朝に純白で咲き、午後にピンク色に染まり、夜は赤くなって萎み始める酔芙蓉(スイフヨウ)が盛りになる神無月。オキザリスが、井戸枠花壇の調理用ラベンダーを、願った通りに引き立て始めました。カキが色づき、冬野菜の準備が本格化する1カ月です。
畑仕事は先月の下旬から、秋のパターンに移行。朝食後と夕刻の2度にわたって庭に出始めました。夏野菜の(インゲンマメ、キュウリ、そしてカボチャから)畝を順次片付け、仕立て直し、冬野菜の種をまいたり、苗を植え付けたりする1カ月でもありです。
1日、ダイコンとコカブの種をまき、4日に畑地の南半分を占めていた(トマトやツルクビカボチャなど)の支柱を解体。5日にブロッコリーの苗を植えつけ、6日にあらかた(トウガンやゴーヤなど)の支柱を解体と、10日にはほぼ畑は冬装束になりました。
上旬は他に、7つトピックスに恵まれました。1日、長津親方が来訪、歓談。2日に石神夫妻と今村さんを迎え、石畳道の再舗装を完成させ、昼に迎えた池田望さんたち4人組のチーム演奏を楽しみました。4日、マクロビアンの宙八さん、7日にちあきさんと橋本夫妻が個別に来訪。整体治療師の俵谷さんをご案内。6日、尊敬する造園家・井上剛宏夫妻を迎え、歓談。9日、望さんを迎え、モミジの秋の移ろいを撮影し始めていただいた。10日、今村さんの再訪で、30数年ぶりのマムシと再会する機会も得ました。
中旬は、高等電気の技術者来訪と、2つの庭仕事(囲炉裏場での大焚き火と竹の支柱整理)で始まり、岡田さんの来訪で終わりましたが、その間にも7つのトピックス。
12日、午前に長津勝一・井上剛宏両氏を迎え、歓談。ありがたい話に。夕刻に服部夫妻(アイトワ塾の発起人だった)が来訪。13日、アサヒTVの番組放映、鑑賞。14日、詩人の山口さんが友達連れで来訪。15日から1泊で京北町まで「ミニ『匠』の祭典」に下村知範さんと参加。18日、瞳さんの友人が再訪。19日、別件でTV社を迎え、打ち合わせ。
他に、葉子さんに立ち寄ってもらえたり、妻と手分けして庭仕事(円形花壇の新装と庭木の剪定)に取組んだり、畑では、冬野菜の準備(キャベツ、チンゲンサイ、パセリ、第二次のワケギ、そしてスナップエンドウの苗植えと、アイトワ菜やホウレンソウなどの種まき)に当たったり。妻は、母家の内庭や方丈の庭の手入れにも当たっていました。
下旬は、望さんと梶山さんがヒョッコリと、個別に来訪で始まり、ニホンミツバチの師匠・志賀さんの来訪で神無月を終えました。この間にも7つのトピックス。
22日、SDGs関係の叢書づくりの有志(ZOOM=MTG仲間)と、保津川下りの後、わが家の庭をご案内。23日、今村さん三度目の来訪。薪の移動など。25日は池田望さんに(TV取材関連の作業で)無理を言って、薪を割る姿の撮影などで終日拘束。26日、TV番組作りの追加資料を送付。28日は藤田恵子さんがご主人と、外岡豊先生をご案内。広い見地から地球環境問題に取り組む学者だし、音楽がらみの活動もされているようで、爽快な一時になりました。この日の夕刻の薪風呂焚きから30日にかけて、TV収録に対応。この収録に造園家の井上剛宏さんを、妻は石堂さんを迎え、池田望さんに駆けつけてもらい、ひと肌ぬいでいただいた。
畑では、ヤマイモ、オクラ、あるいはモロヘイヤなどの畝を仕立て直し、2種のエンドウマメのポット苗づくり。ハクサイ、ミズナ、そしてタマネギなどの苗を植え付け、一通りの冬野菜の準備を済ませました。義妹にもらったフェンネルの苗の植え付けや、2種のパセリ類の鉢植え造りにも当たっています。庭では紅葉が始まりました。
~経過詳細~
スイフヨウが、特別な年になりそうだ。
実りの時期でもある神無月。「冬が近い」と思わせるような朝焼けで明け、あの「2度に亘った“戻り梅雨”」や「先月のあの残暑は何だったのか」と振り返った。
酔芙蓉(スイフヨウ)は、うっそうとなった庭木の日陰にされ、樹勢がずいぶん衰えた。だが、なんとか今年も花を付けた。朝に純白で咲き、午後にピンク色に染まりはじめるが、その移ろいが美しい。とりわけ、このたびは、心惹かれた。
超台風ではないか、とおののいた先月の14号が、脅威を感じずに済んだのはありがたかった。だが、手放しでは喜べない。強風の試練に欠けた年になったわけで、樹木を甘やかせたのではないか。
8日の新聞で、若者へのあらぬ試練を心配した。「広がる学生向けの食糧支援」「仕送りたよれず バイト減が直撃」などのニュースに触れ、今や若者の過半が大学生の時代。このような試練は若者にとって、真の生きる試練になるのだろうか、と心配した。
近年のブームがごとき進学熱が、若者が迎えるであろう未来に、その試練に、真に応え得るのだろうか。この心配が、なぜか大阪に住んでいた伯母(母の20歳ほど年上の長姉)の4人の今は亡き息子を思い出させた。
長男は招集された中国戦線から復員し、突撃命令ごとに「どう通じさん、どう通じさん」と唱えた、と復員祝いの席で語った。次男は後年請われて養子に行ったが、京都の大学に進学し、招集もされず志願兵にもならなかった。三男は17歳になると予科練に入った。連日のカッター漕ぎの練習で、両手にマメを作ってはつぶし、墨汁を塗って木綿糸で縫っていた。末っ子は敗戦間際に招集され、入隊日に母と見送りに行った。母は末っ子に持参したイチゴを食べさせた。
この帰途だったと思う。爆撃があった西宮に立ち寄り、戦災を免れて生家を訪ねると大勢の浮浪者が住み込んでいた。焼夷弾は4つとも不発だった。
帰途(?)の焼け跡に崩れ落ちた小さなビルがあった。大勢の人が覗き込んでいた。母は覗くな、と私に言ったが、幾重にも積み上げられた白っぽく膨れ上がった死体を垣間見てしまった。
