6月は、長い1日から始まり、中旬に「サムライニッポンの可能性」を2か国語でネットに載せました。ここが日本の切り札の切りどころ、出番なのに、と歯がゆい思いです。
上旬は、南面の生け垣の剪定に着手し、午後は2時から第2回の映画会開催で始まり、デンマークから届いた嬉しい知らせと待望の小雨で終わりました。夏日が続き、畑はすっかり夏の様相。妻はサルの襲撃に慌てて、初めてにして最後になったタケノコを収穫。裕一郎さんと「実感」をテーマに語らい、汎用型AIロボット時代に想いを馳せました。
他に、鯛の食べ比べ。祐斎さんの炉端に招かれ、500万年前の木片を入手。エンドウの支柱をすべて解体。2度に分けてタマネギを収穫。庭の南面で未来さんと私の手に余った木の始末を知範さんに依頼。ドクダミ茶を試飲の上、裕一郎さんに1年分の収穫を依頼。バジル苗の植え付け。モロッコマメの支柱立て。ネギの更新に着手。そして、伴親子の来訪と、これぞ「噂をすれば」の来訪に加え、初見の虫に多々遭遇、レタスの異変、ジャガイモの結実など、ビックリすることが続きました。
中旬は、前夜半から本降りになった雨が4日間降り続き、梅雨を実感。その初日、雨の切れ目に第2次ネギの更新を済ませ、翌朝から岡田さんとあうん社の平野さんと連れ立って2泊3日の旅に。土岐、恵那、そして中津川に至る岐阜県の旅でした。行く先々で縁(えにし)に触れて感激。この旅の大団円はこのお2人他1名に、阿部ファミリーの生活を紹介し、皆さん大感激。私も、汎用型AI時代に備える私流の取り組み方を追認し、得心。帰宅すると、この間の雨で庭はうっそうとなり、夏野菜はグンと育っていました。
翌日から3日間は晴れに恵まれ、朝は連続PCの虫。昼は庭仕事で、トマトやキュウリの整枝。トウガンの植え付け。インゲンマメの初収穫。未来さんとコイモの畝の手入れ。ジャガイモ1種の収穫。裕一郎さんは、薹を立てたミツバとササの刈り取り、ハクモクレンの未受精花芯拾い、サルの畑への進入路調査など。そして夜は読書でした。
18日は午後から雨と知り、朝1番に一畝耕し、夕食時まで書斎。夜は妻と雨脚を気にしながらTVで映画『老人と海』を鑑賞。人生のエポックを振り返りました。雨の翌日は終日書斎。快晴で明けた20日は知範さんとPC作業、囲炉裏場での剪定クズさばき、そして人形工房用ノートパソコンを求めて市中へ。その間に久保田さんの絵の入れ替えがあり、知範さんを妻のギャラリーに案内。新作が幾つも生み出されていました。見送った後、陽が落ちるまで草刈りに励みました。
下旬はコロナ騒ぎのオカゲかセイか、予定表は、常連の若者3人を除き、来客予定が1つだけの真っ白で始まりました。ですから、庭仕事を存分に、と心得ましたが、次々とお待ちかねの知らせが続いたのです。ノールウェイの人になった明朱花さん一家の来訪予定。仏教大生は7月に4回に分けて。あるいは土岐で知り合った爽快な人に訪れてもらえそう、など。
また雨に恵まれない日が続くなか、ブルーベリー畑の下草刈り、サル対策の覆い掛け、また山ができた剪定クズさばきなど庭仕事に励みました。この間に明朱花さん一行を迎えた他に、5つのトピックスに恵まれました。帰郷前の岡田さんに無理を言って立ち寄ってもらった朝。知範さんに空中での作業を、裕一郎さんには地上作業を頼み、私は多様なルーチン作業に当たり、2度のお茶と昼食時にタップリ語らった1日。29日、初の朝飯前の一仕事。梅雨らしい雨になった月末は、大西暢夫さんと10数年ぶりの再会。2年がかりになった多肉植物の3つの寄せ植え鉢は、様々な印象をこれらの鉢は皆さんに与えているようです。
~経過詳細~
トンボやチョウが舞い、この庭で自生のケシや、この時期のマチヨイグサが咲き始め、時計やカレンダーの世話にあまりならずに済んだ1カ月でした。
陽差しが心地よくなるとカナヘビが「こんにちは」。アマガエルは雨が欲しそう。湿った所ではサワガニが散歩? それとも迷ったのか。キノコの季節を感じて、落ち葉を注意してひっくり返すと、「ネンキンかな」。
