「雪の多い年だなぁ」と思いました。厚い雪で明けた1年。2月に入って2度目の銀世界になった21日のことです。「今年は、これで何度目かなぁ」とか「モンツキは大丈夫か」と、ジョウビタキのことをチョット心配もしたのです。
庭に出ると、この小鳥が近づいてきて、日々励まされました。草を抜いたり、耕したり、腐葉土をまいたりすれば、ミミズや虫をせせり始めます。腐葉土をきれいに畝に敷いても、その散らかしっぷりときたら、感心させられ、「ならば!」と名案が浮かんだほどです。
妻にも励まされました。竹を切り取る時期が遅れ、助成を求めたり、剪定くずを焚火で処理したり、ネギの収穫法でも「マンネリ化!」していた己を、思い知らされたのです。おかげで庭仕事に次々と弾みがつきました。ニラコーナーの除草。第3次エンドウマメの苗とジャガイモの植え付け。畑の除草。夏野菜の畝作りに着手。ワラビ畑の草刈り。剪定は、2日がかりでカキ、サルスベリ、イチゴノキ、そしてウルシなどと進みました。
励まされた、と言えば、コロナ騒動に対する想いを深める上でもありがたいことが重なり、意を強くしています。まず紙上で目に留まったマリア・レッサさんの意見。ついで親友がネット配信で示した実態データー。加えて来訪アポイントがあったお二人が感染者になった、など。おかげで、想っていた通りの状況に、と感じました。
寒い日が続きましたが、高安先生に分厚い本を届けてもらえ、頂きもののレッグウォーマーや妻のアイデアのおかげもあって、ぽかぽか読書も楽しみました。
青菜を、この時期は1年中で最も大量に食しますが、ナバナの花粉も随分摂取し、体に貯め込んで「向こう1年間、頑張って!」と、体と心を励まします。その一環で、「加齢もいいものだ」と思う野菜の新採種法を採用。これぞ究極の有機栽培つくり、と沖永良部島を振り返って、至極満悦しています。なベ物の時期ですが、ハリハリ鍋はもとより、大垣時代に覚えた味噌煮込みうどんを、ある事情があって、随分楽しみました。
この時期が終わると、畑では夏野菜の準備が本格化します。この冬野菜との端境期を、タラの芽やウコギの新芽などの山菜と、庭で自生化させたミツバやニラなどの宿根野菜、次いでスナップエンドウやキャベツなどで埋める時期に入ることになります。
来訪者は、グミさんが婚約者を伴って、が最初でした。その後、鰻の「廣川」で知られる牧野さんが、金久さんとある相談で。裕一郎さんとは、わが家の秘薬作り。知範さんは友人を伴って。梶山さんはペットの紹介で。そしてアリコさんと野鍛冶を誇る堀田さんを迎えて喧々諤々など。いずれもありがたい一時でした。
外出は2度だけ。それも1度は祐斎亭訪問(関東から泊まりがけのご家族と)だし、2度目は郊外の大手HCまで、知範さんに連れて行ってもらっただけ、でした。
でも、究極の有機栽培野菜の一件に加え、プーチンの足掻き(24日のウクライナ侵攻)が露わになり、1つの時代の終わりの始まり、まで感じるなど、思い出深い1カ月になりました。とりわけ、この2日後にウグイスが初鳴き。もう春だ、と実感したおかげです。
陽気の下で、ニンニクの植え付けや、スモモの木の救助で、ある辛い決断を下すなど、張り合いのある月末になりました。明るい気持ちや暗い気持ちだけでなく、情けなくなったり、爽快な気分にされたり、とさまざまな心境になれたわけで、ボケ防止上でも価値ある1カ月であったなぁ、と総括。本来は日本が啖呵を切る時だが、と嘆いたわけですが、子ザルのおげげで当月も大団円気分で終えることになります。
~経過詳細~
1、雪がよく降った
ペチコートスイセンが咲き始め、ニホンスイセンの仲間入り。紅梅がつぼみを膨らませ、ロウバイが遅がけの満開。中旬のこと。
白梅が一枝でチラホラ咲き始め、野草ではオオイヌノフグリが、あるいは中庭の円形花壇ではクリスマスローズが、と春を告げ始めた。これは下旬のこと。朝夕はまだ冬だが、昼間のポカポカが始まった。
初旬は、粉雪だけでなく、凍って触れば折れそうな野菜や、踏みつけるとシャキシャキと音を立てる霜柱に、骨身にしみる寒さを幾朝体験したことか。
だが、「待てよ」と思った。この寒さは「ひょっとして、加齢と心臓疾患のせいではないか」。母はよく、今の妻の歳の頃から「あんたらも、歳を取ったら分かる」と、呟いていたものだ。
「シマッタ」といつものように気付かされた。温度計測などして「もっと科学的に寒さを捉えておくべきであったのかも」との反省。
