目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 池田望さんと、秋のうつろい
2 友来たる
3 外出は8度
a.ノーマンロックウェル展
b.旧佐伯荘見学
c.府立農芸高校訪問
d.十輪寺「塩竃清め祭」法要に参加
e.焼き栗の会
f.プロジェクトXXVの最終zoom-MTG 部
4 TV放映
5 ニホンミツバチが危ない
6 その他
2つの根本
早霜の到来と紅葉のうつろい、これらがとても気がかりな霜月。誠に印象的な1日から始まりました。今は歌人ですが、社会人になった職場で3年ほど、同僚として過ごした村島典子さんを、約束通りに高橋浩子さんが案内してくださったのです。
元「鶴ちゃん」が発した第一声は、「よい歳のとり方をした」でした。この57年ぶりの再会で霜月は始まり、上旬は5匹もの大スズメバチを捕獲することで過ぎ去りました。この間は、日替わりトピックスに恵まれたような日々が続いたのです。
2日、ノーマンロックウェル展を見学。3日、伴さん来訪。4日、知範さんを迎え、あるzoom対談に参加。5日から、望さんが移り行く紅葉を収録開始。6日、奈良まで旧佐伯荘(松伯美術館がある)の見学に、といった日々。喫茶店の新案内板作りに励んだり、畑仕事に集中したりした日もあります。トウガラシ(葉を佃煮用に収穫)の畝やナスの畝を、冬野菜(ホウレンソウやシュンギクなど)の畝に仕立て直し、です。紅葉が本格化し始めた9日、商社時代の後輩、田尻邦夫さんを迎え、歓談。
中旬は、冬子のシイタケの収穫で始まり、20日の「焼き栗の会」(久保田さんと今村さんを誘って出かけた)で過ぎ去りました。この間のトピックスは、まず12日、畑がスッカリ冬姿に。この日は夕刻にBS朝日のTV放映。小雨の13日から冬野菜の間引き菜が食卓を(お揚げとの煮物やお浸しで)にぎわし始めました。
その後、多様な来訪者に恵まれています。まず披露宴をアイトワで開かれた加藤和敏さん。TV番組でお世話になった柴田聡さん。観光プロデューサーとおっしゃる青年。TV放映がキッカケの2件(初来訪の若きご夫妻と、幸野肇さんは60数年ぶりの再会)。アリコさんは建築家·横河健さんをご案内。望さんにはシブガキ採りを手伝ってもらえ、わが家は御鏡餅飾り用の干し柿の準備も。畑では夏野菜の支柱がなくなった4日後に、新たな支柱が第1次スナップエンドウの畝に立ちました。そして、瞳さんにもらった稲わら(酒米で、とても長い)で蔓を吊り始めています。
かくして19日を迎え、伴夫妻に府立農芸高校への案内を頼みました。長谷川校長と挨拶を交わし、清太·藍花兄妹の元気ぶりを確かめたのです。生徒は150人ほどですが、教職員は大勢いらっしゃる。その必然性はコースの多様性が物語っています。生徒がつくる作物がお目当てでしょうが、3000人が集うとか。朝早くから長い行列ができていました。帰途は馬場(拡張中)とマツタケ料理店に案内しもらいました。
下旬は、今井先生ご夫妻を迎えることから始まり、「匠の祭典」関係でお世話になっている青合さんを、ご一行でお迎えすることで終えたようなものです。この間に、ある事情があって、終日PCに取り組んだ1日。十輪寺の「塩竃清め祭」法要に参加。中村敦夫さんと電話で歓談。未來さんが「やっと」と、赤ちゃんのお披露目に。プロジェクトXXVの最終zoom-MTGに参加。今村さんとミニ土木工事。望さんたち4人の2度目の催し。あるいはTV放映がキッカケの、若きご夫妻の来訪、と続きました。
畑ではカブラの収穫とスナップエンドウの花が初咲き。庭では本格的な落葉期に入り、落ち葉カキが始まりました。初霜はいつか、との心配は深まるばかり。
~経過詳細~
1 池田望さんと、秋のうつろい
霜月は「冬が近い」とおもわせる朝焼けで明けた。喫茶店のテーブルなどは、畑で摘んだタデが彩っており、秋との別れを惜しむがごとし。
この度の紅葉を、望さんが折を見て訪れ、そのうつろいを収めてくださることになった。
この間にサフランが咲き、雄シベの収穫が始まり、パエリヤに想いをはせた。
12日、朝に冬子のシイタケが出始めたことに気付く。昼に最後のトウガンを収穫。
夕にBS朝日でTV番組放映。とても「ありがたい妻の発言」を拾って下さったディレクターに感謝。
13日、コイモを収穫。おでんの季節を想う。望さんがメールで、池田家のレシピを教えてくださった。その夕餉に想いを馳せた。
マユハケオモトが咲き始め、デビューさせる。冬に咲くリコリスは、この秋も(年々、樹木に日陰にされるところで)元気な姿を見せた。いつまでも頑張って!