梅雨らしい雨が降った。畑の野菜がムクムク育つ、と思いきや、今年はナスビが不作。庭を見回すと、樹木がうっそう。この秋には、オニグルミも大幅に剪定しなくては。
このたび初めて、様々なレタスの花を、妻は食材に活かし始めた。サラダ、スパゲティ、あるいは焼きそばに、など。いずれも「なかなかイケル」。レタスの花「元年」になりそうだ。
温室に、この一帯では昆虫界の頂点に立つオオスズメバチが迷い込み、その羽音を聞きつけたアゲハチョウの幼虫が、ヤブガラシに食らいつきながら緊張する。
カフェテラスではペチュニアが夜明けを待ち、日が昇ると水鉢ではスイレンが咲き始め、ミニ湿田では、年末の出番にそなえてクワイが陽光を奪い合い始める。来年も、まずお煮しめの初賞味は、クワイと決まっている。昼間のそよ風が、よい香りを運んできた。クチナシだ。この暮れのお煮しめでも、クワイやクリキントンの色付けは、このクチナシの実が出番だろう。日がかげり始めると、アマガエルが夜の狩りに備え、化粧替え。
やがて梅雨が明けて、日差しがきつくなる。その前触れか、自然のいたずらや豊かさや、あるいは不思議さにも多々触れた。ミノムシが久しぶりに増え始めたようだ。2年がかりでフェンネルを種から立派に育てたが、おしゃれなカメムシを招いた。ジャガイモの畝で「あれッ!」と思った。よくよく見て、ナス科の植物だと実感した。こんな小さなカミキリムシ?
これもセセリ蝶の1種かな、と思っていたら、次々と珍しい昆虫がお目見えした。
これは「日照りのせいで」と曲がった初成りキュウリ。シシ肉のつまみと合併せてビールを傾けたが、共に味が濃くて、ニンマリ。「これは?」と、レタスを見た。「異常現象」に違いない。その上部をとって食したが、遺伝子組み換えよりは安全だろう。後には杓子のように平らな軸が残ったが、すぐに畑の土に戻ってしまった。
これは何がそうさせるのだ、と大暴れのサルを恨みたい。タケノコはことごとくサルに襲われ、収穫はこの1度で終わった。こんなことが、もう1年続いたら、ミニ竹藪がダメになってしまいかねない。初成りのナスとトマトも襲われた。青いトマトはちぎったまま食べずに捨てて行った。これがわが家の初成りトマトとして調理したが「旨い」と思った。いつもより甘い錦糸卵との調和だった。ついに、油断も隙もないサルの襲撃に備え、電柵や獣害フェンスで囲った畑の中のズッキーニなのに、ネットを被せた。
つくづく、自然や季節は、あるいは時刻とか美味の原点は「実感」するものだと思う。
コロナ騒ぎのオカゲかセイか、外出は3回で終わり、財布に触れる機会は2度の外出時だけ、という1カ月になった。だが、知範さんを始め常連の若者3人のおかげもあって、ヒトサマを多々お迎えする機会に恵まれたし、外出の1回は2泊3日の旅で、多々新しい縁にも恵まれた。
月初めに妻が、喫茶店の「夏休を返上する」と言ったので、「昼食は一人で」とらざるを得ない日が増えそう、と覚悟した。だが、そうはならなかった。それは、まず裕一郎さんの逗留のおかげ。次いで、喫茶店は、コロナ騒ぎのオカゲかセイか開店休業状態の日が多く、妻が(裕一郎さんがリハビリで不在になる週の後半に)しばしば付き合ってくれた。おかげさまで、一人きりで食事を、ということが極端に少ない1カ月になった。
最も印象深かった食事は「焼鯛の食べ比べ」だった。未来さんが夫・和樹さんの郷に帰った土産といって小鯛を届けてくれたもの。食後、3人分の骨を1つの皿に集めた妻が、「ホレッ」とばかりに示した。裕一郎さんも私に倣い、丁寧に食したからだ。彼は「やっと右手で食べることができた」「これが本当のリハビリ」とニッコリ。
実は、私は小学4年生の時から、ヒヨコから育てたニワトリのシメ役を受け持たされたし、中学1年生の時に、ヤギの子を(解剖の)教材に差し出した。それ以来、この丁寧に食べきる作法を身に着けてしまった。生涯最初の、実感を伴った学習だったのように思う。
来客は、岡田さんを1日に迎え、第2回目の映画会開催が最初。その後、知範さんと未来さんに2度、3度と訪ねてもらえたし、裕一郎さんには週の半分(毎週、リハビリ明け)はわが家で過ごしてもらえた。
