3人が個別に来訪。40年来の知友の来訪は3人目だったが、ありがたかった。アパレル時代に知り合った知友は、意外な手土産を添えて訪れ、素敵な余生の話からはじまった。
海外出張時に私はよくミュージアムに誘った人だ。当時は、仕事の合間の目を盗む行為と感じて気が引けたようだが、定年退職後は奥さんを誘い、美術鑑賞にしばしば出掛けるようになった、という。おかげで、サイクルヒットを期待し始めたわけだ。
まず、56年前に商社で知り合い、法務部門の活かし方を教わった谷口時彦さんが、生駒から。次いでサラリーマンを辞め、小さな会社を立ち上げた頃から30年来の大橋正明さん。そしてアパレル時代のこの知友と続いたのだから。4本目も、と期待した。
大橋さんとは、自然保護や環境問題などの会合でよく触れ合ったが、「5年ぶり?かなぁ」が挨拶がわり。その後、ビジネス界時代の勢いや情熱も心に秘めて、最後の勤め人として教員生活を送っているから「もしや」教育界での知人の来訪も、と期待した。
それまでの3本は、どれがシングルヒットで、どれがホームランかは分からないが、ともかく4度も私は職種を変えたことを振り返った。
谷口さんと大橋さんは共に、曖昧さがない人だし、厳密にものごとを分析し、自分流に解釈したり、部分的に活かしたりする人ではない。だからいつも、説明の割愛や、はしおった話し方が許されるので、気楽に話しあった。
例えば谷口さん。一通りの旧交を楽しんだかと思う間もなく、鋭い質問が飛び出した。韓国との間で生じている戦時中の徴用工問題について私見を求められた。即座に私は「これは、国際的な判断を一刻も早く求めるべき案件」と、と応えた。そして、一息入れた上で、想うところを次のようにつぎ足した。
現実を洗いさらい天下にさらし合い、国際的な判断を仰ぎ、一刻も早く清算すべき問題、と思う。それが未来世代に負の遺産を引き継がせないために下すべき判断。さもなければ、刻々と日本が不利になる方向に世界は進んでいく、と私は見る。
キット谷口さんには帰路の車中で、説明不足をうまく補ってもらえることだろう。この度も、「モリさんは、あのころ言っていたことをチッとも変えてないね」を挨拶代わりにした人だし、入社間もない頃に彼から受けた相談もそのように期待させた。
「森サンなら」といった質問だった。彼は差し押さえに出掛け、そこで遭遇した一件だったのだろう。前後の事情は記憶にないが、質問と、答えは覚えている。
彼が訪れた家は小さかった。赤子を背負ったネンネコ姿の女性が現れ、事情を知らされると、「この指輪も」などとあるだけ財産を紹介し、「旦那さんの役に立つのなら」といって持って帰らせようとしたらしい。「さて、どうすべきか」。
「モリさん、それは違うんだ」と彼は言った。「もちろん本妻のところに先に行った」。本妻は「大きな家に住んでいた」が、「これも嫁入りの時に持って来たモノ」などと言って、いろいろと隠そうとして「テカケのところへ行け」とでも言ったようだ。
「私なら(テカケからは)もらわんナ」と、詳しく事情が分からないままに応えた。彼がその後、どのような判断を下したのか、聞いてもいないし、この度も触れなかった。
大橋さんは、「ボクなんかは」と話し始めた。未来は立ち向かうものと思っていたが、森さんの場合は「向こうから近付いて来るんですか。この発想は僕にはなかったなぁ」が、挨拶がわりだった。だから、
「願望の未来は、追いかけたくなるもの」だ、と切り出し、「私もよく追いかけたくなったものですが」などとは挟まずに、「必然の未来は、見定めると、近づいて来るように感じるものです」とつないだ。キット大橋さんのことだから次のように省略部分を埋めて聞いてもらえたに違いない。「(逆に)必然の未来は(あって当然と考えて、それも人間がつくり出してしまいそうだと分かってしまえば、自ずと見えて来そうに感じられる。だから私情を抜いて)見定めると、(自ずと向こうから)近づいて来(てくれ)る(かの)ように感じるものです。(もしそうならなければ、己の下した判断のどこかにシクジリがあったのでしょう)」と言いたかった。
そして、「実は、そのシクジリ(を犯しかねない自分)が怖くて、私は『生きる理念』や『使命』を見定め、(不具合が生じたことに気付きやすくして)反省し(軌道修正し)やすくしたくて、著作に手を付けた」と付け足したかったが、これも割愛した。
なんとその後、2泊3日の旅行中にAGUから電話が入った。おかげでサイクルヒットのように4人目として教員時代に触れ合った人を迎えることになった。