だが「待てよ」「不幸中の幸いかも」と、思い直した。ついに今年はキンカンとダイダイには寒冷紗を被せず仕舞だった。「可哀そうなことをした」と、思ったが、「いまさら」と考え直し、「ヒョットしたら、指標樹に」になるかも、と考えたわけ。この樹齢半世紀の両果樹が、その役目を果たすかもしれない。枯死するか否かで、この寒さを数値で押しはかれるかもしれない。
「ほどよい雪だ」と思ったのは17日の朝のこと。今日もぽかぽか読書ができますように、と願った。新聞を取りに出て、ひょいと振り返ってみたがハッピーは小屋から出てこない。
ハッピーは昼間に、小屋から毛布などを毎日のごとくに引っ張り出す。だが、日が陰り、寒くなっても、敷き直す智慧がない。妻はいつも、口ではプンプンだが、性懲りもなく、そのつど幾度も敷き直し、ついにミニのホットカーペットまで使わせ始めた。
こうして私も、母に育てられたのだろう。
21日の未明、「寒い」と思った。恒例のパンツ1枚での冷水洗面時のこと。次いでキッチンで「お見事!」と感心。凍結防止の水道栓を見た時のこと。レバー式の蛇口で、かくなるポトポトは、私にはどうしてもできない。
PCの前に陣取り、ガスストーブを着け、見ると室内温度は7度。新宮先生とメールで交換を、と試みた。定期便で紹介された音楽を聴き始めると、次々とBGP(バックグランドピクチャー)がコマ送りされたが、カンディンスキーであった。だから、おもわず見上げた。そこには小学生時代に金賞をもらった水彩画。母が残していた。
7時過ぎ、おもむろにカーテンを引い手、開いた。「雪が多い冬だ」が第一印象。降雪は7度目か。おそらく、ちらついた日も含めば10日ではきかないだろう。
庭を巡りたくなった。タラの芽はまだ固い。今年は芽を収穫したあと、「根元まで切り戻そう」。次いで堆肥の山の点検を、と農園の方向へ踏み込んだ。ムベ棚のところで西におれた。丸く刈込んだツゲの向こうにクレマチスのアーチが。
堆肥の山では、生ゴミが発酵していた。側に植えてあるイチジクの「剪定を急がなくては」と思った。
「新聞を」と、門扉まで畑を迂回。雪帽子のロウバイを見た。
門扉を出て人影一つない通りを確かめた。「それにしても」とわが家を振り返った。いつしか、雪景色での1つの楽しみ、に巡り合えなくなっていた。それは赤いナンテンやセンリョウなどと、真っ白い雪とのハーモニー。山での餌不足が「よほど、」と思われる。サルがナンテンまで襲っていた。
その実の色が「きれい!」「リース素材に」といって、蔓性植物を妻が玄関先の手すりに干していた。だが、1つの残らず実は消え去っていた。潮が吹いたような濃紫色の小さな実が、ホシのように散らばっていたが、跡形もない。
PCに戻り、写真で振り返ってみた。まず暮れの12月18日、この冬最初の雪の下でのセンリョウを写真に収めていた。次いで12月26日、赤いナンテンを3葉。そして大雪の1月14日は、赤いマンリョウを捉えていた。この日までは、多くの実が残っていたことになる。
この間の、元日にも大雪が降った。カーテンを引いて「どうしたものか」と、チョットためらったことを思い出した。だから恒例の神と仏に、妻に急かされ、元旦の挨拶をした後、雪かきに出て、門扉から母家までかき取ったときのことだ。
確かその時に、ユーティリティ小屋の棚に、カリンを籠で飾ったが、まだそのまま残っていた。庭のあちらこちらで、幾つものカリンの実が割られて、打ち捨てられ、かじった痕があった。サルはここまで来ていないのだろう。カラスは、カリンを襲わない。
その昔、南方で飢えた体験を持つ兵士が、友軍が死で残し、ジャングルに転がっていた鉄兜が「スイカに見えた」と、語っていたことを想い出した。
真っ赤な日の出が「大きい!」と思ったのは26日。この日から陽気が始まった。ゲストルームに持ち込んだ紅梅は早5部咲き。テラスの紅梅はチラホラ。そして母屋の日陰にある雨水(を溜める)甕の分は、まだ蕾が固い。
この日、ウグイスが初鳴き。温室では、加温していないが、一足早く春だ。
「もう雪は降るまい」と思ったり、「まさかこの後にドカ雪が降らぬとは限るまい」と心配したりしながら、異常気象下の3月に想いを馳せ始めた。
2、腐葉土の異常とジョウビタキ
腐葉土小屋ではカブトムシの幼虫と、未だ出会っていない。ブンブンの幼虫も極めて少ない。腐葉土の半量をすでに用いたが、まだ10匹ほどしか数えていない。いない幼虫がいないせいだと思うのだが、腐葉土が異常だ。腐食が進んでいない。
だから、この未成熟の腐葉土を一輪車で運び出し、畑に蒔く時にブンブンの幼虫を見つけると、1匹であれ、腐葉土小屋に帰すことにしている。10年ほど以前までは共に無数にいた。