最初の外出は、祐斎さんの炉端に誘われて、乙佳さん一行3人と出掛けたこと。まず祐斎さんが(琵琶湖で捕って)干物にした若鮎を、丁寧に炙って振る舞うことから宴は始まった。締めは、牛のカイ部をローストしたビーフだったが、共に初物で美味だった。また、専用の信楽焼きで(油不要の)調理をした目玉焼きも初物で、卵そのものの味と、フワーッとした白身を賞味、感心させられた。
対岸の嵐山が迫る黄昏時、保津川を見下ろす絶景で、ゆっくりと過ぎ去る時間と、珍味を肴に交わす話題も新鮮だった。祐斎さんが故郷、熊野で撮ったという雲の写真もその1つだった。だが、なんといっても私にとって、最も心惹かれたのは、恵美夫人が味付けしたサラダや煮物。野菜の味を微妙に見分けられる人だけあって、その味付けは繊細だ。
前回の訪問時に、500万年昔の木を用いて染めたという草木染めを見たが、その木の断片を、この日は土産にもらった。4半世紀前に発見されたもので、化石化しておらず、とても珍しいシロモノらしい。
来客が重なった最初は、6日で、共に久しぶりの来訪だったので思いで深い日になった。伴さん家族は、ある情報をもって午前の来訪。立ち話しだったが、長話しをした。コロナ騒ぎでゲストハウスは休業同然、とのことだった。次は、午後のお茶を終えようとしていた時だった。半世紀近く前のエジプト旅行で出会い、意気が合い、今は巨大企業の役員になった友人が、夫婦でヒョッコリ。これはコロナ騒ぎのオカゲだろう。京都らしい京都を、と立ち寄ってもらえた。
2度目の外出は2泊3日の旅だった。ある意図を心に秘めたあうん社の平野代表(作家でもある)と、岡田さんの3人で、土岐に始まり恵那で終わる岐阜県の旅。梅雨期の中仙道は初めてだったが、立ち込める霧が街並みや山の緑を一層引き立てた。行く先々で多々縁に触れ、幾つもの念願をかなえられ、嬉々たる時空になった。
もちろんマスクを、お守りとして胸ポケットに忍ばせて出掛けた。他に誰も見学者がいない観光施設で着用を求められ、その時だけ取り出した。
3度目の外出は、市街地の大手電機店まで知範さんに連れてもらった。人形工房にノートパソコンを設置して、操作は「妹にしてもらう」との妻の要望。大手電機店では異様な光景にギョッとして、万一に備えて(咳でもしようものなら、と配慮し)、まずボトル飲料を買い求めた。ついにアベノマスク姿には出会わなかった。
最後の来客は、予定を22日に知らされて、26日来訪の明朱花(あすか)一家、と思っていた。それは出産と成長の報告であり、この1カ月の大団円に相応しい、と胸を膨らませた。それ以上だった。妹の朋香母子を同伴だったし、赤ちゃんは母乳だけで、すこぶる順調な発育だった。夫のカールさんは、6カ月の育児休暇中。朋香さんから畑仕事に精を出し始めたと聞き、アイトワ菜など2種の種と、2種の苗を譲った。このときはまだ、月末の大団円のことは知る由もなかった。
月初めは長い1日だった。朝食後、まずフジの徒長枝摘みから手を付けた。次いで庭の南面で、生け垣の背丈をシカが飛び越えない二段構えにする、との方針を決め、2mで止めることにした。それ以上に高く伸びた木の枝を、東の端(写真手前)から手を付けて西に向かって切り進んで行く作業だった。10時に未来さんが来訪。ほどなく裕一郎さんが帰宅。ここで作業を一旦中断し、お茶の時間に。
お茶の後、若い2人は別々の作業を受け持った。未来さんは南面の生け垣で、私の作業の助手。裕一郎さんは1人で自発的に、ドクダミ摘みに当たった。
未来さんは、私が既に刈り取って地面に散らかしていた枝を(拾い上げ)囲炉裏場まで運び込んだ。この間も、私は次々と西(写真の奥)にむかって2m以上に伸びた垣根の枝を切り取って行った。2人は野小屋の前あたりでバトンタッチ型になった。つまり、未来さんの拾う分が(運びきって)なくなり、私が切り取った分を直接受け取ることになった。
