この冬は、野鳥にとってはひときわ厳しい冬だったのでしょう。ナンテンやセンリョウはもとより、ムサシアブミの実まで1つ残らず食べられてしまい、ツバキの花も傷だらけ。カラスの餌のあさり方にも、ここまで力があったのか、と驚かされました。
「ヒヤーッ」とすることが上旬に、家事や庭仕事で2度ありました。まずビオトープの土手の手入れで、脚立を土手に立てかけて登り、デングリ返りかけたのです。次いで「落ち葉掃除を」と大屋根に、エンジンブロワーをもって上り、ヘッピリ腰で仕上げましたが、「これを最後に」と言い聞かせました。1週間前にも一度、シナモンの木で「これを最後に」とエンジンソー仕事で自覚しており、これで今年2度目の加齢の自覚。
この間に、新著の構成上で大ナタを振るっています。1日に平野さんと知範さんを招き、昼を挟んでミニ編集会議。10日にも平野さんに無理を言ってお出かけ願い、3人で打ち合わせ。ですからこの間は、新著関係の作業に半分の時間は割いています。残る半分で、次の4種のミニドラマに目を輝かせたのです。他に、5件の来訪者との交歓(内1件では奇々怪々なる行政の悪智慧発見)。万華鏡を覗くような思いで始まったメールの交換。妻と2人で、隔日のごとくに精を出した庭仕事。新堆肥の山で、動物のかつて見たことがない餌のあさり方に驚かされ、妻がその犯人をカラスと特定。そして、アマンダさん詩のある部分の解釈に興味を抱き、納得したくて努力しています。
冷え込みが再来した中旬は、2種のエンドウマメの世話から始まり、2本のマツの大木を業者に切り取ってもらうことで終わりました。その間にトピックスが多々。浜田さんの再来。妻の運転で、先月妻が聴いてアキレル方向音痴をさらした先を再訪。結果はメデタシ、メデタシ。心臓と眼の定期検診。妻は味噌を仕込み、私は2本のスモモの古木の方から剪定に取り掛かり、古木の悲鳴に接し、同情することシキリ。知範さんを迎え、粘菌談義に花を咲かせながら望遠鏡を話題に出すと、その夜に、10歳年上の姉の訃報に接しています。この訃報を知らせた甥は、天体に夢を馳せながら母(私の姉)をギャフンと言わせており、私たち夫婦は「バンザイ」を叫んだものです。2浪して親が希望した大学に合格し、その足で、介護の世界に踏み出したのです。望遠鏡で何をみたのでしょう。
下旬は、何1つ事前のアポイントがないままに始まりましたが、夢中にならざるを得ない案件が2つ生じたり、日に4つも急な来客予定を入れてしまう失対を侵したりして、 [貧乏性だなあ]と自嘲することしきりでした。妻は逆に、創作休暇が明けて、喫茶店も再開し、バックツースクールのごとき気分に浸っていました。
夢中になった2つの案件とは、まず新著の最終校正で、再度平野さんに駄々をこねたこと。そして、「好ましき文章とは何か」を深く考え込んでしまったことです。後者は、万華鏡を覗くがごとく過去を振り返り、嬉々たるメールの交換になりました。
この間のトピックスは、甥への電話での助言。知範さんと「粘菌の不思議」vs「動植物間での相互扶助の不思議」という奇妙な喜びの交換。高校受験に合格した息子を連れて、伴夫妻に訪ねてもらい、私なりの祝辞(目指すべき方向の提案)。2本のマツを業者に切り取ってもらい、玉切りを陶芸家の義妹の娘夫婦に贈呈。次いで、カシの大剪定に取り組み、大さばきを知範さんの力を借りて、小さばきは妻の手を借りて仕上げたこと。
この間に庭では紅梅、ミツマタ、あるいはクリスマスローズなどが満開に。
~経過詳細~
1、奇妙な早い春と、目の老化
先月、初めて体験したような氷結(8日)に驚かされたが、一月余りで初夏並みの日まで迎えており、もっと驚かされた。この間に、積雪は薄いのが1度あっただけだが、畑では幾度も高い霜柱が一面に立っていた。この寒暖差の激しい日々のせいか、庭ではナンテンを始め、センリョウは赤だけでなく黄色の実はもとより、ムサシアブミの実まで、2月初めには1つ残らずスッカリなくなっていた。小鳥などには一際厳しい冬であったようだ。
