習慣に戻り、打ち立てていた生活パターンを再開できることを願った。
この夢をつないでくれたのが遅ればせの夏野菜だった。本格的なトウガラシが採れ始めた。遅がけに植えたシカクマメ(苗を昇さんにもらった)と、第3次のインゲンマメの収穫も始まった。加えて、ハナオクラとニラは晩期だが、モロヘイヤとツルムラサキはまだ最盛期で、いずれも収穫が続いていた。
「あれもヨカッタ」と、妻の料理に対する意識がよみがえった2つのキッカケも振り返った。残暑がおさまり、気温がチョット穏やかになり、立派なトウガラシが採れ始めたときのこと。畑には貧相なトウガラシの採り忘れがたまっていた。赤くしてしまった分も一緒に持ち込んだ。翌朝、妻は喜々と喫茶店にデヴューさせた。
少したっぷりめに採れた青い分は、久しぶりに佃煮風に煮て「1軒なら、送れそう」と言わせた。「ならば」と、元は顧問先の経営者で、今は私設介護記念館でお過ごしの方を選んだ。夫を亡くされて、社長を引き継がざるをえなくなった折に、紹介者とお訪ねくださったのが縁であった。
礼状を読み、妻はことのほか喜んだ。私は、思い出したことがあった。ある時、何にでも対応できる名経営者ぶりを褒めた人があった。彼女は「私は、主婦でした」と、なぜか胸を張って返された。その誇らしげな気持ちが、文面から読み取れそうな心境になった。
主婦と経営者は相通じるところがありそうだ。創造力と挑戦力などの発揮が決め手ではないか。
かく気づかされた時に、気付かされたことがあった。妻の料理は今や「創る」ではなく、「作業」に成り下がりかけていた。
ありがたいことに、まともに収穫できたトウガンとカボチャの恩恵にも浴し始めた。冬青クンはじめ幾人かにお裾分けができただけではない。
昨年の妻のトウガン汁の味を、昇さんに覚えてもらえていたこともヨカッタ。俄然妻はハッスルし、調理をして見せ、自流のレシピを開陳した。もちろん私も、「毎日でも、」と所望した。
和でも洋でも、昼食にも、妻は手を変え品を変え、活かし始めた。
頂き物にも恵まれた。“紫頭巾”をいただいた時は、初めて試みる“おにぎり”が上出来だった。
畑からオオバの種を採ってきて、サンショウのごとく「香辛料に!」と、初めて挑んだ。
草むらからミツバを探し出し、摘んで、かき揚げうどんに、などと続いた。
その後、ありあわせの野菜をまぜこぜに活かしたビフカツサンドが昼食に出た。オニギリ持参の昇さんに、少しでもと、剪定バサミで私は切った。妻は小うるさいことを言わず、楽しそうであった。
出遅れた冬野菜作りの努力のほどや、挽回策が「正解だった」と、28日の午後に2度実感した。まず「まだ明るい間に」と昼過ぎに、アイトワ菜を初めて間引いた時であった。種を厚まきしておいてヨカッタ。次は、夕食時のことになる。
この間の夕刻5時に「かかりつけ医に」と決めたクリニックを訪ねている。咳と“タンの切れ”が悪いことを口実に、くだんの報告が目的であった。そこで、次のような神にもすがりたくなる気持ちにされることになる。
4時半過ぎに、妻の運転で、義妹 (肩の手術後、まだ運転ができない)も乗せて、家を出た。まず私をクリニックで降ろし、妻は妹を最寄り駅まで送った。その後、妻はクリニックまで取って返してくることになっていた。だが、往診中に「そこに行けないの。同じところを回っている」と、迷子事件の電話があった。クリニックまでの道順を教えた。
吸入器にかかることになった。この5分間はヒヤヒヤした。この直後に、「元のコンビニに戻っている」「ケイタイの電池が切れかけている」と知らされた。
ヤッサモッサがあったが、なんとか2人は出会えた。ヘトヘトになって無事に帰宅した。
妻は夕食の準備に取り掛かった。昼過ぎにまびき、少し萎れかけた青菜を手にとると「大丈夫ょ」と言って、にわかに元気になり、“揚げと青菜の煮物”も用意した。私好みの冬の楽しみの初物だった。
この初物は、陽があるうちに間引いておいただけでなく、私淑する2人の医師のおかげで恵まれたことになる。
何とか出会えた時のこと、カッとはならず、帰途の車の助手席から、なんとも不思議なほど穏やかに妻に話しかけることができた。
これは、現役を引退された医師だが私設医院の元院長のおかげだ。高安医師はココロの面から、丁寧に望ましき助言をして下さった。
この前に、もう1人の私淑する現役の医師にも相談していた。2通りの治療法があるが、まだカラダの面から進行を和らげる段階で、治すには至っていない。加えて、もっと大事なことがありそうだと気づかされるヒントを頂いていた。その上での、ココロの面からの助言であった。
覚悟のほどが固まった。感じるものもあった。
3.作業ではなく、創造の喜びを!
