目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 冬本番
2 『東京物語』を鑑賞
3 記念の書物
4 小林家古民家見学とジビエ料理
5 真砂秀朗夫妻
6 その他
四方よしと思い出のトリガー
1年の締めくくり、師走は初霜で明け、庭仕事は冬パターンに切り替えました。5時に起床。日の出を待ちながらPC作業。朝食。そして陽光が少し外気を暖めるのを待ちます。この間の妻は、ハッピーと散歩、朝食を用意。ハッピーは、散歩の後でジャンプ。
洗いものを済ませると妻は、4月の展示会に備えた追い込み中の工房へ。私は庭に出て除草。ニホンスイセンが咲き、畑ではキノコの小さな林立を見かけました。かくして、妻の車でなるべく送り迎えなどしてもらわずに済ます日々が始まったわけです。
2日、山内栄一さんを久しぶりに迎え、教え子の消息も知る。メキシコから2年ぶりにピラー&エマヌエル夫妻が来訪。私はケイタイを除草中に失う大失態も。3日、今村さんと土橋健一さんを迎え、裏庭の手入れ。池田望さんにも立ち寄ってもらえ、4人は好天の庭で昼食。しばし歓談。夜、干し柿に細工。伴さん父子を迎えた4日は、サツマイモの葉柄2度目の収穫、キンピラに。翌5日は、伊藤忠から第1号ムック本が届く。こうした日々が続き、10日には20余年ぶりの、もう1人の教え子を迎え、再会を喜んでいます。
他のトピックスは、知範さんと月記原稿の引き継ぎ。裕一郎さんを2泊3日で久しぶりに迎え、ミタクナスでミニ事件を。オリズルランの冬越し移動。ヤーコンは大不作。奥田工務店の社長から個展の案内。年賀状の手配。いよいよミツバチが心配に。そして、清太君にもらった5つのサツマイモは4人で、8つの卵は5人で分けた、など。
中旬は“冬の朝焼け”で明け、日替わりメニューのごとき日々を過ごし、朝の室内温度が6℃だった19日から翌20日にかけて、忘れ難き4つの思い出を岡田さんと一緒につくっています。4つとは、立花之則さんと30年ぶりの再会。感動塾の重藤さんの車で南丹市美山に出かけて小林家古民家見学、次いで地元のジビエ料理賞味。そして翌日は初めて薪ストーブを焚いて、真砂秀朗夫妻と後藤明美さんを迎え、庭巡りや歓談、でした。
他のトピックスは、まず11日、2人の佛教大生と今村さんを迎え、鉢植え植物の冬越し作業と久しぶりの焼き芋。12日、映画会で『東京物語』を鑑賞。13日、長津親方のお宅でチェコの人形作家夫妻と歓談。14日、志賀師匠を迎え、ミツバチの全滅を確認。庭で初氷を認めた15日は、第1次スナップエンドウの霜よけ作業や残りのジャガイモの掘り出しなど。16日、乙佳さん手作りの芳香蜂蜜などや瞳さんのジャンボシイタケに恵まれ、望さんと最後のツルクビカボチャを収穫。17日、午前は次年度“「匠」の祭典”開催を決定したMTG。午後は“緑の天蓋”の剪定に着手。18日、土橋一家3人と庭仕事(子どもの未来を睨んだ3つをテーマに)。午後今村さんに来てもらって、緑の天蓋の危険部位の手入れと賀状刷り。この10日間は次第に冷え込み、ついに室内温度が6℃になった感じで、「スッカリ冬だ」を実感させられています。
下旬は、今村さんと庭仕事に取り組む24日と、30日の2つの歳時記(しめ縄づくりと餅づくり)の他は予定なし、で明けました。なのに、22日は久しぶりに“終日の雨”と分かり、望さんに苔庭の撮影を依頼。これがトリガー(引き金)になったかのごとくに、その後幾度も賑わうことが生じました。薄い初雪で明けた23日、ヒョッコリ中村均司さんが来訪、記念誌を届けてくださった。27日、 光本大助さんに手作り瓦の何たるかを学び、午後は乙佳さんと末富さんが立ち寄って、ある緊急作業に当たってくださった。29日、元アイトワ塾生を代表して柴山さんと後藤さんを、夕刻には大井雅之夫妻を、それぞれ年末の挨拶で迎え、しばし歓談など。
その間に、柑橘類に寒冷紗被せなど妻と終日庭仕事に3日を。屠蘇、クワイ、祝い昆布、あるいはハマグリなどを求めてうろついた買い物に半日、などがありました。
~経過詳細~
1 冬本番
師走は初霜で明けた。初氷が張った15日、「あんなところにお月様が」と妻に指摘され、見上げた。シンボルのモミジが葉をスッカリ落していた。「2つも今年は、小鳥が巣を作っていたのね」と妻。
パーキング場のモミジの絨毯はこのころの日の出時が一番見事だった。
妻たちがその絨毯をスッカリ剥ぎ取ったのが20日。その姿を望さんに写真に収めてもらえたのは22日。この2日の間に、日陰のモミジが残っていた葉を落していた。
翌日、初雪が薄く積もった。新春を迎えるパーキングの掃除は29日になったが、スッカリ冬景色になった。
この間のこと。師走は初霜で明けたわけだが、サツマイモやジャガイモの葉が萎れ始め、クチナシ、センリョウ、あるいはマンリョウなどの実が一段と色づいた。ヒイラギナンテンは盛り過ぎ、ニホンスイセンが咲き始めた。
畑では、野菜の葉に隠れるようにして、小さなキノコが、まるでかわいい林のごとし。
3日、9:30に今村さんが、10:00に土橋健一さんが来訪、裏庭でコゴミ畑の掃除、ワラビ畑の草刈り、そしてキハダの選定など。ミツバチの気配が感じられず、とても心配。
