目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 来世では、植物学も趣味にしたい
2 ヤギに会いに行ってヨカッタ
3 幸せって、何だろう。桃源郷であってほしい
4 「QUIET AREA の動き」に、同感と不安
5 長堀さんは、民間外交官だ
6その他。「断つ幸せ」を噛みしめた、など
一病息災の身でこの酷暑、無事に過ごせるのか
葉月は、5時10分にノバトの"求愛唱"で目覚め、ツクツクボーシの初鳴きを機に起床、で明けました。上旬は、雨の1日で暮れ、早く床に着いていながら、22時にガバッと起き出しています。ある安全装置が気になったのです。パンツ1枚になってテラスに走り、結果、安堵して戻り、ビショ濡れの身体を拭い、寝直しました。高いびきをかいたに違いありません。
テラスは水浸し寸前でした。豪雨用排水ポンプのスイッチを即オンにできたのです。妻が、傘をかざしてあとを追ってきました。「ありがとう」と褒めることを忘れ、日本を危惧し始めています。この旬は8日を挟んでいたので、多々トピックスに恵まれています。
まずそれは、8日に「ヤギに会いたい」と妻が言い出したオカゲです。他に、1日は、スイカを初賞味と、歯の治療で感心。2日、昇さんが、温室に地植えし、巨大になった2本のツタを処分。私は妻とニラコーナーを除草し、獣害フェンスに張った防鳥ネットの効果を確認。3日、PCのデスクトップで「これぞ、桃源郷」と感激。他に、システム電話の緊急用バッテリーが、猛暑でダウン。久しぶりに大沢3兄弟が、揃って来訪。4日「これはこの庭に残したい」と、ある1鉢を仕立て直す。5日、燃やすごみと古紙出しで主導権を握る。堀田さんを迎え、相談事。TVで映画『太陽の帝国』に関心。6日、ブルーベリーを妻が初収穫。8日、野生のナシが1つ、庭に落ちており「?」。玄関でセミの抜け殻を見かけ、「案の定」と、得心。伴明さん一家の健在に触れ、安堵。9日 “「匠」の祭典”の打ち合わせで、「この人は、詩人だったんだ」と感動。そして10日、TV番組で、久しぶりに青木理さんの意見に触れ、共感など。
中旬は、例年、青菜に不自由する時期ですが、妻が「庭の野菜だけで」と、喜んだ朝食で明け、アリコさんのレッスン日で暮れたようなものです。異常な炎天続きで、一病息災の身で、無事に過ごせるのか、とチョット心配もしています。それだけに、大汗をかく庭仕事の日を、週に2度も3度も挟めた幸せを噛みしめました。それは“朝一の畑仕事”に加え、昇さんを迎えた日は、夕刻まで一緒に付き合う習慣を、と工夫したオカゲです。加えて、今年はツルムラサキだけだなくモロヘイヤまで自然生えし、大繁殖したおかげでしょう。
こうした日々の合間に、ウオノメで苦しむ妻を見かね、内田病院に連れて行き、「流石は」と感心。その後、知範さんに月記原稿の引き継ぎ。大井雅之さん一家の事業安泰に、安心。池田さんを迎え“抹茶ラテ”の撮影。15日から昇さんを3日連続で(土日は息子・彗生君同道で)迎え、大仕事に取り組んでもらえた。他に、これぞ「老境の幸せ」と感じるラッキョウに恵まれた。お向かいさんから「QUIET AREA の動き」を知らされ、同情、但しチョット不安に。NHKのTV番組『シュミレーション』を鑑賞し、日本の体質を追認。敗戦後80年の報道に多々触れ、わが国の自虐性を悲しむ。劉穎さんの元気を知って安堵。さちよさん一家の来訪。そして10日に、ある判断と提案の一文を投函できる幸せ、を実感しています。
「今頃に」と思いながらインゲンマメをまくことで下旬は明け、酷暑の月末は、テラスで大鉢の仕立て直しに始まり、大焚火で暮れました。この間は、激しい夕立交じりの記録的猛暑と、一雨ほしい酷暑の日々でした。でも、次のようなトピックスがありました。義妹の送迎で歯の治療に、道中でクスッ。昇さんは大剪定、妻は焚火、私は獣害ネットの蔓取りにそれぞれ専心した1日。見事な黄桃に感謝。スモモのケムシ退治。自然生えのネギ苗を初の養生。8年ぶりに、キノコのスケッチ。フジの第2次剪定。ツアーガイドの長堀さんの来訪。喫茶店で、彗生君が初バイト。その上に、陳父子の来訪など。なんとか酷暑を克服できました。
~経過詳細~
1.来世では、植物学も趣味にしたい
確か4年前だった。予期せぬ“見事な鉢植えの花”に気付いた。葉がなくて、ピンク色の花を、鉢一杯に30ほど咲かせており、とても目を引いた。だが、満開期を過ぎていた。しかも、この花をつける球根を、私には植えた記憶が、どうしても思い出せなかった。
翌年も、満開期を過ぎた頃に咲いており、残念におもった。それは目立たないところに、この鉢を置いたままにしていたセイだ。シカが庭に侵入していた頃のことで、シカに襲われて、花は望めないもの、とあきらめていたから、だろう。
ようやく2年前の夏に、葉がなくて、花だけ咲きそろいかけた鉢に気がついた。嬉しかった。急ぎ木陰に、それまで放置していた環境にならって、デビューさせている。Googleレンズは、ハブランサス・ロブスタスだと教えた。
確か、昨年の暮れであった。この鉢をひっくり返して球根を取り出し、5つの鉢に分けて、植え直している。大きい球根は、4つの丸鉢に分けて。残った小さな球根は、長鉢にまとめて、それぞれ植え付けた。この5つの鉢を、日当たりがよい“コンクリプール”の上で養生させた。あの嬉しかった花の姿を、多くの人に観てもらいたくなったのだ。
先月8日に、期待通りに1輪咲いた。他の鉢でも、蕾がたくさん立っていた。その姿は意外なことに、2年前とは違って、いずれの球根も葉を残していた。
その後、花は次々と咲き、最初の1輪から28日後の当月11日には、長鉢に植えた球根も花を幾つか咲かせていた。この間に、1つの丸鉢では、土に混じっていたのだろう、トウガンが自然に生えたり、ハナオクラが芽吹いたりしていた。
