地球にやさしい、方丈と愛国
梅雨入りが遅れ、水不足と日照不足を嘆きながら迎えた7月でしたが、振り返ってみれば多彩な1カ月でした。この間に、2度目とか2回もなどと2がつく出来事が計9度、外出が計10回、そしてジーンズを4本も買い足し、2カ月で計5本も買い求めていました。
まず、2度も地球に優しいというフレーズに触れ、佛教大生の来訪を10年目にして初めて月に2度も希望され、久しぶりに1カ月に2つの学会の活動に関わり、また2つの機関に短文を寄稿しました。学会は6日のエネカンの年次総会に参加と、20日の失敗学会の大阪夏の大会での講演でした。短文は、日本エッセイストクラブから近著を機関誌で紹介するので、また最寄りの9条の会から想いを会報に寄せてほしい、でした。
これらの他に、2カ月ぶりの2泊3日の出張。映画と音楽という2つの芸術鑑賞。あるいは特別連載寄稿「ジーンズスピリッツと私」②の寄稿依頼。さらに、2人の詩人の息吹に触れ得たり、知範さんと滋賀県に出かけ、2人の素敵な生き方に触れたりしたのです。また、出張時にいつも手料理を振る舞ってくださる女性社長がお嬢さん連れの2人で泊まりに来てくださったり、近隣(小倉山自治会)の観光資源を理解しあう2度の勉強会(講演と見学会)があり、モリアオガエルが2つの卵塊を産み付けたなど、2がつく出来事が次々と生じたり関わったりしたのです。また、愛国について2度、ヂープシンキング。
もちろん2がつく件の他に、好物を土産に岡田さんが、元アイトワ塾生が久しぶりにお揃いで、ちあきさんには母子3代で、あるいは月末に、ベトナム旅行で親しくなった5人(元)娘に、など多々訪ねていただけました。加えて、詩人の宮内憲夫ご夫妻が「トラノオを観に来て」くださり、2度目の「地球にやさしい」につながりました。他に、知範さんと4回、未来さんとは5回も、庭仕事やPC作業など。これらの他に、嬉しい贈物(父の日の手作りシンボル、健司さんの便り、あるいは垂水さんの新著など)に恵まれました。
畑仕事はこうした合間に挟み込みましたが、雨にたたられることが多々で、期待通りには行きません。まず、5日金曜日、快晴の朝、「今日から夏パターンに…」と意気込んだのですが、その後は雨にたたられ、続かなかった。たとえ快晴で明けても、前夜の雨で草木や土が濡れていたり、外出や来客の予定が入っていたりしたわけです。
とはいえ、巨大(ジャンボ)ニンニクの収穫。モロッコマメの畝作り。第4次インゲンマメのアイトワ流蔓仕立て。中国ホウセンカの(畝の肩で育てた苗を、花壇や鉢などに)移植。第1次のインゲンマメやキュウリの畝を片づけ、アイトワ流の畝に仕立て直し。過日迎えた徳島ご一行にもらったワケギの畝作りと植え付け。第3次のキュウリと第4次のトマトの畝作り、そして妻は、トマトでピクルス造り、1.4kgのバジルでソース作り、さらに第1次ブルーベリー1.9gを収穫し、ジャムづくりなど、大忙しでした。
庭仕事は、佛教大生の第1次来訪は14日の3人で、知範さんが合流。パーキングの土砂片づけとビオトープの恒常化に取り組みましたが、雨にたたられ、中断。焼き芋はできず、お茶の時間を楽しみました。27日(土)の第2次来訪予定は、台風到来予報で順延に。この間に、未来さんは土砂を喫茶店の夏休み明けに間に合うように片づけ、24日には夏パターン(朝飯前の一仕事)に参加し、草刈りに精を出してくれました。
庭では、ヤマユリやオオガハスなどが次々と咲き始め、庭の木々はうっそうとし、木立の間でクモが巣を張り、ウッカリ歩けません。カナヘビ、ウシガエル、あるいはヘビなどがウロチョロし、ナナフシは脱皮姿を見せる始末。モグラの暴れようは収まっています。
~経過詳細~
まず、学ぶことが多い1カ月だった。それは、初日に、市内のある自治会(から招かれていた)の年次総会に出かけ、住環境を守る住民活動の成功事例を学び、2日に、心臓の検診と映画の観賞で市中に2度も出ることから始まったおかげだろう。