カブト虫の全滅は、採蜜のために飛んでいった先(隣にある小倉池の堤に生えるクヌギ)での乱獲が原因だ。だが、ブンブンは(その数の多さから考えても)人為被害だけとは言い切れないから不思議だ。
いずれにせよ、それらがいなくなったことと、腐葉土の腐食が進まなかったことが見事に重なったわけで、身過ごしにはしたくない。もちろん、「雨が少なかったのかも」とも思い、バケツで雨の溜め置き水を上旬からまき始めたが、雨不足が原因とは思えない反応を得ている。
そこで、腐葉土の活かし方を変えることにした。早くから用意する畝(苗の植え付けや種まきの予定が立っていない)にはこれまで通りに鋤き込んで、土中のバクテリアに分解させるが、それ以外では変えることにした。
それは、このたびの好成績のネギで採用した方式のことだ。未熟腐葉土をマルチングのごとくに厚く敷いておいた。それが好成績をもたらした、と見てのことだ。
ある日、このネギの新栽培法に関して、妻にハッとさせられている。いつも通りに、私は根ごと一旦抜き去っていたが、ボツボツ畑で「根の部分を切り残して、収穫してはいけませんか」と質問されて、ギョッとした。
これまでは、密植から間引くかたちで収穫し、根の部分を切り取って、あらかじめ用意してあった再生用の畝に根の部分を植え戻して来た。だが、既にその段階を過ぎ去っていたからだ。
だからマンネリ化への忠告と私は受け止め、感謝した。もちろんその後の分は、鎌とシャベルを持ち出して、根元を残して切り取る方式に切り替えた。この方式だと、畑で枯れた葉の荒掃除も済ませられる。
ついで、モンツキの動き(マルチングした腐葉土のかき回し方)でもよきヒントを得た。だから、「そうであったか」とばかりに、モンツキと私の、双方にとってありがたい未熟腐葉土の活かし方を思い付いた。
だから、ニンニクの畝を作った27日から、モンツキの採餌法にあやかる新活かし方に切り替えることにした。
まず、ネギで試してみた。再生用の畝がイッパイになっていたので、未熟腐葉土を(元の畝でおこなったように)盛り上げて施肥して、そしてモンツキの動きをみた。
そして、行けそう、と読んだ。だから、次に、間引き終わった元の畝でも試みた。切り残した根元の側に、未熟腐葉土を追肥し、追認した。その上で、やおら試みたことがある。
それは、新たに作ったニンニクの畝で、モンツキの採餌法にあやかる方式だった。ニンニクの種片を植え付けた後、未熟腐葉土を丁寧に被せるのではなく、畝の中央に盛っておいて、後はモンツキに敷き詰めさせる方式だ。
候補地を耕し、その奥に植木鉢を(モンツキにとっては目隠し、私の目と合わないように)置き、モンツキの好物がいっぱいの未熟腐葉土を置いた。
その様子をモンツキは見ている。
次いで、ニンニクを2列に植え付けた後、その中央に未熟腐葉土を盛って置いた。ついでに手前の、新ニラ(種から新規に育て始めた)畝にも盛った。
翌日の点検時に、見越した通りの結果になっていた。メデタシメデタシ。
残る問題は、腐葉土が未熟になった原因と、この腐葉土の養分の如何である。その判断は、あと数年の経験を待たなければならないだろう。
この度は「腐食が進まなかった」と瞳さんも電話で語っており、低気温が関係しているのではないか、との見方だった。この点に、私は気づいていなかった。
加えて、マルチング材として、未成熟(窒素が多そうな)腐葉土の有効性も確かめたいし、投じた畝での窒素過多問題も心配だ。
3、励まされて
ジョウビタキのメス(モンツキ)に励まされたような1カ月になったが、庭仕事に精を出し始めた頃に、「すごい」と唸らされるほどの励みを得ている。それは、新聞紙上でマリア・レッサさん(58)の意見に触れたことだ。
フィリピンでネットメディア「ラップラー」を知人と共同で立ち上げて約10年。その最高経営責任者(CEO)を務めながら、強権的な統治で知られるドゥテルテ大統領に対して、終始批判的な立場から調査して、その実態を報じてきた。
「世界中で民主主義が後退の危機にさらされている。報道の自由は全ての権利の土台だ」と訴え、その果敢な活動で、昨年度のノーベル平和賞に選ばれた。
有力ニュースサイト「ラップラー」のCEOとして、2018年12月、マリア・レッサさんは、フィリピンの首都マニラにあるオフィスで記者に「私には、戦う覚悟があります」と訴えていた。その意志力や意欲は、2020年7月、新型コロナ禍のもと、東京からのオンライン取材に対して、迷うことなく発言した内容らしい。
