10連休は、市中に1度出かけただけで、後は在宅。名医と私淑する二人の医師をはじめ、多様な来客に恵まれました。その合間は、もっぱら庭仕事に励む日々でしたが、連休最終日の6日は未来さんを迎え、2人でカラス(防鳥)対策に知恵を絞りました。
1度の外出は一日のこと。「壬生狂言」に知範さんを誘い、松浦俊海貫主と友禅染の壁画などを紹介。2日は今月初の来客で、名医夫妻と知範さん一家3名でしたが、事前に了解を得て、ダブらせ、紹介。もう一人の名医は翌3日で、2つの旅行プランを相談。次いで、未来さんが建築仲間の親友を案内。冨美男さんが「シカに泣かされている」と続き、4日は商社時代からの親友に「3世代で行楽だ」と、立ち寄ってもらえたなど。
来客といえば5日の招かれざるアナグマも数えたい。妻が朝の収穫時にその被害に気づき、昼間に2人は庭をうろつく姿を目撃。昼間も獣害フェンスの扉を閉じ始めました。
連休の後も服部夫妻をはじめ、多々来客に恵まれ、こうした合間に庭仕事に励みました。ザクロ双樹の片方の切り取り。エンジンブロアーを持ち出して落ち葉掃除。エンジンソーを持ち出して薪仕事。あるいはカシの生け垣は3回に分けて剪定、など。畑仕事は、畝を沢山仕立て直し、カボチャやトウモロコシの種をまき、ゴーヤ、オクラ、あるいはツルムラサキなどの苗も植え、5月の上旬にして畑はほぼ夏姿に。この間に、アナグマが獣害フェンスの細かい目の部分をよじ登り、粗い部分をすり抜ける姿を目撃し、愕然。フェンスをいちいち昼間も閉めていたことが、滑稽に感じられたわけです。
中旬は、朝に2人の佛教大生を迎え、夕に私は風呂の残り湯で初行水で始まりました。そして夕食時に、妻に「頑張りすぎでは」と警告され、案の定、深夜に左足モモの後ろが大痙攣。これは、翌日曜日から19日まで8日間も「庭仕事は中休み」と見込んでのことでした。それは「菊池洋子のピアノでモーツワルトを」に始まり、岡田さんに前泊願い、4泊5日の鹿児島出張などの予定が入っていたからです。そこで、苗床で発芽させたバジルの双葉をポット仕立てにしたり、温室に遮光ネットを張ったり、第2次のインゲンマメの種をポットにまいたりなど、こまごましたことも済ませておいたのです。
出張の間に、アナグマの被害はなく、太陽光温水器の新調工事が済んでいました。ハッピーはベンチをベッドに活かし始め、畑は4月24日以降雨に恵まれておらず干上がっており、ホトトギスが鳴き始め、テイカカズラなどが花盛り。しかし、妻の水やりのおかげで夏野菜は順調。ツタンカーメンのエンドウの収穫も始まり、赤飯を楽しめました。問題は、「目の敵」にしている野草に随分種を落させ、新果樹園などがまるでジャングルになっていたことです。
帰宅翌日は昼頃から雨が翌朝にかけて降り続き、1カ月ぶりの慈雨。そこで嬉々とデスクワーク。続く2日は年に1度の心臓の24時間チェック。思えばモーツアルト鑑賞来10日も庭仕事を休んだのも同然で、心がはやりました。ですから23日に知範さんを迎え、カラス対策を施すなど、月末まで連日畑仕事に精を出し、夏野菜の準備と冬野菜の種採りの袋を被せ終えました。今年はスナップエンドウが野菜の端境期に大貢献。その第1次の支柱を24日に解体。翌朝に仕立て直し、水をまき、夕刻にバジルの苗を畝に植え付けました。
この間に、知範さんはビオトープの補修で、未来さんは大量の土砂を方丈の側まで運ぶために来訪。共に豪雨対策にも有効な作業です。野田先生ご一行12人を徳島から迎え、楽しい出会いにも感謝。他に、歯の緊急治療と、妻のパスポート更新に付き合い、2度外出し、3件の海外出張の手配や相談を楽しむなど、残る年内の計画を詰めています。
~経過詳細~
この1カ月は壬生寺訪問から始まった。久方ぶりに松浦俊海貫主ご夫妻にお目にかかりたくなり、「ならば…」と知範さんを誘った。この日は、元号が「令和」になった初日。朱印を求める観光客で同寺は混雑しており、ご夫妻には大変なご迷惑をかけた。にもかかわらず、快く迎えていただき、初めて沈香を手に取り、その芳香が漂う座敷での歓談に。