心臓は、この1カ月で指数(心不全と腎臓)がガクンと悪化しており「また来月も…」となった。だが、心身の「心」の方は元気だし、「思うところ」もあって、やや気になる「身」の現象と向き合い、次回の検査結果を楽しみにし始めている。
映画は、午後から妻と連れ立って出掛け直し、妻は友人の個展会場へ。私は『主戦場』を一人で鑑賞。この妻を伴わない映画鑑賞は、結婚後初めての試みだったが、それでよかったと思う。キチンとした心構えで観なければ「もったいない内容」だった。日本という国の体質をキチンと(客観的に)理解して、真の愛国の想いを構築する心構えで鑑賞すべき作品だ。真の愛国とは、他国の人たちの尊敬の念に結び付くものでなければならず、そのイメで有意義な内容だった。この度は幸運にも、9条の会から意見を求められていたので、自国愛が他国の人々の尊敬の念に結び付いた体験を振り返れたのだから。
この映画は日系3世の女性▶︎男性(訂正)にとって初監督作品だった。日本人の血がながれる彼女▶︎彼は、誇り得る日本であってほしいのだろう。その愛国の願いが、誇るべき「日本人のありよう」を乱す、あるいは誤解させる真因を浮き彫りにしたようなことになった。それだけに鑑賞者には責任が生じそうだ。清濁併せ飲んだうえで、真の愛国の想いを構築する「心のよすが(縁)」にまで育む分析や追求などが求められそうに思う。
こうした現象や機会のおかげで、学ぶ姿勢を心身ともにキチンと整理せざるを得ない気分になった。だから、中旬からの猛暑にもナニクソとの思いで立ち向かえたのだろう。
それは5日の朝飯前の一仕事の後、知範さんに迎えられ、出掛けた日帰りのショートトリップで、素敵な活動に携わる2人の生き方に触れたたおかげもある。お一人は、歯科医師会に属さず、予防第一に努める歯科医であり、もうお一人は、会社勤めを終えた後、ジネンジョの6次産業化に取り組み、成果を収めつつある活動家だった。
歯科医師は、待ち合わせ場所の自然薯料理「とろりん」に作務衣姿で現れた。その信条や活動状況などを伺い、短大時代に経験した忸怩たる思い出を振り返り、「20年前に巡り合っておきたかったなァ」と、悔やんだ。
この語らいの席に、第2の人生を彩りつつあるという活動家が加わった。その人が、「とろりん」のオーナーであり、ジネンジョの6次産業化に取り組む張本人だった。「とろりん」の定食の1つを楽しみながら、話しが弾み、次第に親近感を深めた。
その後でジネンジョの匠な栽培方法を学びたくて農園にも案内してもらい、その工夫や努力のありように脱帽。帰宅すると、庭で自生するミヤマカワトンボ?が舞い始めていた。
翌6日(土)はエネカンの年次総会と懇親会に参加し、これも幸運だった。エネカンの機関誌・ENEKANvol.17が配られたが、この第2章は「幸福の反対は安静」であり、その内容にずいぶん勇気づけられ、畑仕事や庭仕事がずいぶんはかどった。
初参加の失敗学会では、忘れ得ないようなパネルヂスカッションに触れた。それは最後のプログラムで、テーマは福知山線列車(4.25)事故の検証と反省の一環であった。
総会はまず、パチンコ業界の二人の幹部からその実体や想いなどを学び、前のめりになった。初めて知る業界は、期待をはるかに超えていた。
次いで私のライフワーク「未来が微笑みかける生き方」の紹介だったが、パチンコ業界のお二人にも興味深げに耳を傾けてもらえた。その上に、総会終了後のことだが声までかけてもらえた。実は、この演題は近著の題でもあるが、私の創作ではない。後で触れるように忘れ難い思い出を伴っているだけに嬉しかった。
昼食後、「稲むらの火」で知られる濱口梧陵の思想と行動を学んだ。その上で、失敗学会ならではの4.25事故に関わるメーンイベントとなった次第。
