目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 不思議 and/or 不気味
2 偉い人
3 ありがたい夕食を5度も
4 カボチャとトウガン
5 第2ブル-ベリー畑の防鳥ネットと冬野菜の畝
6 その他
酷暑、老骨を自覚
葉月の初日は、妻の買い物に同道し、「案の定」になりました。“土用の丑”の翌日を、“手作り粉サンショ”を試し使いする日にしていたのです。ウナギのかば焼きが半値になっており、おかげで厳しい残暑への備えもできたように感じたのです。
この日はわけあって、ありがたい贈り物に恵まれたり、畑ではキュウリが本格的な収穫期に入り、取り立てをまるかじりする日々が始まったり、逆に早くも第1次インゲンマメの支柱を解体せざるを得なくなって嘆いたり、と悲喜こもごもの1日でもありました。
月の半ばの15日は、迷走台風7号が到来した日でしたが、慈雨に恵まれた感じで済みました。大地は前日までカラカラに干上がっており、アイトワの水の自給システム・“井戸枠水槽”も涸れかけていました。この水位が下がるようになったのは10年来のことで、下がっても40㎝程度でした。この度のようなピンチは3年来のことで、2度目です。だから近年は「何か異常事態が生じている」と体感させられた気分で、不安でした。
この間の日々は、日替わりトピックスかのごとし、でした。“竹の化粧垣根”を塗装した日。カボチャなどの棚の拡張が始まった日。3つの接着剤仕事に取り組んだ日。あるいは、今関先生からのお手紙で、1人の偉人を教わった日、と進んだのです。その後、今村さん父子を迎え、炎天下で第2ブルーベリー畑の防鳥ネットの補修と、階段を新設した日や、池田望さんと下村知範さんを迎え、ある打ち合わせをした日。あるいは台風を翌日に控えた14日は、雨戸を閉じて回りましたが、“離れ”を大掃除し、建具の不具合に気づかされたた日、などと続いたのです。
こうした日々の合間に、20年来のキンギョが次々と5匹も死んだり、初見の昆虫と出会う日が2度も生じたり、世界では深刻な山火事などが生じていたりして、「地球は、何とかしなければ大変なことになりそう」との不気味な気分にされており、憂鬱でした。
葉月の後半はリズさんの暑中見舞いと“お盆気分”で始まり、予定が入っていない日が多かったのですが、恒例の案件も含め、多彩な日々になりました。地蔵盆へのお供えは、半世紀来の野菜の盛り篭を、今年も妻はアイトワの野菜で届けました。だが、お盆の棚教は30年来初めて割愛し、墓掃除はまた私はさぼり、妻に引き受けさせました。
週末が休日の今村さんに、週の半ばに来てもらえ、彼のPC知識を活かしてもらえた日。長津親方を、ある打ち合わせと鋸の目研ぎの依頼で訪ね、かき氷をご馳走になった日。久方ぶりに小木曽さんを迎え、リサイクル食器の展開で「さすがは」と得心した日。妻共々加齢障害に悩まされ、2人で3回も接骨医を訪ねたり、妻にCTスキャンの必要性が生じ、気をもんだりした日々。あるいは、阿部夫妻を“賄い支援つき”で迎え、4人でトップリと話し込んだ1泊2日。妻がフミちゃんと、酷暑の8月はスキップにしたのに、来てもらい、ブルーベリー摘みをした日。海詩が、NZの友達と西日本の旅を立案し、一泊2日で立ち寄った日。あるいは、乙佳さんに建具の総点検をしてもらった日。そして月末は、アメリカ人から喫茶店の来客がお礼の手紙をくださった日、で終わったのです。
この間に、畑では、3種のジャガイモを植え付けたり、トマトと第1次のキュウリの畝を片づけて、冬野菜用の畝に仕立て直したり、カボチャとトウガンが大きくなり、補助支柱を立てて回ったりしています。庭は、枯れ枝が台風7号の風でたくさん落ちたので、その後片付けや、夏草が種を実らせる前に除草や草刈りをと迫られながら月末を迎えましたが、ハッピーは元気すぎて、散歩を担当する妻はジャンプを止めています。
~経過詳細~
1.不思議 and/or 不気味
悲喜こもごもの葉月だったが、夕刻の庭仕事の後は、キュウリの丸かじりとビールが始まった。初日は初賞味のひと揉みした生ナスと餡かけトマトも美味しかった。20日は、予期せぬ鉢植えの開花に気付かされ、喜んだり首を傾げさせられたり。なぜなら、鉢イッパイに球根をならべて植えたように花が咲き、花には見覚えがあるが、植え付け方には身に覚えがなく、不思議だった次第。
それは、2年ほど放置してあった鉢で、追肥をしていないのに生じた現象で、今年は土替えをして、「何が生じたのか」を確かめたい。この後、30日に、3輪が遅れて咲いた。
