キジバトは恋の季節、文月。未明にヒグラシが、夜が白みかけると小鳥が鳴き始め、次いでキジバトが「夜明けを待っていました」とばかりに恋を語りかけ始めます。連日、38℃の猛暑が続くなか、3日の正午から久保田さんと、2泊3日の箱根旅行に出かけ、5日の夜に帰着。これが7月の、6つあったハイライトの、最初の1つになりました。
わずか3日の留守でしたが、翌朝に多々驚かされました。庭はうっそうとなり、ニンジンボクやノウゼンカヅラが、畑では一重の中国ホウセンカやトウモロコシ、あるいはゴボウが咲き始めていたのです。また、ブルーベリーとブラックベリーが稔り始めており、小鳥と収穫を競いあう時期に入っていました。ネギのヒコバエは抜き取り頃、ジャガイモは堀出し頃、第1次のインゲンマメは末期。トマトとナスは盛りに。キュウリも早や末期。モロヘイヤやオクラの畝は草ぼうぼう。山芋はブンブンが葉を食い荒らし、ツルクビカボチャの蔓が伸びて暴れ、すでに花を咲かせていたのです。
しかし8日まで、先月分の“月記”のまとめと、その原稿の引き継ぎなどで屋内に缶詰。翌日は午後から、楽しみにしてきた2つ目のハイライト・奈良への半日旅行。
そのようなわけで、本格的な庭仕事は10日の夕刻から、妻と2人で出て(妻はネギの抜き取り、私は第1次インゲンマメの畝を仕立て直して野菜の苗植えに)取り組んだのがリハーサル。本番は翌11日の朝飯前の一仕事(第2回目のフジ蔓の整枝)と、日が傾いてからの夕飯前の一仕事(ジャガイモやラッキョなどの収穫)で、これらが初仕事になりました。
日中も16日までは目が回り気味。まず11日、家具の補修で鷲鷹工芸の森さんと、ニホンミツバチの点検で志賀師匠がお越し。12日、HPの模様替えで池田望さんと、ピザ釜の試し使いで乙佳夫妻が来訪。13日は、奥様同伴の鵜飼浩司さん(乙佳さんの日本料理の元師匠)の再訪。14日は、バテ気味のカラダ対策2件。15日は花車の撥水塗装などの手入れ。16日はHPの案件で再び望さん。かくして17日の3つ目のハイライト・『次の生き方 Vol.2』の補足パーティを迎えたのです。
その後、2度悔しいおもいをしています。パーティの翌日(18日午後)の今村さんと、24日午前の石神夫妻の来訪です。庭仕事のために来た、とご両者に言ってもらいながら、取り組む元気が私にはなかったのです。18日はパーティなどの疲れで、24日は、その間の21日に、知範さんと朝飯前の一仕事と、23日午後の失敗学会夏の大阪大会(真社会性という大課題も提起された)に加え、急遽翌日午後に組み込んだ映画会(2本立て)との関係です。もちろん、これらの合間もPC作業と庭仕事に多々追われており、他には多々不義理や手抜きをしてしまいました。
多々追われた庭仕事とは、ネギ苗の準備、3本のカボチャ(伸びる蔓に歩調を合わせて棚を伸ばす)対策、第2次のバジルとオクラの苗の植え付け、あるいは第2次のインゲンマメの支柱立てなど。その間は妻も、ラッキョの漬けこみとか私の手抜きを埋める除草、あるいは花車の仕立て直しなど、人形の創作休暇中なのにおおわらわでした。
最終週は、朝飯前の畑仕事に連日打ち込み、余力があれば夕食前の一仕事にも励みました。典型は30日、朝飯前は1人で、昼飯前は知範さんと、夕飯前は妻とこなした1日です。しかもこの間に、3つのハイライトに恵まれています。25日、望さんご案内のソプラノ歌手との触れ合い。27日、トッテンさんが育てたウサギの解体。そして29日、望さん5度目の来訪で、HPの刷新に目処がついたことです。日中はうだる暑さが続きましたが、月末には格別のスイカを、今や亡き松原多賀子さんのご主人と2人の息子さんが届けてくださった。
~経過詳細~
チョット自信がついた1週間。文月は、1日正午に長津親方と野鍛冶の堀田さんを迎えることで明けたようなものだ。その後、3日の正午からの箱根旅行で、久保田さんにピックアップしてもらうまで、ひたすらPC作業に没頭。
TVでは、欧州各国も異常高温に苛まれていたことを教えた。
この(初めての)箱根旅行は、中3日の在宅日(先月末の2泊3日の関東出張から数えると)をはさみ、2度目の2泊3日の関東の旅で、共に嬉々として出かけたことになる。
6日の夜に帰宅。翌朝から7月分当月記(8日に引き継ぐ予定)の仕上げに追われる日々が始まっている。この間で、記憶に残ること(猛暑とPCとの格闘以外で)は、スッカリ夏姿に変じた庭にびっくりさせられたこと。加えてこの間に、こまごました軽作業をインターバルとして挟みこんだこと。でも、これらがヨカッタ。
わずか3日間の留守で、庭はうっそうとしており、玄関ではニンジンボクが、畑では、ツルクビカボチャ、ハナオクラ、そして一重の中国ホウセンカが咲いていた。野ではブルーベリーが熟れ始め、カンゾウやキキョウが盛りに入っていた。
ヤマバトのラブコールはますます盛んになっており、ふと頭上を見上げると、ゴボウの花が咲き始めており、ノウゼンカズラが満開だった。
この間の郵便物。「バンザイ」と思った一通は、大垣市の人事。副市長に豊田さんが選ばれていた。この人は、海外青年協力隊員として東南アジアのジャングルで活躍した人。視点が優しく、視界が広くて深く、伸びやか。市職員時代の豊田さんには緑化審議会などでご一緒し、ずいぶん助けられ、勇気づけられた。
インターバルに挟んだ盛夏の畑仕事は、ツルクビカボチャの蔓が伸びる勢いにあわせた棚の拡張。自然生えのトマトが十分育っていたので支柱立て。バジルが良く育っていたので畝の除草。ジネンジョの葉の食害に驚き、連日のブンブン退治。あるいは、種をばらまいておいたアイトワ菜が育っていたので、間引いてキッチンに(まず揚げと煮てもらいたくて)持ち込み、その後の3日間、毎日持ち込んだ、など。
その後も、ヤマバトのオスが盛んに「フォーフォー ウォッホホー フォーフォー ウォッホホー」とラブコールを続けた文月。文字通りの1カ月になった。8日までは“月記”のまとめを主に、その後は29日まで、ある一文の構想を仕上げるために追われている。その一文は、題して「現代版ドン・キホーテの挑戦と報告」。副題は「まるで“SDGs”への備えだった」。
