快晴の初日、4時半過ぎにヒグラシが鳴き、やがて夜が白け、小鳥がさえずる。アブラゼミも50分から合唱。この日、最初の一仕事は、パラソルをハッピー用に細工。
うだる蒸し暑さ。緑でうっそうとした庭なのに、4日までの庭仕事は鉢植え植物と淡水魚の世話のみ。亡き母のこの時期の口グセ「この夏は越せん」を思い出しています。
この間のトピックスは、釧路からみえた米坂京子さんと面談。30数年来この時期のスイカを頂き、感心。そして知範さんの空海論や妻のヒラメキに感心と関心でした。
5日から心機一転。6時から妻と朝飯前の一仕事に取り組み始めたのです。妻は除草、私はブラックベリーの手入れを兼ねた草刈り。その後外出。帰宅後、渡り廊下のハンモックで新聞を読みながら午睡。「寒いぐらい」といって目覚め、妻は羨やましそう。こうした日々が8日まで続き、同じく日替わりメニューのごときトピックスに恵まれています。
5日は久保田さんと近代美術館へ。昼に冷やしきつねうどんを賞味。午睡後、後藤さん来訪。6日は妻と長津親方訪問。翌土曜日は、ヒグラシが鳴くのが日毎に遅くなる立秋。順子さんを伴って元アイトワ塾生恒例の来訪。8日は83回目の誕生日、心にしみる贈り物。その夜半から激しい雨。9日は終日屋内で過ごし、妻はブルーベリーをジャムに煮込み、私は(ドクダミ茶刻みやアイトワ菜の種を整理しながら)ある教え子を懐かしんでいます。
小雨で明けた10日、PCにかじりつきながら三食を待つ始末。だがその後、中旬は、知範さんが庭仕事に選んだ11日と、妻が墓掃除に選んだ翌朝、そしてタリバンの全土制圧を知った16日を除き雨、雨、雨。でも、日々を明るく過ごすことができました。
それは、ZOOMでのデンマークの夜。瀧野夫妻の来訪。あるいは青虫やカエルが関わるミニ事件。14日早朝の棚経の間に振り返った乗用車の選択問題。さらに、敗戦日に感心したピーターさんのコラム。翌16日のタリバン復旧のニュース。藍花さんもともなった伴父子の来訪。小型ズメバチのミツバチ偵察。そして宮崎昭之医師のレポートなど、のオカゲです。
また、雨、雨、また雨は、各地で平年8月分の2倍も3倍もの雨を、2日か3日で降らせ、とりわけ西日本各地での大被害に慄きました。折よく、NHK-TV(世界のドキュメンタリー)で、デンマークのDR制作『「地球温暖化はウソ」世論を動かせた”プロ”の暗躍』を鑑賞しており、人間の「ヒト」と「人」のはざまでの相克に、痛く反省もさせられています。
アポイントが1つだった下旬は、5日ぶりに雨が上っており、ヒグラシは5時前に鳴き始めました。庭には朝食後、日が射すのを待って久しぶりに出ただけでなく、夕刻にも出て、第1次と第2次のキュウリの畝から、冬野菜の畝に仕立て直す作業に着手。この日ツクツクボーシが初鳴きし、初秋を実感するなど、とても静かな下旬の始まりでした。
ところが、翌朝のシカ再出没にビックリ仰天。さらに、炎天が月末まで舞い戻り、とても賑やかなで、多忙な日々になりました。それは妻と朝飯前の一仕事を再開した(おかげで、畑仕事だけでなく、防錆塗装、ミニダムの補修、あるいはサル対策のカモフラージュなども済ませた)ことと、予期せぬ来訪者に多々恵まれたりしたオカゲです。
アポイントは26日の荒木先生ほか7人がアイトワで記念ミーティングでしたが、瞳さんとしばしの交歓や、皆さんを祝すがごとくにイカルが側でさえずったのです。その前後に、長津親方は2度の、瀧野ご夫妻は3度目の、そして森田さんが久しぶりの来訪。月末は乙佳さんが末富さんがブラインドの取り付けに。この間に小型スズメバチの偵察もあったのです。
~詳細報告~
この夏は越せん
桜の落葉から始まったような8月。桜も葉を落して透かせ、炎天に耐え始めた。先月の猛暑下で、私はチョットハッスルしたせいで、妻は人形展の後片づけなどで、共に庭仕事は4日までスキップ。この間にコロナ再蔓延のニュースが続いたが、一葉の絵手紙と一本のメール(テーブルクロスから見て2年以上前の来訪客から、件名は A special time in Japan A memory I cherish . Thank you だった)に元気や勇気をもらったり、日替わりトピックスに恵まれたりしたおかげで、とても軽快に過ごすこととなった。
快晴の初日。4時半過ぎにヒグラシが鳴き始めた。小鳥のさえずりが続き、6時に庭に出てサル除け電柵(獣害フェンスの最上部に設置)のスイッチオン。畑の一角で自然生えのムラサキが咲き始めた。やがてクマゼミも合唱に加わり、木陰ではこの夏もハグロトンボがヒラヒラと舞い始めた。
縁先のアンズも随分葉を落し、炎天に耐えている。「そうだ」ハッピーの小屋に日陰を、とパラソルを取り出したが、アンズの枝が大きく下がっており、立てられない。そこで背丈を縮めてハッピー専用のパラソルにした。アンズの枝を一方に張らせて日陰をつくらせようとしてきたが、その自重で枝が下がっていた。
11時、米坂京子さん(彫刻家の故米坂ヒデノリさん夫人)と面談。釧路からお越しの彼女は2日続けてのアイトワ来訪で、前日に妻が迎え、ある夢をかなえんと(奈良の大学での通信教育と、アイトワでの人形創作に取り組もうと)されている、と知った。そこで、直にお目にかかりたくなった。その夫を思う心と、一人の人として己を思う心、その2つの心の誘いだろう、溢れんばかりのエネルギーと、内に秘め待たれる想いに心惹かれた。
「夫は、9・11テロなど、宗教間の相克や対立に胸を痛めて」いたと語り始め、その広いスケールや知的好奇心に京子さんは背を押されていらっしゃる(!?!)。最高裁大ホールの正面レリーフ、ご主人の「神の国への道」を見たいなぁ。
2日、この時期30年来恒例のスイカを頂き、チョットビックリ。お決まりの家族旅行を(私が知ってからでも)30数年来毎年続けてこられた人がいらっしゃる。コロナ騒動2年目の今年も、お決まりの大きなスイカを下さった。「この夏、2つ目のスイカだ」と気付いたが、裏返せば「歳だなぁ」との気付きでもあった。
往年の私は、この時期には3日にあげず(勤めがあった日は毎日休む前に、休日は日に3回も4回も食し)スイカを1つ平らげていた。妻が運転免許をとったのは、このスイカと大いに関係がある。
ある夏、自転車の前籠に大きなスイカを積んだ妻が、近所の登り坂の角でよろける姿を目撃した。36年前の祇園祭の頃で、私は直帰の途上だった。
ちょうどその頃、人形工房の建設が(母の提案で始まっており)内装工事に入っていた。なぜだかその時期、母は寝込んでいた。しかし工事の進み具合は、父が新聞を取りに出るたびに話しており、承知していた。また、計画ではまだ茶話室であった一室を、喫茶店にして「働きたい」とおっしゃる女性が現れた。ならば「念願の庭の開放がし易くなる」と、私は妻に両親の許可を取るようにけしかけた。妻の心配をよそに、母は「私も若ければ手伝いたいぐらい」と応じたらしい。
「そうなると、買い物の量は、自転車で、とはゆかなくなる」となり、自動車へ切り替えることになった次第。妻は36歳で教習所に通い始めた。