17日、ジャガイモの畝を耕していた時に、見慣れぬ芽を吹いた大きな木の実が現れた。マカデミアナッツのごとき実だが、直径が4㎝ほどもある。「この実がもし、食用に供すれば!」「しかも、美味しければ」と、まず考えた。だが、わが家の庭では思い当たるフシがない実で、正体を確かめたくなって鉢植えにした。(側に落ちているのはサルスベリの種)
翌朝のこと。前夜眠りながら「ヒョッとして、アボカドではないか」「アボカドなら、ありうる話し」と思いめぐらせたことを振り返った。そのタネを妻が皮と一緒に生ゴミの箱に捨て、堆肥場まで運んで堆肥の山に積む。生ゴミはやがて堆肥になり、腐食しなかった種ごと畑に鋤き込まれたとすれば、充分ありうる話だ。だが、アボカドは1つの種から2本も芽を吹くのだろうか。確かめたい。
今年のインゲンマメは散々だった。実は不ぞろいだし、姿もいびつで、食すと口の中で「キュッキュッ」と音を立てるあの新鮮なインゲンマメは望めなかった。
第2次の芽が吹き、育ち始め、散々の原因が分かった。1次と違い、双葉の頃から葉の様子が異常であったからだ。その目で見ると、1次の方も、若い葉には異常が生じていた。
急ぎ第3次の種をまいた。やがて老眼の辛さを想い知らされた。メガネを取り出してきて分かった。葉の裏にゴマ粒ほどの虫がたかっており、食害だった。葉をゆすり、塵取りで受けると、1㎜ほどの虫がパラパラと落ちた。この庭では初めて目にする虫であった。
その後に、初めて目にする2種目の昆虫に気付かされた。見慣れたクマバチとは違って、真っ黒だし、クマバチより細身だ。カボチャの花が咲き始めた時のことであった。
どうやら南方で広く生息する“ソノーラクマバチ”のようで、不気味だ。これまでにも、この庭にクマゼミが現れてニイニイゼミが激減したり、オニメンスズメガが棲みついたり、3年ほど前から見慣れぬカメムシが(最初はトウガラシから)はびこり始めたりして、その都度不安の度合いを深めて来た。今年の暑さはとりわけ異常だ。
ついに、不気味さのとどめのようなことに気付かされた。それは、コンクリート打ち放しの壁面で、いわば行倒れかのようにして死んだ軟体動物だった。不思議さを通り越して、ギョッとさせられた。
後日、末端部が映っていなかったことに気付かされ ?!?となった。それは2週間後のことだったが、急ぎ再確認した。間違いなく生きものだった。這った後の形跡も残っていた。今度は、生きている間に、生きている姿に出くわしたいものだ。
2.偉い人
先月は、愛媛県は松山まで、曽我静雄や福岡正信の足跡をたどった。今月は、まず今関信子先生のお手紙で、前川恒雄の存在を知った。ネットでは日本の“図書館学者”、1980年に滋賀県立図書館長に就任など。2020年に89歳で没、とある。
図書館の都道府県別貸し出し冊数で、滋賀県は東京都と近年はトップ争いをしている。しかも、前川恒雄が滋賀県立図書館の館長に迎えられる以前は逆に、貸し出し冊数では最下位だった。これは一人当たりの数字だろうが、最下位が短期間でトップになったとは驚かされた。前川恒雄の功績には計り知れないものがあったに違いない。
今関信子先生が、このように取り上げられたぐらいだから、何があったのか、キチンと知りたい。今関信子先生は児童文学作家で、青少年読書感想文全国コンクール課題図書に3度も選ばれた作家だ。
しかもアイトワは、2013年度第59回コンクールで3度目の課題図書に選ばれた作品『永遠に捨てない服が着たい:太陽の写真家と子どもたちのエコ革命』で、少し関わっている。
この太陽の写真家は、自ら手作りしたピンホールカメラで太陽を撮影し、その写真展を2009年7月にアイトワの手作りの森で開催した。そこに先生にもお出ましいただき、一緒に日食の観察もした。この時に、この写真家・岡部達平さんは、私とのトークの時間を組んでおり、この“永遠に捨てなくてすむ服、小中学生の体育服のプロジェクト” を紹介している。
この時から、今関先生との接触の機会が一段と増えた。次回、お目にかかれた折は、前川恒雄がいかにして滋賀県民の心に、読書に関して火をつけたのか、伺いたい。
次は、今関先生へのおもいが未だ冷めやらぬ13日のこと。享年89歳との文字が目に飛び込んできた。朝日新聞の好みのコラム『日曜に想う』でのことだが、佐藤尚武を取り上げていた。
敗戦前後のあわただしい時期に、私は幼少期を過ごしている。とりわけ、敗戦近くでは大人が、あわただしくて狂おしい姿をさらしたており、そのありようが脳裏に色濃く焼き付いている。
「お国のために」などと語らい合い、「一億玉砕」や「神州不滅」が唱えられ、「体制の護持」なるフレーズが、子どもの耳にも押し寄せてきた。
これらの意味を、母にもよく私は質問した。母だけでなく、すべての大人が「日本は必ず勝つ」と言ったようなことを呟き、それまでは「欲しがりません、勝つまでは」を説いた。
