目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 遅ればせの、恒例の2本の樹の剪定
2 池田望さんに3つも
3 シカの侵入
4 知友の来訪
5 4つの庭仕事
6 その他
着更着で、冬ごもり
薪ストーブを焚いて、6人の仲間をお待ちすることから1か月は始まりました。その後は、寒さにおじ気づいて、庭に出そびれがちになり「如月(きさらぎ)」とは良く言ったものだ、とおもいました。寒さで「着るものを更にかさねて着る」着更着(きさらぎ)から「如月」になったという説もあることを知っていたからです。
でも、無為な日々を過ごし始めたわけではありません。過半の時間は、PCの前に陣取って、とても気が張る1本の原稿造りに割きました。それだけに、その合間に、直前のアポイントや「もし在宅なら」と言って、立ち寄ってくださる三方に恵まれており、ありがたいインターバルになりました。皆さん30数年来の旧知の方々でした。
1日のアイトワでの寄り合いは、9月に実施が決まった“匠の祭典”に関する打ち合わせでした。前日になって、長津親方から不参加の事情を知らされましたが、それがかえってよかった。親方には、クシャミでもしていただくとして、と話に花が咲いたのです。なぜなら、コロナ騒動での2年間のブランクの立て直しではなく、新趣向の討議が主になったからです。
ありがたいインターバルを作って下さった旧知の三方は、大垣時代からの顔なじみ。次いで、アイトワの建物建設でお世話になった工務店の社長。そして、この建物の草屋根作りでもお世話になった元社長、今はレオ財団のトップでした。
三寒四温とはよく言ったものだ、ともおもいました。ぽかぽか陽気に誘われた17日、庭に出て、中庭のスモモの樹の剪定に遅ればせながら取り組ませたのです。その後、木にも登って「これが最後かも」とおもうなど、3度に分けて得心するまで取り組み、仕上げた時のことです。何か物足りなさを感じたのです。それは20日の夕刻のことです。
とても冷えた翌朝“雪をかぶったスモモ”を見て、ハッとしました。出来栄えをこのように記録しておきたかったんだ、と気づかされたのです。急ぎカメラに収めました。ついで“シンボルモミジ”も「あれよりもこの方が」とおもう姿も写真に撮り込めました。
他にも、幾つものトピックスがありました。まず今村さんと取り組み始めたビオトープの手入れ。4日に仕上げています。次いで7日。2人目のホームビルダーと巡り合えたのを幸いに、ある想いを形にする話し合いをしています。そして17日。土橋ファミリー2度目の来訪。今村さんに無理を言って、あるプログラムを展開し、良き幼児体験にできたはず。4件目は、仏教大生来訪の19日。ある力仕事を今村さんと2人で、と期待していましたが、雨になってしまい、良き話し合いの機会に転用です。5件目は21日。ある用件で立ち寄って下さった岡田さんが「ついでに」と、小津安二郎監督を深く理解する機会にして下さった。最後は26日。今村さんと、獣害監視カメラを点検し、母子連れで侵入するシカを捉えていたこと確かめたのです、問題解消まであと一歩、の気分です。
結局、如月は、外出は2度で済ますことができました。妻も4月に人形展を控えて追い込み中です。だから外出予定は、知範さんに頼る“ケイタイ”の(カメラ機能のすぐれた機種に)更新のみ、だったのです。でも、もう1件、緊急の歯の治療(差し歯が外れた)で、やむなく妻の運転に頼りましたが、この2度で済ますことができました。
他に、池田望さんに人形展用の写真の撮影まで依頼。久しぶりのちあきさんの来訪。あるいは、菜花と冬子のシイタケを味わう時期の始まり。オドリコソウの再生に「祈る気持ち」で取り組む。エンドウマメの生命力に期待など、トピックスに多々恵まれました。さらに、非常食を更新する機会にも活かした如月になりました。
~経過詳細~
1. 遅ればせの、恒例の2本の樹の剪定
この庭第2のシンボルの木“古木風のスモモ”の剪定は、「なんとしても実行したい」と考えていた。17日、ぽかぽか陽気に誘われて着手。もう1本は “退職(伊藤忠)記念樹のシダレウメ”だが、花が咲き始めたので、このたびは諦めよう、になった。
“古木風のスモモ”の剪定は、20日には木のテッペンに登って剪定しながら、これが「最後になりそう」とおもった。やっとのことで仕上げた姿を写真に収めたが、何か物足りない。
