この岐阜県の旅は梅雨を満喫する旅にもなった。中仙道の緑と山並みは、水蒸気がとてもよく似合う。
2020年6月12日(金)岡田さんとあうん社の平野智照さんがアイトワで合流。松山から運んでもらった岡田さんの車で10時前に出発。一路岐阜県を目指した。
まず土岐市で「やっと巡り合えた!」との実感を得る出会いに恵まれた。かねてから私は、給食用食器をプラスチックから焼き物に代える運動に敬意を評してきた。その運動を繰り広げた人、小木曽順務さんと、その食器との出合いだった。しかも食器は、リサイクル活動の一環として現実化しており、エコマークを取得して軌道に乗せていた。私は、アルミの食器を用いていた世代だから、1時間余も縷々小木曽さんと語らうことになった。
小木曽さんは、お寺の五男に生まれながら、巨大タンカーで地球を3周し、世界の海を見た人だった。その体験が異世界に飛び込ませたようだ。まず、廃棄された焼き物を粉砕して原料化し、高強度の磁器食器に生まれ変わらせて、学校給食用分野を切り拓く会社(株)おぎそを立ち上げた。それが、高強度磁器食器の今日を築かせた。
その1200度で焼成するセラム工芸にも案内してもらったが、この道では最大規模の工場だとか。
この事業の推進過程で、小木曽さんは学校での生ゴミも問題視し、堆肥化リサイクル装置の販売保守事業にも参画し、減量化を軌道に乗せていた。また、船員時代に、海洋をただようプラスチックごみの問題を実感し、深刻に受け止めていた。小木曽さんは今や、その対策に身を挺するがごとくに取り組んでいる。その姿勢と情熱にはただならぬものがあり、すっかり心惹かれ、ある質問をして「案の定」と得心した。
実は、私は半世紀以上も前から海外出張に出かける身となり、飛行機から地球を眺め、「なんと地球は小さいこと」と思い知らされている。地球は丸い、と容易に実感できたし、半日もかけずに地球の反対側にたどり着けた。「地球は小さい」と体感した。
小木曽さんは、「海は広いぞ、大きいぞ」と謳われる海洋をタンカーで巡りながら「地球は小さい」と観てとった人だった。私の場合は体感だったが、小木曽さんは大海原で星を眺め、コンパスを駆使して割り出した実感だろう。この「地球は小さい」との共感が互いに幸いしたようで、3日続けて(この日の夜だけ除き)行動を共にすることになった。
まず、有名なマルコ醸造の品ぞろえを観たくて、日本大正村の「道の駅」を訪れた。前もって岡田さんから、宮崎タオルの製品を扱っている、と聞かされていたからだ。一昨年、中国旅行を同道した宮崎陽平専務とケイタイで旧交を温めた。「なんと!」この店番をしていた女性はマルコ醸造の会長で、「さすがは!」と感心。
次いで、マルコ醸造の会社を覗いた後、恵那市に移動。夕食の約束をしていた佐藤一斉顕彰会の会長宅まで案内願い、小木曽さんとは一旦のお別れ。翌朝の宿での再会を約した。
念願だった宿「藤時屋」を訪ね、コロナ騒ぎが起こる前(昨年12/8)に立ち寄っていたことを思い出してもらい、再会がかなった。荷を解き、鈴木隆一先生との夕食の場に望んだが、そこで、この度3度目の縁に触れており、無知を恥じることになる。
ふた昔前の短大時代でのことだ。短大最初の大仕事は漫画(4コマやストーリーマンガの)コ-スを日本で最初に設置することだったが、そのおかげで恵那市とは関わり合っていた。下田歌子の偉業をストーリーマンガで著わしたこことは知していたが、岩村の三偉人の一人とは認識していなかった。早速、監修に当たった篠田先生にケイタイで詫び、旧交を温めた。同時に、翌日の3偉人めぐりに思いをはせた。