18日、私は干し柿用の竹串をつくり。妻はこれが最後と、カキの葉寿司を用意した。来訪した望さん、きれいな(カキの)葉をよくぞ探せたもの、と大喜び。
望さんの何度目かの撮影日だった。カキは「豊作の年」と聞くが、わが家の甘ガキは「サッパリだった」と、この秋を振り返った。
食後、平年並みに実を付けたシブガキを、望さんと収穫。両家は夜に干し柿作り。わが家は、サルに狙われないように、ハッピーが番をする。
15日。冬子のシイタケの採り忘れがあったことに妻が気付き、ソテーになった。この日のいただきものの赤ワインの肴に、「ピッタリ」だった。
タデで明けた喫茶店のテ―ブルの花だが、霜月はヒイラギナンテンの蕾やツバキの花で暮れることになった。
かく秋はうつろい、ハクモクレンの葉は半ばが落ちた。
アイトワの「シンボルの木」の紅葉も進んだ。この庭での最長老。
このシンボルのモミジは64年前(1958年)の夏、あるお方から(発芽2年~3年目の)苗木をいただき、2本は、東京への(忘れ得ない旅の)お土産になった。残った1本を、当時の棲み処に植えた。
その後、両親はこのそれまでの家を引き払い、現在の地に(私が終の棲家を1963年に造ったので、2~3年後に)家を建て、移って来た。その折にシンボルのモミジも移植。
この1本の木のタネから増えに増えて、今では何10本にも。モミジのトンネルも出来た。
あるお方とは、母に紹介された年老いた尼。在りし日の祇王寺の庵主·智照尼さん。智照尼さんは清楚で、近寄りがたく、凛とした人だった。
貧しさと美女ゆえに幼い頃から男社会にもてあそばれたような人生だったらしい。なぜか私には、美女ゆえに清盛にもてあそばれた様な祇王や祇女の姿と重なって、今も母から聞いた(小指を切り落とし、偽った男に贈った)逸話の方が、本当のように思われる。
だからかもしれない。いつしかこのシンボルの木にテイカカズラがのぼり、幹をおおった。毎年、冬の間に、樹冠をテイカカズラに覆わせないようにズーッと手入れをしてきた。
晩春にはいつも、この蔦(つた)は白くて小さな花をつける。庭の掌(たなごころ)のような所(門扉から入って、五方に道が分かれている広場)一帯に、ほのかな香りを漂わせる。
五方とは、パーキングに、愛犬の避暑ハウス(ユーティリティ小屋とシンボルモミジの間にある)に、シンボルモミと書庫の間の居宅に、そして「喫茶店と人形工房」に。加えて、常は隠れている小径だが、ブランコ人形のある苔庭に、と計五方向に通じている。
月末の掌から左に見るパーキングは、落ち葉の絨毯。右に見る「ブランコ苔庭」では、退社記念樹(アパレル時代の部下から贈られた)枝垂れのデシオが、奥の方で真っ赤に染まっていた。これらの樹は、すべて苗木や種から育てた。
2 友来たる
55年ぶりの再会から霜月は明けたようなものだ。1日、高橋浩子さん(妻の20年来の元生徒さん)は約束通りに、今は歌人だが、社会人2年(確か)後輩の村島典子さんをご案内してくださった。元課長秘書だった鶴ちゃん(鶴橋さん?)の第一声は「よい歳のとり方を」した、とのお褒めの言葉。彼女も面影の通りだった。
歌の何たるかを学ぼうとしたが、それはいずれ詳しく、と話題を変えた。とても奥が深そうに思われたから。
手土産の1つは1982年刊の「処女作」だった。あとがきに、歌人生活14年間の作品から選んだ、とあった。序文を高名な歌人·前登志夫からもらっていらっしゃる。
お返しに私も、この歌集から6年遅れの出版だが、記念の著作(その副題は「ポスト消費社会の旗手たち」で、幾度目かの人生節目になった)活動第1号を持って帰ってもらった。
次の久しぶりの来訪者は、予告なしの田尻邦夫さん。「午後、京都で用事があったので」と言って、立ち寄ってもらえた。商社時代の3年ほど後輩で、分掌役員秘書だった。だから随分(繊維分掌部門の改革事業で)世話になった。その後、業務部長を務めたのを始め、最後はデサントの社長としてV字回復させた。80歳をすぎた今も現役で、かくしゃくと活動中。
13日。TV放映の翌日、若いご夫婦を始め、来訪者や「なつかしかった」との電話が続き、恐縮した。
15日。アイトワで結婚披露宴を開いてくださった加藤和敏さんが久方ぶりに、しかもお一人で訪ねてくださった。20年以上も昔から、毎年夏になると、浴衣姿でアイトワを訪ねてくださる常連さんだった。そのわけをこの度、初めて知った。「ここには、何かがあるんだなぁ」と。リフレッシュの聖地にしてくださっていた。
有名な会社にお勤めの幹部で、晩婚になった。今もその披露宴の様子はアイトワのHPを飾って下さっている。そのご毎年、父の日を迎えると声を交わしあえる間柄になった。お1人での来訪は初めだが、そのほほえましきわけもうかがった。
次いで夕刻に、65年ぶりの再会があった。12日に電話で「お久しぶりです。幸野です」と親しげにおっしゃった。だから、時間を決めてお迎えした。「もしや、恩師の息子では」とおもったからだ。