次いで、ビル・トッテンさんは恒例の春季講演で、44のデーターを示し、新型コロナウイルス渦の現実や及ぼした影響に始まり、アメリカ型工業文明のありようなどを概観し、果ては日本が進むべき方向を具体的に示唆したが、大いに励まされた。
その内の10のデーターを抜粋。
当週記で、2年ほど前に、いずれインフルエンザの一種扱いになりそう、との想いを記した手前、その後も注目してきた。「やっと」の思いで受け止めた。
日本の進むべき方向や如何、との思いに駆られた。いかなる選択が求められているのか。目先のことに次々と、良かれと思う判断を下してゆく延長線上に、本当に好ましき未来が待っているのか。むしろ、好ましき未来を提示し、議論し、国民的合意に努め、その未来を目指してココロとチカラを結集すべき時ではないか。
太平洋戦争で、いやしきこと(他国ドロボウ)で煽り立てて国民をいきりたたせ、泥沼に誘ってしまった時は、あそまで耐えた国民ではないか。望ましきことを説き、得心の上でなら、限りなき貢献をし得る国民だ、と私は見ている。
目先目先で上手に泳ごうとするのではなく、国家目標を提示してほしい。
7日は夕刻に、車で駆け付けた高安先生に「これ!」といって手渡された分厚い本があった。「夕飯に遅れんように帰らんと」と言って、茶の一杯も飲んでもらえなかったが、この書籍にも多々励まされるところとなった。
まず、この時期に「これぞ、仕込むべき1つの情報の宝庫」と思った。コロナ騒ぎの初期のこと、東京の友人から電話で聞いた1つの仕込み、を思いだした。
マンション暮らしのその友人は、夫婦して懸案だった幾冊かの厚い本をそれぞれ手元に取り寄せ、読破する好機に、とコロナ騒ぎを捉えていた。
この本・『占領神話の崩壊』にパラパラと目を通しただけで仰天した。アメリカが情報公開した資料を始め、多くの一次資料やデーター明示し、華麗な文章でつづった一書だった。ほんの少し読み進んだだけで、次々と胸がすく思いがした。
ケチな話でいえば、東条英機(この書籍では東條)観や白洲次郎観で「やはり!?!」と思った。かねてから東条は、偽装自殺と疑っていたが、その仔細と、当時のニューヨークタイムズ紙での散々な扱いも知った。白洲次郎は、戦時中に召集令状を妻の出自を活かして反故にした、と何かで読んだ。他方「マッカーサーを叱り飛ばした男」とお評も見た。このたびのアメリカの彼の扱いと、その散々の評価を知り、腑に落ちた。
それよりも何よりも、新憲法制定について縷々多くのペイジを割いているが、新憲法制定時の占領軍幹部が、日本に対して胸が高鳴るほど高邁な意識と期待を抱いていた記録を知り、現実と照らし合わせ、残念無念な思いに駆られた。
この心境を妻は見透かしたのか、幾つかの手を差し伸べた。その最大は、テラス用の折り畳みテーブルを倉庫から取り出してきて、読書の場を設けてくれたことだ。この縁先のガラス1枚先では、いつもハッピーがつき合った。
心を躍らせながら、読み進んだが、尻はムズムズした。竹が水を吸い上げ始める前に「切り取りを」と、気が気でならなかったからだ。この度は、畑用支柱の補充期だった。佛教大生来訪が再開すれば「彼らに、」と、残してあった作業の1つだった。
結局、妻の助成を得て、片付けた。この切り取りと並行して、囲炉裏場を一旦片付けておくが必要があった。まず妻は焚火をして片づけにかかった。その間に、私は30本ほどの竹を切り取っておくなど、段取りよく進んだ。
「加齢を、妻も認識している」と見た。側に水屋があり、水道のホースもある。もちろん、水を張ったバケツも用意してある。加えて妻は、ヤカンに満たした水まで用意していた。
焚き火とは、有毒ガスが出るものは決して燃やさないこと、が玉条。次いで類焼に注意。そして適度に良い煙を被る。何十万年か昔から煙に馴染んできた人類のみの、カラダとココロを活性化させる好機の1つ、位置付けること。
ほんの3時間もかからずに、期待通りの焚火も出来たし、竹の切り取りも済んだ。
恒例の味噌の仕込みと、黒ニンニク作りにも妻は当たった。餅もついた。味噌は、材料の手当てではいつものように乙佳さんの世話になり、1年分余を仕込んだ。用途によって合い味噌を工夫し、使う。
黒ニンニクはまとめて造り、私の血色を読んで「梅肉エキスと蜂蜜」の50・50のブレンドを健康剤と見て服用させる。この日も、この合わせ健康剤を飲ませた後、ニンニクを取り出し、造り始めた。私はニンニクの植え付けに取り掛かることにした。
当年2度目の餅をついた。機械でつくのは「簡単だから」といって、暮れにまとめてつかず、折々のミニ行事にした。おかげで、澄まし雑煮だけでなく、年に幾度も安倍川餅や善哉を味わえそうだ。こんがり焼けた餅は美味。