クチナシの実もことごとくついばまれており、リュウノヒゲをかき分けて、その青い実がやっと見つけた、といったありさまだ。ここまで木の実が小鳥についばみつくされたことはかつてなかったことだ。「ならば」とユーティリティの屋根を確かめたが、昨年のように苔が荒らされた形跡はない。そもそもこの冬は、落ち葉などをかき分けてミミズなどをせせるハラジロの姿を一度も目にしていない。
このたび、実がなり始めて2年目になるミカンの木を1本枯らしたが、その半ば乾いた実が、盗まれ始めて3日もせぬうちになくなり、その皮が随所に捨てられていた。その食べ方から見て、犯人はサルとカラスに違いない。
1日おきに、震えあがったり、小春日和に喜んだりすること数度、この間に木や竹が水を吸いあげ始めてしまったようで、残念この上ない。知範さんと、2月中にもう一度「竹を切ろう」と言っていたが、その好機をするので使い物にならない。
ロウバイの黄色い花と白い梅の花の開花は、例年より遅れたように思う。ツバキは例年通りに、と思われるが、その花はことごとく蜜を狙う小鳥やヒヨの集中攻撃を受けている。ロウバイの花はほぼ落されてしまい、ツバキの花は、妻が「1つぐらいは」と言って、つぼみを切り取って屋内で咲かせたほどで、小鳥に蜜を狙ってついばまれ、ことごとく傷付けられている。
2本の紅梅のシダレウメが、中旬には満開になった。ある日、妻が3度も、ある特定の位置から「キレイ」と叫び、私にも見上げることを薦めた。翌日、思い出して見上げたが「どうして勧めたのか」と思いながら写真に収めた。その後、また妻が見上げていたが、今度は勧めなかった。どうやら、前日に見上げていたら、とても濃くて深い青色の空を背に八部咲きの紅梅がのぞめていたのだろう。
ミツマタは順調に咲き始め、ほのかな香りを下旬には一帯に漂わせはじめたが、蜜を出さないようで鳥には狙われずに済んでいる。「となると、どのような昆虫が」と気を配っているが、何が媒介して種を結ばせているのか知り得ていない。
「誰が?!?」と思ったのは新しい堆肥の山でのこと。先月26日に、旧堆肥の山の上部(腐食が始っていない部分)を移動させ、底の真っ黒になった腐葉土をむき出しにしたが、その両方で被害が出た。真っ黒の腐葉土の小山は、ミミズを狙った小鳥がかき回し、瞬く間に崩してしまった。
別の位置に移し、新しい井桁を組ませた山の窪みに生ゴミを放り込み始めたが、生ゴミをあさった動物に、その上に被せてあった金網をズタズタに破られてしまった。
ミカンの皮、キャベツやハクサイの鬼葉、あるいはトウガンの切り捨てた部分は手を付けずに散らかしている。錆びていたとはいえ、この力はハクビシンか、などと疑ったが、後日妻がカラスの仕業であったことを目撃。この金網を被せるようになってから、この堆肥の山がカラスに襲われたことがなかっただけに驚かされた。
春を実感したのは26日の昼。妻が「頑張ったねぇ」と語りながら見せたフキノトウはまるで白ウドのごとし。モミジの落ち葉を厚く被せたところで採ったという。今年最初の「フキノトウ茶漬け」は一際苦みに富んでおり、ニンマリさせられた。
この日の午後のお茶の後のことだった。足元で動く小さなものに気付かされ、覗き込むと、初めて目にした小さなガであった。だから8日前の女医の助言を思い出した。眼と心臓の定期検診日だったが、ある結論を出している。視力は裸眼で共に1.5だから、左目の直線が歪んで見える症状は、リスクまでおかして手術をしないことにした。日常生活では支障がなく、老化現象として容認することにした。
とはいえ、PCに立ち向かう時は、いつのまにか左目を塞ぎ、単眼作業になっている。このたび念のために、と確かめると、水平線も歪んで見ていたことを確認した。「まッ、エエカ」目は順調に老化が進んでいるのだろう。
