臨機応変に付けたせばよい。明朱花さんと夫のカールさんの結婚披露宴では、私は乾杯の挨拶で、この遠因を新郎新婦にあえて創りあうように勧めるスピーチをした。お二人には、過日の来訪時に夫婦ゲンカのススメを語ってあった。もちろん、ケンンカの度に仲良くなるケンカであること、と釘を刺してあった。そこで披露宴では、この仲良くなるケンカにするうえでのコツの1つを披露したわけだ。
「英語では自由と訳される単語が2つある」と私は切り出し、結婚を機に、決して互いの「フリーダムの方の自由」は唱え合わないように、とまず警告した。だが、2人で「リバティの方の自由」を尊び、「その境地に至る道を切り開いてほしい。そして、その切り拓いた道を2人で支え合いながら突き進んでほしい」と訴えた。
このスピーチを妻は隣で聞いたが、この意味するところを、つまり「リバティの方の自由」が何たるかを、妻は一番よく体得していた一人だと思う。だから、これまでの(話し合いがうまくかみ合わず)ケンカになりがちだった訳が、おぼろげに見え始めたのではないか。そしてその理解が、友人の鍼灸治療と相まって、相乗効果をもたらすようなことになりつつあるに違いない。
それはそれでよいのだが、私は披露宴会場でのスピーチに関して、少し思い残していることがある。乾杯の音頭だから(来賓の祝辞などの後だから)と、2~3分で済まさなければと思い、前もって心準備をしていた。だが、主賓のような立場だと気付いた時に、なぜ頭がうまく働かなかったのか…、と臨機応変さに欠けた自分が悔しくてならない。1~2分ぐらいは延長することが許されたはずなのに、と痛く反省している。
この度の披露宴にはもう1つの特色があった。招かれた人は新郎新婦の友人が主であり、夫婦同伴であったので、その多くが幼児連れだった。当の2人は友人たちに比して晩婚であったわけだ。この点をなぜうまく活かせなかったのか、悔しい。
私のスピーチは、お2人の結婚を「一艘の船に乗るようなもの」と見て始まった。「決して船上で、互いに良い席を取り合うようなケンカはしてほしくない」とまず釘を刺した。その上で、乗った船が「すいすいと無事に運航するように2人して努め」、「意見がかみ合うようにするまでケンカなら大いに結構」といったニュアンスを述べた。
さらに、その船の安泰よりも「その船が浮かんでいる地球が安泰であるようにと努めてゆけば、次第に互いの信頼感が増し、互いに尊びあえるようになるに違いない」とまでは訴えた。だから、そうなれば、おのずと「リバティの方の自由」へと誘われるに違いない、と理解してもらえたはずだ。だが、もう1つ付け加えるべきことがあった。
過日の国際会議でマクロン大統領は、トランプ大統領の前で、「アメリカファースト」の考え方を厳しく責めるスピーチをした。なぜ、これを引き合いに出して、次の話を加えておくことができなかったのか。
その昔、アメリカ大陸に進出したイギリス人は、母国の専横に耐えきれなくなり反乱に出た。そしてイギリスを打ち負かし、独立し「フリーダムの方の自由」を得た。
その時に、フランスは、お祝いとして「自由の女神」を贈っている。この場合の自由は「リバティ」が用いられた。それは、アメリカ人よ「フリーダムの方の自由」よりも「もっと尊くて、いまだ手にしていない自由」があることに気付いてほしい。その「リバティの方の自由」を目指してほしい、と願ってのことだろう。
さらに、当日の披露宴では、大勢の幼児が参加していた。だから、せめて「大勢のお子さんがたがご主席だが」と呼びかけ、「この子どもたちも乗り合わせている宇宙船地球号が安泰であるように」と願ってケンカをしてほしいと、なぜ締めくくれなかったのか。
キットこれは歳のせいだろうが、クヤシイ。