幸野肇さんは、幸野楳嶺(こうの ばいれい)の曾々孫にあたる人だった。奇遇だ。2週間前に、村野藤吾が設計した旧佐伯荘を訪れており、併設の松伯美術館(上村松園の作品がたくさん収められいる)も覗いていたからだ。
その時に、上村松園は、竹内栖鳳と同様に幸野楳嶺の門下生だったことを振り返っていた。竹内栖鳳も、アイトワの庭とは無縁ではない。その庭守の息子は、わが人生で2人目の、お宅を訪ねた学友(小学校1年生の春)だった。その庭(とても維持にもお金がかかりそうな贅沢な庭園)でカクレンボをして迷子になっており、「このような(広い)庭が欲しい」と願った。
その願いが、徒手空拳で、対極の(お金がかからない、逆に生活を潤す循環器のような)庭を創らせた。広さは同程度だが、こちらは大人でも迷子になる方がいらっしゃるし、ヤマカガシまで棲んでいる。
この間に、2人の若者を迎えた。観光プロヂューサーと名乗り、相談事だった。もう1人は、幸野さんと同様に、BS朝日のTV番組がキッカケで、身体を(未病を主眼に)革命的に健康保持させる施術を追及させようとしている人、と見た。
17日は、山下アリコさんが建築家を同道される日だった。おかげで、ラジオ番組「ピーターズレストラン(2度ばかり、ゲストで呼んでいただいた)」の由縁も知った。
お迎えした建築家の横河健さんは、日比谷の「三信ビル」を建てた横河民輔(高名な建築家であり、横河グループの創業者)の孫。この三信ビル(保存問題で揺れた)にピーターズレストランはあった。健さんの父·横河正三は横河電機社長を務め、中興の祖。私は建築にも興味津々ゆえに、誠に優雅な一時になった。
19日。元アイトワ塾生の三上さんが、ヒョッコリ来訪。一人娘のその後を始め、2つのおめでたい報告を聞かせてもらえた。折よく伴さんが(農芸高校で買い物をした品を届けに)来訪、旧交を暖めあえて大喜び。
21日、久しぶりに今井俊夫先生ご夫妻を迎え、裏門のデザインで(アイトワのシンボルマークぐらいは着けてはとの)相談に乗っていただいた。そして25日。未来からのお客さま「乃々ちゃん」を迎えた。「やっと連れ出せるように」なったと言って、未来さんが、未来さんの未来を同道。
おのずと、未来に夢をはせた。10年ほど前に、アイトワ塾生に「あと10年ですよ。大丈夫ですか」と、問われた課題。2025年日本破綻説のこと。はるか以前から唱えていたから「ホンマに(あと10年で)生じますか」との心配だった、その時も「場合によっては来年にも」と、応えている。
その時の根拠にしたのは緊急性(異常気象による)食糧問題だった。今はウクライナ問題によって露わになりかけている。もう1つの根拠は、パンデミクだが、今や疑似体験中。他にもわが国にはウイークポイントがたくさんある。
この破綻は心配事ではない。むしろ、新しい時代を切り拓く千載一遇の好機だ。にもかかわらず、逆さまの対応をしている。とりわけわが国は、その逆行ぶりが気になる。
昭和19年夏ごろの足掻き(先は見えているのに逆行し、真面目に不真面目なことを国民に強いていた時期)のようだ。
未来さんの未来を抱かせてもらいながら、この日も未来(真の豊かさや幸せの根本)に想いを馳せた。
その最中に「TVを観ました」といって、東京から訪ねてくださった若き女性があった。縁あらば「日時を決めて再訪を」と願う挨拶をさせていただいた。
最後の来訪者(常連の仲間を除き)は29日のこと、13日の若きご夫婦の再訪だった。
3 外出は8度
2日の愛知県の美術館巡りに始まり、25日のプロジェクトXXVのzoom-MTG最終回で終わった。
a.ノーマン・ロックウェル展
名古屋でノーマン·ロックウェル展が開催中と知り、久保田さんと行動を共にした。
ノーマンロックウェルが描き残した当時のアメリカ人の姿は、黄金時代のアメリカを彷彿させる。トランプ支持者が再びGreat America を、と心に描く生き方だろう。世界中の人を魅了し生き方だが、それが地球温暖化で悩ませる事態に結び付けた。
仮に中国が、力に任せて「Make China Great Again」と叫び始めたら、宇宙船地球号はどうなるのだろう。「せめて日本人(一人当たりの平均値)並みの消費生活を」と、人口で10倍以上の中国が願ったら、たちまちにして地球はパンクするに違いない。
仮にイスラム圏が、石油成金に任せてアメリカ並みのFreedom(欲望の解放)を国民に促し、GDPで競い始めたら、世界はどうなるのだろう。
このような思いを込めて、アメリカの黄金時代を垣間見に出かけた。
原画展ではなかった。原画(平面)をもとに、3次元の焼き物に仕立て上げ、アメリカに輸出していたことを初めて知った。
その足取りや意気込みと、品々を如実に知りうる催しだった。