11:00に望さんが紅葉の撮影でお越しに。4に人でムベを採り、4人で昼食。素敵な歓談だった。その後、中庭で第1次の落ち葉をかきとり腐葉土小屋に積んだ、
4日、寒風の下でサツマイモを掘り出し、最後の葉柄を収穫。葉柄が目的とはいえ、イモはあまりにも不作。
午後、伴さんが清太君同伴で来。府立農芸高校の記念誌『時の記憶』持参、40周年だった。立派なトマト、“黄身が白い卵”を8ツ、三笠、そして見かけの悪いサツマイモをもらった。
その日の夕刻、「清ちゃんがくれたのだから」と、そのサツマイモを焼いた。クリのように美味しい。そこで思い出したことがある。小林正秀さんが「魚屋へ行って、誰が『サカナください』と言いますか」との疑問の声。
急ぎ、手持ちのサツマイモの顔見世。右から、伴さんが前回来訪時にもらった“紅はるか”、この度のクリのようなイモ、名前を知りたい。今年わが家で育てたイモ。そして四国の友人に送ってもらった“鳴門きんとき”。ちなみに、このたびの清ちゃんのイモは、3人に一ずつお裾分けした。
最後のサツマイモの葉柄は5日に、キンピラに。望さんは、わが家と違い、摺りゴマをふりかけられた。これは、来年わが家でも試みる予定。
7日、裕一郎さんとニンジンボク、若い方のスモモ、そしてナツメの剪定。冬らしい中庭に近づいた。
9日、久しぶりの快晴。ニラ(とカボチャ用の)コーナーで、草ぼうぼうを見かね、除草に手を付けた。昼食を庭に運んできた妻がおっしゃること「私のテリトリーをあらさないでください」。このところ、ここの除草は妻が幾度か連続して担当していた。
この発言はどうやら「よろしくお願いします」だったようだ。この言葉を真に受けて、中断した。だが、妻は人形制作に没頭し、手を付けようとはしていない。だから私流除草法(根こそぎ退治する)で継続することにした。
10日土曜日、朝焼けは見事だった。
翌日曜日も、快晴の朝焼けになった。9:30に今村さんを、10時に佛教大女子学生2人を迎えた次第。
2人の佛教大生と今村さんは、ベンジャミンゴムなどを(鉢植え植物を温室や個離庵へ)冬越しさせる作業、4カ所のタマネギ畝の防寒(もみ殻敷き)作業、ウドの整理(長けて枯れたウドを取り除き、白いウドを採るモミガラ作業)、5株の地植えにしたレモングラスの越冬(鉢伏せ)作業、あるいは花を終えたフジバカマの刈り取りなどに当たってもらった。
締めは4人で久しぶりの焚火で、焼き芋。
女子学生を見送った後、男組2人は、クルミ、トチュウ、あるいはミニザクロの剪定。
12日、久しぶりに映画会を開くことになった。11時に岡田さんが来訪。まず仕舞いモミジや人形のショーウインドウをカメラに収めてくださった。
15日、いつものように5時に起床し、PCのある部屋に陣取った。ここは、四方がまるで風除室(南は玄関、西は居間、北は妻の化粧室、そして東は仏間などがある)に囲まれたかのごとき部屋だが、室内温度が7度に。庭に出てみると、玄関前の水鉢に初氷。畑に置き忘れた一輪車の氷はかなり厚い。
この日、葉がすっかり霜のやられた最後のジャガイモを掘り出し、畝に仕立て直す。第1次スナップエンドウは花盛りだが、霜にやられ始めており、急ぎ霜よけ作業。
夜、ジャガイモの収納を(妻が調理時に選びやすいように)工夫。翌朝、サラダで味比べ。
19日、PCのある部屋がついに6℃に。水鉢の氷は2cm。ダチュラがお化けのように。白いペチコートスイセンが咲き始めた。
曇天で明けた20日。妻に所望され、かつて金太が使っていたハウスの1つを取り出した。これまでのハッピーの木の小屋と据え替えるためだった。だが、即刻ハッピーはプラスチックのハウスを使い始めた。だから、これまでのハウス(ハッピーが穴だらけにした)を残し、夏のハウスとして活かすことにした。
この日、岡田さん、そして真砂夫妻と後藤明美さんを迎えたが、薪ストーブを初焚き。
22日の朝、予報では久しぶりに終日雨だったが、上っていたのを幸いに、苔庭の撮影を電話で望さんにお願いした。駆けつけていただいた直後からまた降りだしたが、なんとか雨に濡れた苔を、落ち葉掃除を終えた状態で、カメラに収めていただけた。
翌23日、曇天の冬の夜明けで、初雪が薄く積もっていた。
28日、朝食前のハッピーの散歩から帰った妻は、「明日から、この時間の散歩はやめます」「あまりにも冷たい」と氷のような手を私の首筋にあて、驚かせた。スッカリ真冬だ。景色は刻々と変わり、気付いたら生きものがスッカリ入れ替わった感じ。
2 『東京物語』を鑑賞
岡田さんのおかげで、高安先生、長津親方一行を交えて実施することができた。戦時下の日本を知る者にとっては、時代の節目を観る思いがした。
尾道に暮らす3男2女にめぐまれた老夫婦·周吉(笠智衆)と妻のとみ(東山千栄子)は、小学校教師をしている末っ子·次女の京子(香川京子)に留守を頼み、東京の(下町で小さな開業医院を開いている長男を訪ねる)旅に出掛ける。
そこで、子どもたちや旧友と織りなす人情物語で、公開は日本が独立をみとめられた翌年、1953年のことだった。