この22日に、これらの鉢の草抜きをした。ハナオクラも抜いた。追肥をして球根を太らせるためであった。なのに、なぜかトウガンの蔓だけは残していた。
この間の16日に、ナツズイセンが別途、大きな鉢で咲き始めていた。この鉢では、初夏には葉がたくさん生えていた。だが、1か月ほど前に、そのすべてが枯れた。その後、5つの球根が一斉に花芽を立て、グングン育ち、それぞれ複数(平均、5つ)の蕾をつけた。
翌17日には、1球目の球根の5つ目の花と、2球目の2つの花が咲いた。
18日には、5つの球根がすべて花を咲かせ始め、翌日には満開の様相となった。
そこで、22日に、この鉢の草も抜いて、追肥。球根の養生を期待した。問題は、葉を太らせる葉をいつ芽吹かせるのかさえ、正確には記憶していなかったことだ。
これらの花と並行して、タカサゴユリが、次々と花を咲かせている。計8球が生き残っていた。かつてはタカサゴユリだらけの庭、の時期があった。庭木が育ち、その日陰が8球にしてしまった。
今年は、種をたくさん採って、増やそう。
その後、28日に、ナツズイセンが2つ蕾を立て、ハブランサス・ロブスタスが花を1つ付けた。第2期の花だ。後者は、翌日には複数の花を咲かせていた。
「それにしても」と、思う。ナツズイセンは月末になっても未だ葉を出していない。いつ、葉を出して、球根を太らせるのか。他方、ハブランサス・ロブスタスは、かつてはナツズイセン同様に、葉がない状態で蕾だけ立て、一斉に花を咲かせていたわけだ。この度は、葉をつけたまま2期に分けて、花を咲かせている。どうしたことか?
生まれかわれたら、もっと真剣に、植物と付き合いたい。
2.ヤギに会いに行ってヨカッタ
「ヤギに会いに行きたい」と妻が言い出した。ブルーベリーの実を初めて妻が摘んだ翌日の、8日の朝食後のことであった。“思い立ったら吉日”とばかりに、急ぎ電話を入れて、訪ねることにした。
10時につながり、「これから…」と言って、飛び出した。車なら10分ほどでたどり着く。前回招かれたのはタケノコの季節であった。にもかかわらず、妻は前回、車を停めたところを覚えていなかった。道路沿いの、お宅の前の一角なのに。
その横に、入り口がある。門扉はない。10mほどを踏み込んだ所に、木造のドッシリしたお宅が建っている。引き戸の入り口が2つあり、老舗の造園業者にふさわしい造りだ。左側の入り口は、土間から奥座敷へとつながっている。前回は、右側には独特ののれんが掛かっていた。
2度のチャイムを押したときに、奥の方から壽子さんが声をあげ、駆けつけて下っさった。右側の引き戸が開いた。布帛の青っぽい色のシャツは、汗で背中が濡れていた。
招き入れられた土間には、10人ほどが会し得るテーブルがある。向かって左の壁面には階段とその下には簡易の調理場がある。奥の壁面には植木畑や作業棟に通じる通路と、その右に瀟洒な畳の間が控えている。右面は別室につながる廊下とL字型の大きな本棚が、この土間の正面の、入り口の横の窓のあたりまで伸びている。
前回は、この本棚の蔵書に、とても心惹かれた。芸術や工芸関係の書籍が大きなスペースを占めている。
この度は、この土間を改装された主たる目的を知り、さらに心惹かれた。何かにつけて集い、相談し合える女性仲間との集会の場にもなっていた。おそらく、遠方の方は自炊で宿泊もされるのではないか。そして、片端から蔵書を開き、読みふけったりされるに違いない。
冷たいお茶と茶菓子で英気を取り戻した。妻はもどかしげに、ヤギに会いたがった。
広々した植木畑は、今や幾本かを残して草地になっており、ヤギは幸せそのものに見えた。
前回はユスリハの大きな木に目が留まった。今回は「これは、“学問の樹”では・・・」と、おもわず問いかけてしまった。
「岡山の閑谷学校のは、赤と黄色に染まりますが」これは黄変する方の櫂の木だ、との答えが返ってきた。岡田さんに、閑谷学校に「連れて行ってもらっておいてヨカッタ」。日本初の、庶民も対象にした藩校だった。
ヤギは、この木の葉を、とても好むようだ。苗木は、2重の太い鉄線の網で囲われていた。
壽子さんに倣って、妻はヤギのブラッシングに興じたり、「女の子ネ」と言って喜んだりして、堪能していた。子どもの頃にヤギを飼った無医村を、忍んでいたのかもしれない。
今年はミカンの生り年らしい。大きな焼却炉があった。用途は聞き洩らした。
この日が私の誕生日だと知った壽子さんは、感慨深げに「息子の命日です」とおっしゃった。循環型の庭造りに取り組んでいた後継者で、ご期待のご子息だった。
奇縁であった。忘れえぬ日にお訪ね出来た喜びを嚙みしめながら、お暇した。
たどり着いたときに、車を反転させておいてヨカッタ。炎天下なのに、壽子さんは最後まで見送って下さった。
3.幸せって、何だろう。桃源郷であってほしい
この疑問と願いは、3日の未明の4時3分から始まった。デスクトップで「これぞ桃源郷!」と観た丘陵地の、茶畑に触れたことがキッカケであった。
この日も日の出を待って、庭に出た。この日は、朝飯前の一仕事は、早めに切りあげた。昇さんを迎える日であったからだ。終日付き合いたいので、体力を温存した。
朝食まで、再度PCに立ち向かった。分かったことがあった。デスクトップに同じ画面が出ていたからだ。中国は福建省の光景であり、色とりどりの花木は、花モモではなく、「なんと!」サクラであった。飛んで行きたくなった。
「井戸だろうか」「実生で育てたのだろうか」。この茶畑の仕立て方は「誰が、いつから、始めたのか」。電気は来ていないようだ。井戸らしきものは他にない。など。
