第2次スナップエンドウと第3次アイトワ菜の種まきから師走は始まり、上旬は近共著者が集う執筆者懇親ガーデンパーティで明け暮れたようなものです。4日のパーティの後、遠方からの2組の家族に泊ってもらい、翌朝は阿部さんの次女を妻好みで撮影。午後は鈴木夫妻を祐斎亭に案内。それぞれ見送りました。そして6日に、岡田さんに再訪願い、小林正秀さんを紹介しています。
それ以降は10日まで、後片づけを楽しみながら、畑の除草にも精を出しました。それがヨカッタ。随分畑がきれいになった上に、通常のリズムを取り戻し、気力は旧に倍したように思います。この間に、カプセル入りの炭粉をもらった。除草時に加齢対策の1つ防草策で成功を確かめ、その延長を願って、手を出した。あるいは澄まし雑煮にありつけたなど、幾つかのトピックスに恵まれています。
しかも10日は夜に、今年で最後の花灯篭が始まりましたが、そのライトアップと、ただならぬ紅葉が、有終の美を飾りあったのです。その予告かのように、昼間の除草時に、珍しいイモムシや「今頃、黄チョウが」に触れており、驚かされています。
中旬から、暮れの庭仕事(落ち葉掃除と剪定)を本格化させ、ホウの木の選定や畑仕事の他に、妻と裏庭(でホタギ場やコゴミ畑一帯)の手入れに励みました。
畑では、最後の夏野菜・ヤーコンを掘り出し、巨大ツルムラサキは支柱を解体し、そのあとを、夏野菜用の畝に仕立て直しました。次いで、最初の冬の支柱(スナップエンドウとチマサンチェの防霜用)を立てる、などに当たっており、畑は冬装束に。庭では、霜に弱い木々に防寒対策(鉢植えのベンジャミンゴムなどは避難、温州ミカンなどは寒冷紗被せ)を施しました。また、妻と2人で裏庭(ホダギ場やコゴミ畑)の掃除などに当たったり、串柿づくりに取り組んだりしています。
この合間に、良きインターバルが7度もありました。12日は午後に、京の町屋ギャラリーで、アリコとGumiの演奏があり、嬉しい出会いにも。夕刻、ピーターさんの新著をもらう。小雨の13日、アイトワの店頭に記念陶板(トッテン里美さん手作り)が(乙佳さんのおかげで)掲げられた。15日、志賀師匠を迎え、歓談。16日は、ハッピーのハウスや野小屋の一角などの大掃除。雨の17日は、久しぶりに書斎でクロス遊び。そして翌日は午前に、トッテンさんを(2人の友人を紹介したくて)訪ねました。
下旬は、半日がかりのエンジンブロアー仕事で、約1kgの減量に成功から始まり、大みそかの恒例の催事で締めくくりました。その間に初雪や初氷など本格的な冬の訪れを実感。多くの惜別の知らせに触れた1カ月でしたが、とりわけ親しい女性の夫の急逝と、元アイトワ塾生・財木康太さんからダダカン逝去の知らせが残念。また、コロナ騒動はオミクロンのセイか、佛教大生をついに迎えられなかったのが残念無念でした。だが、今春農業高校に入った清太君が、2度にわたって訪れて、農畜産など生きもの相手の学習の成果を知り、「さすがは!」と目を見はらされました。この前後に6件の来客がありましたが、コロナで2回飛んだ他は20数年来の来訪に息子を同伴した大井夫妻に、あるいは橋本宙八さんの新構想の知らせに、ともにバンザイ。
そして半世紀来好例の30日のしめ縄づくりに、厭離庵の大澤玄果一家とこの度も取り組めましたが、この1年の大団円のごとくに感じました。
~経過詳細~
1、自然の摂理に感謝
「このような紅葉は初めて」と、朝刊を取りに出た時に思った。これが師走の第一印象。カエデが赤く燃えるように、ではなく、あでやかに包み込むかのような色合いの(まるで、北日本で見たブナやナナカマドの紅葉のごとき)グラデュエーション。
ハッピーを朝のオシッコに妻が連れ出したが、その雨よけジャンパーのオレンジ色が、今年のカエデの紅葉に溶け込んだ。
朝飯前に再度、「バクテリアの餌やりに」と、庭に出て “堆肥の山”に向かった。この時はもう一方の手に “ネギの根元”(妻が切り取り、プラスチック容器に入れてあった)を携えていた。これはこの晩秋から始めた1つの加齢対策の一環。
生ごみ(バクテリアの餌)と、その処理装置(堆肥の山)の管理は私の役目だが、ふと、この作業は、わが家では“自然の摂理”を学ぶ原点かもしれない、と思った。少なくとも自然の摂理を目の当たりにする絶好の場だし、本当に生きているとの自信と実感をえる源泉、と感じさせらあれる。
四季の移り変わりと、堆肥の山(井桁に積み上げる植物残滓と、その中央に放り込む生ごみ)の種類や量の変化。放り込む前の生ごみの腐敗度と、その後の両者の分解の進み具合。あるいは、カラスやアナグマなど野生動物の生ごみの狙い方など。いずれもが、2度と同じことが生じない。だから「思いやり」とは何か? とふと迷い、誰が、誰へのなどと、そのあり方やあり様に「そうであったのか」と気付かされる好機でもある。
生ゴミ容器の洗浄時に、大気や水の冷たさや温かさと、洗浄作業の心もちが変わる。生ゴミの分解が遅い時期は、えてして野生動物が飢えがちな時期であった、と気づかされる。ところが、凍てつくような寒い日に限って(貯め置く洗浄用水が凍っており、水を汲むのに難儀するわけだが)ごみがこびりつきがちで、洗い落としにくい。
同一労働、同一賃金なんてことが叫ばれるが、そんなことありうるのだろうか、と思わせられる。あってたまるか、との気持ちにさえなる。
暖かい時期は、水が腐敗しやすくて濁りがちだから、多用して無造作に(下水などに)捨てがちになるが、植物が渇水に泣かされやすい頃であった、と気づかされ、反省させられたことがあった。その時から半世紀、今や水の捨て方が、まるで雛鳥に給餌する親鳥のごとし、になっていたと気づかされ、苦笑。
親鳥は、雛の餌の欲しがりぐあいにつられてか、不公平がないようにと誘う本能があるのか、あるいはその鬩ぎあいか、などと思ったことがあったが、どうやら無意識のうちに餌を与えているように見える。そんな水のまき方を私はしていた、と気付かされたことがあった。
母は逆に、今にして思うことだが、意識しすぎたようだ。3歳違いの弟と、食べ物はキッチリ2等分したし、させた。だが、仕事を言いつける時は、「お兄ちゃんだから」と私に多くを受け持たせ、不満に思ったことがあった。にもかかわらず、私は母を公正な人であったどころか、公平な人であった、と今も信じている。