アメリカ軍(GHQ)の統治下にあった1950年に朝鮮戦争(~53)が勃発。その特需でわが国はにわかに経済的に潤った。同時に、今日のありようへと踏み出すことになった。その頃の社会のようす、国民のありようを垣間見る作品でもあった。
現憲法誕生時(敗戦2年後1947年5月3日)に、国民は憲法9条を(2度と軍隊を持たず、戦争をしないことを固く誓ったものと)知って驚喜した。
だが、朝鮮戦争が1950年6月25日に勃発し、突如国は(同年8月10日に)武装集団(出撃した米丙の留守家族を守る)警察予備隊を誕生させた。
これを機に、国はジワジワと切れ目なく武装化に励み、今や敵基地攻撃能力まで持とうと画策するまでに国民を誘っている。
この作品は、英国映画協会(British Film Institute)が10年に1度発表する「映画監督が選んだ史上最高の映画(The Directors’ Top 10 Greatest Films of All Time)」で1位に選ばれた。 出演:笠智衆、東山千栄子、香川京子の他に、長男役山村聡、下町で美容院を営む長女杉村春子、戦死した次男の妻紀子役の原節子、三男大坂志郎に加え、周吉の東京に住まう旧友東野英治郎や中村伸郎。
これを1位に選んだ358人の映画監督は次の9作品をベスト10に選んでいる。
2位 2001年宇宙の旅
2位 市民ケーン
4位 8 1/2
5位 タクシードライバー
6位 地獄の黙示録
7位 ゴッドファーザー
7位 めまい
9位 鏡
10位 自転車泥棒
『東京物語』は、小津安二郎独特の視線で、家族という共同体がバラバラになりかねなくなっていた現実を、落ち着いた雰囲気で早くも描きあげていたことになる。
長男(両親を東京見物に出掛けさせようとしたところで急患が入る)と、下町で美容院を営む長女とその夫も、共に忙しく面倒が見られない。両親は長男宅の二階で無為に過ごさざるをえなくなる。
やむなく長女は戦死した次男の妻紀子(原節子)に一日両親の面倒を見てくれるよう頼む。戦争未亡人の紀子は仕事を休み、2人を東京の観光名所に案内し、夜は彼女の小さなアパート(共同の流しやトイレの1室)で精一杯の(隣室の住人からお酒を借りるなどして)もてなする。映画はここから始まった。
その後、幸一と志げは金を出し合って両親を熱海に送り出した。その安宿では、夜遅くまで他の客が騒いでいるため二人は眠ることができない。翌日、二人は予定を切り上げ、尾道に帰ることにして、いったん志げの家に戻る。ところが迷惑そうな態度で迎えられ、とみは紀子の狭いアパートに行く。紀子は優しく迎え、布団を並べて寝る。
周吉は尾道での旧友を訪ねるが、泊めることはできず、連れ出してもう一人の尾道の友沼田を誘い、三人で酒を酌み交わす。結局周吉は酩酊し、深夜に沼田を連れて志げの家に帰り、2人は美容室の椅子で眠り込んでしまう。志げは父への文句をぶちまける。
翌日、なんとか老夫婦は、東京から元気に帰途に就くことになった。だが、車中でとみが体調を崩し、大阪で途中下車し、三男の家に泊めてもらう。
三男は母が回復したとみて、子供たちが優しくなかったことを嘆きながら送り出す。結局、尾道に帰ってまもなくとみは危篤に。
三人の子供たちと紀子は電報に驚き、尾道にかけつけるが、とみは意識を回復しないまま死んでしまう。
葬儀が終わった後、三人の実子は紀子を残して帰って行く。次女は憤慨する。紀子は若い次女を静かに諭す。
紀子が東京に帰る日、義父周吉は紀子に、早く再婚して幸せになってくれと伝え、妻の形見の時計を渡す。翌朝、がらんとした部屋で一人周吉は静かな尾道の海を眺める。
この映画の後で、岡田さんは“1人の職人を紹介する短編”をとり上げてくださった。優れた職人の心や技が消え去ったのも残念だが、残された資料、資材、あるいは道具が散逸し、顧みられなくなったようで、いかにも残念に思われた。
会の後、お茶の時間でのこと。高安先生がポロッと漏らされた感想や意見が、とても心に残った。『東京物語』が1位に選ばれた事情に想いを馳せながら、ジーッと観ておられたのだろう。同様に私も、どうしてこの映画が、と思案していた。
この映画を、被爆後8年しかたっていない時に日本は創ったわけだが、この映画を見て、「ビックリしたんと違いますか」と切り出された。
私が知るところでは、まだ日本は原爆を落とされても仕方がなかった国と見られていた。その国民が、あの原爆の下で、このような生活を営んでいた、ということを世界に知らしめた映画もあったわけだ。日本人観を大きく変えさせたのではないか、とのご指摘と感じた。
戦時中、日本兵が捕虜を死に至らせた率は高く、シベリヤに抑留された日本人捕虜の死亡率をはるかに上回っていた。ヨーロッパ戦線から太平洋戦域に身を転じ、取材に当たった高名な従軍記者は、「ドイツ兵も残虐だったが、まだ人間だった」との感想を記録に残している。
その印象を一転させる国民のなんとも優しい姿·生活共同体が紹介された。この国民を何がケモノのように戦わせたのか。にもかかわらず、その国民が早くも家族という共同体をバラバラにし始めている。