これらの耳にこびりついたり、目に焼き付いたりしてしまった成句に、はや中学生の頃から矛盾や疑問を抱き始めている。やがては、国は国民をだましていた、と疑い始めた。その想いはいつしか変わり、騙しているのはお国ではなく、軍人や政治家だと思い始め、やがてはその時々に威張っている人たちに、ついには権力を得た人に、国民は騙させているのでは?!? と感じ始めている。
だからこのたびは、真に偉い人を知り得たようにおもい、感嘆し、なぜか2日前の新聞を探し出し、『終末時計』の記事を読み返している。
大見出しは「人類滅亡の警告 どう向き合う」であり、「どう向き合う」の部分を深読みしなければいけない、と感じていたことを追認した。
『終末時計』は、ソ連が原爆実験に成功する2年も前に、アメリカで始まっており、地球滅亡まで残り7分と叫ぶ人たちが現れていたわけだ。その頃のわが国は敗戦後のどさくさで、その日の腹を満たすことで頭がいっぱいで、地球はおろか、己の未来にさえ想いを馳せるゆとりなどなかったように記憶している。
朝鮮戦争が1950年に勃発した。12歳の私にもその慌ただしさは分かった。在日朝鮮人を学校は一人一人呼び出し、出身が北か南かを調べている。そして、北の子には余計に寂しい想いをさせている。私には在日の友達が多々いたが、北の出の子は「ボクは」北の出だ、と申し訳なさそうに話した。
その頃、「A級戦犯」として「巣鴨プリズン」に拘留されていた岸信介は、「これ(朝鮮戦争勃発)で首がつながった」と手記に書き残した。
岸信介は政治取引をしてA級戦犯の訴追を免れ、東条他7人の死刑執行翌日に無罪放免されている。後は巧妙にしかるべき地位を得て行く。
警察予備隊を誕生させ、夫が朝鮮半島に出撃した米軍の家族を守らせた。公職追放されていた旧軍人を解放させ、自衛隊、はては防衛省の編成へと進める。その間に、アメリカが「日本」を守るという日米安保条約を結んだ。
『終末時計』は1991年には17分前にまで戻っている。それは冷戦が解消したからだが、プーチンが動いた昨年は90秒前に、今年は70秒前になった。これをどう読むべきか。
76年前に、「地球滅亡まで残り7分」で始めているが、それは話題性を願ってのことだろう。今年の70秒前は、「オオカミ少年ではないが」、どう受け止めるべきか。
わが外務大臣は先日、民意に計らずに「アメリカは唯一の同盟国」と勝手にうたいあげた。同盟国であることは賛成だが、唯一と言い切ってよいのか。
わが国は、憲法9条を活かし、世界のすべての国と同盟関係になる気概が望まれているのではないか。マッカーサーは日本の戦争放棄を、日本人の発案に勇気付けられ、憲法に組み込むように誘っている。そして日本が、戦争放棄を世界の潮流にする未来を願っていた、とこの度知った。
そうした心を当時の国民は感受しいたのではないか。20万人もの日本人が沿道に押しかけ、彼の離日を惜しんでいる。その前に、膨大な日本人が手紙を認め、去らないでくれ、元の日本に逆戻りさせないでくれ、と嘆願している。
昨今の国のありようを見ていたら、ひとたび東西間で事が起これば、日本政府はアメリカに日本を必死で守らせようとするだろう。それは、戦争への道にまっしぐらだ。アメリカに、類がアメリカにまで及ばないようにさせようと仕向けていたのと同じで、つまり日本を戦場にさせて日本を守らせるわけで、国民はたまったものではない。
だからだろうか、政府は国民の生命と財産を守るとはいっても、自由を守るとは決していわない。まるで羊飼いが、羊を守ると言っているかのようだ。貧しくても私は自由が欲しい。戦争をさせられるぐらいなら死を選びたい。
つまらない取り越し苦労をしてしまった。
今年の『終末時計』のこと。地球滅亡まで70秒前をどう読むか。庶民の心を浮足立たせ、環境問題などにはかまっておれない気分にさせ、そこを逆手に取るような権力者をつくらせかない、なんてことはないだろうか。
なぜかふと、長津親方におごっていただいた“かき氷”を思い出した。厳しい残暑を体感した18日の何年ぶりかのかき氷で、体を冷やし心を暖かくさせ、小学生時代のある1日を思い出させた。
大文字の送り火の日のこと。母は毎夏、私たち子どもを誘って渡月橋から眺め、帰途に必ず、年に一度のかき氷を食べさせた。だから元日(新しい靴や肌着が枕元に置いてあった)朝に次いで、この日を待ち遠しい夕刻の一日にさせた。
こんな思い出に浸りながら、かつて長津親方を取り上げた新聞記事を読み直した。来月には、この親方をしたって欧州からも、何人かの職人が自弁で駆けつける催しがある。