そして1か月ほど後に、チョット深刻な事情もあって、車種を「ベンツか軽4輪か」で意見を交換している。
3日、夜半からの小雨に感謝しながら目覚め、昼前から知範さんと大手HCを目指し、途上で快晴になった。昼は、冷房が効いた店内で味わう天ぷらうどんが、とりわけイカ天が楽しみ。冷房がないわが家では(母がよく油を飛ばしてヤケドをしていたから)薄着の夏はイカ天を求めないことにしている。
買い物は多様な部品類やさび止め塗料だったが、その日のうちに排水ポンプの「つなぎ」部分だけは完成させている。
4日は仲人をした雅之さんから「このたびも」と、電話があり、30年近い夫婦揃っての恒例が、2年続けて飛ぶことになった。ワクチンは?「まだ」と応えると「病院に出入りしているから、なんぼ言われても」となった。奥さんも許さないらしい。
この日、「古物商」を自称し、しつこく電話をしてくる業者を試しに迎え入れ、その仕組みを憶測し、下心も読んだ。雅之さんに「心配だ」と言われた翌日の来訪であったこともあり、イジの悪さが出たのだろう。
連日の好天であったのに、庭仕事に取り組まない4日間はかく続いた。この間に2度も、私たち夫婦は母の口グセ「この夏は越せん」を思い出した。妻は「今の私のお歳でしたねぇ」と付け加え、私は「当時は今ほどひどい猛暑ではなかった」と返している。
時々母は故郷の徳島で体験した酷暑「撫養(むや)では100度になった」を引き合いに出していた。これは摂氏にかえると37.8度弱に過ぎない。それが今から100年ほど昔の記録的な猛暑であったことになる。
2、執着と相克
5日快晴、心機一転。妻としめし合わせて6時前から庭に出た。私は獣害フェンスに絡めて育てているブラックベリーの手入れ。若くて柔らかい枝をフェンスに編み込むことから着手。
次いで、このフェンスの内側あたりの畑(ニンジンに花を咲かせた畝のあたり)の草刈りに移った。ニンジンには、ここで種を落させ、自然生えを願うことにした。義妹の畑では、自然生えのニンジンンに恵まれている。
だから、長けて種を落しつつあるニンジンと、その側で自然生えしたトウガンだけを残し、草を刈り。トウガンには補強の竹を足して、ツルをからませた。
妻は、果樹園と畑の間を縫う小径で、座椅子に座り込み、蚊取り線香を焚いて、除草に取り組んだ。7時に、妻は除草の途中だったが切り上げて、朝食の準備に。
妻の柏手の合図を聴いて、ポンポンと2回打って返し、切り上げ、風呂の残り湯で行水。かくして、今年最初の2人揃っての「朝飯前の一仕事」を満喫した。
翌朝も、同様に2人揃って出た。この日はまず、小さい方の(防鳥ネットで覆った)ブルーベリー畑の周りから手を付けた。フキは残して草を刈り、ネットに登るセンニンソウの蔓などをはぎとる。
この作業が、茶の木の大きな植え込み(ササやコウゾの木がおおっている)のあたりまで進んだところで、手を止めた。ハチの警戒音に気付いたからだ。判断が一瞬遅れたら、酷い目に合っていたはずだ。
身を引くのが早くて無事だったし、既にブルーベリーの実を摘むに十分な草刈りが済んでいた。妻も前日の続きの除草を仕上げていた。だからこの朝は揃って切り上げた。
7日、同じく2人揃って出て、私は大きい方のブルーベリー畑周辺の草刈り。妻は小さい方のブルーベリー畑で、防鳥ネットの中に潜り込んで実を摘む。この日も炎天に。
翌8日も、2人揃って出て、妻は大きい方でブルーベリーを摘む。私はこの2つのブルーベリー畑の間を巡る小径で、草刈りや灌木の剪定に着手。
この後でチョット冒険。2日前に知ったハチの巣(茶の木の植え込み、差し渡し2mほどもある円卓状の茂みのなかにつくった)の点検だ。この日は(警戒音を聞いた位置とは)反対側の草むらに入り、円卓状の植え込みのエッジまで刈り込んだところで、ゾーッとした。今一歩踏み込めば、襲い掛からんとばかりにハチは身構えていたに違いない。
60cmと離れていない植え込みの枝の茂みの間に、巣が覗き見えた。しかも、アシナガバチではなくスズメバチの、茶色いドッジボール状だった。
うっかり茶の木をおおうヤブガラシの蔓などをはがそうとしていたら、マムシが出た年の二の舞(11カ所も刺され、「ここも」「そこも」と看護婦さんだけでなく、妻まで失笑しはじめる始末だった。私は背中をケロイド状にヤケドをしたような激痛で寝込んだ)を演じていたところだ。かつては走って逃げられたが、この度はどうなっていたことやら。
そこで心配になったのは温室のアシナガバチの巣。スズメバチに見つけられて襲われたらひとたまりもない。成蜂は次々と噛み殺され、白い子は巣からことごとく抜き取られて食われてしまう。だからこの点検に走った。この時点では無事だった。
何としてもこれら肉食系のハチ(ムカデと同様に熟しガキなども好む)を守りたい。畑にとっては害虫の退治役だ。これを殺せば、農薬(殺虫剤)散布の必然性を高め、天に唾するようなことになる。
この日の夜半から雨が降り、「いい雨だねぇ」と歓迎した。それは浅はかだった。その後15日まで、雨、雨、雨。梅雨再来がごとしで、しかも激しい。各地で大被害が出た。冷淡な言い方だが、こうなることは目に見えていた。自然が悲鳴をあげ、教えていた。
12日、木曜日の夜。NHK-TV番組「世界のドキュメンタリー」を見た。トランプに「温暖化はウソ」と吹き込んだ男がまず登場。その米石油会社に抱き込まれた男。民衆は今の生活を続けるために、あるいは、往年の生活を取り戻したくて、「温暖化はウソ」と叫んで欲しがっている、と言わんばかりの面持ちだった。
戦時中と似ている。日に日にB-29の爆撃が増えているのに、「勝った、勝った」のラジオに大人はかじりつき、「勝った、勝った」の新聞を何度も読み返していた。
その「皇国は必勝」と吹聴したり思い込まされたりした人々の執着心が、判断を狂わせ、戦争を長引かせ、悲惨な死者の過半を最後の1年で出させ、子どもは酷い目に遭った。
同様の執着が原因で判断を狂わせる悲劇は、かつては水俣事件でも見られたし、今やコロナ騒動でも演じられている。
この半世紀、工業文明国のわれわれは皆、地球を蝕みながら「人」(の物的繁栄への執着心)と「ヒト」(本来は本能として持ち合わせていたはずのバランス感覚)のはざまで相克しながら足掻き、今やコロナや異常気象にいたぶられ、苦しんでいる。
この番組「『地球温暖化はウソ』世論を動かせた”プロ”の暗躍」では、暗躍した”プロ”のセイで、地球温暖化対策の機運を萎ませ、打つ手を50年も遅らせた、と締めくくった。
当時、(私は1988年の初夏に、環境問題を憂い、工業文明時代に見切りをつけ、次代を創出し、移行しようと訴えた)処女出版にこぎつけた時を振り返り、ワクワクした心境を思い出した。なぜなら、その何カ月か後に、サッチャーは「鉄のサッチャーから緑のサッチャー」へ変心宣言した。ゴルバチョフは国連総会に乗り込み、「環境問題は人類共通の敵」と叫んでおり、この一言が、冷戦を無血で終結させたようなことになった。