今や、国民はプライバシー法などをかざし、おのずとバラバラになっているではないか。他方国は。このバラバラになる国民を、命を人質に(健康保険証とひも付きに)してマイナンバーを行き渡らせ、1つにまとめ(烏合の従かのごとくにし)ようとしている。
紀子は、東京に帰る日に、周吉に早く再婚して幸せになってくれと促され、義母の形見の時計を授かる。紀子は声をあげて泣いた。その後の紀子が気になった。
3 記念の書物
2022年も、高安先生のマスク姿をついに見ずに師走を迎えた。しかも先生から『マスクを捨てよ、町へ出よう』という一書をいただいた。この一書を始め、多くの書物に恵まれた師走になった。
とりわけ次の4点が、ほどよい間隔で届けられ、強く心に残った。その最初は、伊藤忠から「ムック本第1号をお届けします」との案内と共に着いた『旅する星の商人』だった。ムック本とは? とおもいながらパラパラッと頁を繰った。
そこに、見覚えがある写真が載っており、察しがついた。同社の季刊誌·マガジンタイプの『星の商人』の特集の1つ、“駐在員の旅案内”を抜粋して1冊にしたに違いない。案の定、ムックとは、マガジンの「M」と、ブックの(OOK)を組み合わせた「MOOK」であった。おのずと私は在籍していた頃を振り返ることになった。
当時は薄っぺらい月刊(の機関)誌『CIマンスリー』だった。その頃の私は無類の悪筆で、上司にさんざん絞られていた。また当時は(少なくとも、退社するまでの16年と8カ月間は)、伊藤忠は社を挙げて社内文章をカタカナ(まずは漢字混じりカタカナ文)で統一しようと努めていた。それには確かな理由(希望)があった。
未来の電子機器化を鑑み、英語の“30に満たない文字文化”に勝るとも劣らない新しい文化の創出が夢であったに違いない。
社員の中には、その完成形(全〝カタカナ文字化“)に挑む人もいた。もちろん、「そうは問屋は卸すまい」とばかりの主張を、決して排斥していたわけではない。
そこで私は、2つの願いを込めて『CIマンスリー』への投稿を試みている。まず、カタカナ文に早く慣れたい。それ以上に、後で読み直しても、その時の自分の想いをありありと振り返ることができるぐらいの文章力を身につけたい、との願いだった。要は自分にプレッシャーをかけたわけだし、“立っているものは親でも使え”精神(この私にも活かすことができる最も身近な媒体を活かさぬ手はない)だった。それがヨカッタ。
これが、生涯で初めて不特定多数の人を対象とした作文になった。だから今も、1つの書架(自分が綴った第三者対象の文章が載った雑誌や書籍を、時系列に並べてある)の最初を占めている。
次いで、清太君を伴った伴さんを迎えた日のことだった。『時の記憶~たゆまぬ前進のために~』を届けてもらった。京都府立農芸高校は40周年記念の年だった。清太と藍花兄妹がそこに、チョコッとはいえ、共に位置を占めていた。
学校の全景も写真で示されており、2度訪れて、歩んだところをおのずと振り返り、実感を新たにした。
3番目は、これも伊藤忠から届いた一書だった。今度は単行本で、『伊藤忠 財閥系を越えた最強商人』だった。もちろん嬉しかった。だが、これも在籍当時を振り返らせた。当時の社長·越後正一の口癖は「勝って兜の緒を締めよ」であったからだ。
幸運にも私は入社数年目にして、社長と対で1時間も2時間も話す機会を得るようになっている。会社が舵を大きく切り直する案件(繊維部門の大改革)に関わってしまった関係で、その案件で社長が講演を依頼されると出番が来た。
ときにはまるまる講演原稿を書いた。悪筆が、この時は幸いし、「これ! どういうこっちゃ」と、意見まで求めてもらえ、その説明にいつも社長は身を乗り出された。
この著者は、「売れる本」になる、と見られたのだろうが、私には有難迷惑に思われぬでもなかった。なぜなら当時、越後社長は、次のように記された短冊状の印刷物を、会社のあらゆるところに張り出させた。
「成名毎在窮苦日 敗事多因得意時」
1年最後の旬になった。外出や来客の予定は、24日(今村さんを庭仕事で迎える)と、30日(好例の、安倍川餅が楽しみの縄づくりの日)の他は、なかった。
だが20日に、妻たちはパーキング場のモミジの絨毯を剥ぎ取っていた。そうと知った21日、翌日は久しぶりに雨の1日になることを知った。即座に、“ヒノキの苔庭”の落ち葉掃除にとりかかった。それは、常の姿に戻ったパーキング場だけでなく、望さんに雨上がりの苔庭の写真も一緒に収めてもらいたい、と願ったからだ。その後、これがキッカケになったかのごとくに、幾人もの顔なじみを迎えることになった。
しかも、初雪で明けた23日の午後に、まったく予期せぬことまで生じている。それは “都市農村交流ネットワーク協会”の創立15周年記念誌を携えた 中村均司さんの来訪だった。
かくして、4番目の記念誌に恵まれるところとなり、様々なことを1時間余にわたって語り合うことになった。だから、だろうか、中村さんを送り出したあとで、「あの時に」と、強烈に振り返ったことがあった。越後社長に、「遠慮なくしゃべって行け」と茶を勧められた日のことだ。
図に乗って私は「時代の転換」に備える必要性を訴えた。循環型社会への備えをとうとうと述べ、食いついてもらえた。だが、最後がマズかった。「なぜあの時に」と悔やまれたならないことが私にはあった。
