「編集者との爽快なやりとり」を久しぶりに味わう1日から始まった五月。その後は日替わりトピックスの日々に。2日、2人の子連れになった夢ちゃん一家の来訪と、仁美さんから甲状腺疾患対策の助言。3日、梶山さんを誘って壬生狂言の観賞で外出。小雨で明けた4日は書斎で久しぶりの「クロス遊び」。雨は夕刻に上がり、1畝耕していると、妻が初キャベツを収穫し、その重さを自慢。雨曇りの5日、古希を迎えた服部さんが夫人と来訪。老後の設計を聴く。6日、知範さんを迎え、枯れたウメ(わが家流の古木)を切り取る。
このころ妻は(13日から開催予定の人形展が、コロナ騒動で見通しが立たず)ハラハラの日々。快晴の7日、乙佳さんをワークルームの雨漏りの点検で迎え、午後は温室で遮光ネットを張る。8日、2匹のサルが出没。夕刻、当月2度目の外出。夏野菜の苗の他に、ボウフラ対策のメダカとキンギョを買い求め、好天の翌日、庭の水鉢に恒例の「防人配備」。その後、10日にかけて、クワガタ、トカゲ、アマガエル、オウウケマイマイと遭遇し、先月の初見のチョウを振り、畑ではバジルとモロヘイヤの準備にも当っています。10日の夜、屋内で差し渡し109mmのコガネグモに「ギョッ」。夜のクモを嫌った母を忍びました。かく上旬は進み、快晴の10日に、ドクダミの収穫を始める、で終わっています。
妻の人形店が急遽7月に順延で明けた中旬も、まず2つの懸案解消(風除室のグリーンの手当とサラエの修繕)で始まり、日替わりトピックスのごとき日々でした。12日、裕一郎さん来訪。午前は妻を交えた3人で2本目のシダレウメの剪定に着手。午後は雨が降り出し、理学療法士が診る甲状腺疾患の点検と対策。この日はまるで3つ目のキャベツの消化デーに。13日、妻とシダレウメの剪定を仕上げる。14日、テイカカズラが満開。ミツバチの羽音に誘われ、新たな蔓性植物を発見。水屋の蛇口修繕。夕刻、後藤さんの来訪。15日、知範さんを迎え、ツバキ1本とモミジ2本の切り取り。昼食は3つの曲げわっぱ弁当。
16日から梅雨入り。小雨の中、あろうことか長勝親方の送迎で、ある会合に参加。雨の17日、小止みをとらえダイコンの間引き。そして、2種の漢方薬に恵まれました。18日、ギャラリーの側壁で妻と新植栽。19日、当月3度目の外出は、久保田さんと一村展鑑賞。翌日の心臓の定期検診では、腎臓と甲状腺の血液検査による数値が小康状態と分かり、通院は2カ月に1度に。眼科も(異常は進行しておらず)3カ月に1度になっています。
終日の雨で始まった下旬は、各2度のZOOMーMTG(ミーティング)と知範さんの来訪予定の他は、予定表が真っ白の11日間でした。しかも晴天の日が程よく混じり、庭仕事がはかどり、雨の日は妻と温室の整理など。おかげで、新たな加齢対策として鉢植え植物の大整理に着手。トピックスは、梶山さん、ピーターさん、そしてある提案持参の知人の来訪。そして棲み処の(水道の水漏れ蛇口、風除室の割れたガラス、そして2か所の天窓での水漏れの)修繕でした。
ZOOMーMTGは、23日の新著執筆者(コロナ対応)の集いで、初めてZOOMでの進行役の真似事をして緊張。25日はある機関が呼び掛けたZOOMでの勉強会でしたが、文化と文明の峻別に共感。知範さん来訪の28日は、枯れ行くモミジの間伐と、妻はまた囲炉裏場に山のように溜まっていた剪定クズの消却。最後は久しぶりの焼き芋でしめました。
畑ではタマネギの収穫、ネギのヒコバエとワケギの球根の収穫、ホウレンソウとニラの種まき、トマトの支柱仕立てなどの世話、スナップエンドウの支柱解体、そしてシュンギクのあとの畝の仕立て直しなど。月末には、畑はほぼ夏姿に模様替えです。
~経過詳細~
5月の生きもの
5月は、このタイミングが「妻好みのカルミヤ」で明けた。その後、後藤さんの今は亡きお母さんを思い出させるアザミ、ピーターさんが「これは何の花ですか」と写真に収めながら尋ねたハクウンボク、そして私好みの花をつけるジャーマンアイリスが花盛りに。その上に、わが家の指標花の1つ、フウランが、と次々と咲き始めた。
このフウランは(仲間の4種と共に)、アイトワの庭のヘソのような位置で育つ富有柿(雨が降る二十歳の誕生日に初めて植樹をした20本の1本)の樹皮で育っている。これらフウランは、一帯の乾燥事情を感知するための観察植物として活かしている。
異常乾燥の兆候は、まず夫婦専用のトイレの床張りで(内装工の接着ミスを「これ幸いに」と)気づくことにしている。ちなみに、異常湿度は、広縁の障子で(シルバーセンターの張り替え技量不足を「これ幸いに」と)感知することにしている。
7日、畑ではケシが満開になり、囲炉裏場では(頭上を見上げると)ミツバチ好みのニセアカシアが盛りを迎えていた。