アメリカ人の心の広さを見たような気分にもされている。「Man of the Year」を毎年発表する雑誌が、満身創痍の地球を載せもした。
だが、世界はその後、ロシアではプーチンをのさばらせ、アメリカでは『地球温暖化はウソ』と叫ぶトランプに大きい顔をさせるところまで逆もどりしている。
本格的な朝飯前の一仕事はかくして4日間で終わった。妻は2回にわたってブルーベリー摘みをして、先月の初回分を含めて計3.2kgを収穫。私は、まとまった量のトウガラシ摘みもした。そして、雨、雨、雨の日が始まった。
ハナオクラが咲き誇り、朝食は和風が増え、その都度「ネバネバ四君子」(わが家恒例の夏のスタミナ食)が付く。妻はジャムや佃煮を煮たし、私は短大時代の学生の1人を思い出しながら、2つの小道具作りやドクダミ刻みに取り組んだ。
3、自信の源泉
好天の4日間も、日替わりトピックスに恵まれた。まず5日は久保田さんと(内外のクラフトが狙いで)近代美術館に出かけた。
わが国の作者不詳の刺繍絵屏風と、複数の匠が手がけた2点の作品の前で足がとまった。互いが持ち合せる独自の匠を、共有する美意識で愛であい、切磋琢磨して生み出した極み、まるで造形のオーケストラのごとくに受け止めた。
この日は、コロナ騒動のおかげで人影のない上階に、久保田さんとのぼった。おかげで私は初めて平安神宮の大鳥居を見下ろす感を得た。
遅昼は「うどんでも」となり、初めて“冷やしきつねうどん”を賞味したが、話題にも恵まれた。この老舗はかつて、わが家の一軒隣の別荘で(ご隠居夫妻が住まい)支店を出していた。その奥方が妻の「人形作りを一緒に」とご希望になり、やがてその人数が増え、人形教室が自然発生。第1号の生徒さんになっていらっしゃる。
翌日は妻の運転で、長津親方を(故障したトリマーを持参して)訪れた。トリマー(自動剪定バサミ)は充電式も揃えておきたい。そこで、補修か新調かの判断を乞うた。
この時に、五島列島で活動する顔見知りの医師のレポートを頂いた。初回の『「匠」の祭典』で出会い、心惹かれ、6年来の顔見知りになった医師だが、工業文明の終焉を解いており、持ち帰って早く読みたい、とワクワクしている。
3日目は、元アイトワ塾生恒例の夏の来訪。柴山さんが(元幹事は欠席で)後藤さんと野中夫人(今は亡き夫が立ちあげた和装の“弓月グループ”を見事に守っている)を同道だった。順子さんが、文学にも秀でた人であったことを初めて知った。後藤さんは2日前にも(30年来恒例の自然生えオオバの進呈で)迎えていた。
翌8日は、「散歩の途中」といって佛教大生の顔なじみに、自転車で立ち寄ってもらえた。同大学では、学校単位でワクチン集団接種の予定が組まれたようで、これがかなえば活動範囲が大きく変わりそう、と期待していた。だが、学校が受け入れ側に、どのような条件を付けるのかは、まだ聴かされていなかった。
「僕たちより、後輩が可愛そう」と、この3回生は語った。入学してからほとんどキャンパス生活を知らず、多様なアルバイトの機会にも恵まれてはいないからだ。中には、屋内でちんまりと過ごしているのではないか。
未来は、現在の延長線上には望めそうにない。それだけに、私もとても心配した。これから迎える社会は、机の上やスクリーンを通して知識を詰め込むよりも、各人固有の潜在能力を存分に引き出す機会、ヒント、あるいは時空の提供が肝心ではないか。既知の正解の習得ではなく、独自の正解を編み出す創造性や意欲の覚醒が求められている。
学生はまだしも、今日の自然を阻害しがちな期間を幼児期に、2年も3年も継続的に過ごした人は、決定的に不幸だった世代、取り返しがつかないほど辛い立場に追い込まれていたことになりそうだ。
いわんや、新生児と母親を出産直後から、感染を怖れて切り離すケースがあるようだが、許しがたい。両親が新生児の情緒面の健康を優先し、リスクをおかす覚悟をすれば、一緒に手元で過ごさせるべきだ。その選択権と、その意味するところを事前に知りうる権利を両親に与えるべきだ。
快晴続きの(月初めから数えると)8日間を、かくヤキモキしながら庭宇宙で、自然とさまざまに触れ合いながらマスクなしで過ごした。
9日の未明、激しい雨に起こされ、「シメタ」とばかりに飛び起きた(まさか、その後は一転して雨、雨、また雨の日々を迎えるとは思っていなかった)。「実験の好機到来」とばかりに、先月の水難箇所(喫茶店のトイレや厨房)に走った。
ここの水難の原因は、それぞれの排水口からの逆流だった。しかも、床掃除は水洗い時でさえ水を流さず、ふき取る方式、と聴いていた。だから排水口を密閉してしまえばどうなるか、と考え始めていた。もちろん、密閉が2次トラブルを引き起こしかねない。
逆流の水圧よりも、その水圧がパイプに溜まっている空気を押し上げて空気にかける圧が心配だ。その空気圧のほどを知る必要がある。蓋を開け、仮の栓で排水口を密閉し、発泡酒じゃないが、その突き破り方で圧のホドを計り知る実験をしたい。その好機とみたが、排水口の蓋が(錆びついたのか)外せず、わが迂闊さに気付かされた。
蓋は「開くはず」と期待していたが、その「はず」が誘う執着に苛まれていた。やむなく水島さんに駈けつけてもらうことにした。
彼には手が空いた時に訪ねてもらうように心準備をして(待つようにして)いる。だが、緊急時には駆けつけてもらえる。だから、彼なりの(実験抜きの)本番になった。もちろん「実験に終わる可能性がある」と伝えた。水圧ではなく空気圧がかかればどうなるか分からない。子どもの頃の鉄砲遊びの体験から、不安が残った。
ヤマブキの髄がスポンジ状であることを活かし、鉄砲遊びをした。10数cmの枝を切り取ってきて髄を抜き、空洞にして、その両端に、紙をしがんで丸めた弾を強く詰め込む。そして一方の弾に細い棒を当て、穴の中に向けて瞬時に強く突っ込むと、他方の玉が空気圧に押されポンと勢いよく音を立てて飛び出したものだ。
ついに、食害に悩まされてきた第4次コイモの犯人が分かった。大きなイモムシがムシャクシャと葉を食べて見る間に大きな糞にすることを見届けた。「これはたまらん」。かといって、ここまで大きくしてしまったし、と妻に相談すると、案の定、第1次の「コイモの葉で育てましょう」になった。
ニラとカボチャのコーナーでは、3種のカボチャが共に1つずつ、再び実を着けた。だが、いずれもが天井のワイヤーメッシュの上か、ツルクビカボチャは、ワイヤーメッシュで腰を絞られるようにして育ちかねない。だから、少々乱暴に触っても、いわゆる流産しない時点まで待ち、メッシュにぶら下がって育つようにした。
その上に、最初の各1個がいずれもサルに襲われているので、その対策も思案した。もちろん侵入された迂闊さを埋めるために、ワイヤーメッシュを買い求めてあったが、作業はカボチャの蔓が枯れ、はぎ取った後になる。そこで実験を、となった。
それぞれの実を、布か紙で覆い、見えなくすれば襲わないのではないか。敗戦後に、満洲から引き揚げてきた人が、娘と私はザンバラ髪にして、顔を(ほほ紅の代わりに)墨などで汚すなどして襲われずに済んだ、と母に話していた。