2、二度も怖い思いをした
いずれも裏庭の掃除中(ワークルームからビオトープ沿いの土手にかけて)のことだった。「ヒヤッ」と「ヒヤヒヤ」を実感している。
また「ヤッタ!」と思った当月最初の「ヒヤッ」は、ビオトープ沿いの土手の手入れの最中だった。そして、「ヒヤヒヤ」は大屋根の落ち葉掃除での実感だ。
まず、エンジンブロワーを片手に大屋根に上り、落ち葉を吹き散らして回ろうとしたが、屋根に立ち上がった瞬間に「今年が、最後だ」と思った。梯子を上る前にエンジンを吹かせていたし、やり遂げなければ何らかの善後策が必要になると思い、北国の雪下ろしに思いを馳せながら、ヘッピリ腰でやり遂げたが、この1年間で随分バランス感覚が劣化させていたことを実感した。
妻が下で控えており、落した大量の落ち葉を腐葉土小屋に運び込んだわけだが、連係プレイを終えて、無事に降りた私に「今年限りにしましょう」と話しかけてきた。下で「ヒヤヒヤ」しながら付き合うのも辛いようだ。
次いで、ビオトープ沿いの土手の手入れに当たったが、「ヒヤッ」とさせられた。5段脚立をハシゴのように広げ、土手に斜めに立てかけて登り、灌木の剪定やササの刈り取りに当たったわけだが、ハシゴごと後ろにデングリ返りかけた。
ここの作業では、トピックスが2つ。まず、サルトリイバラをサルトリと体感したこと。これまでは大げさな名称だと思っていたが、このたびはサルどころかヒトも酷い目に遭わされかねない、と思った。引きずり下ろすことにあまりにも苦労して、躍起になってしまい、写真に収めずじまいになった。数本の長い蔓を引きずりおろし、1mほどの寸法に切り刻んでから気が付いた。
蔓は樹木の上部を覆うようにして分抹し、花を咲かせ、実を結ばせるようだが、引きずりおろしたその部分を、妻はリースに、といって残させた。
翌日、知範さんの手を借りて、最早私の片手の腕力では制御しにくい樫の枝を1本、切り取ってもらったが、他はすべて妻と2人で片付けた。この土手掃除は今後、サルトリイバラのツルを小まめに刈り取っておき、カシやヤマグリなどに太い枝を張り出させないように気をつけて、このたびの「ヒヤッ」を教訓にすれば、向こう数年は取り組めそうだし、それを目指したい。
この土手は、ゼンマイの収穫場であり、その下部は、ワサビに加えて、このたびニラの株を植え付けたが、順調に芽を吹き出している。
2つ目の大仕事は、2本のスモモの剪定だった。この庭での最古木の方は、広縁の全面天窓に夏場の木陰をつくる役目を与えているが、予期せぬことが生じていた。天窓の上に張らせた太い枝が自重で下がったのか、古木が傾いたのか、天窓にのしかかっていた。
その太い枝を、幾つかに分けて切り取ったが、再度天窓を覆わせる枝を張らせるには、2~3年は要しそうだ。今度は、複数の細い枝を張り出させて役目を果たさせたい
次いで小枝を払う作業に取り掛かったが、3度に分けて、800本ほどを切り取った。この作業は、樹上にのぼり、水平に張らせた太い枝の上に立って取り組むわけだが、老化度を自覚するバロメーターに生かせそうに思う。
次の大仕事は、苔庭のカシの、数年ぶりの大剪定だった。背丈はゆうに8mを超えている木だが、半分に縮めた。その位置で、これまでに幾度か背丈を抑えてあった木だが、新芽を吹かあせ、元の背丈にまで伸びて茂りに茂っていた。その伸ばした分と、横に張り出した枝の剪定だったが、これも3日に分けて取り組んだ。
初日は、知範さんを交えて3人で取り組み、天に向けて伸びた太い幹を4本、スライドハシゴを活かして切り取った。前回は、私が切り落とし、妻が運び去ったが、今回は、太い枝を知範さんに切り落してもらい、下で私が待ち受けて小切りにして、妻が運び去った。写真はビフォーを撮り忘れており、アフターだけになった。
