目次(クリックで各項目へジャンプします)
1 新年
2 シカの侵入
3 銀世界
4 奥田さんの個展
5 同好の士
6 その他
同好の士とPATIENCE
元旦は、チョット変則ながら、ことなく明けました。屠蘇酒を初めて私が用意しながら、味醂を加え忘れたり、妻はお節料理のお重を1段初めて割愛したりしたのです。
その後は、2日午後の来客まで、妻は人形工房に私はPCの前に陣取り、昼の安倍川餅でチョット会した他は没頭です。お互いに、「いくら時間があっても飽きないことがあってヨカッタね」と、今年最初の来客を交えた午後のお茶の時に、しみじみと語らいました。
元妻の生徒さんが2泊3日でみえたのです。3日は知範さんと“月記”先月分の原稿引き継ぎと3人の来客。4日は今村さん父子を迎え、小雨を突いて本格的な庭仕事。5日は思わぬ贈りものに恵まれ、「今日は何の日ですか」と妻にただされる前に「半世紀のお付き合い」を感謝し、事なきを得たのです。残っていた屠蘇酒で金婚式を祝った次第。
好天の6日は庭仕事に終日を当てた今年初。7日は岡田さんを迎え、8日は岡田さんが関わられた催しに(今村さんと西本願寺で落ち合って)参加、初の外出。9日は、造園師の佐藤さんに薪を頂き、祐斎さんを迎え、午後は長津親方を訪ね(佐野校長を交え)今年初のMTG。そして10日は、モミジのマルチング作業を写真に収めるための下ごしらえ。
かくのごとく、最初の旬は(他のことはすべて例年通りで)ことなく過ごせたのです。
中旬は、池田望さんにマルチング作業の撮影に当たってもらうことから始まり、その後、心臓、眼、歯の定期検診にも出掛けており、通常の日々に戻った、といえそうです。野鍛冶の堀田さん、乙佳さん、そして白沙ご夫妻をはじめ、顔なじみの方々を次々とお迎えし、その合間に、さまざまな用件や案件もあって、楽しい10日間になりました。
トピックスは3つ。まず13日。久しぶりに神戸まで出かけ、初めて六甲アイランドに踏み込んだのです。原稿の締め切りが3月末の“叢書案件”の集いでした。列車で淡路や尼崎など幾つもの市を通り過ごしながら、30数年の歳月を振り返りました。神戸に前線基地を設け、これまでの人生の1割(8年に及んだ日々を、ある想いを遂げたくて過ごした日々)を、丁寧に思い出そうとしたのです。このたびの叢書で大事な位置をしめます。
2つ目は、15日。初めてお迎えした人と意気投合。アイトワの喫茶店は昨年から1人仲間が増えていたのですが、そのご主人で、ホームビルダーだったのです。
3つ目は20日のこと。知範さんと祇園の花見小路まで、ある陶芸家の個展に、あって欲しいと願う花器が目当てで出掛けたことです。類似品にさえ出会えませんでした。でも、久しぶりに花街の様子や京都ならではの個展会場に触れることが出来ました。
下旬は、海外旅行再開の相談から始まりながら、25日と28日の2度にわたっておもわぬ銀世界に、予定や目論見が大きく狂ってしまいました。とはいえ、23日の乙佳さんの来訪はステキな友人連れだったし、翌24日の今村さんの来訪もありがたかった。さらに、27日に駆けつけたある個展と、29日にアイトワで開かれた同好の志の集いはとてもためになりました。
他にも、当自治会の将来を見据えた会議や打ち合わせに3度も時間を割き、これも有意義でした。これらに加えて、この度の降雪は2つの点で初体験でしたから、記憶に強く残りそうです。おかげで、缶詰状態だった最後の2日間も快適に思われました。
初体験の2つのタイプとは、この庭で最大のツララができたり、初めてみる雪庇に驚かされたりしたことです。とはいえ、ブルーベリー畑(の形に合わせて手作りした自慢)の2つのフレームがペシャンコにされるなど、多々被害も出ました。
~経過詳細~
1 新年
神棚に先ず燈明をあげ、次いで仏壇で線香もあげて、祈り終わるまで、いつもの通り黙々と。新年の挨拶は、次に2人が顔を合わせた屠蘇酒の時。例年通りに改まった年と1年の平安を願う発声。この間は、「幾つですか」と声だけが飛んできて「2つ」と声だけ返す雑煮の餅の数の伝達ぐらい。中高生の頃は、「6つ、いや7つ」などと寝床から答えたものだ。門扉のしめ縄は、年賀状を取にでたときは正常だった。