さまざまなことを思案しながら、前月分月記の添削に入った。この日の昇さんは、畑の周辺に生えた野草の始末から着手。私は、温室の西側にある畦道で(成長したジンジャーが倒れ掛かかったり、シュクコンソバや野草が茂ったりして、うっそうとしていた)、草刈りに手をつけた。
畦道が通った。オクラが花を1つ咲かせていた。この1つを、種を取るために残そう。その奥には、シュクコンソバが茂っている。
これも、分別しながら刈り取った。新芽は食材として厨房に。徒長した部分は堆肥の山に積み、根に近い(発根しやすい)部分は竹やぶの日陰に捨てる。畦道は、石畳道(ここから西に向かってイノシシスロープが始まる)まで通じた。昇さんは、午後は、イノシシスロープ沿いの剪定に着手する。私は次に刈る草場を探そう。
この猛暑下の草刈りの合間に、一陣の涼しい風が吹いた。その昔、こうした風を、母は「極楽の」ではなくて、「地獄のあまり風」とつぶやいたことを思い出した。「この夏は、越せんなぁ」とも、よくつぶやいた。年々、暑くなりかけていたわけだ。
「そうだ、」とばかりに思い出したことがあった。月記のために、追加の写真が必用だった。若いクロホウズキと、自然生えしたカボチャだった。共にとらえた。
この日、わが家の電話システムのバッテリーが、猛暑でダウン。夕刻、昼間に撮った写真をPCに取り込んだ。その時に、桃源郷の写真を見直した。よく見ると、色とりどりのサクラ並木の道は、舗装されていた。
“農家楽”ではないか、と疑った。観光客目当ての植栽であったのかもしれない、と不安になった。
摘んだ茶葉を、馬車で運ぶための舗装であってほしい。
いずれであるのか、飛んで行って確かめたくなった。
問題は妻だ。「どうして、そうまでして」とか、「その間に、私はいなくなっていますョ」などと、むずかるだろう。その説得だなァ、と困り果てた。
思い出したことがあった。その昔、インドネシアで出会った少女や、その村の姿であった。
インドネシアは、ジャバ島経由でロンボク島まで、ある専門学校生の引率に同道(非常勤講師の自費参加)した。1991年の暮れから新年にかけて、であった。当時、ロンボク島は未開の地で、観光開発を手掛け始めた人の世話になった。その起点に選んだ民家で主に逗留し、その一帯での研修であった。
次いで、その後、中国は雲南省の“農家楽”で触れあった人たちを思い出した。
それは、2006年から2年かけて“農家楽”の研究に参加できたおかげだ。“農家楽”とは、中国政府が推し進めるプロジェクトであった。少数民族(貧富格差に追いやられていた)の生活の活性策であった。その研究者に、オブザーバー参加させてもらった。
既に中国では、多くの人が“欲望の解放”に狂奔し、それがために拝金主義を蔓延させ始めていた。地域や職場などでの文化よりも、金銭で換算できる豊かさに目を奪われ、所得格差が問題になっていた。それは同時に、アメリカのありように、寸分たがわぬ複製品や、四角い建物などに憧れる、いわば“不”自然崇拝主義に汚染される過程であった。
わが国でも、似たようなことがあった。自然豊かな地域の人々が、みそ汁一杯から手作りのオリジナル生活に馴染んでいることを卑下し、都会の人を迎えると「何ーンもないところですが」となげいたものだ。
中国でも、お金さえあれば、誰にでも手に入るモノや生き方に憧れ始めていた。だが、“農家楽”で先行して、モデルと見られていた村では、疑問を持ち始めた人が出始めていた。
そういえば、1990年代初頭に、私はロンボク島で、とても心配したこと(文明国の悪影響)があった。その心配を収録した拙著(1994年『このままでいいんですか』平凡社)を取り出した。
読み直した。幸せって、何だろう。
この日、採り遅れたナス(種が固くて、おいしくない)で、食卓を妻は賑わした。
4.「QUIET AREA の動き」に同感と不安
外国人の“お向かい”の人に、過日立ち話を求められた。市のしかるべき幹部から、私的な“要望”を問われる機会があったようだ。静かな居住空間であることを求めている旨を、“現実問題”として答えたようだ。その後、当自治会内のある“邸宅の保有者”と相談したようで、行動に移そうとしていた。
この要望の是非を問われた私は、是、つまり賛意を表明した。おのずと、半世紀以上も前から重ねて来た“過去の努力”を振り返った。この町内では、自治会としてのコンセンサスを尊重し、住民総会を重ねるなどして、こうした問題に積極的に取り組んできた。この成果をあげるために、先代の常寂光寺の住職は、しかるべき(単年度では片付かない景観や環境問題など"永年問題"の善処に当たる)永年組織を立ち上げ、その長となり、私もその副の立場に選ばれてしまい、多大なる努力を傾けてきた。
その主たる仕事は、残念ながら、市が目こぼしする当地域での不法建築などの監視や抑制などであった。常に、「ここは日本の名勝地(国民の財産)の1つであり、今や世界の名勝地であれ、との認識を住民のコンセンサスにして努力し、成果をあげて来た。時には、不法建築者だけでなく、市の恫喝にも耐えなければならなかった。
お向かいは、その“成果(風光明媚や騒音の少なさなど) ”に惹かれ、あこがれて移住して来たに違いない。だが、お向かいが移住してきた頃には、先代住職は帰らぬ人になっていた。また、お向かい同様に、新しい住民が増えていた。
その後、紆余曲折があったが、しかるべき立場の長の座をさかんに熱望する“帰郷人”が現れた。そこで、当自治会の文化を尊守すること。文化を守るために個人的な苦渋も覚悟すること。私はその文化の維持に努めるために「顧問になって、助言に勤める」、だから、加齢を理由に、副の座を返上させてもらいたい。この4つの条件を帰郷人も聴き入れたので、しかるべき長の座に就くことを私は了解し、その活躍を期待した。