その後は、スライドハシゴに加え、12段三脚脚立も持ち込んでの作業になったが、妻と2人で2日に分けて取り組み、8割ほどの枝葉を切り取って完成させた、とのつもりになっていた。
ところが後日、妻が囲炉裏場に運び込んだ枝葉を見てビックリした。これまでは、私が1人で取り組み、切り取っては運ぶやり方だったが、今回は初めて、切り取った枝葉をすべて運び込んでもらったうえで見たわけで、ビックリさせられた。枝葉の8割どころか、95パーセントほどを切り取っていたことになる。
これで分った、と言わんばかりの実感である。アメリカ大陸にはかつて空が黒くなるほどのリョコウバトが生息していた。だが侵略者は、アッという間に絶滅させており、そのわけが分かった、との実感だ。撃ち落とす尻から都会に運んで胃袋に収めさせたわけだが、しかも換金といういわば架空の欲望を介在させたせいか、気が付けば絶滅させていた。
この世からリョコウバトを、みんな豊かで幸せになっているつもりで、消し去ったわけだが、残念なことに人間がつくったすべての貨幣を投じても1羽も買い戻せないし、未だ人間の智慧と技では、復元させられない。
3、新著の構成で大ナタを振るった
2度の大ナタを経て、ようやく月末をもって編集をほぼ終えた。この2度は、平野さんと私の、互いの善意のぶつかり合いだったように思う。
1度目は、平野さんが「アイトワの説明を」として加え、より良い本に、と願って加えて下さった10数ページを、そっくりアフターストーリとして末尾に回すことだった。
2度目は、まず、3か所に分けて配してあった私の原稿を、1章にまとめ、13人の執筆者の文章を読み終わった後へと回す作業だった。加えて、表紙から、アイトワという4つの文字を消し去るなどの相談だった。
私の願いは、どのような生き方が、どのような豊かさや幸せの源泉になるのかを多様な事例でもって明らかにすることだった。それが「必然の未来」が容認する豊かさや幸せであり、それらを満喫することが、かけがえのない生き方であるとの想いを紹介し、世の中に広がってほしい、と願っていた。もちろん平野さんも、おなじ願いをかなえるために打たれた手だが、私は押し切るような強引なことをした。
その気になれば誰にでも手に届く豊かさや幸せなのだが、人間を「量的追求から質的追求へ」あるいは「カラダの喜びからココロの喜びへ」など「喜から悦へ」と解き放つ目に見えにくい要素を含んでおり、多くの多様な事例に恵まれないと理想論や空論で終わりかねない。こうした心配が判断させた編集上の変更だった。
おかげで、2人はより互いの理解度を深めあえたように、私は思う。第6章は、私が愛用する世界で唯一の道具の写真で締めくくった。
後は3月10日ごろの最終校正をへて(ハードカバーにしたこともあって)刷り上がりは4月下旬になりそう、までこぎつけた。そこで、発行日は5月上旬のいつの日にか、となった。「ならば」と、私が見定めた日がある。それは5月8日。
その昔、工業化がわが国より200年近く早く行きわたり、パリはムーランルージュを出現させるなどニギニギしくなっていった。ミレーらはその喧騒を避けてバルビゾンの森に逃げ出した。ポール・ゴーギャンは原始的で素朴なタヒチに移住し、そこで『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』も描き上げた。そのゴーギャンは110年ほど前のこの日に天に召されている。
4、粘菌の飼育、姉の訃報
モジホコリという粘菌を飼育(!?!)または育成(?!?)する術をほぼ手中に収めた知範さんが、まるで粘菌の牧場のような実験装置を持参。餌を求めて四方八方にひろがった粘菌が、ケモノ道をつくったかのように状況を示していた。