祐斎さんに、当月も励まされた。観光端境期の様子も伺いたい、と出掛けたが、幾つもの美的創造が生み出すオリジナルに触れ、工夫や努力のあとを見た。
その極め付きは、「着姿(きすがた)」を尊ぶオリジナル逸品の創出だった。
『次の生き方 Vol.2』でお世話になったお2人にも、元気をもらった。それは、「読む人が読まれたら」ばれそうだけど、とでも言ったようなコメントをそえて、書評のコピーを届けてもらうことから始まった。次いで、朗読劇に採用された、との案内があった。
「2月もあと、」と思っていたところに、こんどは妻宛ての封書が届いた。『左庭』の49号だった。そこに、『薔薇園にて-終章』という詩を見出し、私は不思議な励ましの言葉に触れたような心境になり、「なぜか」との想いで幾度か読み直した。
思えば、この不思議な2つの励ましの間に、いろんな励ましを多々得たり、さまざまな仕込みが出来たりしたわけだ、と短い1カ月を振りかえることになる。
4、これも仕込みだろう
分厚い書籍を、久しぶりに読破することから始まったような2月でもあった。読み進むにつれて、読むに堪えない長々とした部分(とりわけ特高警察の実体と、国営の特殊慰安施設協会設立の顛末)にも出くわしたし、やはり耐えて読んでヨカッタ、とその原因が理解できて得心し、と様々な心境にされた。
前者では、拷問のありようとわが国の拷問史を知り、後者では、日本がアジアで展開した従軍慰安婦問題への理解度を深め、さまざまな謎が解けた。真面目に不真面目なことをしていたわけだ。世界は、そして私も、この不真面目を危惧する。ある部分は、このき真面目に甘え、不真面目を鑑み、なかったことにしたい。
「不器用な男」という誉め言葉がある。この一書には、その逆の「実に器用な男」だけでなく、「女」も紹介されている。敗戦前は、さんざん国民を惑わせ、なぶり殺したり死地においやったりした人たちが、敗戦後は褒賞の対象にされており、国税で贅沢三昧の生涯を送った事実を、赤裸々に紹介もし、分析もしている。
モリ・カケ・サクラを連想した。
だから余計に、憲法制定時に、日本に対して胸が高鳴るほど高邁な意識と期待を抱いていた占領軍幹部が、なぜ心変わりしたのか、がとても気になった。この意識や期待に応えていたら、今のアメリカ人を奮い立たせていたのに、と悔しかった。
問題は、誰が日本を売ったのか、売らせたのか、今も売ろうとしているのか、売らせようとしているのか、につきそうだ。それはともかく、公文書の価値を、再認識させられた。その改ざんや紛失、あるいは不記載などが、国民に対してどれほどの欺瞞であるか、と同時に当人たちにとっても不孝なことか、が読み取れる。
いま世界は、人類は、計り知れない苦難の時期や立場に踏み込みあっている。大げさだが、人類共通の敵を明らかにして、それは人類そのものであることを認識することだろうが、克服しなければならない。躊躇しておれない、との認識が肝心だろう。
しかし現実は、人類同士が地球レベルで争った過去1万年ほどの意識の延長線上に、いまだ多くの人や国は囚われている。誰が、どの国が、いかなる民族が、そうした小競り合いを踏みとどまらせる役割を演じるのか。
沈みゆく宇宙船地球号を護り、人類が生を謳歌しうる生態系に戻すために、ひと肌脱げるのか、脱ぐ資格を持ちうるのか、と途方もない想いに駆られた。その手目なら、この老ことをささげたい。
これも当月の仕込みの1つに、と心に刻み込んだ。
庭では、ムサシアブミの実が、ウラナリの実が残されているのみ。クチナシの実も、ことごとくついばみ尽くされている。
5、来訪者と外出
外出は、祐斎亭(亀山公園を越えれば10分余)と、知範さんと出掛けた郊外の大手HCの2度で終わった。後者では(現有3台に加え)一輪車を1台と、幾つかの道具と加工剤を買い求めた。そして、それらを活かし始めた。
スライドハシゴを操作するロープが切れたので、ロープを交換し、切れたロープは、まず(ハッピーが噛み切った)バケツの手に流用した。
来年もネギは、今年方式を採用するが、畝の側に常備する全天候型シャベルを、また、ハッピーのベンチは、またぞろ補修を要しているので、特殊コーキング剤を、それぞれ買い求めた。
来訪者は1日のグミさん(バンスリー奏者)と婚約者(ヨガの教師)から始まった。結婚披露を控えての衣装の相談があり、妻は義妹の手助けを得て、受けた。