神無月に入って間なしに「異常な年であった」と、実感させられることが次々と生じた。そのキッカケは、フェイジョアの実を1つ、頭に当てて落としてしまい、シマッタと悔やんだ。剪定くずを捨てに行く道中でのこと、であった。
わが家の庭には小路を張り巡らせている。その一カ所でフェイジョアの枝が小路に覆いかぶさるようして張り出している。その下を、剪定くずを両手で抱えたまま、囲炉裏場まで急ぎ足で通り過ぎようとした。頭にコツンコツンと当たるものがあった。落ちた。
帰途で分かったとだが、1つではなかった。葉と同じ色の若い実を6つも落としていた。おかげでこの木が、初めて実をたくさん着けていたことを知った。南方の果物だと聞く。
「もしや?」と、おもうところがあった。イノシシスロープへと急いだ。このゆるい坂道の道中に、自然生えのシブガキの木が2本ある。「案の定」今年は、日陰の枝に2つしか、実を見つけられなかった。
例年なら“鈴なり”で、熟す時期にサルを呼び寄せるのが常だった。
この坂を20mほど下ったところで1本のフユウガキの木を育てている。キチンと点検できた。実が1つも着いていなかった。
門扉脇の自然生えのクボガキも調べた。1つも実を結んでいないようだ。
これは「異常だ」と、母屋のそばで育つ苗木から育て66年来のジロウガキ(二十歳で初めて植樹に取り組んだ記念樹)も確かめたくなった。道中に、これと同い年のフユウガキの木(その枝で、フヨウの木を覆うようにして 生えており、この下で例の雌のクワガタムシを観た)が生えている。共に実を1つも着けていなかった。
「何か異常なことがあったンだ」。なり年でなくとも、ここまで実がつかなかったことはなかった。これまでのように、着果はしたが虫害などで落ちた、ではない。もとより着果していなかったことを振り返った。
ならば柿が、全滅の年か、といえばそうではなかった。最後に調べたシブガキ(野小屋の側で育てている大きな実がつく木)は、平年並み、と言ってよさそうだ。何かがおかしい。
そう言えば、今年はキノコも、出た数や種類が少なかった。当月は、雨に恵まれたが、まだ4種6本しか見かけていない。その1種は初めて見る環境に出ていた。2種はまれにしか出ないキノコだ。残る1種は、初めて見たキノコであった。
野草のミズヒキとスズムシソウ、そして救荒野菜にと見ているシュクコンソバは、種を落とす前にことごとく刈り取ったり抜き去ったりした。これ以上増えてほしくないとの気分にされたからだ。
逆に、と言ってよいのだろうか、ナズナは、今年も(昨年は、復活しかけていたが)極端に少ない。マルバアイは? と丁寧に探したが、畝間で1本しか芽生えていなかった。後日、間違って踏みつぶさないように、と昇さんに移植してもらった。彼は、フミちゃんが間違って抜き捨てないように、と工夫した。
「そういえば」とまた振り返った。八重の中国ホウセンカやマルバアイだけでなく、モッテノホカやトウテイランにとっても今年は辛い年であったようだ。
「2年前に、ムラサキを(希少だと聞く野草で、根が紫色の染料。長年にわたって温室の鉢植えで簡単に増やせた。だが、気が付いてみると)絶やしていた。そうと気づかされた昨年は、「わが家の庭には合わない子」であった、とあきらめることにしていた。
ところが今年は、エディブルフラワーであるモッテノホカ(食用として増やしたくて、畑の畝で育てていた)だけでなく、洞庭湖のごとき青い花が咲くトウテイラン(これも温室で、容易に鉢で、育ててきた。だが、気が付くと絶え絶えに2本だけ生きていた)を、何とかして生き残らせたくなり、挿し芽で増やす手を打った。共に発根し、肥料がある土に替えた。今や共に育成段階に移っている。
「ならば」と、追加分の挿し芽の手を打った。
実は、こうした手を打っていた時点では、野草などの不調は、この庭の樹木が大きく育ち、日陰にしているせいだろう、と考えていた。
マルバアイは、昇さんの工夫のおかげで無事に花を咲かせた。種が採れそうだ。これでなお絶えるようなら「うちの庭には合わない子」で諦めよう。かつてのホウキグサ(コキア)のように。
昇さんには、樹木の大胆な剪定にも取り組んでもらうことにした。来月早々にも、野小屋の屋根を覆うカシやツバキ、あるいは野小屋の側のロウバイのあたり一帯が片付きそうだ。とりわけ後者は、大仕事だ。だが Before & After でいえば、 Before を撮りそこねた。
かろうじて後者は、途中段階で、切り取った大きな枝を運び去った後で、撮ることができた。
当月中にほぼ型が付いた大仕事は、イノシシスロープの山寄りにある“竹の丸太垣根”の更新であった。何十年来のこの更新作業は大仕事だった。2日がかりで昇さんはここまで進めた。後は“寒の入り”を待って、藪の整理時に竹を積み増すことになるだろう。
この間の私は、夏野菜で用いた竹の支柱の解体。その支柱の選別。そのまま再使用できる竹の収納。そのまま再使用が不可の竹は、来月に養生作業に当たる。
あるいは夏野菜の始末。これは、昇さんに冬野菜用の畝に仕立て直してもらうための下ごしらえ。始末した夏野菜は順次、堆肥の山に積み足した。
草刈りにもずいぶん時間を割いた。土橋夫妻に、奥庭のコゴミ畑からワラビ畑までの草刈りを見事に済ませてもらえた。
これに勇気をもらい、私は草刈りにハッパを掛け始めた。
夫妻はこの日、午後の半日を掛けて、果樹園の除草も見事に仕上げてくださった。加代夫人はピアニストだが、素手で野草を手早く大胆に抜いてお回りだ。
これにも元気をもらい、後日になったが、私はこの北側の退職記念樹のシダレウメ一帯で、草刈りとアジサイなどの剪定に励んだ。
当月は、加代さんのピアノ教室の第1号の生徒さん・宮崎孝幸さんにも勇気以上のものを授かっている。コロナ騒動を、私のように直感ではなく、医師でありながら騒動と視た人だ。
あるクラウドファンディングをネットで立ち上げられた。私も「ひと肌・・・!」と考えた。昇さんの来宅時に手続きをしようとして、驚かされた。