中旬は、ニホンミツバチの羽音に誘われ、妻が見慣れぬ白い花をつける蔓性植物に気付かされることから始まった。それは庭の西面の杉の生け垣に登っていたが、写真はピンボケで、名称は不明(と、分った時は、花期が終わり、散っていた)。
翌12日、テイカカズラのほのかな香りに誘われて、今年は私が先に五分咲きで気付いた。その後、チョウセンアザミの一種(?)とホオズキ(移植して3年目だが「良いところに移植しましたネ」とやっと妻が気に入った)の開花。さらに、ヒルガオやジャーマンアイリス(?)に次いで、問題のヒメジオンが盛期をむかえたことを知った。
実はヒメジオンも、この庭から消し去ろう、と私は目論んでいる。この若い芽は山菜として(シュンギクのごとき風味で)活かせるが、それは辛いエピソードをよみがえらせるせいだ。それはこの地に移り住む前の、敷地90坪ほどの一軒家で住んでいた時代の思い出だ。
隣にも同じほどの広さの一軒家があり、この2軒で当時は「野中の1件屋」のような存在だった。だが、ついに、この家に住む親子3人とは(母や姉に倣って)没交渉で終わった。10歳ほど私より年上の一人息子がいたが、陰気で、私の目にも「親を悲しませる不甲斐ない人」のように思われて、近付いていない。
ことに鮮明な記憶は、私が小学高学年から中学生になった頃の思い出だ。朝鮮戦争が勃発していた。隣家の父親も病弱で寝込んでおり、ついに声さえ聞かずに終わったが、わが父は8年の闘病生活から解放され、食事を一緒にとるようになっていたし、週に1、2度は大阪まで出掛けるようになっていた。その頃の思い出だ。
ある日、父は子ヤギを1頭引き連れて戻って来た。わが家の主たるタンパク源を、ニワトリからヤギの乳に替えるためであった。当時、事情があって飼っていたニワトリの数がどんどん減っていた。だから1年かけて、20羽の養鶏から、私の役目はヤギの搾乳へと切り替えることになった。母は(父が、不定期とはいえ勤め始めたこともあり、畑通いを止め)専業主婦に戻っていた。わが家の100坪弱の庭は、不定期に起き出す父の庭づくりのおかげで、四季折々の花が咲くようになり、やがて、カキが実るようになった。
だが、隣の庭は草ぼうぼうのままであった。その母親は、春から初夏にかけての今頃は毎朝庭に出て、ヒメジオンの新芽を食材として摘んでいた。息子は職を周期的に転々としており、その間は半年ほど寝転んでいた。就職は失業保険受給資格取得が狙いだ、と噂されていた。
わが家の父は、病床にあった時も畑作の指令を母に、私は母を通して養鶏の指令を聴かされていた。だが、隣ではそうした様子は一向に感じられなかった。わが家では雄鶏のおたけびやヤギが空腹を訴えるメーメーだけでなく、夫婦ゲンカや母が私を叱る声でいつも騒々しかった。だが、隣は静かで、3人が交わす声は一切聞いた覚えがない。
ここ数年、私はヒメジオンの花を見つけたら見逃さず、スズメノカタビラと同様に、ことごとく抜き去るようになっていた。そして、今年こそ(背が高くて目立つヒメジオンは)1本の残らず抜き去ろうと思っていた。なぜなら虫食いのヒメジオンは見たことがなく、この草がなくなって困る昆虫はいないようだ、と見てとっていたこともある。
だが、妻は「1本の残さず消し去るなんて、無理な話」の論者だから、こうした私のささやかの決意をいつも笑う。この日も押し問答になった。そこで私が「見まわしてごらんよ、ほとんど見当たらないはずだ」と胸を張った。だが、妻は「そうね」とは応じなかった。だから私が、庭じゅう探しても「20本とないはずだ」と啖呵を切ると、妻は「50本は」はある、と切り返す。知範さんを交えての「曲げわっぱ昼食」の最中だった。
食後、妻はお盆を引いて去り、私たち2人は食後の雑談にふけった。その後、20分ほどすると、妻が「76本見つけました」とわざわざ報告に来た。私は「そんなに残っていたのか」とビックリしたが、同時に、「この手があったなぁー」とひらめくことがあった。
かくして下旬を迎えたが、カルミヤに次いで獣害フェンスの一角を占めたノバラが満開になり、ミヤコワスレが末期を迎え、カエデのプロペラ(種)が色づきだした。庭はいよいよ梅雨に元気を得て、しっぽりと、うっそうと、あるいは元気溌剌、となる。
そして、常緑樹の落葉に感嘆させられたり、キノコのシーズンに入り、その新種に目を見張らされたりするようになる。
2、来訪者
常連客の知範さん、裕一郎さん、そして梶山さんの他2~3の方々に加え、久方ぶりのなつかしい人や、飛び込みの客を迎え入れ、心新たにすること多々の一カ月になった。