3番目の来訪者は、金久さん(嵯峨一帯の隧道も研究対象にする)を案内がてらの牧野さんだった。牧野さんは、嵐山保勝会の会長だし、嵐山まちづくり協議会会員でもあるだけに、隧道の話題に留まらず、亀山公園の景観問題など、一帯を巨視的に睨んだ話題で話が弾んだ。
5番目は、関東から泊りがけの家族を迎えたが、今年初の息子一家の里帰り、かのごとくに賑わったし、なごんだ。
この間に、久しぶりに裕一郎さんを迎えており、妻は一緒にTV取材に応じた。
8番目はアリコさんと野鍛冶だ、と名乗る堀田さんだった。話し込むうちに、この日の3人は1つの共通項で多々結ばれていたことを知った。だから、私は大垣市からもらった2枚の写真パネル(34年間のビフォー・アルター)まで持ち出して、話がとても賑わった。
堀田さんは、航空写真のアフターを一見し、即座に東西に走る高速道路に反応。水都を上流下流で2分するかのようなその開発への危惧の表明だった。「この人は野生動物の眼線も兼ね持つ人ではないか」と、私は感心し、関心を深めた。
堀田さんは、人形作家と知って、妻のために、その制作用具を打って、ご持参くださった。
その後、3人は岐阜県流味噌煮込みうどんが話題に上がったこともあって、大いににぎわった。
この間に、知範さんが当月2度目の来訪で、友人を同伴。カジュアルトークを楽しんだ。
最後は、妻が待ちかねていた来訪者(?!?)。ペットと暮らすようになった、とかねてから梶山さんから聞いていたが、その紹介だった。
6、その他のトピックス
アイトワ菜。沖永良部島を思い出しながら、野菜の新しい収獲法に取り組んだ。そして妻が、それをいかように活かそうとするのか、と心躍らせた一カ月でもあった。
畑では随所でアイトワ菜が芽を吹いた。とりわけ、タマネギの2本の畝や、この度ジャガイモの種イモを植えた畝では尋常ではない発芽だった。温室では、鉢植えに用いた土に紛れ込んだ種の芽吹く。
まず、一本のタマネギの畝から、ボウルに一杯分ほど抜いて、昼食前に台所に持ち込んだところ、妻は即座に、ほぼ調理を終えていたチャーハンに混ぜ込んだ。
その後、なぜか嬉々として、日毎にボウル一杯分ほどを持ち込むようになったが、その都度面倒くさがらずに、むしろ喜んで、さまざまな料理に活かし、これら野菜の味を高く評価した。私はなぜか積年の願いをかなえたかのような気分になった。
ついに「あれがキッカケだった」と思い出したことがある。ある思い出にたどり着き、大きな念願を果たした気分になった。沖永良部島での思い出だ。
4回も私は鹿児島県の離島・沖永良部島を訪れる幸運に恵まれている。当初は、西郷隆盛(の流刑地で)の実像に迫りたくて、だった。ところが、その後、車でなら、あっと言う間に一周出来そうな島に、4年連続で、時には案内したい人を伴ったりして、訪ねるところとなった。
この島には、西郷隆盛の瀕死の姿に触れたとの言い伝えや記録が相当残っており、研究者もいた。その一人に再会したくて次年度も訪れた。かつて聞いていた「征韓論」とは逆さまの資料を握っている、という人と再会したかった。
どうやら西郷隆盛は朝鮮に直談判に行き、今流に言えば、欧州連合のごとき東洋連合を発想しており、その構想を持ち掛けようとしていたらしい。酒の席も儲けてもらえ、大いにいい気分になった。欧州連合・EUも元をたどれば、日本の「血と知」の賜物(正式な国際結婚第1号の日本人女性が、女手1つで育て上げたような息子の1人の発想)であったことにたどり着く。
この感心や関心よりも、もっと興味を惹かれる課題も生じた。この島は、「宇宙船地球号のミニアチュア」ではないか、と思うに至り、翌年も訪れ、幾度も全島を巡ることになった。
往年は(一時期だが)3万人もの人が、ほぼ自給自足で生きた、と聞くにおよんだ、川がない小島であったからだ。今流に言えば、SDGs問題を意識していた私は、大いなるヒントを得られるに違いない、と期待した。
今だから言えることだが、4度も訪れるには、わけがあった。実は4年間、鹿児島大学の非常勤(あるアカデミーで環境問題関連の講義を担当)講師をさせていただけたのが幸運の始まりであった。鹿児島までの足代を浮かすという規定違反(出張規定では寄り道などは禁止だった)の沖永良部だった。
3度目の訪島目的に、新たな1つの課題を加えている。それは、野生の野菜と見た植物の調査だった。ノートを調べないとその名は思い出せないが、ほぼ全島に自生していた。すでにアイトワ菜を発想し、愛好していたわが身を褒めたくなっている。
再々訪時に、ある独り住まいの島の研究者は、野菜の基本はこの野草に頼っていたし、ある農民は、夕飯用にこの野菜の一種を選んで採って、持ち帰ろうとしていた。その根はどの根菜よりも美味、と語った。