JR西日本の執行役員が、福知山線列車事故後の安全対策の歩みを、さらにJRの「組織風土と安全の確立~『軌道』の取材から」の著者が事件と取材余話にも触れた。ちなみに、この著作は後日、第41 回「講談社 本田靖春ノンフィクション賞」と 第35 回「講談社科学出版賞」のダブル受賞に輝くことになる。
その上で、この2人に加えてもう2人のパネリストが加わってのパネルディスカッションになった。まず被害者代表で「4.25ネットワーク世話人」、もうお一人は「福知山線脱線事故調査報告書検証メンバー」で、今は関大の社会安全学部長だった。こうした面々が顔をそろえたディスカッションは初めてのことだと思う。
4.25事故について、失敗学会は、過去の総会で10回以上も取り上げてきたようだ。この事故の前に生じた信楽鉄道事故の検証で、「このままのJRなら再発は必然」と失敗学会は見ていた。それだけに、JR西日本の執行役員が参加して、事故後の「安全対策の歩み」に触れたことは有意義だった。ご当人はラガーマンであったようで、その信条ワンフォーオールやオールフォーワンのオールやワンを意識する度量をお持ち、と私は見て、心が和んだ。
司会の名采配によって、安全マネジメント面での権威者の発言も輝いたし、それよりも何よりも夫人と義妹を失い、お嬢さんが重症を負われた被害者代表に対して、その態度と想いの吐露に計り知れない学びを得ており、敬意の念を抱いた。
懇親会に真似かれた。席は、昨年の台湾研修来親しくさせてもらっている当学会副会長の隣に得た。縁が進むにつれて話題がのどかになり、副会長(東大工学部教授)がメモノートを取り出されたときのことだ。チラッとノートを覗き見てしまった。ノートは、ペイジごとに丁寧なデッサンが描き込まれていたが、それが2つの思い出を振り返らせた。
まず、台湾研修時。立ち話で、帝大が(富国強兵をはやったあまり?)芸術を重視せず、切り離したことを悔やむ声に触れ、心惹かれた想い出だった。2つめは、鹿児島研修でのこと。このたびの講演主旨を話題にした折の思い出。実は、1度だけだが私は東大で、学生の有志のおかげで、90分の講義をしている。その折に感想文の提出と、八重洲口までの見送りをお願いし、地下鉄で見送ってもらった。その文1の女子学生は、感想文に「未来が微笑みかける生き方」との見出しを選んでいた。それが近著の題になり、この度の講演の題にもなった。
次の学びは21日の、2つ目の芸術(映画『主戦場』に次いで音楽)鑑賞であった。モーツアルト(それまでのアルチザンの立場から、アーチストと称される立場へと最初に改めた人でありながら、その終焉地は集合共同墓穴で露と消え、不明)のある一面に肉薄したいという願いをもって出掛けた。名司会と3人の息の合った演者、とりわけユーモアあふれたテノールの人柄に心惹かれ、帰路はご機嫌。かく学び多い1カ月が進んだ。
次の2度の勉強会では発案者に感謝した。地域住民が近隣(小倉山自治会内)の観光資源について互いに理解を深めあおう、との新規の催しであった。まず、常寂光寺の住職が発案の勉強会は、日本文化・日本美術研究家の早川聞多先生を招いいての講演。もう1つは、自治会幹部の1人が発案し、当地域の観光資源として常寂光寺など4カ所を第1次候補として選び、巡る半日だった。
これらに先立って私は、三崎美夫さん(近郊の鳥類の様子をよく知らせてくださる)から、新装(?)なった小倉池のハスと、再び飛来し始めたカワセミをとらえた写真を届けてもらっていた。また、アイトワのテラスでも一輪だが大賀ハスが(7/21)咲き、私としては感慨深げに2度の企画に参画するところとなった。
まず早川聞多先生の、私にとっては衝撃であった講演。当地域が歴史に占める立場、変遷、あるいは存在意義などを学ぶことができただけでなく、責任感のごとき意識を追認させられた。それは、兼明親王(平安時代中期、後醍醐天皇の第11皇子)の池亭記に話しが及んだ折のことで、前のめりにならざるをえなかった。