話題は京都の念仏3大狂言や声明など布教文化にも広がった。次いで、狂言堂をご案内頂き、その上で幾度目かの壬生狂言だったが、初めて「炮烙割」を鑑賞。
松浦貫主は、胡錦涛国家主席に傘をかざしてもらった日本で唯一の人だろう。2008年5月10日のこと。雨の中、唐招提寺第85世長老として同国家主席を迎えられたときのことだ。その和やかな情景は今も私の瞼に鮮明に残っている。
その後、同寺にある「わが国最古級地蔵菩薩」や「友禅染の襖絵と壁画」が公開中だったので、「これ幸いに」と知範さんに紹介。あだち幸の友禅染壁画と再会した。
この作家は、友禅染仏画で有名だが、その夫が商社時代の後輩ということもあって夫婦づきあいの仲。だから、いつか作家本人を知範さんに紹介したく思った。
以心伝心か。その後、鹿児島出張から戻ると、足立夫妻から「あだち幸『不動明王シリーズ』完成」の知らせが届いていた。また、京都での個展のプレ案内もあった。再会と紹介が楽しみ。
鹿児島では、廃仏毀釈時の仏教弾圧がとても厳しかった地域だったから、このたびの出張時も、特攻基地・知覧を訪れた際に「隠れ念仏」の一端にも触れた。また、奄美にも足を延ばしており、田中一村の足跡もたどった。要は、宗教や芸術に想いを巡らせる機会が多い一カ月であった。
来客は「名医と私淑する医師」2人をはじめ、イスラエルや大阪の滞在中のホテルからそれぞれ日程調整があったうえで、ユダヤ人夫妻とメキシコ人夫妻の来訪など、多彩で多様な触れ合いに恵まれた。
イスラエルからのChanaとDavid 夫妻は3年ぶり。その間に、Davidは臥せっていたようだが、この間に、この夫婦の紹介者であった元アイトワ塾生の岡部長生さんは虹の橋を渡っており、一緒に嘆きもした。
先月、庭案内を買って出たメキシコからの学者夫妻は、まだ日本に滞在中だった。妻の人形に心を寄せてもらえていたとのことで、一体連れて帰って下さった。
このお二人とは話の輪が広がり、日本滞在中の行動の一端にも触れた。日本の伝統工芸に対する造詣も深く、素晴らしいわが国の造形作家を逆に紹介され、このお2人の目の付け所にも心惹かれるところとなった。妻も共感したようだ。
ゴソゴソっと1つの竹細工(宝物入れにしている)を取り出し、話題に花を添えた。中には、妻が母から引き継いだ宝物が入っていた。先祖のどなたかが徳島城を下がる時に分け与えられた品で、大勢の「姉妹で分けたので少しだけど」と母は言った。私はこうしたモノは1つでも充分、と思う。なぜなら、誰しもが「あれもこれも」と「コピーに群がる」時代から、「あれか、これか」と見抜く目を磨き合い「オリジナルを愛で合う」時代の到来を予感(期待)してきた私としては、それで充分、と爽快な気分になれそうだから。楽しいひと時だった。次の来訪時は「方丈」での逗留を、と提案した。
冨美男さんは、畑が「シカ(の侵入)に泣かされている」と、さまざまな花を抱えてヒョッコリ来訪。「ボタンは毒をもっているのかなあ、無傷だった」と、黄色いボタンも添えてもらえた。他に、アナベルとかガマズミなども下さった●。
このヒョッコリ来訪がキッカケのごとくに、子ども連れでは50数年来の商社時代からの親友をはじめ、タニシ持参の顔見知り、ちょっと顔がさす人など多々飛び入りの来客に恵まれた。親友は、「3世代で行楽だ…」と立ち寄ってもらえたものだが、手の離せない作業の最中で、ジックリ語らえず、残念だった。とりわけ、立派な体になった40年近く前の「ボク」と再会しながら、かつてわが家にあった池で遊んだ思い出話を直接聞かせてもらえず、いかにも残念に思われた。
10連休後の最初の来客は、元アイトワ塾生の服部夫妻だった。久しぶりに迎えたが、根気のいる看病を、この女性に施してもらっている。この女性にかくもかいがいしく付き添われている。こうした想いで服部さんを見直し、新たな一面を知り得たような気分になった。ロレツが随分回復していた。服部さん頑張れ!