当時のアメリカ中産階級の生き方を、焼き物で見事に3次元化していた。物的に豊かで、清潔で、公正で、伸びやかな人生に見えた。今も見えそうだ。
この、工業文明が可能にしたフリーダム(自由)の謳歌が、地球を疲弊させ、アフリカでは餓死者を、挙句の果てはアメリカ国内でも白人の極貧層まで生みだしている。
ふと、『自由の女神像』が脳裏に浮かんだ。植民地であったアメリカが母国イギリスに勝利して、自由(Freedom)を手に入れ、湧いていた最中に、フランスが送り届けた贈り物・『Statue of Liberty(自由)』。自由(Freedomと Liberty)をはき違えないように、との忠告であったのかもしれない、と。
ノーマンロックウェルの何たるか、人物像もキチンと紹介した。
窯業が日本の礎づくりに貢献した様子も知り得た。
横河美術館の「そもそも」や、わが国の窯業界の俯瞰も出来た。
欧州で始まった芸術革命·印象派は、浮世絵から大いなる刺激を受けた。それは当時、日本が輸出する陶芸品の包装に、浮世絵(売れ残ったりした)を用いていたからだ。それは知っていた。だが、当時輸出していた陶芸品について私は不案内であった。
余禄も多々あった。まず、エチオピアの茶道·コーヒーのたしなみ方(同国アビシニア高原で「コーヒーの茶道」を体験)を懐かしんだ。
次いで、浩養園で昼食をとった。そのオカゲで1つの謎が解けた。さらに、賞味した鰻の茶漬けは初めてだったが、妻に教えよう、とおもった。
謎の1つとは、今は亡き両親が、ある時から同道の旅をしていない。それは「コウヨウエン」に一緒に出掛けたことがキッカケだった。当時、私が知るコウヨウエンは「甲陽園」だった。だからかの甲陽園で何があったのか、と不思議におもったものだ。
「甲陽園」ではなく、この浩養園であったようだ。ならば、納得。父好みではない。
帰路、不気味な夕焼けをみた。昭和19年の夏(?)を思い出させた。当時住んでいた西宮の家の2階から見た光景とそっくりだった。「大阪が爆撃されている」と大人がささやきあっていた。
b.旧佐伯荘見学
6日、奈良の学園前まで、村野藤吾が設計した旧佐伯荘(松伯美術館を併設)の見学に、岡田さんに誘われ、知範さんを誘って出掛けた。
旧佐伯荘は、近畿日本鉄道を日本一の私鉄へと押し上げた佐伯勇が、晩年を過ごした邸宅。この近代数寄屋建築は昭和の巨匠·村野藤吾(1891-1984)が手掛けたもので、和風建築の最高傑作と言われる。
呼び掛けの張本人は吉田龍彦さん(写真左:手前から2人目)。高名な日本建築のあらかたを、技術面も含めて印刷物として残すライフワークで知られる。
見事な建物だった。だが、意外なことが幾つかあった。その1つは、厨房。そして家電時代到来に備えた配慮、など。
この日、大仏開眼法要(大仏殿はまだなしの)時に(伎楽隊の先導者が)用いた伎楽面を体感するする機会にも恵まれた。これを完全復刻した加藤翆園さんのご子息も参加しておられたおかげ。本物は正倉院にある。形や色、重さや傷の具合も寸分変わらないレプリカらしい。
この法要に合わせて鑑真和上は出立したが、遭難し、1年遅れでたどり着いた、ということも伺った。
一番小さな国宝·「漢委奴国王の印」も、本物とまったく同じ金印(約2.3センチ四方、108g)を2つ復刻し、1つは福岡博物館?に収められ、残る1つを持参だった。つまみ(鈕)」の意匠はヘビ。後漢の光武帝が建武中元二(57)年に委奴国王に与えた印だと言われている。
写真家の喜多章さんは、『村野藤吾 仕事の痕跡』と題する映像作品を、コメントを加えながら披露して下さった。ご自身が撮られた写真を活かし、「近づいて観たい」、あるいは「横から見た姿は?」などと気になる鑑賞者の衝動を、見ごとに満たしてくださる編集だった。動画とは異なる説得力(新ジャンル)に魅了された。
邸内にあった『松伯美術館』も見学した。上村松園1875~1949(1948)を主に、息子・上村松篁と、孫の上村淳之(現在、同館館長)の作品がおさめられている。
松園は女性初の文化勲章受章者だが、子と孫も同賞を受賞しており、日本画とその世界の何たるかに想いを馳せる良き機会になった。
松園が、幸野楳嶺の門下生であったことは知っていた。だが、この時はまだ、楳嶺の曾孫と再会することなど夢にも思ってはいなかった。
この日、吉田龍彦さんは『季刊·商業建築設計資料12「喫茶·クラブ·バー」』をご持参だった。曰く、「過日お訪ねした後」、アイトワを取材で「訪れていた」ことを思い出し、「書架で確かめ」持参した、と。サインをいただいた。
帰途の近鉄電車で岡田さんは、「なぜ企業は(お金を)儲けるのか」と、知範さんにご質問。披露された答は「未来を創るため」。心に残った。私は恥じた。
その昔、拙著『「想い」を売る会社を』が出たころのこと。講演先などで、多くの経営者が「儲けることが企業の目的」と信じてやまなかった。その都度、私は学生時代の落書きを引用し、反対意見を述べたものだ。