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藤時屋に戻り、コロナ騒ぎ後初の客で、貸し切りであったことを知った。ここは岩村で代々時計屋を営んできた旧家であった。その主は凄腕の時計職人で、街の生き字引のごときお一人だが、この度は挨拶だけで終わった。時計店の斜め向かいに居宅があり、藤時屋の看板をあげ、貸し部屋を営んでいたようだ。岡田さんは、グループでの利用者になったことがあり、その時に宿泊もできるようにと勧め、岡田さんはその客第1号に収まったらしい。宿を切り盛りする夫人は「言志四録」の(至言の1つを、各戸がそれぞれ選び、各門口に張り出す)普及運動の推進者だった。座敷の控えの間での歓談は弾み、天正疎水のせせらぎの音が子守唄になった。目覚めると紅白のアサガオと岩村の三偉人をしのぶ1日が控えていた。
まず岩村の旧街道を散策した。前日気になっていた天井の張り出し部は、分厚い床板に設えた切り炬燵だと知った。格子窓の一部の張り出しは、長い街道の往来者を見届ける窓だった。歴史ある街や佐藤一斉などを誇る人たちの心意気も十分に理解できた。百草丸といえば、胃潰瘍をこれで私は5年かけて完治させた。
佐藤一斉の「言志四録」に縁を感じた。サラリーマン1年生の時に、その1つに触れていた。勤めた商社では社内の随所に額装して掲示し、社員に座右の名のごとくに薦めていた。「名を成すはことごとく困窮のときにあり、敗る事の多くは得意の時に因る」。渋沢栄一もこれを座右の銘にしていた。
3偉人の2人目の三好学は、「景観」という言葉を創った人でもあった。また、岩村歴史博物館に立ち寄って時に、三好学がアインシュタイン来日時の案内役を引き受けた1人であったことを知り、身近に感じた。学生時代の恩師の1人もその一人だったからだ。3人目の下田歌子は、実践女子学園の創設者だが、昭憲皇太后から歌子という名を与えられた歌人でもあり、この旅では随所で歌子の縁に触れることになった。
名城ランキング10位の岩村城は割愛した。恵那市に移動し、岡田さんに是非ともと勧められていた書家としても知られる神谷敏行さんを訪ねた。道中で明智鉄道の車両と並走し、そのギャラリー茶房「神谷家」で昼食を予定していた。同道のあうん社の平野智照さんも、同様に興味津々の様子だった。
古民家ギャラリー喫茶として知られる神谷家は、雪の季節は閉鎖し、3月から11月末の 土・日のみ営業している。古民家は立派だったし、食事は美味しかった。書も魅力的で、ここでも歌子の天才ぶり(5歳の時の歌)や歌子の由縁を知った。それ以上に、平野さんと私はこのご夫妻の生き方に惹かれた。
ご夫妻とはすぐに共感。京都の嵯峨で、と自己紹介が至ったところで「あの」と神谷敏行さんが口を挟まれた。よほどアイトワの喫茶店にあるピクチャーウインドーを気に入っていただけたようだ。お訪ねいただいた時の印象を聞かせて頂けた。私は、神谷さんがユンボも駆使し、池も掘り、夏場の涼み台も設えていたことにも感激した。平野さんは早速、神谷さんと話し込み、つけ入るスキがない。
古民家の上手な改装と活かし方を見学し、色紙や著書を頂戴した。その上で、再開を約し、一路雨の中、阿部ファミリーご推薦のペンションに向かうことになった。
阿部ファミリーを交えた8人での夕餉が控えていた。実は、温泉宿と思われる先と2か所を紹介されたが、岡田さんに選んでもらってヨカッタ。このペンションは、阿部さんのこの地での出発点だった。この建物の建設にも携わったという。夕餉は賑わった。
12時ごろに阿部ファミリーを訪ねることにして、コロナ騒ぎ下の馬籠と妻籠の様子を覗くことにしていた。9時前にたどり着いたこともあり「犬の子一匹」と言いかけたが、一匹の犬に気付き、しばし立ちすくみ、道をあけて通し、見送った。
妻籠に移動し、朝のコーヒーとなったが、観光客には出会わなかった。訪ねてヨカッタと思った。その気持ちは、女子学生を引率し、泊った宿を見かけたときに最高潮にたっした。懐かしかった。