ここには、株立ちの、背が高いツバキが生えていた。そこでその幹を、1本切り取った。丁度その時に昼食の時間になった。
1時に、ある来客の予定があったので、昼食のあとの2人に、後学のために陪席してもらった。そして2時から映画会。2本立ての映画が6時過ぎに終わり、皆さんを見送った。夕食は裕一郎さんを交え、4日ぶりに3人でとった。私に倣い、タイの食べ比べをした2人は、互いに痛めた利き腕を見せ合って、不名誉の傷をねぎらい合っている。
その後で、妻がポツリと、ハッピーの養子先を口にした。だんだん衰える自身の体と、向こう数年はむしろ力強くなるハッピーの体力をおもんばかり(食事をしながら)打ちひしがれていたのだろう。いつもの私なら「躾が悪いからだ」といって叱っていたに違いない。だが、そうは反応しなかった。ハッピーの散歩を私に代われ、と言ったことはない妻が、ハッピー(の元気盛り)を第一に見据え、ひたすら心配していることにとても心惹かれ、同情したからだ。この日から、裕一郎さんは、在宅日はハッピーを連れ出し、十分な時間をハッピーに割くようになった。
この2人は共に利き腕を負傷したわけだが、それぞれの行末を真剣に考える機会になったようで、長い夜になりそうだ、と思った。裕一郎さんは、これから長い人生を歩む上で、妻以上に真剣に、心に何かを刻んでいるに違いない、と感じたからだ。
実はこの日、裕一郎さんのリハビリに役立つのなら、と私は心の内に幾つかのプログラムを用意して迎えていた。その最初に「ドクダミ茶造り」を、と目論んでいた。
先月下旬に、この準備をすでに済ませたようなことになっていた。ドクダミを摘んで、洗って、干し、乾き上がったところで刻み、妻に煎じるようにして煮てもらい、試飲している。「これならいける」と、2人にも試してもらってあった。
その上に、この日は2度も勇気づけられることがあった。まず午前のお茶の後で、彼は左手1本で大量のドクダミを抜き取っていた。そして夕食時は、「焼鯛の食べ比べ」のようなことになったが、「これが本当のリハビリ」と発言していた。
気をよくした私は、ドクダミ茶は利尿剤になり、腎臓への負担を減らしそうだし、私の腎臓は弱り気味で、これから愛飲したい、と話した。同時に、ドクダミは抜き取っても根が深く、枯らすことはない、と教えた。そのうえで、昼に大量にドクダミを摘んでもらったことを感謝した。
さらに、この庭ではハクモクレンが未受精の花芯を落す時期であり、それを拾って堆肥に活かす作業や、ササや、薹を立てて花を付けたミツバを、ハサミで切り取り、夏野菜の畝に被せる作業もある。これは、マルチングを兼ねて肥料にする作業だ、と説明した。また、シノベ(太くて背が高く伸びたササ)を刈り取り、果樹の根元に敷いて肥料にする作業も待ち受けている、とも話した。
この時に、なぜか裕一郎さんは、アメリカ留学での体験を交え、日米の教育のあり方を話題にした。彼我の決定的違いの指摘であった。
わが国では、国が検定済みの教科書を、ひたすら理解させ、記憶させる進め方だが、アメリカは違う。それぞれオカミの検定など不要(オカミなどない)の教材を選び、教科に取り組む意義や目的などをキチンと納得させ、自分の頭で考えて、各人が自分の意見を持ち、表明せざるを得ない方向に誘って行く。覚える内容よりも、各人の考える力や、その応用力などを引き出し、各人の考え方を大事にする教育だ。
なぜか私は、急に20年ほど昔のTV録画を見直したくなった。それはわが家の生活を紹介したNHK-TVの番組だった。「案の定」この収録の中で(独力で成し遂げたい)未来の目標を語っていた。当時は、座敷の前庭には、大きな円形テーブル状に育てたツツジの植え込みが2つあり、それが日陰を造り、野草が茂るのを防いでいた。その南側に、2本の苗木を植えたばかりであった。
あれから20年が過ぎ去っていた。今では、そこは苔庭になっており、円形テーブル状の植え込みはない。代わって、苗木だったハクモクレンとサラの木が大きく育っており、共に落葉樹だから、冬は葉を落して陽を通し、夏は遮るようになっている。既に、念願通りに、完全自動(スイッチのオンオフも不要の)スダレの役目を果たしていたことになる。