身内のごとき未来さんだが、「見てください」と言って「手作りの親孝行作品」を持参。2カ月ほど前に知範さんと遠方の巨大HCを訪ねた時に誘ったが、その折に仕入れた品々を活かした作品だった。「お見事!」と、新たな気分で見送った。妻は、私が未来さんとお茶の時間をとる時は、一輪の花を添えたりする。
「アナグマの仕業よ!」と、妻は招かれざる来客を断言した。「どうして分るのだ」と、思ったが、その後真ッ昼間に姿を現し、「なるほど」になった。雑食のようで、ミミズや根菜が好きのようだ。植えて間がない若い夏野菜には興味がなかったようで、半分以上が無事で、助かった。
後日、私は畑から逃げ去るアナグマが、獣害フェンスを難なくすり抜ける様子を目撃。この様子だと木登りが上手な「ハクビシンも出入り勝手だろう」と想像。だから、この獣害フェンスは欠陥商品?!? と見てしまった。
最後の来客は30日の野田先生ご一行12人。その多くは2台の車に分乗して徳島から、2人は滋賀から車で、そして1人は電車と徒歩で大阪から、の合流だった。3時間余の勉強会の後、庭を案内した。それぞれ「流石は!」と感心すること多々の方々だったが、徳島育ちの母に育てられた私としては、とても考えさせられるところもあった。
この度初めて「有機炭素」というものを知り、とても興味をそそられた。炭素は全ての生物の構成材料であり、無水換算すれば私たちの体の2/3は炭素だし、ダイヤモンドも炭素で出来ている。炭素は多様だが、炭素14は電子が1つ増えると窒素になる、と聞かされ、興味がいやました。
勉強会は、この「味」も「収量」もよくする「有機炭素」(を活用する)農法の紹介から始まったが、これまでの炭素を活かす農法とは根本がまったく異なっているようで、なんだか革命的な可能性を予感した。
印象深かった庭仕事は、ザクロ双樹(白い花が咲き、実が無色)の片方を伐採したことが最初で、最後は29日に2度目のエンジンブロアーを持ち出した巡回路の落ち葉掃除だった。
その間に多々、悲喜こもごもの生きものとの触れ合いがあった。
その間に、2人の佛教大生(3回生で今年のリーダー石原千夏さんが1回生の黒田行祐さんを案内)を迎えている。そして、落ち葉を腐葉土小屋に積んだり、レモンブラスの鉢を所定の位置に据えたり、シホウチクを防鳥ネットの支柱の寸法に切ったりしてもらったが、「これ(上の2度目の落ち葉掃除)で、来月も落ち葉を腐葉土小屋に積んでもらうことになる」と気付かされ、その折の話題で胸を躍らせた。
この落ち葉を腐葉土小屋に積む作業と、毎回繰り返している「焼き芋」を作る準備作業を、佛教大生と(何が、どこが異なるのか、などを)比較検討し、「ヒト」と「人」の間を行き来しながら生きざるを得ない「人間」について、次回は少し時間を割いて、語り合いたく思ったわけだ●26。
サツマイモ(焼き芋)に例えをとり、おおざっぱに言えば、人間は「芋の苗の植え付け」、「芋掘り」、「芋焼き」、その上で「焼き芋の賞味」という4つの段階に関わることになる。この4つのいずれに、興味を、どのように示すか、によって「ヒト度」と「人度」が推し量れそうに思われるし、AI時代での適応度も推し量れそうに思う。
カシの生け垣は3回に分けて剪定した。妻と2回目の剪定中に未来さんが通りかかり、興味を示し、そこで2回目は中断し、作業を残した。そしてその後、未来さんを交えた3回目の実施になり、未来さんはとても喜んだし、その父親に「娘が何時もお世話になって」と感謝された。そこで、考えたことが「ヒト度」と「人度」の課題であった。
4泊5日の鹿児島出張に出かける前に、遮光ネットを温室に張っておいてヨカッタ。またヒメリンゴには畑から(農作物に農薬がかからない方向から)殺虫剤を噴霧したが、それもヨカッタ。戻ってみると、姫リンゴ(大垣時代の記念樹の1本)は部分的に虫害被害に遭っていたし、妻は温室仕事にも励めたようで感謝された。