この新しい長になった帰郷人が翌年、輪番制で1年任期の自治会役員の長の座を自薦して兼ねた。時同じくして、自治会として堅持してきた文化に沿わない事例が多々生じ始めた。私は、帰郷人にしかるべき座にふさわしい活動をするように、しばしば注意を促した。だが、1年任期の役員会だけで永年問題まで、文化に反して(永年組織を招集せず、永年組織と自治会の合同会義や総会も開かず)片付け始めた。私は出る幕がなくなった。
ついに帰郷人は、かつて自治会が決定的な成果をあげた(不正を正した)ことを示す証拠物件を、それを勝ち取った相手にうながされたようで、廃棄する旨を表明した。その場、新旧役員引継ぎ会に私は呼ばれていたのを幸いに、反対を表明した。また、永年問題の判断は、自治会の総会で決するのが文化であることを訴えた。にもかかわらず、帰郷人は後日独断で廃棄していた。しかも、その廃棄費用を自治会の経費で賄っていたことを回覧板で知った。その物件は、自治会の文化を守り、勝ち得た誇るべきシンボルであった。
文化を無視した事例が多発するようになった。お向かいは、この文化の熟知や維持には意欲が湧かなかったようだ。帰郷人とは親しい間柄だが、この現実問題を提起していないのであろう。文化に沿う永年組織の集会は招集されていない。やむにやまれず、個人的な動きに出たようだ。
程なく、「QUIET AREA」である旨を訴える複数の看板が、お向かいが住まう住居に至る道中や、お向かいの正門に張り出された。
この張り出しは、お向かいが相談したという邸宅の一部(緑地)から、お向かいに通じるもう1本の道にも3枚ほど張り出されていた。
その後、お向かいの使用人2人が、複数枚の同看板を持参して訪れ、私に協動することを求めた。看板はお向かいが自費で作ったことを知った。看板には、市や警察、あるいはしかるべき地主などの許諾を得た旨の表示がない。もちろん、私はしかるべき意見を述べた。だが、それが、賛意を翻しかけたかのような受け止め方をされそうな雰囲気になった。急ぎ私は、その大判を1枚もらって、一住民の立場で活かすことにした。
その時に、その使用人は、持参していた複数枚の看板を、近所の皆さんにも張り出してもらうために巡回する、と発言した。「それはいいことだ」と応えた。コンセンサスを大事にし始めてくれた、と安堵し、その巡回努力にとても期待した。きっとどなたかが、総会を開くべきだなどと、気付かれるのではないか。
使用人と分かれた後、即刻看板を、わが家を訪れた人の目には入るように、わが家の願いとして張り出した。
5.長堀さんは、民間外交官だ
この28日に、長堀さんから「ノルウェーのゲストに送ろうと思い、"写真集"を作りました」で始まる次のようなメールが入った。
「今回撮影させていただいたものと、(ゲストに)思い出していただこうと思い、今年の4月の写真も添付しました。最後のページは、実はゲストから最終日にお礼として、包丁とニワトリの人形、そして私が写っている写真のTシャツをいただいたので、それらを身につけた写真です」
長堀さんは、北欧からの訪日旅行者を主に引率する国際ガイドで、4月にノルウェイの一行とアイトワを訪れ、その時の礼状を後日下さった。それが縁で、交信が始まり、27日にお迎えした。
折り返し、私こそ「5重に感謝申し上げたきことが生じていたのです」と、次のような返信をした。
まず、お訪ねいただいたことへの感謝。2つ目は、心にしみる何かを感じとらせていただけたこと。さらに、心ひそかに追認したり、人形工房の喫茶室を“喫茶店”に改装して、開放しておいてヨカッタと感じたりしたこと。加えて、この度頂いたメールに触れて、予期せぬ喜びにも恵まれたこと、など縷々綴った。
心のしみたこととは、長堀さんと語らった際の印象だった。異論もキチンと伝え合いながら、その都度理解度を深め合いながら、共有し合える希望をみいだせたように感じたことだ。これがディベートのあるべき姿であろう。
長堀さんは定年退職後に夢を描いておられた。国際観光ガイドであった。それが、「日本や日本人に対する理解の輪を広げようとしていらっしゃる」こと。そして今は、「北欧の人たちが主対象」ということだ。
次の2つの記念日になったことも付記した。
この80年間、戦争をしなかった国は国連加盟193カ国のうち、わずか8カ国であったことを、この度別途TVで知っていたからだ。北欧5カ国(アイスランド、フィンランド、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク)に加え、スイス、ブータン、そして日本であった。
だから、その一国であるノルウェーの方々を、ノーベル平和賞を被団協が得た年に日本にお迎えできた、という記念すべき年になった。
加えて、抹茶ラテ(望さんに撮影してもらったばかりの新メニュー)に次いで、昼食にローストポークサンドイッチを選んだが、後者はこれが最初で最後になりそうだ、とも伝えた。それは、私の歯が、もろくなった自身の歯と、丈夫な入れ歯が入れ混じっているセイだ、とその事情を綴った。
折り返し、「写真集はノルウェーの方にもお送りして、お礼のメールがきました。皆さん、きっとアイトワさんでの時間を懐かしく思い出されていると思います」で始まる返信があった。
「私はビジネスの世界にいましたので、アイトワさんに入った時にまず『ここはとても採算が合っているとは思えないな』と思いました。ですから今回いろいろお話をお聞きして納得するとともに、『すごいな~』と思いました」などと続いた。
この度のお越しは、私にとっては誠にありがたいタイミングであった。メニューを刷新する直前であったからだ。案ができていたので、見ていただくことができた。
願いを表明する新しいメニューは、次のような最初の見開き2頁(英文は、AI)から始まっている。