京大を辞めた後の、有償の“ピアノ演奏と講演会”では、500人の会場が満席で、感激した。このたびはもっと(私などが出る幕ではない。もしあらぬ出る幕でもあれば、とまで想うほどに)嬉しくなった。
妻は、フミちゃんに元気をもらって除草に励んだ。
この2人が、ニラコーナーの除草をすると、昇さんが耕し、私が畝に仕立てあげて冬野菜の苗を植えたり、ジャガイモの種イモを植えつけたりした。
問題は、ジャゴイモだ。残暑が厳しく、発芽がずいぶん遅れた。もし、降霜が例年通りに始まれば、イモを収穫できないだろう。
フミちゃんと妻の除草では、とりわけ囲炉裏場に通じる小路(トンネルアーチやヤマボウシの木とフェイジョアの木の間を通る小路)では、2人はコンを詰めて取り組み、「綺麗になったでしょー」と胸を張った。もちろん「お見事」と私は、写真に収めながら感心した。
翌日、生ゴミを堆肥の山に捨てに行く時に、この小路を通った。その折に、半世紀も前の思い出を苦笑しながらよみがえらせた。今は亡き母の草抜きの仕方とそっくりそのままになっていたからだ。
当時の妻は、母の除草法式を見て「お母さんって・・・」と、いつも微笑んでいた。それは、ある学習の成果であった。わが家で最初に長期ホームステイした人は、20歳のアメリカ女性のリズさんだった。彼女の除草に取り組む姿勢を知って初めて、妻は私が採用していた方式に倣うようになった。
この方、今は亡き母はまったく異なるやり方で取り組んでいた。それを見て当時の妻は、いつも微笑んでいた。その暖かそうな眼差しが、このたび理解できたような気分になった。
このたびの妻たちは、当時の母とまったく同じやり方を採用していた。「今日は、あそこまで・・・」と決めた範囲の草を、見事なまでに綺麗に抜く。その範囲外は、ほんの数cm離れたところで、今にも種を落としそうな草があっても、気づていないかのごとしだ。
おそらく当時の妻は、私のやり方が合理的だとアタマで理解したに違いない。だがココロでは、もっと丁寧に、綺麗に抜いて「やったゾ!」と感じたかったのではないか。その「やったゾ!」に2人は集中したのだろう。
リズさんは当時、私より手早く作業を終えた。だが、種や花をつけた草を抜いただけ、に近かった。だから私は2度と彼女に草抜きはさせていない。その是非の事情を説明できるまでの英語力がなかったからだ。その意識は、除草を作業と、さらには労働と位置付けていたのではないか。それは「リズさんの、」ではなくて、キリスト教圏の労働観ではないか。
古来、人間にとって働くことは至福の源泉であったはずだ。貨幣がやがて拝金思想を生じさせ、今日の労働観を生み出させたに違いない。
2人が「抜いた草は」と見ると、母より1歩前進し、2歩後退していた。母は、捨て場と決めたところまで運んでいた。妻は「ここの方が・・・」と考えたのだろう。側に生えているフェイジョアの木の側に捨てていた。そこは、「ここなら・・・」と、私がいずれはフェイジョアの木の肥料になるだろうと願い、この早春に抜いた草を敷いて置いた場所だった。その上に、高く積み上げてあった。
だから私は大慌てして、ともかく取り除き、2人が除草を済ませた小路に捨てた。
取り除いたあとは、春に中国ホウセンカが芽生え、自然生えしたトウガンと共に育ち、盛夏には花盛りになり、晩夏に種を結んで、その後萎れて倒れかけていた。その上に彼女たちは抜いた草を積んでいた。
小路に捨てた草は、妻が気付く前に、捨て場に移動させた。
この間の6日に、リズさんがわが家に里帰りしていた。その後、11日に焚火をしたが、警察に踏み込まれ、結果は心温まる話し合いに終わった。その助言に従って、16日に所管警察署の生活安全課と相談している。
その後、24日に無炭化器の灰取り。翌日、畑のネギ類の畝から灰まき。
26日に、妻が花をつけたクコの小さな木を見つけて、見せに来た。根がついていた。即、小さな鉢植えにした。その後、見つけたというところを聴いて、点検した。よくぞ気付いて見つけたものだ、と2度驚いた。
かくしてツワブキが咲き始めた28日を向かえた。ホトトギスが満開だった。この日の昼は、庭の野菜のかき揚げうどん。午後、アイトワ菜を間引いた。夕刻、妻の運転でわが家から数分の町医を訪ねた日のことだ。
この半時間後に「道に迷っている」との第1報。周辺の目印を聴くと、クリニックから500mほど離れたところであった。神にも頼りたくなる心境になったわけだが、まずケイタイの充電に対する意識を改めさせられている。
4.リズさんの里帰りと、民が主の国とは
わが家でホームステイした最初の外国人は、半世紀前のことで、アメリカ人女子留学生のリズさんだった。
彼女に、何年振りかで訪ねてもらえた。リズさんは今、彼女をわが家に送り込んだ同志社大学の留学生センターAKPの、アメリカ側の担当教官の立場で来日中。これが彼女の教授としての最後の勤めになりそうだ。
寂しくなるなぁ、とおもっていたら、彼女から思い出話が飛び出した。1995年夏に緑豊かなメイン州で、広大な彼女の生家を訪ねた折のエピソードだった。当時、わが国はバブルが弾けた後遺症で打ちひしがれていた。アメリカの独立記念日から、私はリズさんの通訳で取材旅行を始めた。その折の話題の1つだった。
ご両親はじめご家族と一緒に野球見物に出かけた。日本で言えば、二軍の地方巡業といったところだろうか。その折のこと、私がとても驚いたことがあったようだ。その私の驚きように、彼女はとてもビックリしたと言う。
前大統領のブッシュ一家が、私たちの席から丸見えの前の席に陣取った。前大統領は立ち上がり、周りの人を見渡して手を振った。ものものしい様子などまったくなかった。このエピソードを、このたびリズさんに指摘されるまで、私はスッカリ失念していた。
おそらく、アメリカの緑豊かなニューイングランド地域での住民生活を、運よく垣間見た気分になり、同国の民主主義のありようを追認する材料として、消化しきってしまったのだろう。その後、アメリカの研究者の書籍で、アメリカの民主主義は、先住民に倣って、初期の入植たちが打ち立てたもの、と学んでいる。メイン州は初期入植者が踏み込んだニューイングランドにあって、ニューハンプシャーやバーモント州などと共に、いわゆる環境優良企業が多い。