もう1つの当地域観光資源の見学会は、常寂光寺住職の案内で、まず小倉池の見学と、当池改修経過などの説明から始まった。小倉池は元、コウホネが咲き、ヒシが実り、アカマツが影を落とし、コイが回遊する澄んだ池だった。その後、度重なる破壊が進み(まず釣り堀にされ、ついには一部不法に埋め立てられて)この半世紀余は見る影もなくなり、ついにはアオコまでわいていた。当時、釣り堀化は読売新聞が取り上げた。埋め立て時の1969年には、まだ釣り堀の桟橋が残っていた。この右手はわが家の土手。その後、「お薄のよう」と観光客に嘆かれていた。
だが、当住職の設計と2年にわたる努力が結実し、蓮池に生まれ変わった。いずれは(この池は上水道がなかった1962年ころまでは、一帯の田畑用灌漑用水、消防用水、そして住民の緊急用飲料水に指定されていた)かつてのように、水の澄んだ池になってほしい。
早川先生は、兼明親王が小倉山のふもとに庵を設け、小倉の池を望む情景を池亭記に記していたことに触れられた。そして、その候補地はアイトワのあたりかもしれな,い、とのご意見。そう言われれば、他には候補地が見当たらない。しかも、兼明親王の池亭記は、鴨長明の「方丈記」に大きな影響を与えた、という。
このようなことはつゆ要らず、私は庭の一角に、小倉池を見下ろせるところに1つの実験住宅(建て床面積は「鴨長明の方丈」と同じで、日常生活が可能な究極の住居の1案)を創り、「方丈」との名称を与えていた。こうした偶然の重なりは、いやおうなく私に責任感のようなものを感じことになった。
翌朝、アイトワ流「方丈」と小倉池の間に建つ野小屋に急ぎ、小倉池を望んだ。
翌週、他の3つの観光資源の候補、正覚寺、アイトワ、そして大河内山荘を順に巡る半日を迎えた。小倉山のふもとにある正覚寺は、副住職の著作『寺院消滅 失われる「地方」と「宗教」』や『無葬社会 彷徨う遺体変わる仏教』等(かつて当「自然計画」で紹介した)が仏教界に清風を吹き込んでおり、近年注目されている。
アイトワは、外から自由に覗き見られる構造だし、ミツバチの巣箱を持ち込む以前は庭ごと一般開放していた。しかも、拙著や様々な雑誌やTV番組でも紹介されて来たから、これまでは近隣の人たちにはこの住空間の狙いや意義は(常寂光寺の前住職の他には)詳しく紹介してこなかった。それだけに、この度の機会をありがたく受け止めた。
「これまでは自慢話のように受け止められたくなくて」と断わったうえで、80年近くの軌跡を紹介した。それは、こうした生き方を選ばせたのは、幼児期に、当地の文化や歴史に触れ、「小倉山の七変人」と呼ばれた住人たちに感化されたこと。加えて、学生時代から(今は御前さまと呼ばれる)常寂光寺の先代住職との親交に恵まれたおかげだ。、もちろん、私は納税に耐えながらは(土地を遊ばせている、と笑われながらの)庭づくりをせざるを得ず、時には御前さまと衝突したことがある。おかげで「清豊」と自称できる生涯を手に入れられたわけで、地域のかつての文化と先輩諸氏に大いなる感謝の念をいだいているし、こうした歴史や文化を引き継いで行きたいものだ、と締めくくった。
ということは、昨今こうした歴史や文化を引き継いでゆく上で由々しき問題が多発しており、それを許してきた行政にも問題がある、と言いたい。このままではいずれ、耐えきれなくなり、堪忍袋の緒を切りかねない感情を鬱積する人を生じさせたり、「勝手にせい!」とばかりに投げ出させたりする事態を生じさせかねない。
それを心配していた矢先のこのたびの勉強会であり、ヨカッタ。
3人の詩に触れた1カ月でもあった。まず、知範さんから2人の詩人の紹介を受けた。ご自身の今は亡き母方のおじいさん・山川瑞明は詩人でもあり、その詩集『ある季節』と、この人の研究者としての共著『アメリカ文学史要説』、並びに1枚のDVDを届けてもらった。このDVDは、アメリカの女流詩人エミリ・ディキンスンの生涯を描いた(ゲント国際映画祭グランプリ受賞)映画であり、共著『アメリカ文学史要説』で、山川瑞明がエミリ・ディキンスンの研究者であったことがわかる。
