どこまでの覚悟をしていたのか。結婚時に幾つかの覚悟を妻に迫った。その1つは「私が、世の中が本当にイヤになったら」と、2人でロビンソン・クルーソーのような生活に踏み出す覚悟であった。すぐに「お医者さんへ」などとは言ってはおれない人里離れた生活にいつ何時踏み出すかわからない。いつ何時であれ踏み込める心の準備をしておいてほしいとの覚悟を迫り、了解をとった。
今にして思えば、私は(自分かってに)「運が強い男だ」と思っていた。だが、それはこの覚悟のおかげであった、のかも知れない。私自身は、この覚悟をさほど深刻にとらえていなかった。戦時のあの残酷さ(ハガキ1枚で即時呼び出され、命を差し出さなければ「国賊」にされた)から見れば、浮世でのあらかたの苦労などたわいがない。
戦時中に山に逃げ、徴兵から逃れようとした男がいた。その時は、軍が威信をかけて探し出し、見せしめにしていた。
私が願うロビンソン・クルーソーにいたっては、完全なる自由を手にする夢物語とも言える。ただし、自力本願の心に火をつけなければならないし、否応なく自然の摂理に畏敬の念を抱かざるを得なくする。さもなければ、生き抜けない。
少なくとも私の場合は、そうした覚悟と、自然の摂理に対する関心をより一層深めたことが「運が強い男だ」と自覚させる要素になったに違いない。