当時の思い出や記録を発信した情報を調べたが、彼女の生家にあった調理ストーブ(真夏なのに、お父さんが火を起こし、朝食のマフィンを焼いてくださった)の写真を、繊維業界誌でカットに用いたほかは見当たらなかった。
むしろ私には、ビールを一人で買った時の思い出の方が鮮烈だった。57歳だった私が、パスポートの提示を求められた。アジア人が見当たらない球場での体験だった。2杯目は、異なる店員だったが、愛想がよく、提示を求めなかった。
当時、欧米の企業人は意識改革の真っ最中だった。せめて、わが国のファッションビジネスだけでも同様の体質転換をしてほしいと願い、かなりの想いを記事にさせてもらった。
その後、ブッシュJ r.が京都議定書 (ゴア副大統領主導で決まったような印象だった) から脱退した。にもかかわらず、アメリカでは、環境の世紀に向けて体質転換を計りつつあった人や企業、あるいは市などは、その流れを信念として受け入れ、むしろ加速させようとした。損得などではなく、信念にそう心意気が、黒人初の大統領・オバマを誕生させたとみる。
この日は、昇さんが同席していたこともあって、私は3つの異なる思い出を持ち出した。まず、エネルギー省の高官を訪ねた時のことだった。
セキュリティチェックが厳しい頃だったが、パスポートの提示だけで、あとはスイスイと長官室の前に陣取るジョセフ・ロームさんの席にたどり着けた。彼は「こんなところまで入ってきた日本人がいる」と、招き入れておきながら周りの人に紹介し、驚きの声をあげさせていた。
取材は弾んだ。彼には30分しか時間を空けてもらえていなかった。急遽の提案をした。仕事が引けた後、レストランの代金は私が持つ、席の予約をしてもらえないか。
薄暗い、静かなレストランではもっと話しが華やいだ。忘れ得ない雑談もした。ベトナム戦争の是非を問いかけた時もその1つだ。まず彼は、無意味な戦争であった、との認識を明言した。次いで、恋人や夫、あるいは父を失った人が大勢いる。この表明は私には立場上まだ明らかに出来ない、と継ぎ足した。
当時、私は業界紙にエッセイの、一般紙にも寄稿の、それぞれ機会を与えられていた。こうしたこぼれ話には一切触れなかった。
マクナマラ元国務長官が、同戦争でおかした誤謬と反省を回顧録で表明する直前だった。この時の取材は、その後一書にまとめることもできたが、この時のこのプライベートな発言は、取り上げるまでもなかった。
次はパタゴニア社の創業者とのインタビューだった。綿製品を取り扱い続けるなら、オーガニックコットン以外は扱わない、と決意を彼は表明した。当時としては特ダネだった。だが、この件も(万が一「無理だった」になってはいけない、と配慮して)記事にしなかった。翌年、同社は公表した。むしろこれは特ダネとして日本で報道した方が、同社のためにも、日本の繊維業界のためにも有効であったのかもしれない。だが、その後も、万が一を考えるようにしている。
それにしても不思議だった。この折のアメリカ取材では、私ごときの希望したインタビューが、ことごとく実を結んだのだから。その訳は、帰途の機中で知り得たように感じた。リズさんがアポイントをとたるために用いた資料が混じっていたからだ。
彼女は、私をインディビジュアルエコロジストとだけ紹介していた。名刺も不要と言ってよいような取材だった。これぞ民が主の国ではないか、と私は感動した。
リズさんは、「孝之さんは、日本のお父さんだから、」と、アポイントや通訳で苦労したに違いない。わが家で過ごした1年間の体験なども添えて、アポイントを取ってもらえたらしい。ともかく、日本のせめてファッション業界だけでもが「何とかして・・・」との私の想いが通じたようだ。アメリカの環境問題関連の主要人物の多くの方々と面談させていただけ。紹介もされた。この折の一書は、天声人語でも紹介していただけた。
この旅で、「何としても」と願っていたことがあった。これ以前に経験したドイツ取材で「むしろわが国が先んずべしこと」と、おもわせられた現実を知っていたからだ。
アメリカでは『企業の良心度評価』とでも訳すべき本を著わし、時の人が現れていた。「モノの良し悪しでの評価・『コンシューマーズ・レポート』では、むしろ悪辣な企業(環境破壊や子どもの労働など)をのさばらせ兼ねない」との想いが誕生させた。その普及版はたちまちにしてベストセラーになった。
エネルギー問題では、アメリカで右に出る人はいないと言われる人と、BSR(社会的責任を尊ぶ企業活動団体)の総会時に食事やミーティングの機会も頂けた。工業先進国の中で、日本ほど自然エネルギーに恵まれた国はない、とうらやましがられもした。
こうした取材を通して、この動きにわが国の企業がブレると、凋落方向に舵を切ることになりそうだ、と危惧した。大統領が代わっても、環境の時代だと決意した人や企業は、政党の復活を信じて簡単にはブレない。それが2大政党国の動きであり、逞しさではないか。
クリントン大統領は、BSRの初回総会に駆け付けて、励ましている。
リズさんとは半世紀にわたる付き合いになった。彼女の社会人生活は、招聘した日本企業で、私の部下として始まった。帰国して、やがて教員になり、学生を幾度か引率もした。この合間の里帰りでも随分薪割などに携わってもらった。
その後、中旬に、わが国の非民主的な刷り物に惑わされた。この表現では舌足らずで、税金を使って国民を慌てさせるようなもの、ではないか。「マイナ保険証に疑問などを抱かれる人には、国が責任をもって“資格証明書”が送り届けられることになっています」と追記すれば、国民の愛国心高揚に供するのではなかったか。
22日の朝は、不気味は冬の朝焼けに慄いた。
雨空で明けた28日は、商社時代の後輩で今は理事から、とても嬉しい知らせがあった。だが夕刻には神にもすがりたくなったわけだ。しかし、夕食時には元気を取り戻せたし、妻は30日には餅をついた。月末には夕に、妻たちが昼に味わったパンプキンケーキのお裾分けにもあずかり、目出度し、「愛でたい」の気分になっている。
5.文化と焚火、そのココロは?