フト私は40数年昔のあるエピソードを思い出し、裕一郎さんに話した。それは、外国人学生のホームステイを、わが家が受け入れた最初の1つだった。女子学生を除草に誘ったが、ストラテジー(戦略)を質されて、一瞬たじろいたが、いつもの私の心掛けを話した。
「ここでは、まず種を結んだ草を抜く。それが終われば花を付けた草を抜き去ってしまう。この一帯には、薬草を始め、残しておきたい草がないから」と、これがこの日、私のここでの除草の心掛けだった。学生は「メイクセンス」と喜んだ。
この4カ月ほど後に、その両親が訪ねて来たが、娘はこのエピソードを、1つの思考法を身に着けた事例として捉えており、自慢話の1つに加え、両親を安堵させた。
「ボクらの世代はハウツー世代で…」と、裕一郎さんは嘆いた。もちろん私も、1000人もの女子短期大学生を始め、大勢の学生に直に接してきた。だから、よく承知している。
そしてそのような教育をしてきたことが、今日の日本の沈滞と大きく関わっているもの、と睨んでいる。この30年ほどの間に、中国はGDPを20倍に伸ばしており、アメリカですら2.5倍にしているが、わが国は沈滞状態に留まっている。困ったものだ。
特化型ロボットにすら席を奪われかねないハウツー人間からの脱却が急がれる。裕一郎さんにはこの度の負傷を契機にして、未来の方から微笑みかけるような人生を目指してほしい。ハウツーを習う事は、もちろん尊いが、ハウツーそのものは特化型ロボットに記憶させるものと似たようなもので、ロボットにさせかねず、その人の未来を約束しない。
裕一郎さんと、ジン&ジンジャエールをひっかけて、この日はやすんだ。
翌日から彼は、ドクダミ取りとハクモクレンの未受精の花芯拾いなどに並行して取り組み始めた。ドクダミを左手で抜き取り、右腕で抱え、収穫した。それを妻は洗って、3か所に分けて干した。後日、干しあがったところで私が刻み、妻が袋に茶葉として詰め込み、保存している。
ハクモクレンの未受精の花芯は、何日にも渡って落ち続けるが、今年は1万個近くを落したはずだ。私が2泊3日の旅に出た後は、彼が1人でこの拾い役を受け持ったようだ。
その後、彼はシノベの刈り取りにも当たったが、シノベが生えているところは、野草が育つに任せ、夏場は手入れしないところだ。トカゲやヘビ、あるいはキリギリスやバッタなどが忍び、コジュケイなどが狩場にするブッシュ。だが、裕一郎さんは難なくやり遂げた。
後日談がある。裕一郎さんが、黄変したサラの落花を拾っていた月末のこと。お互いに感謝し合ったが、「ヨカッタ」と思った。
「ここには、こんな体でも、することがいっぱいある」「つい夢中になってしまい…」不要なことは考えずに済み、ココロのリハビリにもなる、という。彼のような立場の(仕事と負傷が重なった)人が、病院にずっと詰めていると、とても辛い心境に追い詰めてられかねないようだ。気を病んで吐く人も見た、という。
この間に、2泊3日の旅で、阿部ファミリーと触れ合っていた私は、彼らの生き方に汎用型AI時代にも備え得る知恵を見出していたことを振り返った。ハウツーといえば、独自に編み出すもの、あるいは仕立て上げるものであって、習って済むものではない、と思う。昔の職人は弟子に教えたりはしなかった。弟子が見様見真似で独自の技に目覚め、親方を超えようとしたものだ。
こんなに多くの印象深い本に、ほどよいテンポで恵まれた1カ月は珍しい。また、父の日があったので、ありがたい贈り物にも恵まれた。さらに、野菜の季節が変わり目ゆえに、ハッとする食感や美味も楽しめた。加えて、知範さんを人形ギャラリーに案内する初めて機会と、ハウツーでは済まない遊具を覗く機会も得た。裕一郎さんとは、アイトワが目指す銘々品化の一端を共感する好機にも恵まれたし、未来さんには加齢対策のあれこれやをはじめ、ポスト工業社会への備えのヒントを語ることもできた。