この島も工業社会システムに組み込まれており、食料の自給は放棄し、東京を主市場とする温室花卉(「電照菊」で有名)の現金収入に頼っていた。
だから私は、「電照菊」という文字を「自動車」などの文字に置き換えて読み直し、想いを巡らせたものだ。もうちょっと大きな島が日本であり、沖永良部島を、まず「日本の縮図」と見た。かねてから、江戸時代の日本を、来たるべき世界の縮図に、と思っていた私を目を見開いた。そして、ついに、この島はしかるべき「宇宙船地球号のミニアチュア」のようなものだ、と考えるまでに至っている。
地下水を引いて、飲料水の確保場から、ウシの洗い場にいたる設備もあった。その中程には、男女別の水浴と洗濯の場があった。別の集落では、地下洞窟から水を樽でくみ上げていた。村の人口は、この便利や不便で、ではなく、水量で決まったいた。
ちなみに、鹿児島と大垣は(藩政時代のある事情があって)姉妹都市だが、その顕彰碑も見た。
だが、なんといっても(わけあって)私を引き付けたのは、アイトワ菜そっくりの野草だった。
花菜。畑では、花芽を採取する種である青菜・ナバナから順に薹が立ち、花芽や花粉がおいしい季節に入った。わが家が花粉まで大量に摂取する季節は4月まで続く。
トウガンとカボチャ。屋内の常温で、いつまで保存がきくのか、を試みたトウガンとカボチャだが、今年はトウガンとツルクビカボチャは2月中旬まで、もった(いいところ取りして、食せた)。
トウガンは、もう1週間早ければ、10軒ほどで分けて食せたことだろう。
最後の1本・細長いツルクビカボチャは、幾つかに切り分けて調理し始めた。やがて表面に黒っぽい星が出始めた。月末には星が直径1~2cmになったが、深めに皮をむき取ってスープにしても、味にはまったく支障なし。
昨年、冬越しに成功し、翌年の収穫期までもった丸いカボチャは、今年も未だびくともしていない。その1つを、今年は腐るまで置いておこうと思っている。
ハリハリ鍋。ミズナ(5本だけ)を、苗を買い求めて育てたのは初めてだが、期待通りに太い株に育ち、ハリハリ鍋を(すでに3度)堪能。最後の2株を残して月末を迎えた。
スナップエンドウ。冬野菜と夏野菜の端境期をつなぐ大事な野菜だが、今期は第二次の生育に失敗した。第1次の畝の続きにタネをまいたが、3分の1も発芽しなかった。急な冷え込みが原因とみて、急ぎ同じタネの残った分を、屋内で発芽させた。
第1次分のつるを藁で吊り上げ、この畝の続きに例年の第4次にあたる時期(2/14)になったが、その苗を移植して、畝に藁を敷き、肩にコーヒー糟を(置き肥といて)並べ、トンネル栽培にした。ちなみに、フィルターは、乾けば燃やして灰にして、畑にまく。
これと離れたところで、ツタンカーメンのエンドウを少しだが育てており、これも蔓を吊り上げた。
除草。日に2時間を投じ、除草に励んだ。まず草ぼうぼうのニラのコーナーから手をつけて、日に1畝ずつ抜いてゆき、未熟腐葉土を被せていった。
この間は、終始モンツキが訪れて、畝に被せた腐葉土だけでなく、一輪車に積んだ分まで、昼食などで目を離した間に、派手に散らかした。
3日がかりでニラコーナーを仕上げたが、カラシナ風のアイトワ菜(一旦はサルに襲われて丸坊主にされていた)が立派に復元し、目立つようになった。
案の定、翌日には再びサル(?)に襲われたのだろうか、痛めつけられていた。だが他に、被害は見当たらなかった。山はまだ餌不足だろう。
除草は、主たる畑に移った。とりわけ、トンネル栽培のカバーの中では野草がビッシリと育っていた。ホトケノザはつぼみを膨らませ、ハコベは白い花を付け始めていた。ワケギの畝は、自然生えのアイトワ菜が立派に育っている。除草のあと、腐葉土を入れた。モンツキは、私が次の畝の除草に移るまで、終始側で眺めており、ミミズなどが掘り出すチャンスを狙っている。
次はツクネイモの畝だったが、ここは除草の後、わらを敷き、腐葉土をかぶせたが、1時間もせぬうちに、ぐしゃぐしゃにされた。「ならば」と、思いついた次第。
草刈り。まずワラビ畑の草刈りをしたが、往年の2倍以上の、2時間ほどを要した。傾斜がきつい土地だし、刈り取った草を置き肥としてその場に残すので、とても滑りやすい。滑ってよろけてミツバチの巣箱にぶつかり、ビックリさせたくない。ニホンミツバチは、(工業社会の勤労者のごときセイヨウミツバチと違って)、気に入らなくなれば(農業文明時代の奴隷が解放を喜んだように、うっかりすれば)逃げ出す。