上旬のありがたくて嬉しかった出来事の1つは、2日のトッテンさんの電話から始まった。くだんの叢書の献本への返礼と感想だった。そのケイタイが鳴った時は、フミちゃんと妻が母屋の中庭で除草に当たっており、その心意気や心遣いを偲んでいた。芽吹いた数少ないセイヨウサクラソウが抜かずに残されていた。
このサクラソウは、30年ほど前から10年がかりでこの庭で自生するようになり、その後20年ほどの時が過ぎ去っている。アイトワ塾生だった後藤さんに「おふくろがぼつぼつ・・・」と言って、小ぶりの長鉢を届けてもらい、その世話をこの庭で引き継いだ。一時は大いにはびこった。今年は元気がない。それだけに嬉しかった。
その後、連日のように、献本への感想が、この道の権威から電話やハガキで届けられた。心が大きく膨らみ、神無月は幸先の良いすべり出しになった。
その2人目は「菜園家族」構想で知られる小貫雅男さんだった。先生は献本に対して“かくあるべしとの構想に添った実践紹介”である点を評価してくだった。
わが家が週休5日制の勤務で、残る5日を、私生活を支える創造と生産型の日々に活かしていた時に、先生の研究集会に夫婦で招いてくださった。そこで『菜園家族』構想を詳述した書籍を知り、買い求め、ファンになった。
3人目は、私たちは「死ぬことができるようになった生き物」だ、と気付かせてもらった高木由臣さんであった。ある研究会で知り合い、先生に相談したことがある。
ファションビジネスに関わった当初、私は未来予測に熱中した。挙句の果ては、工業文明は早晩破綻すると睨むに至り、脱サラし、著作活動に手を出した。ポスト工業社会のしかるべき姿を、私生活面から構想したかった。結果、更なる人間理解が不可欠だと気付かされ、人間を支配している、あるいは振り回す脳の構造と機能をつかんでおきたくなった。当時、脳に関する書籍は少なかった。かろうじて触れた2冊の著作で得たヒントを膨らませ、仮説をたてた。先生に「森さんならこれでいいでしょう」と背を押していただけた。人間は、人間が持つ3つの脳の活かし方次第だ。
わが国でもGDPの過半を消費者支出が占めるようになっていた。消費者の購買行動が企業姿勢を変えうる時代であることを示していた。これからの国際間競争のハンドルは、消費行動が握っている。ならば、環境問題や資源枯渇問題などは、消費者がより幸せになることを願って達成させることがのぞましい。
3つの脳の仮説がマンザラでなければ、と想いの下に私生活だけでなく、著作活動も繰り広げることにした。今日までに11著を重ねることができた。この生き方なら「生まれ直しても」と妻も実感するに至った。これはひとえに先生に容認していただけた仮説を下敷きにしたおかげだ。
この環境時代型の私生活のしかるべき農的姿が、小貫&伊藤両先生の構想と方向が酷似していたとは、当時は知る由もなかった。私はファションビジネスだったが、先生たちはモンゴルで遊牧民と厳冬も共にされた経験や体験を通して、ある本質に気付かれたのかもしれない。
トッテンさんとの縁は、新聞記事であった。ポスト工業社会のしかるべき経営者像を固めつつあった私は、とても心惹かれた。彼は、私たち家族が先行した自然循環型生活を評価して下さった。その後、自身の想いや重ねた実績を一著にされた。小貫先生を迎え、3組で会食する機会にも恵まれた。
4人目は “天声人語”でもお世話になった栗田亘さんで、長電話になった。取材などを通してわが家の実生活などを長きにわたって観察していただいた関係だ。
晴海であった教材展でのスピーチで取材いただいた。
それがキッカケになって取材の対象にしていただけたようだ。
晴海での発言がキッカケになったようで、 ある農業体験学習が実施された。その総括活動時に、やっと実名を使っていただけた。
このたびの叢書での私の一文は、環境時代へ移行する術と意義などを、私生活の詳述で訴えるものだ。おのずと工業時代(欲望の解放)のプライバシー感覚との齟齬が、なきにしもあらずであった。基底文化型の生き方感覚と、工業文明が慣れ親しめさせたプライバシー感覚とは大きく異なるにようにみる。
購買権を有する消費者が変わらない限り、好ましきSDGsの成果は望めないに違いない。この感覚の差異を押さえずして傾ける知恵は、より問題を複雑にして先送りさせかねない。この点について、このたびの栗田さんの評価や感想を機に、派生した長電話でとても勇気づけられた。
阪東妻三郎の『無法松の一生』を話題に出来たオカゲだ。折よく朝日新聞が、同映画を振り返った記事を載せていた。そこで、無法松の心情表現と軍国主義時代の空気の弊害を、助演の園井恵子が嘆いていた話題を取り上げられたからだ。この時代間のズレやギャップを引用して話し合えたからだ。
5人目は中村淳夫さんだった。同志社大学の大学院では、農業体験学習のエッセンスを活かした新講座を、環境の時代を睨んで立ち上げた教授があった。その今里滋さんのおかげで、講師同志の間柄にさせていただけた。このたびは、中村さんに「この本が、環境に取り組む若者たちの教科書になるといいですね」と評価していただけた。
この間に、ライフワークのごとき氏の『線量計が鳴る』京都公演では、多くの人の助けを得て、深く関わらせてもらっている。
中旬は、出足が遅れた夏野菜の畝の始末と、セロリやチマサンチェなどの冬野菜の準備で明けたようなものだ。午後は、囲炉裏場に溜まった山のような剪定くずを、焚火で灰にする予定だった。消防に事前に連絡を入れ、午後の2時から4時間ほどかけて、いつものようにその多くを灰にすることにした。