その後、3人目の詩人から電話をいただいた。詩集『地球にカットバン』(小野十三郎賞)でも知られる宮内憲夫さんからの電話で、お訪ねいただけることになった。わが家では、今は亡き山野草の師匠が「トラノオ」との宿根草を持ち込み、根付かせたが、今年も花を付けた。宮内さんはそれが「どんなもんか観てみたい」と、同氏に宛てた私のハガキを頼りに声をかけて下さった。
ご希望日は水曜日で、余計に楽しい一時になった。未来さんが訪ねて来て、パーキング場に残っていた土砂の後片付けをすることになっていた。だから当月3人目の詩人夫妻を交えた4人で、ゲストルームで楽しいお茶を、となった。
エミリ・ディキンスンの映画で、当時のアメリカの社会状況とプロテスタントのありようを垣間見でいた私は、社会風刺でも高名な宮内さんと、トランプを選んだ昨今のアメリカとの乖離も話題にできた。だが、大団円はその幾日か後に巡ってきた。
宮内さんから、トラノオに触れた礼として2点の機関誌が届けられ、そこに計3枚のシオリが挟み込まれていた。それぞれご自身の3点の詩が載ったペイジの間であり、そのシオリには、妻、未来さん、そして私に宛てた簡潔な言葉が記されていた。その未来さんに宛てたシオリが挟まれたところの詩と、“<心>と智慧”(この心には<あい>のルビ)とのご意見を読み進むうちに、私の心はいやがうえにも踊った。
かつて私が関わった「地球に優しいと」というフレーズを思い出し、それが私淑した一人の哲学者を思い出させたり、ある偶然に感謝させたりする機会を与えたからだ。ある偶然とは、このフレーズを知範さんと滋賀県からの帰途の車中で話題にしていたことだ。
一人の私淑した哲学者とは、シェリング協会会長を務めた西川富雄先生のことで、短大時代の教師仲間だった。実は、私にとって、短大時代に得た報酬の大きな部分をこの西川先生との触れ合いが占めている。
余談だが、次いで大きな報酬は女子学生との触れ合いであり、これらに加えて、教員のけなげな特性を知り得たことだった。幸い給与は(それ以前と比し大幅ダウンを覚悟して任についており)意識せずに済んだ。
宮内さんは、この「地球に優しい」という言葉をコテンパーにけなされていた。実は、このフレーズは、1990年の流行語大賞の銀賞を得ており、その初使用は拙著である。こうした事情をご存知なく、かつてコテンパーにけなされた人がもうお一人ある。それが西川先生だった。当時の私は、言葉とは何かを説明する手段として、あるいは構想などを練る手段として不可欠、としか思い至っていなかった。だから、このコテンパーに接した私は、何かしら大いなる学び、言葉のもう1つの力に気付かせていただけたような気分になり、心密かに感謝した。この度はその追認をするようなことになった。
もちろん、拙著『人と地球に優しい企業』を著わした当時、この本で「地球に優しい」というフレーズに意味させたことは「人は、とりわけ企業人は、謙虚であれ」であった。だから、「Gentle Mind」という言葉も添えた。
要は、「人と地球に優しい」ということは「自分たちには厳しい」ことを意味しており、その厳しさが「従業員の誇り」になり「経営者の自信」に結び付け、社会にあっての「存在意義」にすべき、との企業への訴えであった。
「だから」だと思うのだけれど、当時、この本は、講談社本社屋の4階建て部分の正面にデカデカと宣伝され、そのおかげもあってか「地球に優しい」がこの年の流行語になり、やがて流行語大賞の副賞をえた。宮内さんが、こうした言葉を独り歩きさせ、流行らせる世相を詩人として見過ごされるはずがない。「傲慢である」とコテンパーに非難されて当然だと思う。ありがたいことに、この間に失敗学会の大阪総会があり、両氏がコテンパーにされる真因に気付かされたような気分になっていたのがよかった。