その後、伯母の4人の息子は、それぞれ命がけの日々をそれぞれなりに過ごす。次男は、大阪大爆撃の翌日、母を訪ねており、泣いていた。4人はいずれも、爆撃の犠牲にもならず、戦死もせず、敗戦後はそれぞれ、多様な人生を満足げに逞しくまっとうした。
76年前(1945年)のある日も思い出した。戦時中の尋常小学校での思い出だ。翌日から夏休みという日のことだった。全校生が太陽の照り付ける運動場に集められた。とても長く感じられた校長先生の訓話があった。空襲警報は鳴らなかった。
校長先生の演台の側に、直立不動の軍人が立っていた。誰一人咳払いもしなかった。突如、バタッ、ついでバタッ、しばらくしてまたバタっと、棒のように児童が倒れた。
中学生が当時、なぜか小学校で同居しており、日々厳しい軍事教練を受けていた。だからか、一人も中学生は倒れなかった。偉いなぁ、と思った。
3人目の児童が倒れた時にやっと、女の先生が動き、2人が続き、倒れた児童を引きずって運び始めた。校長先生はお構いなしに訓話を続けた。
こんなことを振り返っているうちに、1995年のアメリカ取材時の一コマも思い出した。カリフォルニアで訪れた大学でのこと、アメリカではすべての学生に最低2単位の“生物学”の受講を義務付けた、と聞いた。それは、どのような時代を迎えようとも対応できるチカラを養う上で不可欠との判断、と聞かされた。私には、その意味するところがよく理解できた。定まった体制の下にある既製のレールに、なんとかうまく乗る知識や技術は、机の上でも身につけられそうだ。だが、SDGs時代はそれでは通用しないだろう。2度と同じことが生じない自然の下で、2つと同じものがない自然の創造物に精通し、親しむ精神が求められているように思う。
この日は、通訳と昼はスナックですませた。レストランのTVでは野茂を実況中で、そのトルネード投法にすべての客が惹きつけられていた。
どうしてこのような回想をしたのか、とチョット思案し、すぐに分かった。スイフヨウがキッカケだろう。敗戦後のことだが、3年か4年はたったいたと思う。まだ小学生だった私は、嵐山の“中の島公園”まで母に連れ出された。そこで身震いする惨状を見た。
スイフヨウは、翌朝には赤く染って萎みあがっており、次第に醜くなる。その様子に触れて、これまで時々思いだした回想だ。
純白から赤く染まりゆくスイフヨウと、とりわけやすむ前のピンクのあでやかさと、翌日の縮んだ姿の落差が大で、それが様々なことを連想させるのだろう。
中の島公園はサクラの頃になると騒がしくなった。車座になって手拍子を打っていた花見客の男たちが、宴たけなわになると立ちあがり、踊り、やがて激論が始まり、決まったように乱闘になった。仲間うちか、隣の車座との間でか、などはわからない。
その日は、小さな女の子が、血だらけの男の足元にしがみついて、激しく泣いていた。こうした光景を見せようと、母は私を連れ出したのだと思う。
私は未だに、かように酔った記憶はないし、行き合わせた人と激論さえしたことがない。
中旬になった。ピンク色のオキザリスの花が、井戸枠花壇のラベンダー(小さなブルーの花をつける)に、大きな花を咲かせたかのようになった。
普通は10㎝余りの花柄の先に咲くピンク色の花だが、背丈が50㎝程もあるラベンダーに負けまいと、そのてっぺんまで花柄を伸ばし、日に当たり、咲き誇こっている。
動物ではここまで環境に即応し、適応した例は聞かない。それは、動けるが故の油断ではないか。そこで思いついた。もう1つの日陰にある井戸枠花壇でもオダリスクを育ててみよう。ヤマボウシの木が茂り、日陰にされたので、リスマスローズを育てている。そこで日光を好むオダリスクは、どう振る舞うか、確かめよう。
下旬にはカキが色づいた。今年は不作の上に、青柿の時にサルにことごとく襲われてしまい、まともな実は20にも満たない。これは実生の甘柿・クボガキだが、そのあらかたの実を望さんに採ってもらった。「クボガキは初めて」と喜んでもらえた。
カキが大不作の今年、唯一の嬉しいニュースは、実生の新たなシブガキの木が初めて実を付けたこと。実生ゆえに、こちらが願った場所に芽生えたわけではないので、思案していたことがあった。実がなるのを待って、処分するか否かを決めることにしていた。案の定、シブガキだったが、実の大きさはクボガキほどのある。吊るし柿(御鏡餅飾り)用に程よい大きさだ。切り取らずに育てることにした。
望さんはアイトワの紅葉(秋の予告写真)をウェブサイトに載せてくださった。また、QRコードを、ハガキに「張り付けるように」と言って作ってくださった。門灯にも活かした。
この様子を知って、「門灯にはこの方が」と言って、大きなQRコードも後日作って下さった。これから日が落ちるのが一段と早くなり、門扉の苗字が読みづらくなるので、ありがたい。
https://aightowa.jpn.org/fall.html
神無月は、夏野菜と冬野菜の端境期だ。支柱だらけの畑から、中旬までにあらかたの支柱を解体し、冬野菜の畝に改める。
キュウリの支柱、ついでツルクビカボチャと自生のトウガンの棚、そして共に自生のゴーヤとツルムラサキの支柱と、次々と解体し、畑はスッカリ冬化粧になった。
解体した竹の支柱は、用途によって、太さや長さがまちまちだ。支柱として土に打ち込んだ部分の多くは、先が朽ちている。
先が朽ちた竹などは、それぞれ整備し直して、分別し(翌年、取り出して即座に使えるように心して)収納する。短くなりすぎると割って、風呂の焚きつけになる。