久しぶりの顔なじみは、アイトワで待つ父親と合流した夢ちゃん一家、から始まった。彼は、お母さんの子宮にあった時からアイトワを訪れていたし、幼少期は(ペットが飼えないマンション暮らしだったので、わが家の)金太と共に成長(し、おかげで金太は保津川で泳いだり、愛宕山に登ったり)している。
前回の来訪時は、ベトナムでの仕事を切り上げて日本で、と抱負を語ってくれたが、今や2人の子連れの一家を構えることになった、と知らせてくれた。
次いでピーターさん。何せお向かいのことだから3度にわたって訪ねてもらった。その1度は、庭師や文学の勉強中の学生同伴。
アイトワ塾誕生のキッカケを作った服部さんが、夫妻で「老後の設計を固めた」と言って久しぶりに来訪。桑の木を植え、養蚕に力を割く田舎暮らしの余生を、夫人の加勢を得て語っていた。脳卒中の後遺症が発声面で少しは残るが、おかげで今や私の(入れ歯のせいで)ロレツが回らないテンポを気にせずにすんだ。夫妻は既に、わずかだが養鶏を始めているようで、手作りマヨネーズと生卵をもらった。
アザミが満開になるのを待って、後藤さんに来てもらった。今は亡きその母親は、子どもの頃に飼っていた牛が「好んで食べた」と、アザミの花を好んだ。今年も仏壇に供えてもらえた。
ミツバチの師匠、志賀生実さんに、恒例の検診で訪ねて頂いた。ハチはすこぶる元気との見立て。そのサンプルを採取(後日寄生虫検査)。次いで、寄生虫対策を施し、出入り口を(四方から出入り可能で、スズメバチ対策に有効な金属製に)交換。そして巣箱を6段重ねにしたうえでの避暑対策を施していただけた。
乙佳さんには2度(2度目は親方と)訪ねてもらえ、ワークルームの天窓の雨漏り対策を施してもらい、野小屋の天窓の雨漏り状況を点検してもらった。
その2度目のこと。今年はクヌギが落したドングリが異常発芽したが、その事実と、その理由を私なりに推し量って話した。それがヨカッタ。「今のうちに抜けば、簡単な(作業で済む)ので」と抜き始めていると、乙佳さんは携帯を取り出し、どこかへ電話をしながら、その抜き去った苗を「もらっていいか」と問う。結果、彼女の知人で、これからクヌギ林をつくろうと思っている人の役に立つことになった。
当月は庭の中に、小電柱を1本追加したが、おかげで多々学ぶことがあった。わが家は動力線も引いており、その自重で垂れ、銅板張りの屋根に接触し始めたせいだが、作業が異なる4人一組の4チームが順次来訪。穴掘り、支柱建て、電線取り付け、そして塗装へと進んだ。この電柱は配電会社に帰属するが、もし、わが家に帰属する電柱であり、往年の私なら、1人で立てていたと思う。
穴掘りでは、私なら木の根を避け、30㎝程ずらして掘るが、彼らは「ここと決められた」ところを、さまざまな機器を持ち込んで来て、掘った。おかげでその1つ、コードレス電動のこぎりは「ここまで進んでいたんだ」と感心した。だが、SDGs的に視ると、心細くなる。替え刃は、土を噛んだ木の根を切るとたちまちにしてなまくらになるが、人権費を勘案すれば採算上では合理的なのだろう。作業時間は、1時間と要さず、次の現場へ。
最後の塗装では、2人が電柱の上下に分かれて当たったが、上部の人は下部での作業人にぺンキを落すようなことなく作業を終え、電柱から離れる時も、下部の塗装部分や己の衣服を汚すようなこともなかった。監督者はついに、手本さえ示すことなく、見守るだけで終えており、ハウツーやマニュアルの徹底ぶりを忍ばせた。これも、手早かった。
その後、この日は、およそハウツーやマニュアルに縁がなさそうな(?!?)人と巡り合い、ホットさせられた。私が最後に迎え入れた人のことだが、通りすがりの男性だった。私を見て自転車を止め、声をかけて下さったからだ。引退後、日本列島一人旅を楽しみながら「会員制くつろぎの郷」計画を推進中の人で、会話が弾んだ。その途中で、妻が気配に気づき、出てきたおかげで、喫茶店のなじみ客と知った。
見送った後、「そういえば、私も」と妻が、この日、通りすがりの3人の中国人女性を迎え入れた模様お話した。妻は3人の様子から創作活動や人形に興味がある人たちと見て取ったようで、迎え入れたという。おかげで、共感の輪が直ぐに広がった様子。
3、外出
郵便局、スーパーマーケット、そして2度のHCを含め、外出はいずれも近場や市内の7度に留まった。市中に出た3度は、壬生狂言観賞、田中一村展鑑賞、そして通院だったが、それぞれなりの良き一時になった
壬生狂言は、「昨年に次いで2年連続の休み」にする弊害を避けて、の開催だった。鎌倉時代から絶えることなく700年も続き、今や重要無形民俗文化財を、それでは守れない。演者は町衆で、牛若丸役などは小学生が受け持っている。