わが家の焚火の歴史は古い。80年も昔に、この地に疎開した母は農業を始め、村の農家に倣って焚火をしたのが最初。その後、居宅でも、当時の農的田舎暮らしでは焚火が必定だと気付かされている。灰は肥料になった。
大学に入学した私は、母が耕作放棄して久しい畑で、再開墾と養鶏を再開した。鶏糞、人糞、灰、そして堆肥を活かした菜園と植樹だった。その後、就職しても、結婚しても、サラリーマンをしながら自然循環型生活を守り、焚火を欠かせなかった。
1986年からエコライフガーデンだと謳えるようになり、門扉を開放した。5年後に短大勤めが始まるが、これはお役目を10年で果たせた。
エコライフガーデン生活の加齢対策に専心するようになり、庭木がうっそうと茂り始めたこともあって、焚火が定期的に必定の生活になった。
他方、世界的に温暖化問題が騒がれながら、自然災害頻発国であるわが国で、あろうことか、焚火を忌避する機運が蔓延しつつあった。この趨勢は原発やオール電化の波と歩調を合わせるようにして深刻度を増した。これを嘆く想いを書き残したくなった。
翌2000年、「案の定」と、目に留まった記事(悪しき誘導に国民を陥れかねないよこしまな力を感じた)があり、切り抜いた。
その後、著作『エコトピア』でも知られる内藤正明さんが、京大大学院を退官し、仏教大学に再就職(2005年)された。これがキッカケになって、わが家では焚火の位置づけを環境教育活動の一環に組み込むことになった。
先生の京大時代もその講座の一環で、年に1度は学生を引率され、学外講義を引き受けていた。仏教大でもその延長のごとき講義が始められた。翌2005年に同学生の有志から、学生(社会福祉クラブ)主体の学外活動の場として、月に1日受け入れてもらえないか、と申し込まれ、快諾した。この時から、その実施日には、焚火を教育の一環に加えて、焼き芋を食べながらのレクチャーも始まった。そのたびに、火の利用、煙の効能と分別、あるいは火の制御などについても語らった。
こうした焚火を、アイトワから100mほど下手にあるお宅もされていた。それを遠望し、カメラに収める環境派建築家も現れた。その採用号に「一言下さらないか」に飛びついた。
学生は、農薬などを浴びていない剪定くずの焚火の煙に「無理して吸うことはない」と笑うほど慣れていった。
「この生活で『つらい』と思うことって、ありますか」と尋ねる学生さえ現れた。
「もし、」と、将来を話題にした。「『キミが好きなら(草抜きを)していたらいい。ボクはパチンコに行ってくる』と夫に言われたら、どうだろう」「それは、つらい」で、応答は終わった。
学生は誰しも、私が訴える“焚火と人権論”、人間と他の動物を峻別する上で最も確かなモノサシは火の利用ではないか。つまり基本的人権を考える上で、その最たる権利は焚火・火の活用権ではないか。こうした意見に得心した。
それだけに、火の活かし方(調理、暖、あるいは光源など)だけでなく、灰の活かし方(肥料やpH中和力など)はもとより、煙の峻別力を身に着けてほしい。薬になる煙もあれば、毒になる煙もある。近年の家屋や身の回り品は、多くが燃えれば有害物質を出しかねない。煙を峻別する力が求められる。
森林浴は、フィトンチッドなど植物が害虫に襲われないために排出する毒だが、人体は心身のリフレッシュ剤などとして活かせるようになった。原始時代から常に煙を吸って生きてきた人体にとって、よき煙の適度な吸入は同様の効能があるに違いない。
東日本大震災(2011年3月11日) は八重洲大丸で体験した。阪神淡路大震災(1995年1月17日)では2誌から意見を求められ、取材体験もある。
学生には、この両者を考え合わせて311後、被災対策活動に取り組んでもらった。囲炉裏場でテントが張れるように、地上げし、排水や給水に配慮した。
水の確保や“焚き出し”ができる大なべの準備、などに手を付けた。
この過程で、特定の人から匿名(後日、判明している)で、わが家の焚火について意味不正確な投書があった。次いで、1人の消防署員(服装での判断)と名乗る人にわが家を訪ねさせて、「次は、大型の消防車で駆けつけさせてもらいます」と言わせた。もちろん「どうぞ」と答えた。問題提起の好機にしたかった。
早速、所管の消防署長を訊ねた。まず、わが家を訪れた消防署員は、所管外(特定できた)の制服を着ていた。意義ある意見交換もできた。
次いで、火災に関する市民教育は、消化活動の技術指導もさることながら、むしろ“吸えば危険な煙”と、無毒の自然物が燃えた時の煙を判別する訓練を優先すべき、ということで意見が一致し、共感が始まった。
所長以下署員に訪ねていただき、現場検証をしていただくことになった。
「これなら」との評価をいただいた。その上に、焚火をする都度、事前に消防署に通知することになった。同時に、アイトワは安心救急ステーションになることを引き受けた。
こうした焚火を月1回のペースで、10年以上欠かすことなく行った。
この11日のこと。唐突に大勢の警察署員が駆け付け、焚火の現場検証を求められた。
さすがだ、と感心した。まず、緊急用消火用水が大中小3つと、固定の手水鉢が2つ。燃やしているものも残っていたものも、剪定くずしかない。近くに水道栓とホースを常備。あるいは、無煙炭化器を用いて焚火をしている。こうしたことを写真に収め、メモを取った上で、質疑応答になった。
ほどなく意見交換のような雰囲気になり、私は大野晋がその字引で「文化」と「文明」を峻別していたことを思い出しながら応対した。結果感動さえ覚えた。
