これが気をまぎれさせ。
ともかく暑かった。冷房装置がある別棟の書斎に詰め、調べごとの合間に読書を挟む半日にした。まず紙誌の切り抜きや気になる箇所の整理に手を付けて、大事と思った事案を見つけると掘り下げるいつものパターンだった。この度は出張を控えていたので、それに役立ちそうな記事を選び出し、体系的につなげてクロスさせ、立体的な整理を試み、ことの本質に近づこうとする足掻である。これが実に楽しい。
この足掻きが一件落着するごとに、乱読を挟んだ。近く面談できる人の一書の精読はあえて伏せ、複数の積みあげてあった書物に目を通した。伏せた一書は、下旬のデンマーク旅行で、その前半でお世話になる人の著作だ。
面談できる人に著作物がある場合は、できるだけ目を通す。過去にそれを省き、失敗したり、後年になってその著作を紐解き、反省や残念な思いをしたりしたことが頭にこびりついている。他に複数の書物に目を通したわけは、帯同する2著を選びだす作業であった。
紙誌の整理では、大変な深みにはまってしまった。ドイツ連邦軍には「抗命権」が明記されていたことを知ったからだ。この深掘り(立体化)では、過日『沖縄スパイ戦史』を観ていたこともあり、ペリュリュー島やレイテ島でのありようはもとよりNHKスペシャルで「平成史 自衛隊変貌の30年~幹部たちの告白~」などをレヴューし、「命令の是非」に想いを馳せ、得心の域に至れたように思え、ヨカッタ。
「抗命権」とは何か。新生ドイツでは、真の愛国心を模索しているようで、その源泉を確かなものにしたいのだろう。「抗命権」はこの一環と見て良さそうだ。つまり、上官の命令であれ、「自身や第三者の尊厳を侵害する命令や、国内法や国際刑法によって犯罪となる命令などには従わなくとも罪には問われない」と明記した軍人法の1つである。
新生ドイツでは命令に背く権利を保障していたわけだ。これは、ドイツ憲法(基本法)第1条の「人間の尊厳は不可侵」に基づいているのだろう。しかも、「ドイツ人の」ではなく、「人間の」尊厳は不可侵、との解釈だろう。もしそうなら、「抗命権」は、ドイツ人のために、ではなく人間のために尽くせ、の標榜だろう。これは好ましき「国の安全保障」である、と思った。だから、ドイツをEUの勇・雄・優などの地位に誘ったに違いない。
ここで、わが国の命令の在り方に想いを馳せ始めた。何せ、敗戦前の「命令」は、ある漫画家によれば「玉砕せよ」もあったらしい。自国兵の人権も無視していた。
「全滅」を「玉砕」と言い直し、美化し始めたのは1943年5月のアッツ島玉砕からである。やがて日本兵は「バンザイ突撃」を繰り返し、一戦にして全滅するようになる。捕虜にでもなろうものなら、「戦陣訓」に縛られ、銃後の家族は(近隣住民だけでなく縁者にさえ)酷い目にあわされかねなかったからだ。
その国民同士の縛りも担保にしたようで、軍はさらに残酷に「そうはさせじ」と、1944年9月のペリュリュー島での一戦から命令を一転させる。遥かかなたの離島での戦術を大転換する要綱を定め、「長期持久ニ徹シ献ニ多大ナル損害ヲ與フルヲ要ス。燥急ノ大逆襲ハ戒シムヲ要ス」と打電している。この命令を忖度して日本軍は壮絶な戦闘を繰り広げる。米軍は3日で片付くと見ていたが、日本軍は万歳突撃の挙に出ず、70日余を要する激戦になった。憎しみが憎しみを呼ぶ戦いとなり、1万人の日本兵が戦死し、開戦50日目に残300名になった。そこで玉砕を申し出るが、返令和「持久戦を命ず」であった。
狂気が狂気を呼ぶ逃げ場のない戦いで米軍は日本兵以上の被害を被った。戦死者こそ少ないが、重症者だけでなく大勢の発狂者を出させてしまったからである。