「もうちょっと、具体的に」と促され、それを活かせなかった思い出だ。「たとえば、」と、屎尿も資源として還元する例を持ち出してしまった。当時、両親のトイレはポットン便所で、私が汲みだし、糖尿のケがある父の体調管理(尿の匂いでわかる)もしていた。
即座に、「それはアカン」と社長に切り返された。自分にも「体験がある」「臭いやろ」「親孝行は立派だが」と褒められた。だが、世の中には「それは勧められん」と真顔で諭された。結局「ありがとうございます」で終わった。だが、「あの時に」と悔やまれたならないことがあった。
それは、社長、「これからは“四方よし”の時代です」となぜ切り出せなかったのか、ということだ。ならば私の人生も変わっていたかも知れない。
越後社長は“相場の神様”と呼ばれ、月に1度の幹部会報告(課長以上が出席し、課長が会の後、部下に報告した)では、まず綿花などの相場状況から始まっていた。もうその時代ではない、との若造の意見に聞く耳を持っていた人だった。
伊藤忠は、近江商人が発祥だ。近江商人と言えば“三方よし”で知られていた。「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」であれ、である。
「四方とは、何のこっちゃ」と切り返してもらい、「それは“地球にもよし”です」と返しておればどうなっていたか。
この度、“三方よし”は、創業者·伊藤忠兵衛の言葉から生まれた格言であったことを、近年知った。「“四方よし”の時代です」と言っていたらどうなっていたか。
4 小林家古民家見学とジビエ料理
いろいろなことがあって、ついに美山にある小林家古民家の見学がかなう段取りが着いた。それが、岡田さんのはからいで、立花之則さんとの30年ぶりの再会と、感動塾を主宰する重藤さんと出会う機会にも結び付けた。
立花さんはバブルの初期に、まほろばの国、光り輝く美しい国を標榜し、“縄文カフェ·まだま村”と名乗る100数十人を収容できる交流の場を作られた。その頃に私は処女作(縄文文化も尊んでいる)を誕生させている。その想いは似ている、とみて2度ばかりお訪ねした。
その後、半身不随になられたが、何とか移動がかなうまでに快復。「ならば、私も美山に」と岡田さんに希望され、アイトワで4人が合流することになった。
初対面の重藤さんは、車で遠出をしたことがないとおっしゃったが、その軽4輪で、雪が心配された美山まで出掛けることになった。
やっと「ここでしょう」というところにたどり着き、車のタイヤを交換中の年配者に尋ねたが、そこが小林さんのお宅だった。
この日、初めて茅葺の屋根が三重構造であったことを知った。最下層は麻、と聞いたように記憶する。ついで稲わら。その上に分厚いカヤ(ススキ)を葺いてあった。
屋内も案内していただけた。樹齢数百年で枯れたとの庭木·モミジの幹。有名な浮世絵。若かりし頃の鉄斎の書など、が目に飛び込んできた。どのような人を、あるいは何を大事にする家系であったのかを垣間見た。
村人のウタを張った、と伺った襖があった。その昔々の百人一首もこのような趣であったに違いない、との想いがこみ上げた。確か、100枚の短冊で襖を飾ったように聞いたことがある。
なぜここに! との証文(?)もあった。匿(かくま)ったのか? この天然石はどうして手水鉢のごとくになったのか。あるいは、今もその血を引いたのか、近代機器の見ごとな転用など、多々不思議もあり、名残はつきなかった。
100mほど離れた向かいの家は、日本で最も歴史を重ねた古民家とか。今や無人で、平成28年以降(?)は小林さんが時々目を光らせていらっしゃる? 槍ガンナで削った柱は、部位によって粗削りになっていた。
なぜこのような歴史的建造物が、と思わぬでもなかったが、もっと疑問に苛まれることがあった。夕闇にハウス栽培ではないか、と見た施設はメガソーラーだった。
夕食はジビエ料理。地元の“ゆるり”でジビエを、となった。立派な古民家だった。この手の汁椀は初めて見た。ここが国立民族博物館初代館長·梅棹忠夫の生家だった。
別棟でシカの解体が始まった。血をキチンと抜いたシカと見た。命を「いただきます」との心境を新たにした。この想いは、小学4年の時に、ヒヨコから育てたニワトリの締め役を母から仰せつかり、悪戦死闘した体験の名残だ。
その時から、好みの部位だけを指定し、舌鼓を打つ人が、えてしてこうした場面を嫌い、連想さえしたがらないことが気になり始めている。可哀そうに観えるようになった。いわんや、それを食べ残す人が、残忍にさえ見えかねない時さえある。
挨拶は、梅棹忠夫の孫だった。美味しい調理だった。小林さんの計らいに感謝し、さまざまなワインで堪能した。締め(デザートの1と見た)は焼き栗だった。今年は、真のクリの味わいと、“赤ワインとクリの取り合わせ”を知ったことになる。
窓越しに庭を見ると、凍り付き、ツララが下がっていた。
5 真砂秀朗夫妻
岡田さんや後藤明美さんのおかげで、やっとご夫妻を迎えことができた。庭巡りもした。アイトワのコンセプトや時空に触れていただいた。生ごみ処理施設。畑ではアイトワ菜の説明も。