提供する商品で大きく変わっところは、世界最高峰と称される紅茶の説明と価格。これまでは、採算を度外視して価格を(それまで扱っていた国産の紅茶に倣って)定め、一切宣伝する文章をそえていなかった。この度から、採算に合う価格にして、よって来るべき所以を説明することになった。ちなみに、これらの写真の撮影や製作は、池田望さんにボランティアでお世話になっている。以下の英訳は、わが家のホームステイ第1号、アメリカの長女と呼んでいるリズが、これもボランティアで携わってくれた。
何ページか後に、次の見開きがある。
もちろん、この願いは、ケーキで言えば、開店来40年間1種類で済まさせている。あるいは、自ら育てた木を自ら割った薪で焚くストーブを用意させた。日本で最初(1986年)と言われる全面禁煙の飲食店にさせた。さらに、太陽光発電機を日本で最初に (1994年) 有償で導入した時空にもさせてきた。
ちなみに、長堀さんが創作して、ノルウェーのゲストに送られたアルバムは次のような作品であった。
6.その他。「断つ幸せ」を噛みしめた、など
1、スイカでも、半世紀来初のことが。
初物のスイカは小玉で、1週間前に「これなら持って行ける」と言って、岐阜の庭からAGUが持参してくれたシロモノ。この1つを妻と、1日から2日に分けて賞味。「甘いねぇ」と顔を見合わせた。
この夏の2つ目のスイカも、小玉スイカで、伴夫妻の8日の手土産の1つであった。
サラリーマン時代は、大玉を週に2個は消化していた。10数年前から一夏に大玉数個になっていた。この夏は、ついに、小玉2個で終わる年、記念すべき年になりそうだ。実は、大玉を1つ、買おうと思わぬでもなかったが、値段を見て、ついに思いとどまってしまった。
2、歯科治療のシステムも改善が望まれる。
1日に出来上がっていた入れ歯に感動。残っている自身の歯を活かして、人工の歯を入り混じらせた入れ歯であった。はめてみると、不自然さがなかったからだ。次の予約は21日で、自身の歯の1本を治療する、とおっしゃる。咀嚼が楽しくなった。だが後日、食事中に、自身の歯が1本ポロッと欠けた。
21日に、この歯は、人工の入れ歯に挟まれた自身の歯の1本であり、治療予定の歯であったことが解った。その完了は9月5日の予約日に、となった。
28日のこと。新聞で、歯科技工士の窮状を訴える情報に触れた。国家資格のありようなどが、どこかおかしい。せめて歯科技工士をクラス分けし、時給数千円などがあったっていいのではないか。歯科医とのタッグで、それほど微細で、微妙な一面を要する作業だ。そのクラス判定には、患者の意向が活かされるべきではないか。北欧やNZなどでは、患者の意向(民主主義)を尊重し、国民皆保険が破綻しないシステム(わが国の、破綻が必定のようなシステムではない)を組み立てている。
3、温室で巨大になった2本のツタを、処分した。
見た目と、冷たい北風を鑑み、かつて鉢植えの2種のツタを地植えした。当初は期待通りだった。
次第にツタが暴れ出し、剪定では制御しきれなくなった。やむなく、昇さんに根を掘り出してもらった。思っていたよりはるかに太い根が張っていた。残した細い根がどうなるか、見守りたい。観賞用のツタを甘く見た失策であった。
4、ニラコーナーの除草で、余得があった。
今はニラの他に、アカウリと2本のサツマイモが育っているコ-ナーの除草に、妻が取り組んだ。参戦した私も大汗をかいた。
末期のアカウリと育ち始めたサツマイモ(手前)が丸見えになった。
後日のことだ。サツマイモは2本とも抜き捨てられており、まだ細かったであろうイモが喰い取られていた。アカウリは、犯人の好みではなかったようだ。
犯人はサルと見た。にもかかわらず、本体の方の畑には被害が出ていなかった。とすれば過日、獣害ネットの内側に防諜ネットを昇さんに張ってもらったが、この作戦は見事に功を奏したことになる。
月末になった。畑ではまだ被害がない。だが、庭で1つ、サルがかじったに違いない、と見る青柿の実を妻がみつけた。
5、まるで “孫の里帰り” が3日から始まった。
デスクトップで「これぞ、桃源郷」と感激した日の午後のこと。大沢玄果和尚が、3兄弟を伴って訪ねて下さった。長子の実生君は、昨年の暮れ以来だったが、ビックリするほど背が高くなり、逞しくなっていた。
8日のこと、元アイトワ塾生の伴明さんが「藍花は、都合がつかなかった」が、と断りながら訪ねてもらえ、一家の安泰を知った。夫妻は共に、勤め先では重用されている様子。長子の清太クンは、将来の夢を固め始めていた。
14日に、大井雅之さんが「娘は、勤務が多忙で」とことわりながら、親子で来訪。息子の貴之君は身を固めたし(奥さんは実家帰り)、父の事業を継承するために猛勉強中だった。その安泰ぶりに安心した。
15日から昇さんを3日連続 (土日は彗生君同道) で迎えた。とりわけ父子同道の日は大仕事に取り組んで、孫のように終始立ち働いてもらえた。
19日、さちよさんには、一家4人で久しぶりに訪ねてもらえた。姉妹はすっかり成人し、穏やかさに淑やかさが増した。
最期の一家来訪は、28日に陳さんが、受験の長男と妻を残し、父子で訪ねてもらえた。台湾の息子のごとく家族ぐるみで、30年来の付き合いだ。
陳さんとのキッカケは、台湾の原発事情の調査だった。前日に日本でバリュームを飲む定期身体検査を受けさされて出かけたが、それが災いした。放射能汚染反応が出た。施設に入れない。この空白を、学生だった陳さんが“故宮”の案内で埋めてくれた。話が弾んだ。第4時代到来論に最も興味と関心を寄せた最初の青年との出会いだった。
その後、住友商事の台湾社員になり、辞めて上級公務員試験を受け、外交官になった。
ちなみに、台湾はその後、脱原発に切り替え、この度の国民投票でも賛成票は多数を占められなかった。
6、この庭に残したいもう1種、の手当。