このはじまりは3冊の、岡田さんにもらったいわば予告編の本であった。あうん社の平野さんと出掛ける2泊3日の旅に備え、あうん社と平野さんに関わる2冊と、旅の1つの目的である『言志四録』の概要を理解する一書であった。これは農業時代に生まれた至言集だが、工業時代に忘れがちとなり、次代を迎えるために取り戻したい心だと思う。
次いでデンマークから新刊発行の知らせがあり、やがて出版社から送られてきた。そのくだりの1つに、工業社会を上手に泳ぐ、いわば「ハウツー」ではなく、次代を創出し、希望に胸を膨らませて移行するうえで不可欠の、いわば「考え方」の一端を見た。
贈り物は、「アレッ」と思う身の回り品から始まり、「明日は、父の日でしょう」と言って手渡されたワイン。当日に届いた宅急便。さらには「チョット遅れましたが」と、持参願えたお菓子などに恵まれ、不思議な心境に酔いしれた。
今年はインゲンマメが好調で、蔓を伸ばし始めた。第2次のスナップエンドウの後に残した(エンドウマメの)支柱をあてにして、直まきした2次のインゲンマメも順調だ。
第1次の分では、まず未来さんに、アイトワ流の蔓の育て方を開陳。面倒だが、これも加齢対策、背伸びせずに収穫できる育て方だ、との考え方の開陳だった。彼女は、建築家として独り歩きし始めた夫の補佐役でもある。20世紀型、高度経済成長型、あるいはその郷愁のごとき建築は、化石化するだろとの考え方に目覚めてほしい。
知範さんとは、ハウツーやマニュアルにとり付かれた心の解放や、次代に備える心のありようを語り合えた。その一環として、その一助になる優れた遊具(故に、危なかしいと見る人もいる)を、わが母校(小学校)が運動場の片隅に追いやっていたことを岡田さんから教わり、見学もした。汎用型AI時代に備えたこどもにしたいのなら、刻々と条件が替わる(枝は日々伸びる、幹が朽ちる)木登りをさせるぐらいの(文字通りの)親切(親を切る)、あるいは深切(深く切る)が必要だと思う。
2泊3日の旅では、書家の神谷先生から、待ち望んでいた一書を頂いた。とても嬉しい。これまでは、漢字や文字の意味や使い方が気になって、筆順や形を疎かにしがちだった。それが今頃になって、気になっていたが、直したくなった。
裕一郎さんが、プラスチック製柄杓の柄を折った。「これ幸いに」と、かねてから用意している木の一本を取り出し、付け替えた。プラスチックでは、力学的に(モーメントアーム上で)無理だったのだろうが、丈夫な木を使えばもっと柄を伸ばせるし、世界で唯一の柄杓に出来る。この銘々品化の尊さについて、語り合った。
工業時代は、お金さえ出せば誰にでも手に入れられるシロモノで、競争心を煽ってきた。その拝金思想からの脱却が、未来世代への大事な贈り物だと気付いてもらいたかった。「最大多数の最大幸福」の最大に、未来世代を入れ忘れてはいけない。「ポスト消費社会の旗手」を推奨してきた私としては、このコロナ騒ぎを、この面での意識転換の好機にもなってほしいものだ。
ほどなく四葉キュウリやインゲンマメの収穫が始まった。インゲンマメは朝の炒め物になり、キュウリは夕に丸かじりした。亡き母は、曲がったキュウリを「ぬか漬けの壷にピッタリ」と言って喜んだが、それは「折らずに済むから」だけではなく、水分不足が朝漬けに向く濃い味にしていたようだ。
知範さんに、妻のギャラリーを自然体で案内する機会に恵まれもした。新作が増えていた。
月末は、写真家でありドキュメンタリー映画(『水になった村』でデヴュー)の監督でもある大西暢夫さんとの再会を、幸運にも果たせた。妻は、干し上げて保存する前のエンドウマメも活かし、中華おこわ飯を用意して迎え、裕一郎さんも交え、昼食にした。大西暢夫さんは、毎日新聞でコラム記事も書き始めている。正に大団円の1カ月になった。
この時期は保存する野菜の収穫時期でもあり、コイモの手入れやネギの更新に追われる時期でもある。前者は、エンドウの実を収穫し、種を取り出して保存。タマネギやジャガイモも掘り出し、乾かせて保存するが、ジャガイモは2種育てたうちの1種を掘り出した。タマネギは2度に分けて3種を収穫し、干したが、裕一郎さんと妻が後日袋詰め作業に当たり、2か所に分けて保存状態にした。