5日の留守をしたオカゲだろうか、ドクダミはもとより、テイカカズラをはじめ、ヤマボウシ、カメリヤ、あるいはマーガレットなどの白い花(夜行性の昆虫が好む)が、この時期に花盛りなることに初めて気付かされた。
改めてビックリは、フジが蔓を好き放題伸ばしており、翌朝散髪。
また、新果樹園などはジャングルになっていたので、早速切り拓き、堆肥の山に生ゴミを投入しやすくした。そこで「それにしても…」と考えた。出張には、生ゴミバケツを空にしてから出かけたとはいえ、妻は5日の間を、堆肥の山に生ゴミを積まずに済む食生活をしたわけだが、と考えさせられてしまった。
庭の生き物との悲喜こもごもの触れ合いの事例を6つ。まず、妻がオリーブの虫取りに励んだが、カラダは老けたが、ますますかけがえのない「人」になった、と感じた。
次ぎは、ニイニイゼミのサナギを掘り出し、慌てて安全な場所に埋め、キンギョが飛び出して死んだと聞き、防止策を思案した。
そして、妻は未来さんに見せたくて、サザンカの病気の葉と、クモの産卵塊(?)の1種を見つけた。後者では「蜘蛛の子が散るように」のタトエを実感させようとしたようだが、既に空だった。
最後は、随分多くのアリに迷惑をかけた。風呂焚き用の竹の燃料も用意したが、古竹を巣にしていたアリを慌てさせた。
畑仕事は、畝を沢山仕立て直し、カボチャやトウモロコシの種をまき、ゴーヤ、オクラ、あるいはツルムラサキなどの苗を植え、5月上旬にしてほぼ夏姿にした。
この「ほぼ」という意味は、冬野菜と夏野菜の端境期を埋める作物、スナップエンドウやタマネギなどがまだ健在であるからだ。それらの畝を片づけた後で、シカクマメやモロヘイヤなどが茂るようになれば、完全な夏姿になる。
しかし、既にアイトワ菜をはじめ長けて種を結んだ冬野菜を、種採り用(防虫袋を被せる)と、小鳥の取り分を残し、あとは堆肥の山に積んだことだし、キュウリの畝には既に捕虫網(キュウリの葉を襲う虫などが飛んで逃げる所を捕獲する)が立っており、まるで夏の様相だ。だからほぼ夏姿だ。
未来さんは、腐葉土の取り出しを受け持ち、コイモの植え付けに参画した。このコイモの畝に積んだ腐葉土のミミズを狙って、アナグマが月末近くに襲った。
ちなみに、今年の冬と夏の野菜の端境期は、スナップエンドウと葉タマネギが随分活躍した。わが家での葉タマネギは、若採りではなく、薹が立った悪しき分(肝心の玉ねぎが太らない)を抜き去って野菜として活かす。岡田さんに前泊願った折は、葉タマネギのヒゲ根を捨てただけで、あとはすべて調理した。つまり、タマネギのネギ坊主も天ぷらの具に生かした。
葉タマネギのよき調理法を妻が編み出した。来年は薹を立てるタマネギが今年のように現れなくとも、正常な分を早採りして、葉タマネギとして活かすことになるだろう。その味をシメてしまった。
「味をシメた」で言えば、この度も、セロリに薹を立たせてから採った。また、年に一度は、とヤブガラシも収穫し、ヌタを楽しんだ。さらに、採りたて・つきたての草餅を、とヨモギ摘みにも励んだ。
5日間の留守をした間に、ポット仕立てにしておいたバジルの苗はうまく育ち、刺し芽にしておいたトマトの脇芽は根づき、順調に育っていた。そこで帰宅後、第1次スナップエンドウの跡を仕立て直し、植え付けた。これは、5日間のブランクをうまく活かしたケースだが、次のようなシクジリもある。
畑では「目の敵」にしている4タイプの野草との戦いがある。1つはカラスビシャクとカタバミで、共に土中深くからでも芽を吹くし、球根にはたくさんの無性芽を付け、それを不用意に落とさせると、大変なことになる。だが、この時期は、まだ注意して掘りだせば、無性芽をばらまかせずに済むので、帰宅後も随分精を出した。