“古代ムラサキ”を、いくらでも増やせそうになっていながら、不注意にも絶やさせてしまった。そこで、トウテイランに次いで、この度、テンモクジオウの増殖にも手をつけた。だが、水のやり過ぎで、寝腐れを起こさせてしまい、1本を残すのみになった。
7、ごみ出しでも順次、主導権を握ろう。
まず、わが家独特の生ごみの処理。台所で専用の容器に溜めて置き、“堆肥の山”まで運んで投入する作業。妻が起き出す前に済ませておくことにした。
問題は2つ。堆肥の山は、農作物の残渣や種が付いていない野草などを積み足し、生ごみを投入するスペースを造らなければならにこと。当月初に新たな残渣を積んだ。その山は、月末にはすっかり低くなっていた。
2つめは、生ごみを投入した後の容器の洗浄。とりわけ冬場になると大仕事。
この往復で550歩ほどの散歩を兼ねたような作業は、自然のチカラが生ごみを肥料 (堆肥)に還元する。
「古紙」出しは、居住自治会独自の方式で、毎月1度、第1月曜日の朝に、所定の場所まで運び込む。まず、新聞紙、新聞広告や包装紙など、ダンボール、そして書籍や雑誌で4分類し、わが家ではユーティリティーに溜めておく。まとまれば、妻の運転で軽四輪で運び込む。
他に「燃やすごみ」は週に2度、門扉脇に出す。「プラスチックごみ」そして「ビン」と「カン」は週に1度、所定の位置に持ち込めば、市の収取車が集めに回る。
「プラスチックごみ」と「カン」は、1人で往復1000歩の道を散歩と思って、手持ちで運び込む。「ビン」は、妻を起して軽四輪で運び込むことにした。なんてことはない、こんなことが、妻には困難になり、出し忘れると、苦痛のタネになるらしい。
8、TVで学んだ映画と特集番組。
当月は、先の戦争関係の報道が豊富だった。同時に、過去80年間、戦争をしなかった国は日本を含めて8カ国のみ、と聴いたわけだ。
米映画『太陽の帝国』は、支那事変時の日本軍の捕虜収容所が舞台。両親とはぐれ、そこに送り込まれたイギリス人少年が観た日本軍のありようが描かれていた。日本軍の新たな一面を観察できた。
NHKの特集TV番組『シュミレーション』上・下は、真珠湾攻撃の8か月前に、日本は若きエリートに模擬内閣を作らせ、アメリカと戦った場合の戦況を子細にわたってシミュレートさせた。その映像化だった。
若者たちが導き出した“完敗”の結論通りに、日本は敗戦を迎えたわけだ。
10日後の新聞で、意外なことが生じていたことを知った。総力戦研究所所長・飯村豊陸軍中将の、せめて後半生だけでも知りたくなった。
わが国は未だに、先の戦争に関して未整理問題を山積させている。聖戦を謳いながら、敗戦となった瞬間から証拠資料や記録などの抹消に躍起にならざるをえなかった。
真実から国民を遠ざけてはいけない。加害者が忘れようとすると、被害者には証拠や記憶を余計に新たにさせて、時には憶測さえ始めさせてしまいかねない。つまり、国民を疑心暗鬼にしたり、分断したり、しかねない。
アメリカは、ミサイル開発や宇宙開発のために、ドイツの多くの戦犯を無罪放免にして自国の研究に参画させた。同様に、細菌兵器研究のために、731部隊関係資料を接収し、関係者を無罪放免にして、731部隊自体がなかったことにした。
被害者の中国や中国人だけでなく、「こんなことあってほしくない」と信じたい日本国民を、つまり主権者を、いわば「知らぬはナンタラばかりなり」に、国はしている。
この体質は、今も改まっていないのではないか。本来なら、こうした戦争が関わった出来事を、義務教育で取り上げ、憲法9条を持つに至った所以として教えるべきだ。ドイツでは、ホロコーストもあらあいざらい公開しており、学校教育で徹底して教え、それが国への信頼感に結び付け、国民の愛国心を育んでいる。
国民を「知らぬはナンタラばかりなり」に、してはいけない。真面目な人を気の毒な立場に陥れかねない。
映画『戦場にかける橋』を観た私は、タイまで視に行った。掘っ立て小屋のような博物館があった。多くの写真と説明文もあれば、見学者ノートもあった。多くの日本の若者が「知らなかった。ゴメンナサイ」「日本では、教えられていない。恥ずかしい」などと、書き残していた。
その後、この目で現実を確かめる努力を私は惜しまなくなった。
そして、先の戦争で黙とうをささげるときは、戦火の犠牲者310万人の同胞に、だけでなく、大日本帝国がアジアで強いた犠牲者2千万人などにも捧げるようになった。
また、海外で日本の加害が話題になると、「だから日本は、憲法9条を持って、堅持している」と胸を張って来た。尊敬の念さえ、示して下さるのが常だ。
この度初めて知ったことがあった。特攻機に、あるいは特攻隊員の背に、パラシュートが伴っていた事例である。
9、堀田さんを迎え、相談事。
過去8年間6回にわたって(コロナで2回飛んだ)積み重ねて来た活動『「匠」祭典』が、なんとか未来につながてほしいとの願いを、5日に2人で意見をぶつけ合った。
その後、親方の呼びかけに応じた有志が、庭師と宮大工を加えた5人が9日に集った。来る10月11日から1泊2日で集う催しを職人に呼び掛け、今後の進め方を語らうことになった。
10、この人は、詩人だったんだ。
この9日の“「匠」の祭典”の集いで、前回の集いでエッセイ「現代“堂宮大工”事情」などをいただいた山口保広さんに礼と意見を述べた。
後日、同氏から封書が届いた。若き頃は詩人であったり、その後ある大事で静かなる集いの代表であったりすることを知った。
11、ブルーベリーの初収穫は6日。
朝飯前の一仕事を切り上げて、温度計道を登っていた。ブルーベリー小径へ向かう石階段あたりで、驚かされた。急に「赤とんぼ」とつぶやく妻の声が聞こえたからだ。いつになく妻は早起きして、ブルーベリーを摘んだようで、その帰途だった。