ところが翌朝、この冬3度目の雪が降ったことを(窓越しに)知って、「もしや」と期待。飛び出してみると、丁度具合の良い降雪が、剪定の出来栄えを見事に浮かびあがらせていた。
ならば、とスモモの剪定クズに次いで、シンボルモミジを観に駆けつけ、ついでにパーキングの様子も写真に収めた。
もう1本の、あきらめることにしていたシダレウメ。26日のこと。今村さん(4度目の来訪時)に「もうひと仕事を!」と言ってもらえたのを幸いに、想うところを形にした。それは遅ればせの“透かし作業”。てっぺんの徒長した枝を切り取る作業だった。
咲きはじめていた花が(切り落とす衝撃で)恐れていたほど落ちないことを知り得た。おかげで、例年通りに、剪定くずでテラスを飾ることができた。
ここまで、運び込むのは(たくさん生えている樹の間をすり抜けるのは)大仕事だったが、今村さんに頑張ってもらった。
如月は、如月らしい夜明け、日の出、そして月夜だけでなく、もう1本のシダレウメ(大垣を去る折にいただいた“記念樹”)の咲き始めも愛でた。
中旬からナバナがおいしい季節に入り、21日に冬子のシイタケを初収穫。月末には白梅がチラホラ。クリスマスローズが咲き始めた。
2. 池田望さんに3つも
「匠」の祭典は、第5回開催が9月に決まった。これを機会に、この催しの歴史(その尊さ)や匠の技を記録しては、となった。そこで、池田望さんと中口gumi・ひろこ夫妻にもひと肌ぬいでいただけることになり、1日に初顔合わせ、となった。
これで望さんに、ウェブサイトでお世話になっているうえに、「匠」の祭典を収録する役目でもひと肌ぬいでいただけることになった。
加えてもう1つ。喫茶店が迎え入れた新人西村さんのご主人が、ホームビルダーを目指していた方と分かり、1つの構想を相談した。結果、このたびこの想いを形にするために、望さんにも加わっていただけなかと相談し、この3つ目も引き受けていただけることになった。そこで、3人で会し、想いを話し合い、長期にわたりそうだが取り組むことになった。もちろん、水島さん(この半年、音信不通になっている)と連絡が取れ、参画してもらえるようなら「それはありがたいこと」と、西村さんと話し合ってある。
3つ目のテーマでは、まず不具合が生じている2つの雨戸を取り上げた。その1つは、取り外しが危険な場所に入っている(台風の時だけ用いる)重くて大きな雨戸。西村さんは、仲間の梶さんと2人で取り組んで下さった。
その日、妻は人形展の案内状に用いる写真の撮影を予定していた。そこに折よく、望さんが訪ねて下さったことに気付き、「これも」と、お願いした。
3. シカの侵入
19日のこと、今村さんに獣害監視カメラの収録状況を調べてもらうと、シカが映っていた。シカの糞を最初に発見したところにたたずんでいる姿だった。
急ぎ小型の移設用監視カメラ3台を取り出し、目星をつけたところに設置することにした。シカの食害が、リュウノヒゲなどから、自然生えの野菜などに広がって来た。
その後、糞も食害の痕も見つからず、侵入した様子はなかった。だが、26日に今村さんと監視カメラを点検してビックリ仰天。母子連れの2頭が、この7晩中の5晩にわたって山の方から下りて来る方向で映っていた。侵入した明らかな証拠を残していた。
その内の1晩分だけ、逆に山にむかって歩んでいる姿も映っていた。この状況から、進入路と帰路を憶測し、「帰り道はカメラ目線から外れたところ」であったわけだから、「毎夜侵入していたのかもしれない」と話し合った。
他に、夜分にはイタチやクロネコも、昼間にはヤマバトや3種の小鳥も捉えていた。
この憶測が正しければ、かつて妻が「ここが怪しい」と疑った場所から入ったことになる。そこは、イノシシスロープが庭の西端にぶつかったあたり(去ってゆくシカが向かう先)で、庭の南西の角に当たる。竹などが生えており、枯れ枝や落ち葉が積んである。
私には到底「飛び込む気にはならないだろう」と、思われる場所だ。わなを仕掛けたら、100発100中で捕獲できそうなところ。
だが、この庭には今や、シカが飛び越え得るところは3か所しかなく、残る2か所は正門と南門だ。だが、この2か所は入れば分かる仕掛けがしてある。
そこで、3つの小型カメラを「ここから入れば必ず映るように」設置した。
その上で、今村さんが「入れば足痕が分るように…」と思案。そこで思い出したことがある。かつて藤原さんが灰をまいていたので、それを真似た。