そこで、実を隠す「覆い」の形状を見定めるために現場に出向いたが「時既に遅し」であった。こうした実験をして、成功することが私の自信の源泉だけに(しかも、あと5年、5回ほどしか私にはカボチャを育てる機会がないだけに)悔しかった。
こんどは玄関先のニンジンボクで妻がイモムシを見つけ、持ち込んだ。迷彩色の大きなイモムシだが、キッチンの出窓で育てるに任せた。
翌朝にはニンジンボクの葉をあらかた食い尽くしていた。妻は「すべて(葉を)食べ尽くしてから」と言ったが、その想いは、言葉が通じないイモムシには伝わらず「ストレスになって」いびつな羽にしかねない。そう心配して、異なる手を打った。
案の定、台所に戻ってきた妻は「見てください」と(躾説を忘れて)「美味しそうな葉の方に移ろうとしています」と呼んだ。
イモムシにしてみれば、美味しい方に移ったのではなく、他方の葉を食いつくして木を枯らすのを避ける行動に出ていたのかもしれない。宿主を絶やすことは自殺行為だ。そう気づくのが正常な生き物の本能ではないか。
本来は「ヒト」も、こうした本能を持ちあわせていたはずだが、それを狂わせ(て、欲望を解放す)るすべを「人」は歓迎し、智慧と誤解してきたおそれがある。だからあらぬ競争、嫉妬、虚栄、猜疑、とどのつまりはストレスや得も言われぬ不安や軍備拡張競争などに苛まれながら、その積算として資源枯渇や地球温暖化などを露わにしたに違いない。
問題は翌朝だった。イモムシがどこにも見当たらない。あの大きさだから、這って出る隙間などない。屋内には「あれを食べてしまうネズミなどいない」「どこかで蛹になっているのではないか」となった。今のところは行方不明。
その夜だった。居間で飛び回るカエルを見た。追い出そうとしたが、もの陰に隠れてしまわれた。放って寝た。翌朝、洗面時に、脱衣場まで移動していたことを知った。だが、うかつにもワークルームにつながる網戸を開けてしまい、カエルを飛び出させてしまった。サー大変。カエルにとって、ここは鬼門である。
かつてモリアオガエルのメスを知らぬ間とはいえ餓死させている。だから捕虫ネットを取り出して、やっとのことで捕まえて、泉に逃がした。かつて餓死させたモリアオガエルは、書斎に掲げており、教訓にしている。
雨が降りしきる14日の夕刻。散歩が大好きなハッピーがハウスに引きこもり、頑なに出たがらない。だから「風除室に移してやっては」と提案。妻には意外な提案であったようだ。これまでは、幼児期を除けば、病弱時や老衰期の犬にしか閉じ込めたことはない。
ところが、いそいそとハッピーを抱き上げて移動させた妻だけでなく、ハッピーも大喜び。それは、妻が手を放すとすぐさまハッピーは、その場でメスのように腰をかがめ、コンクリートの床に放尿したことで分かる。「やった!」と私は叫んだが、妻は「ウンチもしました」と嬉しそうに、そそくさと掃除をした。
怖いものだ、と感じたし、良き思い出になった。平年一カ月分の2倍から3倍の雨が、2日か3日で降った記録的な年の8月に、ハッピーが演じたそそうだ。
ハッピーはもらって来てすぐに迷子になっている。だから片時も鎖を解いてもらえない。今度は逆に、降り続く雨を怖れて、屋内に閉じ込められて安堵している。
ハッピーはペットショップで売れ残ったが、可愛いさが幸いし、成犬になるまでゲイジの中で、雨などを知らずに過ごした。そのおかげかせいか、屋内に閉じ込められて安堵している。フト、「いまごろ清太は」と、気になった。農業高校に進み、生き生きした清太は、雨が降り続く日々を、どうしているのか。
偶然の一致とは怖いものだ。唐突に伴さんの声が「清太がお盆で帰って来た」とケイタイから流れてきた。そして父子で訪ねてもらえた。
清太が育てた小玉スイカと、生徒仲間でつくったパスタソースを持参。妹の「藍花も農業高校に進むことを決めた」との報告もともなっていた。とても利口な藍花のことだ。自信に満ち溢れ始めた兄を見て、決めたに違いない。
だが女子には寮がない。そこで伴さんに、田舎への移住を勧め、その心構えなどを話し合った。3人を送り出した後で、そういえば「あの人も、農業高校を…」と加藤南海さんを思い出した。
その『奮闘記』つくりに取り組んだ東邦レオの原田宏美さんは、南海さんの中学生時代を暗黒の時代と記し、農業高校時代を満喫の時代と紹介していた。
これは私の場合の話しだが、庭仕事ではテキストなどで先人の知恵には一切頼らす、幼い頃の母の「見様見まね」と、想像と独断に基づき、創造的に取り組んできた。それが想像通りに上手く運ぶたびに、生きる自信を授かってきたように思う。逆に、間違いを間違いと素直に認めることができるようになった(つもり)。
下旬は、荒木先生一行の記念ミーティングが唯一のアポイントだった。ミーティングが終わった後で、ご一緒させてもらうことになっていた。
コロナ禍にあって対面講義を続けてきた人たちだし、それを組織的に許す大学に関わっている人たちだった。学生も喜び、クラスター問題に注意し合ってもらっている、と聞いた。
知範さんは粘菌コレクションの一部を持参し、そこには最初にアイトワで見つけたカタホコリもあった。
記念写真の一時もツチバチのオカゲで愉快だった。ピザ釜を「巣づく格好の土取り場」と見ているようで、その「匠」を披露した。固い土壁を(唾液で?)濡らし、丸め取ってゆく。
真の生きる力(来たるべき時空を生き抜くチカラ)は、アリストテレスが2300年前に教える「机の上では育めない徳」のことだろう。その徳が、特に時代の変わり目では求められる。いかなる時代を迎えようが、むしろ好機とワクワクする「自信の源泉」だ、と説いたつもりの拙著(『次の生き方』2004平凡社)を振り返った。
4、ボケ防止
知範さんと3日に、当月記の前月分原稿を引き継ぎ、次の来訪日を(作業の中身も伝えた上で)13日と決めた。その後は、大手HCに出かけ、さまざまな部品類の他に、農作業用新兵器(虫取り器)を作る材料も買い求めた。
その後「11日しか」といって彼は日程変更を提案、私も歓迎。それがヨカッタ。それまで快晴が続いていたが、雨、雨、雨の日が始まり、11日はその合間の、たった1日の終日晴れの1日になった。
新兵器は、この夏も悩まされていたキュウリやカボチャの葉が大好きなウリハムシや、トウガラシなどにつくカメムシ退治の道具だった。
知範さんは、私のカメムシの捕り方(風呂場の水くみ柄杓を用いる)を知って、グッドアイデアを思いついた。とても簡便そうに思われたし、これなら飛んで逃げるウリハムシにも適用できそうだと思い、専用の新兵器をつくりたくなった。
だから100円ショップにも立ち寄って、「これなら」という既製のプラスチック品を2セット買い求め、共通の宿題(虫取り器つくり)として持ち帰った。もちろん私はこうした創造的工作も「ボケ防止策」の1つ、と位置付けている。
これは私の独断と偏見かもしれないが、この半世紀は欲望や願望をリスクなしに満たす既製品(即席ラーメンや殺虫剤など)やサービス(ファミリーレストランやレジャーランドなど)が普及したが、その普及ぶりとボケ発症率が正比例しているように思われてならない。