というわけで、箱根旅行は、誠にありがたい(文章作りとはおよそ縁がない)60時間に及ぶ一時で、リフレッシュできた。
この旅はまず、往路。車で6時間半、500kmを駆けにかけ(300㎞ほど走ったところで三車線が一車線になる事故があり、半時間遅れになったが)仙石原の2食付きホテルに到着、から始まった。
6Fの部屋から見下ろすと、眼下にイングリッシュガーデンが広がり、大浴場に向かう廊下の窓からは、見えるはずの富士山が、雨におおわれて見えなかった。
温泉では、久保田さんは長湯が苦手と知り、私はサウナを使えない体を嘆いた。そしてやすみながら思い出したことがある。名神高速での最初のサービスエリアでのこと。昼食後に気になったことが2つあった。
まずAccept と Complete の和訳。かつてどこかのサービスエリアではコンプリートは“完了”だったが、ここでは“出来上がり”になっていた。
次いで、地元流の“ちゃんぽん”の写真広告。学生になって初めて長崎ちゃんぽんを食し、その後4年間、同じ店で愛飲ならぬ愛食した代物。その長崎ちゃんぽんを、就職翌年に、生まれて初めて外国人女性におごったことを思い出した。
4日、チェックアウト前に、「大涌(おおわく)谷」の見物を、とロープウェイの駅まで、傘をさして歩いた。その道すがら、この土地流の「イラクサ」に目をとめた久保田さん。その葉が、「石鹸代わりに活かせる」と、学んだ。
とりわけ、川魚捕りの折に重宝する。葉を数枚ちぎってもんで使うと、にじみ出る液が有効。匂いもヌルヌル感も消す、とか。
帰宅後、わが家のイラクサは、と見ると。既に花摘み(種を落させないための)時期に入っていた(写真下は、わが家のイラクサ)。ちなみに、イラクサの洗浄効果は30日に、知範さんと試しており、泡は出ないが、洗った後の爽やかさを実感した。
ゴンドラに揺られ始めた。晴れておれば富士山が、と久保田さん。私の心はゴンドラに。足がすくむ爽快さを満喫。この高度!「妻(高所恐怖症)は耐えられるだろうか」。やがて山肌の随所で水蒸気(?)が噴き出す光景。
展望地に到着。硫黄や亜硫酸ガスの匂い。次いで、あの人たちは研究者か、それとも工事関係者か、と遠望。
案内地図で、明後日は芦ノ湖を観る、と胸を膨らませた。
ところが、帰路のゴンドラで「あれが芦ノ湖」と、久保田さん。ふと、昨夕の食事時の久保田さんの思い出話を振り返った。久保田さんには、親孝行で苦い思い出が(ケイタイがあれば生じえない問題だったが)おありのご様子。この旅行はその埋め合わせをしているかのような心境と、ポツリとおっしゃった。
荷物をまとめ、車で移動し「箱根湿性花園」へ。その道中で広大な萱場を視た。
「箱根湿性花園」ではこの土地流のコウホネをはじめ、学ぶところが多々。「これでいいんだ」と思わせられた。むしろ、人工的に作った高山植物コーナーに違和感さえ。一見は、あるがまま(風?)に、に心惹かれた。
わが家もその昔、万葉植物を揃えては、と薦められ、乗りかけたことがあった。
次いで、十割ソバの看板に惹かれ、野菜の天ぷら付きの昼食。ただの1度のソバになったが、箱根のソバのイメージを下げた。
「箱根ラリック美術館」では感激、ラリックという人を、その思想や美意識や才能などを見ごとにアブストラクト! と感じた。このアブストラクトのために英知を絞ったに違いない、とみた建物には感謝感激。
この建物を生み出したであろう意図を、つまり目には見えないものを、目に見えるラリックの作品や建物などを丁寧に観察しながら紡ぎ出したはず、と推し量った。次第に、ラリックの想いやエネルギーまでが(私なりに、に過ぎないが)、理解できたような気分にされた。
ラリックは、オリエント急行の内装に関われば、教会建築のデザインにも多々関わっていた。ラリックを学び直そう。真のラリックに近づきたい。
このラリック美術館を生み出した建築家は、どなたか、と尋ねまわったが、3度目に当たった人から、本部に問い合わせ、鹿島建設の設計チーム、と教わった。「だから!」と思った。「オーケストラだったンだ」。チームが一丸となって、ラリックの可視化に喧々諤々し、ラリックを主にして、心を1つにした成果だろう。その従に徹したように受け止めた心掛けに、人間がなしうる、人間流の真社会性の発露を観た。
欲を言えば、写真撮影を不可にするのなら、せめて絵ハガキを用意しておいてほしい。
この日の最後は「ポーラ美術館」。高価なモノが「あれもこれも」と誇るかのようなコレクション。何でもありの花屋に入って、好みの花を選り好みする喜びを提供しようとしているかのようなコレクションで、「箱根ラリック美術館」とは対照的。駐車は有料で、500円。
強羅に移動。傾斜地に建つ(ことがエレベーターの表示で分かった)出来たばかりの感のホテルに夕刻着。4Fの部屋。窓は立ち木でふさがれており、展望できず。同じく2食付きだったが、仙石原の“何でもありのバイキング方式” に対して、こちらは決められた時刻に、決められた席に案内され、お任せ料理。
片やアルコールは別料金だったが、こなたは品は限られていたがお好きなように。
別途ゆったりしたドリンクコーナーがあった。ハーブティ(そのハーブの品ぞろえは半端じゃない)やナイトキャップなどでくつろげるコーナー。ウイスキーがベースの薬種のごとき一杯を選び、感心していると、第一子に恵まれたようなご夫婦、次いで3人連れの中年女性が入ってきて、とてもくつろいだ気分、そのお1人は白髪。ふと、時には妻も、このような一時に恵まれんことを、と願った
大浴場はやや小ぶりでガラガラ。窓先は割竹風の塀でふさがれており、庭もなし。露天風呂も男性用にはなし(女性用にはあり、と後で知った)。サウナ風呂は定員2人。どうやらこのホテルは、女性連れや若い家族連れが主対象、と観た。
最終日の朝を迎えた。「彫刻の森美術館」を訪ねる日。チェックアウト前に傘を借りて、側にあった強羅公園まで散策を、と出掛けた。だが、9時開園だったし、急勾配地で広くて人工的造りのよう、と視て取り、割愛。歩を進め、箱根登山ケーブルカーの強羅駅に。ケーブルカーを久しぶりに見た。通勤に使っている人がある様子。