観客を抽選と招待の30名ほどと、10分の1に絞っての開催だったオカゲで、これまでとは異なる気づきもあった。その囃は、これまで「カンカンデンデン カンデンデン」と記憶してきたが、鐘と太鼓の他に、横笛がとても大事な役割を演じていたことに初めて気付かされた。なぜかいまいちど、その歴史も振り返りたくなった。
この度の田中一村展も、訪れてヨカッタ。この足かけ3年の間に、奄美の(一村を慕う青年達の情熱と努力が生み出させた)同美術館。「佐川美術館」での催し。そしてこの度の京都の「えき美術館」での鑑賞となったわけだが、その昔、「一村会」(一村の知名度が今日にいたる以前に、主に奄美の青年達が活動していた)に属していた私としては、それぞれなりに人間のサガを見る思いがして、とてもヨカッタ。
奄美の同美術館では、「一村会」の人たちの影すら感じられず、淋しい思いがした。逆に、当時は一村を阻害していた人までが、「我こそは」と躍り出ていた。
「佐川美術館」では、一村が存命なら目にしえなかった遺作を目の当たりに出来た。一村が「できることなら買い戻し、焼いて塵芥に帰したい」と願っていた作品が目白押しで、肝心の(一村にそう語らせるに至った)晩年の遺作はほとんど観られなかった。
この度も、「佐川美術館」同様に、誘われていなかったら、出掛けていなかったところだが、出掛けてヨカッタ。肝心の晩年の遺作の多くは見られなかったが、初期の(南画の一村として美術界をうならせた時代の)多くの初見の作に触れることができた。しかも、その後一段と商業主義がたくましさを増していたことを知り、圧倒されもした。
それだけに、かつて「一村終焉の棲み処」などを訪れたおりの思い出が、とてもむなし気に思いだされた。見学者を受け入れられるようにと移築され、公衆トイレまで用意しながら、案内する人もなくなったようだし、なぜか訪れる人もないようだ。
一村が愛用した絵筆の幾本かを持っている私だし、終焉の棲み処で独り身を通した苦悩の一端や、一村の墓を探し出し、住職と語らったこともある身としては、その過去を都合よく改変するありように不安さえおぼえた。
若かりし頃の私は、出張でパリに立ち寄るたびに、ひたすらモーツアルトやカミーユ・クローデルの墓を探したものだ。後に、この2人は共同墓地の穴に、大勢の人と一緒に放り込まれており、墓がないことを知り、より2人に心を寄せたことを思いだした。逆に、このたびネットで、新装された一村の墓を知って、むなしくなった。元の淋し気な墓を宇都宮の友人を煩わせ、探し当て、住職とも語らった。おかげで一段とその理解度を深め、一村の一村たる由縁や、その芸術の何たるかに近づけたように思ったものだ。
今のありようは、一村の意志とは逆さまなことをしでかしているかのように思われる。
通院では、余計なことを考えるキッカケになった。それは道中の友に『左庭』を選び、山口さんの詩を読んだことも関係している。本来、病とは、患者、医者、そして環境が、いわば三位一体のごとくになって、願わくば家族などを含めた四位一体になって、取り組み、疾患の解消を願うべき課題ではないか。だが、近年は、私もその一人だが、こうした意識を希薄にしてきたように思う。それはどうしてか、とも考え始めてしまったわけだ。本来は、病人が減れば減るほど、つまり未病者が増えれば増えるほど、医院や医者が潤い、感謝される仕組みであらねばいかないはずだ。にもかかわらず、などと頭がこんがらがった。
4、贈り物
私淑する近代医からの助言、「コロナワクチンは特別な事情(アナフィラキシー歴など)がないかぎり必ず受けるように」との助言が、当月最初の贈り物だった。私は自然感染し、自己の免疫力で陽性化を願っているだけに、大いに心がゆれた。
次いで、ボツボツ庭でドクダミを摘む頃、と思っていたら、門村さんからの贈物。新著で、彼女が家族3人で茶葉を摘み、地元の製茶場で煎茶に加工してもらったことは知っていたが、その新茶が届いた。
この茶を妻は、知範さんと曲げわっぱ昼食をとった時に開封し、味わい、このような製茶場を手近なところに持っている門村さんの立場を羨ましがった。この茶を賞味する次の機会は、おそらく裕一郎さんを迎えた時だろう。
甲状腺疾患に関する、ありがたい贈物(助言、触診や治療材、あるいは薬物など)に多々恵まれた。それはまず、仁美さんのメールによる助言で、そのツボにほどこす治療法の図解だった。実は、腎臓疾患の対策では(病院では適切な薬剤がないようで、透析期を待つのみの様子なので)彼女の助言だけを当てにした。おれが、功を奏した。それだけに、この度の甲状腺疾患に関する助言も即実践。もちろん病院が勧める薬剤との併用だが、1カ月で数値は快方に向かい始めた。この改善をもって、薬剤の効果と見るか否かが問題だ。