文化と文明を混同して使う人が多い、と大野晋は喚起する。「文化」とは自然条件によって支配されている、と記すと共に、「文化」とは、売り買いできないもの(輸出、輸入ができない)。「文明」というものは、売り買いできる(輸出、輸入されて移転する)と峻別している。この文化を、基底文化と言わなければならないほど、今日では文化の解釈が乱れかけているように見える。
焚火は、間違いなく野焼きやわが家の焚火は、文化の賜物である。それぞれの土地柄に則して、人間が持続可能な生き方を貫くために編み出した行為であり、その伝承である。
工業社会は、人々の欲望を開放して経済的繁栄を目指し、地球を破壊しながら未来世代への負担を積み重ねてきた。その繁栄の都合で“文化としての焚火”を捉えてはいけない。もちろん、文明が生み出した化学物質などを安易に燃やす“文明の焚火”をしてよいはずがない。
いわんや、文化としての焚火を、工業文明の都合で、国民に忌避するような誘導は許されない。それは基本的人権の破壊行為ではないか、にも触れた。
こうした語らいを通して、私は感銘さえ覚えた。もちろん、より望ましき焚火を願い、より心がけるように始末書を記した。
阪神大震災の現場 (芦屋までだったが)では、露天で暖を焚火で取り、煮炊きしていた人がいた。問題は、真っ黒で異臭を発する煙をたてているケースであった。
過去半世紀、私は持続可能な生き方を目指し、この生き方が人類にもたらしうる豊かさや幸せの何たるかを、生身で体験することをライフワークにしてきた。その過程で気付かされたことを文字化することもあった。それが、受験問題や受験勉強用書物でも引用していただけるようになった。
実は当時、女子短大の経営にもかかわる立場も得ていた者として、 「この手があったのか」と、驚愕させられている。
受験生の思想調査をしてはいけない。愛読書の質問も控えるべきである。問題は、思想とは何かである。
わが人生で最も苦労をしたことは何か、あるいは迷惑をかけたことは何かと問われたら、1番に挙げたいことがある。“想いのすれ違い”であった。平たく言えば、先に挙げた女子学生の質問・「この生活で『つらい』と思うことって、ありますか」が関わる問題である。いわば文化派と文明派のすれ違い、と言ってもよい人間関係を解消する問題( いわば無知に始まり、学び合って気付かされた)であった。
上に挙げた受験勉強用書物(ベネッセ)が取り上げた課題は、ある大学が受験問題として引用してくださった。今もこの参考書は再版を重ねている。
この文章は、短大の環境論で私が訴えたかったことを急ぎ編纂した(「先生の環境論を受けたかった」との声に応えた)一著からの引用であった。
6.いわば人体実験を報告など、その他
a、廃物で柱のコーナーを覆った。親の代の雑家具を始末しながら、ポキッと折った長い木切れに驚いた。細い角材から不要部を切り取っていた。当時の職人の心意気に気後れして(機械がなかっただけでしょう、と言ってしまえばそれまでだが)、捨てきれず、活かした。当時の、大量生産方式を知らない人々は“消費者”とは呼ばれて居なかった。消費者という言葉も地球になかった。
b、下駄箱に雑巾掛けを設けた。野良仕事の後、玄関に戻り、「小夜子! また忘れているよ」と呼べば、「スミマセン」と言って出てきた雑巾だが、自分で掛けておくことにした。妻は玄関に雑巾を置いておくことを好まず、当初の「言って下されば持って出ます」が、しんどくなったようだ。。
c、ツタの剪定。人形展示ギャラリーの出窓などのツタは、伸びたとみると刈り取らないといけない。
d、イラクサやシュクコンソバの制御。イラクサも食材に活かすが、これ以上増えてほしくない。種を付ける穂が出た上部は、これまで通りに切り捨てた。
自生するようになったシュクコンソバ(救荒作物として大事にしている)も、今年から種を落とさせないために、根元から刈り取ることにした。
2、キッチンの出窓の掃除。
「脚立を使うよりも・・・」安全、と妻がよじ登って拭き掃除をしていた。妻流のやり方だったのだろうが、これを最後にさせたい。
3、板金屋さんのアイデア。
かつて、広縁の上部に位置する大屋根の樋を、落ち葉が溜まるので取り除き、雨水を広縁のガラス屋根に落とさせてきた。当月は、想定外の強い雨と風が重なったようで逆流し、雨漏り問題が生じた。「太い樋を、」と乙佳さんに相談したところ、板金屋さん同道し、彼の策を採用することになった。その軽トラには“Island Rice Field”と表示してあった。「娘のいたずらですわ。島田です」とテレて、自己紹介。この防雨対策は完璧だとみる。
4、ヘビとの触れ合い。10月末現在、一昨年のヤマカガシを見ていない。1mほどのアオダイショウは幾度か見た。妻と私は個別に、孵って2年目ほどの子ヘビを目撃。その色柄は異なっていた。別の個体だろう。そして、広縁の前の地べたにアオダイショウの抜け殻があった。これで今年は地べたで脱皮した抜け殻を2度みたことになる。ヘビは「年に何度」脱皮するのか。それとも「2匹分?」の抜け殻か。
妻はわが家の南側にある生け垣沿いの道でヤマカガシと出くわし、ハッピーの散歩道を変えた。一昨年の庭にいたヤマカガシとは色柄が大きく異なる。
5、いわば人体実験を報告。
主治医が替わるのを幸いに、1つの実験に取り組んだ。このヒントはマクロビアンでの1週間の半断食であった。クリニックの医師に万一にも迷惑をかけてはいけないと考えて、無断で実施してきた。事なきを得ていそうな報告と、この実験後はヨロシクとのお願いだった。こうした判断を下す時に、いつも思い出すことがある。1995年のアメリカ取材時に触れた、ニューハンプシャー国(州)人の心意気を思い出す。この州はハリスを選ぶに違いない。