小さな森の石階段では、老いた母のために施した工夫が、今や「私の(ために施してあったかのように)役に立っている」と加齢対策を説明する。その石を踏んで、真砂さんはその効能のほどをお確かめになった様子。時には若き芸術家に、人形展示ギャラリーやテラスを活かしてもらうことがあり、その作品が庭で恒久展示されることもある。堆肥の山で処理できない野草(種を結んだ、など)の処理する工夫。シイタケの圃場だけでなく、コゴミ、ワラビ、ミツバ、あるいはヨモギなどの収穫場もある、などと語った。
「方丈」も案内した。311震災(仮設住宅の無駄このうえない現実を知った)をキッカケに、これは大北乙佳さんと計らった(老齢夫婦や単身者の増化を見込んだ)ミニプロジェクト。建造物は住宅といえども、わが国も(潜在的廃棄物時代から脱し)恒久化を前提にすべき時だと思う。
実は、この度は幸運も重なった。折よく、夫人は京都で個展中、と前日に岡田さんから伺い、展示場を訪ねてあったことだ。そこで、瞬時にして、夫人にもアイトワの庭や生き方に共感していただけそうだ、と睨んでいた。
また、アメリカ先住民に対して私はただならぬ思い入れがある。だから真砂さんに学びたいことがたくさんある。北米大陸には数百もの多様な部族が暮していた。私が訪れたアメリカ西部にあった居留地は、おしなべて寂れており、すさんでいた。
書物では、侵略した人たちに今も敬意をはらわせている部族が、アメリカ東北部に住んでいる、と学んでいる。
このたび真砂さんから、アメリカ西部に暮らす部族で、豊かで誇り高い暮らしを保っている人たちがあり、そこで生活を共にされたことを伺った。詳しく知りたく思った。
「方丈」には、寝所や思索に活かす狭いロフトがある。5人はその狭いところに座り込み、随分の時間を割いた。ここは、単身者や老夫婦にピッタリの狭いが便利な空間以上のなにかがありそう、と感じていただけのかもしれない。
ここは、私にとっては間違いなく “思い出のトリガー(引き金)”である。いみじくも当月は、家族付きあいさせていただいている乙佳さんはじめ、瞳さんとさちよさんからの頂き物にも恵まれた。方丈は、さちよさん工作の絵画や瞳さん手編みの竹籠など、この3家族との思い出のトリガーで満ち溢れている。一歩踏み込めば、さまざまな“ありし一時”をよみがえらせる時空である。
6 その他
まず、干し柿に細工。今年は、望さんのおかげで、庭のシブガキをお鏡飾りに活かせることになった。とはいえ、干し上げる途中で一度、わが家の小ぶりの鏡餅に合わせて、串柿の幅を縮める細工を要した。
奥田社長の個展案内。「ついに」と、嬉しかった。1985年から手掛けた妻の“人形教室や併設喫茶室など”の建設から、その後10数年にわり3度の建設工事に関わってくださった工務店の社長からの案内状であった。この間にわが国ではバブル現象が生じており、7年ほどではじけている。
アイトワの3つの建設では、10回ほどに分割して代金を支払った。その都度、茶をすすり合いながら、中小ゼネコンの行く末など僭越な話題を開陳させていただいた。日一日と(バブルで)鼻息が荒くなる世の中にあって、ついには手じまいの頃だ、それが4方良しだ、とさしでがましくもあり、縁起でもない見通しまで語るようになった。
その後、ある時、阪急電車で呼び留める人があった。奥田社長だった。夫婦2人の会社にしたおかげで「海外旅行にも行けるように」になった、と夫婦でニコニコされていた。
裕一郎さん。2泊3日で久しぶりに迎えて、剪定作業やオリズルランの冬越し移動などを手伝ってもらったり、10日余も前の頂き物の立派なミタクナス(見たくない、の方言)でミニ事件を起こしたり、妻はチンゲンサイを初採り(12/6)して振る舞ったり、あるいは来合わせた望さんと紹介し合ったりして過ごした。
ラ·フランスに名前を代えると、急に売れ出した果物だ。充分熟れるのを待ってその美味を味わい始めた。ほぼ食べ終わった時に、祐一郎さんが訪ねてくれることになった。だから、残っていた1つを、「よいところ取りをして食べよう」と妻に提案した。だが、ついに振舞わなかった。
後で聞くと、何をどう聞いたのか「持って帰らせました」という。妻は「奥さんにいいところ取りをしてもらい」一緒に食べてもらえ、と私から聞いたつもりになっていた。
私はたった1つだし、熟れて傷んだところがありかねないから「奥さんに失礼」になりかねないから、いいところ取りをして3人で、とおもっていた。
チェコの人形作家。チェコの操つリ人形作家夫妻が、ノコギリを求めて長津親方のお宅を訪れ、まとめ買いを希望された。この作家·林由未さんは日本人だがチェコで結婚し、活動されている。本場チェコでも有名な作家だった。おかげで、教え子AGU·勝山あゆみさん(その独創的な作風が来日中のチェコの芸術家の目に留まり、留学の便宜を受けた)に電話をかける格好の機会になった。林由未さんはAGUをよく知っている、と語ったし、AGUは林由未さんを有名な方です、表した。