それは、失敗学会で、「江戸の火事」が名物になった一因(私には主因に思える)を知り得たことだ。江戸では、火事の度に放火した人や失火者を見つけ出し、厳罰に処し、一件落着にしていたらしい。私にすれば、とんでもない処置(責任転嫁)だと思う。
こんなことを習い性にして日本人は生きてきたから、太平洋戦争末期での悲劇を増幅させたのだろう。わが国は、世界で最初に原爆を浴びせられただけでなく、ナパーム弾も浴びせられている。にもかかわらず、政府は防空法を定め、焼夷弾のジュウタン爆撃時に避難することを「逃げ出すこと」と見て禁じ、バケツリレーで備えさせた。
住民も、それが自分たちの財産と生命を守る上で不可欠の要員、と思ったのだろう。必勝を信じさせられて乗ったカケ、などとは思っていなかったのだろう。だから、大勢の犠牲者を強いられた。にかかわらず、必勝を信じさせた国は、負け戦の軍人には既に60兆円以上の戦後保証をしていながら、銃後の被害者とは「契約関係がなかった」という理由で、未だに被害者補償をしていない。ドイツでは当然、敗戦後にドイツの敗戦軍人が立ち上がり、銃後の被災者保証を現実化させている。
要は「標語」でも同様だ、と言いたい。標語を創れば、それで問題は一件落着、のような気分になりかねない。
4本もの印象深い映画を観た1カ月でもあった。『主戦場』は市街に出掛けて観た。次いでエミリ・ディキンスンの『静かなる情熱』はPCで。そして『続・三丁目の夕陽』はTVでたまたま、さらに4本目の『万引き家族』はTV録画で、と4本も鑑賞した。
『万引き家族』は、昨年の6月頃から観たく思っていた。是枝監督がカンヌ国際映画で最高賞を受賞したが、その後で、林芳正文部科学相の祝辞を辞退したこと知り、気になっていた。だから、録画で鑑賞し、「なるほど」と2つの点で感心した。
まず辞退について。仮に、文部科学省が国際賞受賞前にこの映画を知り得ていて祝辞を述べようとしたのなら、是枝監督は受け入れていたに違いない、と思った。
なぜから、この映画の内容は、現政権が標榜するところとまったく反対の主張をしているからだ。現政権が推し進める「働き方改革」や「一億層活躍」はもとより、「女性が輝く社会」の主旨とは真っ逆さまだし、映画の中で登場する物語『スイミー』に至っては、トランプ様々のわが国の姿勢への批判と、見えなくもない。
そうした内容だけに、文部科学省が事前に知り得て、大臣祝辞などで推奨し、その後でカンヌ国際映画祭などで世界に高く評価されたのなら、文部科学省の主体性や独立性が評価されようが、その逆では、不純で、話しがややこしくなる。
『スイミー』は、イワシのごとき小さな魚が束になって大きな魚影を模して泳ぎ、飢えた大きな魚をいわば撃退する物語だ。一国主義の飢えたような巨魚に単身ですり寄り、それが群れを守るかのような錯覚を仲間に与え、結局は仲間を巨魚に差し出し(海外派兵などさせ)かねないような話ではない。
それはともかく、現政権は、印象操作を厳しく非難しているのだから、間違っても、この逆張りをするような誤解を与えかねない不純なこと控えるべきだ。この映画の評価が100点なら、小魚のごとき民衆にとっては是枝監督の辞退は満点以上に値しそうだ。
2点目は、2つの邦画に心惹かれた共通点だ。人のつながりの本来のあるべき姿を感じ取れた点だ。人間関係を阻害しがちな工業社会が抱える根本問題にメスを入れたように感じた。とはいえ、万引き家族はそれを、ささやかとはいえ世間に負担を強いながら成り立たせている。対して、『続・三丁目の夕陽』では創造活動を通して成り立たせており、私は後者に軍配を上げた。
5本ものジーンズをこの2カ月で買い求めたが、おかげで四半世紀も昔のTシャツを取り出して着込んでいたことに気付かされた。