2つ目のタイプは、根をはびこらせて増えるタイプで、ドクダミやスギナだが、ともに根を深くまではびこらせるので、根治することは諦めており、むしろ土中深くにもぐった分を掘りだす度に「2つ目の喜び」まで満喫することにしている。それは、深くまで土をまだ掘り返せた、との喜びだ。
問題は3つ目のタイプ。種を結び、ばらまく種類で、スズメノカタビラ、ヒメジオン、オオバコ、そしてスズメノエンドウなどの類だが、出張中に、ヒメジオン(は背が伸びて花が目立ちやすく、また種を結ぶまでに開花後時間がかかるので抜き去り易く、あと2年もすれば退治出来そうだ)を除き、随分種を落させてしまった。
最後は、胞子で増えるシダ類だが、畑だけでなく、庭に出る分も、ワラビ、ゼンマイ、そしてコゴミを除き、今年から大幅に抜き去り、減らし始めた。
この夏は、畑での野生生物との戦いで画期的な年になりそうだ。テグスを用いるカラス対策に初めて本格的に取り組み、この策だけでカラスの被害を防ぐことにした。だから気分はすっかり夏バージョンになった。
テグスを用いるカラス対策は、ずいぶん昔に思い付き、初年度は抜群の効果をあげた。その後も、カラスの落ち羽を拾っておき、疑似カラスとうまく併用させることでカラスの被害を受けずに済ませた。だから「カラスは賢いから、逆に…」とこのアイデアを自慢げにずいぶん吹聴したものだ。だが、幾年かで、賢いカラスに見破られがちになり、テグス作戦は諦めていた。
この度は、黒色のテグスがより効果的と聞き、またある事情もあって、再度試みることになった。それは、テグスを知恵比べ方式ではなく、物理的方式で活かし、恒常的なカラス対策として(手を付け、2年ほどかけて)施すことにしたわけだ。要は、脅し程度ではなく、畑の全面を十字に張ったテグスで、カラスが飛び込めないようにする作戦だ。
そのために、知範さんに切り取ってもらったシホウチクを活かす。未来さんとテグスの張り方を検討し、佛教大生にシホウチクを「支柱の寸法「」に切ってもらう。さらに、知範さんに、温室の側面に、テグスを止めるフックを取り付けてもらう、などの準備をしてきた。
他の、畑での野生生物との戦いは、アナグマだが、その被害は致命的ではなく、妻はむしろ目を細めており、真剣には取り組んでいない。
外出は、壬生寺訪問、「菊池洋子のピアノでモーツワルトを」を鑑賞、そして4泊5日の鹿児島出張の3件は楽しかったし、有意義だった。菊池洋子は、ご本人がいかにも楽し気に演奏されるので、魅力的。奄美での2日間は、両日共に各2つのハプニングに恵まれ、これぞ「旅の喜び」を、満喫した。
まず初日、岡田さんを田中一村終焉の地に案内したくて訪れたが、今は真の終焉の地から少し離れたところに設えられている。だから、2重の意味で見る影もない。なぜなら、位置だけでなく住まいの間取りから異なっており、朽ちるにまかされていたからだ。田中一村理解に何ら供しない。
だが、岡田さんのおかげで、最初のハプニングに恵まれた。少しさかのぼったところにある小屋を岡田さんは覗きに行き、そこで一人のキーマンと出会ったからだ。
呼ばれて駆けつけた私は、その人・中田貞光さんから新事実と思われる情報を得たし、2つの学びまで得た気分になった。
奄美は私にとって3度目だったが、最初の鹿児島港から夜行フェリーで妻と訪ねた折をありありと思い出した。だからこの度は、帰宅後最初に妻に話しかけた旅行記は、「あの天井から(節のある)ロープをぶらさげた人に会えた」だった。また、中田貞光さんは、「田中さんに(布団から起き上がる時に)『助かります』と感謝されました」と語ったが、それも妻に伝えた。