ミツバチは全滅。志賀師匠を迎え、全滅を確認した。かねてから赤ダニがわいていたが、それが直接の原因か否かは即断を許さないらしい。佛教大生と今村さんの力を借りて設置し直したもう1つの巣箱は、師匠のお眼鏡にかない、褒めていただけた。
コシアブラの種を頂いた。2度も苗木を頂いたことがあるが、枯らした。「今度こそは」と、感謝した。
『週末養蜂』『ネオニコ』報道特集を観た。欧州では、日本人学者の論文に刺激されて、「予防原則(疑わしきは人命を尊重)に基づいてネオニコチノイドの使用抑制や禁止にしている」ことを知った。この使用量と発達障害や自閉症児の出生率はパラレルの関係にある。今も韓国と日本がダントツの使用量、なども知った。
綾部のミツバチ激減は、どうやらネオニコ散布でトンボ激減し、トンボを餌にするツバメがミツバチを捕食したから、と視てよさそうだ。
宍道湖では1993年を境にワカサギ、ウナギ等が獲れなくなり、この漁獲量の激減時期とネオニコチノイド系農薬販売開始時期が一致していることから、当農薬の影響が疑われている
京野菜はこの農薬の大量使用で知られている。心配は尽きない。
ダイコンにまで霜よけ。スナップエンドウは第1次分に留まらず、2種の第2次分にも霜よけを要した。初体験。
この被害にとどまらず、大根までが霜焼けに。気温差が大きく急変したことが原因ではないか? 大根までトンネル栽培に切り替えた。
贈り物。師走は、内山栄一さんの来訪で始まったようなものだ。前泊された陶芸家のピーター·ハーモンさんから「面白いょ」とのメッセージ付きの書籍。加えて、短大時代の教え子の消息。その後電話で、彼女の声も聴けた。
次いで村上瞳さんからジャンボシイタケが届く。そして大北乙佳さんの来訪。手作りの芳香(キンモクセイ)蜂蜜などを持参願えた。
そこに来合わせた池田望さんも交えた楽しくて有意義なティータイムに。山菜の醍醐味が話題になった時のこと、乙佳さんが和食調理人の道を(いったん踏み込んでいながら)断念した訳を知った。とりわけ山菜にとっては肝心の要素を「アク」などと称して抜いてしまい、いわば抜け殻(薬効や風味などのいわば形骸)に新たな味などを付けるがごとき調理に疑問を抱いたようだ。それが「生涯を捧げる仕事には選べない」と感じさせたようだ。
その後、岡田さんは『次の生き方 Vol.2』でお世話になった平野さんが新たに手がけた書籍といって、一書を届けて下さった.
かくしてクリスマスの頃になり、鈴木さちよさん(瞳さん、乙佳さんにつぐ3人目の『次の生き方 Vol.2』の著作者)から化粧品などが。さらに、橋本宙八さん(『次の生き方 Vol.2』の著作者)の3女・朋果さん手作りのクリスマス シュトーレンが、と届いた。庭ではクリスマス ホーリーまでが喜んでいるかのように見えた。
この間に幾つものトピックス。まず1頭のチョウの飛来。近寄るとヒラリと身をかわす。後刻、調べたが、似て非なる蝶しか見つけられなかった。
3年ぶりにメキシコからPilar Huant & Emmanuel Rincon夫妻のご来店。前回お越しの折は藤の花が満開だった。その種を、依頼されたとおりに採ってお送りした。そのフジが、50㎝程にまで育っている、と知った。
来店客が全員外国から、という日が混じるようになった。
土橋一家3人を迎え庭仕事に取り組んだ半日があった。お子さんは、私が京都に疎開した時の年頃ゆえに、未来を睨んだ2つのテーマ(打ち込む喜びと達成感)を心積もりして迎えた。
幸運なことに初成りのミカンを結んだ樹(瞳さんのご主人·村上義信さんに苗木をもらった)があった。2つの実を1つずつ分けて3つ目のテーマ(収穫の喜び)にした。
お土産に、姿勢をよくする知恵と小道具と、奥さま手編みのウォーマーを頂いた。
瓦の講義。良きタイミングで光本大助さん(武庫川女子大学で非常勤講師をお勤め)を迎え、手作り瓦の工程を学んだ。当月は小林家古民家を訪ね、茅葺屋根と対比した。光本さん(同志社大学大学院での学び直し学生であった)の来訪のおかげで、1つの「概念」に「実感」という厚みや重みを与え得たように感じた。
その概念は、茅葺屋根は“かつては最も安くついた屋根”だったが、今や“最も高くつく屋根”という発想から掘り下げた認識だった。粘土採掘現場(ヒトが2人見える)の写真を見て、成形や焼き上げの工程にまで説明が及んだ時に、この発想自体に幅を与える必要性に気づかされている。
“個人の孤独化”と“資本主義の劣化”という面から、改めて発想しなおす必要もありそうだ、と気づかされ、チョット気が重くなった。
有難いことに、妻の姪が子ども連れで訪れて、七五三の晴れ姿を見せてくれた。お姉ちゃんも招きよせた。掌に伝わってくる温かみが心地よかった。
BS朝日の報道が縁で、訪ねて下さる女性が続いた。日時を決めて迎えた教え子と、良いタイミングでお迎えできたこのお二人とは、ゆっくりと語らうことができた。
ノコギリを極めたい。長津親方を3度も訪ねる師走になった。その2度では、所用を済ませた後で、ノコギリについて教えを授かることができた。おかげで、まずこの画期的な刃が、いかに画期的であるのか(その本質)がより鮮明になったように感じた。
2つ目は、その本質は未だ世の中では見抜かれていないようだが、そのわけが分かりかけたように感じたこと。問題は、誤解とその誤解を解く説明の難しさにありそうだ。