エンドウは、野菜としての収穫期はすでに終えており、残してあった「採種」分と乾燥させて(食用として)保存する分の収穫だった。これらは裕一郎さんに収穫してもらい、支柱は解体せずに、蔓だけ取り去って堆肥の山に積んだ。このわが家のエンドウの育て方は面倒だが、それなりの想いを込めて編み出した作業だ。
その面倒のほどは、ツルを取り去る手順を見るだけで理解できそうだ。まず、蔓を育てあげた時に、蔓があばれないように、その両側から幅広の布の紐で挟んでおくが、これをまず解き去る。次に蔓を支柱にのぼらせていた段階で、麻紐で吊り上げるが、これを端(写真右がわ)から抜き取ったが、麻紐を抜き去ってゆくと蔓は支えを失い、崩れてゆく。
かくして蔓だけを畝から取り去って、蔓は堆肥の山に積み足す。解いた麻紐や布の紐は再利用する。もちろん麻紐は、3年も使うと弱ってしまい、再利用できなくなるが、その分(弱ったと見た分)は抜き取らず、エンドウの蔓と一緒に堆肥にする。布の紐はB反のレースカーテン地(ポリエステル製)を裂いた紐だが、40年来繰り返し用いている。まだ充分使用に耐えており、今しばらく使えそうだ。
こうして、支柱を解体せずに残したが、この畝には、この畝の土を掘り返して柔らかくしただけで、北端(写真奥)にトウガンの苗を1本植え、残った部分(手前)にはバジルの苗を植え付けた。トウガンの蔓が伸びて支柱を覆い隠して行くまでに、バジルの収穫を終えている計算だ。
第2次のエンドウの畝も、同様のやり方で、支柱を残して活かした。1本の自然生えのキュウリ(手前)に加え、第2次のインゲンマメの種を直まきしたが順調に育ちつつある。
こうしたやり方は、ごみを一切出さずにすませる面倒さ(マイナス要因)と、支柱をそのまま再使用する利点のバランスから編み出した。
近年の、とりわけプラスチックが普及してからの一般的なエンドウマメの育て方は、ハウツーに走りすぎているように思う。プラスチックの支柱やネットを多用して、目先の収益を上げることに狙いを見定め、それで良し、となっている。つまり、豆の収穫後は、蔓とネットをまとめて取り去り、ごみとして廃棄する。
これを考えた人は、農業収益でも、ハウツー教育でも儲けられるだろうが、それは皆んなで乗り合わせている宇宙船地球号をダメにする仲間作りをしていることになるのではないか。
わが家では、自然循環方式を基本に、合理化を目指している。竹の支柱は、よくもって5年ほどだが、支柱を抜き去ったり、立て直したりする時に最もダメージを(地中部を折ったり、割ったり、地上部を衝撃で裂いたりして)与え、その寿命を短くさせる。だから、その回数を減らす工夫をしている。
もちろん、使い古した竹は、程よく油分が抜けており、風呂の焚きつけなどに重宝し、灰は、肥料として畑に戻す。このやり方は、面倒だが、環境の破壊度合いを極端に減らすなど、総合的、長期的に見れば経済性の追求になっている。他方、今はやりのハウツーは、目先の収益一辺倒の智慧に偏っており、次第に問題を複雑にして先送りさせている。
近代型ハウツー時代は、自然破壊や資源枯渇化の時代でもあった。ヒトも粗末にしてリストラの時代でもあった。ハウツーに惹かれる人が増えるにしたがって、貧富格差の時代になっており、経済的に貧しい人を、精神的にも惨めにしかねない時代になっていた。せめて私は、貧しくとも胸を張りたかった。ウサギとカメで言えばカメ派だ。
コイモの世話で、私が手を付けた畝は、「土寄せ作業」ができるように準備した正式な畝であった。だから、草を抜き、追加の堆肥を被す作業でひとまず完了、と言えた。
未来さんには、思考を止めさせかねない(ハウツー志向の)作業ではなく、思考の活性化を要する方を受け持ってもらった。その畝は、アイトワ菜の収穫途上にあった畝で、窪地を造るわけにはゆかず、土寄せができない状態で種イモを植え付けてあった。だから、除草の後で、他所から好ましき土を運び込んで(客土し)、土を周囲に盛って土寄せができるようにする工夫が必要もあった。