だからだろうか、サラリーマンになった時も、その商社では当時、給与の差がなきに等しかった。だが、不満など感じなかった。むしろ、有能ならば、リスクは会社持ちで、好きなように大きな仕事をさせてもらえたが、それを“やりがい”と思って張り切ったように思う。
これは伊藤忠での体験だが、今年も確か、学生の人気(就職希望順位)が一番であった。だから、当時の伝統が引き継がれており、それが評価されているに違いない、と思わせられた。
それとこれとを一緒にするわけにはゆかないだろうが、自然循環型の時空での公正や公平の感覚は、これにチョット似たところがあるように思う。
私たちも、生きものとして食べて、有機物を排出するわけだが、このもっとも原始的か原初的な人工物を自らの手で処理するわけで、これは生きる原点ではないか。同じものを同じように食べながら、その人工物は人によってさまざまだし、時(体の事情)によってさまざまだ。だからそこに、安心や不安に始まり、環境問題や、ついには資源問題へと、さまざまな問題意識を抱かせる原点でありそうだ、と感じさせられたことがあった。
とはいえ、その想いは話題にはしにくいので、両親のトイレは、遅くまでポットン式のまま残し、私の手で汲出していた。父は糖尿病に悩まされがちな人だったから、汲み出す時に、その匂いで様子を知りたかった。これがいつしか、生きる自信や安堵の源泉ではないか、とさえ感じさせられたことがあった。この生きる自信や安堵の源泉から離れた生き方に向かうにしたがって、私も近代化を感じてきたが、それがいわゆる環境破壊や資源枯渇などの問題の進展具合と歩調を合わせていたように思わせられたことがあった。
それがまた、孤独や孤立など、心の過疎化の問題にも関係していそうだ、と睨み始めたが、あながち間違っていなかったように思う。
その昔、学生を引率して、まだ原始的であったインドネシア(ロンボク島やコモド島)を旅したことがあった。そこでは、生ゴミという言葉さえ(そもそも生ゴミ自体が)なかった。いわゆる便所もまともにはなかったように思う。わが家の生ごみ処理装置(堆肥の山)は、それに気をよくしているのかもしれない。生ごみ捨て場ではなく、バクテリアへの餌やり場、と理解している。
調理は女が担当し、まな板と包丁をしゃがみこんで操っていた。人間が食さない部分が出るたびに、包丁でまな板から周辺に弾き飛ばした。それをニワトリ(小屋はなく、餌箱もなく、放し飼い)が群がってきて、競うようにしてついばんだ。
そのニワトリを焼き鳥にするときは、首や足などを切り取ると、手でつかんで放り投げた。今度は、その匂いを嗅ぎつけてか、首輪も餌やりも、犬小屋もない犬が寄ってきて、拾ってたべた。
もちろん、犬とニワトリが競いかける事態もあったが、その時が唯一、その村、リンジャニ村では、ヒトが険しい声を発する時で、手を振り上げて犬を叱った。犬は決してニワトリを襲わなかった。この小屋も与えられていない犬も(夜分に小用で起き出し、気付かされたことだが)特別の役割を担っていた。キット野獣の襲来にも唸り声を発し、村人に知らせるのだろう。
ウシも放し飼いだった。その糞を即座にニワトリがかき回し、未消化の種などをついばみ、残る糞を散らかした。たちまちにしてフンコロガシが現れて、ニワトリや犬の糞と同様に処理(卵を産み付ける団子に)した。腐食臭がまったくない時空だった。
そこは、自然破壊や資源枯渇の問題とは無縁だし、身分や貧富の格差も極めて少ない社会だった。長のライールさんは、祈祷師であり、医師も兼ねていたが、同じような棲み処にすまい、同じように生きていた。謝礼は感謝や尊敬の念が多くの部分を占めていたように記憶している。それだけに、夜中の小用時に、ここでも「いずれは酸性雨が降るのではないか」と心配したことを思い出す(拙著『このままでいいんですか』に収録)。
思えば、私が58年前に、この地で終の棲家をつくり始めたわけだが、当時はこの地域には下水道はもとより上水道もなかった。
わが家に電気を引くために、庭に電柱が(1963年頃)立った。水道は、遠方から自己負担で引いた(当時は地道だったが、その借地権など考えもしなかった)。だが、その水道管を活かしたい人(新入居者などが現れた場合)は、わが家の負担金を、次々と案分し、水道管のいわば共有者(の気分)になった。母の手で記されたこの書類によれば、先住者であった秦さんは、この時点で水道を引いたことになる。だが、常寂光寺(山水を活かし)や嵯峨人形店(井戸を活かし)などは引いていなかったわけだ。
確か、分配戻り金が1000円ほどになった時に、水道局負担で本管が太くなり、水道管の所有権が移転(?)した感じだった。
後年、下水道が通った時(1985年頃)は、わが家の屎尿処理(汲み取り式)システムと、喫茶店用大型浄化装置(設置が営業認可条件)の使用禁止を、市から言い渡された。
後者は、事前に分かっていたはずの下水道敷設計画を、どうして通知しなかったのかと責めた。だが、途中で手控えた。市の窓口が、装置の設置や廃棄に要した経済的負担を私が問題にしている、との誤解を解けなかったからだ。私は、資源の無駄や環境破壊を問題にしていた。また私は私で、こうした無駄を容認する体質(GDPをおしあげ、豊かさのバロメターとして見がちな感覚)を行政に見てとり、力がなえた。
ただし、前者の要請には断固抵抗し(数回の折衝で市の本意が分かり)応じずに済ませた。つまり、上水道使用料金が自動的に1.6倍に上がる新(下水道敷設後の)水道料金体系を受け入れ、生来の文化を守ったことになる。
その頃に、水洗便所に改めており、大型屎尿タンクを庭に設けた。おかげで、排便時は近代化しながら、断水一つでヒヤヒヤするストレスから今もまぬがれている。
ちなみに、わが家から下手でも、当時は家の前を流れる小川の水で顔を洗い、口をゆすぐ光景が見られた。その後、水道の普及と比例するがごとくに小川が汚れ、今や暗渠になり、道路拡幅に供している。
文明とは、生きるチカラや実感と引き換えに、などと考えざるをえない。ロンボク島やコモド島(コモドドラゴンで有名)でも、その後、同じようなことが生じ、人心を大きく変えているに違いない。
この日はまた、ネギの加齢対策に関わっている。おかげで、その成功を確信しただけでなく、土地柄を尊ぶ自然農法の意義を追認させられている。