「彫刻の森美術館」では必見の一館を見逃すところであった。この広々とした公園美術館では、ロダンやブールデルの鋳造作も雨ざらし。酸性雨対策に成功しているようだ。
ピカソ館はコレクションが偏っており、ピカソの全体像には迫れない。大きなオブジェのような遊技場があった。家族連れへのサービスコーナーだろう。幾組かの子連れの客が見え隠れ。駆けまわる子どもが楽しそう。近場の人がうらやましい。
小雨が降り出したが、「あそこも」と脚を伸ばした一館があった。トイレがあれば、と思ったのかもしれないが、その薄暗い館内に踏み込み、すっかり尿意など忘れてしまい、釘付けになった。ジャコモ・マンズーの部屋。その名前さえ知らなかったことを悔やんだ。サン・ピエトロ大聖堂の扉の彫刻『死の扉』を知った。その12点の習作と完成品の写真。
「これで3つの門を知り得た」かのような気分に。残る2つは『天国への門』(とミケランジェロが称した門)と、これを観て、「ならば」と、ロダンがライフワークにした『地獄の門』。
この3つ目『死の扉』も、バチカンを再訪して、目の当たりにしたい、と願った。帰宅して、ジャコモ・マンズーを調べた。1908年に靴職人の家に生まれた。この『死の扉』には17年の歳月をかけ、1964年6月28日に除幕。ならば、目の当たりにできていたのに、と悔やんだ。バチカンでは忘れ難い思い出もあり、堪能していたつもりだったが、無性に再訪したくなった。
ミュージアムショップで昼食の後、最後の訪問先を目指すことになった。現代日本画の宝庫と銘打つ芦ノ湖「成川美術館」へ。芦ノ湖を眼下に、富士山を遠望する最後のチャンスだったが、曇天に遮られた。立派な展望休憩室。
一杯のコーヒーで鋭気を養い、一路京都を目指すことに。
往路と同じサービスエリアで、夕食を、となった。目星をつけていた地元のちゃんぽんを選んだ。コンプリートの表示が出るまでの間に、60年近く前の、「初めて」が2つ重なった(会社の交際費で、外国人女性にご馳走した)夕食を、また思い出した。
彼女の宿泊地が京都であった、ということで私が選ばれた。だから、湯豆腐の有名店に案内した。美味しい、おいしい、と言いながら彼女(デザインを売り込みに来た)は多くを残した。残した訳を、若い女性だから、と解釈したが、そうではなかった。
宿所まで送り届ける車を探しながら、好みの食べ物を話題にした。“長崎ちゃんぽん” を話題に出すと、興味津々。行き掛かり上、その麺類屋に案内した。
顔なじみだったはずのオヤジは、3年ぶりの訪問だったからか、いつもの親しげな顔を最後まで見せてくれなかった。彼女は美味しい、おいしいといって汁の一滴まで飲み干した。湯豆腐懐石の10分の1以下の値だったが、得意げにポケットマネーでご馳走した。
久保田さんは、こうした話にはまったく興味なし。かく、中3日で、2度の2泊3日の関東旅行をこなしたが、疲労感を覚えずに済んだ。
2、奈良の半日。小雨の大和西大寺駅で、私たち夫婦は16時に迎えていただいた。この駅頭では前日、元首相が射殺されるという出来事があった。しかも、その犯人(手製の銃器で射殺した男)が拘留され、取り調べ中の西警察署の前を走り、雨の中を一路、ある私設博物館を目指した。それだけに、3重の忘れ難いたい半日になった。
まず道中で、この事件はいかに解明されるべきか、と思案したこと。この政治家はさんざん主権者たる国民を偽ってきた。だから、それが原因かも、と当初は思った。だが警察はいち早く、それを否定。とはいえ、自衛隊員でもあったこの犯人は、人生を棒に振る覚悟で凶行に出たわけだろう。何がそうさせたのか、と気になった。
その「何が」が、政治家としてなすべきことをなして殺されたのなら、それは国民への凶行でもあったことになり、断じて許せない。キチンと解明しなければ(モリカケサクラを始め、多々国民を煙にまいただけでなく、自衛隊の海外出兵の道を固めたり、わが国の停滞を常軌化させたりした元首相だ。それら多くの過ちを、これで水に流し去らせるも同然のことに活かされたら大変だ。更なる沈滞の国に、日本を追い込んでしまいかねない。
私設博物館に着いた。見ごとに仕上がっていた。この施設は、ある理念を顕彰する上でとても有意義、と私は観ている。それだけに、雨空にけむる東大寺の伽藍や若草山が遠望できるベランダに立ち、言い知れぬ安らぎを覚えた。
ある理念とは、需要者の立場をおもんばかった事業家の想いである。企業は信用を高めることで、客が選択に要する時間を少なくして、客の「時間」を守らなければいけない、とでもいった考え方であり、決意であった。
世の中ではその後、さまざまな仕掛けを労し、消費者を惑わせ、モノの無駄だけでなく、人生の持ち時間の無駄も強いるようになっている。いたずらに(数円の価格差で足を棒にさせるような店間の移動など、モノと値段で釣り、大量消費・大量廃棄の人生に誘い込み、競わせあい)身を削らせるようなことをしてきた。
対して、この事業家は、顧客の時間を尊重している。それは、より人生を充実させる方向へといざなう考え方だと感受して、心惹かれている。この想いは、私の働き方の隠し味(拙著『ブランドを創る』で一例を示したつもり)であり、『人と地球に優しい企業』や『「想い」を売る会社』での「想い」を端的に言い表したようなものだ。
その事業化の足跡を垣間見た上にもう1つ、夕餉の席も用意していただいていた。前にも2どほど案内された馴染の店であった。食材の選び方も素晴らしいが、その活かし方には驚かされんばかりのカウンター割烹。だから、この日は、あらかたのメニューを写真に収めさせていただくことにして、賞味した。この主が言うアユは、シーズン末期だったが、格別だった。
3、『次の生き方 Vol.2』の補足パーティ。前回の好評だった集いは多数決で日程を決めた。だから、5人の執筆者の希望日を活かせなかった。かといって、前回のBBQに全員が参加していたらアイトワの会場では狭すぎた。
そこで、村上瞳さんと大北乙佳さんと相談し、補足パーティを一工夫して、梅雨明けを待って、となった。一工夫とは、前回の欠席者(希望日を活かせなかった)5人の内の4人は2組の夫婦であったから、この2夫婦に参加可能日を選んでもらい、その日に、前回夫婦で参加できた人たちに呼びかけて(集える人で実施で)はどうか、だった。それでも22人もの応募を得た。