次いで裕一郎さんの来訪時に、理学療法士としての触診と助言を得た。後日、その助言を実践に移す(ツボに張り付ける)治療材が届いた。その教えるツボは、仁美さんの助言と重なっている。ほどなく、妻の知人(薬剤師)から、勤める薬局で、指導を仰いでいる漢方医の助言に基づいたとの治療法と2種の生薬が届けられた。それに添えられた手紙から、妻の心配のほど(を知った知人の贈り物であったこと)も読み取れた。
病は気からと言われるが、病と治癒の問題は、なぜか文明と文化の峻別問題が関わっているかのように思われ始めた。
今年の第1次収穫のドクダミが干し上がった時に、嬉しい便りや贈り物が届いた。田舎に「終の棲家」を見出し、移住した薬剤師のゆかりさんから一葉の写真と醤油糟など、だった。ゆかりさんのファンだけあって、妻はその醤油糟一粒をすぐに口にふくみ、ニコッとした。
実は、このたびの「新著の執筆者に」とお誘いして「振られた唯一の人」がゆかりさんで、その理由は「まだ、自信がないの」だった。いずれは医師である夫の合流も決まっている。だから、お二人が「終の棲家」に選んだ(手作り自給率が高そうな)村をとても訪ねたくなった。キットその地域では医療面での安ど感も格段に高まるに違いない。
「母の日」と誕生日が近い妻は、さまざまな贈り物に恵まれた。その恩恵に私も浴する品もあった。アイトワで披露宴をもった夫妻からの「豆本」は、私の思い出のケースに収まった。
ある雑誌が呼び掛けたアイトワ見学ツアーが縁で知り合い、長年の親交が続くケーキ屋さんはサブレを届けて下さった。このケーキ屋さんは、よほど味覚に肥えておられると見えて、いつも添えてくださる地元の美味にも関心させらている。問題は、どんなにお願いしても、肝心のこのケーキ屋さんのケーキは発送お断り、であること。だから、1度訪ねて、多くの品数を注文して半分こするなどして堪能したが、近くもう一度、という気分にかられた。
知範さんの、キラッとするセンスに3度触れた。その一度は男子公衆トイレでの注意書きだったが、中国旅行で観た注意書きを連想した、との関連付けに感心した。
2度目は、キャシュレス時代、あるいは電子マネー時代を、エネルギー消費面から評価した情報を見せて、関心のほどを示した。私は、アンチ現金化を中央集権化の1つの手段と見て危惧している。この危惧と彼の関心には根を1つにする共通点がありそうだ、と思った。それは、地球環境問題を深刻にすること、だ。
3度目は、妻の焚火に合流した時のことだ。山と積んだ剪定クズの中から「これは?」と手を止めて、彼が火に放り込まなかった木切れがあった。後日、「コレクションが1つ増えた」「カタホコリ」という粘菌でした、と教えられた。こうした彼の視線や目線に触れ、キット彼も「クロス遊び」を好みにしそうな人のようだ、と思った。
著作の贈り物で有難く思ったのは水俣事件にも触れた一著だった。この度の『次の生き方Vol.2』をキッカケにして、劉穎さんに縁をつないでもらえた。
これも贈り物だろう。今年はとりわけ見事なユスラウメの実に恵まれたし、イワタバコが綺麗な花をつけた。私は畑仕事の途中でよく、ユスラウメの実を採って、十粒ほど口に放り込んでのどを潤すが、小鳥はなぜか狙わない。イワタバコは野生では一種の指標植物であり、北面の崖に生えるが、わが家では物陰の南面で育てている。
食べ物でも、天の、もしくは季節のお贈り物、と感じたことが多々あった。その最初は、ツタンカーメンの豆ご飯。今年初収穫分を炊き、翌朝まで保温状態で蒸らして赤飯にして、妻は知範さんと一緒にとる昼食の「わっぱ弁当」にした。
裕一郎さんを迎えた日は、2つ目のキャベツ(2.05kg)を収穫し、昼はお好み焼きに、夜はポトフに活かし、キャベツ消化デーにした。その食前に、スズメバチを漬けた蜂蜜が話題になった。そこで、これは好機(理学療法士と一緒なら)と見て、初めて2人で舐めたが、ついに妻は乗らなかった。印象深い前菜もあった。何かの動物が引き抜き、食べずに捨て置いた初ジャガイモを生かした一品で、2人で分けた。
他にも多々天からの贈りモノに恵まれた。天からの訪問者、あるいは授かりモノ、かもしれないが、その始まりが始まりであったし、その後続けざまに新顔と出くわしたものだから、贈りモノかのように思われた。まず、切り倒したクヌギの、玉切りを(割って薪にするとて)運び出そうとして、重ねてあった上の方を持ち上げると、クワガタムシがいた。
クワガタムシが好む「蜜源の木を伐採したせいかも」と心配したり、側の細い2本のクヌギを「残しておいてヨカッタ」と胸をなでおろしたりしながら、次は雨水タンクの側を通っていた時に、ニホンアマガエルを見かけた。続いてコガネグモを温室で、オウウケ(奥羽毛)マイマイを花壇の一角で、さらにニホントカゲを玄関で、と続けざまに出くわした。しかも、夜には屋内で、アシダカグモと遭遇し、その大きさ(109mm)にギョッとさせられた。