約束通りの22日に、元船乗りの小木曽さんに訪ねてもらえた。この日初めて、小木曽さんが船乗りに見切りをつけたもう1つの動機を知った。下戸であったことだ。
これまでは、世界の海洋性プラスチック問題に気づかされ、いてもたってもおれなくなって、と思っていた。だからこの問題を解消する手段として、窯業産地である地元に目を付け、リサイクル磁器を開発し、起業し、軌道に乗せ、息子に引き継がせ、小木曽さんはこの海洋性プラスチック問題の解消に専心できる立場を手にされた、と理解してきた。
この日は、その後の動きをうかがった。新たなリサイクル食器として磁器ではなく、再生PET食器を開発していらっしゃった。
実は、小木曽さんと知り合う何年か前に、全国報道で、学校給食の食器をプラスチックから磁器に切り替えた学校のニュースに触れていた。その報道では「リサイクル磁気の食器であるがゆえに」には一切触れずに、磁器の食器に切り替えたが故に、子どもが行儀よく完食するようになったと、情操面での成果を取り上げていた。
後年、それが、小木曽さんのリサイクル磁気であったことを知り、それまで頭に焼き付けていた記憶を修正している。まずは、磁器に切り替えた学校の動機や考え方を愛でるべきだ。それが、その良き考え方や動機が、情操教育上での良き余録にまで結び付けたわけだ、と理解し、記憶を修正した。
この度は、リサイクルPET食器の開発だけでなく、磁器食器に施された意匠をリメイクする加工も始めていらっしゃった。有名なレストランやホテルなどのオリジナル食器のこの再生は、その意義や価値のほどは、と推し量り、とても感心させられた。
また、手土産として薄くて軽い磁器カップを頂いた。このカップは、側面と底に帆船が描かれていた。小木曽さんの思い出深い船であった。
頂いたカタログは、「題」に「コンセプトブック」を選んでおり、興味をそそられた。ペイジを繰ってみて「なるほど」になった。
リサイクル磁器の問題点は、その意義や情操上の余録などを語れども、値が「高い」ことを“気にするムキ”にぶち当たりかねないだろう。だから、その意義や子どもの教育効果などをかざして押し問答するよりも、次善策をご用意されたのではないか。
小木曽さんと別れた後で、コンセプトブックの頁を繰り返し直し、「バンザイ」と叫びたくなった。このコンセプトは、リサイクルPETでまず環境意識で意気投合し合い、その上で、子どもの情操面での発達にまで意識を高め合おうとしておられるのではないか、と読み取ったからだ。
この人の究極の願いは、海洋を漂流するプラスチックごみの解消だ。だが、スゴイところは、この運動の必要性を叫んで世を囃すだけではなく、またその意義を盾にして人任せの手段を講じて実践に移すのでもなく、自ら額に汗し、しかるべき手段を講じた上で、願いをかなえようとしていらっしゃるわけで、頭が下がった。
次いで29日のこと。ついにマスクを着けずに3年間を過ごされた高安先生を迎えた。「ご参考までに…」と言って本を下さった。その中のこの一書はその日のうちに読み終えた。
世の中が、宮沢孝幸博士を異端児扱いせずに、この意見を尊重し、過去3年間の日本の舵取りに組み込んでいたら、安倍のマスク(途方もなく高くついた)などにつけ込む余地を与えなかっただろうし、コロナがらみの100兆円もの税金の活かし方は大きく変わっていたことだろう。
ヒョットしたらスエーデンには、この先生のような識見の持ち主がいらっしゃったのでは、と考えた。
この日は朝日新聞の朝刊で、東条英機を無能呼ばわりして対立した石原莞爾(かんじ)の記事にも触れていた。かつては満州事変の首謀者との悪しき印象を抱いていたが、近年は修正に努めていた人だ。その昔、異端児と評価されていたことを知って、疑問を抱いた。やがて、満洲国を満洲人自らが運営するアジアの盟友にと期待し、主張し、東条の考えと対立し、東条をバカ呼ばわりしていたことを知った。
その後、失敗学会の台湾旅行に同道がかない、わが国の台湾での植民地政策に触れており、「もしや」と考え始めていた。その上でこの記事に触れた。
25日にも、同新聞で目をとめた記事があり、切り取った。だが、その左側の2つの記事にも心惹かれた。つなぎ直して、この3つのコラムを読み直し、行間をいかに読むべきか、と思案した。
3.ありがたい夕食を5度も
その最初は月初めの贈り物のおかげだった。妻は、過労だろうか、チョット寝込んだ。私はチョット慌てた。ある用件で電話を頂いた方に、この旨をチョット漏らしてしまった。
2日後に、「お訪ねできませんが」との手紙を添えて、鯛づくしの夕食セットや、初めて味わうブドウなどの果物籠などが、ドサッと届いた。