帰宅後、買い求めた品々を妻に示し、新兵器の狙いを話し、漏斗(じょうご)を差し込む穴の明け方を相談した。ならば「もっと簡単な…」と言って、妻は有り合わせのペットボトルを取り出してきた。その1つが、100円ショップで買い求めた漏斗と口がピッタリ合った。「これなら」と、早速翌朝(ウリハムシの羽が霜などで濡れており、飛んで逃げられず、落ちて姿をくらます作戦の時間帯)に畑に出て、試し使いした。
見事にウリハムシもボトルにころがり込んだ。だが、喜んだのは束の間。敵もさるもの、ボトルの中で体が温まると、水濡れに強いウリハムシは次々の逃げてしまった。原因は、モンドリのごとき(入り込んだら抜け出にくくする)シカケがなく、口が大き過ぎた。
そこで、6日の親方訪問の帰途、別の100円ショップで異なる漏斗を買い求めた。そして雨の日に、2つの使い古しのペットボトルを活かし、ウキウキ気分で加工して「これなら」という新兵器を完成させた。
100円ショプでは別途、もう1つ「これぞ」という品を見つけている。立木の低いところの細い枯れ枝をひき折って取り去る道具にお誂えむき、と思ったからだ。
だが、簡単そうに思われたこの細工の方が、予想に反して、はるかに時間を要した。チョット深くシュミレーションすれば、容易に気づけていたことだけに、わが頭の硬化を恨めしく思った。だが、こうした気づきや反省が「薬」と心に言い聞かせた。
後日、この新兵器を妻と試し使いしたが、願った通りの効果を得た。
6日の親方訪問は、トリマーに関する相談で、バッテリーが壊れた(と思っていた)が、別の原因が2つありうることを教えられ、既成概念に囚われていたわが身を恥じた。しかも、それらいずれの不具合であれ、そのメーカーは、本体とバッテリーのセット売りしかしていないこと、などが分かった。異なる商法の製品を探さざるをえない。
この日に工業文明の終焉を説く45ペイジものの冊子をもらった。心惹かれてきた医師であり、長男は医師、次男は鍛冶屋、3男は桶屋、そして4男は獣医という4児の父親の作だった。
本人は長崎出身で、長崎大学関連病院に勤務した後、2000年から五島列島に移住。ある診療所に合流。今は理事長として「五島に暮らす人々の『これから』のために」とうたい、地域医療に携わりながら、 茅葺屋根の家に住み、田んぼを牛で耕し、ニホンミツバチや対州馬を飼育している。ご本人は漢方にも明るい。言動一致の人と見て、心惹かれてきた。
宮崎さんは、コロナウイルスを、蒸し暑い夏にも感染拡大する(ウイルス学の根底を覆すような)強力なウイルスだから、冬になったらどうなるのか見当もつかない、と見る。だが、人間が作り出したものか、自然発生したものかは別にして、自然界のものは、人工的なものでもいずれは自然に戻るものと思われており、そのうちに普通の風邪ウイルスになるだろう、と考えていらっしゃる。同感。
知範さんを迎えた11日は、2つの作業をこなした。まず、パーキングに放置してあったクヌギの大きな節部などの始末。彼と2人でなら、パーキングの土手下で育つモミジの片並木の間に(石垣を壊さずに)移動させ(自然腐食させ)得る、と見た。
次は、妻たちが除草に手を付けたイノシシスロープの途中に、モミジの枝や幹を放置していたが、これを(エンジンソーも待ち出して)片づけた。
この2つの作業は、妻にとってはよほど気がかりになっていたのだろう。3人分の弁当を用意して、庭で一緒に、と誘った。この時に、知範さんは、漏斗を活かす新兵器作りを、買い求めた材料で、知範さん流に仕上げていたことを知った。私が邪魔に思っていた突起物を活用したようで、流石! お見事!
この日、庭仕事を終え、知範さんと午後のお茶の時間に入ろうとしていた時に、初めてお目にかかるご夫妻にお訪ねいただけた。「コロナ騒ぎのおかげで」とおっしゃる瀧野喜八郎さんご夫妻で、妻は顔見知りだった。
ご持参のリュックから、大きな紙袋を出された。過日の『キッズオリンピック2020』に夫妻で立ち寄って頂き、その様子をキャプションも添えて、4枚のA3の平面に収録してくださっていた。妻は、コロナのせいで見に来ていただけなかった幾人かの友人や知人に「喜んで頂けそう」と、膝を乗り出した。
それは2時間余、知範さんも交えた爽快な一時の始まりだった。瀧野さんは定年後、何か世の役に立てることで、奥さまと行動を共にできることを、と願っておられる。伺うと、私より幾つか先輩で、エネルギー関係の会社にお勤め。商社時代に私はすれ違っていたかもしれない。転勤だけでなく出張も多い生活のサラリーマン大先輩だった。穏やかな奥さまの物腰にふれ、見習わなくては、と思った。
後日談が2つある。まず、瀧野夫妻は24日に再訪下さった。
この一帯には今年3月にもお越しになっており、アイトワを写真に収めておられたが、手前の小倉池の様子がキチンと記録されていた。私は食指をうごかしてしまったが、焼き付けてご持参下さった。
次いで、宮崎さんのコロナ禍に関する想いをメールで伺えた。コロナ禍は簡単に解決する問題とは見ておられない。各個人は、ワクチン接種を終えた後、マスクを外し、自然感染して抗体を作るべき、とのご意見で、思わず私は膝を打った。
さもないと、医療問題や経済問題もさることながら、環境問題や資源問題などをより深刻にしかねない、と危惧される。納得。
それら問題は、皆で乗り合わせている船(宇宙船地球号)を沈めかねない問題であり、緩慢なる皆殺しだ。未来世代に申しわけない。
私はワクチン観を(陽性化を簡便にするいわば触媒のごとき位置づけとして)固め、使用する気分になった。世間では、感染を加害と被害の関係で見る風潮があるが、私にはその感覚や意識が釈然としない。自然感染して早く抗体を作り合いたい。
だから、こうした膝を打ち、納得したくなる意見を求めている。それを自己責任の下に咀嚼して行動に移し、検証時に「あれでよかったんだ」と思えた度に、私は生きる自信を深めてきたように思う。
もちろん、そうした見方や判断が間違っていたことが分ったとしても、なぜ間違ったのかなどを話し合い、突き詰めているうちに、親密度が増してきたように思う。
5,考えた
知範さんの空海論(密教の正当な伝承者に選ばれた事情)にハッとさせられ、次いで妻が偵察スズメバチと対峙した報告にニンマリし、清太の自信に満ち溢れ出した姿と、それを即座に見抜いた1つ違いの妹藍華の感受性を微笑ましく見た1カ月でもあった。
2年前の中国旅行では、知範さんの推奨で青龍寺訪問を組み込んだ。その時から1つの謎が残っていた。なぜ青龍寺の歴史的高僧「恵果」は千数百と聞く中国の弟子にではなく、初対面で倭人の空海を(待ち受けていたかのごとくに)密教の正統な伝承者に選んだのか。
その昔、チベット探検(「道具学会」では調査旅行を探検と呼んだ)で、密教がチベット密教として連綿と残っていたことを知った。その折の雑談で、空海が「それほど優秀な人」であったが故に、正統な密教が日本で布教されるにいたった、で片づけてきた。だが、青龍寺を訪れ、その空海の扱い方(予期せぬ丁重さ)と、青龍寺が四国八十八カ所の零番札所になっていたことを知り、逆に「なぜ」が始まった。