母は生前、夜のクモは(縁起をかついで)チョキンと裁ちハサミで切った。
その後、2種の初見の虫や変わった柄の大きなカタツムリとも出会ったし、「老眼鏡を!」と叫んで、妻に大笑いされもした。
それは、交尾中のとても小さな甲虫にすぎなかったが、老いた私の目には、背中にハートマークをもった2種目(一種目はカメムシだった)の発見かのように思われた。
この度の一連の小動物との出会いは、初見のチョウから始まっている。次に見かけたら「もう少しましな写真を」と思っている間に、1カ月が過ぎ去った。
5、庭仕事
これもコロナ騒動のオカゲだろうか、幾つかの懸案が片づいた。何年もの間、土替えをしていなかった風除室のベンジャミンゴム。ある雨に日に、妻と取り組んだ。
その余勢を駆って、風除室でプラスチック製サラエの補修に取りかかった。焚火の時に焦がした人がいて歯を2本欠いていたが、旧に復させた。
次いでマジックハンド(排水溝に忍び込んだ木の根を引きちぎろうとした人が、チカラ余って壊した)の補修も、2時間仕事になった。一旦へしゃげたアルミは、補強(かまぼこ板を生かした)でもしないと、使いものにならない。
共に買えば1000円ほどの品だが、アイトワ流の(しくじった人には)教材になりそうだし、わが家にとっては、元の機能を取り戻した銘々品(世界でたった1つの固有の品)に生まれかわらせたことになる。自分にとっては、取り組むまでは(3カ月近く放置していた)面倒に思えた作業だが、いったん取り組めばいつものごとく無我夢中になった。それは「完全なる自由」と「創造」が生み出す愉快な一時だ。
この気分。取り組むまでは面倒に思いながら、結果として愉快で爽快な一時になるわけを、この度は良き言葉で表せそうな気分になった。それは知範さんのオカゲだ。
これまでは頭で、共にビニールテープ以外は廃物を生かして再生しており、ごみを出さずにすませた爽快感だし、キット認知症防止にも役立つのではないか、などと考えていた。だが、それは後付けの屁理屈であったようだ。思えば、この喜びは無意識のうちに本能の(人間が文明に酔って、忘れがちになってきた)ブレーキ(本来は「アクセル」と共に持ち合わせていた)を作動させていたのだろう。それは無意識にだが(つまり本能だけで生きている野生動物と同様に)環境破壊と無縁(を願ったような)の行動に結びつけていたことになりそうだ。
実は、知範さんと仏教の「悟り」を話題にしたが、その時に、彼が次のような自作の俳句「愛ずるとも 咲き散る桜 作為無し」を披歴した。この時に、ピン!とくるものがあった。チョット大げさだし、想い過ごしかもしれないが、私はレヴィ・ストロースを思い出した。レヴィ・ストロースが言う「第2の科学」は、ココに本質を見出せそうに思う。いつか、さまざまな資料を引っ張り出して、この本質をテーマにして「クロス遊び」に興じたくなった。
わが家ではまた、新兵器の1つ「高木の枯れ枝落し」が誕生した。これまでのように、高いハシゴをかけて鋸で切り落とせなくなった私には、これも1つの加齢対策だろう。100円ショップで買い求めた熊手(庭仕事や潮干狩りに活かせそう)を力任せにゆがめて生かしたものだ。
2年続きで水屋の蛇口が故障した。一昨年は不注意で氷結させたが、この度はタオルなどを分厚く巻くなどして守った。だが、また故障した。50年に1度の冷え込んだ夜があったにしても、問題だ。原因は、洒落たデザインを求めるがあまりの構造(あまりにも繊細な鋳物の部品)にあった。おそらく、この製品は問題多発であったに違いない。この度の部品には改良した跡がある。もし私が供給元で(あり、それなりの権限を持つ立場で)あればどうしていたか、と考えなくもなかった。
庭仕事でも、幾つかの懸案に取り組んだ。2本目のシダレウメの大剪定は2日に分けて私が剪定し、たまった剪定クズを妻が囲炉裏場に運んだ。次いで、2回に分けて、その側にあったツバキとモミジを切り取ったが、この2本の太い木は、知範さんが切り取り、私が次々と運び去り、運んだ先で解体する役割を担った。
おかげで、わが家でただ1本ずつしかない本漆と桑の木への日当りをよくすることになった。本漆は妻には(かぶれないように、よく似た)ハゼノキと思い込ませている。桑の木は、服部さんにもらった苗木が育ったものだが、同じ月に彼が久しぶりに訪れた偶然を喜んだ。
もう1つの懸案だった(夫婦用水洗トイレの)大型雨水タンク周辺の剪定と掃除にも当たった。剪定はツバキとチンチョウゲの植栽で、掃除は樋と屋根に溜まった落ち葉だが、2年ほど前に、専用のハシゴを取り付けておいてヨカッタ、と思った。