おかげで妻は、汁ものなどを用意して、配膳すればよいだけで、非日常の夕食に洒落たデザートまで付けて準備ができた。
それを食しながら、思い出したことがあった。結婚を決意するときに、私は“幸せのバロメーター”の第一に、“在宅時の食事は妻の手作り”に「幾度恵まれるか」をあげた。もちろん、それに値する私の役割を誓った。妻は当時、「その数を増やす」ことをやりがいの1つにあげていた。だから、この鯛づくしは、メデタシ、メデタシになった。それは、とりわけこのバロメーターに、近頃、なぜか黄信号が灯りかけていたからだ。
猛暑が始まったころから、妻が急に、奇妙な愚痴を漏らすようになった。「箸、と言えばお箸が出るし」「お茶、といえば…」などと、ブツブツ言いながら箸や、食事を中断して茶を出したが、ついに「私も歳を取っているのよ」と言い出していたたからだ。
「それぐらいのこと(歳をとることぐらい)は読み込み済みではなかったのか」と、言いたかったが、控えた。
案の定、妻は珍しくもチョット寝込んだ。朝食後に半時間とか、昼食を用意した後で20分などと、寝室で横になった。もちろん私はうろたえた。
今はなき姉の愚痴まで思い出した。ある里帰りの時に「私、寝込んだのよ」から始まる愚痴だった。義兄はどうやら、親切のつもりだろうが「1食や2食、ボクは食べなくても大丈夫だ」と言ったそうだ。姉は「私は、どうなるのよ」と愚痴った。
妻は里帰りをしても、泊ったことはない。こんな思い出まで振り返っていた時に、阿部夫妻の来訪が決まった。「3食とも、私たちが(食事を)用意します」と言ってもらえた賄い付きの1泊2日だった。
当日の昼食は、渋滞のセイで到着が遅れ、ソーメンになった。夕食は非日常のメニューが、妻も嬉々として参戦し、食卓に並んだ。食後の会話も弾んだ。これが、ありがたい2度目の夕食になった。翌朝は、ハッピーの散歩の代行に始まり、妻も参戦した朝食が用意された。
フミちゃんと妻は、酷暑の1か月は庭仕事をスキップした。だが22日のこと、体調がほぼ旧に復した妻は、フミちゃんをブルーベリー摘みに誘い、昼下がりに迎えた。陽が落ちるまで摘んだ2人は、一緒に即席の夕食を用意した。フミちゃん自慢の手土産は、冷ややっこになり、わが家自慢の野菜は、ふんだんに活かされた。これが3度目になった。
4度目は、小木曽さんに誘われた外食で、妻は留守番を希望した。
最後は海詩の手作りとなった。NZの友達Eloiseと連れだって1泊2日で立ち寄りたい、と要望され、26日の夕刻から翌日の昼過ぎまで迎え入れた。
最寄りの駅まで出迎えた妻は、その近くのスーパーに3人で立ち寄った。その後は、わが家に戻ってチョットのどを潤しただけで、海詩とEloiseはすぐにキッチンに立った。前回同様にスパゲッティミートソースが用意された。腕を上げていた。妻は庭の野菜で彩りを添えた。
わらび餅を持参していた海詩は、モミジの葉を添えてデザ―トにした。これで、非日常の夕食に5度も恵まれるところとなった。
翌日の朝食は7時半と決めて、それぞれがシャワーを浴びて「おやすみなさい」。若い2人はこの後で、キッチンで何かを仕込んでいた。
翌朝、7時に妻はこの季節のサラダに取り掛かかり、差し入れることにした。Eloiseはスコーンを焼いた。海詩は果物を剥き、コーヒーをたてたようだ。私は7時15分からテラスに席を設け、パラソルを立て、妻がサラダを運んでくる前に、前回来訪時のミーシャが関わった喫茶店の看板に若き2人を案内した。
楽しい朝食になった。海詩はコーヒーがまだ許されていないようで、ミルク。
2人は後片づけをした後は、午前中は奥嵯峨を巡り、わが喫茶店で昼食をとり、記念写真に納まったうえで去った。午後は、竹のトンネルやサル山もスケジュールに入れていた。
海詩の礼状によれば、アイトワでの1泊2日がEloiseにとってもこの度の旅でのハイライトであったとか。
「残念なことをした」と思ったことがある。
海詩一家は家族でわが家に来る度に、父親のドンさんは薪割などに携わった。そんなある日、海詩は「カセドラル」を見つけた。
いつしか「ここまで進んでいる!」ということを示したく思っていたが、今回も忘れていたことだ。
4.カボチャとトウガン
今年の蔓性の夏野菜は6種にとどまった。キュウリは平年並み、インゲンマメは新種の害虫被害で惨憺たる状態で終わった。
この夏は、ゴーヤ、ツルムラサキ、そしてトウガンの3種は“自然生えの栽培”だけで賄っている。自然に芽生えた苗だけで、その苗を移植することもなく、芽生えたところで育てることにした。ツルムラサキは青菜として、ゴーヤは実を日々のごとく収穫している。トウガンは幾つかの実を育て上げて、いづれ食材にする。