午後に目を通した年賀状。「絵」では、四半世紀前にアメリカまで修学旅行(大垣市女性アカデミー)で出かけた女性の一葉。「版画」では、75年来の幼友達。「カット」?では、そのセンスに40年来感心させられて来た人。「イラスト」では・・・次いで「書」では、といったようにジャンルごとの好みの一葉に見とれた。
「写真」では、「これが、やはり」と、アメリカの長女リズ(アメリカ人ホームステイ第1号)を選んだ。 私も逗留したメイン州の生家から届いた。
2日に迎えた妻の元生徒さんは、ハッピーとも大の仲良し。四国を朝に出て、昼過ぎにご到着で、それはハッピーの狂喜の声で分かった。そうと気づいた妻も、工房から戻ってきた。その第一声は、門扉のしめ縄のこと。既にミカンを奪われ、ユヅリハが乱されていたとか。その手口からカラスの仕業と断定した。
午後のお茶から賑わった。おかげさまで今年は、お節料理は三が日の朝で片付き、妻は大喜び。今は寸暇を惜しんで人形づくりに励んでいる身ですから、什器を早く片付けたかったようだ。
3日の夜、元生徒さんが「見逃した」とおっしゃったので、過日のTV番組・BS朝日の『バトンタッチ』を観てもらった。おかげで、執筆中の叢書の一文として盛り込みたい妻の発言を正確にメモ。「ついでに」と、かつて1年がかりの収録になった『ドキュメンタリー人間劇場 嵐山に愛を見た』(1999年4月放映)も1時間かけて観た。母が大腸がんで、突然途中で倒れ、シナリオがすっかり変わり、放映寸前まで題が決まらなかった番組だった。丁度4半世紀昔の記録。
4日、今村さんが「息子が帰省したので、もう一度」とおっしゃる来訪。だからチョットヘビーなテーマに取り組んでもらった。囲炉裏場の側に生えた竹を主に、不都合な竹(枯れた竹、寿命が残りすくない竹、そして風などで曲がった竹など)を切り取る作業。15.6mもあった竹も含め、これだけの本数を、坂に生えた木立を縫ってイノシシスロ—プまで運ぶのは、息が合わないと難しい。おかげで一角は随分スッキリした。
その息の合いようを観て、“息子”とは、よく言ったものだと感心。ピッタリ息子と息があっていた。次いで、鉈の使い方も学んでもらった。
かくして、緑の天蓋の手入れも完成。写真右はビフォー。
5日、穏やかでやさしげな朝焼けだった。PC作業や新聞の点検を済ませた時に、大きな荷物が届いた。その荷の中から幾つもの荷が出て来た。その1つを解いて、すぐに分かった。寄せ書きもあった。「来年だと思っていたのに」と呟くと、妻はわたしが照れ臭がっているようだ、と見たのか「今日ですよ」とニッコリ。半世紀のお付き合いに感謝した。
妻も次の言葉は「どうしましょう」「私たちには贅沢ね」だった。
インゴットに似せた食べ物も入っていた。「まさにキンプンが…」と言いかけて、やめた。この納豆は翌朝の一品から活かされた、
好天で明けた6日。ぽかぽか陽気にいざなわれ、除草の1日になった。どなたも来訪者がない1日になったし、午後のお茶を運んだ妻から「明日は雨のようです」と聞いたことも関係し、この日の仕上げに七草摘みを選んだ。
これまでは当日の朝に妻が当たって来たことだが、初めて七草探しをしてみた。ついでにネギの畝に生えたアイトワ菜もとったり、「今年は、ホトケノザ畑をつくろう」と考えたりした。スズナとスズシロは畑の畝でとれるので「妻の取り分として残しておこう」
PCの前に戻って座り、ホトケノザの株を、かつてわが家の庭に届けて下さった重松明子さんを振り返った。「今頃?」と懐かしんだり、いただいた苗で作った “ホトケノザのミニ畑”の写真を探したりした。2007年の4月のことであった。
雨にならずに明けた7日、小さなスズシロ(ダイコン)とスズナ(カブラ)を採って来た妻は、私が1本しか採れなかったゴギョウから刻み、今年も七草粥を用意した。
ゴギョウもひと昔まえからみると減った。木が茂り、日陰が増えたせいだろう。
8日は、岡田さんに誘われていた西本願寺の“聞法会館”に出かけた。昼食は(妻は人形展を控えて追い込み中だから)同道する今村さんと採る予定だった。10分ほど歩いて案内された店は、辺鄙な住宅街の中ほどにあった。今村さん馴染の店(事務所から昼食時に使える)だったが、家族のチームプレイと店の繁栄ぶりに感心した。