その後、次々と思い違いなどが生じた。その最初は“戻り梅雨”。日程は梅雨明け宣言後だったが、連日のように雨に悩まされ始めた。だから会場を、テントを張ってカフェテラスで(幸い喫茶店は夏季休暇中)に変更も、となった。だからメインの料理は「ピザ釜を活かして」となり、急遽リハーサルを12日に、ピザの試し焼きを、となった。
この日は、アイトワのHPを刷新する件で、池田望さんがお見えになる日になっていた。これが2つの幸いに結び付くことになった。5人での試食となり「本番でもすべてを」となり、加えてパーティ当日は、望さんに撮影係としてご夫妻で、とお誘いした。
2つ目の思い違いは、第7派のコロナ騒動が始まったりして、3組の夫婦が欠席になってしまったこと。その1組は、本開催主目的の1組だし、半ダースのワインを送り届けてもらっていたが、同道予定の「息子が、剣道部で濃厚接触者になってしまったの」と連絡が入った。老齢で持病ありの私への配慮とみた。
また“ミニ講義”を期待して招いていた学者も「家内が4回目のワクチン注射で、高熱を」になり、飛んでしまった、など。
いろいろあったが、結局、9組のカップル(内2組は息子同伴)と男女各1人の計22人の集いとなった。それは、急遽参加がかなった音楽家カップルに恵まれたから。Gumi夫妻の参加(結婚式の衣装にも関わらせていただき、親密な関係)だった。
当日。乙佳さん一家、阿部夫妻、Gumi夫妻、と続々到着。ピザ釜の点火、テント張り、大成君がカエルを捕まえたこと、これらが、いわば内輪の開会宣言のごとし。
参加者が続々と。皆がそれぞれキビキビと動く。
持ち込み料理が運び込まれ、ピザ釜も準備万端。
石神さんから少し遅刻(アユを持参するからヒチリンの用意を)との連絡。「ワァー」との歓声。ヒチリンを2つ運び込むと、瞳さんの息子が火を起こす。
皆さんが持ち寄ったさまざまな料理を前に、時刻通りの17時に乾杯。
次いで、全員が輪になった順に自己紹介を、となり、ギターをつま弾き始めた池田望さんから、となった。
タイミングよく石神夫妻が、クーラーボックスをもって到着。2度目の乾杯とアユ談義。ほどなくアユが焼き上がり、賞味。絶賛の声、声。私は格別の喜び。この夏2度目の「これぞ!」と感じたアユを賞味。
差し入れのさまざまな料理。次々と焼き上がったピザ。乙佳さんが用意した他のメニューも「ピザ釜で(焼いた方が)」となった。いずれも大好評。皆さんおもいおもいの語らいを。望さんはウクレレでBGM。
やがて望さんはカメラを置いて、再び当初の位置でこんどはギターをつま弾く。この時に分かった。望さんの自己紹介する写真がなかったわけ。ご自身では撮れないし、私も失念していた。
三々五々の歓談が賑やかなこと。Gumiさんは幾種もの笛を点検し、大成君は興味津々。瞳さんの息子は、望さんとギターの手合わせ。大ちゃんはついに、笛の指導を受ける。
村上夫妻の息子は北大から帰省中。あす再び北大へ、の日程だった。だが、料理の準備などでも大活躍。大ちゃんも、Gumiさんの笛を借りて、離さない。
陽が大きく傾いた。照明に点火。望さんのギターの音色がほどよく響き渡る。ここらで、と皆さんお待ちかねのGumi&ひろ子夫妻の演奏。バンスリーと、ひろ子さんのアイヌの竪琴の合奏、Gumiさんの独奏。
実は、このパーティの20日前に、Gumiさんはユザーンとの共演が(ロームシアターであったが)大成功だった、と望さん。
最後はGumiさんの作詞作曲の『らしく』の独唱。望さんとひろ子さんがギターで伴奏。
「たしかこの歌ではなかった?」と、私は思い出を振り返った。ついに、雨は(前日は、このパーティの時間帯に降ったが)降らなかった。
その後のこと。大成君は母・乙佳さんに(Gumiさんに教わり)笛を買ってもらった。
私は、「そうであった」と思いだした。2か月前のGumi&ひろ子夫妻の結婚式で聞いた。そして、望さんが収録したその歌と式の様子は、すでに15万回もユーチューブで再生されたことを知った。
この補足パーティでは心残りが3つ。肝心の一組の夫妻とその子息が急遽コロナ騒動で欠席、に加えてもう一組、泊まってもらう予定だった夫婦が、会社の都合などで欠席になったこと。そしてもう一人、今回は呼び掛けられず、前回も参加できていない人がいる。
それよりも何よりも、会場の都合とはいえ、執筆関係者全員に呼びかけられない辛さ。こうしたことが、次回の呼び水に、新たな工夫になってくれることを、と願った。
4、根本は真社会性。失敗学会夏の大阪大会は、栗の研究ではキット世界1、間違いなく日本1の小林正秀さんと、二条駅で11時に待ち合わせ、大阪は谷町の会場を目指すところから始まった。この日は、小林さんから「ナラ枯れ」を主に、その研究成果と防除活動のあらましを伺うことになっていた。結果は、「さすが!」だった。
実践者の研究ゆえの迫力と、自然の摂理にのっとった方式や対策ゆえに、疑問はもとより矛盾や隙なども見出せず、皆さん大いに感銘。終始圧倒された。
この日はプログラムだけでなく、会場の選択もヨカッタ。会場は、この日最初のスピーカーだった女性・二村知子さん(シンクロナイズスイミング日本代表選手でもあった)が運営するビル(1階は『13坪の本屋』としても有名)の8F。
彼女のスピーチと、会場に持ち込まれた販売用の書籍のおかげで、その有名度の真価に直に触れ、久しぶりに書籍をまとめ買いした。
小林さんは、深刻なナラ枯れ問題に真正面から取り組んだ。もしこの人が、この世にいなかったら、この問題はどうなっていたのか、と(松枯れ問題での事例を思い出し)背筋に冷たいものが流れる思いと、感謝の気持ちで胸がいっぱいになった。
この問題の原因を追究してゆくと「見えてくるものがある」。それは人間の問題。目先の経済に狂奔する政府と、それを煽り、日本の安全を保ってきた(生きとし生けるものの繁栄の基盤である)肝心の文化を、かくも衰退させてきた国民との、悪しき相乗疾患であることが見えてくる。