粘菌も微生物だから20分で1回ぐらいの割合で分列し、増えるのだろう。餌があるなどの環境さえ許せば、死ぬことのない生き物だ。増えながら餌を求めて四方八方に広がるのだろうが、その道筋・チューブはアリの行列のように粘菌が連れ立って動いているのか。それとも血管を形成した細胞のようになって留まり、栄養素を流すがごとくに伝達し、その栄養素を得てその場で分裂し、次第に増えて、太くて盛り上がったようになっているのか。いろんな思いが頭の中を巡り始め、愉快であった。
その幹線の1本を指先でつぶしながら、知範さんは「赤くなります」と言う。目には見えない小さな粘菌が、黄色い幹線を形成して盛り上がっていたわけだが、潰されて、牧場にインクを染み込ませたような感じになった。そのシミが赤くなる、という。また、最前線は、チューブの修復はそっちのけで新天地を広げてゆく。
この歳にして、思わぬ歓びを得たわけだが、かねがね「息子がいたら」「娘がいたら」と、考えなくもなかったことを思い出した。息子がいたら、もしくは虫愛ずる娘に恵まれていたら、との夢や喜びを、まるで知範さんに満たせてもらえたような感じだ。
だから、つい愚痴が出た。それは、望遠鏡を買い求めて覗く夢だったが、妻の反対でかなえられなかったことだ。もちろん今ではそれでヨカッタ、と思っている。おそらく好奇心を満たせば、後は放り出していたに違いない。
この話題を持ち出した翌朝、留守番電話が入っていたことに気付き、折り返しの電話を入れた。相手は甥であったが「昨夕、母が」と、10年年上の姉が他界したことを知った。
姉は15歳で京都に疎開し、生活が一転している。振り当てられた女学校に転校し、勤労奉仕の日々が始まった。その隙間は母に従っての野良仕事が待っていた。この一転を非難する姉を、守ってくれるはずの父が頭ごなしに説教する。国家の愚策のセイとは気づかなかった姉は、父を恨んだ。父はその恨みを一人で受け止めた。
敗戦後、姉はキリスト教に帰依し、洗礼も受けた。私には、天使のような人だったが、「10歳の時に、急にあなたの奴隷になったのよ」と愚痴ったことが2度ばかりあった。両親だけでなく来客までが、手のひらを返したように関心を私に振り向けたからだ。
農業も恨んだ。だから、見合い結婚した後のことだが、私が生まれ変わらせた庭でさえ見に出たことがなかった。門扉と母屋の間をわき見もせずに、スタスタと歩いた。
だからキット、姪や甥にはうるさい母親であったのではないか。長女は、親の理想通りに歩めたようだが、弟は苦労している。だから、2浪までして入試という親の夢を果たしてから、ギャフンと言わせている。合格を確かめた足で自分の夢・介護の世界に踏み出している。そうと知って私たち夫婦はバンザイを叫んだ。その時にも、甥が天体望遠鏡をベランダに持ち出して、夜ごと覗いていたことを思いだした、
病弱だった姉が、死ぬ間際まで認知能力を損なわずに長生きできたのは、甥夫婦のオカゲだと思う。甥夫婦は共に介護の世界で頑張っており、姉は、自宅でではなかったが、息子と娘の2組の夫婦と声を交わし、手を握ったりしてみまかわれたようだ。
その数日後に、3親等にしぼった教会での家族葬にした、と連絡があった。これは、部下などにも恵まれた甥への私の助言でもあった。キット姉はそれを喜んでいたと思う。
かく安堵した直後のことだった。知範さんから「赤くなりました」と聞かされた。赤土のような色になっていたが、これが粘菌の何なのか、死骸なのか否かはわからない。微生物は寿命がなく、環境さえ許せばいつまでも生きながらえられる。もちろん、人間も元をただせば微生物から進化したものだ。だから、人間が抱えるガン問題は、部分的先祖返りだと睨んできたが、近年では常識になりつつあるのではないか。このように思いかられながら、改めて粘菌を覗き込んだ。
5樹木の手術、
このたび、「そうだ」とばかりに取り組んだ実験がある、巨木になるオオモクゲンジを、ミツバチの蜜源としての役割を果たさせながら、この庭で棲みつけるように剪定する実験であった。