このたびの集いのメインは、出版記念パーティだった。だが、その余興の太鼓(西福寺るんびに)と講演「みんな、幸せになれ」(夜回先生で有名な水谷修さんの)を組み込んだので、一般の方々にも、言って頂けので駆けつけた。
太鼓にも講演にも圧倒された。帰宅して、メモ代わりに撮った写真を見直し、考えさせられた。岡田さんが若者を助けようと立ち働く姿を収めていながら、肝心の講演の様子を写真には収めていなかった。その壮絶は事例紹介に圧倒されて、呵嘖の念に苛まれていたのだろう。
「援助交際」という言葉が流行っていた最中に、女子学生を私は預かっていた。だから学長のおハチが回ってきた時に打ち出した1つの方針を思い出した。その時に“誠実を絵にかいた”ような副学長(その昔は保健所所長だった)が、私の打ち出した方針を聴いて「先生!それでは患者さんがいなくなってしまいます」とおっしゃった。
その方針とは、対症療法ではなく、歯科衛生科は「予防医療」を優先する、だった。ならば歯科衛生師が主体性を発揮できる。
だから、その年の入学式では『三つの心』を打ち出した。『私学経営』誌も取り上げてくれたが、未だに日本では対症療法が流行っていない。そして健康保険システムは実質上で破綻している。
9日は、薪を造園家の佐藤さんが届けてくださる話や、祐斎さんのヒョッコリ訪問などが飛び込み、チョットばたばたした。
祐斎さんには、手作りのシャーベット風干し柿を届けてもらった。「ここに来ると、いつもヒントがある」と褒めてもらった。そして、囲炉裏場にあった剪定くずに「役目を与えてやろう」と言って持ち帰ってもらえた。
午後は、長津親方を訪ね、佐野校長を交えてMTG。
10日、遅れていたモミジの落ち葉のマルチングに取り掛かった。
2 シカの侵入
新年初の(アイトワにとってのトピックス中の)トピックは、2つの不思議を伴ったシカの侵入だった。それは、モミジの落ち葉のマルチング(アイトワの恒例だが、遅ればせになっていた)を、望さんに収録していただくべく下準備に取り掛かった10日に、シダレウメの樹下でその糞を久方ぶりに見つけており、わかった。
もう入りようがない、とおもっていただけに驚いた。そうと知った妻も驚き、糞を探して庭を巡った。臆病なシカが、方丈の近くまで踏み込んでいた。
次の問題は、どこから入ったのか。いつ入ったのかだ。共に特定できない。このところ雨が降っていなかったので、昨日の糞か、5日前の糞かさえ断定できない。
庭の南西の角で「何かが踏みチョット荒らした」ように見える痕跡があった。が、「ここは、入れないだろう」。
「そもそも」とおもった。入ったことは確かだ。だが、食害の痕跡がどこにも見出せない。庭中を巡り、4カ所で糞を見つけたところで、「被害がないこと」をいいことに、捜索を打ち切った。ただし、シカが飛び越えようとすれば簡単に飛び越せる裏門に、入れば入ったことが分かる仕掛けだけ施した。
翌朝のこと。「これは夕べのだ」と叫んだ糞があった。「もしや」と裏門に走った。入った形跡はなかった。シカは飛び越せる高さでも、その向こうが見通せない場合は、どうやら飛び越す勇気が出ないようだ。だが、ニラの畑の側に確かな痕跡、シカの足あとがあった。
ちなみに、正面の門扉には、いつも夜分は障害物を立てることにしている。
「無駄なこと」と思いながら、「ここ以外に」となった(何かが踏み荒らした痕跡があった)ところに、障害物を仕掛けた。
その夜に、ハッピーが激しく吠えた。大雪が降った後だったので、色々なことを想像した。シカが金属ネット(セメント工事に用いる補強用)に足を絡ませ、もがく姿も連想した。夜明けとともに飛んで行って点検。その痕跡は何もなかった。
さあ困ったことになった。
3 銀世界
25日の未明「電気を消し忘れたのかな」とおもった。寝室の北の窓が異常に明るかったからだ。「予報通りに雪が降ったんだ」と、すぐにさっしがついた。室内温度は7℃。
玄関の扉を押し開けた瞬間、「今日は巣ごもりの1日だ」になった。
庭を巡り、写真に収めたい、とおもったが、すぐに無理、と判断した。いわんや、スクーターが脚の望さんにもお願いできない、とあきらめた。ほどなく日が刺した。起き出してきた妻は、居間の雨戸を開けて、「キレイ」と叫んだ。