さらに掘り下げて行くと、わが国の都市への人口集中率が9割を軽く超えていたところにまでたどり着き、この国はもはや"真の"独立国ではない、と気づかされ、愕然。この問題も、これまでの科学やデザインなどの敗北とみた。つまり、人間は科学やデザインなどのチカラに依存し、肝心の真社会性を疎かにしてきた。自己責任能力や自己完結能力を見失いながら、一人でも生きて行ける世の中になった、と錯覚し、人間のみがなし得る肝心の社会性(亜社会性)を疎かにしてきた。
その油断を、真社会性を誇る昆虫につかれ、心の隙間に忍び込まれ、謳歌させていた。それが目に見える現象になって気付き、人間への警鐘と受け止めた。
元来は鳥獣供養塔などを設け、無益な殺生を戒め、共生の文化を大事にしていた日本人が、「どうして」と、まず反省。相互扶助を忘れ、人間まで粗末にし合う社会にしてしまっていた。
言い直せば、人間らしい真社会性を人間に見失わせ、消費者化すればするほどうまく運ぶ社会システムを構築し、謳歌していた。それを新しい真社会性かのごとくに誤解させ、油断させるシステムが文明ではないか。ナラの古木に巣喰いがちな昆虫を見つめながら、化石資源に巣喰ってしまった人類を想った。
その総仕上げを、国家はマイナンバー制度とプライバシー問題を抱き合わせ、計りつつあるのではないか。国民をバラバラに分断することで一元化し、烏合の衆にすれば都合が良い、と睨んでいるのではないか。環境の時代に真正面から反する方針だと気付いていないのだろう。
だから銃殺された御仁も、「国民の生命と財産を守る」とは叫び続けたが、決して「国民の自由(Liberty)を守る、尊ぶ」とは言わなかったのだろう。卑しくも、このような妄想まで抱いてしまった。そして、我に返った。
小林さんは、強い人にはめっぽう強い人とは知っていたが、このたびの問題の捉え方を通して、弱い人、弱いモノにはめっぽう優しい人でもあった、ということを知り得たような気分にされ、この失敗学会のトリに誠に相応しい人選であったし、内容だったことを追認した。
岡田さんは、と見ると拍手を盛んに送る姿があった。
この後で、私にすればビックリすることが生じた。岡田さんが「明日の映画会は」と、いったんは反故にしたご本人が、それを忘れたかのように話題になさる。
今回は梶山さんが提案の日程だった。いったんはOKしていた岡田さんから「順延にしてくれませんか」との電話に接し、あわてて梶山さんに断りの電話を入れてあった。
当時、岡田さんは「相当お疲れであったに違いない」「用心されたのだろう」と独り言ち、気を取り直し、「待ってマシタ」とばかりに私は反応した。
小林さんの真社会性論まで取り上げた講演が、岡田さんにも良き化学反応を起こさせたのだろう、と憶測。梶山さんも、事情が分かればこうしたことには優しいはずだ。そう考えて、梶山さんに電話を入れ、OKをえた。
かくして急遽、梶山さん提案のT.ピケティの『21世紀の資本』と、岡田さん提案の『フードインク』の2本立てが、「今日言って、明日」に実現することになった。小林さんを無理矢理に誘ったところ、中座になったが来てもらえた。
5日後に、とても大事なZOOM=MTGが控えていた。ある大学の叢書、SDGsがらみの一書の執筆者の一人に選んでいただいており、その骨子も紹介するMTGだった。60数年来のライフワークを(実践論紹介の形で)紹介することが期待されている。
だから、『現代版ドン・キホーテの挑戦と報告~まるで「SDGs」への備えだった~』との一文の要約版はつくり、提出してあった。その後の、失敗学会の講演と翌日の映画会で、さらに勇気付けられた気分になった。
当日のこと。前回(5月)のMTG時は、終了後にミヤマカラスアゲハの話題で賑わった。同月には、アゲハ蝶に関する感銘の記事にも触れていた。そこで今一度、ミヤマカラスアゲハだと特定できた書籍(1976年)を見せていただき、感慨を新たにした。この間に、スゴイ人が新聞で紹介されていた。
5、パソコン忘却の日を交えた。6月来、「PCを活かしての」だったが、文章づくりの日々が続き、文月は文字通りに、その極め付きの1カ月になりそう、との覚悟のもとに明けた。。
ところが、3日から2泊3日の箱根旅行が入っていた。それが前月来の眼の疲れを随分癒した。ならば文月は癒しの日を計画的に組み込んでやろう、と意識して目をいたわる日を混ぜ込むことにした。
その最初が11日月曜日だった。前日の間に8段脚立をテラスに持ち込んでおいた。朝飯前の一仕事に、本年度最初のフジ蔓の剪定を選ぶことにしたからだ。
当日、5時前に起床。空いた小腹をいつものように癒し、服装を整えながら明るくなるのを待ち、始動。この日、初めてフジの狂い咲きを見た。オオガハスは箱根旅行中に咲き始めていたが、最後の一輪を咲かせていた。
汗をかかずに一仕事を終えた。朝食後、曇天になったが、雨が降りださないのを幸いにジャガイモ2種(“アンデスのめぐみ”の残り分と“シャドークイーン”)やラッキョウを掘り出した。その間に、TVでアンデスのジャガイモの危機を放映していたことを思い出している。妻はこの間に、ネギを、スコップを操って堀出した。この日は、ヒグラシが盛んに鳴いた。
昼食の卵サンドを食しながら、録画でアンデスのジャガイモの危機を観なおした。4000種ものジャガイモを栽培しているそうだが、昨今の気候変動(高温化)で、さらに高地での栽培が求められるようになったという。だが、高地では霜の害が心配などと、生存問題に直面している。
午後、鷲鷹工芸の森さんに家具をとりに来てもらった。この時期(喫茶店は人形創作の為の夏季休暇)に毎年、アイトワでは傷ついた家具を補修に出す。
それはアイトワの宝モノの1つで、フィンランドの建築家アルヴァ・アアルト(この綴りは望さんに教わった)の作品だ。
妻は水槽に目をやったようで、キンギョの異変に気付き、久保田さんにTelを入れた。
森さんと入れ違いに志賀師匠を迎えた。師匠はミツバチの異常行動(大勢のハチが巣箱の外側に出ていた)の点検だった。原因は良い方の予測が的中。旺盛な繁殖で、巣箱内が満杯になっていたことが分かった。この庭で、巣箱が6段重ねになったのは初めて。
