鬼の攪乱? 17日(火)。知範さんを見送った後で、畑に戻り、2つの畝に木灰や油カスなどを鋤き込み、畝に仕立て直した。まだ陽はあったが、居間に戻っている。既に疲れを覚えていたのかもしれない。夕食時までに散らかったテーブルを、と新聞の整理に当たった。やがて陽が落ちた。
いつものごとく、妻が工房から戻った。居間に陣取ってから2時間近くの時が流れていたが、この間に発症していたのかもしれない。この時から19日の昼までの40時間ほどは、何が起こっていたのか、とぎれとぎれにしか記憶がない。「鬼の攪乱」としか言いようがないことを体験した。
「おかしい」熱がありそう、と気付いたのは妻だった。夕食のメニューを妻が話題にしたが、「食べたくない」と私は応えたに違いない。「オカシイ」と妻は思ったようだ。「表面温度計」を妻が寝室からとってきて、私の額で確かめ、「どうしよう」と躊躇した。40℃の数字が目に飛び込んできた。
この「表面温度計」は、植物の葉の表面温度を調べたくて、ずいぶん昔に買い求めた代物だ。このたびの私の膝の故障を機に取り出してあった。1℃単位だが、掌では計り切れない温度差が即座にわかるので、シップを張る上で便利だ。
脇で計る体温計を取り出して来て、「これでも」と妻は計り直すことを薦めた。1分が長く感じられた。39.6℃だった。得心したように私は立ち上がり、上着を取り、ズボンを脱ぎすて、そのまま寝室に直行。ベッドに倒れ込んだが、後はまったく記憶がない。
パジャマに着かえさせてもらったのは翌朝、日が昇ってからだった。「私も、12時間も眠り続けることができるンだ」と、感心していると、「お医者さんを」と妻は口走った。だが、「どうせ応じてもらえない」と思ったようで、2度と迫らなかった。小さなシップを額に張ってくれたが、とても気持ちがよかった。
幼友達の医者・コボンちゃんを思い出した。「鬼の攪乱」に過ぎないと、自己診断したが、食欲がまったくわかない自分が不思議だし、チョット心配になった。
これまでに2度、原因がわからな病気を体験している。2度とも激痛を伴ったが、2度目は入院もしておらず、医者にも相手にされず、原因の追求さえ試みていない。
まず、2度目は在宅中の発症だった。背中のケンビキ(痃癖)のあたりに激痛が生じて、微動も出来ない。そこで、医者の息子で、医者になった幼友達のコボンちゃんに往診を頼んだ。アパレル会社に勤めていた頃で、1度目は勤務地で入院しており、地元でかかり付けの医者がなかった。
「森クン、食えるケー」と、迎えに出た妻に寝室に誘われながら、大きな声でコボンちゃんは呼びかけた。木造住宅で、まだ20坪余の頃だったから、玄関に入れば家中に響いた。妻が「食欲はあります」と応えながら部屋に案内した。
起き出すことは無論、口を開けても激痛が生じた。だからオデンを煮てもらい、1㎝角に切って、楊枝で口に運んでもらっていたが、それを妻は食欲と見たのだろう。
「そんなら、帰るワ。ニンゲン、喰えてる間は、大丈夫や」と踵を返しかけた。妻が押しとどめたが、カラダを動かし、患部を示せず、結局「診られへんやん」「お大事に」と言って、薬も出さずにコボンちゃんは帰った。この時も鬼の攪乱で、2日で旧に復した。
この度は、よく眠った。19日の朝、背骨の痛みで目覚めた。その間の、記憶に残っていることは3つ。小用に立ったはずだがその記憶はない。ウグイスがうるさいまでに囀っていたはずだが、覚えない。思い出せることは、その後ウトウトしながら妻に声を掛けられ、「吸い飲み」で2度、リンゴジュースを各50ccほど飲んだこと。その間に1度、ハチミツをかけたイチゴを、「瞳さんの(手土産の)イチゴです」と聞かされ、太い楊枝で食べたこと。縦に6つほどに切り分けてあったことも記憶している。
そのご、カラダを右に、左に、と傾け直し、その痛みを和らげたが、辛かった。これは、回復の知らせであったようだ。「コロナウイルスではないか」とは考えてもいない。快晴だった。「昼食は?」との誘いに乗った。起き出して、洗面所に向かったが、「お粥にします」との声が尾って来た。「有難い」と思った。
この食事を機に、起き出した。安堵したのか、妻は工房に去った。私は古新聞を広げ、そこにジャガイモの種イモをのせた。次に、風呂の焚き口から木灰を取ってきた。小さな包丁を用意した。次第に、気力が充実してゆく。
「インカのめざめ」と「十勝こがね」という種イモの芽を探し、包丁を入れた。そして、この植え付けを済ませ、前もって畝に仕立て直しておいてヨカッタと、つくづく思った。「あの時まで」気力や体力は充分であったわけだ、と思い返した。
それにしても、なぜかくも発熱したのか、とこの2度目の体験に想いを馳せた。背骨が硬直するほどと爆睡しながら、体重は2kg近く減ったが、ケロッ、と言ってよいほどこの度も復調した。
発熱は、45年ほど前にも体験した。12月30日だった。妻の勧めで16~17年ぶりに臼と杵での餅つきを再開し、2年目か3年目のことだった。たくさん餅をついていた頃のことで、突き手は私一人だった。
途中で寒くて堪らなくなり、重ね着をし、マフラーを2重に巻いた。臼と臼の間は、蒸篭を蒸す竈の側で暖を取ったが、足らず、屋外だったからヒチリンを出してもらって温めてもらったが寒かった。もちろん、途中で妻は寝床の容易をした。
すべてをつき終わり、私はバタンキュー。妻は両親と3人で餅をすべて丸め終わり、臼や杵を洗い、乾かす手配を済ませ、私の体温を測った。その時も40℃だった。
私は眠り続けて、3カ日後にお節料理を食べた。発熱に強い私は、うわ言などを言わず、受け答えがはっきりしていたから、医者の世話にならずに済んだ。
二度あることは三度ある。用心したい。