一昨年、背丈を半分にするために頭部を知範さんに切り取ってもらった。昨年はそこから数本の新芽が吹き、元の背丈に戻った。その新しい数本の枝も知範さんに切り取ってもらってあったが、その頭部で新たな実験に取り組むことにした。
「案の定」一昨年切り取った太い枝の切り口が腐食しかねない状況になっていた。そこで、ある願いを込めてその頭部を私は切り取ることにした。
同時に、昨年新たに5本の芽が吹き、大きく育っていたが、それぞれなりの願いを込めて(知範さんに切り取ってもらってあったが)切り返した。
それは、一昨年の切り口の2か所で樹肉が湧きあがっており、共に切り口をふさぎそうな様子になっていたので、それに倣っての手術だった。切り口をふさぐようなコブをつくらせ、毎年そこから新芽を吹かす魂胆。
こうした願いは、すでにキハダの木で成功している。キハダは、その甘皮(内皮)が黄柏(おうばく)と呼ばれ、漢方薬として重宝される。わが家のキハダもすでに、十分甘皮を採取できるまでに育っている。
もし、このオオモクゲンジでの手術が上手く行けば、共に巨木になりかねない樹木だが、、人間の都合で大きくは育てられない場所で、樹木と人間が持ちつ持たれつの関係を結べたことになる。この願いがオオモクゲンジにもつたわってほしいものだ。花はミツバチの蜜源だと見られるだけに、経過を祈る思いで見守りたい。
実は、この庭からこのたび松の木が消えた。この庭づくりは始めた時は、東面の公共道路に沿って、マツとカエデの苗を1本おきに植えて、片並木をこしらえていたが、最後に残っていた2本の、共に樹齢60年近くのアカマツを、業者に頼んで切り取ってもらった。
6、他のトピックスとハプニング
2つ目のサンコウチョウの巣を妻が見つけた。先に見つけた巣と同様に、内部はシュロなどの天然素材で織り上げ、外部はプラスチック繊維なども用いて補強し、愛犬の抜け毛も活かした2重織りだった。
何ともありがたい著作を妻はノンフィクション作家・梶山壽子さんから手渡しで贈られた。妻は一気に読み切り、いかに足を粗末にしてきたことかと反省。
この猛反省ぶりと、作家の優しい心が、ある日わが家で一つの幸せを招いたようなことになった。この春に退官される(同志社大学大学院で私が何かとお世話になった)今里先生が起こしになり、靴の話しでも花が咲いたことだ。
今里先生は京都市内に折り紙付きお誂えの靴屋がある、とおっしゃった。梶山さんは取材をかねて、妻は梶山さんの助言が得たくて、連れ立って出かけることになり、そこで妻はかかとが小さめなど自分の足の特徴も知りえたし、発注もした。
だが出来上がりは半年先。この待ち遠しい妻の気持ちを汲み取っていただけたのか、ある日、1足のウォーキングシューズ持参の梶山さんを迎え、妻は紐のかけ方をはじめ、好ましき靴と、そのはき方などのご指導に浴した。
久保田さんには原種のトマトを頂いた。種を取って「この夏には、この庭で」と、と心に秘めたことがある。かつて一度、樹木医の友人から種をもらったが、1年で他のトマトと交配させてしまい、残念なことをした。そこで今年は、それを失敗とは見ずに、むしろ交配を願い、この土地に適合したミニトマト作りに挑戦しよう、と考えている。
来客では、海洋プラスティックごみ問題に取り組む小木曽さん(リサイクル磁気の食器を開発し、学校給食用として広めたことで有名)が、跡を継がせたご子息同伴で来訪。ついで「黒米母湯(おもゆ)の悠々」で有名な濱田さんの再訪など、さらに元アイトワ塾生の伴さんが、農業高校受験に合格した清太君を伴っての来訪などとありがたいことが続いた。
清太君は、自宅から近い普通校ではなく農業高校を選択したが、選択するコースを絞り切れていなかった。そこで私は、彼の卓抜した味覚(と妻が折り紙を付ける)を日々生かし得る人生を目指すように、と助言した。