問題は、どこから芽を吹くか分からないこれらの蔓性植物の栽培であることだ。その芽生えたところに、成長具合に合わせて支柱をたて、棚を組み、蔓をわせなければならず、棚は四方八方に広がりかねない。
ゴーヤとツルムラサキは、前年度に育てた実が直接畑に落したタネから吹くわけだから、発芽するところの目星も立てやすいし、たくさん芽を吹くから、余分は間引きながら育てられる。今年も、とり忘れた実が既に変色し、裂けて赤い種をばらまき始めている。
ツルムラサキは、無数と言ってよいほど種を落とすので、「都合の良いところに出た」とみた蔓は好きに茂らせてやり、翌年度用の種を落させる。
不都合なところ(ネギやトウガラシの畝など)で芽吹いた分は、肝心の作物に蔓をからませかねなくなる前に次々と抜きとって、食材にする。
トウガンは、そうはいかない。実はすべて育て上げてから食材として収穫し、台所に持ち込むわけだから、種が畑に落ちる機会がない。
その後、台所で出たタネが混じった生ごみは、堆肥の山に積まれ、時間をかけて堆肥になる。種は腐食しない。そのタネを含んだ堆肥が畑に鋤き込まれるわけで、どこにタネが鋤き込まれるかは、知れたものではない。
現に、昨年は自然生えで大豊作だったが、今年は5カ所で発芽しただけで、その内の2カ所で結んだ実が各1つ大きくなっているだけ。あと2つや3つは大きく育ってほしい。
この不安定さをなくすために、今年は収穫後ひと工夫したい。トウガンを調理する折に、種はすべてとり置いて、翌年以降に芽が吹いてほしいところにバラまいて、土中に鋤き込んでおくことにしたい。ほどよい時期にほどよく耕され、発芽することを期待することにした。
カボチャは、今のところ“自然生えの栽培”に切り替えわけにはゆきそうにない。今年は、ツルクビカボチャと白カボチャの2種を、昨年度の種から苗を10本ばかり育て、栽培している。とりわけツルクビカボチャは、絶やさないようにと気づかったが、そのおかげかせいか6本、あるいはそれ以上の蔓が茂っており、実が既に10近く育ちつつある。
問題は、ツルクビカボチャはよほど交配しやすい野菜と見えて、いずれの実も元の実の色柄ではないことだ。同じ蔓に、形がまったく異なる実をつけてさえいる。
白カボチャは、常温で2年間の保存がきく利点があり、今年も育てたがチョッとぞんざいに扱ったものだから、実はまだ1つしか結んでいない。
それにしても、シカクマメを絶やしたことが悔やまれてならない。
ちなみに、他の夏野菜の常連であるトマト、ナス、トウガラシ、オクラ、そしてモロヘイヤは、おおむね順調に育った。トマトは第2次を育てておくべきであった。ナスは、出だしはかんばしくない育ち方だったが、後半は秋ナスかのごとくに豊作になった。キュウリは、1次もうまく育ち、8月2日に第2次の苗を植え、久方ぶりに(猛暑故に)新聞紙で遮光。これが功を奏してか、5日に支柱を立て、9日に蔓を吊るした。31日から収穫期に入った。いつまで収穫できるか興味津々。
この夏の自慢は、3年ほど前に、トウガラシから巣食い始めたカメムシとの格闘。今年は野草のクロホウズキでまず見つけ、その後、ナス、ジャガイモ、そしてトウガラシではびこり始めた。そこで、このカメムシ捕りを毎朝の日課にした。30日に10匹ほど、31日にナスで3匹、トウガラシで4匹ほど捕獲。捕獲なし、の日が2~3日続くまで、この日課は守るつもり。来年度の発生具合が興味津々。
問題は、インゲンマメの食虫害問題。退治する名案が浮かんでいない。
5.第2ブル-ベリー畑の防鳥ネットと冬野菜の畝
今村さん父子の助成を得て、13日の日曜日は“第2ブルーベリー畑の防鳥ネット”の補修に取り組んだ。息子の慧生(けいしょう)さんは、大学1年生の夏休みで、帰省中だが、汗をプリプリかいた。坂地に階段を、妻がブルーベリーを収穫する時に用いて、安全度を高めるように、と新設してもらった。
昇さんと私は、ネットを被せる躯体に幾本かのパイプを配し、ありあわせの3枚のネットで隙間なく覆えるようにしたり、出入りを容易にしたり、と取り組んだ。
風通しを遮るツバキは、上部をバッサリ切り取り、日当りをよくしたい。
ブルーベリー畑の南東に生えるユスリハの背丈も、半分に縮めた。
さらに、西南からの日当り、残照をよくしたくて、周囲の立木の手入れもした。
この日は、おそがけに咲いたアザミに、タテハチョウの飛来からはじまり、生きものとしばしば出会った。
トウガンの花に抱き着くハチに、しばし見惚れた。
妻がサンドウィッチを運んで来て、「木陰で」と、勧めた。
畑では自然生えの一重の中国ホウセンカが咲き始めた。この葉がお好みのアゲハチョウの幼虫が丸坊主にしたホウセンカから、次の葉を求めて移動中も目撃。
