この対比。わが国の同じ時代の空気を吸っていた女性が、共に時代に翻弄されながら、まったく異なる人生を送っていた。それは齢差の差(平均で15歳ほど?)が大きく作用したのだろうが、何か他に大きな差を付けさせた要素があったに違いないと思われ、その何かを探りたくなった。その見極めが、時代の変わり目にはとても大事であるように見ている。これからの時代はいかにあるべきかなど、さまざまに想いが錯綜し、楽しい一時になった。
アメリカは第2次世界大戦で数十万人を下らない戦争花嫁を受け入れていた。その後に関与した朝鮮戦争などを含めるとその数は100万人にのぼるという。そのうちの数万人が日本人花嫁であった。
当初は、排日移民法で「帰化不能外国人」と見なされていた関係もあり、またアメリカ人を鬼畜と教えられていたこともあってか、大変な苦労を伴ったようだ。だが、1952年の移民法改正後は、様子が大きく変わった。在日米軍将校などの夫人が講師となって花嫁学校を作り、円滑な帰化能力を授け始めていたからだ。
それは、花嫁候補の多くが、将校の家庭でのメイドであったりPXに勤めていたりした関係もあって、個々人の尊厳を尊び、個別性を認める意識の持ち主たちに、大和撫子の人となりが理解され、好意的に受け止められたのだろう。
戦争花嫁は夢と現実の間に希望を見出し、夫のみが頼りの国に乗り込み、確かな居場所を自ら努力を重ねることで作り上げている。その不動の立場を得させた秘訣は「人生にとって最も大事なことを大切にしたこと」だという。それは「人生に前向きであること。心が善良であること。そして、思いやりを持って人に接すること」であった。
この番組の作成者は戦争花嫁を母に持つ1人の娘であり、その母たちの聞き取り調査をした。この成果がワシントンポスト紙で取り上げられ、大反響を得ていた。
彼女は最後に戦争花嫁に質問をしている。「あなたは日本に住んでいたら、同じことができたと思いますか」。それに応えて母世代の女性の1人は言下に「できません」と応じた。「日本の社会は、I think 沢山偏見がありました…」「だから、この国に来たことは、今までの人生で一番良い決断でした。当時は賭けでしたが、私は勝ちました」と続け、その秘訣は「日本を代表しているとの気持ちが強かった」ことであった、と過去を振り返った。
これはおそらく、数万人にのぼる戦争花嫁の偽らざる心境であろう、と私の目には映った。真の愛国心に燃えた日本人の姿であり、この番組を作った戦争花嫁の娘にとっての得心であろう、と映った。と同時に、アメリカで広く受け入れさせ、彼女たちに胸を張らせている要素であろう、と解釈した。
他方、国防婦人会に関わった女性は1941年には1000万人近くに達している。それは満州事変下にあった1932年に「一人の大阪のオバサンのおせっかい」から始まっていた。
船で戦地に送られる兵隊に元気を付けたかったのだろう。港での食事時にお茶を振る舞うことから始まったようだ。それが加速度的にその人数とサービスの幅を広げていった。
なぜかくも大々的な活動になったのか。それには2つの要因が重なっていたことを教えた。1つは、当時の日本の女性たちの立たされていた立場や都合であり、もう1つは陸軍の思惑であった。陸軍では、この活動自体にはなんらの価値や意義などを認めていなかった。だが、幾つかの利用価値を見出しており、感謝状の乱発や支援金を惜しんでいない
当時の主婦は姑の言いなりであり、家庭に閉じ込められていた。だが、この運動に参加すると、姑との絶対服従の窮屈な関係を断ち切ることができ、夜も堂々と外出できた。先輩は後輩に指図することができる。幹部になると並み居る女性の前で訓示もできる。会員は非会員を支配するような立場を得た。裁ちバサミをもって道行く派手な服装の女性を待ち受け、非国民とののしり、説教を垂れることができたなど。
しかもそれが、陸軍の後ろ盾を得て、社会に必要とされているとの自覚や自信を呼び覚まさせ、平凡な主婦にとって社会進出のいわば檜舞台になっていたようだ。
軍は、兵隊の送り迎えなどは付属的な位置づけにしかしておらず、女性の思想問題の誘導ないし思想教育の舞台として活かすことを思いついている。国は真実を伝えずに、女性のあるべき姿を『写真週報』などを発刊して「戦争に協力する女性の笑顔」を日本中にばらまき、「お国のために喜んで!」との組織的啓蒙活動に活用している。
「ぜいたくは敵だ」とのプラカードを掲げてデモ行進するなど、食料不足への不満を募らせさせずに済ませる役割を買って出ていた。進んで住民の監視役となりエリート気分にも浸っていた。夫や息子の出征を誇り、その戦死をわが勲章かのごとくに位置付け、戦死の通知にさえ涙を流さぬ風潮や、「お役に立ちましたでしょうか」と謙遜する風土づくりに貢献していた。あるいは防火演習に率先して参加し、絨毯爆撃にバケツリレーで応える国民の模範になり、組織作りに貢献し、感謝状に感激している。
その数は約1000万人。国内人口のおよそ6人に1人、過半の家庭の主婦が会員であったのではないか。軍は気をよくしたのだろう、都市爆撃を避けようとする国民を規制し、勇んで絨毯爆撃に立ち向かう機運を醸造させ、受忍させることに成功している。この番組のおかげで「そうであったのか」との思いを抱かせられた。これまで奇妙に見ていた当時の国民と国家の関係に奇妙な得心を得ている自分に気付かされあきれさえした。
こうした婦人たちも、戦争花嫁と同様に「人生に前向きであり、心が善良であった」に違いない。ただし「思いやり」の対象が異なり、「権力への忖度」に近かったのではないか。この婦人たちは「吾こそ愛国者なり」と胸を張っていたに違いないが、「自力本願」ではなく付和雷同型の「他力本願」が過ぎたのではないか、と思わせられた。
だからだろうか、敗戦後、国は銃後の被災者にたいして、軍人とは違って「契約関係がなかった」とうそぶき、補償問題には応じず、受忍を強いてきた。それは、この婦人たちの貢献を高く評価し、感謝状をもって清算を済ませている、とでも読んでいるのではないか、と憶測せずにはおれなかった。
数万の戦争花嫁は「日本を代表している」との自覚と誇りの下に異国でいわば孤軍奮闘し、人間としての振る舞いに留意していたわけで、今も日本人として胸を張り続けているようだ。他方、1000万人近くもいた国防婦人会で徒党を組んだ人たちは、その同窓会のようなものを聞いたことがないが、その心境はいかばかりか、と気になってしまった。