人形ギャラリーの側壁下部の緑化は、これまでのアイビーを妻が剥ぎ取ったので、2人でテイカカヅラや十二単など小ぶりの植栽に代えた。
ボウフラが湧く季節を迎えた。だから、庭の随所に配置している水鉢、泉、水槽、あるいはヒシを育てている水槽などにキンギョやメダカをボウフラ退治の防人と見立てて入れて回った。
草刈りにも精を出した。とりわけ、北面の獣害フェンスではブラックベリーを茂らす緑化を予定しており、丁寧に行った。ブラックベリーは、苗木を植えて3年目だが、古い枝では花が沢山つき始めていたし、根元では好ましき新芽が出始めていた。
その下部のあたりには、畑の水やり用の水槽や、クワイを育てる(プラスチック衣装ケースを埋め込んだ)極ミニ田もある。
恒例の、アイトワ菜の種取りシーズンが終盤を迎え、畑は菜の花畑の観から支柱だらけの様相になった。多くの長けた冬野菜は抜き去って堆肥の山に積みあげた。種を取る分は残し、袋を被せて小鳥から守る。マヒワなど渡り鳥の餌用は、畑に残しておいたり獣害フェンスにぶら下げておいたりして、ついばみ終わるのを待つ。
畑仕事の最中に妻を慌てさせたトピックがあった。アブラゼミの幼虫を私が掘り出してしまったからだ。「このようなところに棲みついた」個体は、鳥の餌にでもなって成仏(生きた役目を有意義に終え)させてはどうか、と私は考えた。だが、妻は、移住させる道を選んだ。そこで、植物の根が沢山ありそうな場所を選ばせた。
ドクダミは少しでも畑に根を残しておくと、1年で驚くほどはびこらす。だから例年のドクダミの収穫は、ネギなどの畝を仕立て直す過程(で、過去1年ではびこった分の収穫)から始ま(り、その後花期に随所で生えている分で本格化す)る。今年は、ネギの畝の側で時無しダイコンを育てているので、ダイコンの第2次間引きと、ネギの畝での第1次ドクダミの収穫が重なった。
6、意識の交換
当月の最も印象深くて記憶に残りそうな思い出は、今は亡き妻の生徒さんのご主人の来訪から始まった。それは、偶然も幸いし、妻が思い付いた惜別の提案であり、ご主人にもそれが歓迎され、「ならば」と両者が意識の一致をみた共同作業であった。
ご主人は、裸の(私には、未完成に見える)人形をご持参で、ご夫人が「遺言で、この1体を仕上げてほしい」と言い残して逝った、と話し始められた、という。それを妻は簡単に引き受けただけでなく、教室展がコロナ騒動のセイで7月に順延になったのを幸いに「出展させていただきたい」と申し出て、ご主人に「喜んでいただけた」らしい。
妻に言わせば、人形は「頭(かしら)」が出来あがった時をもって、ほぼ完成している。あとは、その「頭」が語りかける意志に沿って、順次、髪の毛やボディを与え、さらには衣服や靴などを添えて、装わせる。だから、妻は「完成した一体の人形」を預かったわけで、衣服などで装わせることは、それほど神経がくたびれる作業ではないらしい。むしろ、「この子の願いをかなえる」作業であり、ウキウキする一時らしい。
「なるほど!」と私は唸らされた。「裸のままではかわいそう」とこの生徒さんは思い、その願いを妻は簡単に引き受けたわけだ。この生徒さんと妻の間には、暗黙裡に、この人形が好む装いは出来上がっているのだろう。その装いをこの人形がまとった段階で、私はもう一度、この「なるほど!」と唸らされた得心のほどを振り返り、想いを深めてみたい、と思った。
かねてから日本エッセイストクラブから「パンデミック」を共通テーマにして5人の想いを募ることになったが、「そのお一人に」と、声をかけていただいていた。
「パンデミック」に対してある種の疑問や危機意識を抱いていた私は、喜んで引き受けた。それらは鳥インフルエンザ騒動時から抱き始めていたもので、だから一昨年は、中国東北3省を旅しており、噂の731部隊の実体もこの目で確かめてもいる。
感染症問題は自然災害であるだけでなく、人為的な問題が大きく絡みかねない、と見ていたからだ。にもかかわらず、いまだに、心の内では未整理の課題として残っているところがある。だから、この寄稿には、2カ月ほど案を練って、当月初に原稿を発信した。
編集者とのやり取りに1週間ほどかかり、下旬にはネット(日本エッセイスト・クラブ:Home)に載った。その5人の顔ぶれを見て、その取り合わせに感心し、編集者とのやり取りを改めて振り返った。
「九〇にして自粛記」・・・・・・・・ 遠藤 利男 (日本エッセイスト・クラブ会長)
「疫病を生き抜いたヒト族」・・・・・ 森 武生(がん感染症センター都立駒込病院名誉院長)
「愚かに勇ましく生きる」・・・・・・ 轡田 隆史(ジャーナリスト・文筆家)
「ココロを解放する好機!」・・・・・ 森 孝之 (ナチュラリスト・アイトワ主宰)