収穫したネギの根元を妻が切り置いてあったので、それを植え戻しに畑に向かったが、おのずとアイトワ菜(この畑で自然交配した十字架植物の野菜)が勝手に随所で芽吹き、それぞれの個性を主張しあいながら、その畝本来(?)の植栽野菜、チマサンチェ、ワケギ、あるいはヒコバエから育てたネギなどを押しのけ、ムクムク育っている姿が目に飛び込んできた。
ネギを苗から育てた畝では、願った通りの展開を見た。今年は、ネギの畝を用意する時点から1つの加齢対策を思案した。まず畝を、これまでの半分の長さにした。そして、その用意した畝の長さに相応しい量の苗を買い求めておきながら、その畝の5分の3ほどに、つまりこれまでより詰めて植えた。
そして収穫期に入ると、必要に応じて(薬味には細いのを、煮炊きには太い目を、と)間引くようにして株毎引き抜き、台所に持ち込み、まず根元を切りとっておく。
その根元を、なるべく早く畑に(5分の2ほど残した部分に)埋め戻してゆき、再生を待つ。このチョット面倒な方式が成功すれば、耕す畝の量が半分で済み(施肥の仕方などにチョット工夫を要するが)体力的にも合理化できそうだ。
畑から引き揚げることになり、温度計道のゆるやかな坂に達した。その時に、思い出したことがある。この坂を、妻に背を押してもらって登っていた時期のことだ。
当時は、帰宅した私を妻は門扉で迎えた。そして、この坂に至ると、背を押しはじめた。その後、私はある予感に誘われて、先々のアポイントを控えるようになった。案の定、ある日、限界を自覚し、妻の運転で救急窓口に駆けつけたが、即入院のはめとなった。
長年にわたって心臓を肥大させていたことは知っていたが、ついに拡張性心筋症と診断されるに至ったわけだ。安静を言い渡された。
この体験のオカゲで、結果的にだが、わが親指の爪の変化を通して、自然の凄さや人体の精巧さを実感させられている。この現象が現れた当初は「爪自体の問題」と判断した。爪全体に疾患が及んだ時は「爪の水虫かも」と、不気味だし不安だった。
だが、昨年の春ごろから、一筋の光明を見出し、夏には「おそらく」との憶測をしながら、写真に収める気になった。そして1か月後に「キット」と思うにいたった。
さらに、昨年の暮れに「間違いなく」、と自己診断を下している。体が楽になるにつれて爪は旧に復し始めていたし、病院長だった門先生に心臓病の前兆現象(足がむくむ、肺に水が溜まる)を教わっていたからだ。だが、先生には爪は診てもらっていないし、話してもいない。隠したわけではなく、関係がない、と思っていたからだ。この12月時点では、半ば旧に復した、との感触を得ている。そういえば、
足がむくむ(私は当時、体験していない)。肺に水が溜まる(私の体験では、深呼吸をしても深く吸えず、浅い深呼吸を激しく繰り返さざるをえず、寝込めば酸欠になりそうに感じた)。そして、両の親指の爪で、異変(心臓の欠陥とは関係がないと思っていた)が始まっていた。今にしてみれば、これら3点には共通項がある。野生動物時代なら狩りがし難くなり、「休め」の信号になったはずだ。それが、野生動物に1つの進化(断食が自然治癒)を促すキッカケになり、自然の摂理の一環になったに違いない。
2、執筆者懇親ガーデンパーティ
師走の初日。朝食時に、4日の懇親会パーティの「打ち上げは、『コーヒーを』とでも言って、皆さんを喫茶室にお誘いし」善哉も振る舞おう、と妻に提案した。
食後、この日は外気がぬるむのを待って、庭に出た。畑に踏み込むと「トンネル栽培にしてほしい」とか、「防霜カバーを被せて」などと叫ぶがごとき畝が、次々と目に飛び込んできた。まず、防霜カバー(支柱を要する)の2畝から手をつけ、各2本の畝に3種の防寒対策を施し終えた。丁度その時に昼食の合図があった。
ポンポンと2度柏手を打って返し、午後は「庭木の剪定を」と考えながら、引き上げた。
翌2日は、エンジンブロアーを取り出し、囲炉裏場と(4日のお泊り組の目に触れそうな)中庭の落ち葉掃除に取り組んだ。ハクモクレンが9割方の葉を落としていた。妻と義妹の加勢を得て、落ち葉袋で5杯分を腐葉土小屋に積み上げた。その後、借り物の資料の整理に没頭。
3日。妻は、電動ブロアーとサラエなどを持ち出し、「人形の苔庭」や前の通りの落ち葉掃除に、喫茶店の仲間で手の空いた人と取り組んだ。
その後、2組の家族に泊まってもらう部屋割りと、夜具の準備を済ませて1日を追えている。夜、もち米を洗って(善哉に用いる餅をつくために)水に浸していた。
私は、お宿り組2組の5人の目につきそうな庭木を剪定し、ついで囲炉裏場で夜間照明の準備や、囲炉裏場の最後の掃除などに当たった。
夜間照明は、3種4つの器具を、点灯するまでは気付かれないように(内2つは樹上に、残る2つは木陰に、工夫して)位置した。
おかげで4日、当日の朝は澄まし雑煮にありつけた。妻は前夜、「お雑煮は、お正月のお楽しみに」と主張したが、それでは善哉をふるまう提案をした(餅をつく機会をつくった)甲斐がない。そこで、「三が日は、白みそ雑煮を楽しむ“年に1度の機会”であって、澄まし雑煮のことでなない」と、切り返しておいたが、そのおかげだった。
上機嫌で庭に出て、最後の点検(久しぶりのガーデンパーティだったので、会場の周りや“庭のトイレ”にいたる小径の掃除など)に、丁寧に取り組んだ。
午後。早めにゲストの岡田さん(この本が誕生するキッカケを作った人)が、松山からご到着、歓談。次いで3人の幹事(乙佳さんは一家3人で、瞳さんは夫妻で、そして知樹さん)。そして茨城からのさちよさん夫妻と、恵那からの阿部ファミリー3人連れを迎えた。
幹事組の宴の準備に私が付き合い、妻は2組の宿泊組の案内に当たった。やがて、この14人は囲炉裏場で合流。様々な役割に(幹事組はリハーサル通りに)当たり始めた。
メインの鉄板焼きの準備は乙佳さんの夫・哲さんが。竹でご飯を炊く用意は瞳さんの夫・義信さんが。阿部母娘・仁美さんと花連さんは、さちよさんの加勢をえてアペタイザー作りに。竹のコップや箸は瞳さんが24人分を作ってきた。それぞれに固有の印が入れてあった。ほどなく川上さんがご到着。15人はすぐに和し、賑やかに準備が進んだ。久しぶりに寿也さん手作りのスモークチーズも味わえそうだ。
かがり火具の準備(ビニールカバーの取り外しなど)を知範さんに頼み、照明の点灯(木陰に隠してある器具のありかを示し、点灯する要領など)をさちよさんの夫・伸幸さんに依頼した。そして宴の撮影係(囲炉裏場の周辺などから)の任を楽しみ始めた。