中旬のワークルームは、カボチャやトウガンの実で賑やかになった。この賑やかさが妻を刺激するようだ。パンプキンスープやトウガン汁に加え、早々と「一株、コイモを」掘り出してほしい、とせがまれた。おかげで新メニューにありつけた。
これは望さんのおかげ、でもある。わが家のトウガン汁などの様子を伝えると。お返しに、池田家のメニューを教えてもらえる。レシピの交換が妻を刺激した。
観光シーズンにそなえ、妻と庭仕事に1日を割いたこともあった。妻は円形花壇の模様替えから。私は喫茶店へのアプローチの脇に生えるカシの木などの剪定と、第3次のフジの剪定から手を付けて、カフェテラス周りを整えた。
ジャーマンアイリスやスイセンの鉢仕立てや、パセリとイタリアンパセリの鉢育ての準備に、一人で取り組んだ日もある。パセリ類は、やがてカフェテラスにデヴューする。
カマキリをあまり見かけない夏だった。だが24日に、わが家にとっては再発見があった。第3次のフジを剪定し、その剪定くずを掃除した後のこと。19年ぶり2匹目の発見だった。隣のキンモクセイの茂みの中に伸ばしていたフジの蔓を引き抜いたが、その蔓についてきたのだろう。
小さなカマキリで、日本の原種、ときいたことがある。この度はその茶褐色型だった。
19年前は、その正常な色の方とその卵鞘(らんしょう)を見つけた。見過ごして、踏みつぶしたりして来たのではないか、とおののいた。だが、その時点で、「アイトワの庭には5種のカマキリが棲んでいる」と喜んだものだ。
日本には、8種のカマキリが棲んでいるようだが、今ではこの3000平方mほどの庭に、6種が住んでいそうだ、とおもい始めている。見かけはオオカマキリ(身長は7cm~9㎝程度 )だが、6cmに満たない個体を時々つかまえたことがあるからだ。
このたびのヒメマカマキリの再発見のおかげで、「よくぞ絶えずに」との想いがこみ上げた。アイトワの庭への想い「庭宇宙」との想いを追認した。
今月は、再発見したカメムシの種が2度。その1匹はアイの花で見つけた。また、フジバカマが咲いたが、今年もアサキマダラがやって来た。
2、5度のヒラメキと庭宇宙。
「そもそも『garden』とは」と、造園家の井上剛宏(たかひろ)さんは口を切り、「ヘブライ語の『gan(囲まれた)』と『eden(楽園)』に由来する、と教えてくださった。頭の中で何かが閃めき、駆け巡った。「そうであったのか」との想いだった。
半世紀以上も前の秋のことだ。学生時代の仲間と最初の同窓会をもった。嵐山で開き、翌朝はわが家に案内した。ススキなどを刈り取っただけだし、引き込み電柱も自分で作って立てた庭だったが、夢を語った。
その夢は20年ほどかかったが、ほぼかなった。だからこの手作りの庭で体験したり、感じたりしたことを雑誌や機関誌に投稿するようになっていた。その後、それらのエッセイをもとにして一著にまとめ、『庭宇宙』との題を与えている。
井上剛宏さんは、「道具と怪我と弁当は自分持ち」との、昔の庭師の心掛けも教えて下さった。これは、2度目のヒラメキを生じさせた。おもえば、この心掛けで、私も庭づくりに挑んでいた。「あわや!」ということが幾度となくあった。その都度自信を積み重ねてきた。今では楽しい思い出だ。だから、道具も話題にした。道具を「自分の体の一部」と位置付け、自己完結能力や自己責任能力を備えるのが職人の魂、ということで意見が一致した。
井上剛宏さんは老舗造園師井上家の20代目。社団法人日本造園学会の評議員や京都府造園協同組合の理事長など多々公職もお持ちだし、東京農業大学客員教授の他に、広く多くの大学で後進の育成にも当たっていらっしゃる。数々の名園の造園を手掛け、2005年には「京都迎賓館」の造園に(尼崎博正、三谷康彦、佐野藤右衛門らと)たずさわっておられる。
「あのころは、『あの枝、切り取れ』とは言わなかった。『あの枝、もらえ』といったものだ」と、過去を振りかえられた。「ハッ!」とさせられた。また何かが頭の中で閃めき、駆け巡った。3度目のヒラメキだった。
アイトワの庭では、野草がテーブルを飾ることが多い。その時は野草や菜の花、ないしは枯れ行くノバラの種などを、テーブルを飾るために切り盗ってはいないつもりだ。野草などが喜ぶように(切り取った方が、風通しが良くなるように、など)と心がけてきた。
「仕事の“やり方”は教えるが“考え方”を教えなくなった」と井上さんは昨今の傾向を嘆かれた。この時も、幾つものことが頭の中で駆け巡った。長津親方のこと。わが家の夫婦ゲンカ。あるいは、と様々な想いが頭の中で巡った。4度目のヒラメイタだった。
10歳も年上の私は、ついウッカリ妻に“考え方”を語ろうとする。10歳も若い部下だった半世紀も前の癖が出てしまい、“考え方”を語ろうとしてしまう。私の死後、15年ほど長く生きる妻の老後が気になってしかたがないからだ。
だがそのつど、「放っといて」といわんばかりの反応に出くわし、「偉そうに」とばかりに睨まれてしまう。
長津親方も愛弟子に「考え方」を教えようとされる。その都度私は、弟子を想う心とみてきた。その「考え方」に惹かれて、親方を心に刻み込もうとしてきた。
先月は親方の後ろ姿を見て学んだ。「向こうの大工は」と、欧州の大工の智慧を語られた。「直線(墨ツボや角尺)だけじゃなくて、円(コンパス)でも考えるんだねぇ」とおっしゃった。
神無月初日の親方の来訪は、私にとっては新製品“折り畳み式ミニノコギリ”の紹介だった。“折り畳み式ノコギリ” は(替え刃を用意して仕事場に出向き、万が一刃を欠いたり、折ったりした時に、仕事を中断しなくて済ませる。目立てを待たずに済ませられる)便利だ。だから井上さんに紹介したくなった。