ヒトは「食べるために生きるのか、生きるために食べるのか」それが問題だ、と。そのココロは、「未来を創るため」と言いたかったわけだ。
c.府立農芸高校訪問
19日の朝。JRの馬堀駅で伴さんに(夫妻と藍花さんが乗り合わせた)車で迎えてもらった。清太君は今頃(先に出て、いつものようにJRで最寄駅まで行って)自転車で(10何kmかの道のりを)登校中、と聞いた。
「今日は、先輩やご近所から3000人ほど」集うらしい。コロナ騒ぎで2年間、収穫祭が飛んだせいもありそうだ。
府立農芸高校は藍花さん作の標語を掲げていた。広いパーキングは、3000人ぐらいはゆうに迎えられそうだ。生徒は、10数名のクラス割りで、全校で150人ほど。
「まだこの時間ですよ」と伴さん。販売コーナでは長蛇の列ができていた。
2学科8コースの学校だ。清太君が選んだ園芸技術科は、草花コース、野菜コース、生物工学(生物資源の活用や品種改良など)コース、造園コース、そして農業土木(測量や設計施工など)コースからなる。藍花さんが選んだ農業生産科は、作物コース、動物資源コース、そして畜産流通コースがある。
この日、藍花さんは開会式の司会を(1年生なのに)引き受け(させられ)ていた。
黄身が白い卵を初めて知った。その理屈は、小学生時代の6年間と大学生時代の3年ほどの家庭養鶏体験を通して、「なるほど」だった。ケーキなど、用途によって引く手あまたとか。買いそびれた。
清太君はメロンの販売に。葉子さんは何日も前からレトルトカレー作りに。当日はその販売に。明さんはその宣伝に、とそれぞれ持ち場を得ていた。
清太君に農芸高校を勧めてヨカッタ。藍花さんは自分で選んだが、賢明だった。伴夫妻は亀岡に、一家をあげて移住した。これもヨカッタ。これもコロナ騒動のオカゲかもしれない。ヒョットすれば、アイトワ塾での語らいが、少しは関わっていたのかもしれない。これは、伴さんに送ってもらった帰途の車中での想い。
この家族にも、自然の摂理にシッカリと触れて欲しい。その根本は、自然は2つと同じもの創らない、だ。今や私は、水の1つ1つの分子まで含めて、自然は2つと同じものは創らない、と信じている。
それが「存在」の根本だ。その覚醒が安寧の源泉ではないか。その未達が、不安やストレス(差別と区別のはき違えなど)の原因ではないか。
d.十輪寺「塩竃清め祭」法要に参加
2年来の約束を果たせた。2020年の暮れのこと。泉浩洋法主、花衣天女さん、そしてもうお1人の女性の3方が、アイトワを訪ねて下さった。桜の頃にお訊ねする約束をした。その後、コロナ騒動が生じた。
十輪寺·別名業平寺。泉法主は声明の博識者で名手。業平は歌舞の神でもある。法主は長年声明舞を研究してこられた。その顕在化に後藤有美さんが組みし、既に芸名をいただかれている。
この23日は、(『伊勢物語』で知られる)在原業平縁(ゆかり)の「塩竃清め祭」法要の日だった。お声をかけていただき、アリコさんも誘い、4人で(この一帯に詳しい久保田さん。知範さんは得度者でもあるも誘い)西京区まで出かけた。
チョット早く着きすぎたので、最寄りの大原野神社の境内で一休み。
十輪寺がなぜ小塩町にあるのかがわかった。その山号がなぜ小塩山(おしおざん)なのかも「やっとわかった」と久保田さんと語らった。だがその後、この一帯に長岡京があったわけだから、順番はまず十輪寺からだろう、と想うに至った。
この寺に業平は晩年に隠棲し、塩焼きの風情を楽しんだ。だからこの寺を小塩山と号するようになり、一帯を小塩町と呼ぶに至ったのだろう。当時は、塩は薬でもあったに違いない。
六歌仙の1人である業平は、清楚な墓に眠っていた。急な斜面の小径を経て、塩竃も見た。アリコさんはこの出会いを、旋律に置き換えていらっしゃるに違いない。
帰途、「変わった屋根ですよ」と久保田さんにうながされ、「なるほど」と感謝した。その瞬間だった、足元が狂った。アブナカッタ。
鳳輦(ほうれん)型と知った。鳳輦(ほうれん)は「屋根に鳳凰の飾りのある天子の車」を指し、天皇の正式な乗り物を意味してきた。
本堂で、泉法主の声明。あし笛の音が物陰から流れてくる。花衣天女さんが現れて、声明舞。
あし笛を特別に演奏していただけた。業平扮する男性や、当時をしのぶ一場面にも触れた。
わかれ際に、法主はじめ2年来の3方との挨拶も出来た。
e.焼き栗の会
20日。市内北白川のロンドクレアントで開催された。ここは、京都学派の巨星が集った梅棹忠夫の旧邸だが、カフェ·ギャラリーとなって残っている。
梅棹忠夫は京都大学の教授だが、登山家や探検家でもあり、大阪·千里に国立民族学博物館創設に尽力し、1974年に初代館長に。その時空を垣間見たいし、焼き栗も堪能したかった。
焼き栗器を見た。カフェ·ギャラリーを経営するご子息の挨拶もあった。