この度、知範さんと、この「なぜ」が話題になり、彼が繰り広げた「論」に感心した。既知の研究成果が他にあるかもしれないが、と断った上での展開だった。
中国では当時、密教の先行きに暗雲が立ち込めていた。だから「空海」に賭け、密教を国外避難させることにした。それが「恵果」だけでなく、多数の弟子までが「空海」に阿闍梨という密教最高位の位と「遍照金剛」という号(密教の仏「大日如来」の別名を)授けるために立ち働き、正統な伝承者と位置付けた動機であったに違いない。
「ならばわかる」、「思想(時空を超える)とはそういうものだ」などとの想いが脳裏を駆け巡った。「今やインドでは、日本の僧が『仏教』再興に尽くしているではないか」。青龍寺などの密教後継者たちは、仏教も弾圧された文化大革命のさなかにも「恵果」の判断や「空海」の努力に「よくぞ」と感謝していたに違いない。歴史4000年の智慧だろう。
そこにサル問題が生じた。「電柵をいかにしてサルはすり抜けたのか」。自然生えしたツルクビカボチャの実(に採種の期待を寄せていた)が、襲われてしまった。「またもや絶やしかねない」とガックリした。何せ、トッテンさんにもらった実が大本だ。
後述談が2つある。上部のみが残ったカボチャだが、その後大きくなろうとけなげな努力をしている。もしやその太らせている部分で「種を結ぼうとしているのではないか」と思いたくなるほどだ。間違いなく、この上部がタネをつける部位であったすれば、むしろ身軽になったと(種作りに集中できることを)喜んでいたに違いない。
ついで、サルとトウガンの関係。サルはトウガンにもかじり付いていた。だが、マズかったのか、放置したことを知った。オカゲで、と言っていいのだろうか、自然生えのトウガンがたくさん採れた。
その後、ツルクビカボチャも旨い部分だけで腹が充ちたようで、後は捨て去っていたことも知った。どうやら、人間(不自然)やリスなど(自然の摂理)のように保存食にするような生き方ではなく、半端な生き方を選んでいる査証ではないか。
それはともかく、この時期には、決まったようにカキの木にやってきて、食い散らかす。
それにしても、畑で自然生えしたツルクビカボチャが襲われた時は「実を隠すカモフラージュ(実験)だけでもしておきたかったものだ」と思った。だが「待てよ」とすぐに思い直している。「これは何かのヒントかもしれない」。雨、雨、雨の日が始まり、気温を急に下がり、日照不足の心配が生じ始めていたからだ。
それまでは、自然生え(のトウガンとツルクビカボチャ)に加えて(耐寒性に富んだ)白カボチャを育てるために畑中に支柱を立て、蔓(遮光ネット代わりになる)をはびこらせ「一石三鳥」を狙おうとしていた。
「一石」は、カボチャの実を育て(ながら、遮光ネットの役割を果たさせ)る。「三鳥」は、カボチャの実を得るだけでなく、日照りをやわらげて夏野菜を延命するだけでなく、日陰で涼しくして畝で冬野菜の種まきを早める、だった。
だが、天候急変で(これから受粉する実があったとしても、まともには育ちそうになく)逆に、「二者択一」を迫られかねない、と気づかされた。
それはさておき、「よくぞお裾分けしておいたものだ」と思った。この度のツルクビカボチャの種は、かつて義妹に分けた種の子どもに当たる。昨年は、知範さんにも分けてある。いわばチョットした保険であった、と胸をなでおろした。
それにしても異常だ。北海道出身の長津親方によれば、30℃強の日が続いた稚内で、1夜にして2℃にと気温が30度も下がったらしい。何かがおかしい。
だからだろうか、妻がブルーベリーをジャムに煮込んだのは9日だが、その香りを嗅ぎながら「あの子は?」と振り返っている。短大時代、年に100人、計1000人の女子学生に座学を講じたが、多様なアンケートもしている。おかげで若き女性への理解を深めただけでなく、次第に期待も深めていった思い出だ。
ある学生は数分の間に意識を一転させた。年を追うごとに多くの学生の間で意識の転換が進んでいたように感じていた。
たとえば、古代美術とキリスト教美術の女性像を写真で示し、好感度をアンケートし、積年変化を汲み取ろうとした。今もデッサンのモデルに活かす古代美術よりも、次第にキリスト教美術の女性像に好感度を示す人数が増えた。中世のキリスト教美術にやすらぎを見出す人が増えつつありそうだ、と憶測さえした。
翌10日、19時より「ZOOMでのデンマークセミナー」があった。デンマークと言えば、私は新婚当時から幾度にもわたって、妻に移住して、彼の地でこの生き方を「やり直さないか」と持ち掛けている。その後、NZを訪れるようになり、デンマークかNZに、になった。それは両国を訪ねるたびに、いつも私はやすらぎを感じていたからだ。
だが、その都度「人形教室の生徒さんたちと一緒に行けないから」などといって拒否され続けてきた。
後日談がある。母の死後、随分後に遺言書を残していたことが分かり、その願いを知り、私もこの土地で想いを完結させることにしている。
その後、この2つの国は、今や若き女性がリーダーだし、政治の透明度世界ランキングでは1~2位を競うようになっている。
14日、棚経の和尚を雨が急かせたようで、例年よりも20分も早く読経が始まった。その間に、ある思い出(妻と生きる姿勢の1つを、ほんの数分間で固め合った)を振り返っている。和尚が、いつものバイクではなく、見知らぬ人の運転に頼っていたからかもしれない。「ベンツか、軽4輪か」の選択をし、軽4輪を選んだ思い出だった。
かくして敗戦の日を迎え、ピーターさんの「『あいつら』も『私達』もない」に触れた。このコラムは、幾度目かのNZの旅で、彼の地の戦没者慰霊塔を訪ねる機会を得たが、その時の感慨と共感を新たにしている。
翌16日、あれよあれよという間にアフガニスタン全土を、タリバンが制圧したニュースに触れた。米兵が、引き上げると決めただけで、なぜかくなることが生じるのか。米兵について逃げ出そうとする人がいること自体が不思議だった。
本来なら、「後は任せてくれ」という立場の人たちを増やすために、20年の歳月を傾け、タリバンなどの何倍も上回る兵士と、比較にならないほど強力で精巧な兵器、そして桁違いの戦費を注ぎ込んできたのではないのか。いったいアメリカは何をしてきたのか。
追いすがる民と残る民。そのいずれの民を尊重する民主主義をアメリカは標榜していたのか。そのいずれが、アフガニスタンの大地に則した、今流に言えばSDGsに則し得るような生き方をしている、と見ているのか。
未来世代はいずれの民に与することを高く評価するのか。私たちはいずれに与すべきか、と考えた。
6、その他のこと
異常な気象に急かされたり背を押されたりした日々を振り返ってみれば、まるでミニ「八面六臂」のような1カ月だった。その始まりはハッピーのパラソルだったし、月末に「まさに大団円!」が待っていたが、その時になるまで分からなかった。