6、期待していたが、空回りか。
深夜の無断家宅侵入事件の続きがあった。当時、経費明細をメモで渡し、残金を返すと「これで十分」とおっしゃった。ところがこのたび、目的も言わずに領収書を求められた。後日さらに、その日付の変更を求めて来られた。そこで(保険で、かもしれないので)、ご希望の日付に訂正し、原因は家宅侵入と器物損壊。処置は病気に免じて事件化しなかった。金額は、同等の物的修復に要した実費、との趣旨を付記した。門燈の破壊はこれが2度目だったが、前回は通知しなかった。
7、ハッピーのおもい込み。
アイトワの休日に、夫婦そろって終日留守にせざるを得ないことが生じた。帰宅すると、ハッピーはベンチの上から、尻尾を振って迎えた。「おりこうさん」「何もなくてよかったね」と、頭を妻になでてもらった。鎖が離れていたことに私は気付いた。散歩から帰って、つなぎ直すのを妻は忘れていたのだろう。
ハッピーはカエルにも反応する。8時間もの間、何もなかったはずがない。「一度庭で放し飼いを試してみよう」と提案した。妻は断固反対した。ハッピーが言葉を話せたらなあ。
8、ガザでの殺戮に想いを馳せる機会が2度も。
TV録画で、ナチスが犯したホロコーストの犠牲者を、1人のドイツ人が弔う運動と、さまざまな意見があることも紹介した。
この気が遠くなるような運動に取り組むこの人も、想いを明らかにした。
この記憶が冷めやらぬ日に、妻が開店来初めて、例外のサービスに応じる客を迎え入れていた。夫妻は共に医者だった。夫は車椅子がないと移動できなかった。
お2人はユダヤ人だった。語らっていた時に、30年ほど前までのユダヤ人観がよみがえった。アメリカの衣料業界の経営者にはユダヤ人が多かった。このご夫妻同様に好印象を抱いた。そのおもいは今も変わっていないから、気の毒におもった。
イスラエルは気が遠くなるような歴史を根拠に、先進工業国のご都合で建国されたようなものだ。殆どの国はパレスチナを国家承認している。承認していないのはスウェーデンを除く先進国ばかり。イスラエルはこれから気が遠くなるような歴史的恨みを背負いつつある。
9、口に出してヨカッタ。
マクロビアンの橋本宙八さんが、友人同伴で訪ねて下さった。この人はアメリカで、高度な仕事を40年も繰り広げてきたが、ステージ4のガンを宣告されてしまった。アイトワは2度目だった。近くアメリカに戻る前に、と尋ねて下さった。
宙八さんの助力を求めての来日とみた。さまざまな語らいを重ねるうちに、「おめでとうございます」と、わが病歴体験と加齢経験が口走らせてしまった。「この人なら」と、見たわけだが、願った通りの反応を示してくださった。再会を、強く願った。
10、喫茶店で男性が初めて・・・。
これまでは、年齢は不詳だが、すべて女性が運営に関わってきた。この度、例外ができた。義妹の加療の都合でスキマバイトなる派遣者に頼ることにした。月末が近づいたある朝、落ち葉掃除をしていた私に「ここでしょうか」と若き男性に問いかけられた。
この人には夕刻近くにも、庭仕事をしていた私をチョット探して、挨拶をしてもらえた。この日の印象を問うと、期待の答えが返ってきた。それは、背が高くて、身が軽そうと妻は見て、懸案事項を頼んだようだ。その期待に添えたことを喜び、誇らしげな声を残して去っていった。
12、妻の症状、認識と現実の乖離。
妻は、どなたかに何かをお貸して、お返し願えていないと錯覚し、ご迷惑をかけしてしまった。探せば出てきた。妻はこの事実を述べて丁重にお詫びしたもの、とおもい込んでいる。だが、それはおもい込みに過ぎないらしい。
さて、夫としてどうすべきか。義妹によれば、相手の方は、誤解と錯覚の現実を知って「それだけでいいの」と応えて下さったようだ。あとは、これまでの妻の常日頃のありようで評価していただくしかない問題とみて、私は動かないことにした。ひたすらその方がお訪ねくださって、妻の反応に直接触れていただきたいもの、と願うばかり。
13、このような生き物や生態にも触れ合った。
フジバカマの蜜を好むガ(?)を初めて観た。シカクマメに付いてきた小さな甲虫も、これまでに見たことがない。
ヒシを育てた水鉢で、小さな巻貝が発生した。その多数が上旬に、鉢の外に出て死んでいた。新たな住処を求めていたのだろうか。
このガは、これまでに見たような気がするが、赤い小さな頭と、太い眉のような触覚が、改めてとても強く印象に残った。
14、月末はよき1日に。
紅葉はカキの葉から始まり、落葉は月の終わりに近づくにつれて新聞を取りに出るのを楽しみにした。
遅れて起き出す妻は、カーテンを引くと連日のごとくに(隣室でPCに立ち向かっている)私を呼ぶようになった。朝の陽ざしが綺麗。
そのたびに、3日前の妻の一言を思い出した。夕食を終えて、茶を飲んでいた。「小夜子は、この庭の中にいる限り、何の心配も不便もないね」と話しかけた。その応答のこと。冬野菜が順調に採れ始めたので、その安堵が思いつかせたことばだとおもう。
一言、「庭宇宙ヨ」と、返した。
月の終わりの朝食は、澄まし雑煮だった。
この日は、瞳さんを迎えることになっていた。灰と藁の交換を、毎年この時期に行っている。このたびは、『線量計が鳴る』で、中村さんへの花束贈呈ではプレゼンターになってもらったことを振り返る機会もあった。
庭では、ツワブキが咲き始め、ホトギスが盛りを迎えていた。
午後に、突如PCが不調に。幸運にも知範さんが近くに来合せていた。駆け付けてもらい、助けてもらった。
夜は、神無月も「いろいろ助けてもらったなぁー」と感謝しながら眠りにつけた。