久保田さんと今村さんを誘った。アリコさんと出会えた。
ボージョレ―ヌーボーを堪能した。焼き機で17分、5種、つくば、銀寄せ、ポロタン、ミクリ、そしてヤマグリが見事に焼き上がった。焼き栗でボージョレ―ヌーボーをたしなむ。初めてローマを訪れた若き日の夕刻が再現した。
スぺイン広場(『ローマの休日』を観て、夢だった)で焼き栗を買った。残った幾つかをポケットにしまった。やすむ前に、残った焼き栗(パリッと皮がむける)で赤ワインをたしなんだ。格別の思い出になった。その醍醐味がよみがえった。
小林さんによると、イタリヤでは「栗祭り」があるようで、これが好ましきボージョレ―ヌーボーのたしなみ方らしい。
美味しい栗の見分け方も学んだ。重さ、匂い、色あい(濃い)で見分け、握っているとベタベタしてくると旨い証拠、とか。
「日グリ、雨ガキ」との言い伝えも学んだ。今年はカキの豊作年であったようだ。焼き栗とジビエ料理でワインを皆さんが堪能したころに、久保田さんの演奏。よきBGM。
f.プロジェクトXXVの最終zoom-MTG
25日、1年がかりの(SDGs問題がかかわる叢書づくりのための)Zoom-MTGは、この8回目をもって最終回を迎えた。これまで同様に白砂先生のお宅を訪れ、いつものように参加した。
白砂夫妻とはわずか8年余の付き合いにすぎない(2014年暮れの橋本宙八さんご一行との餅つきがキッカケ)が、その後夫婦で行き来する間柄。このプロジェクトに参加を推薦してくださった。
このプロジェクトでの私の担当(自覚)は、まるで実験であったかのごとき私生活を、つぶさに紹介すること。この、20年ほど以前まではあらかたの人が「時代に逆行」と笑った。私は「時代に先行」と信じて続けた。その総括かのごとき一文だ。装飾はすべて避けたい。
さもなければ、ライフワークにした意味が、と同時に、その折々に現実を文字に書き残してきた意味が、雲散霧消する。
その意味で、1957年(19歳の時)に感受性が促した選択(農的自活生活)と、1973年に思い詰めた上で覚悟した選択(1つのモデル創りを決意)が、甲乙つけがたいほど大事な(人生上の2つの)根本であった、とこのプロジェクトが(参加したおかげで)気づかされた。
問題は、後者の選択と決意にはまだ白黒が着いていない。白、と出るに違いないと信じたいが、それは「妻」や(チョと大げさだが)「地球」が決めること。
なぜなら、拙著第2作は『人と地球に優しい企業 Gentle Mind』だった。妻はその「人」の代表だし、妻と私は「地球」の審判を受ける立場ではないか。
そのように考えた時に、このたびのTV番組で、くそ真面目な妻が訴えたクレーム(正当な主張)は誠に順当で、ありがたった。一抹の疑問や不安をかき消してくれたように思う。
白砂先生の奥さまは庭づくりがお得意で、ハーブティーをご馳走になり、庭のバラを「奥様にどうぞ」と言ってお土産にくださった。後は、プロジェクトメンバーの懇親会と、15頁分ほどの執筆を残すのみ。
以上6度の外出の他に、10日の心臓の定期検診と、28日の歯の治療での外出があった。
4 TV放映
12日の18時からBS朝日の「バトンタッチ(2つのテーマを取り上げる1時間番組)」の、前半で放映された。
事前に、数人の方々にご案内した。プロジェクトXXVのメンバーには白砂先生から全員に。元アイトワ塾生には後藤さんから。同様に、仲間内に他にもご案内いただけた方もあった。70人ぐらいの方々が意識的に鑑賞してくださったようだ。
その求評はまだだが、私にとっては、学ぶことが多々あった。「さすがは」との想いが第一印象。そう感じた第一は、妻と2人揃ってインタヴューを受けた場面。妻のボヤキ(正当な主張・クレーム)であった。晴れた日をいいことに、庭でインタヴューを、となった。その時に、ひょいと飛び出した妻の一言だ。
この収録時は、ずいぶんディレクターにご迷惑をかけた。なぜなら、妻の口から出るに違いないと読んでおられた言葉が、私には想像できたのだから。
だが妻は、まったく逆のごとき言葉を吐き、それをディレクターは拾い、その一言を放映された。妻の積年の想いが詰まった一言であったに違いない。
翌朝、いつもより早く目覚めた私は、「1つの謎が解けた」とばかりにPCの前に陣取り、終日(他に約束事がなかったのをいいことに)ココロの整理に取り組んだ。
今、1ッ本の論文のような様式で、私にしか記せそうにない一文創りに取り組んでいるわけだ。その関係で、とても大事な一言になった。
ディレクターは「この一言こそがこの生き方の真価を物語る」根本と想われてか、それとも「一服の清涼剤」とおもわれてのことか、それは分からない。ともかく取り上げられた。そのいずれにせよ、私にとってはとてもありがたい一事になった。