大団円は阿部ファミリーをスイートホームに訪ね、昼食を振る舞ってもらう約束だった。だが、私にはもう1つ、もっと大事な狙いがあった。平野さんに、阿部夫妻が、次いで娘が2人加わり、ファミリーで切り拓いてきた生活をつぶさに観察し、その真価に気付いてもらいたかった。わが家と同じコンセプトだが、わが家より手作り率を高く出来る夫婦の役割分担をしており、尊さを是非とも理解してもらいたい。
ナビを頼りに、私たちはたどり着こうと試みたが、寿也さんに最寄りの明智鉄道の駅で待ち受けて貰えていたようだ。チョット心細くなった時に、チョイト追い抜く軽四輪があり、見ると寿也さんだった。緩やかな棚田で3度曲がりたどり着いた。
そこは、見慣れた茶色い建物で、上階がゲストルームだ。この度初めて、小木曽さんの好奇心のおかげで、1階の木工工房を覗いた。「ここで!」と思った。アイトワの四季を飾る額や、花車の車輪の補修を頼んだことがある。
ファミリーの愛犬に出迎えられ、導かれ、手作り屋敷に踏み込むことになった。振り返ると、岡田さんの白い車が見えた。その左の建物は工房とゲストルームで、右手がセミナーハウス。正面を向き直すと、母屋に張り出した薪置場と、その奥に、ファミリーの夏の憩いの場が見える。そこは吹き抜けだ。使い込んだミニ重機の右手に小山。そこは16年ほど前に、敷地の大造作をした時に出てきた岩が活かされており、内部は食料の貯蔵庫になっている。皆さんの好奇心のおかげで、くまなく建物から畑まで巡るツアーが始まった。
吹き抜けの憩いの場に入ると、ピザ釜を始ものだ」と思った。わが屋から嫁いだネムの木がそびえていた。その右手は、最も新しい部分で、標高600mにあるお宅のダイニングキッチンなどがある。左手のネムの木の向こうに畑が広がっている。
畑の案内では、まず前庭の小山に登った。その登り口にはジューンベリーが実り、頂上の一端はブルーベリーの木で縁取られていた。その並木は、苗を挿し木で育て、年を追って伸びている。
セミナ―ハウスに招き入れられる段になった。愛犬は居宅とのつなぎ目を棲み処にしている。迎えた客の人数が少ない時は、明るい側室で食事を振る舞われるが、階段を3段登った広間で、既に料理が揃っていた。早速平野さんの質問が始まった。
私は大皿に、その表示“MADE IN OCCUPIDE JAPAN”に目を留めた。仁美さんは「2級品だ」と思っていたようだが、違う。どなたもご存じないと見て、私も海外出張に初めて知るところとなり、驚いた体験を紹介した。これも私は生きる意義と自信の礎にしている。敗戦後の輸出品に、再独立するまで間に用いていた原産地表示だった。この事実を義務教育で教えない国の姿勢(劣等感? 虚勢?)を恥じたものだ。食器が2級品ではない、施政者がレベルが2級を示している証拠だろう。昼食は実に美味しくて楽しかだった。残念なことに姉妹は挨拶だけで、加わってくれなかった。
食後、元アイトワ塾生の網田さんとケイタイで、2つのことを語った。まず、網田さんお手製の贈り物が、建具にうまく活かされている、その確認の再訪を促した。次いで、この旅で留守にした間に訪ねてもらった詫び、だった。
お別れの時間になり、まず迷い込んできたという三毛猫と別れ、ファミリーには丘の下までの見送ってもらい、しばしのお別れをした。このファミリーの生き方に、平野さんにもとても関心を示してもらえたようで、ある了解を得た、と嬉しそうだった。小木曽さんとはここで別れ、私たち3人は京都を目指すことになった。
この度の訪問で、とても嬉しい記録にも触れ得た。アイトワを初めてこのファミリーが訪ねたのは2005年だが、この年をファミリーは開拓元年にしていた。その折に、私は丘の大改造を提案したが、自ら重機を駆使して取り組んでいた。次々と予期せぬ岩も出てきたようだが、食料貯蔵庫などにうまく活かした。その創造力の駆使が求められる作業が、ファミリーにとてもは印象深かったに違いない。
この旅の、これが大団円になった。