久保田さんに駆けつけてもらえた。「イカリムシではないか」となって、ピンセットで抜いて、久保田さんの指示でアカチン(妻は捨てずに残していた)を取り出してきた。キンギョは赤チンでより一層赤くなった。この時に、幼少期(ケガといえばなんでも赤チンで直していた時代)の思い出が1つ、みがえった。だが、口にはしなかった。
水槽に日覆を被せ、久保田さん持参の酵素を溶かし込んだ。
おかげで、この日は午後のお茶に3度も恵まれた。3人目の久保田さんとの話題は、TVで知る同調圧力(コロナ騒動にともなう)の心配だった。
この日は、夕食前の一仕事にも取り組んだ。妻が抜いたネギの整理(ネギ苗にするために干す作業)から手を付けた。
「なぜ?」と首を傾げたくなった1株があった。3本ばかりの苗から、どうしてここまで増えたのか、と不思議におもい、その株は個別に干した。
次いでインゲンマメの畝を(支柱を解体し、蔓を抜いて堆肥の山に積み、後を耕し)畝に仕立て直した。そこに、義妹にもらったレタス系の苗を、早速植え付けた。
2人ともに汗だくになった。妻は収穫物を手に一足先に切り上げ、夕飯の準備。私は、妻がネギを抜いたあとを耕し、畝に仕立て直し、引き上げた。食卓には既に、この日の収穫物が生け花替わりに飾られていた。
風呂場へ直行。まず数杯の柄杓の水を頭にかぶり、冷えた風呂の残り湯で体を洗った。ビールを飲み干すと、生き返った気分。
夕食は、紫色のシャドークイーンで始まり、アンデスのめぐみも生かした一皿で終わった。
食後に、妻はラッキョを塩漬けにした。
TVでは、第7波のコロナ騒動を報道。なんだか戦時中の“勝ち戦” 報道の雰囲気に似ていそう、と感じた。当時は、大人が知りたがる報道を都合よく流せば(?!? 大人を真顔にさせて、視聴率が伸び)新聞やラジオがよく売れた、と後年になって知った。
この度は、ワクチンを買い込み過ぎた政府と、医療界のせめぎあい(庶民を安堵させる空きベッド率をテコに)が、その都合ではないか。もしそうなら、ベッドが満杯の都道府県が珍しいにもかかわらず、自宅療養者が増える現象となって現れるに違ない。
1日が心地よく終わった。ジンベースのナイトキャップに手を出しながら思い出し笑いをした。それは体操の時間だった。急所を擦りむいたことを先生に告げると、保健室に連れられ、パンツをずらして赤チンを塗られた。そして「ホンマの赤チンや」とからかわれ、2度恥ずかしかった。
次のインターバルの1日は、5日後の15日になった。
朝飯前の一仕事に電動バリカン仕事を選んだ。門扉から喫茶店に至る砂利道(アプローチと呼んでいる)沿いに、ドウダンツツジなど幾株もの植え込みがある。その剪定だった。この日は朝からウグイスがよく鳴いた。
朝食後、温室の水やりに出た。その折に、サルの仕業(前日の)に気づいた。まだ青いツルクビカボチャがちぎられて、畝間に落ちており、かじられた痕には歯形がはっきりついていた。
電柵が、なぜか漏電しており、脅せない状態を突かれた。妻は、かじられたカボチャを「食べます」と、キッパリ言う。キッチンに持ち込んだ。早速、クビの上部が煮ものになったが、久しく口にしていなかったキクカボチャのような味と歯ざわりだった。
実は、この被害(蔓も荒らされていた)の点検時に、ゴーヤやツルムラサキの自然生えに混じってウリ類が1本だけ自然発芽していたことに気づかされていたが、キュウリであったことを知った。
午後は、花車の手入れに取り掛かった。これも、夏季休暇中に仕上げておきたい作業の1つ。まず、両の車輪からゴムのカバーを外した。ついで、木部の汚れを濡れた雑巾で拭きとり、よく乾いてから撥水加工をする。
この最中に、森さんが補修した家具の納品で来訪。いつものごとく、見事なできばえだった。
わが国でもいつの日にかは、こうした補修が、家具の値打ちを高める時代が巡ってくるに違いない。それは、国民の心に、工業製品の新品は「お金さえ出せば誰にでも手に入るモノ」との意識が育まれた時だ。
「そういえば」と、思い出したことがある。それは、この逆の分かれ目(が露わになったの)は「入社して数年目だったなぁ」だった。その頃に、心をよせる男性への若い女性の贈り物が一転している。
それまでは、電車の中での編み物が流行っていた。多くの場合、ネクタイだったり、セーターであったりした。
それが、1964~5年頃から野暮な行為になった。ミミッチイ行為とみられるようになり、逆に、パリなどのブランド物を贈ったり、送られたりする方が格好良く、喜ばれるようになった。
森さんを送り出した後で、曇天をいいことに、乾いた花車に撥水加工を施した。次いで、鉄の車輪に巻く黒い帯ゴムを(鉄の環から帯ゴムの環が簡単に外れないように)引き伸ばしながら、二重に巻いて、接着剤で引っ付け、糊が硬化するのを待つことにした。
妻は、花車に乗せるプランターの模様替えをしていたが、私は物陰での作業に移った。ハッピーのハウス用マットの(風呂場用を新調したので、そのお下がりを活かす)新調だった。くそ丁寧に仕上げたが、ハッピーはともかく、妻が大喜びした。
陽が傾くのを待って、夕飯前の一仕事・サルとの知恵比べに取り組んだ。残っているツルクビカボチョの実をレースカーテン地で覆い隠し、生々しい姿(サルの食指をそそらないように)直接見えなくする戦法だった。
この作業の途中で、自然生えしたキュウリの他に、ウリ類が勝手なところで芽生えていたことに気づかされ、点検に回った。幾本も芽生えていた。折よく、妻の柏手がポンポンと鳴った。上機嫌で切り上げ、汗を流し終えると、夕飯が出来上がっていた。
こうした日を、その後は2日交えたが、昼間は極暑で、ハンモックでの読書や書斎でのクロス遊びで過ごした。
6、その他。
庭仕事の応援団。文月は、長津親方と野鍛冶の堀田さんを(わが国の伝統的木造建築を生み出して来た技や術と「匠」の、今後の“あるべき姿”を語らうために)迎えることで明けた。その後は(2泊3日の旅と、目を休めた日を除き)29日の昼過ぎまでは、冷房設備がない居宅の居間でPCに立ち向かっており、文字通りの文月の日々となってまるで地獄だった。
8日までは先月分の『自然計画』の作文に、その後は『ドン・キホーテの挑戦』の構想づくりに、寸暇を惜しんで取り組んだ。おのずと、亡き母の、猛暑の夏の口癖を思い出した。「この夏は越せん」。お前たちも「この歳になったら分かる」だった。
