4つの嬉しい相談や引き継ぎ。この月初の3日間で、私はアイトワの喫茶店で5度にわたり、8人の来客と歓談し、計15のお茶を注文した。
1986年の開店来、私はお茶代を来店客として精算することにしており、唯一の「付け」が効き、アイトワ内であれば「出前もOK」のお客さんだ。これが、ありがたいことに、来客をいつでも気楽にお迎えできるコツの1つだ。もちろんそれには事情がある。
設計時に、人形工房に喫茶室を併設していた。妻が人形教室に携わっている時間帯は、妻の手を私の来客などのためにわずらわせたくなかった。だからお互いに、自由に茶をふるまいやすい設備を用意することになった。その喫茶室の内装がほぼ完成し、什器を発注し終った段階で、近所の女性(その後32年来、今もお世話になっている)から提案があり、急遽改装して喫茶店として開店した。だから、喫茶店には不向きな6人がけの什器などの変更は出来なかった。
その時に私は、ヘビースモーカーだったのに「禁煙にする」、あるいは胃腸が弱い私は海外などでトイレ探しに苦労をしたので「勝手な臨時休業は許さない」などと、一帯の文化度を上げるために幾つかの条件を付けて開店を許し、赤字は私が埋めることにした。その一環として、私も来店客として勘定し、堂々と私の来客を迎え入れられるようにしたわけだ。経営は近所の複数の主婦が日替わり経営のごとくに当たってもらってきた。
常寂光寺のお上人と自治会長さんは、個別相談で訪ねて下さった。思えば私は、この自治会で生じたさまざまな難問に関わった最高齢者になった。それだけに、記憶がまだ確かな間に、次の体制に引き継ぎたいと願っている。
とりわけ、常寂光寺のお上人には、その父(今の私は「御前様」と呼ぶ)の跡を継いで地区推進委員会の委員長の座についてもらったので、その責任を感じている。この委員会は、輪番制1年限りの自治会長では片付けられそうにない地域問題などに取り組む機関として御前様が立ち上げ、委員長となり、私は副として補佐してきた。
生前の御前様を、当地域の人たちは「おしょうにん」と呼び、私もそれに倣ったが、心の内では「お上人」ではなく「お聖人」の文字を当てていた。
この生涯の恩人の1人を偲びながら、いつもお上人と付き合っており、向こう5年ほどの間に、往年の体制や意識の組織にまで育て上げたい、と願っている。
鵜飼さんは、当町内にある3つの寺の1つの息子で、当地域で唯一の幼児を抱える家族の長だ。妻はかつて、地蔵盆の度に粘土遊びを教えた子どもの一人だが、僧侶の資格と、注目の作家(『寺院消滅』や『無葬社会』などの著者)の顔を備えて東京から最近Iターンした。
未来さんは、当地域では数少ない若き女性の一人だが、かつて一度わが家のコンピューターに不具合が生じた時に、その父親と一緒に世話になった。彼女も東京からのターン組だが、先月末の夜分に、母親と一緒に最後の来店客として訪ねてもらえた。そして「近辺で再就職できた」ので(心にゆとりができたのかもしれない)、「アイトワで、学べることがありそう」と、言ってもらえた。そこでこのたび早速招き、庭の一角を2人できれいにしたわけだ。その上でお茶の時間を設けて、「アイトワ」が大事にする「結」と「銘々品化」のココロを語りあった。工業社会が失わせた「相互扶助」や「オリジナル」、あるいは「創造の喜び」などを語らった次第。
橋本宙八さんとは中国の「五位一体」の読み解き方を語らい、あれこれ未来を推し量った。
中国の人々が、アメリカの人々並みの生活を手に入れるには、地球は小さすぎる。アメリカは、グローバリズムを標榜し、「お金」という架空の「情報」を駆使して世界中から「さまざまな資源」をかき集め、世界の経済繁栄に貢献したつもりになっている。だが、それは地球の資源や人のココロを蝕んでいたことになっていた。中国は、同様の繁栄を願って振る舞おうにも、その人口に値する4倍もの資源は地球にはもはやない。