翌27日の朝、点検した。灰には足あとらしき跡はなかった。その先に積んである枝や落ち葉を踏み荒らした跡らしき痕跡はあった。だが、夕べのもの、とは断定できなかった。
28日の朝も点検した。枝や落ち葉が新たに踏み荒らされたように見えた。だが、灰の中にまで踏み込んだ足あとは確かめられなかった。
4. 知友の来訪
その最初は、大垣の京風“にしんそば”で有名な酒井亭のご主人・澤田壽雄さんの来訪だった。嬉しくもあり、少し寂しい話でもあった。
大垣時代の10年間、私は大垣市の職員によく案内された。環境関連の仕事で市に長年にわたって使っていただいた。その折に、食事時になれば、京風だからとのご配慮と、私の麺類㋖(キチガイに近い)である関係で、ことあるごとに「酒井亭で」となった。
もう1つの理由は、京都弁で「おいでやす」と迎えて下さる女将の応対に心が安らいだからだ。その女将をなくされて久しい澤田壽雄さんは、開口一番に「3年、生きられるやろか、と思うてましたけど、この歳まで」とおっしゃった。こうした挨拶がし合える仲になっていただいている。
このたび初耳があった。澤田さんは戦時中に、京都から大垣に移住された人だが、その理由が疎開であったことを知った。私は西宮から京都に疎開で連れてこられており、この話にチョット戸惑った。だが、ごく当然の話であった。
私の居候先(父方の伯母)は、父(実の弟)の結核を察知し、追い出しにかかった。だからやむなく近場に建った一軒家に移ったが、その家屋は堀川通からの移築物件だった。爆撃による類焼を防ぐために、堀川通を強制拡幅したが、そのとばっちりの一軒だった。
また、京都は原爆投下の候補地にもなっていたし、現実に爆撃もされ、死者も出している。
チョット淋しく感じたのは、澤田さんが引退の挨拶をかねての起こしであったからだ。もう一度あのにしんそばをと願ったが、名物の澤田さんが煮られたにしんと、これも美味しい昆布巻きを手土産に持ってきて下さったので、これで「おいでやす」も忍ぶことにした。
「今日は、いはりますか」と電話があって、「京都に来たついでに」と駆けつけてもらった橘さんが2人目だった。その昔、拙著『人と地球に優しい企業』を片手に、訪ねてもらい、一緒に未来型企業に改革する案を考えた仲だ。進化ではなく大進化の必要性を訴えた。今は特色ある有名企業に仕上げた上に、財団を作って想うところを形にしていらっしゃる。
この日の最初の話題は「運」だった。幾つも重なった偶然のおかげで、今も生きている、とおっしゃった。どれか1つがチョット狂い、10分か20分もたついていたら、この世にはいなかった話だった。だから、その昔の話をおもいだした。
東京から帰途の羽田空港でのことだった。お急ぎの人の願いを受け入れ、飛行機の座席を譲られた。その飛行機が墜落した。その時も、「運」を話題にしたように思う。
次いで、日本最古の鉄筋コンクリート建物が話題になった。「保存すべし」と、財団で買い取って運用する姿勢に賛意を示した。その物件が載った雑誌を頂いた。
3人目はある先生で、4人目は過日絵画の個展を開かれた奥田さんだった。ゲストルーム(お付き合いが始まるキッカケになった建物の一角)に招き入れた。今も工務店の社長だろうが、それは話題にしならなかった。人間にしか味わえそうにない喜びに終始した。
5. 4つの庭仕事
まず、今村さんと2人で取り組んだ2件。共に、年に一度は手を付けて来たビオトープとブルーベリー畑の手入れだが、例年とは大きく異なる作業になった。
前者は、例年の草刈りと灌木の剪定で終えず、クリの木にのぼった“かづら(?)”の蔓とサルトリイバラ(棘だらけ)の蔓などもとり除いた。
かづら(?)の蔓”は、ディスプレイに活かせるかも、と丸めておいたところ、妻が目にして「このままで、」と大喜び。いつか、どこかで活かしてもらえそうだ。
後者・2件目は雪でつぶれたフレームの解体作業であったが、つぶれた主因を突き止め得た気分になった。それは降雪ではなく、ネットの上に溜まった枯れ葉。モミジの落ち葉が雪を厚く積もらせてしまう原因になった、と見た。
3件目は土橋ファミリーの来訪。息子さんは、私が京都に疎開した年頃だし、その母親が“息子が迎えるであろう未来”に想いを馳せ、やってこられた。おのずと幼児教育が気になってしまう。だから、今村さんを煩わせるプログラムを組んでおいた。