一昨年の誕生祝にもらったジャケットを取り出してあったが、屋内で役立つとは思ってもいなかった。「試しに」と着込んでみてヨカッタ。だから妻に、その様子を写真に収めてもらったが、そのケイタイを返しながら「いよいよ冷房器を求めませんか」と言った。
29日までに、外出は4度(奈良は西大寺、心臓に次いで歯の定期検診、そして失敗学会が)あった。この他に、パーティ、何件かの来客、あるいは喫茶店の再開準備などに割いた一時に加え、庭仕事などで助成を得る機会にも4度にわたって恵まれている。だがその内の2度で、とても残念な思いをしている。
まずパーティ翌日の午後のこと。今村さんを迎えることになっていた。
この日の午前中は、恵那から参加の阿部夫妻には泊まってもらったので、さまざまな用事を頼んだ。これが4度の内の最初。妻と仁美さんは会場の後片付け。寿也さんはまず建具の調整(居間を中ほどで仕切る天井丈の4枚引き戸が時々動きづらくなり、困っていた)。してもらえた
「ドライバーを」、次いで「ノミと金槌を」と求められ、修繕してもらえた。しかも「これからは、ここを」と、ドライバー一つで補正できることを教わった。次いで、大きなカケヤを使って、傾いた月桂樹を正したり、温室から重くて大きな植木鉢を運び出したり、とこまごました力仕事を溜めてあったので頼んだ。
これらを済ませた寿也さんは女性2人の助成に向かい、感謝された。テラスの敷石(フラメットの欠点は油汚れに弱い)の掃除だったが、私にはもはやその元気はなかった。
昼食は、パーティの残り物を活かしたスパゲティ。その直後に、庭仕事の助成で今村さんを迎えた。今村さんには、まず記念写真を撮ってもらい、阿部夫婦を見送った。
阿部夫妻と前夜、遅くまで語らったこともあって、最早炎天下での庭仕事に取り組む余力も気力も残ってはいなかった。今村さんは「一人でも」と言って、妻の願いをかなえた。ブルーベリー畑にたくさん出た若竹の切り取りだった。その収穫期に入っていたのでとても助かった。これが生涯で、助成に来てもらった人と一緒に作業に取り組めなかった最初の事例(悪しき新記録)になった。
次いで6日後の24日の朝のこと。石神夫妻が、パーティで用いたコンロを(預かっていたのでを)引き取りに見える日だったが、庭仕事の準備を整えての来訪だった。
庭は荒れ放題でいくらでも手助けしてほしいことがあったし、この2人にも「せっかく着替えも持参だし」「私たち2人だけで」と言ってもらえたが、同じ月内に悪しき記録を重ねたくなかった。また、この日は午後に、急遽映画会の予定を入れてしまっていた。
だから、2人に聴いてもらいたい話題があったので持ち出し、2時間ほど語らった。その上で、「改めて、手助けしてもらえる日を願う」と言って見送った。
実は、この間の21日に、知範さんと初めて朝飯前の一仕事に取り組んでいた。旧玄関の前庭で、高い脚立を用いた選定作業だった。密生したシホウチクの間引きと、残した竹の背丈つめ。そして徒長したクス系の木の頭を切り取る作業だった。
私も、脚立の足場を知範さんに固めてもらい、しばらくぶりに12段脚立にのぼった。切り取った竹や木は囲炉裏場まで運び込んだ。この日、彼は庭で粘菌を見つけた。タケは後日、枝祓いをして、畑の支柱用として知範さんに持って帰ってもらう。
生きものの息吹に、感心と降参。降参はまず、たった3日間の留守だったのに、第2次のインゲンマメの蔓が伸び放題になってしまっていたこと。にもかかわらず、日照り続きでまおり、手の施しようがなかった。
ヤーコン(奥)は順調だが、コイモはチョット痩せ気味だった。山芋(昨年、清太君に種イモをもらった)は、ブンブンの食害で最早手遅れ。モロヘイヤとオクラの畝は草ぼうぼうなど。
感心したことは、まず自然生えのキュウリ。昨年キュウリを育てた畝に「キュウリらしい」苗が1本、ゴーヤやツルムラサキに混じって芽生えていた。これが(連作を嫌う)キュウリであったこと。発芽適時を知り得たような気分になっただけだなく、キュウリも自然生えなら、連作障害に悩まされずに済むのではないか、と気づかされたことになる。
今年も、ホオヅキが食害で、コッピドク痛めつけられた。だから「今年こそは」としゃがみ込み、点検。まず、白い小さなカメムシの子が犯人、と分かった。トウガラシにつく虫に似ている。「それにしても、オカシイ」」この虫はホオヅキの軸に群がっているのに、葉にも食害の痕が広がっていた。
後刻、「その犯人は甲虫」草食テントウムシの一種だと分かった。来年は「勝手にさせないゾ」と決意し、この2種を目の敵(見かけると、何はともかく退治する相手)に指定した。
この直後に、「勝手なものだ」と、苦笑。不格好な(まるでタンクトップ姿から尻がはみ出したような)黒光りする虫がはいだしてきた。だが、久しぶり観た、というだけで、息災を愛でたくなって、見逃している。
「ところで」と気になる事があって、トウガラシ(過去2年間、続けてカメムシが大発生した)の畝に急いだ。そこでは発生しておらず、安堵した。昨年の(目の敵にして退治した)努力が、功を奏したのだろう。
その後で、昨年のトウガラシの畝だったところを耕したが、途中でダンゴムシが目に留まった。覗き込んでみてビックリした。この手のカメムシの子が一帯でうろついていたからだ。土中で孵化したのを掘り出したのかもしれない、と心配になった。
次いで、ラッキョを掘り出した畝で、かつての苦い思い出を振り返っている。家庭用のミニ耕運機を買い求め、2年もせずに廃棄した思い出だった。の随所でヒルガオが芽吹いていたからだ。おそらく、ラッキョを一株一株掘り出した時に、ヒルガオの根を(ミニ耕運機の回転する刃が切り刻んだように)スコップで切り刻んでいたのだろう。そのそれぞれの根から、芽が出ていた。。
自生種がまた増えそう。アイトワの畑では、ゴーヤとツルムラサキは既に自然生えに依存している。トマトとキュウリも、熟れた実を好きに落させておけば、自然生えに頼れるかもしれない、とこの度おもった。カボチャも、調理時に取り出した種を、バラまいておくなどすれば、半ば自然生えに頼れそうだ。トーガンは今年も、自然生えに頼ることになりそうだ。