そのロープは、妻だけでなく、一村の最後を見届けた2人の青年(当時)江田さんとAさんも、当初は首を吊る準備だと誤解したものだ。
中田貞光さんは、地元の人として一村の終焉に最も身近に関わった人、のようだ。一村が脳の疾患で倒れたときに関わり、一村をその布団に寝かせた人のようだ。一人で起き上がりやすくするために天井からロープをぶらさげ、感謝された、という。一村がどこで倒れ、いつ発見したのかなどは(今となっては要点とは思われず)聴き洩らした。
その(天井から中田さんがロープをぶらさげた)あばら家(私たち夫婦が訪れた時は、そのまま残っていた)は、区画整理で取り除かれたが、その跡地に案内してもらった。「あそこに穴を掘って」と、(一村の死後)多くの遺品(ガラクタ)を埋めたのも中田さんだった、という。中田さんがアカショウビン(一村が好んで描いた小鳥)を空気銃で撃ち落としたことがあった。そうと気付いた一村は「欲しい」と所望し、大事に持ち帰ったらしい。中田さんは、一村が天眼鏡で羽を一本一本確かめる姿を想像しているかのように、語った。
つて私はのAさんと江田さんから、一村との付き合い(私淑した)に始まり、遺品の処分に至るまでの詳細を聴かせてもらった。また、江田さんのお宅に訪ね、捨て去るのが惜しくなり、取り置いたという遺品も見せてもらった。その折(1995年11月25日)に「どうぞ」と分けてもらった遺品のごく一部を保持している。そのころの事情をそこそこ知っている私としては、なぜか悔しい思いもした。
一村が生きて今にあれば、中田さんをはじめ、江田さんやAさん、あるいは一村が散歩の都度に立ち寄った陶芸店のご夫妻などに感謝し、大事にしたに違いないが、そうした人たちが、今ではかき消されかねない立場になっている。
新たな一村終焉の家には、一村がゴーヤなどを育てた畑を模して作っていないし、逆に大勢の観光客を受け入れ得るスペースを用意していた。どうして一村の人となりを後世の人に正確に引き継ごうとしないのだろうか。
歴史はこうして作られるのが常かもしれない。だが、最初の訪問翌年から、わが家では一村が毎年育てたというゴーヤを育て始めた私としては、釈然としないものがある。
2つ目のハプニングは、徳浜の断崖まで岡田さんに案内してもらった際に、岡田さんにつられて立ち寄ったアメリカン・カントリー・喫茶店で生じた。そのオーナー夫妻の人生と余生に感じる所が大きかった。パンくずで小鳥を手なずけ、今もオートバイで本州のこれと言った美術展に駈けつけている、という。
3つ目は、これも岡田さんの提案で、古書店に立ち寄ったおかげだ。ゾクゾク、ワクワクするような衝撃を受け、思わず店の主人に余計な話(生涯で2度目の体験)を披露してしまった。1度目のワクワク、ゾクゾクしたのは個人の書斎だった。その時に「多様」と「雑多」という言葉の峻別をし始めた、と言ってよい。
この思い出話がヨカッタようだ。主人は立ちあがり、一冊の本を取り出して来て、エフのあるペイジを広げた。
この店を、福岡伸一が(あるエッセー集で)、「福岡ハカセがこれまでに、いいね! と思った三つの書店」に触れており、ここ「あまみ庵」を、京都の某有名店とサンタモニカの某書店と共に揚げていた。「なるほど(と得心し)、私(の感受性)もまんざらではないんだ」と嬉しかったが、もっと嬉しいことはこの後にあった。
その古本を、思ったより高い値であったが、「思い出の一筆」を求めたくて買い求めた。オカゲで、主人の多様な値打ちに触れることができたように思う。その1つは、令和になって16日目の事だったが、一筆に「零和元年」と記し、「ゼロサム元年」とシャレた品性に触れたことだ。大げさだけど、こうした時に私は「人」であってヨカッタ、と感じる。