4日。「ヤット載った」と思った。先月お披露目された「不動明王」の姿だ。友禅技法で仏画を染め上げる「匠」では右に出るものがいない幸さん。商社時代の後輩夫人。
5日から朝飯前の一仕事を本格化し、6日に恒例のカラムシなどイラクサの花取りにも取り組んだ。山菜としても残し、太らせたい植物だが、これ以上は増やしたくない。
この「年に1度の恒例の作業」の過程で、ハンゲショウの種房は残し、セリの珍しい花を見て「これも増やしたいなぁ」と思い、勝手なものだと苦笑。だが、その身勝手が、限られた空間でだが、このましき時空づくりの模索と智慧であったように振り返る。
ありがたい絵手紙とメールが最初の贈り物だったが、誕生日を祝う寄せ書きには勇気と希望を得て心が震えた。コロナのセイで2年強ご無沙汰の皆さんだったが、淋しさなど雲散霧消。より喜ばしき感染を願ってワクチンを打つことを考え始めた。
レモングラスを活かした手づくりの枕。様々なクーリングデバイス。免疫力を高める生薬などにも元気をもらった。
一隅を照らす運動を紹介した絵本は、ハンモックで一気に読んだ。あるいは「いざという時に飲むべし」との錠剤に、心強さをもらった。
三崎美夫さんはポストにハスの写真を。これは三崎さんの元気の便り、と眺めているうちに、なぜか一寸法師になったような心境に誘われた。
学際的研究業績のシリ-ズ叢書21をおくっていただけたが、感心、歓心、そして関心のトリプルカンシンに駆られた。
「デンマークの夜」は、私にとって、かの地で3年ほど前にお世話になった夏代・澤渡Brandtさんとの再会だった。
彼女は明るい声で、デンマークを「自分が思い描いた人生」を送ることを最優先する「高福祉高負担」の国、そうした国を支える国民、とご紹介。
家族の形態が37種もある。
この意味するところは私には即座に理解できた。商社時代に仕事で訪れた時のこと。夕食に招いてもらった社長は6人家族だった。だが、全員が血のつながりはなかった。再婚の当人には子どもが1人いたが、先妻の連れ子だった。夫人も子持ちの再婚だったが、先夫が連れ子のある女性と結婚しており、その子どもを離婚時に(子どもの希望で)引き取っていた。そのような事情を知って、感じるところがあり、調べて分かったことがある。
家族形態がよく似た隣国スエーデンをはじめとした4国調査だったが、子どもが本当に困ったときの相談相手を調べていた。スエーデンの子どもは「(現時点の、自分で選んだ)親」を挙げており、日本の子どもは、血のつながりがある親ではなく「友達」を一番に選んでいた(拙著『このままでいいんですか』平凡社1906で紹介したように記憶する)。
労働者の勤務時間は6時~2時。5時には家族が揃っている。だから、デンマーク育ちの澤渡さんのお嬢さんは、日本留学時に「お父さんと夕食を週に何回食べますか」と問われ、戸惑っている。デンマークでは、6時には家族が揃っているのが普通。
コロナ禍問題では、ロックダウンが2回あった。580万人の人口。九州ほどの国土に680カ所の検査所があり、国民は4000万回のPCR検査と3900万回の抗原検査済。ワクチン接種は、1回目73.2%、2回目60%が済ませている。
ワクチンパスポートではなく、コロナパスがある。そのパスは、ワクチン完了、陽性証明、もしくは抗体保有を示す。
マスクは昨年8月に義務化され、この5月1日から解除。その間に、歩道には新たな線が引かれた。レストランでは、コロナパスがない人は屋外で「どうぞ」。あるいは蜜対策は2mから1mになど。その意義や必要性を若き女性の首相は懇切丁寧に説明する。その訴えに国民は耳を傾け、従う。
政治とは生活の質を高めるもの。生活の質は、自分の人生をいかに自分で決められるか、で判断し、国民の政治参加意識を尊ぶ。たとえば500のベンチ新設予算を組み、コペンハーゲンの地図をネットに載せ、60万市民に「置いてほしいところ」を指定させ、決めてゆく。
話し合い(議論)が大好きだから「デンマークではカラオケなどは流行らないのではないかしら」。
子どもは、幼い時から判断力や義務意識を養われ、自己責任能力を育むようだ。
デンマークは、1人当たりGDPが高くて、平準化している。その特色は、人生の自由度や高負担高保障の他に、隣人に寛容、国家への高い信頼度、あるいは国家へモノ申す自由度などがあげられる。それは、投票権を神様からの贈り物と認識し、投票率の高さ(85%など)に現れる。多様性を愛でる気質は、王室の面々の伴侶(女王の相手はフランス人、その母はスエーデン人と、王子はオーストラリア人を選んでいる)にも表れる。
最後に私も隣国スエーデンとのコロナ対策の差異について質問した。
国民総免疫方式をとったスエーデンではディスコも自由。だから、デンマークの若者が出かけて行く。そしてコロナウイルスをもらって帰ってくる。だから、デンマークは国境を封鎖したようだ。「なるほど」とか「どちらを」などと思いを馳せた。
いずれにせよ人口面で「小さな国だから」意思統一も容易だし、メリハリの効いた円滑な手も打ちやすいのだろう。それが国民の自己責任能力も育みやすいのではないか。
「うらやましい」と思った。時代は、自己責任の下に多様な可能性を追求しやすくする地方分権化を、可及的速やかに採用することをわが国・日本にも求めている、と睨んだ。
14日、「また1年が過ぎ去った」と、いつも、なぜか、誕生日や年末年始よりも心を新たにする一時を迎えた。その恒例の棚経前後の数日間は、雨続きだった。
12日の朝、「今年はお父さん好みで行きます」と急かされ、墓掃除に付き合うことから始まった。墓掃除の半時間足らずの間だけ雨が上っていた。コロナ禍のオカゲか、実に閑静な寺。帰途でのわが家のお隣の池。
翌夕刻。野菜籠は「すべてわが家で」と妻。母手作りのアイロン台を取り出し、仏壇の花も「お父さん好みで」と妻は庭で調達。
当日の朝餉は和食。妻は1時間ほど早起きする。
読経の間に、1年の感謝とさまざまな安寧を願い、この度は思い出も振り返った。僧侶を見送った後で、両親と同じものをいただく。
この頃には、コロナワクチンは「ブースタ―」という言葉を持ち込まざるを得ないような事態と、程度の代物になっていた。
庭ではカラスが初めてホオズキを襲い、サルが青柿を例年通りに襲い始めており、山の様子に思いを馳せる。
ミツバチの巣箱に小型スズメバチが単独で偵察(?)に来た。捕獲して殺し、妻に報告。生きて返さぬこと(が、両種間の悲劇の再生産を減らすこと)を確認。
新婚間もない頃、妻はムカデに咬まれた時に、殺さず、活かして逃がしており、その経験が自信を高めさせたようだ。今では自然の摂理を私以上に尊ぶようになっている。
今年孵化した小さなヘビがいた。よく見ると、どうやらヤマカガシのようだ。随分長い間見なかった。20匹ほどは孵ったに違いない。マムシより強い毒を持つと聞くが、マムシと違い毒歯が奥にあるようで、被害を聴いたことがない。