この日、井上剛宏さんは、オープン‐ガーデン(open garden)も話題にされた。日本が世界で最初に、庭の前に「便覧随意」と張り出して、それを行った国だ、とおっしゃった。これまでは、1920年ごろのイギリスが最初と思っていたが、原三渓は名園を1906年(明治39)に公開していた。これで5つ目のヒラメキをえた。
後刻ネットで、原三渓は生糸貿易により財を成した実業家で、西の桂離宮、東の三渓園と並び称される庭を造らせていたことを知った。
これら5つの新しい知識は、井上剛宏さんに、たってのお願いを口にさせた。
生木を切った時に、これ以上に木に優しいノコギリはない、との長津親方の「匠」の紹介だった。快い返事を頂けた。長津親方にも「願ってもないこと」と喜んでいただけた。
このたびの井上剛宏さんとの語らいは、この「“アイトワの庭”を『ganーeden』だとズーット観て来ましたヨ」とおっしゃっていただくことから始まった。ありがたいことだった。、感謝した。同時に、思い出したことがあった。
「おこがましいことだ」と、この歳になっておもうことが多々ある。この度は、「先楽園」と命名した時のことを思い出した。拙著『庭宇宙』(2002)で、最初に取り上げたエッセイの題名のことだ。
その元をたどればこの2年前にさかのぼる。その昔、大本山大覚寺(旧嵯峨御所)が総司所である華道“嵯峨御流”の機関誌『嵯峨』に、6年にわたって毎月エッセイを載せさせていただいた。その2001年1月号の原稿だった。
お釈迦さまは“後楽園” を好まれた。せいぜいが“偕楽園”止まりで「楽」を慎まれた、と聞いたことがあった。言われてみれば「先楽園」は聞いたことがない。
だから「不遜ではないか」と悩みつつ、わが家の庭を「“先楽園”にしてみせよう」と願い、いっそう庭づくりに励んだ。その折々の想いを複数の誌紙で綴った。それらの中から『庭宇宙』との「題」に相応しいエッセイを選び出し、3部作として編集し、想いをまとめ直す構想をたてた。いわばその「宣言文」が先楽園だった。『庭宇宙 パートⅡ 循環する庭』までまとめ、今は『パートⅢ』の構想中だ。
3、ミニ「匠」の祭典。
知範さんを誘って参加した1泊2日の“ミニ「匠」の祭典”は、“あうる京北”(京都府の施設=ゼミナールハウス)で10月15日(土)11時に集合だった。
第4回まで重ねた“「匠」の祭典”は、コロナ渦のせいで2年間飛んだ。「今年こそ」第5回目を、と願っていたが、諸般の事情で“ミニ”になった。
林業で有名な地、京北で、ミニ祭典ではノコギリの何たるかも学ぶことになった。
“あうる京北”でもコロナワクチン3回接種者は宿泊費4割引き、と聞かされていた。15人の参加者中、身体(からだ)が資本の(自己責任能力が厳しく問われる)人たちなのに、割引有資格者は3人に過ぎなかった。仕事やこのたびのような仕込みの時間で忙しいのではないか。群馬や山梨など多くが遠方からの参加。1人はカナダから、だった。
昼食後、“村山林業”で樹齢400年の台杉がある植木畑の見学から始まった。
磨丸太や垂木丸太の産業は、市場での需要低迷に加え、異常気象が原因と思われるさまざまな異常が(シカが、スギやシキミの新芽まで数年前から食べ始めた。スギに赤枯れ病が発生する。さらにスギの葉ダニの発生問題も)重なって、苦境にある。
樹齢推定400年の台スギが紹介されると、どなたかが叫んだ。長津親方と愛弟子の高橋さんに並んで写真に納まった。皆さんパチパチと写真に収めた。
古木には“風雨で朽ちた部分”がある。「しゃれ」もしくは「しゃり」と呼ぶ。シャレコウベの「しゃれ」、もしくは仏舎利の「しゃり」からの派生であろう、と説明された。「しゃれ」と聞いて、洒落(しゃれ)男を連想した。元をただせば? 同じ根に行き当たるのではないか。
京都の「千本通り」は、その昔、それほど大量のスギ丸太が往来していたことが由来。京都の町は「碁盤の目」状だが、最も長い通りであり、斜めに走る部分もあるのが千本通。北は北区の鷹峯から南は伏見区の京阪淀駅周辺(九条通より南は鳥羽街道とも呼ばれる)まで、南北に全長17kmにおよぶ。その昔は「千本閻魔堂」から北は風葬の地だった。
村山林業の作業場に歩いて移動する道中でも、「丸太町通り」の由来が語られた。スギ丸太を市中に運び込んだことに往来する。こうした話を聞きながら、「千両が辻」を思い出した。同じく上京区にあるが、日に日に千両が飛び交ったという一帯であった。
車で京北銘木生産組合まで移動。北山杉や北山丸太と、その加工品の生産から流通の制御に携わっている組合だ。
自然に、ないしは人工的に(表面に柄付けされ)生み出された丸太やその加工品、枝打ちに用いる道具、あるいはその活かし方などが紹介され、その何たるかを学んだ。感心させられたが、需要低迷と聞いた。その未来に想いを馳せた。
2世代ほど後のわが国は「“高級木材資源”と“職人の「匠」”が売り」の国家になっているのではないか。また、都市集中が崩壊し、多くの人が全国に散らばり、木造家屋で創造的な生き方に、あるいは生業に勤しんでいるに違いない。
世の中は近く“人間の合理化(例えば2バイフォー工法など。素材を無駄に使い、人間をコストと考える)”時代から“素材の合理化”時代に一転させざるを得なくなる。ロボットの代替のような人間はわが国では無用となるだろう。かく美意識や価値観は一転しかねない。
その移ろい(現在の延長線上にはない未来はない)やいかに? このあり様を可及的速やかに見抜き、己の道を見定めることが求められている。