乙佳さんが鉄板の焼け具合を点検する蒸気や、心地よく木が燃える煙、あるいは豚汁の出番を待つ香りなどが一帯に漂い始めた。かがり火がマッチ1ポンで太い薪まで燃え上がるように私は準備した。
宴は3時から、だったが、平野さん、橋本宙八夫妻、2人目のゲスト(トッテンさんの日本語翻訳者)喜田さん、3人目のゲスト(編集面で計り知れない助言をえた)梶山さんがご集合。開演に遅刻は2組。だから、乾杯の練習を、祐一郎さん夫妻到着時を加えて2回。
岡田さんの動画撮影も始まった。
乾杯の本番はトッテン夫妻到着時になったが、それもヨカッタ。まず、瞳さんが用意してきた竹の食器や箸が、マイ食器であることを説明。私はトッテン夫人・里美さんの手作り陶板(も土産に添えてもらったいた)を掲げて紹介出来た。だから本式の乾杯では、待ちに待った”近著出版の打ち上げ”だけでなく、なんだか”新たな出立、門出の宣言がごときになった。
鉄板料理が本格化し、賑やかな宴になった。老若や男女、出身地やキャリア、あるいは職種や立場などはバラバラだし、初顔合わせも多かったが、瞬時にしてワイワイ、ガヤガヤに。
最年少の大成君のチョットさみし気な姿が気になった。だがすぐに、オアシスを見つけ出した。竹のご飯がたきあがった。
陽が西山に入った時だった。知範さんが集合写真を! と一声。私がカメラを手に立ちあがると、祐一郎さんが敏捷にそのカメラを引き取った。次いで、知範さんがケイタイで撮ったが、フラッシュを要し、赤目になった。
かがり火をともすと、伸幸さんが次々と照明がともして回り、宴は活況にはいった。いよいよ賑わい、ご近所から離れていてヨカッタ、と思った。
ここに至る過程で、感心したことがあった。リハーサル時は白い防寒衣だったが、義信さんが本番では青い防寒衣姿で、1人離れたところで火をおこし、ご飯を炊き始めた時に気付いたことだ。リハーサルでは炊きあがったときに竹の容器を斧で割っていた。
本番では改良がほどこされていた。余熱!?!から始まったが、大成君は興味を抱いたようで、義信さんのそばに足しげく通った。
大成君は炊飯の根本を潜在意識にしたのではないか。これぞ真の教育のあるべき姿ではないか、と思った。炊き上げた3本の内、1本はまるまる、他の1本はおこげ部分が残ったが、これもわが家で引き受けた。そして、翌日の夕飯から2度に分けて食した。久しぶりのおこげもヨカッタが、炊飯器で炊いた飯よりも美味に感じた。間違いなく香りがヨカッタ。なぜか言い知れぬ安堵感に浸った。
偶然だろうか、と思ったこともあった。開宴定刻に遅れたのは2組の夫婦だったが、祐一郎さんは佐惠子夫人と2人で、里美さんはコートを脱いで(トッテンさんと、喜田さんに見守られながら)単独で鉄板焼きに、共に幾度となく取り組んだ。
鉄板の火加減や、火のまわり具合などを2度もリハーサルでチェックした訳も解った。さまざまな焼き物が見事に調理されたし、美味だった。
実は、私はさちよさんには幾度も、に始まり、阿部夫妻、乙佳さん、そして瞳さんの順で、手作り料理に甘えてきた。その共通の味や調理具合でこの夕餉は統一されていた。しかも、デザートまでが(善哉をハプニングにしていたので)用意されていた。
凄いなーと思ったり、有難いナ、と感謝したりもした。リハーサルで24人分の鉄板焼きの要領を確かめた哲さんは、本番では見事な腕前を示しただけではなかった。この日、アイトワの畑から今期初めて掘り出したヤーコンなどを提供したが、まず哲さんにはそのキンピラから振る舞って下さった。
撤収も見事だった。瞳さんは容器などを洗い始め、乙佳さんは持参のドッギーバッグに残った料理を詰め始めると、皆さんが段取りよく、気付かれぬように、後片づけにはいった。頃合いを見はからって「後は、喫茶室でコーヒーを」と私は案内した。
妻は消えていた。薪風呂の焚きつけと、コーヒーなどの準備を義妹などに知らせに走ったに違いない。
ここで私にとっては予期せぬことが生じた。喫茶組と、撤収組の2チームに分かれる事態に至ったことだ。
この時に、気が付けば、私は撤収組と一緒に残っていた。振り返ってみて「ヤレヤレ」に始まり、「有難い」、そして「ヨカッタ」と思ったものだ。
喫茶組は「勝手知りたる岡田さんとトッテンさん、そして妻に任せておけば大丈夫」と思えた。こうなる事態を、幹事組以外の人は私同様に知らなかったはずだが、若手の男子は折り畳み式家具の収納に、女性は食器や料理の始末にと、手早く取り掛かった。
「ならば」と、私は夜間照明の解体を今のうちに、と脚立を取り出しに掛かったが、伸幸さんが素早く取って代わって、やすやすと済ませた。用いた鉄板は乙佳さんが「使ってください」と言って残してくれた。だから、この収納と、囲炉裏やかがり火などの後始末だけを残し、アッと言う間に、沢山持ち込まれたテーブルや椅子も含めて。片付いてしまった。
野外の宴では、椅子は用いたのは私ぐらいで、不要だった。喫茶組は、岡田さんとトッテンさんのおかげで、コーヒーを飲みながら国際情勢などを話題に燃えていた。
手仕舞い組は「しんがり」を務めた凱旋将軍ヨロシク合流できた。善哉のオカゲもあってか、2次会も賑わった。予定終了時間をはるかに超えてしまった。
3、気力は旧に倍した
執筆者懇親パーティを終えた後、私たち夫婦を含めて3家族(阿部さんの次女花蓮は先に寝たが)で3次会・歓談で過ごし、翌朝は、花蓮を妻好みで撮影。午後は鈴木夫妻を祐斎亭に案内。それぞれ見送った。
そして、6日に、岡田さんに再訪願い、一緒に小林正秀さんを迎えて紹介し、実に爽快な一時を過ごした。その後10日まで、宴の後片づけを楽しみながら、ひたすら畑の除草に精を出した。それがヨカッタ。随分畑がきれいになった上に、通常のリズムを取り戻し、ある加齢対策(防草対策)の成功を確かめ、その規模拡大延長を思い付き、気力は旧に倍したように思う。
まず、宴の翌朝。花蓮は思春期という人間特有の(それ以前は、摂取する栄養の過半を脳の発育に回すが、その期間を終え、今度はその多くを身体の発育に回すようになる)期間にあるわけだ、と感じた。背丈も驚くほど伸びた。
意識は、自分でも(驚くほどの変化をきたし)とまどっているのではないか、と思った。だから、大昔に心惹かれたある物語を振り返っている。西欧の人里はなれた村での出来事だったが、思春期の村娘が村のお爺さんに相談を持ち掛ける一場面だった。