16日午前、両親がかかり着けだった医院でワクチン接種。父を看取った医師の娘婿だが私の看取り医に、と願っている。帰宅後、ベルト地と名付けた一帯の草刈り。その間に妻は、偵察に来た3匹目の小型スズメバチを始末。
19日、「野菜はすべてわが家の」と妻が胸を張った夕食。それは、デザートに選んだ清太が育てたスイカのための予告編であったようだ。
冬野菜用の畝の準備は21日の朝、キュウリの畝の始末から手を付けた。その朝に、ヤマボウシの実が1つ落ちていたので拾い上げておいたが、畑仕事の間に小鳥がとてもクリーミーな甘さをついばんしまった。昼に、ツクツクボーシが鳴く。キュウリの畝の仕立て直しは3日に分けて仕上げた。
始末したキュウリの蔓に、ウラナリキュウリがついていたが、ピクルスに。次の冬野菜用の畝はトマトの畝だったが、たくさん採れたウラナリは、ピクルスだけでなく、サラダや調味料などに妻は活かす。
23日、ゴーヤの実がはじけ、サンショウの実に色がさし、キノコが随所で出始めたが、残暑は4日前の予想に反して、とても厳しい。
25日朝、シカ侵入の痕跡を多々、妻が発見。再確認にまわったが、ギボウシの被害を見て私もシカと確信。肝心の侵入口が分からず万策尽きる。そこで、シカの臆病さを突く仕掛けをして回る。その後、シカの侵入した痕跡なし。
その後、長津親方には2度も訪ねていただき、恐縮。先は、お願いしてあった桜の大木の検診。後は、「新品と同額までなら修繕を」と、お願いしてあったがかなわず、修繕体制が整ったメーカーのトリマーを選び、届けていただけた。
29日、ピ-ターさんはコラムにネコを取り上げ、午後に森田智都子さんを迎え、愛猫の死が話題に。ピ-ターさん同様に捨て猫をお育て。ご主人は延命策を拒み、バプテスト病院を選ばれた人だし、ご本人は敬虔なる環境主義者。それだけに、ネコの手術など加療や、葬送の様子を妻としんみりと聴き入った。わが家の犬が歴代土葬だと知り、うらやましがられた。この日の風呂敷や日本手ぬぐいの活かされ方も相まって、トリプルカンシンの一時に。
森田さんを見送った後、棚経の折からの懸案だったし、この度初めて知った事情もあって、心して軽4輪の錆止め塗装に着手。次いで、喫茶店のドアーや一輪車の塗装にも取り組んだ。
軽4輪に決めた当時は、一帯では不法建築問題が生じていた。常寂光寺の先代住職の後ろ盾の下に、私は矢面に立った。ある日、不気味な名刺と、大きな菓子折り(?)を携えた男が、丁重な態度でやって来た。だが、引け際には、捨て台詞を残した。運転中に「前がベンツの時は」急ブレーキに要注意。「後ろにもベンツがいたら」ご用心、だった。
だから「ありがとうございます、もし私が事故に遭ったら、「村中が、あなたが…」と疑いかねない。だから「気を付けます」と言って、菓子折りを返しながら見送った。
NY郊外での一件も思い出も関わっていた。先輩に誘われてスーパーマーケットに出かけた。途上ですれ違った1台の大きな車に仰天。歩けばカタカタと音を立ててつぶれそうな老婆が運転していた。「危なくないんですか」と先輩に問うと、返って来た答は「森クン、歩かせばもっと危ないんじゃない、転んじゃうよ」だった。
だから妻とは、最悪のケースを考えた。私が事故に巻き込まれ、「怪我程度で帰ってくる場合」と、「相手は無事で、私が…」との選択だった。妻は、他人を殺めて生き残るより死ぬ方が、を選んだ。だから最初の車は黄色い軽4輪になった。
後日談が2つある。「森さんは、車など持たない主義、ではなかったのですか」と、2~3の人に冷やかされた。その私が、49歳で会社勤めを辞め、翌年私も免許を取った。数年で我ながらの運転自慢になった。
だが55歳からの10年間(運転する機会がなくなった短大時代)の空白が、往年との運転技量、特に感覚の落差(あの老婆のごとく、幼児期から母の助手席で車に慣れ親しんだ人のようにはゆかないこと)に気付かされ(また免許更新時の認知症扱いにも辟易し)免許を返上することになる。
軽4輪に決めた理由について、この度新たに知ったことがある。妻の認識だった。私の認識と正反対で、私が他人を殺めておきながら「生き残るよりも」ではなく、妻は「自分が死ぬ方」を覚悟して軽4輪を選んだ、という。
妻は狭い道で、対向車と行き違うために車によく傷をつける。これは正に「妻が愛車」と感じている査証、と認識を新たにした。
私も息子がいたら、愛息であることに甘え、(父と同様に)厳しく扱っていたと思う。そのおかげで、との思い出を振り返りながら、丁寧に塗った。だが妻に「もう少し似た色はありませんでしたか」とただされ、筆洗いを一度で済ませたかった、と応えた。
その後、半日を割いて、こまごまとした懸案を片づけて回った。グラインダー仕事では、キノコなど(弱った樹木を傷める寄生植物など)を削り取る道具と見立てて買った古道具を加工、など。ミニダムの放水穴の栓を恒常性がある栓と交換。雨水タンクに柄杓掛け。あるいは不都合なところに伸ばした竹の根の駆除、など。
幸いかな、遅がけのツルクビカボチャが、幾つも実を結んだ。「来年こそ」とあきらめていた実験の好機到来。畑の分は新たな支柱を加えて、ニラコーナ―の分は、より巧妙な仕掛けを考えて、サルの智慧を推し量る実験に供した。より巧妙とは、誘惑用の1つをこれ見よがしに取り置いたこと。
月末は大団円を思わせる結果となった。前日の電話で乙佳さんが末富さんと(人形ギャラリーの出窓に、と)頼んであった「ブラインドの取り付け」に来てもらえた。ついでに、もう1つのお願いをしておいたのがヨカッタ。
ブラインドは、私の意見(横に引く様式を推選)とは逆で、妻と2人で上下開閉式を選んでいた。建設時に、なぜこうしたブラインドを取り付けておかなかったのか、と反省。
もう1つの願いとは(母屋と居宅の間の)渡り廊下の天井板の補修だった。雨漏りが合板をはがしていたことを、ハンモックを使い始めて気が付いた。
お二人は屋根に上り、雨漏りの原因(建設当時はかくなる雨は想定されていなかったようだ)を突き止め、コーキング補修をした上で、「天井板の補修は、次の同様の横殴り台風をまって、雨漏りの有無を確かめた上で」とおっしゃる。私は首を縦にコックリ。
まるで漢方医のような発想ではないか。天井の補修を見ずに(人生を)済ませられたら、それは、台風が大嫌いな私にとって、このうえない幸せではないか。
それより何よりも、ハンモックを廊下に斜にかけたこと気付いた乙佳さんは「よそでも(提案し)使わせてほしい」と目を輝かす。もちろん大歓迎。
良きアイデアと見抜くチカラもステキだが、良きアイデアとして尊重し(黙って拝借せずに)多くの人の喜びに供しようとする発想は、もっとステキではないか。「拝借」を願い出て、幸せな人を一人でも増やしたくなる心は尊ばれる世の中であって欲しい。
お茶の一時に、妻は末富さんと同い年と知り、その若々しさを目標にしたい、と願う。「私、ズーッとお父さんみたいに思っていたけど」と乙佳さん。私との出会いを振り返り、まだ10数年に過ぎなかった、と数える。
私もとても長い年月であったように感じた。まだ、この半分もの年月が残されている。