庭ではオオタデ、さまざまな色合いのサルスベリやムクナシも咲き始めた。
25日に、3本の畝にそれぞれ、3種のジャガイモの種イモを植え付け、その肩に“コーヒーかす”をまいた。
次いで、1次のキュウリとトマトの畝の支柱も解体し、その残滓は堆肥の山に井桁に積み増し、生ゴミの穴を深くした。
その上で翌26日に今村さんを迎え、それらの畝を冬野菜用の最初の畝として仕立て直し、腐葉土を被せてもらった。いずれ、油粕や発酵鶏糞、蛎殻の粉末や木灰と一緒に被せた腐葉土を鋤き込む。
6.その他
1、粉サンショの試し使い。先月は、想うところがあって、初めて粉サンショの手作りに挑戦し、妻に嫌な顔をされた。太い指で、根を積めて、細かい作業に取り組む姿は、私には似つかわしくなかったようだ。いつもの妻なら、それは私の仕事です、と取り上げていたに違いない。男はもっと危険を伴ったり、力を要したりする仕事を受け持ってほしい、とでもいったような役割分担を、妻は相互扶助の要にしているようだ。
私の想いは、金婚式の年に満85歳の誕生日を迎えることになり、よくぞここまで、と妻への感謝の念がこみ上げた。何か有意義なことを! となった次第。
ウナギを妻は好むが、私はそれほどではない。だから、妻は食卓に、買ってまでウナギを登場させない。そこで、粉サンショを手作りで、と思い付き、心密かに土用の丑の日の翌日をねらっていた。「安売りしている」と言って、ウナギを買わせた。
「香りがよいですね」と大喜びした妻は、「来年はもっと作りましょう」と、言いかけた。だが「一度で充分」と、話題を遮った。私の関心は、工場でつくられた粉サンショが、なぜかくも安く売られているのか、とそちらに既に移っていた。
2、キンギョが次々と死んだ日々。その後も猛暑が続いた。案の定「キンギョが死んだ」と、妻が悲しげに報告した。テラスの大水槽で育てたキンギョで、瞳さんにもらったコメットと緋鮒(ヒブナ)の交配3代目で、10年近くかけて育てたキンギョだった。
「だから『大きいキンギョを2匹ほど分けて欲しい』と、何度も頼んでいただろう」と言った。妻は「なぜほしいのですか」と同じ質問を繰り返した。だから「『井戸枠水槽に放したい』と何度も言ったはずだ」と返した。妻は動かなかった。大水槽が寂しくなるのが辛いのだろう。
その後、もっと大きな1匹が死んだ、との報告があった。だから、「循環器が遊んでいるから取り出そうか、と問うたはずだ」と返した。その上で、水道のホースで水が泡立つようにして水槽に注いだ。
その後妻は、昼間は水槽にヨシズをかけたり、ホースで泡立てたりしていたが、次々と6匹の大きなキンギョがすべて死んでしまい、寂しい水槽になった。
この夏の高温は、大きいキンギョを2匹ぐらい減らしただけでは、とうてい水槽の酸欠問題は解消していなかったわけだ。また、移していたら、もっと可愛いそうなことをなりかねない(移す予定の井戸枠水槽が枯れかねない)ところだったから、妻が指示通りに動かなかったことを責めなかった。
3、ありがたい夕食を5度も
庭はカラカラに干上がり、泉の側に埋め込んだ有穴暗渠に流れ込む水も枯れたのだろう。 “井戸枠水槽”と呼ぶ底をセメントで固めていない 貯水槽が、14日には涸れる寸前になっていた。もしここにキンギョを放していたらどうなっていたことか。
この井戸枠を2段重ねにした水槽は1993年に、大枚をはたいて造った“水の自給システム”の一環だ。その後、満杯の水は常に溢れており、20数年の間は水位がさがるようなことはなかった。
その後、8月の乾期に水位が下がることが生じるようになり、驚かされた。だが、下がっても40cm程度であり、まれに巡りくる異常事態、で済んでいた。その異常が、2020年8月下旬には、ついに干上がってしまうまでになった。その折に、サワガニを見かけている。
もちろんその時は、好機到来と見て、底にたまっていたごみや泥をさらえて、掃除をした。泥は畑まで運び、古代エジプトのナイル川の氾濫時よろしく肥料として活かした。
その後、雨が降り、土が湿り、山裾の横井戸がごとき集水装置が機能し、貯水槽に溜まり始めた。だがその後、一年以上もの間、井戸枠1つ分まで水が溜まった状態で留まっていた。2つの井戸枠の境目も漏水防止の加工をしていないので、そこから漏れていたのだろう。
いつしか満杯になっていた。だが、この14日に覗いた時は底から30cmほどしか水がなく、涸れる寸前で、台風7号の雨が降らなければ、2020年8月に枯れた時以来2度目の事態に陥っていたに違いない。不気味だ。
4、竹の化粧垣根を塗装。アイトワ塾生だった網田さんに、かつて造ってもらった竹の化粧垣根が長年の風雪に晒されて、また弱って来た。そこで塗装に半日を割く日を設けた次第。