どうやら花連は、竹のトンネル(かつてアイトワで逗留した時に知り、その後有名になった)で、撮りたい写真があったようだ。だが、肝心のドレスを忘れてきた、と聞いた。そうと知った妻は「チョット待って」といって居宅に取って返し、あっと言う間に、腕に黒が基調の代物を抱えて戻ってきた。
花蓮にとっては否応なく、であったのかもしれないが、妻はまるで人形を装うかのようにそれらで花連を包んでしまった。それがキット、妻好みの花連にピッタリの装いであったに違いない。そのメインの代物が、私がロンドン土産に、と求めたマントであっただけに、不思議な心境に浸たり始めた。思えば、このたび泊った2家族は、共に2人の娘に恵まれた4人家族だった。
いつしか、この10人でゆっくりと再会したいものだ、と願った。その提案をする間もなく、阿部ファミリーは帰路につくことになった。
その時に折よく、平野さんと岡田さんが車を取りに見えた。しばしの別れを惜しみあう一時になった。
寿也さんに(一昨年、平野さんと岡田さんなどと訪問した時以降に施した)自動車の改造部分を披露してもらった。ポンコツを友人から買い求め(仁美さんは「もらったのヨ」、という)エンジンの分解から手をつけ、独力で(塗装だけ業者に依頼し)補修した。
午後は、水鏡を通して紅葉の嵐山を眺めようと、さちよ夫妻を祐斎亭に案内した。「1日遅れておれば」と思ったほど紅葉は末期だったが、水鏡は賑わっていた。祐斎さんの人の心をつかむセンスに改めて感心した。
かくして一旦は老夫婦だけの時空にもどった。だが、24時間後に三度岡田さんを迎えたわけだ。次いで約束時間通りに、小林正秀さんにたどり着いてもらえ、爽快な笑い声で充ち溢れることになった。
事前に小林さんからケイタイで、到着は約束の4分前になりそう、とその事情も聞かされていた。だが、その姿を実際に見てビックリ仰天。私ならキャンセルさせてもらっていたのでは、と思ったぐらい。
医者の包帯は「こんなもんじゃなかった」と、奥さんに直してもらう前の姿を披露。妻はケラケラと笑った。だから私は、スズメバチに11カ所も刺されたミニ事件を話題に出した。その時の看護婦さんたちは、数か所目の針の跡を消毒し始めたころから「ここも」「そこも」とケラケラと笑い出した。その痛さたるや地獄だったが、妻は今も思い出すたびに吹き出してしまう。
小林さんの説明につられて私も笑ったが、この人は失敗や弱さなどには寛大だろうが、怒らしたら怖い人だろうナ、と感じて、さらに心惹かれた。
岡田さんは失敗学会の一員だ。おかげで、失敗こそ学びの場、好機と捉えるべし、とでもいったような話題に移り、よき一時になった。
妻は失敗を好まず、失敗の表明を避けたがる人だが、この3人の話は面白かったようだ。コーヒーを、茶菓子とお茶を、あるいは茶のつぎ足しに、と足しげく押し掛け、ついにはありあわせの食材(「清太のイモ」と呼ぶことにしたコイモや、餅の残りもあった)で、鍋を用意し、共に腹ごしらえをして見えていた二人を引き留めた。
翌7日から10日まで、約束事はなかった。おかげで、ひたすら宴の後片づけと庭仕事に当てた。乙佳さんが残してくれた鉄板の収納をキッカケに、野小屋の一角を大掃除した。そこは、野草や山菜が長けて倒れ込み、風雨が重なり、塗装が剥げ、もう少しで腐食がはじまりそうだった。だから防腐塗装を施した。
「庭仕事の合間の一休みの場」として、と妻と相談して設けた一角だった。この塗装を機に、ハッピーのハウスの防腐加工も済ませた。
次いでササの根の退治に取り組んだ。ニラとカボチャのコーナーと畑との境目に獣害フェンスがある。そのフェンスに沿ってササが(根が残っていたようで)はびこり始めた。往年なら1時間仕事であったはずだが、半日仕事になった。根を掘り出すために、スコップで30㎝余掘ったわけだが、この一帯の元の赤土を掘り出し、懐かしんだ。母は、石だらけの赤土の畑で戦中戦後の一家を支えた。妻の母親も似た頑張りをしている。
10日、朝食時に、今夜から「今年で最後の花灯篭が始まる」と知った。それを、いつもと異なる紅葉が有終の美を飾らせることになったわけだが、昼間の除草時に、その予告でもあるかのごとく、珍しいイモムシだけでなく「今頃に!」と、黄チョウの羽化に驚かされている。
4、エコヴィレッジ
10日の夜、花灯篭のライトアップと、例年とは違って、まだ残っていたアイトワの紅葉とその落ち葉(は旧来通りの朱色)が、互いに有終の美を飾りあった。
12日は午後。京の町屋ギャラリーで、アリコとGumiのライブコンサートがあった。ピアニストで作曲家の山下有子さん・アリコのソロと、インドの竹笛・バンスリー奏者の中口拓実さん・Gumiとの共演だった。
会場のランデヴーギャラリーに、開場時刻に一番乗りだった。おかげで奥の席に案内され、代表・山中満子さんと、ギターやウクレレ奏者の池田望さんとも親しく話をさせていただいた。
アリコとGumiは、まるで即興詩人かのごとく、来客からテーマ―を得ると即座に作曲し、2人で共演に応じる。この日は、ギャラリーにあった作品の一点を選び、アンコールに応えてもらえた。
その後で、山中さんにはケイタイで2人の演奏者と一緒の写真を、カメラの名手でもある池田さんには、会場での合同写真を撮ってもらえた。
翌日、池田さんから最後の「花灯篭を巡った」といって、メールでその様子を送って下さった。ついぞ出掛けなかったイヴェントだったが、竹のトンネルなどの様子を知り、通学や通勤時代を振り返らされている。夜が遅くなった時に、このトンネルを通る時は、首が痛くなった。真っ暗闇の夜は、のしかかる竹の合間を縫った。ほんのりと白い夜空を見あげながら歩んだものだ。さもなければ方向が分らず、一歩も踏み出せなかった。
月夜の夜には、と振り返り始め、正気に戻った。奇妙な電飾まで施すまでになったこのイヴェントを振り返り、反省し、なぜかモーパッサンの『脂肪の塊り』を思い出した。
ニホンミツバチの師匠・志賀さんに、15日に立ち寄って頂けた。いつも自然科学係の話題で目からウロコの思いにさせていただくが、この度はなぜかメジロも話題になった。「ならばわが家では、いつも庭で一千万円が飛び交っています」と大笑。
保護鳥のメジロは、今日では市中で、一羽100万円で取引されているらしい。この日も10羽余のメジロが、熟し柿を求めてフユウガキに群がっていた。前回訪ねていただいた翌日には、妻はメジロの雛を保護していた。