剪定と治療。これは「南のベルト地」(と名付けた庭の南面の、幅4mほど奥行き60mほどの帯状の土地)の東端15mほどの剪定から手をつけ、交互に取り組んだ。
フユウガキ、サルスベリ、ビワ、イチゴノキ、マユミ、そしてウルシの剪定をまず済ませた。その剪定クズは妻が囲炉裏場に運び、その太い部分は薪にした。
次いで木の治療。サラの木で小手調べ。紅枝垂れ桜の、温室のガラス屋根にかぶっていた太い枝は、翌25日に知範さんの助成を得て、切り取った。
堆肥の山がある新果樹園で、イチジクの3本の若い木は、治療を兼ねた剪定になった。
この間に、不思議なことが生じた。その始まりはニラコーナーのカラシナの被害だった。おそらくサルの仕業と見たが、この日も、他に被害はなかった。
サルにしては? 人形の創作休暇中の妻は、時々インターバルの時間も設け、庭仕事の助成だけでなく、屋内での仕込み作業にも当たった。祐一郎さんと常備薬(梅肉エキスと蜂蜜のブレンド)作りや、恒例の(原料手当ては乙佳さんに頼った)味噌の仕込みなどのことだが、急遽「ヒノナを漬けこむ」と、言い出した。
「まだ十分育っていません」と10日夕には言って、細いヒノナをサラダに用いていたが、2週間もせぬうちに一抱えほどを、夕飯用の野菜と一緒に引き抜いてきた。その訳を訊くと、「サルかしら?」とあいまいな答え。
翌朝、不思議に思って点検に出た私も、不思議な気分にされた。サルの仕業のようだが、他にたいした被害がない。サルが侵入したのなら、もっと派手な被害があってしかるべきだし、サル除け電柵のスイッチをこのところ忘れずに入れている。
その後も、不思議な被害が続いた。小さなダイコンが1本、また1本と抜かれてかじられ、ついに抜かずに肩だけかじられたダイコンが、と続いた。3本目の被害は、抜いて調べると歯型はないが、サルの食い方に似ている。
そこで、かつてサルに襲われた「ブロッコリーは?」と、確かめると、軸の長い花芽が育っており、被害がない。だが、葉は日毎についばまれていたが、これはヒヨの仕業、とすぐに分かった。
それどころではないことが24日に生じた。「あり得ない」と思っていたプーチンのウクライナ攻撃である。しばしダイコンやサルどころの騒ぎではない気分にされた。
バイデンの発言はまずかった、と思った。自国の時の世論を読んでのことだろうが、プーチンが攻撃に踏み切ってもアメリカは参戦しない、と言い切っていた。
それも言うなら、相手はプーチンだ。太平洋戦争時を思い出し、いつ世論が沸騰するか知れたものではない、と言って志願兵を臭わせておいてほしかった。そう思っていた矢先に、市川に住まう友人から電話があり、話題はプーチンにも及んだ。
「断じて許せないが」と断ったうえで、「キューバ危機を思い出した」とおっしゃった。当時、ケネディの苦慮を私たちは共有したものだが、猜疑心の強そうなプーチンは、キットと当時のケネディ以上に苦慮しているのではないか、と。
あの時は確かルメイ将軍が「今ならソ連を」殲滅(?!?)できます、と言ったようなことをケネディに進言し、命令一下、核攻撃ができる準備をしていた。
あの時より、ロシアの戦力(核以外)は相対的に劣っているのではないか、とトッテンさんの資料の1枚を眺めながら、思った。
次いで、イラクに攻め込んだブッシュを思い出した。結果は、因縁をつけたような攻撃であったことになったし、かえって問題の根を深くしたように思う。
共に、圧倒的に強い方が、力でねじ伏せようとする、あさましいやり方だ。およそ時代の流れに則していない。今は人類共通の敵、環境問題にこぞって取り組むべき時だ。その逆行を促す行為をしている。
「それにしても、情けない」と思った。何回も総理専用機で訪ロして、「ウラジミール、」などと呼び合って、蜜月を演出したゴジンは、肝心の時だが、音なしの構えだ。今こそ割って入るのが筋ではないか。それこそが日本の存在意義ではないか。
「それにしても」と、また思った。ゴジンとウマが合ったトランプの時代なら、どうなっていたのか、など。プーチンのせいで、こざかしいことまで考えさせられてしまった。
かくして、また一カ月が過ぎ去り、大団円でなかったことを悔やんだ。だが、ハッと思い付くことがあって「当月も大団円」にできそう、とニンマリ。
サルの仕業にしては控えめな被害は、「あれはコザルの仕業に違いない」と気づいたからだ。これを妻に教えれば、しばしにっこりとして、人間の愚かなオスの仕業を瞬時なり忘れるのではないか。でも私も愚かなオスだ。しかも戦時中の悲惨を知っている。ウクライナの人たちが気になってしかたがない。