“あうる京北”に戻って、講堂で勉強会“鋸の研究会”に移った。
先ず、その予告編であるかのごとくに『「唐櫃」千年の旅路』のDVD上映があった。空海が開いた総本山金剛峯寺、高野山で用いる「唐櫃」を、さまざまな職人がボランティア参加し、1000年後に引き継ぐ「匠」を駆使し合い、創出する事業の収録である。木曽ヒノキの何たるか(材の選択)から始まった。
次いで、親方の講義と演習だった。親方と高橋さんがその場の整えに取り掛かると、参加者が反射的に立ちあがり、親方の願いがわかっているかのように動き始めた。
鋸の定義はない(ようだ)とまず知った。長津親方は3種の鋸のハを図解して示し、いずれが「よく切れるハ(歯or刃)か」と、参加者に問いかけた。
あらかたの人と同様に、私も間違った。正確にいえば、かつては間違っていた。長津親方に出会うまでは間違っていた。資料が配布され、こうしたことに気づきうる“考え方”の講義が始まった。
これまでのノコギリは「歯」であって、歯の目建てだった。親方のノコギリは「刃」だ。だから親方は刃を「研ぐ」と考えていらっしゃる。
次いで、用意してあった3種のハの鋸で、ヒノキの角材を切ってみるなど、実体験をした。皆さんが熱中し、予定にあった常照皇寺の拝観は割愛になった。
第1日目を終えた。4つの宿泊棟に分かれた。風呂(宿泊棟にもあったが、大風呂に行くと、研修旅行仲間と語らうことができた)のあと、揃って夕食。
「明日もよろしく」で解散。
この日、午後の見学では、車の台数を減らし、分乗しての移動だった。快く便乗を勧められるままに乗せてもらった。この誘いに甘えておいてヨカッタ。
清酒を1本ぶら下げて参加していたからだ。分宿した棟の向かいの棟に押しかけると、便乗させてもらったお二人も投宿で、造園師と彫刻家と分かった。この2人を交えた7人で喧々諤々がはじまり、延々と続いた。
鋭くて率直、深くて多様、そして互いの得手を尊重し合う“分別(ふんべつ)”が律する意見の交換だった。私はかなり意識して、多くの事実の紹介もした。
翌日は、技術面の実習実演を伴った講義だった。予期していなかったことだが、20名近くの学生とおぼしき若者が引率者のもとに参加した。女学生も混じていた。
親方のミニ講義が始まると、後ろの席に座っていた学生が一斉に席を立ち、前の方に詰めかけた。この動きが新鮮だった。
若者も親方の勧めに従い、実技に次々と加わった。おそらく、熱心な教員が日曜日を活かして、自由参加者を募ったのだろう。
昼食時に、声を掛けられた「マスクを外してください」とお願いした。見覚えが強烈に残っていた人であった。
「宙八さんと“餅つき” に」とまで言って、万が一間違っていたら、と心配したが、その通り、と言わんばかりの顔をして下さった。
午後は本格的な演習になった。そこで、親方に断りを入れて中座した。前日割愛した見学・常照皇寺を訪ねた。まず目に留まったのは、檜皮を剥いた赤いヒノキの木立だった。
高厳天皇が南北朝時代の1362年に廃寺を改修し、小庵から開いたことに始まる。没後、山国陵として祀られ、その後、御花園天皇後山国陵と後土御門天王の分骨所が設けられている。
初めて見る様式が多々あった。願わくは桜の頃に再訪を、と願った。国指定の天然記念物「九重桜」や、一重と八重が一枝に咲く「御車返しの桜」がある。
帰途、車を怖れない若いシカに出くわした。シカに先導されるようにして帰路を急いだが、シカが数年前からスギやシキミの新芽まで食べ始めたとの異常報告から始まった小旅行に、まことに相応しいエンディングになった。
帰宅し、記憶を頼りに餅つきの日の資料を確かめ、橋本宙八さんに問い合わせた。佐野春仁さんは京都建築専門学校の校長だと知った。7年ぶりのありがたい再会になった。
4、大勢の博識と初見のマイマイ
この庭には6種のカマキリが棲んでいそうだ、と喜んだ月末近くのこと。「これは?!?」と首をかしげたくなるマイマイが2つ、寄り添っていた。
わが家には様々な陸貝が棲んでおり、これまでに7~8種を数えて来た。
2つのマイマイが、茂みの中で寄り添うようにしていた。これまでは「あの髭があるマイマイの殻から、ヒゲが取れたものではないか」と、みてきたが、いかにも新鮮な殻だった。「生きているかも」とおもった。
生死を確かめたくて、プラスチックバケツの底に入れて置いた。気がついた時には既にいなくなっていた。逃走した足あと(?)がくっきりと残っていた。亜種か別種かもしれない、とおもいながら一覧写真をつくり直すことにした。
この段になって初めて「シマッタ」「ヒョットしたらあの中に」と、思った。陸貝に詳しい人がいらっしゃったかもしれない。残念な思いがこみ上げた。
22日に11名の、28日はお1人だが、計12名の学識経験者や博学者とゆったりとした時間を持つ機会に恵まれていた。にもかかわらず、ついに陸貝を話題にすることを忘れていた。
22日は、9:40に亀岡駅に集合。桂川亀岡市長に迎えられ、 “ごみ拾いを体験する「保津川下り」”にも興じる1日だった。
上舟前に、保津川遊船企業組合の豊田知八代表理事から保津川下りの概要説明があった。次いで、市長の環境政策を主に施政方針と、経過や成果を伺った。真にSDGsを目指す立体的・総合的な想いに触れた、との感動をおぼえた。
舟下りは全長16㎞、標高差50mを3時間かけて、嵐山の下舟場にたどり着く。だが、私たちは途中で2度、川岸に舟をとめ、ごみ問題を実感する活動に関わることになっていた。
舟が滑り出し、ほどなく正面に愛宕山が見えた。あの山の向こう側にある船着き場までご案内する、と説明は始まった。