「万葉びとを襲った神病(えやみ)」・・ 堀尾 眞紀子 (文化学園大学名誉教授・美術史研究者)
私なりに、十分に配慮した原稿を認めたつもりだったが、まだ過激であったようだ。だから編集者と、1つのより望ましき高みへの到達をねがう意識の交換をした。これが当月2つ目の印象深い思い出になった。
鳥インフルエンザ問題では、ニワトリが数羽感染死しただけで大騒ぎになる。数羽感染死させた養鶏所は、残る何千羽、何万羽、時には何十万羽を生殺しの憂き目にあわせてしまう。対して、鳥インフルエンザをニワトリにうつす野鳥は、自然淘汰の世界に生きている。
戦時中なら、火を通せば大丈夫という事で、国は国民に罹患して死んだニワトリも食べさせていたのではないか。飢えた国民も食べていたと思う。他方、人間に見つからずに死んだ野鳥は、肉食動物の餌になるだろう。ならずとも、アリがたかり、ウジが湧き、腐敗し、やがて土にかえり、土中のミミズを増やすなどするに違いない。そしてそのウジをついばむ鳥や、ミミズをモグラやイノシシが狙うだろう。
だが、いったん人間が関わるとおかしなことになってしまう。もちろん、人類が全知全能を駆使して、変わり種のウイルスごときで犠牲者を一人として出ないように、と願う気持ちや打つ手を非難するつもりは毛頭ない。だが、その気持ちや打つ手が逆作用してのことだろうが、人間同士が殺し合う生物兵器を造ったり、いわんやその軍隊を編成したりする行為、自然の摂理と真正面から対峙する神経や考え方が誘う現実にはついて行きがたい。とはいえ、かくいう私も、総論賛成だが、各論も賛成かと言われれば、おおいに迷ってしまうことが多々ある。
23日、ZOOM=MTGで初めて司会の真似事をした。本来なら「一堂に(執筆者が)会して」だったが、変わり種のウイルスごときにかき回されての「代案」だった。この1時間ほどの緊張の間に、さまざまな思いに駆られており、おかげで3つのことに気付かされた。
まず、共有するある意識のオカゲだろうが、次第にココロにゆとりが戻り、やすらぎ始めたこと。同時に、それはある意識を共有しているオカゲであろう、とつくづくありがたく思ったこと。だから「コミュニティ・共同体」という言葉が頭に浮かんでおり、その意識がこれらのやすらぎやゆとりを感じさせる源泉であるに違いない、と思っている。そこで、昔の「地域的なコミュニティ・共同体」ではなく、価値観や美意識などの共がなす「意識のコミュニティ・共同体」の大切さを口にしている。
それだけに、トッテンさんの意見が心に残った。私が持ち出した「コミュニティ・共同体」観に対して、の話ではなかったが、私は日本国民の「コミュニティ・共同体」観の問題として受け止め、心に刻み込んだ。
トッテンさんは半世紀以上も前に、アメリカ企業の社員として、日本に派遣され、仕事柄、日本財界の主要人物とも次々と直に触れ合っている。その頃の日本に、独立国としての気概と、人を大事にする風土を見た、という。だから帰米せず、日本に留まって起業し、ついに日本国籍を得たのだろう、だが今や逆に、まるでアメリカの属国がごとき日本に危惧の念を抱いている、という。なぜ、近隣の国々と融和できないのか、との疑問だろう。
こうした意見も聴きながら、つくづくコロナ騒動が、私は短大に勤めていた期間に生じていなくて助かった、と思った。教育や教育機関とは何か、と考え込まされていたに違いない。
感染症を怖れ、一律にオンラインでの知識の伝達と、家屋に閉そくさせる生活が疑問に思われてならないからだ。少なくとも私なら、私生活時間まで学生を縛る勇気を振るえずに、物議をかもしていたに違いない。
25日のZOOM-MTGは、SDGsの大切さが叫ばれる中、TOCクラブの呼びかけで、京都大学前総長 山極寿一が語る「ゴリラからの警告-人間と科学の本質を読み解く」であった。
私は「文化と文明の峻別」に共感した。文明は「欲望の解放」装置と仲良しであり、文化を「人間の解放」システムと親しい間柄、と睨んでいるからだ。
「おもろい」の提唱にも共感を覚えた。ここで語られた「おもろい」は、そのココロは「完全なる自由」と「創造」が生み出す賜物と見た。だから、「おもろい」はまさに「人間の解放」ではないか、と叫びたくなった。かくなる「文化と文明の峻別」なくしてSDGsを推進することは悲劇を迎えかねない、と私は不安視している。
なぜなら、SDGsが、より問題を複雑にして先送りさせるための免罪符に活かされかねない、と危惧するからだ。その(SDGsの)一部にでもかかわることで、今の生き方を守り通せるのではないかとの期待するムキが世の中に充満していないとも限らない。
転換すべきパラダイムの見極めを急ぎ、シンパラダイムの時空に踏み出すべきとき、との念を追認することで五月は終わったようなものだ。