トッテンさんに2人の友人を紹介しがてら、久しぶりに訪ねた。「ヤギを飼い始めた」と聞いていたし、庭を野菜から果樹に替えたことも知っていたからだ。まず、庭の案内から始まった。ビワの樹皮は早やヤギの被害を被っていた。
次のコーナーを曲がるとニワトリに迎えられた。養蜂も順調なようだし、食肉用ウサギ(食糧危機時代に最も合理的な動物性たんぱく源の1つ)も元気だった。
この日は、里美夫人には出かける約束をずらして、茶を振る舞ってもらえた。また、紹介した2人に合わせてのことだろうが、翻訳家の喜田さんも呼んでもらえていた。
トッテンさんがCDでモーツアルトとベートーヴェンをたしなむ日常や、ネットで知る世界の情報と日本の報道の乖離や奥行きなど、話題は豊富だった。
とりわけ、庭の活かし方を、野菜から動物性たんぱく源にシフトしたあり様に、私はとても心惹かれた。
わが家は、わが家程度の生き方なら、3軒分ぐらいの燃料と野菜を賄えそうだ。他に、動物性たんぱく源と、穀物を、それぞれ3軒分ぐらい賄える人と組んだら、食料の自給はかなう。そのチームが10ほど集えば、ピアニストや詩人、あるいは絵画など、創作に没頭したい人を幾名かは養えるだろう。そのセットが5つほど集えば、などと考えながら帰途についた。そうしたエコヴィレッジを、商社のチカラでの展開するのが夢だった。
だから早速ケイタイで、乙佳さんに無理を言って、アイトワの店頭に、里美さん作の陶板を取り付けてもらうことにした。エコヴィレッジ展開が大きな波に乗ってほしい、との願いの象徴のように見える。
23日、伴さんから問い合わせがあり、清太君を迎えた。リュックを背負い、マウンテンバイクでやってきた。おかげで、急遽、1つの懸案に挑戦することになった。堆肥の山がある一角(イチジクとビワなどを育てる一角)を木陰にしていた木々の大剪定だった。
この南側を走るイノシシスロ-プと呼ぶ道の両側に。ツバキとロウバイ各数本、そして1本の自然生えのカシワなどが生えおり、カシワ(は一昨年、その葉が収穫できる程度に切り詰めた)を除いて、特に3本のロウバイが大きく茂り、日陰を作っていた。
ツバキと徒長したロウバイの剪定に私は当たった。その間に、清太君にはエンジンブロアー(初使用)も使って、イノシシスロープの落ち葉掃除に当たってもらい、かき集めた落ち葉を腐葉土小屋に運び込んでもらった。
逞しくなった清太君に惹かれてか、妻も参戦した。まず、ロウバイの剪定クズの小さな2本を、カフェテラスの生け花に活かし、南門の側のオブジェに数本を活かした。そして妻は側で草刈りに当たり、お茶の時間と昼食時に、寮生活の様子を一緒に訊き、将来設計を話題にした。通学では体験しえない日課(6時半起床に始まる)を知った。
食後は、残る剪定クズを囲炉裏場に運んでもらい、また小山が出来た。一仕事の後、将来設計を語らい、部活の活かし方について助言もした。妻は、ロウバイの剪定クズの一枝を、その母・葉子さんの土産にしたが、そのリュックから2種の米(仲間が育てたという)が入っており、手土産にした。
後刻、伴さんから「次は?」と電話があり、「日曜日に、焼き芋を」と話し合ったことを伝えた。
当日は、あいにくの小雨になったが、降りやんだ午後に、丹波の黒豆とベニハルカイモをルックに詰めて、訪ねてもらえ、大いに助かった。清太君と私は2人で、ビオトープの土手の掃除に当たり、妻はそこからの視界にある旧玄関一帯の落ち葉掃除に、と手分けして当たった。
確かめると、清太君はこれまでの学校で、正解を学び、記憶し、思い出す試験が「嫌いだった」し、良い点が取れなかったそうだ。ならば、これからは、清太君が自分で正解を作り出してはどうか、と提案した。多くの人が「これが一番良い」という食材を生み出し、その食材で一番おいしいし、食べたくなる、と言ってもらえる料理を生み出してはどうか。それを正解として、自分が「正解」を創り出す人になってはどうか、と提案した。
だから、土手の手入れでは、私が刈り取ったササや、枯れてススキやゼンマイ、あるいは切り取った枝などを、焼き芋のために囲炉裏場に運んだだけでなく、課題も出した。「清太が、この方がきれい、と思うように、後を仕上げろ」と言って鎌を預けた。
清太君はこれまでに焚火をしたことがなかった。マッチ一本で、乾いた杉の葉から簡単に着火し、燃え盛る焚き火や、勢いづいた火に放り込めば、濡れた木の枝や草が簡単に燃え上る事実、あるいは無農薬の草木が燃える煙の色や匂いを知って、清太君は驚いた。
これは酸化作用だ、と私が教えると、妻はブロワーや団扇を持ち出してきて焚火を煽り、「火は怖いョ」「風のある日は火の用心」などと実感させた。
もちろん私は、まだ記憶に新しい28名もの死者を出した大阪での雑居ビル火災を話題にした。一酸化中毒などと報道しているが、正解ではない。化学物質を多用した建材などが燃えた時に出る毒ガス中毒だ。あの黒い煙は毒ガスだ。「ご用心!」と教えた。毒ガスの匂いと、こうした草木などが燃えた時に出す煙の臭いが嗅ぎ分けられたら、多くの命は助かるだろう。アイトワのような、昔流の焚火を昔のように普及させ、その煙の色や匂いなどを学習して、煙を一様に恐れずに済むように学んでおけば、あの悲劇はなかったはずだ。
消防の本来の仕事は、火や煙を怖れないように市民を教育し、本当に怖い火や煙を学ばせ、いつ生じてもおかしくない火災に備えた心を養わせることではないか。それが、自分たちの生活に「生きる実感」と「生きるチカラ」を授けるに違いない。パニックにさせずに済む。そう清太君に感じ取ってもらおうとした。
この日の前後に、アイトワ塾の元塾生を代表した柴山さんを始め、幾人かの恒例の顔ぶれと息災を喜びあった。とりわけ、仲人をさせてもらって以来、コロナ騒動以外では欠けたことがなかった大井夫妻が、久しぶりに息子(私と読みは同じ命名)同道だったのが嬉しかった。
5、冬本番を実感
それは「今頃、羽化してどうするの」と、黄チョウを心配した10日から始まった。野山では既に餌不足になっていたようで、ホオズキの実をカラスが、アットという間に、ことごとく食い散らかした。ケシカラン、と思っていたら、今度は「小鳥用に」と用意しておいた熟し柿が、ことごとくヒヨやメジロについばまれ、山の餌不足に想いを馳せ、同情した。