最初の下舟は、湿った土が脚をとる傾斜地でのごみ拾いだった。市長は軽快な足取りだし、岩場にいたるとはねて走るがごとくに率先垂範、見る間にゴミ袋をみたす。
舟はやがて旧山陰線(125年前に開通)の鉄橋をくぐる。赤レンガ造りの美しい橋梁に、繊細な職人の技を観た。その余韻を楽しみながらゆったりと舟は下り、複線化に伴う現山陰線の鉄橋に至った。国は豊かになったが、優美さを欠く味気なさを感じた。
2度目の下舟は、小岩と石ころだらけの広い河川敷のごとき場所だった。そこにも異なる旧山陰線の緑色の鉄橋があり、当時は東洋1長い橋梁であった、との説明があった。
石だらけの広い河川敷の中ほどに、川寄りに、規則正しい石の行列があった。その帯状の石はコンクリートで固められた。かつてはここが護岸であった、と物語っているように視た。もしそうなら、河川敷の幅は2倍以上に広がっており、当時と比し、大雨時に流れ来る水量が、その後途方もなく増えたことを示しているのだろう 。
この一行は神戸国際大学の学長を始め、教授陣と、同学に委嘱された叢書(SDGs関連)づくり仲間の有志だった。
そのお一人、桂川市長の活動ぶりを伺ったうえで川を舟で下ってアイトワで昼食の後、わが家の暮らしぶりを見学していただく1日だった。
船着場からアイトワまで、亀山公園を超える道を選んだ。道中、市長と語らいながら歩んだ。話題として、“環境問題への意識が高い友人の幸運”と“農業の意義”を取り上げた。友人は元アイトワ塾生の伴さんであり、息子を府立農芸高校に進ませ、今や一家で亀岡に移住したことを紹介した。伴さんに、息子の進学先として農芸高校を薦めた訳や、その妹は自ら選んだことも語った。伴一家の亀岡への移住を私は幸運とみた。
市長から、農業との関わりが深い応答に触れ、多々腑に落ちた。残念ながらこの日は公務の都合で、アイトワの庭の見学まで付きあってはいただけなかったが、それが私にとっては幸いした。舟下りからずっと同道の遊船組合の豊田代表理事から、市長の今日に至る足跡や苦労が紹介されたからだ。私には多々思い当たるフシがあった。
様々な分野での権威がお揃いだったから、庭の案内は腹蔵なく説明した。
翌23日、けなげな花が咲いた。1粒の種から遅がけに芽生えたトロロアオイだ。20㎝程の背丈(通常は背丈を超えるほど)で、直径10㎝もの(通常の)花(ハナオクラ)をつけた。これで一人前の種を結べるのか否か、見届けたい。
25日、未だに説明がつかないことが生じた。ヤマブキの葉の先にぶら下がる白い綿帽子だ。「小鳥の産毛だろう」と見たが、「それにしても」とおもいながら、確かめず仕舞いになった。
27日、妻は49年来初めての芋粥を朝餉に用意した。トウガラシの葉の佃煮と、キーウイフルーツとヨーグルトの取り合わせを、添えた。
かくして28日を迎えた。茶屋旅館・澤食(さわい)の経営にもあたる藤田夫妻の案内で、外岡豊先生を迎える日だった。埼玉大学名誉教授であり早稲田大学招聘研究員でもある学者だが、森林再生会議の代表を始め、さまざまな公職にも携わっていらっしゃる。
お迎えして始めて、音楽や絵画など芸術面での造詣は深いし、そのキャリアも広くて豊かな人だと知った。おのずと会話は弾み、笑いが絶えず、愉快このうえない一時になった。
このような好機に恵まれながら、陸貝を話題にとり上げることをすっかり忘れていた。
5、TV局取材クルーとオオスズメバチ
それは28日の朝から始まり、30日の16時までぶっ通しのごときTV取材だった。もちろん事前に、なぜこの番組『バトンタッチ SDGs始めてます』に、私たち家族の生き方が選ばれたのか、その事情説明も受けた。その打ち合わせに1日を事前に割いていたし、私の希望も聞き入れてもらいもした。
だがその後、日程的にまったくゆとりがない事情(放映が、12日(土)に、と大幅に繰り上がった)が生じてしまった。希望がてんてこ舞いの原因にも結びつけた。だから急遽、池田望さんを巻き込んだ。予告編用のスナップ写真だけでなく、動画のデータも必要となり、1日がかりの作業をお願いした。
今年は、トウガンがジャングルのような思わぬところで、あるいは畑の思わぬところでも自然に生えた。その1つに、私の「無精ひげのようだ」といって妻はいたずらをした。
TV用の収録は28日の薪風呂焚きから始まり、30日午後のインタヴューで終わった。29日は、妻の、タケノコ(この時期に出るが、チョット時期遅れ)を採り、カキの葉を集め、今年2度目の“柿の葉寿司”の夕餉造りもあった。
クルーが花壇のあたりで収録中に、予期せぬスターも登場した。今月になって2度目の、この庭ではこれで3度目の、ヒメカマキリ(18日に見かけた個体とは色彩が異なる)のご登場。喫茶店へのアプローチの手すりで見つけて、収録もしてもらった。
ニラの畝で、妻は初めて見るイモムシを見つけた。ガ? それともチョウ? と思案した。すると、「あれはなんだったのか」と、9日に望さんとみた2つのマイマイの競演を思い出した。プロポ-ズだろうか、マイマイも縄張り争いをするのだろうか、それとも、と思案した。だが、撮影のスケヂュールがタイトだったので、話題にしなかった。
妻は人形教室で古くからの生徒さん・石堂さんと、私は庭で造園師の井上さんと、それぞれ歓談、あるいは完全自動簾(落葉樹の効能)などの説明でもカメラに収まった。
29日は、収録の最中に、ニホンミツバチの師匠・志賀さんから「これから」と電話があった。トッテンさんのお宅での巣箱の点検日だったが、順調に進み、ついでにわが家にも、となったようだ。それもヨカッタ。