後日、私は生葉のマルチングを急ぎ、成長の遅れを取り戻させる作業に手を付けている。今後、マルチングをし終わったうえで、さらなる追肥をし、頃合いを見計らって土寄せをする。
ちなみに、この客土に用いた土は、知範さんに先月、ビオトープから運んでおいてもらった黒土(ビオトープの改修時に掘りだした泥を、乾した肥えた土)だった。
わが家では、多品種少量の集約農法を追求している。これは近き未来への備えでもある。あらかたの家庭が(70年ほど前の、戦中戦後のように)、ささやかな空地であれ、家庭菜園に手を出さざるを得ない時代の到来を見通している。その時は、おそらく、江戸時代に戻るのではなく、汎用型に近いAIロボット時代になっているのではないかと見ており、その活用ができるよう(ような人)に(なってもらっているように)しておきたい。
その時に、のびのびと、生き生きとした人生を、胸を張って、カンラカンラで過ごせることが理想ではないか。その方式を今の内に編み出しておくために、そのものの考え方を身に付け合いたく思っている。下手すると、今よりもっと酷い、リストラ時代をむかえることになるかもしれない。迎えても幸い、迎えなければもっと幸いにしたい。
オクラやモロヘイヤが育つまでに、その畝の肩でチュウゴクホウセンカの苗づくりを急いでいる。第2次のオクラが育つまでに、レタスを育てあげて収穫し、などといった畝もある。前者の畝では当月末にモロヘイヤの整枝のために、第1次収穫をした。このモロヘイヤの枝芽が大きく育つ前にチュウゴクホウセンカの苗を掘り出し、鉢植えにするなど、定植させられそう、と目論んでいる。
汎用型AIロボット時代への備えは急いだ方がよい、と思う。そこにすべての想いを込めたような1カ月になった。これもコロナ騒ぎのオカゲで生じた時間と心のゆとりと、裕一郎さんとの巡り合えたオカゲではないか、と見ている。そのセイかオカゲで、日々好日の1カ月になった。
ネギは、今年は昨年のネギのヒコバエを活かし、ネギ苗を買い求めず、更新作業で済ませた。コイモは、結局、例年になく大量の種イモを、3つの畝に分けて植えつけることになった。これは妻が、今頃になって、使い忘れていたイモを見つけ、芽を出させていたからだ。逆に、ヤーコンを植え付ける数はとても少なくなった。
今年のネギは、すべてヒコバエの更新で済ませることにしたが、1本の短い(ネギの)畝はそのまま残しており、そのヒコバエが育つにまかせ、更新ネギの収穫がはじまるまでの間の、薬味などに生かしている。
他の分はすべて抜き取って、ヒコバエと肥料にする分を分離して、ヒコバエを今年度の苗に当てることにした。苗を植え付ける時は、根から10cmほど上部を切り取ったが、切り取った部分は食材として(冷凍庫を活かし)使っている。ちなみに、ネギ坊主を切り捨てず、種を結ばせ分もあるが、そのヒコバエはそれ相応に貧弱だった。更新したネギの成長は順調だ。
冬野菜の畝は、ほぼすべて夏野菜の畝に仕立て直すことができた。これは妻と知範さんの助成を得たオカゲだ。妻が除草、私が有機肥料を調合してまき、その上に腐葉土を知範さんに被せてもらい、後日、順次私が仕立て直した。
この作業の過程で、知範さんが「採種」に感心を示した.そこで、白い袋を被せて種を守った2種の種を、箕(み)や篩(ふるい)を用いて取り出し、そのアイトワ菜とノラボウナの種を知範さんにも進呈した。ダイコンの種は種房が硬いので、袋を被せていなかったが、小鳥がこれも狙い始めた。そこで屋内に持ち込んで、妻と裕一郎さんの助成を得て採種した。
樹木がうっそうとし始めたので、その手始めの作業にとりかかり、まず株立ちのツバキの背丈をつめた。これは月初めに中断した作業だが、未来さんと私の手に負えなかった分を知範さんに切り取ってもらった。次いで、果樹園内のエルダーが茂りすぎたので、これも切り取ってもらった。この木の樹勢を知らず、密植した私の判断間違いであり、無知を恥じ恥じながらの作業になった。