緑の天蓋。これが最後かもしれない、最後にすべきかもしれないと考えながら1本だけ残っているクヌギ(他はクルミやムクロジに替えた)の剪定に、12段三脚脚立で挑んだ。茶を運んだ妻に、叱られたが、自慢もした。
問題は、12段三脚脚立を(立木に立てかけずに)中空にたてて登り、力んだ時だった。バランスを崩し、ドキッとした。だから中断し、今村さんに来てもらえる日を待つことにした。私が登り、その脚立の裾を今村さんに抑えるもらうことにした。
当日、彼は「代わって登る」と言ってきかない。だから、登ってもらい、あらかたの枝を落してもらった。彼は無事に降りて来た。その間に一度、脚立の裾の押さえ方の問題で、ドキッとすることがあった。力だけでなくモ―メントアームよろしく全体重も活かさなければ、危なかった。このコツをまだ、彼には伝授していなかった。
今村さんは、そのガタッ! とした一瞬に気づいていたのだろう。下りて来てから「この仕事をするときは、必ずボクを呼んでください」と念を押した。この時に私は、その昔のミニ脚立事件を思い出した。私は母を叱り、脚立を取り上げた時のことを思い出した。
妻のチカラも借りて終日が、3度。旧玄関周り一帯(“離れ”の樋外しや2本の庭木の大胆な剪定など)に2人で取り組んだ1日。
中庭の掃除も2人で、1日をかけて。
今村さんの手も借りて3人で、が1日。モミジの落ち葉掃除や山をなした剪定クズの焼却だった。パーキングの“残り落ち葉(落葉期の後もしばらく木に残っていた)”は私が、今村さんはパーキング沿いの溝に溜まっていた落ち葉を、そして“ブランコ苔庭”の残り落ち葉は今村さんと(私がブロアーで道に吹き出し、今村さんがかき取るなど)2人で当たった。そして、その袋に詰めた落ち葉は、重いことを理由に今村さんが当たって下さった。
山をなした剪定クズは妻がすっかり焼却し、今村さんにブロアーで囲炉裏場の掃除を仕上げてもらい、「この達成感がいいでしょう」と、今村さんの同意を求めていた。
除草もなんとか。日に3時間ずつ割いて、ニラコーナーも、畑のあらかたの部分も、私が1人で片づけた。若い頃は苦手だった除草だが、今は格好のインターバルになっている。この時間は、メールでのリモートワークの文案骨子や、エッセイの構想を練る時間でもある。
アイトワ菜。降った霜や、霜柱が消えるのを待って、タマネギの畝に芽吹いたアイトワ菜を引き抜いた。ざる一杯になった。私は、スグキナのように根が太りそうなアイトワ菜が増えていることに気づいた。妻は4度の食事時に分けて調理に活かしたが、それぞれの味の濃さに感激した。
2つの歳時記。かくして2022年最後の2日を残すのみになった。30日は、私は半世紀にわたる恒例の“しめ縄づくり”に取り組む。妻はお節料理のかたわら、餅づくりに取り組む日であった。今年も厭離庵のご家族5人に合流していただけた。この年最後の庭の撮影に見えた望さんにはウクレレのBGMを添えていただけた。皆であべかわ餅も賞味。
大晦日は、墓掃除、お節料理の仕上げ、しめ縄飾りと鏡餅飾りを仕上げて飾り付けなどに加えて、思わぬ買い物(クワイ、飾り昆布、橘の実、そしてハマグリ)が残っており、4軒の店をわたり歩いた。
年末の墓掃除に初めて(朝一番に、だったが)参加して、これまで妻一人に押しつえてきたことを反省した。妻にとっては、私に対抗する上で、両親は最も身近な援軍であったようで、母好みの“買った花”と、父好みの庭の花のハーフ&ハーフを用意していた。
空気がぬるんだとみて、妻の手も借りて柑橘類最後の1本、ダイダイに寒冷紗を被せた。その折に、数本のはみ出た枝を切り取った。その1本は、テラスの生け花に、もう1本についた実は、御鏡餅飾りに活かした。
しめ縄と鏡餅飾りを仕上げ、飾り付けた。
今年も元気に過ごせたことを感謝した。“除夜の鐘”に聞き耳をたてながら明るい夜空をふと見上げた。真正面に「あれだナ 妻が話していた星は!」と、飛び切りの1等星を月の側に認めた。どなたかに「あれは宇宙ステーションだ」と教えてもらったらしい。
人工1等星をしばらく見つめていたが、妻との間で生じた10分間問題がふとよみがえった。つまらない言い争いをしたおもい出だ。
つまらない不注意がもとで、いつものごとく、妻が10分も10数分にもわたってあたふたしたことがあった。「またぞろ」とおもって、いつものごとく諌めた。同じようなことでいつものごとくに諌められた妻は悔しかったのだろう。言い訳をした。その言い訳で片づけようとする考え方を、今度は叱責した。
ついに、「どうして私に10分ぐらいくれる心のゆとりを持てないのですか」と、妻は切れた。
私は言い返した、「私たちは互いに、生涯をささげあうために結婚したのではないか」「大事な人生だ。10分ぐらいなどと言って無駄を重ねていいはずがない」と、私も切れた。
ここで止めておけばヨカッタ。だが、またもや私もいらぬ一言(「それが…」など)を足してしまい、反撃の余地(「その言い方が…」など)にさせてしまった。
これが、この1年最後の、2人にとってのガス抜きになったのであれば、いいのだが。