この成功を見て軍部はレイテ戦を同戦術で繰り広げさせる。さらに沖縄戦では住民を巻き込んでより過酷な総力戦を展開させる。こうした日本軍の戦術を観たある従軍作家は「ドイツ軍も酷かったが、まだ人間であった」と記録している。
『沖縄スパイ戦史』を観るまでは、沖縄戦は本土決戦を遅らせるための時間稼ぎの「捨て駒」にされた、と思っていた。だが、そうではなかったようだ。中野部隊が送り込まれており、住民に(少なくとも住民少年兵を組織し)最後の日本兵小野田少尉のごとき使命を与え、迫りくる本土決戦、一億玉砕の模擬戦のごとく活かそうとしていたようだ。これは1本の映画が訴えるところにすぎないが、その資料から見て事実だろう。
私には「イタリヤ抜きで…」の時代があっただけに辛かった。10年早く生まれていたら、躍起になって、こうした決死の戦いに立ち向かい、20年前に生まれていたら立ち向かわせていたに違いない。
現に私は、「イタリヤ抜きで…」を恥じた後も、組織に属し、引き受けた限りは、辞める瞬間まで、目標や期待に忠実この上なく取り組んだつもりだ。幸い、ビジネスや教育事業は戦争とは非なるところがある。独自に戦略まで組めたし、心が許さなくなれば辞めても敵前逃亡にされないなど。つまり私なりの価値観や美意識を持ち込むことができた。
だから、人権を無視した絶対的命令に従わせる戦争には絶対の反対者になった。だが、宗旨替えする前の私は、むしろ絶対的な命令に陶酔しがちな意識の持ち主っだった。
それは西ドイツに出張時(西ドイツと日本はGDPで世界第2位の座を競っていた頃)に、ビヤガーデンで気勢を上げ、ドイツ人に嘲笑され、まる恥をかく体験に結び付けている。
ミュンヘンのビヤガーデンに、デサント社の仲間と繰り出し、大きなテーブルに陣取り、同席のドイツ人(と思われる人)と気勢を上げ「今度はイタリヤ抜きでやろうゼ」と言わんばかりの発言をした。そして立ち上がってジョッキを掲げたが、2人のポリスに捕まり、店外に放りだされた。聞くところによれば、戦前に、そこで立ち上がって気勢をあげた面々がいたようで、その反省から、立ち上がっての気勢は厳禁だった。
ドイツは、ダッハウなど戦時中のユダヤ人虐殺施設などを保存し、公開展示していた。来場者に複数の言語で説明しており、自国小中学生が引率され、過去の事実をキチンと学んでいた。大勢の訪れた外国人見学者は、こうしたドイツのありように敬意を払った。警戒心などを抱いたりする人には出会わず、新生ドイツへの信頼の度を深めさせていた。それがドイツ人の愛国心や自信などの源泉にしようとしている、と見た。
こうした思い出にふけりながら、「平成史 自衛隊変貌の30年~幹部たちの告白~」を観た。わが国の「命令」や国民感情は、どうやら戦前のそれらに次第に近づいているように思われ、とても不安になった。
その直後だった、NHKニュースは韓国の市街地での動きを取り上げた。反日運動の映像は容易に理解できたが、次の場面には目を疑った。未来志向の対話こそが大事と、韓日対話の必要性を訴える多勢の座り込みデモの様子が映し出された。目を見張った。民度の高さを示す動き、と世界の人々の目に映った違いないと見て背筋が伸びた。
次いで、1人の日本人男性の活動が紹介され、喝采を送った。布で目隠しをして立ち、両手を広げている。その腕の中に、韓国の老若男女が次々と身を投じ、しばしのフリーハグに応じていた。これが大勢の声なき日本人の声を代表しているように思いたかった。
実はこの後、デンマークの勤労博物館で、教師に引率された中学生が授業を受ける光景を目の当たりにしている。包み隠さず過去の事実をデンマークでは教えているだけだ。