自然計画の継続。「庭仕事のありよう」も体験し、「自然計画」の存在を知った桑原さんは、これらを「1つの活動」として捉えようだ。在りし日の私を振り返った。
昨今は貧富格差の拡大を始め、世の中では人々の分断が進む社会になっているが、私はこれを先刻承知で生きて来たつもりだ。つまり、弱い方が、己の足元を自ら確かなものにしながら、強くて豊かになる道(生き方)があるに違いないと固く信じて生きて来た。
だから、その1つの実証例を作り、それが若き日の私のように落ち込んだり迷ったりしている若者の心に、1粒の勇気の種をまくようなことになればと願ってきた。だから、向こう見ずなこともしでかしたのかもしれない。ぶら下がっているヒモが切れたぐらいでおののかずに生きることを願ってきた。「貧すれば鈍する」といった羽目に陥りたくなかった。
加えて、工業社会の本質と行末が見えたような気分になり、「損して得取れ」とか「急がば回れ」ではないが、自分の足で立ち、自分の頭で身の丈に合った自分の人生を見定め、自分の手で形にすることが大切だと思うようになった。そこで、庭仕事のありようを工夫するようになった。おかげで、それ自体が人生を豊かで幸せに感じさせるようになり、異なる価値観や美意識があったことに気付かされた。
もちろんこの過程で、世の中に逆行していると笑われたり、自ら面倒で不便な立場に身を陥れていると不思議がられたりしたものだが、私は次元が異なる時空に踏みこんでいるように感じた。それがこの上なくありがたく思われ始めた。そうした時に、商社時代の後輩から声がかかった。「先輩の処女作をヒントにして、ビブギオールカラーの時代を予見させるようなサイトを立ち上げたい」。幾人か自立型の職種についている人に呼び掛けて立ち上げたい、との意向だった。2つ返事で乗った。それが「自然計画」の始まりだ。今から、15年も前のことだ。
だが、幾人かの他の自立型の職種に身を置く人たちは、さまざまな事情があったようで、次々と脱落した。そこで、そのサイトを引き取り、後藤さんの世話になって「週記」を積み重ね続けた。想いはただ1つ。NHKのTVドラマ『一路』(父親が残した記録・「参勤交代の行軍録」が息子を助けた)ではないが、いずれは多くの人の役に立つ時が来るに違いない、との自負であった。
桑原さんは「友人と相談して取り組み方を見定めたい」といった意向を示し、その友人を交えた話し合いの機会も作った。この2人は共に自立型の職種についていた。私の考え方に共感してもらえたようだ。早晩工業社会は破綻し、次なる時代に踏み出さなければならなくなる、との私の予見をまんざらではないよう受け止めてもらえたのだろう。
「第4時代」と私が呼ぶ次代に興味を抱いたのか、「第4時代」の紹介と、「第4時代」の到来に備えておくことが必要だと気付いた人のためのガイダンスとして、「自然計画」の継続し、ネットに載せる作業に参画したい、との意向と熱意を示してもらえた。
こうした熱意や意向に触れて嬉しくないはずがない、落ち込みかけていた私の心は高鳴った。そこで、コンピュータ―のことは不案内な私だが、4つの条件を満たしてもらいたくて、相談した。
第1は、これまでのサイトを尊重する。
第2は、新しいサイトを作り、新しいスタイルを編み出しながら創造的に「月記」を積み重ねてゆく。
第3は、読んでいただく方々の立場を第一に尊重する。そして、
4つは、いずれ新旧2つのサイトを一体化するが、誰が見ても気が付くほど新旧を個別化するよう創造的に取り組んでほしい、と願った。若者のセンスに期待した。
実は、前回分の「自然計画」で、私は打ち切らざるを得ない、とあきらめていた。現実に、その前に一度打ち切っている。ところがその折に電話などで「お元気ですか」などと心配してくださる問い合わが続き、多くの方々にご心配までかけたことを知った。そこで、後藤さんに無理を言って、継続法を改め、再開した。
「週記」を月に一度の「月記」に改めた。飛ばしてしまった3回分の週記も「月記」の一部として要約し、載せることにした。こうすることで、作業を4分の1に軽減したい、と願った。
だがすぐに無理だと分かった。まず、後藤さんは私的に、更なる多忙を抱え込むという事態が生じた。到底創造的に取り組んでもらえるはずがない。それまではとても面倒な作業を要しそうなことも、むしろ歓迎してもらえ、情熱を傾けて取り組んでもらえた。だが、そのような呑気な期待は寄せてはいけないことに気付いた。
問題はもう1つあった。私の問題だ。「週記」を「月記」にして、自分なりに満足できる原稿にしようとすると、多々問題が生じた。筆力のなさがもろに出てしまい、かえって時間を要するところとなった。文章と写真での構成だから、取捨選択の問題なども絡み、ウキウキした気分がなえ始めた。
だから前回分は、次の予定など考えもせずに、後藤さんに資料を(7/26 に)渡した。後藤さんは大変な時期であったのだろう。ネットに乗せるのが遅れてしまい、わびの言葉を言わせてしまう始末。これでは根本が狂ってしまう。「これで打ち切ろう」と心に決めた。
根本とは、目には見えず、触ってももらえないが、あるいはすぐには役立たないが、いつの日にかは役に立つような価値を伴わせたい、との思いだ。工業社会の破綻を予感し、くじけそうになっている人に、あるいは迷っている人に、希望の種を届けたいということだ。それは作業から生まれるものではなく、創造の喜びが生みだすものだろう。関わる者が嬉々として生み出したい。そう私は思うに至って、ウキウキできない作文を止めた。
ところが、そうと決めてから23日目に、桑原さんが友人・下村知範(ともき)さんを伴って来訪。目の前が明るくなった。その10日後に、下村知範さんが1人で来宅。具体的な継続方式があることを知った。10日ほど前から記し始めたメモがにわかに踊り始めたように感じた。
それはありがたい1つの反応のおかげだろう。下村さんに、失礼を覚悟の上で私はある問いを投げかけたが、見事に打って返されてしまった。問いかけは、この活動が面白くなったからと言って生活の糧を得る本業がおろそかになっても責任を持てませんよ、との通告だった。
彼は先刻承知で訪れていたようで、「これをやりたいから、それだけ本業に身を入れています」と打ち返した。この2人<a>は、災害地にボランティア活動にも出かけるようだが、それが本業に張り合いを付加しているのだろう。
身が引き締まる思いがした。