それは、過日今村父子が切り取った竹の始末。3人の成人男性が枝をはらい、その枝を土橋夫人が囲炉裏場まで運ぶ作業。息子が母に倣えば(遊びにすれば)しめたもの。
土橋夫人はピアニストだが、手袋を忘れて参加。母子分はわが家の使い古し分を使ってもらった。3人の男が、めいめい分かれて枝を落した。私が手早くはらえば、あとの二人も馬力をかける。夫人は小走りでその枝をかき集め、せっせと囲炉裏場に運ぶ。それを見て、息子も負けまいと母に倣った。途中で、野小屋の間の狭い通路を、子どもがかかえる枝の量なら十分通れそう、と近道に気付いた。
両家のおにぎりを交換した昼食は賑わった。
午後は、母子は引き揚げ、残る3人で囲炉裏場の剪定くずを片づけた。
4件目は、雪で大被害をこうむったエンドウマメ。霜よけカバーが災いしたのかもしれない。ともかく、第1次分は全滅、と言ってもよい状態にされた。だが、けなげに花を咲かせた蔓があったので、その生命力に期待することにした。
第2次分の2畝は、共に半分は残った。1畝はツタンカーメンのエンドウだから、種だけでも何としても残したい。1986年からこの地で生き続けている。
6. その他
非常食の“消費更新”に当たった。幾食分かの即席食品を備蓄しているが、いつもその更新のための消費は、私の不在時に妻が引き受け(食事作りを横着し)てきた。
当月は、やむない外出の用件が妻に入り、留守居の昼食で懐かしい味を久しぶりに楽しむことができた。畑で青菜をタップリ採ったつもりだが、この2倍にしておけばよかった、とおもった。
ちあきさんに久しぶりにお目にかかった。妻は、その姿勢を直したくて、良き先生を紹介しいただいたが、一緒に訪ねて下った。骨格を正常に戻す治療で、なるほど、と思わせられている。
一昨年の夏に、井戸枠貯水槽の大掃除をした。断水時に水を自給する上で“要の水槽”だ。一昨年の夏以来(2つ重ねた井戸枠の隙間から)水が漏れるようになった。それは、井戸枠を重ねただけで、繋ぎ目も底もセメントなどで固めていないためだ。
このたび、それが自然復元し、水をたたえるようになった。
繋ぎ目も底もセメントなどで固めないわけは、この水位を監察するだけで、土中の渇水状態などを読む計器の役割をはたさせたいからだ。いざという時のための貯水も大事だが、日常的な問題(降雨の変化や、土中の異常など)を推し量る役目を優先させたい。
その旧来の機能を取り戻したように思われて、ウレシイ。
薪の積み直しで楽しみが1つ増えた。造園師の佐藤さんにいただいた薪を、妻たちは、かつて積んだ薪の山の上にも積み足していた。このたび、その山が崩れた。それを幸いに、こうしておけば震度3や4では崩れないはず、と期待しながら私流に積み直した。だから、こんど地震があったら、ここにとんできて確かめる楽しみが1つ増えた。
雨になった19日。仏教大の今度4回生になる長谷部佑馬さんが、予定通りに訪ねてくれた。コロナ以前は、3回生になると就職活動が始まるために、1~2回生が主の活動であった。
社会的認知度が低い(人助けが主の)部活だから、コロナ騒動で1~2回生が入っておらず、それが存続上の致命傷になりそうだ。
だから、これが最後かもと、と思いながら、話し合いの機会に活かした。
岡田さんが、ある連絡事項で立ち寄って下さった。ついでに、と1時間も割いて、レクチャーの(小津安二郎監督を深く理解する)機会を設けて下さった。
絵コンテに、目線の指示があった。こうした心配りが、世界のプロの間で高い評価を得るのだろう。この大監督にして、と想うような発言もあった。
TV案組では、立花隆の追悼番組があり、鑑賞。あの(アマゾン奥地で立花隆が出会い、かつて放映されて、感銘した)酋長が再登場。この人は「何のために生きているのですか」との質問に対して「互いに高め合うために生きている」と答えた人だ。
早く春になってほしい、と願った。これは、雪に痛められた植物の代弁でもある。
生ごみ処理は私の担当だが、処理機が満杯になった。だが、処理スペースを拡大する基材(畑の残渣)が出ない時期ゆえに、悩む。また、容器を洗う水が冷たい。
望さんに、妻が人形展用の写真(案内状に用いる)を撮ってもらっている間に、私は幾本かのテラスにある植木の剪定を丁寧にした。
如月で一番胃がほっとしたようで、ココロがなごんだ糧飯。近頃は、冷えて固くなったご飯は、糧飯にするなど、歯に優しくする工夫をしてくれる。