4つ目は、爽やかな青年との出会いだ。2泊目はリゾートホテルで泊まったが、広いレストランは(オフシーズンで)ガランとしていた。この若者一行3人が奥隣りの席を選んだ。そして岡田さんが、ほどなく声をかけた。おかげで語らう機会に恵まれ、茅ヶ崎から来た青年だと知ったが、勤め先で山羊のチーズを造っている。いずれは、それを私的に極めたい様子、と見た。その上に、この人の旅の動機は、きっと私がかつて幾度か割いた時間と似たようなことしているに違いない、と勝手に憶測し、微笑ましく思った。
これら4つのハプニングは、いずれも「人」との出会いだが、いずれの人とも再会したい。
外出と言えば、他に2日がかりの病院の内科、突発事態が生じての歯科医、そして妻のパスポート更新に便乗して、の3件があったが、それぞれ想うところを異にした。
病院は持病との戦い。歯の突発事態は加齢との闘いだが、もっと歯に関していえばその後深刻な自覚を促されるす事態を体験している。その度合いの認識は翌月回し。
持病や加齢を自覚しておりながら、あさましいものだ。「5年用で充分」という妻に「10年用を」と勧めただけでなく、私は(ほぼ1年を残す有効期間を返上して)新たに10年用パスポートの発給を申請した。もちろんこれを最後の…と思っている。
あさましい、という点で言えば、太陽光温水器の新調工事もその1つだろう。外出中に終わっていたが、ここで付記したい。
前回分は30年ほどもった。同様に持つものであれば、随分無駄なことをしたことになる。そこに、己のあさましさに始まり、もっと広いあさましさを感じるからだ。
わが家では、イザという時のために風呂にはガス給湯設備も備えている。この給湯器を来客はシャワーで利用するが、私は一切使用していない。だが、これをこれから活かせば、あるいは薪は腐らすほどあるのだから、薪で夏も焚けば、太陽光温水器の新調は不要だった。だが、私の残る寿命の何倍も命がある機器を設置した。
あさましい、と感じるのは、資源を無駄にしかねないと感じながら新調したことだ。それは国の問題だ。国が資源を循環させる「インダストリアルエコロジー」システムの国家にすれば、無駄にせずに済ませられるだけでなく、世界の優になり、日本を豊かにしうる。にもかかわらず、国はまだ大量生産を大量廃棄に結び付けさせている。問題は、国にその気がないことを知りながら、独りよがりのようなことを私はしている。これをあさましいこと、と思う。
あさましい、という意味で言えば、私たちは大変な国に居合わせている。当月の新聞でも、そのように感じざるを得なくなり、切り残したくなった記事が幾つかあった。総理はあさましいが、それを容認している私たちはもっとあさましいのではないだろうか。
5日間の留守をしていた間に、ハッピーはベンチだけでなく屋根の上をベッドに活かし始めていた。このようなことを思いついたイヌを飼ったのは初めてだ。
畑ではツタンカーメンのエンドウが収穫できるまでになり、赤飯(ツタンカーメン王は、保温式炊飯器がなかったから知り得なかったはず)を楽しめた。
知範さんはビオトープの補修に手を付けたし、未来さんは「方丈」の側で用いる大量の(袋詰めの)土砂を運び終えた。6月の大雨が降る前に、2人は共に豪雨対策にも有効な作業に取り組み、何かを身に着けることだろう。月に1度の佛教大生だが、今年度入学者を迎え始めたが、彼ら彼女たちにも同様に、何かを身に着けてほしいと願う。それらは次代を楽しく逞しく迎えるコツであってほしい。
若者には、なんとしてもこのコツを会得して、これからの人生(自己責任能力と自己完結能力が必須になる時代であり、「ヒト」が「人」として、汎用性ロボットを駆使しなければならなくなるはず)の足しにしてほしい。さもなければ、特化型ロボットが普及しただけでリストラに泣いたようなことの二の舞になりかねない。