海詩が母子3代4人で。おり良き時に海詩の母・みかさんからメールが届いた。神戸に里帰りするが、わが家でも逗留したい、との知らせ。ならば「27日を挟んで」となった。NZで一緒に世話になった山本夫妻と再会してもらいたい。「ならば27日の準備もかねて」との日程になった。さらに、肝心の私の友人・みかさんの父・道夫さんはリハビリ中で留守がち。ならば、みかさんの母「香代子さんも」となって、母子3代の来訪となった。
海詩の父・ドンさんは「理想の夫であり、理想の父」と思う。妻も同感だ。この度も舌を巻くことが一杯生じた。まず「この一冬かけて」と覚悟していた溜まりに溜まった「玉切り」割り、を、到着後すぐに手掛け、BBQ当日の昼過ぎまでに片づけてしまった。
海詩もすごかったが。まず、無煙炭化器に溜まった21号台風関係の灰を、スコップで庭に、私が頼んだ通りにまき、空にすることから手掛けた<a>。みかさんは、母親の面倒があるにもかかわらず、「私にも何か」ということで、チマサンチェの苗をポット仕立てにする作業を引き継いでもらった。私が苗床からポットに移し変え始めていた作業だ。
初日の夕食は、手巻きずしでワイワイガヤガヤ。2日目26日は、雨勝ちの1日だった。皆さんがBBQ の買い出しに出かけた間に、私は雨がしょぼつく中で庭のニラを収穫。夕食は餃子<b>で、さらにワイワイガヤガヤ。ワインと清酒が進んだ。
BBQ当日は、予報では「晴れ間も」であり、「囲炉裏場で決行」と私は決めた。そのために、つまり雨でぬかるまないように、親水性舗装をしておいたのだから。そこでドンさんと、前日の内にその手はずをあらかた整えたが、その様子を見た妻は、ドンさんの「ほかに何か」の言葉に甘え、「樋の掃除を」と頼んでしまった。ドンさんは雨がきつくなり始めていたのに即決行<c>。妻も偉かった。一緒にずぶぬれになって補佐をした。
さらに、台風21号で、屋寝に木くずが溜まっていると見ると、ホウキをもって屋根に。ならば、と屋根のドンさんに「エンジンブロアーで」手渡すと、母屋を最初に<d>、最後は居宅の離れと、3時間ほどで片づけてもらえた。
海詩はこの間に、水鉢に残っていたカダヤシを、ことごとく水槽に移した。イノシシスロ-プに掻き集めておいた落ち葉を腐葉土小屋に運び込んでもらうと、そこはトランポリンの場<e>にするなど。「さすがはNZ]と思った。
実は、海詩はこのたび卒業時に、私も理想と見た、日本にはないCitizenship Award!という栄誉ある賞に輝いた。その位置づけをみかさんに質すと、次のような回答があった。
教師の推薦選挙によって、まず卒業する全生徒(最上級生の12歳)の中から数人の生徒を選抜。 その後、時間をかけ全児童による投票をして(文字の書けない5歳児も、挙手で参加)、ひとりの「学校市民」を選出します。 学校で1878年よりつづいている伝統だそうです。> 式のフィナーレなので、受賞者はなかでもとびきり大きいトロフィー(直径20センチ、高さ30センチ)をもらいます。 学業トップでなく、良きシチズンであることを一番上位に位置づけているのがNZらしい、と思ったのですが、どうやら起源は北アメリカのようです。
ご褒美に「方丈」に案内し、ドンさんが薪割をする側で、幼い海詩が「カセドラル」と叫んで拾い上げた木切れを見せた<f>。ドンさんもよく覚えていた。
みかさんも「私にも何か」と頑張った。種床でチマサンチェの芽が沢山出ており、私はポット仕立てを始めていた。それを引き継いでもらうと、仕上げた。もちろん母香代子さんを近隣の散歩や観光に案内する合間を活かしてのことだ。だから、裁きは始めた苗床の苗の根を、乾かないように私は3度補佐したが、おかげで300本近くものポット苗を育てる見通しが立った。
最期の日、海詩に土産をもらった。屋内での遊びの時間にこしらえた代物で、その半分以上を残して帰った。私は「マンボウ」<g>を書斎の宝物入れに、他は「方丈」の宝物に加えようと思う。