「この積雪ならこれまでにも体験が」と想った。次いでハッピーは、とみると「案の定」だった。
前夜を振り返った。大雪予報に触れた時に、妻が「風除室に移してやりましょうか」と呟いた。ここは私の出番、と考えて「不要」と答えた。
やむなく妻は、夕べの内に、いつでもハッピーが木の小屋に引っ越せるように近づけておいたのだろう。妻はいつも、その場その時に自分が出来るベストを尽くそうとする。
ハッピーは自分でかじって穴だらけにした方には引っ越していなかった。「風が強かったのかも」と、側の木を見たが、そうでもなかったようだ。隙間のないプラスチックの小屋が雪国の“かまくら”に見えた。
昼食の後、妻が人形工房までの間を行き来した足痕をたどるなどして、居宅の周りを点検した。「このようなツララは初めて!?!」と、記憶をさかのぼったが、おもいださない。
夜の雪景色も観た。
好天の翌日、午後に庭を点検した。寒冷紗に雪が積もり、へしゃげた柑橘類の雪を取り除く作業から着手。2つの“ブルーベリー畑のフレーム”はペシャンコだった。
目を畑に移すと、崩れ落ちそうな“スナップエンドウの霜よけ”が目に留まった。次いで黒い地肌が覗く畝が2カ所あった。妻が朝方の収穫に出た痕だと分かった。PC作業に追われ、屋内に引きこもっていたわが身が悔やまれた。
27日の夜も雪が降った。日の出を待った。快晴になったのを幸いに飛び出した。
モミジのトンネル、小倉池、そしてアイトワの庭を外側から、と手以外から、と順々に遠望し、折り返しながら過去を振り返った。荒れ地と格闘する痩せた母と、女学生だった姉の、イママなき2人の陰を見た。
苗木から育てた“シンボルモミジ”が雪化粧でお出迎え。青空はさらに澄み上がっていた。
この手の雪庇は初めて見た。玄関に戻ると、今にも落ちて来そうな雪庇がせり出していた。雪庇が落ちないように、脚を滑らせないように、と緊張。内側からも撮った。居間でストーブに点火した時に、ドサッと雪庇が落ちた音が響いてきた。
妻に“雪のシンボルモミジ”の印象を告げた。朝食造りの手をとめ、収獲で畑に出ていながら観ていなかった、と玄関に急いだ。
あれは見納めでしょうね、と戻って来てガスに火をつけ直しながらつぶやいた。
自然は2度と同じ光景を見せない。“シンボルモミジ”の秋の姿を振り返った。11月27日の写真が出て来た。63日間以前の姿だった。日々刻々と移ろう姿がよみがえり、とても長い年月に思われた。
4 奥田さんの個展
今年2度目の雪を雪雲が振り出させようとする数時間前に、奥田さんの個展会場に訪れていたことになる。初めて踏み込む画廊だった。2階があって、京町屋のみごとな活かしようにも感心した。
先ず、水の描写に心惹かれた。
「額も自分でつくりました」と小作から説明を受けた。「この扉をくぐって、この人の世界に誘なっていただく」ような気分になった。
次いで、「この(絵の)右の柱と、こっちの左の柱は」と、2作並んだ作品の説明も、心に残った。欧州の街角をおもい出した。ローマで訪れた「デザイナーが暮していた家は、」確か2000年ほど昔の石組を活かして、建っていた。
欧州の人は、300年も、500年もの長きにわたって、家を上手に改装して使うことを(パリの郊外まで訪ねた人の居宅をおもいだしながら)語らった。「70歳に、なりました」と奥田さんはおっしゃった。
奥田さんと出会ったのは38年前だから「32歳だったんだ」。工務店の社長だった。その時の一言に心惹かれ、その後、大きな仕事を2度、計3度にわたってお願いした。
最初の案件は私にとって一生一代の大仕事だった。母の提案と、ある衝動が1985年の春に私を突きうごかした。
母は、妻のために「人形工房をつくれ」と迫った。その頃に、勤めていた会社では、コンクリートの打ちっぱなしで知られる気鋭の建築家を、その社会的評価に魅かれて、使い始めた。私には工業文明の落とし子のように見えた人だった。だから、難色を示すと、森さんは「コンクリートの打ちっぱなしが嫌いなんだ」と、受け止められ、真意を理解してもらえなかった。