先月のベトナム旅行に、と1本のジーンズを買い求めた。その快適さと便利さを追認し、その後2つの海外旅行を控えていたこともあって、4本も買い増した。それはどうしてか、との心境を振り返ることになったが、その矢先にジーンズ業界の重鎮のお1人・佐伯晃さん(日本のジーンズ三人閑談でも知られる)から電話があった。
特別連載寄稿「ジーンズスピリッツと私」②の依頼であった。この特別連載寄稿には①がある。
当初は一括掲載の予定であった原稿だが、上下2回に分けて、前部を①として載せており、その後部を②として仕立て直せ、との要請であった。
その完成を急ぐことになったが、その間の父の日には手作りシンボルを贈って下さる人があった。次いで40年来の友人で、自動車事故に巻き込まれ、リハビリ中の健司さんから絵手紙が届いた。さらに科学分野の翻訳家としても私淑する垂水さんから、書下ろしの新著をいただくなど、嬉しい贈物に次々と恵まれた。
親交も続いた。久しぶりに元アイトワ塾生(2人欠席)がお揃いで、10歳年下で60年来の友達・武田純さんが、と続いた。月末にはベトナム旅行で仲良くなった5人(元)娘にも訪ねてもらえ、便りでしか親交がなかった元5人娘を迎え、妻は大喜び。わが家の菜園総動員のサラダでもてなした。また、長勝鋸を訪れ、鋸の「『歯』を『刃』に変えた」ことで世界的に知られる長津師匠から、その壮健さのお裾分けもしてもらうなど、多々親交を深めた。
この過程で、気付かされたことがある。この間に、妻が「ジーンズをたくさん買ったことだし…」といって、後生大事にしまい込んでいたTシャツを見つけ出してきた。「環境愛」との刷り込みがあるシャツだが、その由来に覚えがなかった。ところが月末に、その由来にたどり着けた。それは佐伯さんから電話で、追加注文があったおかげだ。
連載寄稿②に添える「短大時代の写真も」と求められ、いつしか写真を整理しなくなっていたせいので家探しをした。ありがたい写真y新聞などを沢山見つけた。そのうちの数枚で、このシャツを着ていた。
それは、入学翌年から「地域貢献にも努めたくて」と、ホタルの幼虫も飼うクラブを立ち上げたおかげだ。そして年に一度、地域住民を招くホタルの夕べを全学的に開催するようになったが、学生がその制服として選んだデザインだった。こうした動きが評価されたのだろうか、「生きる喜びや値打ち」を語り合う学校、と見てもらえたようだ。
庭仕事は、こうした思い出や動きの合間に挟み込んだ。3日の午前に知範さんが来訪。ビオトープの改修に。午後には未来さんがやって来で、残っていた土砂の袋詰めに、とそれぞれ取り組み始めた。私は巨大(ジャンボ)ニンニクの収穫から手を付け、妻は干し上げたタマネギの保存処置から手を付けた。
連日の好天に気を良くして、5日から夏パターン(朝飯前に一仕事し、行水と昼寝を挟み、夕刻に再度で出る)に切り替ようとしたが、続かなかった。7日までの、外出と来客の予定はともかく、8日から雨勝ちになり、また2泊3日の出張もあったりして、次の夏パターンは24日の水曜日までお預けになった。
今年は、モリアオガエルが予期せぬ産卵場所を選んだ。まず、オレンジ(色の大きなプラスチックバッチを埋めて作ったタニシや水生植物用)プールで妻がみつけ、その案内中に、その側にあるコンクリ(大雨オーバーホール対策用の)プール(上部に金属製ネットを被せ、やさいや鉢植え植物の育苗場にしているが、どこから内部に入り込んだのか?)で2つ目を見つけた。
この間に、空梅雨の心配、冷夏の心配、打って変わって不順の降雨と蒸し暑い猛暑に泣かされるようになった。だから、汗も防止の布を首に初めて巻いて「朝飯前」に取り組んだ24日までは、寸暇を惜しむ細切れの作業が続くことになった。
佛教大生の第1次来訪は14日で、知範さんが合流し、ビオートープの手入れの続きに手を付けたが、石で土砂を敷く擁壁づくりは半ばで終わった。学生はその土砂をパーキング場で袋詰めにして、側まで運び込んだところで終わった。昼食前にキュウリの丸かじりをしたが、