TVとはすごいものだ。多々反応があった。実は、この番組の後半にまで言及する人が多かった。水着姿で泥田に飛び込み、はしゃぐのがSDGsですか。あれは大変な環境破壊ではありませんか。こうした意見が多数あった。
まったく異なる見方を私はした。20年以上も昔のことを振り返った。文部省と農林水産省がタイアップした教育プログラムに、チョット関わったことがある。幼児期の農業体験の大切さを訴えて、それが参考にしていただけたプログラムだった。だから、その成果を垣間見る図画·作文の審査に関わらせていただいた。
「案の定」との想いにされた体験だ。高学年になるほど、虫や田んぼを忌避する傾向が見られ、「田んぼに入れた」などと自慢気にかたる生徒が増えた。
だから、泥田に踏み込めるか否かは、環境問題と大いに関わり合いがある、と見てよいだろう。抗菌グッズの普及とアトピーの発生率に相関関係があることや、そうした生活嗜好が炭酸ガス排出量を増やしてきたことも、すでに分かっている。
そうとは理解できても、泥田を忌避し、抗菌グッズにたより続ける人が多数あって当然だろう。農薬や食品添加物などの使用を国が野放図に扱っている(と、国民が想っている)限りなくならない、とおもう。
だから、泥田に飛び込めた人や、土から引き抜いたままのニンジンなどにかじりつかんとした人は、好ましき陽性反応者と視てよいのではないか。
実は、農業体験学習プログラムが実施される前年に、義務教育に関わる大勢の人の前で、2度ほど講演で訴えたことがあった。それはある報告のような内容であった。約10年にわたり、数回見分し、子どもの変わりようだけでなく教員のよろしき陽性者になってゆく姿に大いに力づけられた事例紹介であった。
このたびのTV番組は、この年2度目の「カキの葉寿司」の機会を用意した。さまざまなことを振り返るキッカケにもなった。
5 ニホンミツバチが危ない
この2年ほど、わが家のハチはすこぶる元気だった。たくさん採蜜も出来た。だが今や、風前の灯かもしれない。
先のBS朝日のTV収録中から、オオスズメバチの襲来が始まり、当月下旬まで波状的に続き、退治した数が日に日に増えた。この間に、ニホンミツバチの不具合が分かった。
もちろんわが師匠は、常に吸引機(ハンディー掃除機を改良したような)を帯同し、ミツバチを採集しておられた。不具合(ダニの発生など)の発生をおそれ、検査のためだ。にもかかわらず、私は軽く考えていた。
目に見える敵·オオスズメバチからミツバチを守ることにひたすら専念していた。妻も私に見倣って挑み、一度に2匹退治したこともあった。だが、目には見えない害敵には2人ともに鈍感になっていた。
その過程で、奇妙なことに気づかされている。まず、襲撃したオオスズメバチを退治しても、ニホンミツバチがそれまでのように巣から姿を見せなくなったことだ。この現象も、次の襲撃を怖れてのこと、と勝手に思い込んでいた。
この間に『ダーウインが来た』(11/20NHK―BS「必殺技は熱殺蜂球」)が放映され、観た。わが師匠の下で収録された番組で、カマキリに襲われた仲間を小さなミツバチが寄ってたかって救い出す姿も映し出された。
師匠によれば、「クモの巣に引っかかった仲間を救う姿も」目撃したが、これも「収録できておれば」とおっしゃった。私は逆に、ミツバチを襲いに来た黄色スズメバチを、サット鎌で刈り取るように掴まえたカマキリを観たことがある。
このたび、ニホンミツバチがオオスズメバチを集団でやっつける場面も観た。だから、ハチやアリが有している真社会性を思い出した。余談だが、この真社会性を、ヒトも遺伝子に、いまも保ち続けているように私は想う。TVドラマ『おしん』、小説『野麦峠』、あるいは戦時中の「特攻隊」などに私はそれを見出した来た。
おかげでニホンミツハチの観察に最深の注意を払うようになった。重大事態が生じていそうだ、と見るようになった。
それまでは、次のようにみていた。ニホンミツバチの寿命はとても短い。だから、オオスズメバチに襲われて巣箱の中に閉じこもりがちになり、そこで死期を迎えたに違いない。だから、巣箱から(仲間に迷惑をかけないように)はい出しはしたが、遠方までは飛べず、近場の溝で力尽き、足掻いているのだろう、と。
だが、そうではなくて、「オオスズメバチに襲われて」ではなくて、最寄りの溝で死骸をさらけ出さざるを得なくなっているのではないか。ヒョットしたら、その死にかけのミツバチをオオスズメバチは察知して飛来し始めたのではないか。
師匠に判断を伺った。外来のアカリンダニ?の被害ではないか。近いうちに点検に伺う、と言ってくださった。
ならば、と27日(日)に、予定通りに決行したことがある。第2の巣箱(未だかって一度も、営巣したことがない巣箱。その位置や高さ、そして方角)の改修だった。
何か月か前に、2人の佛教大生に、その基礎工事(ブロックを用いて)に当たってもらった。その延長線上の作業だから、佛教大生の手も借りたくて、この日を選んでいた。だが、急遽佛教大生が行けない、と知らせて来た。とはいえ、是非とも師匠にはこの改修の出来栄えを点検していただきたい。
