頭にこびりついている。
ある人との面談に恵まれ、ド胆を抜かれたことがある。面談後に、その人の書籍をあさり「シマッタ」と反省した。ド胆を抜かれたり緊張したりして聴き出せたと喜んだことは、すべて書籍の中に盛り込まれていた。
その折に、次々と理解が及ばぬ記述や疑問点に気付かされており、「シマッタ」と反省している。肝心のことを明らかにする姿勢で「あの時間をなぜ活かさなかったのか」と反省だった。ならば、もっと学びえたことがあったはずだ。
ある時は、緊張して訪れながら「ガッカリだった」と妻に報告したことがある。後年のことだが、さまざまな事情があって、その人のすべての著作と触れざるを得なくなっており「シマッタ」と後悔した。まるで群盲(像を撫ず)の1人であったとのク・ヤ・シ・サだった。自分のモノサシと視界の狭さを恥じ、淋しくなった記憶だ。
アメリカに1度だが招かれて、2つの学校で、学生対象に講義する機会に恵まれたことがある。その折に、彼我の差異に驚かされた。著作や論文の解説のような講義は許されない、と気付かされたからだ。あの時の、私の例で言えば、読めばわかることではなく「なぜ私が、皆さんの前に立ち、話す機会を与えられたのか」を紹介すべきだった。
ともかく、アメリカの若者は成功事例に感心がたかく、成功する秘訣を学びたいようだ。だから、著作や論文の紹介や解説ではなく、それを生み出すに至ったいきさつや、その過程での失敗とか挫折、派生した成果などを紹介すべきであった。
でもこの反省には言い訳がある。わが国での小さな事件が災いしている。短大時代の唯一といてよいほどの辛い思い出だ。
実は、どうしても開設したい講座があった。だから苦心惨憺して作った著作をテキストに選び、開設した。この講座は、少なくとも日本では初めての開設ではないか、と意気込んで望んだものだ。だから、保護者などに、このテキストに目を通して理解してもらい「私も受講したい」と言ってもらえることを期待していた。
だが、その期待は裏切られたようだ。「セコイナー」と、ある学生がその父の伝言を紹介した。「それは、(自分の本の)押し売りではないか」とその父には思われたようだ。