13日、「明日にでも、採ろう」と、妻と渋ガキとりを話しあった。新年を迎える準備としては初仕事で、串柿にして大晦日までに干し上げないといけない。
翌朝、「いつかは、800個ほどつくったことがあった」と語らいながら、スライド式の高枝切りで望んだが、脚立なしでは10個ほどとるだけで大仕事。「一串だけ、お鏡様に」と言って引き揚げたが、それは、せっかく作っても、小鳥やサルに襲われ、まともに味わえなくなっていたこともある。しかも年ごとに、黴が発生しやすくなっており、湯通しとか、アルコール噴霧などと、大仕事になっていた。
それにしても、と思った。何百個と作ったのは新婚当時(半世紀近くも昔)のことだが、ほんの何年か前のことであったかのように思われた。
畑では、各2本の畝に、霜避けの支柱を立て、トンネル栽培にして、防寒用のもみ殻を敷く作業に取り組んだ。これは翌15日から2日に分けた作業だったが、その間に、巨大ツルムラサキの支柱を解体し、その竹も霜避け用の支柱に流用している。畑はスッカリ冬景色になった。
ジンジャーの葉を刈り取って堆肥の山に積んだのは数日前だったが、その上に、巨大ツルムラサキの蔓を上手く積むのは大仕事で、半時間近くを要した。なにせ一輪車で2回に分けて運び込んだし、直径が2㎝ほどの蔓だから、ハサミを入れないと、曲げられなかったからだ。もちろんその間に、太い蔓の葉の脇に出た「新芽」を初めて摘みとって、夕刻に台所に持ち込んだが、妻に「それは私の仕事です」と叱られた。
だからかもしれない。翌朝、その幾つかをサラダに活かされていたが「オーバークックだ」と言いそびれた。自分の手で積んでいないものだから、その新鮮度(こうした軸は、刻々と固くなる)の実感がなく、軸の太さにつられて加熱したのかもしれない。
初雪で明けたのは18日、薄雪はすぐに消えた。ボツボツ年賀状を、と思っている。
夕刻、ブロッコリーを恒例のとり方で初収穫。スティックブロッコリーの初収穫は3日後だったが、2種は共に例年になく大きく育った。しかも、食虫害にあった1本が、生育が随分遅れたが生き残っており、ありがたいことだ。向こう3カ月以上にわたって脇芽もかきながらタップリブロッコリーを、今年は味わえそうだ。
この間に、心まで凍り付くようなことが生じた。政治家や官僚が束になって、国民の一人の死を愚弄した。国民の税金を1億円余も投じて、国民の知る権利を踏みにじった。あってはならない、国民にとっては最も大事な(納税価値を検証する糧)公文書の改ざん事件をあいまいにした。
安部のマスクも問題になった。465億円もの国税を投じておきながら、廃棄処分を決めた。季節はやがて春が来るが、こんなことでは、国家は凍てつくような冬を無期限に迎えることになりそうだ。
かつて小泉=平蔵ラインが、不定期雇用システムに拍車をかけたときに、日本の経済的成長は終わった、と見込み、当月記でも嘆いたはずだが、より殺伐とした国になるに違いない。
初氷は19日朝に観測。畑では野菜が凍て、霜柱が立ち、庭ではダチュラがお化けになっていた。この日は、獣害フェンス沿いのササの根の掘り出しですっかりバテ気味になっている。だから、ミズナを1株初収穫し、夕餉は初のハリハリ鍋で、体を温めた。
ミズナも例年になく好成績。この冬はハリハリ鍋や“辛し和え”をタップリ楽しもう。
翌日はさわやかな夜明けだった。「ダイコンの初収穫を」といって妻は畑に出ようとした時に、その背に「ぼつぼつ太いのが(育っていそうだが)」と言って送り出した。今年は播種が遅れたし、スパーでは1本50円という安値がついていた(大豊作だ)から、チョット生育を心配した。
しばらくして「こんなの! 初めて」との悲鳴が玄関から聞こえてきた。おかげで、気を良くして迎えることができた。
ちなみに2本目は30日の“しめ縄造り” の日だったが、今度は長さが自慢だった。
午後から本格的なモミジの落ち葉掃除にとりかかった。エンジンブロアーを箒の要領で振り回して、パーキングから手をつけた。妻が、喫茶店の営業をこの日で打ち切り、翌日は店を切り盛りする仲間と喫茶店周りの掃除に当たる、と言っていたからだ。落ち葉を4か所に分けて積んだが、山はだんだん小さくなった。
夜、初ダイコンと前日の初ミズナの残りで酒の肴を造ってくれた。
4カ所にかき集めておいたカエデの落ち葉は、翌日妻たちが果樹園にはこんだ。運ぶしりから私が、マルチング材として敷き詰めたが、キンカンのあたりでしばし思案。
樹齢50数年のキンカンの木は、もはや良い実をつけない。切り取って、新しい苗木から育てるべきか否か、の思案だった。実施すれば3年か4年はまともな収獲は望めない。
かくして季節は本格的な冬に入り、日本は(立法者と行政者の手で)無期限の冬に陥れられたような状態になった。
6、他にありがたかったこと
シイタケ。先々月に、ホタギを仮伏せ場(イノシシスロープの一角)から本伏せする「ホダギ場」(裏庭の一角にある)まで(佛教大生の手で)移動させた。本伏せ(立てかけ式)は先月中に済ませてあった。今月は、この「ホダギ場」を覆う棚の大掃除をした。
この棚は、藤棚のごときもので、鉄パイピ製だが、フジではなくムベを育てている。このムベ棚の下に「ホダギ(の本伏せ)場」を設けたわけは、2つ利点があったからだ。まず、ホダギはチラチラと陽が射すていどの半日陰を好む。2つ目は、この棚を生かせば獣害ネット(シイタケをサルやイノシシから守る)を張りやすかったからだ。
問題は、サルから守るために、イノシシやシカと違って、天井部も覆わなければならなかったために生じた。サルを通さないネットを(ムベ用の粗い目の格子棚の下に)貼る必要があったが、この2重張りのごとき天井部は、近くにたくさん生えているスギやクヌギの落ち葉や枯れ枝を引っかかりやすくした。
このたび、その沢山ひっかかった落ち葉や枯れ枝を、エンジンブロアーまだ持ちだして大掃除をした。
次の問題は、肝心のシイタケが、この度はたいして発生しなかったこと。本年春から夏にかけての雨不足のせいか、古い方(10本ほどが現役で残っている)のホダギ(のうち3本)から、計5つが発生したに過ぎない。最後の2つは、巨大ツルムラサキの脇芽を摘んだ日に採っている。
こうした事情をお見通しだったのだろうか、このたび瞳さんの(配慮で)弟さんから、見事なシイタケを送ってもらえ、おかげで冬子のシイタケの醍醐味を満喫できた。