この工事は、土台を高くする作業だ。基礎に選んでいたブロックを(師匠がお使いの廃水桝を見つけたので、買い求めた)廃水桝に取り替える作業であった。だから20cmほど穴を深くしたかった。それが 予想外の大仕事になった。大きな平たい石が出てきたせいだ。
佛教大生と一緒に完成させたかった。志賀生美師匠のお越しが待ちどおしい。
6 その他
霜におそわれずに済んだ霜月だったが、トピックスは他にもたくさんあった。まず、チャーチストリートバンド。予定通りに望さんたち4人のバンド「チャーチストリートバンド」が10月2日に続き、2度目の演奏で、お越しねがえた。27日(日)のこと。
この日の喫茶店は、開店来の仲間(ロートル)3人で迎えざるを得なかった。だから、そうと分かった時に、混みあった時は、「お飲み物しかご用意できませんが」と断ったうえで入店願おう、と話し合ってあった。にもかかわらず、予想を超える来店客で、厨房は混乱し、あわてて門扉を閉めてしまった。そうと私が知ったのは演奏が始まる時刻の直前だった。
予定通りに今村さんと庭仕事を終え、演奏を楽しもうと喫茶店に駆けつけた時だった。今村さんはとっさの判断で、提案してくださった。門扉を開け、「喫茶のサービスはできませんが」とお断りしたうえで入っていただこう、と。
これがヨカッタ。先に入っておられたお客さんの中に、演奏を待たずに帰ってしまう人があった。だが、厨房の3人は(食器洗いなどに追われており)気が付かず、門扉を開けに行こうとはしなかったからだ。
おかげで、来店客にも、バンドの皆さんにも、好天の下で心地よい午後の一時を過ごしていただけた。演奏の修了時刻前に厨房も落ち着き、お茶のサービスも出来た。アンコールの声も掛かり、好ましきフィナーレになった。
中村敦夫さんと電話で歓談。「30年ぶりの復刻」とうかがった本が届いた。当時、ニュースキャスターとしてまず取り上げ、次いで参議院議員として国会で問題提起した事件だったが、共に歯牙にもかけられなかった、と聴いていた。
書籍でも訴えておられたわけだ。「ペンは強し」を2重の意味で実感した。日本ペンクラブは今年、「ペンは強し」のテーマのもとに会員の声を募っていた。
この30年の間に、どれほど多くの問題を生じさせていたことか。この一書が、こういうことが生じないように活かされるように、と願い、お礼の受話機をとった。
三崎美夫さんはお元気だった。TV放映のおかげもあって、三崎さんから久しぶりの元気の知らせ(写真)が届いた。
新しい看板を造った。梶山さんから頂いた(来店者への親切になりそうとの)助言に沿って、造って、立てた。
初見の虫も。初見のカメムシに出くわした。この庭ではあまり見かけなかったカメムシにもよく出くわした。だが、「これがカメムシだ」と思ってきた個体には、まだこの冬は出くわしていない。茶色いバッタも見た。とても大きなカのような虫に驚かされた。夜の居間に飛び込んでも来た。
やはりヤマカガシだった。「大きなヘビが風呂桶水槽(廃物の浴槽を水溜に活かした)で!」との妻の通報で、急ぎ駆け付けた。カエルかキンギョを狙ったのだろう。アオダイショウとは明らかにウロコが異なる。赤い斑点もある。その斑点をカメラに収めたつもりだが、出ていなかった。
水槽から助け上げた。その写真にはうっすらとオレンジ色の斑点の列が映っていた。この一連の写真を久保田さんに見てもらうと、「ヤマカガシのウロコですね」と返って来た。ヘビは好きではないけれど、「まだ棲んでいたのか」となぜか嬉しかった。この庭でヤマカガシの確認は久方ぶり。
何年か前から、ヘビのサンクチュアリを幾カ所か造ったが、これが功を奏したのかもしれない。ヤマカガシは外来かもしれない。マムシより毒は数倍キツイと聞くが、攻撃性がなく、咬まれた例を聞いたことがない。
今年はヘビをよく観た。アオダイショウは畑にも出没するようになった。これで1m超のヘビが2匹は棲んでいることがわかった。
結婚当初はヘビの映像を見ても卒倒しかけていた妻だが、今では見つめて、個体識別まで可能になった。
畑はスッカリ冬姿に。スナップエンドウを、少し(10本足らず)ずつだが第4次分まで用意した。第1次分に支柱を立てた。24日に白い花を咲かせた。
義妹がミブナを1株くれた。この冬は、わが家ではミズナしか育てておらず、ありがたかった。早速ハリハリ鍋の夕餉に活かした。辛子が効いた「合え物」にも活かしてほしい。わが畑の随所で、アイトワ菜が芽を吹いている。
分かってみれば。台所の生ごみを、堆肥の山に積み込む作業は私の担当。今頃になってやっと解けた謎がある。それは毎年トウガンが畑の随所で芽生えるワケ。
かくして霜月は霜を観ずに過ぎ去った。11月30日(望さん撮影)の庭。