その後、2度摘みに出ており、そのまま口に放り込んだり、お返しに包んだり、ジャムに煮込んだりした。その中ほどで2度、ヨーグルトに和えてもらった。
12、庭に野生のナシが1つ、落ちていた。
ヤギに会いに行った8日のこと。その昔、大見で野生のナシを拾い、賞味したことがあった。その野趣に富んだ味が、忘れられなかった。そうと知ったミツバチの師匠が、志賀郷から苗木を1本届けて下さった。
だから「もしや」と喜んだが、わが家の樹にはその気配がなかった。
後日、痛みかけたので、切って確かめた。まぎれもなくナシだった。俄然妻も、野性ナシの樹に興味を示し始めた。
13、TVで青木理さんの意見に久しぶりに触れ、共感。
10日、TBS系報道番組「サンデーモーニング」に、元共同通信社の記者青木さんが久しぶりにコメンテーターとして参加。大河原冤罪事件の顛末などで発言。
その後、この事件について、京都新聞で好ましい提案があった。箍(たが)を締め直す提案(国家における検察や司法は、樽で言えば箍だろう)であった。冤罪に追い詰める何かを解かないと、いけない。気の毒におもう。
14、カメムシ退治が続く。
朝飯前の一仕事では、連日朝一番に、トウガラシやナスビなどのカメムシ退治に取り組んだ。次第にその数は減ったが、月末時点でも成虫が7匹捕れた。もちろん、他の植物、おそらく野草でも繁殖しているに違いない。根競べだ。
15、あわや水害になりかねなかった。
上旬は、雨の1日で暮れた。雨音を聴きながら床に着いた。ウツウツしかけた時に雨脚が激しくなった。ある安全装置が気になって、ガバッと起き出し、妻に気付かれた。急ぎパンツ1枚になって、玄関を飛び出した。
わが家には、大雨が降ると、弱点が3か所ある。その1つが人形工房棟にあるテラス(サンクンガーデン)だ。地表より掘り下げたテラスなのに、1時間当たりの雨量50㎜(法定であったらしい)にしか備えていなかった。テラスは水浸しになっていた。
ビショ濡れになって戻ろうとした時に、傘をさして妻が追って来た。「大丈夫だった。ありがとう」と言って、先に戻り、体を拭い、寝直した。
熱いクズ湯でも作ってもらい「大丈夫だった。ありがとう」の意味ぐらいは解説した方がよいのではないか、とおもったが、起き直さなかった。むしろ、最大雨量50㎜/時で作られた日本の都市が、日本が心配だった。
パンツ1枚になったわけは、雨のテラスを走り回る要がある、と見ていたからだ。だが、その要はなかった。豪雨用排水ポンプのスイッチが「オフ」であったことが一見で分かった。即オンにして、排水が始まったことを1度確めに走っただけで済んだからだ。
16、酷暑を克服する必死の工夫。
異常な炎天続きであった。一病息災の身を想い、無事に過ごす術は、とチョット心配な1カ月であった。
それだけに、安心して大汗をかく庭仕事の日を、週に2度も3度も挟めた幸せを噛みしめた。それは“朝一の畑仕事”に加え、昇さんを迎えた日は、夕刻まで一緒に付き合う習慣を身につけよう、と工夫したオカゲだろう。
加えて、今年は自然生えのモロヘイヤとツルムラサキが大繁殖したオカゲもありそうだ。妻は、まるで「ヤギさんのようね」と、私が摘んで帰る野菜を見てつぶやく。
17、わが家の野菜だけで、と目が輝く。
中旬は(露地栽培で無農薬有機栽培の野菜はとても育てがたくて)菜っ葉類に不自由する時期だ。だが、この夏は、自然生え野菜(これまでのツルムラサキ、ハナオクラ、そしてゴーヤに、モロヘイヤが加わった)に恵まれ、毎朝、妻がおお悦びだ。加えて、初夏はキュウリやトマト、盛夏はナス、オクラ、そしてトウガラシやピーマンも採れた。インゲンマメは全滅だったが、ササゲマメが採れた。
18、これぞ「老境の幸せ」?。
まず8日に、誕生祝いに多々恵まれた。
次いで孫の里帰りのような喜びにも次々と恵まれた。留めは、掘り出したラッキョウで、予期せぬ喜びを得たことだ。
3年物のラッキョウを掘り出しながら、妻が漬け込む気力が沸き上がらず、途方に暮れた。折よく訪ねて頂けたお二方に引き取ってもらえた。その後のことだ。
漬け上がった“おすそ分け”に預かった。わが家ではこれまで試みたことがない漬け方もあった。かじってみた。思わず清酒に手が伸びた。
次いで、昇さんが「彗生に、引き受けさせました」と、来春社会人になる息子が、小さなラッキョウの皮をむくことから手をつけ、漬けたことを教えられた。これも、お裾分けに預かりたいものだ。
19、「断つ幸せ」を噛みしめた。
熟れ頃がピッタリの黄桃を、慧桃 (えとう)、冬青(そよご)両君に持参してもらえた。まず、モモが大好きだった亡き母を思い出した。よく冷やして、夕食後に食べた。オ・イ・シ・イ。おもわず妻と顔を見合わせた。今年のモモは、この黄桃で満足、と感じた。スイカも、小玉スイカ2つの余韻で満足だった。
20、スモモやカキのケムシ退治。
9日に、カキの木に湧いたイラガを見つけ、見つけた分は次々と踏みつけて殺した。このケムシは、この庭で、刺されると最も痛いケムシ。
26日の午後に、スモモにケムシが湧いた、と妻が気付いて、教えた。高枝切りを取り出して、手分けして退治に取り掛かった。妻が探して見つけ、私に教える。私が涌いた葉や、時には枝ごと切り取って、地べたにおろす。そして、いずれかが葉や枝ごとケムシを、踏み潰す。
これがこの時期の、1つのルーチンワークの始まりになった。。
21、自然生えしたネギ苗の初養生。
昨年度のネギを育てた畝側の畔道に、ネギの苗がたくさん自然に生えた。こうした大量の自然生えに気付いたのは今回が初めて。「ならば」と、その苗で、次年度のネギ苗を育てる努力を、と腰を上げ、2度に分けて移植した。
22、食事のために外出、これは結婚来、初のこと。
17日のこと。彗生君が前日に次いで、朝から昇さんに同道。彗生君と私は泉の掃除。昇さんは側で、水洗トイレのタンク(断水への備え)周りの整備。妻は人形教室があった。