なにせ、無農薬で原木育てのシイタケとして、とても有名な「しいたけブラザーズ」の代物だけに、その味や歯触りは別格だ。
ヒョットしたら、その醍醐味を、執筆者懇親パーティで私が(椅子に1人座っていたり、写真を撮るために動き回ったりしていて)まともに(他の多くの品は、たくさん運んでもらえたが)味わえなかった。それを、瞳さんに見つかっていたのかもしれない。
それほど、哲さんが大きな鉄板で炒めた「しいたけブラザーズ」のシイタケは好評だった。おかげさまで、このたびタップリ味わえた。
カプセル入りの炭粉。パーティ後、数日したころ、送り主不明の小さな小包封筒が届いた。中から「食べる竹炭カプセル」との表示の袋が出てきた。思い当たる節も、意味も分からなかった。だから、問い合わせの電話を、思い当たるフシからかけ始めたが、一発で特定できた。さちよさんの夫・伸幸さんが、と分かったし、そのわけも理解できた。
懇親パーティでは、さちよ夫妻と阿部ファミリーに泊まって頂けたが、このキッカケはその夜に私が触れた話題の1つにあった。
この2組の夫婦は、共に2人の娘に恵まれた両親だが、私にとってはもう1つ、とてもありがたい共通点がある。その共通点を、話題の1つに取り上げたようだ。
さちよさんの夫・伸幸さんから、かつて大きな袋入りの炭粉を送ってもらったことがあった。炭粉は、健康な生活を営む上で(食生活上でも)貴重な代物だと知っており、感謝した。だが、その頃の胃腸は快調で、切実さまではなかった。
ところがある日、きわめて切実な問題が生じた。病院の血液検査で、腎臓機能の低下が判明した。だが、治療薬はない(いわば「処置なし」)と聞かされたことだ。
その後、阿部ファミリーのお宅に泊まったことがあり、この問題を取り上げた。その時に、看護婦の資格があり、その夫の命を幾度か救った(と寿也さんが言う)仁美さんが、考え詰めた上で、ポツリと「炭の粉を飲んでみたら、どうだろう」と呟いた。
帰宅後、くだんの炭粉を取り出し、翌日から自分流に飲み始めた。「なんと」1か月半後の血液検査で快方に向かっていた。その後、問題を再発させていない。
この思い出話(感謝)を聞いた伸幸さんが、旅行時に「カプセル入りが便利だろう」となったようだ。これはとても助かる。炭粉を飲むのは一苦労だ。コップの水に浮かせた状態で飲むのが一番だが、時には下手して、炭粉を肺に吸い込みかねない。
コゴミ畑一帯の掃除。裏庭の一角(庭の西北の角部で、ホダギ場からビオトープにいたる)の1年分の落ち葉など残滓の大掃除を、と妻と2人で取り組んだ。コゴミが数10株、4つのウドの株、そしてイラクサの(一種の)ミニ群生、などが枯れていたし、2つのハランの株とヤマブキの株でもかなりの枝や葉が枯れていた。また徒長したホウノキの剪定が(2本のキハダは済んでいたが)残っていた。ヘトヘトになった。
だから、夏に切り取ったクヌギの木の大きな玉切り(で、今の私のチカラではホイホイとは片付けられない)を10個ほど(1mばかり山側に移動させたかったが)残した。それを、当月記の作業で立ち寄ってもらえた知範さんに、片付けてもらえ、助かった。
干し柿。「お鏡餅」用に、と一串しか用意しなかった串柿だが、手をつけた時期が遅すぎたようで、うまく干しあがらない。
「困ったなあ」と思っていた矢先に届いた宅急便の1つに、「干し柿その他」と記されていた。開いてみると、願った通りの小さな干し柿が、熟れたスダチや3種のレモンなどを添えて入っていた。
早速、竹串を1本用意し、夜なべ仕事にこの干し柿を活かして串柿つくりに取り組んだ。いいことが重なった。妻が「今年はお鏡開きを早めにしませんか」と言い出したことだ。大賛成、と応じた。いつものように小正月まで待てば、鏡餅が固くなり、切り分けにくいし、黴も生える」という。
だから、新規の串柿つくりの手が嬉々と進んだ。早めにこの串柿も役目を終え、賞味できそう、と思ったからだ。
案の定、月末の「鏡餅」飾りに取り組んだ時には、自家製シブガキの串はまだ湿っており、使いものにならなかった。
大団円。30日のこと、半世紀来好例のしめ縄づくりの日に、この度も厭離庵の大澤玄果一家と取り組めた。これが、この年の大団円のように思われたが、それはワラが瞳さんにもらった酒米用の藁で、長かったおかげもある。
長男の実生君は、縄が綯(な)えるようになって2年ほどだが、細い縄を綯い始めた。途中で私が、ワラのたし方を言葉で説明したが、それだけで、見事に長い縄を綯って、後で縄跳びをして見せた。
これまでも経験してきたことだが、幼い子が独自に独力で生み出そうとする「しめ縄」に、しばしば心惹かれてきた。この度もその例外ではなかった。
この日も初めのうちは、私は半世紀来の形のしめ縄を作り始めており、ワラが長い点を活かす工夫をして仕上げていた。
だが、子どもの伸びやかな創作の様子につられ、私も「作る」ではなく「創る」喜びに浸り始めた。この日は、わが家では餅をつく日でもあった。だから妻が用意する2種(キナ粉とダイコオロシ)の安部川餅をほおばる喜びも7人で分かち合えた。
一家5人を見送ったあと、「今年も大団円であった」とウキウキしながら「ハッピーには、キンカンを」などと、ユズリハも活かしてしめ縄を飾り上げた。
そして後刻、旧来型のしめ縄と、子どもの伸びやかな姿に刺激されたしめ縄を妻に示して求評した。
「これ、面白い! 喫茶店の入り口に使わせてください」になった。
だから、半世紀来(のスタイル)のしめ縄の方も、そのワラの裾をこの度は切り揃え(ようとハサミを取り上げておきながら、切ら)ずに置くことになった次第。
これらのしめ縄や鏡餅飾りなどは、翌大晦日に(それぞれ所定の位置に)据えたが、当月記は30日を大団円と見て締めくくることにした。
それは、この前後に、私にとってはとても大事に思われた出来事や反省事項が生じたからだ。反省事項は、ウラジロが使えなく(なってしまい、ユズリハを活かさざるを得なく)なった事情。大事に思われた出来事は、この前後に知った2つの訃報。その1つは、他人事とは思えず、夫に先立たれた女性に声をかけたくなった事情。そして、元アイトワ塾生の一人が(母から死んだと聞かされて育ちながら、後年存命だと知った)父を失ったが、報道でその訃報を知った事情。
大晦日は、これらに思いをはせながら過ごしたわけだが、なぜか私には新しい1年を迎えたかのように感じていたからだ。