実は、昨年のトーガンのタネをまいて、育てて来たつもりの蔓に、カボチャの花が咲き、ツルクビカボチャらしき実がついた。「シマッタ」と、畑を見て回ると、幾カ所かにウリ系の芽が自然生えしており、その内の4本がトーガンらしい花をつけていた。これらが実を結べば、ここ何年来、トーガンも自然生えの恩恵に浴し続けることになる。
贈り物や来客にも恵まれた。乙佳さんのかつての師匠(懐石・宿の近又)総調理長・鵜飼治二さんが、真澄夫人と一緒に訪ねて下さり、妻も交えて楽しい一時をもった。アイトワの庭を、とても荒れた時期に観ていただいたが、お気に召した由。料理の盛り付けなどに厳しく携わっておられるからだろう。完成時や仕上がり時、あるいは掃除ができた後の姿などを想像していただけたに違いない。アジの刺身を頂いたが、居宅で賞味することができたのは初めてのこと。
HPの刷新で、望さんをたびたび煩わせたが、25日はソプラノ歌手の藤田恵子さんとご一緒だった。京都の宮川筋で最古の茶屋旅館として有名な澤食(さわい)の主だが、アイトワの空間を、その音響効果をとても気に入って下さった。おかげで、この時に喫茶店に居合わせた方々と一緒に、屋内外で数曲の歌唱を(音響効果を試そうとされたようで、望さんのギターによる伴奏つきで)聴かせていただけた。
この日は、松原多賀子さん(先月急逝)の49日だった。妻は庭で三つ葉を探し、巻きずしをつくり、生徒さんたちと一緒に、と準備していた。おかげで私たちもお相伴。藤田さんの喜びようや評価に触れて、巻きずしの何たるかが分かったような気分になった。このまき寿司に、生姜ではなく漬け上がったラッキョ(11日に収獲した)を、妻は初めてそえた。
居住地である小倉山町の自治会では、自治会長を任期1年の輪番制で決めている。その弱点を補うために、地区推進委員会と呼ぶ永年制委員を選出し、歴史や文化、あるいは環境や景観問題に深く関わりがある案件に取り組んできた。
何十年か前に、連続して深刻な問題が発生したことがあった。その時に、常寂光寺の先代住職を委員長に、自然発生的に誕生した。先代亡きあとは今日まで、常寂光寺の現住職に引き継いでもらっていた。だが、円滑な世代交代を願う現住職の声に従い、町内3寺院の1つの住職にバトンタッチすることになった。
今や私が、こうした問題に当初から深くかかわり、79年も前から居住するいわば長老がごとき存在になってしまった。折しも、新委員長は新著を世に問うていた。その献本がてらに訪ねてもらえ、夢を語り合った。彼は仏教界にさまざまな提案をしている。
ここは、私の出番。コトの始まりは、第2回執筆者懇親会の自己紹介の時だった。先に立った橋本夫妻と、次に立つトッテン夫妻と私の関係(ロートル組)をチョット紹介した。その説明がキッカケで、「本当に僕の(育てた、肉食用の大きな)ウサギの肉を食べてくれる」とトッテンさんに問いかけられ、「喜んで」と応じた。
届いた一羽を前に、妻は(どうしてくれるンですか、とばかりに)腰が引けた。この時ばかりはと、平然とした顔をして受けて立った。
20分ほどだったが、適当な講釈(フランスではラパンといって、主婦は店頭にぶら下がっている中から一羽を選んで買い求め、解体するなど)をしながら(大学2年生時に解体したニワトリ来)初めての調理の腕を振るった。これが、わが家で調理場に本格的に立った(短大に勤めていた期間は、ワンルームマンションで朝晩の食事を自分で用意したが)64年ぶりのことになった。
さすがは妻だ。「ここからなら私にも出来ます」と言って引き継いだ。嫁いで来て初めて(山奥の村落で生まれ育った妻が)海の魚を一匹買いし、これも「ここで暮らす資格の1つ」とばかりに取り組んだが、その時のことを思い出したのだろう。「これはハッピーの分に」と言って、圧力鍋を取り出し、骨を(ニワトリの骨に似ているから、といって)すべて取り除いていた。
私はエコビレッジの夢を抱いて生きて来た。今の私は、その気になれば野菜と薪を3軒分ほど用意できる。誰かが動物性たんぱく質を、また誰かが穀物を、などと引き受けあう「亜社会性の一員たらん」とする生き方を夢見ながら生きて来た。それが、人間特有の創造能力に火を付け、尊重し合う時空を生みだすに違いない。
こうした夢がこうじていた時に、トッテンさんの存在を知り、私は近づいた。当初は農業から手をお付けだったが(庭の構造上だろう)今では動物性たんぱく質に切り換えていらっしゃる。まずニワトリに、次いで(さらに効率の良い食肉用の)ウサギの飼育に手をおひろげた。
里美夫人は、焼き物の絵付けがご趣味だったが、教室を開き、教えていらっしゃる。先の執筆者懇親会の折は、アイトワのネームプレートを作って贈って下さった。今回は、その活かしよう(乙佳さんに取り付けてもらった)を見てもらっている。ちなみに、右下方の4つの額(アイトワの四季を飾っている)は、阿部寿也さんがつくった。
この度、マングローブの苗を初めて手にしたが、阿部夫妻の手土産だった
天からの贈り物。ハナオクラと、ブルーベリーやブラックベリーの初収穫分は朝食に。その後、月内で4度にわたってブルーベリーやブラックベリーを妻は収穫し、ジャムに(ブラックベリーは裏ごし)煮た。末期のキュウリはピクルスに。熟れた梅は「酸味がなかった」と言って、シロップからジャムに煮直し。
日本原産のヤマユリとオニユリが、ともに咲いた。スイレンも咲き始めた。カワトンボが舞い、久しぶりにザリガニが姿を見せた。このイモムシはいずれアゲハチョウに。
ツチバチも元気な姿を見せたのは17日のこと。ピザ釜の赤土を、今年もツチバチが通って来て、唾液で濡らして軟らかくし、どこかえ運んでゆく。「今頃、営巣するんです」と、妻は大北夫妻と語り合った。
大団円は月末の頂き物。朝は、一抱えのカシワバアジサイ。昼に、1玉のスイカだった。この花は今頃に、戸石さんが毎年届けてくださる。3か所に分けて生けた。スイカは、多賀子さんの夫が運転で、2人の息子が来訪し「母が生きていた時に予約してあった」と、言って届けてくださった。この一家の慣わし(馴染のバケーション)の土産だった。