太い幹や竹が折れた現場。久しぶりに台風21号の強風をまともに受けてしまい、恐怖に襲われながら相当の被害を覚悟した。だが、翌朝の点検時に「奇跡的」と言ってよいほどの軽度の被害で済んだことを知り、胸をなでおろした。だが、この判断は早計であった。
意外なところで、とても学ぶべき被害をこうむっていたことに、後日気付かされた。風当たりをあまり気にしなくてよいところなので見過ごしていたわけだ。
その原因の一つとして、瞳さん(14日に迎えた)に教えられた「シントビ(芯飛び?)」と呼ばれる現象が考えられる、と気付かされた。彼女はここ何年か前から竹細工に執心されているが、竹細工に用いる竹は「シントビした竹は決して用いない」という。竹は、頭頂部を失うだけで粘り気が抜けてしまい、細工物には使い物にならない、というわけだ。
そうと知った時に、かつて友人に学んだ人間の「百会」を思い出した。漢方(針灸)医の友人は、ある時「途方にくれる患者」と出くわした、と語り始めた。名声を頼って訪ねてもらったわけだから、むげに断れないし「お手上げ」といって追い返すわけにもゆかない。追い詰められた友人は最後の手段に出た。それが「百会」に対する施術だった。頭の頂点を「百会」と呼び、漢方ではとても大事な「ツボ」だ。
友人の「百会」に対する施術は見事に功を奏し、「喜んでもらえたけど」「ボクは冷や汗ダラダラだった」「いまだになんで治ったのかわからない」と語っていたことを思い出した。植物も動物と同様に、テッペンが「ツボ」なのだろうか。思えば、生きとし生けるものはすべて、30億年ほど前に地球に出現した1つのバクテリアを先祖としている。
それはともかく、わが家では10年ほどは前から、巨木や高木の処理はプロに依頼してきた。妻が「年相応の相手ではない」とうるさく注意する(生えている場所が危険などの)樹木の手入れはプロにたのみ、切り取られた後の処理を私は引き受けてきた。
それは「プロの始末でことたれり」にはせずに、長年の経験と樹木医の友人から授かった知識をヒントに、独自の加療法で後始末をしたいがため、であった。その第1は、切り口の仕上げだ。切り口の弱点をなくし<a>、木が一刻も早く完治して、風雨などに耐えやすくする加療をほどこしてきた。そして、その加療で切り取った分はオブジェ<b>などとして活かしたり、燃料として活かして灰を肥料として樹木の根元に戻したりしてきたわけだ。こうした配慮が、樹木にとってはとても大切だ、と私は思っている。それが、台風21号での被害を軽度に抑えたに違いない。
ところが、思わぬところでこの配慮に欠けることを生じさせていたわけだ。それは、妻の常識が招いた失策であった。「オタクの樹木の枝が張りだしたので、切り取らせてほしい」との要望を、妻はまともに(妻の常識で)受け止め、気を許し、応じたわけだが、それが招いた失策だった。その失策を台風21号が露わにさせたわけだ。もちろん私にも原因がある。
妻はこれまで、この隣人を(私があまりにも邪険に扱うので)気の毒と見ていたのだろう。その気のゆるみが「どうぞ」という安易な返答に結び付けたようだ。隣人はそれをいいことに、気が済むように、己の思いを果たしたのだろう。だが、そのやり方は「植物(幾本かのや竹や高木など)にとっては気の毒極まりない被害」を生じさせてしまった、というわけだ。
もちろん妻も、そのやり口を知って呆れはてた。張り出した木の枝を切り取っただけでなく、家宅侵入までして上半分を切り取った竹は枯れ始めたし、中途半端な先(テッペン)の切り取り方をした竹は(風で)折れてしまった。複数の竹や木が織りなすようにして茂っていたバランスを(同じく家宅侵入して)無残な(切り方)でつぶしてしまい、カシの太い幹が途中から折れてしまった。