群馬出張。歴史探訪はマイタケ館<a><b>から始まった。高崎商科大学の友人に、アゴとアシの面倒しか見られないが、1つの講演を含め、今年も若き学生に声援を送ってやってくれないか、と要請された。横山シェフにも乗ってもらえるという。
「待ってました」とばかりに乗る気になった。「あの学生たちに再会できる」と思ったからだ。歴史探訪と土地柄の勉強も兼ねたいので、学生を貸して欲しいとの条件を付けると、OKの返事。学生も喜んで応じてくれるはず、という。
昨年と同じ学生に出迎えられた。まず土地柄の勉強としてマイタケ館に案内された。かつてキノコの師匠・高山(民間)博士に、マイタケの拳大の幼茸をもらい、アワビのごとき感触を楽しんだ。その時に、成長したマイタケの姿と、その発見の喜びを聴いた。険しい山奥の古木の根元で育つようだが、見つけた時は舞い踊りたくなるほど嬉しくなる。
この度は、その確かな姿(養殖に成功したものだろうが)に触れ<c>、得心。県をあげてマイタケの市場育成に取り組んでいるようだ<d>。これが旅の初日でなければ「このマイタケの感触や香りを妻にも教えたい」と、買い求めていたところだ。
昨年は、コンニャクの事例を学んだが、同様にマイタケも群馬が圧倒的なシェアーを占めているようだ。ここで「そうだ今年も」と思い出したことがある。横山シェフの調理人の心意気をつつくアイデアだ。食材代として1万円ほどの予算を私が組み、横山シェフの調理人の心意気を刺激し、試技として幾種かの料理<e>を造ってもらい、皆さんと一緒に味合う趣向だ。「この新鮮なマイタケも。その1つに」と考えた。
次いで、榛名(はるな)神社<f><g>を訪ねた。これまで見覚えてきた様式とは異なる風情で、さまざまな彼我の差異が見出され、心惹かれた。その参道沿いには出店もあれば、茶屋もあった。出店ではトマトに目を留め<h>、「今年はトマトがめっぽう高いノ」と嘆いていた妻を思い出した。茶店には見かけぬ品、焼きもちのような品があった。試してみると、味はみたらし団子だ。群馬は「米」や「もち米」より、麦作を大事にしているのかもしれない。
前回は温泉を遠慮したが、今年は試した。学生にも「一緒に湯に浸かり」と言ってもらえた。湯の含有物・硫黄とか鉄分のなせる業だろうか、余った湯が流れ去るせせらぎは地獄のごとし<i>。山際の露天風呂を堪能した。前回、当地は「温泉饅頭の発祥の地」と聞いたが、このたびは「温泉マーク(逆さクラゲ)発祥の地」と聞いた。
歴史資料館<j>、古代史博物館<k>、高崎市歴史民俗資料館<l>、あるいは古墳の見学<m><n><o>にも随分時間を割いた。この一帯の歴史は3000数百年前の縄文時代から始まる、とあった。古墳時代の繁栄は想像をはるかに超えていた<p>、角形古墳も含め1300基におよぶ古墳が発見されている<q>。
高崎市歴史民俗資料館では米軍の焼夷弾を意外に感じて、手に取った<r>。私の子ども時代の記憶と比し、実物の方が大きかった。不通は逆のはずだが。
西宮爆撃直後のことを思い出した。母に手を引かれて生家の点検に出かけた。阪急電車は動いていたことになる。身の危険など感じていない。遠方からわが家が望めた。一帯は焼け野原なのに、ポツンと奇跡的に焼け残っていたからだ。おそらく、父が愛した庭木に守られたのではないか。屋内には焼きだされた人たち(だと思うのだ)が、大勢が勝手に住みついていた。もちろん母は内部を点検して回った。持ち主と知ってか、大勢の人が道を開けた。ちなみに、父が重度の結核で寝込んでいたこともあって、この家屋敷はドサクサ紛れをにいいことに、放棄せざるを得なかった。
それはともかく、不発の焼夷弾をまず見て回った。先にたつ人があったからだ。2階建ての天井を突き破ったのだろうか、1階の屋内に2個、鶏小屋のあった裏庭に1個、そして、前庭ではコンクリート製のやや大きめの足の洗い場があったが、そこに1個、計4個の不発弾が残っていた。
焼け残った家の中には、近所で親しくしていた人たちの姿は見当たらなかったようだ。母は、隣に住んでいた横尾(よこお)さんを探したが、出会えなかった。あの人は「焼け死んだ」とか、あの子は「餓死した」などと、帰宅してから父に話していた。
白っぽいビルの中を覗いた記憶がある。これは大阪であったのかもしれない。ほぼ裸と見た人の山があった。記憶はここで止まっている。暑かったのか寒かったのか、どうして帰宅したのか、覚えていない。
群馬でもムクロジの木<s>を育て、ついこの間までその実を石鹸として活かしていた。尋常小学校に入った年に、校庭で繰り広げられていた上級生の姿<t>を思い出した。昔懐かしい教室<u>も見た。昔流の道徳を悲喜こもごもに思い出した。ゼロ戦の設計者は群馬の出身だった<v>。威勢よく「日本のために」と叫んで日本を廃墟にした大勢の男の姿も映し出されていた<w>。社会人になった(60年ほど前に)会社で用いた計算器も見た。こうした展示を見て回り、「美しい日本」「日本を取り戻す」と叫び、戦争ができる国を目指す今の世の中に思いを馳せながら資料館の出入口にいたったが、そこで素晴らしい女性と出会い、すぐに館の人だと分かった<x>。