ある打ち合わせで市中に出かけたが、会場の京町家に心惹かれた。屋根裏部屋がある小さな町家だったが、戦中戦後の一時期は2軒の疎開家族が上下に分かれて暮らしていた、という。屋根裏部屋はハシゴで上り下りし、背が立たないような板の間2室だが、そこで5人家族が、虫小窓の明かりの下で雨露をしのいだ、という。もちろんトイレも改装されていたが人のぬくもりを感じた。
薪作りにも励んだ。私はエンジンソーと斧で、妻は鉈で、と25束を積み上げて、雨囲いをして、佛教大生の助成を待つことにした。
美味は、初物のフキノトウ茶漬けの他に、1カ月ぶりの澄まし雑煮と、1時間の予定が7時間に及んだある相談事の来客のために、妻が即席で用意したサンドウィッチ。
ある快晴の1日。朝一番に畑の野菜に液肥を与え、直射日光をあびさせたあと、嬉しい長電話とわかったので、「ならば」とハッピーの側で楽しんだ。そこに工房から妻が昼食の準備で戻ってきて、望遠でパチリ。
チョッと感激したことは、アマンダ・ゴーマンさんの詩『The Hill We Climb(私たちが登る丘)』の朗読にただならぬものを感じ、その一説にこだわり、その内容に迫ろうと試みたおかげでさらなるに感動をおぼえたこと。
その原文は、
But one thing is certain:
If we merge mercy with might,
and might with right,
then love becomes our legacy
and change our children's birthright
So let us leave behind a country
better than the one we were left with
だったが、
If we merge mercy with might,
and might with right,
で、一際心惹かれていたことにまず気づかされた。
彼女は、「奴隷の子孫で母子家庭に育った。やせっぽちの黒人の少女が大統領になる夢を持てる。そして気づけば大統領のために詩を朗読している」と自己紹介していたことも知った。その後、「私たちのあやまちは彼ら(次世代)の重荷となる」に続く部分だが、ネットの次のような翻訳その1があったことをまず知り、チョット気になり、チョッと人騒がせなことをしたが、さまざまな翻訳がありうることも知って、得心した。
翻訳その1
「しかし1つだけ確かなことがある
慈悲と力を合わせ
力と正義を合わせれば
愛が私たちの遺産となり
子どもたちが生まれながらに持つ権利を変えられる
だから与えられた国よりも
良い国を残そう」
翻訳その2
「ただ1つだけ確かなことがある
慈悲と力、力と正義が融合されれば
博愛こそが私たちの遺産となり
変革こそ子どもたちの生まれながらの権利になる
だから私たちは
受け継いだ国よりも良い国を残そう」
翻訳その3
でも一つだけは確かだ。
慈悲と権力を融合し、また
権力と正義を融合すれば、
愛が私たちの遺産となり、
子々孫々の生まれながらの相続権を変革します。
なので、我が国を今のありさまよりもっといい状態にし、
残しておきましょう。
翻訳その4
しかし、これだけははっきり言えるのです。
慈善心と強さを織り合わせ、そしてさらに
強さと正当な姿勢を織り合わせれば、
私たちが引き継ぐものは、唯一「愛」になり、
この世の後継となる子供達の将来を性善たる将来に
換えることになるのです。
なので、私たちが受け継いだこの国をもっと良いものにして、
残しておきましょう。
翻訳その5
しかし、ひとつだけ確かなことがある。
慈悲に力を、権力に正義を融合させれば、
愛が私たちの遺産となる。
そして、それが、次世代の子どもたちが
「生まれながらに持つ権利」を変えるのだ。
だから、私たちが受け継いだ国よりも、
よりよい国を後世に残そう。