その後、網田さんと交信の機会があり、その旨を話すと「また作ったげますがな」と言っていただけた。だが、身の程を考えると、後5年も持てば十分かもしれない化粧垣根故に、気安く頼まなくてヨカッタ、とおもった。
5、3つのボンド(接着剤)仕事。今村さんの農作業用の靴の底が、接着剤がはがれて使い勝手が悪くなった。これぞ好機、とばかりに預かった。懸案の2つの品と一緒に補修日を決めた。1つは、父が若かりし頃の(私が生れていたから、37歳ごろの)汽船での中国出張時に、景徳鎮で買い求め、帰った水鉢。もう1つは焼き物の鉢飾りだった。前者は、当時はモダンな柄と思ったようだ。後者は、どなたかが金属製だと思ってか、手荒く取り扱ったようで、底を抜いていた。
父はこの水鉢だけでなく、伝統柄の大きな火鉢や“布袋さん”なども買い求めており、これらを見比べるたびに、私は「不易と流行」を峻別する大切さに想いを馳せたものだ。鉢飾りの方は、かつてのわが失策を思い出させた。それは、漆塗とメラミン樹脂を見誤って、漆塗りを台無しにした思い出だ。だから、あえて割れた跡を残した。
6、台風明け。17日木曜日は、今村さんに手伝ってもらって、台風で荒れたパーキングの落ち葉掃除にまず当たった。定休日の翌水曜日は、喫茶店は臨時休業だった。次いで、堆肥の山がある“サンクチュアリ”へ移動した。
そこはヘビや夏虫の楽園だが、あまりにも荒れており、生ゴミを堆肥の山に積みに入るのも大変だった。2人は炎天下で大汗をかき、今村さんは水をゴクゴク補給しての作業になった。私は、水をあまり補給してはいけない身体(心臓疾患)なので、炎天下で大汗をかいたが、今村さんと一緒なので安心して、給水はほどほどに控えた。おかげで久しぶりに体重は65kg代に、と1kg強減り、これで冬場の体調が良好になるはず、と嬉しくなった。
7、地蔵盆用の野菜の盛り篭。妻は嫁いできてから半世紀、村の地蔵盆のたびに、庭で調達した野菜を活かした盛り篭をつくり、お供えしてきた。
8、ハナオクラが最盛期に。下旬に入ると黄色くて大きな花が沢山咲きはじめた。オクラも収穫シーズンに入った。
9、2種目のスイレン。26日、黄色いスイレンが咲き始めた。
10、スズムシ。先月の“真砂秀朗インディアンフルート演奏” の折に、阿部さんにスズムシの子どもをもらった。妻が給餌や霧吹きなどに精を出し、もうすぐサンクチュアリに放せそうで、この庭先住の夏虫と合奏させたい。そして、いついてほしい。
11、自然生えのトマトに、妻は3度、大喜び。2本が芽生え、1本は中玉の実を結んだ。苗を買い求めて育てた分は既にシーズンを終えていたから、まず大喜び。その後、このチョット見かけが悪いトマトだが、妻は2度にわたって喜んだ。「この重さ、持ってみて」が2度目で、3度目は濃厚な味だった。この日も、庭の野菜がオンパレードの食卓になった。
12、トーモロコシ。伴さんもらったトーモロコシ。清太君が育てた苗は一代交配であったようで、2種共にまともな(種になりそうな)実を付けなかった。
13、玉子サンド。葉月の後半はリズさんの暑中見舞いに始まり、同じくアメリカから、喫茶店来訪時のお礼の便りで終わった。それは、当月記で先月紹介した「私の人生を変えた」と投稿していただいた 初訪日の Matt・Lewis さんからだった。京都で心に残った4枚の写真を添えてくださった。
実は私も、海外旅行から帰宅後、その多くは写真に納まってくださった人だが、買い物をして心に残った人も含め、礼状を送り、妻を感心させてきた。その後、こうした礼状を時々頂くようになったわけだが、2度と巡り合えそうになり人と幸せを分かち合って来たわが過去を振り返り、ヨカッタと思う。
14、もう秋だ。八重の中国ホウセンカが月末から咲き始めた。この花が咲くと、「もう秋だ」と思って裏切られたことがない。スズムシソウも咲いた。スズムシが鳴き始める頃に咲くのであれば、とスズムシの(瓶の)館に耳を傾け始めた。
15、 3日がかりになった。乙佳さんに建具の補修を頼んだ。末富さんが来て下さった。今や台風の時しか活かさない雨戸を含め、台風7号の時に、多くの不具合に気づかされていた。母屋の建具から手を付けた。
最後は、居宅の座敷になった。雨戸3枚と、網戸、ガラス戸、そして月見障子が各2枚で、計9枚だった。ジャッキも使い、重い硝子戸を外すのも大変で、乙佳さんが応援に駆け付けた。
アルミサッシの3枚の雨戸は、別の大変さが伴いそうにおもわれた。さすがは乙佳さんだった。彼女は、この雨戸は「戸袋が取り外せて当然」と気付いたようだ。この縁側を建てましたのは奥田工務店で、今は画家になっている奥田社長にも改めて感謝した。