これでこの日は、井上さんに次いで2人目の、神無月でいえば(長津親方を加えて)3人目の私の師匠を迎えることになった。
この3人の師匠は、道具を職人の延長と位置付け、自然の摂理を尊び、自然の恩恵を享受する「匠」という面で、共通していらっしゃる。自己責任の下に、自己完結を目指す人、という面でも尊敬している。
この日、師匠が巣箱の点検中にオオスズメバチが巣箱を襲った。退治する道具を取りにトラックまで師匠が戻られた間に、捕虫ネットを反射的にかざし、私は無我夢中で3匹を退治した。
その様子を、たじろぎもせずに自らのカメラに収めたTV局の女性ディレクターに、私は敬意を表した。その謎は月末に解ける。
1匹目の捕獲でオオスズメバチは興奮したようで、残る3匹は私たち2人の周りを飛び回った。その内の2匹を2振りした網で捕らえた。真後ろのディレクターはたじろがない。カメラで追っていらっしゃった。
師匠は戻ってこられるやいなや、いよいよ興奮していた残る1匹を1撃で仕留め、「若い頃は」と「バトミントンの選手でした」と穏やかに話しながら、ラケットをかざされた。そして、「危ないですよ」とおっしゃった。
私はぞーっとした。その昔、巣をつぶそうとして失敗し、背中を11カ所も刺され、酷い目に遭っていたからだ。2度目がただでは済まない、と聞かされていたことを思い出した。
巣箱のミツバチ(常は、白く見える巣版を覆うようにたかっている)は、箱の中で「防戦体制をとっています」と、その様子を写真で見せてくださった。
志賀師匠から2つのニュースを伺った。1つは、『ダーウィンが来た』(11月のNHK-TV)で、ニホンミツバチがスズメバチを(肉弾戦で)やっつける場面(既に、師匠の巣箱で収録済み)が放映される。2つ目は、綾部では再びニホンミツバチが激減中とか。
その因果関係は、水俣事件の日本窒素の廃液と水俣病との関係よりも明らかに(淡々と語られた事実から判断し)思われたが、らちがあかない様子。歯がゆい。
世の中(先進国の一員として、わが国)は「このままでいいんだろうか」と不安になった。先月の当月記(SDGs問題のくくり)で、「環境への取り組みが進んでいるイメージのある国トップ10」を採り上げた。1位が日本との報告で、油断大敵と述べた。その折に、私が頭に描いていた情報は、“SDGs達成度 日本19位に後退”の記事であった。
TV収録は、クルーのチームワークがとても素晴らしく、無事に、愉快に終えた。私たち夫婦は30日の16時に解放され、クルーとお別れすることになった。
私たち夫婦はまだよい、と思った。ディレクターは、京都で50数時間を取材(2日とも朝は7時半までにお越しだった。おそらく睡眠は計10時間ほどとみた)で過ごし、走り舞った上に、その後2週間の激務が待ち構えている。
6、その他。
人形のお出迎え。ある打ち合わせがチョット長引き、帰宅が遅くなった。また「電気を(妻が)消し忘れたのかな」、それとも「帰りが遅くなる私のために」と、思案しながら門扉の前で足をとめ、人形のお出迎えを受けた。そこに幼児期の夢があった。
石畳道の再舗装。翌2日の朝、7時に石神洋一&裕美子夫妻を迎えた。2人は再舗装するための地ならしから手を付け、手早く舗装材を敷き詰め始めた。かなりの難作業と見た。
一仕事を終えて朝食を、と考えていたが、朝食時の8時は、下ごしらえを終えた、時点に過ぎなかった。この日は、なるべく早く帰ればよいだけ、と聞いて安堵した。
10時に今村さんを迎えることになっていた。だから、この舗装作業に参画してもらった。再舗装は昼までかかる大仕事だった。
4人のバンド。この日は昼に、池田望さんがバンド仲間3人と、初めてお越しになる日になっていた。私たち4人もテラスで、チョット贅沢な昼食に。
“ふるさと” などを皆んなで合唱。
石神夫妻は、急ぎ仕事場(園芸療法“デイサービスセンター晴耕雨読舎”)へ。今村さんは午後も庭仕事。帰り際に、かつて私たち夫婦が庭で捕らえ、唯一の殺したマムシを視たい、とご所望。30数年ぶりに初めて取り出した。
私が咬まれて入院し、退院した翌朝のことだった。その頃はまだ、中庭に芝を張っていたが、朝露に濡れる芝にいた。
この後も、庭で4度遭遇しており、3匹は捕らえ、車で山の谷合まで放しに行った。最後の1匹は取り逃がした。そうしたこともあって、養蜂を始めたのを機に、庭の自由開放は30年足らずで(指定したルート以外に踏み込む人もあり)止めた。
俵屋裕子さんとの出会い。畑で支柱の解体に(ツルクビカボチャの棚から)手を付けた4日のことだった。橋本宙八さんと同道された“エゴスキュー”整体師の俵屋裕子さんを迎え、夫婦でその治療を体験。背骨を主に骨格をいかに正常に保つか、これが大切、ということを再認識。
おもえば人類は、四つ足時代の“梁”を、直立歩行に進化して“柱”として使い始めたわけだから「大事にしなくっちゃ」と思った。
妻はその後、7日にも彼女(ちあきさんと同道)の治療を受け、ファンになった。この日、ちあきさんは家庭養鶏の卵を下さった。飼育は10羽たらずと思うのだが、生物の多様性を実感させる卵だ。タマゴの色を指定して卵かけご飯をいただいた。
その昔は、犬もそれぞれ個性的だった。人間は今も血は多様だろうが、一様に育てられがちで、心配。
高等電気の技術者。8日に、お2人が来訪。この会社の勧めで大型蓄電器を設置した。この度もつくづく、この「高等電気」という会社の勧めに載ってヨカッタ、と思った。大雨に対する不安の解消策を考える日だったが、親身になって考えくださり、ありがたいヒントを頂いた。