彗生君が「これ何ですか?」と見せた。スローモーなナナフシ(この庭には2種が棲んでいる)だった。この不思議な生態(ほとんどはメスで、クローンを産んで死ぬ。たまたまオスに出会ったメスは遺伝子交配する、など)にとても興味を示した。これがキッカケだろうか、彗生君はプラス指向の質問を私に良くぶつけるようになった。
午後、イノシシスロ-プ沿いの植え込みの大剪定(背丈を半分にして、剪定くずを囲炉裏場に運ぶ)に父子は取り掛かった。この日は4時(人形教室が終わる)を待って、お茶の時間を飛ばし、4人で会食に出かけ、そこで質問に応えることにした。
結局は、5時前に4人で午後のお茶を済ませ、出かけることになった。その先は、昇さんとHCに出かけた折に、幾度か立ち寄ったことがあった。お目当ては、妻と食したかったウナギご膳だった。席や料理を待つ間は、有効に生かせた。アイトワでパートテイマーを、と彗生君に勧めた。
帰途の車中で、想えばこれが、妻と食事のために出かけた最初であった、と気付いた。昇さんの車は罧原堤(ふしはらづつみ)に差し掛かった。愛宕山がいつになく美しかった。
23、本年度のフジは、第2次の剪定を37日後に要した。
初回・第1次剪定は7月19日(喫茶店の夏休み明け2日前)だった。
その後、好天続きであったセイかオカゲか、蔓がグングン伸びて、日に日に見苦しくなった。だから、2回目は、8月26日に実施することにした。
案の定、脚立に登っているところを見つかって、妻に「いい年をして、そんなことは止めてください」と、また叱られた。だが、何とかやり遂げた。
この間に、一服の清涼剤に恵まれている。それは妻が、脚立の裾を抑えに来て、力んだことから始まった。「却って邪魔だ」と怒鳴りかけた。こうした時に、私は優しい言葉をかけられない。その瞬間だった。妻が「これでも、隠れているつもりでしょうか」と声をあげた。脚立から一旦降りて、丁寧に、朝食の準備に取り掛かるようにたのんだ。
24、8年ぶりにキノコのスケッチ。
母屋の客間の出窓の下で、見慣れないキノコが出ていた。今は亡きキノコの師匠・高山栄さんを思い出した。
高山師匠に教わって始めたこと。庭に出るキノコのスケッチ。そのスケッチノートを取り出すと、7年ぶりであったことを知った。この間に、匂いをかいだり、舐めて味を確めたり、寸法もとったりすることを忘れており、スケッチさえ不正確であった。
ことキノコに関して言えば、机の上の学習は、生きて行くうえでは却って災いする、ということを学んだ。
25、玄関のドアーで羽化したセミに学ぶ。
這い出したところから、ピンコロ石の階段をのぼりるなどして北に向かい、羽化していた。這い出した一帯には樹木がたくさん生えている。畑のピーマンで羽化したセミを思い出した。
畑の土中で何年も暮らしていたワケではなく、這い出した側の周りの木には眼もくれず、東に向かい、畑に入り込んだのだろう。
26、ある判断と提案の投函ができた幸せ。
栄枯盛衰の世の中だ。なんとかしてこの人には、との願いが沸き上がった。私なりに、これなら、との確かな想いを提案できた。提案できる立場にあった幸せを噛みしめ、25日は思い出の日になった。
28、道中でクスッ。
義妹の送り迎えで、今月は歯科医に出かけた。義妹は妻の軽四輪を上手に駆った。突如、好天なのに、ワイパ-が動き出した。思い当たるフシがあった。
ある雨が降っていた日のことだった。上がったのに、妻が「ワイパーが止まらに」と言って慌てた。なにやらゴチャゴチャ、ゴチャゴチャして、やと何とか止まった。そのいわば後遺症であったのかもしれない。
問題は義妹も、「私の車と違う」と言って、慌てた。妻と同様に、消去方式ではなく、行きつ戻りつ同じことをゴチャゴチャしながら、何とか止めた。妻の場合は、体で覚えていたようだが、ヒョとして義妹も、とクスッと、した。
29、三者三様の庭仕事の1日。
その手始めは15日だった。3人で旧玄関前の手入れに取り組んだ。昇さんは4本のツバキの大剪定。
妻は除草と、昼食と午後のお茶の準備など。
私は植え込みの刈り込みなど。
これまでの全員で同じテーマに取り組む共同作業とは違って、顔が観える範囲で、得手毎に担当する作業を選び、個別に、時には助太刀し合う方式を試みた。
3度目のこのやり方は、31日になった。当初は、昇さんと2人で庭仕事に取り組んでいた。妻が「今日は、人形作りに」専心したい、と希望したからだ。
昇さんは、イノシシスロープ沿いの植え込みの背丈を半分にする大仕事の剪定に。私は、イノシシスロープの北側、10mほどにある囲炉裏場で、焚火をしながら、そばにある獣害フェンスに登っている蔓性野草の退治(電柵に絡まった分ははぎ取り、その下部は根元を傷めて枯らす作業)からとりかかった。
昼食後、2人は午前からの作業に戻った。ほどなく妻が庭に出てきて、焚火に手を出した。だから、私たちは、剪定クズを両手で抱えて焚火に被せるような力仕事以外は、焚火は妻に任せた。この当月2度目の焚火は、おのずと大焚火になった。夕刻までに、あらかたの剪定くずが片付いた。
もちろん、男2人の作業もはかどった。イノシシスロープの北側で育つエルダーやビワの木への日当たりが格段に良くなった。この冬の間に、エルダーやビワの木の背丈も大幅に下げることにした。
私は、電柵に登る蔓性野草の成長を停めた上で、自然生えのネギ苗を掘り出し、次年度のネギ苗として育てるために、昇さんが仕立てた畝に移植した次第。加えて、予定外の草刈りの片付けた。刈った草は、昇さんに所定の場所に運び込んでもらった。
見定めた一帯で、得意や得手で受け持つテーマを選び、離合参集しながら仕上げる方式の利点に、当月は気付かされた。よきしめくくりになった。