おかげで、群馬の養蚕について、貴重は話を伺えた。わが国も国際化の歴史は繊維産業から始まっており、それは養蚕だったと言ってよさそうだが、その群馬における奥深さに驚きを隠せなかった。
大工原美智子学芸員によれば、桑と繭の改良や、土中の冷気を活かすなど、群馬では養蚕になみなみならぬ知恵や努力が傾けられ、さまざまな改良や工夫が編み出された。年に6回も繭玉を結ばせていた。今も桑は各2本ずつ、160種に及ぶ木が保存されている。たとえば、濡れた桑の葉を与えるとカイコに病気が発生しやすい。そこで、水分を切りやすく乾かしよい桑も作り出していた、という。
加えて、群馬の人たちが繰り広げた生計法の根本、にも気づかされたような気分になった。短絡な理解の仕方かもしれないが、寒冷地故か、火山大地故か、気候風土に配慮してか、コメはあきらめ、桑と麦の産出に力を注ぎ、麦粉食によって養蚕を主要産業とする戦略を立てたのではないか。つまり、好ましき土地の多くは桑畑と麦畑に当て、群馬の人たちはそれを原風景にしていたのではないか。
この度はうどんの他に、団子類なども賞味したし、もちろん名物の鳥飯も味わった。できれば次回は、群馬の食文化をさらに掘り下げてみたい。たとえば、稲藁文化に似た智慧として、麦わら文化のようなものがあったのではないか。米糠に代わるフスマの活かし方も気になる。
わが家では、敗戦後の生き延び策として麦作に力を注いだ。その際に、父は大量に出るフスマに目を付け、小学校に入ったばかりの私に養鶏を始めさせた。ご当地の名物、鳥飯の鶏は誰が何時、なぜ始めたのか。主食は何か。そういえば隣県・茨城では(戦中戦後のわが家では麦わらで造った)納豆が有名だ。ご当地も麦わらの活用策として納豆にも、と下司の勘繰りまで始めてしまった。
それはともかく、前回はコンニャク、今回はマイタケの大産地だと知ったが、他にもさまざまな味覚を刺激する産物があるに違いない。
歴史探訪と土地柄の勉強は、学生の案内のおかげで充分堪能した。赤城山を望みながら、なぜか「坂東の男」という言葉が頭をかすめ、その土地柄に心惹かれる想いもした。だが、周りの人の中には、坂東の意味や云われを教えてくれる人はいなかった。
茨城や群馬は、観光資源としての知名度は低い。同様に、母の生地、徳島県の知名度も「阿波踊り」があるのに低く、観光収入も少ない。こんなことまで考えた。というのは、母の生地は徳島県の鳴門市だが、そこにも坂東がある。
しかも、徳島には「おのころ島」をはじめ、国生みの伝説や遺跡が豊富だ。徳島の剣山系に展開していた忌部族の言い伝えによれば、製紙や養蚕を始め、あらゆる生活文化を日本中に広めた初期弥生人は忌部族であったことにとなっていた、ように記憶する。
徳島の坂東にあるドイツ人捕虜収容所跡を訪ねた日が懐かしい。この度は群馬で、なぜか坂東の男を連想しながら多々古墳時代の遺跡や出土品を目の当たりにしたが、東西の坂東にはかなり密接なつながりがあったのではないか。そういえば、西の坂東も讃岐うどんが有名だ。下司の勘繰りは留まるところを知らない。興味津々だ。
2日間は高崎商科大学の萩原ゼミが繰り広げる文化事業「桑わんプロジェクト」に関わり<y>。これが主目的だったが、歴史探訪と土地柄の勉強で火をつけられようで、このプロジェクトの意義や価値への私の評価はいやがうえにも高まった。このプロジェクトが地域社会で占め得るそれらや、高崎商科大学にとっての活かし方にまで思いを馳せた。
リーダーは留学生女性だった<z>。前夜祭は居酒屋で喧々諤々<a'>、愉快に明日に備えて三三五五。爽やかな眠りについた。
萩原准教授は、鹿児島大学時代に沖永良部島に足しげく通っていた。川がない島の住民文化に目を向け、水源と島の歴史を掘り下げる調査に当たっていた。その折に島の「桑茶」を知り得たのだろう。その後、群馬に職を得て、群馬は養蚕の地であり、「桑わんプロジェクト」を発想したに違いない<b'>。今のところ「桑わんプロジェクト」は、桑の葉を、桑茶の粉を、食材に活かし、優れた料理法を編み出す競技<c'>で留まっている。だが、未来への期待と桑の可能性はとても広くて大きい。
このプロジェクトは鹿児島県の沖永良部島とのつながりを強調しているが、加えて、東西の坂東を足掛かりにする掘り下げようもあるのではないか。大いなる発展の余地がありそうに思われる。これは凄いことではないか、と私の鼻には匂ってくるものがある。
問題は、美意識や価値観の差異に大きく左右されかねない問題である点だ。私はビジネスマン時代を振り返り、当時の苦悩や、選択の難しさを思い出し、萩原さん「学校の未来のために頑張って」と、声援を送りたくなった。
なぜなら、新校舎が出来ていたが、新校舎を好む学生と、「桑わんプロジェクト」が目指すところを好む学生は、五臓六腑などは同じだが、志向は相反するからだ。