「眼種や笑技など」。仏教に「眼施」という言葉はあるが、その「対語」は知らない。「眼施」のごとくに感じさせて、実は「対語」相当の眼であったと気付かされた時も、人は「詐欺」にかかったと気付くわけだが、この意味も含む「対語」を考えてもよさそうだ。
アメリカでは、「己にとって不都合な事実の報道」を「フェイクニュース」で片づけることが流行っている。わが国会では今、「真摯に」という言葉を「無慈悲に」という意味相当で駆使することがはやっている。困ったものだ。
それはともかく、ボッタクリ嵐山で検索可の商法は、ますます巧妙になった。かつては庭掃除道具を手にして待ち受け、掃除の途中で出くわした印象を与えながら手当たり次第に呼び止めた。今は掃除道具など持たず、「これはと思う人」に、「ここご存知ですか」と巧みな声をかける。攻守でいえば、「守」には、わざわざ声をかけてもらえた人といった「眼施」のごとき印象を与え、「攻」はその「対語」のごとくカモの特定手段として活かしている。
観光客には確かめ難い虚偽の連発はますます盛んで、小道具が変った。これまでデカデカと飾り付けて来たフランス語雑誌の記事コピーがなくなり、逆に3000円という価格をデカデカと表示するようになった。
もう一点変わったことは、呼び込み担当が3人の常連に絞られたことだ。それだけに、文句を言いそうな人を嗅ぎ分ける術を格段に高まった。
もともとは対価を採って行う研修の一環だったが、その期間はとっくに過ぎているはずだ。採用された方は、今後の就職時に履歴書には記しがたい職歴だと承知だろうか、心配だ。履歴に空白を作るのも、作らせるのも、人生にとって好ましくない。承知の上ならそれだけ真摯に評価しあった間柄だろうが、「眼施」と思い込んだ人だけでなく、はた迷惑なこととの自覚も促したい。