イモヅルのキンピラ。13日は第1次イモヅルの収穫日になった。今年も2本だけサツマイモを育てたが、その主目的はその葉柄。葉柄の掃除は私が受け持ち、妻がキンピラに調理。2人で賞味。この賞味は私にとって「食べ物」の1つの原点。
敗戦前後のわが国は、食料を配給制度にのせ、サツマイモの葉柄まで束ねて配給し、国民をコントロールした。にわか農婦となって一家を支えた母にとって、サツマイモは大事な夏の作物だった。だが、サツマイモの葉柄が配給され、その葉柄が人間の食べ物だと初めて母は知った。私は「食べ物」の何たるかに気付かされたように記憶している。だから今も、「食べ物」の1つの原点にしている。
カフェテラスのアプローチにトウガン。トウガンを来店者にアイトワ流で紹介した。トウガンがなる姿を観たのは初めて、という方が多かった。
アイトワ流柿の葉寿司。作り始めて48年目だと思う。小夜子流がいつしかアイトワ流になり、今年は10日に作った。長津親方と昼に賞味した。
レシピの交流。池田望さんに、わが家のトウガン汁をご紹介し、トウガンを差し上げた。早速、トウガンの池田家流活かし方を知らせて下さった。同じように、カボチャでも。さらにその後、シホウチクでもレシピの交換ができた。
伴さんの娘・藍花が新聞に載った。丹波版だったので、母親の葉子さんに届けてもらった。
ツルクビカボチャ。今年は、自然生えも含めて豊作だった。たまたまそのオリジンとなった写真(トッテンさんにもらった)が見つかった。まだデジカメが出回っていなかった頃のこと。最後の1つは未だ茂みの中にある。
服部さんの来訪。記念ごとがあったので、焼き物を作ったと言って、届けてもらえた。絹や養蚕に今も傾ける情熱に感心した。
富岡郁子さん。詩人の山口さんがご案内。富岡さんは、わが家の生き方をお知りになって「時代に先行されていたのですね」」と評価をして下さった。ふと「世の中に逆行」と注意され、当時はキチンと説明できず、もどかしい気持ちになっていた頃を振り返った。定休日だったのを幸いに、腹の虫抑えを用意して4人で長話を楽しんだ。
キノコだろうか。母の居間であった部屋の、前の苔庭で見かけた。初めて私は見たようにおもう。
2冊の書籍。友人(インパクト21というポロ・ラルフローレンの日本展開をしていた会社と付き合っていた時に親しくなった)町田英明さんから、「表と裏の両方から読める」本が贈られてきた。かねてからこの出版に関わっていたことを知っていたし、出版予告の宣伝もさせてもらっていた。
過日の“映画会”で、心惹かれた鍛冶職人があった。故人と聞いて、とても残念に思った。そうと知ってか「ありました」と言って、岡田さんが持参してくださった。「本は、なくなるつもりでお貸ししますから」とおっしゃった。どうやら、1冊しかお持ちでないようだが、読む時間がなさそう、と見抜かれたようだ。
クスの苗木。この日は、畝を耕し始めてから4度も手をとめ、3度も余計に温室に戻っている。野菜は、貧弱と見て妻が採らなかった分。耕し始めてすぐにクスが芽生えていたことを知り、ポットやシャベルを取りに戻った。次いで、小さな陸貝を見つけ、鉢受けを取りに戻った。プラスチックの “ミ”は、スコップ(温室に農具収納庫がある)をとりに入った時に、一緒に持って出ている。
どうして、あちこちによく芽生えるクスの苗まで「わざわざ残したのか」と思わぬでもなかった。だが、これらを温室に持ち込んで「解ったような気分」にされた。過日、畝を耕していた時に“カツラ”の苗木(3つあるポットの中央の広葉)とおぼしき苗木を見かけ、ポット仕立てにした。だから「キット」と、「不公平になってはいけない」と思ったに違いない。
この庭には幾本もの記念樹がある。その昔、友人・鳥越孝治社長に願われ、何本かの記念樹を友人はじめ、社員のみなさんと一緒に植えた。その1本がカツラだった。だが、そうとう大きく育っていながら、枯らした。申し訳なく思っていたが、その生まれかわりかでもあるかのように思われた。
今年はなぜか、妻がハロウィーンの真似事のようなディスプレイをした。義妹の畑でも「バターナッツカボチャが豊作」だったらしい。キット、全国的なカボチャの豊作年? と憶測した記念にしよう、と私は記憶にとどめた。
カキの実は、ことごとくサルに襲われた。神無月は、ハクモクレンの種がオレンジ色に熟れる。その実が、今年はことごとくかカラスに襲われた。キット、近くの山などに種まきをしたことだろう。
今年は、これまでに見かけなかったカミキリムシが大発生し、イチジクの木に大被害を与えた。逆に、中指ほどの大きなカミキリムシを久しく見かけていない。
「先月のあの残暑は何だったのか」で始まった31日間は、様々なトピックスに恵まれた。この間に畑はスッカリ冬姿になった。夜分の冷え込みが始まり、月末近くにトンネルを始めた。
大団円は月末の夕食後だった。井上史緒さんに頂いたDVD(のうち2つ、『激闘!イタリヤ“野生馬”』と『ローマのカモメ』)を妻と鑑賞した。イタリヤ在住時代に何作も『ダーウィンが来た』(NHK=TV)にディレクターとして関わっておられたわけだ。
「どうりで」とか「だから」と、夫婦で得心した。彼女は頭の上をかすめ飛ぶオオスズメバチにたじろがず、カメラに「事実」をキチンと収録された。事実をこうして反射的に収録される人が発する「意見」だからだろうか、同じ「怖かった」であれ、尊いと想った。
幾らでも事実の裏付けがありそうな大勢の人を神無月は、「庭宇宙」にお迎えすることができた。そして最後に、この人と巡り合わさせてくれた。これが大団円になった。再会を期す。