その後、雨の悪影響を怖れ、トマトの整枝。インゲンマメを始め、徒長が始まったモロッコマメとシカクマメのアイトワ流蔓仕立て。ゴーヤのツル整えなどは、デイリーワークだ。
庭はキノコの季節に入ったし、屋内では黴に妻は悩まされている。
第1次インゲンマメの畝を片づけ、アイトワ流の1畝に仕立て直したり、第1次キュウリのツルを始末し、その跡を仕立て直し、第6次のトマトの苗を植え付けたりしたが、こうした作業は、夏場は一件一日仕事になった。
ちなみに、今年ほどトマトづくりに力を割いた年はない。それは妻の要請で、天然グルタミン酸として多用し始めたからだ。シーズン半ばにして、例年の2倍ほど収穫したり、立ち枯れ分は青いまま採るが、妻はピクルスにしたりして、あらかた使いこなしそうだ。
20日は早朝にオオガハスの満開を観たうえで、21日からの喫茶店の開店に備え、フジツルの整枝を済ませ、失敗学会に出かけた。そして23日に、懸案だった紐類を収納する大工仕事を済ませた。
ノウゼンカズラの姿勢がよくなったので、この冬には整枝をしたい。
義妹が第3次のキュウリ苗をくれた、という事で、花の球根を育てていた畝を整理して、仕立て直すことにした。この作業は、次の日が庭に出られない予定の前日を選び、夏日の1日仕事にした。先ず除草から手を付け、球根(防草土舗装をしたところから掘り出したもので、命を長らえさせたくて緊急避難させていた)を掘り出した。問題はこの球根を、どこに植え直すのか(日当りが良い場所がなくなり)算段が立っていない。
この間にキキョウが咲き始め、妻は中国ホウセンカの畝の肩で育てた分を掘り出し、花壇の隙間を埋めたり、テラス用の鉢づくりに取り組んだりした。
こうした日々の間にウバユリが咲き、ヤマユリと歩調を合わせるようにしてオニユリが咲いた。キンギョを襲ったウシガエルを私が捕獲すると、妻は「ヘビを見た」と叫び、喜んだ。先月、私が見たヘビよりかなり小さい。
翌朝、自慢げに妻が見せたものがある。初成りのイチジクだった。この1つだけで、その鮮度と熟れ具合、甘さと大きさを知り得ただけで、育てた甲斐があった。
この間の24日は忘れ難い。未来さんが好天と知って、「朝飯前の一仕事」を経験したいとって訪れた日だ。7時前から妻と庭に出て、妻はイノシシスロープの除草、私は「帯状地」(と命名したイノシシスロープが始まる手前までの敷地の南面)の草刈りに手を付けた。半から未来さんが参画。妻は途中で朝食づくりに。
「達成感がありますね」と未来さんが喜んだ時に、妻の柏手を打つ音、3人で朝食。「午後は3時から」といって解散。
3時から、炎天を避けて風除室での作業。私は研ぎ仕事に携わり、未來さんはダイコンの種採り、これで冬野菜の種の採取は終った。この午後の再集合時に、テラスで妻がオオガハスの茂みで脱皮中のナナフシを見つけ、3人はしばし息をのんだ。
この日、岡田さんにほぼ予定通りにご到着で、助かった。PC仕事にかこつけて、庭仕事を中断、再開しないことにした。私はスッカリバテていた。それにしてもナナフシの脱皮など楽しい一時にめぐまれた1日だった。
翌日、畑に出たのは夕刻で、バジルを収穫。「1.4kg!」と妻は驚き、バジルでソースを作った。この日のビールはバジルペイストを塗ったクラッカー。翌日、妻は1人で第1次のブルーベリーを収穫し、1.9kgをジャムに煮た。この日、私は第1次のキュウリの畝を始末しており、今年最初のお化けキュウリでトウガン汁もどき。
その後はPCの鬼となって、2つの原稿を仕上た。9条の会への短文と、「ジーンズスピリッツと私」②の仕上げだった。月末の午前中に発信し、昼前には元5人娘を悠然と迎え、ゆったりと過ごした次第。
かなりハードな1カ月だったが、嬉しい食事に多々恵まれ、あるいは心づくしの食べ物に恵まれ、元気に過ごせたことを喜んでいる。2泊3日の出張では多様な味をなど出先でも、暑さ厳しいわが家でも、手早くて食べやすいメニューなどに恵まれた。