「ならば」と、腰をあげた。コンクリートの打ちっぱなしなど許されない(建築規制が厳しい)地区で、「人形工房を」作ろうと考えた。建築家のクラスメイトは1年がかりで認可を取り、3回も建設途中で審査を受けた。その建設会社が奥田工務店だった。
その時に、クラスメイトは3社の工務店を選び、競争入札させた。2社を残し、再入札となったときのことだ。奥田工務店の方が値が張ったが、なぜか心惹かれるところがあって値切ろうとした。その返事は「これ以下では、持って帰れません」だった。
次に現れた大きい方の交渉人は、奥田工務店より高い値を出していた、と誤解したようだ。いくらにまで下げればよいか、といったような迫り方をした。
高値の奥田工務店を選んだ。これですまず、その後2つの大きな仕事で、値段交渉をせずに奥田工務店を選んでいる。それはどうしてか、とズーッと気になっていた。その謎が、この度の個展を機に、解けたような気分にされた。
「この人の頭のなかでは、クラスメイトが示す設計図が、あの(値段を出した)時点で既に竣工していたんだ」と想った。この人は、手抜をするなどの工夫のできない人だったんだ、だからこれ以上「下げられない」になったのだろう。
ここちよい会場だった。次にこの前を通ることがあれば、ここでお茶の時間にしよう、と目論んだ。この画廊は出展者を、厳しい目で選んでいらっしゃるに違いない、とみた。
奥さんとお嬢さんが詰めかけておられた。奥さんとはかつて阪急電車の車内でお目にかかったが、覚えて下さっていた。たしか「海外旅行にも出かけられるようになりました」と、夫婦お揃いだった。奥田さんはこの道に2004年からお入りなので、それは10数年昔のことになる。
5 同好の士
その触れ合いは、9日に佐野(京都建築専門学校)校長を交え、親方と3人で会したが、この時から始まっていたことになる。“匠の祭典”は6年前に立ち上がり、2年間のコロナ騒動での空白が生じながら、今年は第5回開催が予定されることになり集った。その吸引力や意義の何たるか、それが焦眉の焦点になりそうな同好の士の集いにおもえた。
この主要な推進メンバーのお一人である堀田さん(9日に集えなかった)が、12日に尋ねて下さった。2月に予定される集まりを控え、心構えを話し合った。
次の同好の士の触れ合いは翌13日だった。友達同伴で乙佳さんに、予定通りに尋ねてもらえた。アメリカから訪れた(母親が日本人と聞いた)青年だった。
“恵方屋台”の見学がご所望だったが、自分で創ったという屋台の写真を見せてもらった。それだけに“恵方屋台”がお気に入りだった。
この屋台の側には、造園家の佐藤さんが9日に下さったまま、半分以上をそのままになっていた薪があった。「この人なら」とおもって、喫茶店に案内する道すがら、一輪車一杯分を運んでもらった。
彼は、“恵方屋台”もさることながら、この屋台をつくってもらい、喜んでいる私の想いの方が、もっと気がかりのご様子だった。
その口から「PATIENCE」という言葉が飛び出した。「何に対する“忍耐”だろうか」と気になった。母親の母国・日本に来て、一番驚いたことが「PATIENCE」の欠如がはなはだしい若者の姿だった。その「PATIENCE」を欠いたその姿が不安を誘ったという。
私は6歳の時に夢みた庭の姿があった。その夢を半世紀もかけて形にしたような人生になった。これも「PATIENCE」であったらしい。
「PATIENCE」という言葉の概念に重みや、厚み、あるいは深みが増した。会話が弾んだ。だから送り出した後で、3つのおもい出を振り返った。
先ず、私の「PATIENCE」。それは6歳の1日、わずか2~3時間であったのかもしれない。あるいはこの麦踏みは2~3日にわけて続いたのかもしれない思い出だ。ともかく母の側にいたかった。そのおもいを、20年前に、嵯峨御流(大本山大覚寺の華道)の機関誌『嵯峨』に寄稿していた。
次に、1994年に陽の目を見た拙著『このままでいいんですか』で、ある危惧の念を訴えていたことを振り返った。当時、多くの親が、ゆゆしき誤解を子どもにさせていた。お金は、適切な機械を探して、キチンとカードを差し込めば、自動的に出て来るかのような誤解をさせていた。こうした誤解を頭や心に刷り込んだ子が大きくなって、日当100万円などといった仕事に飛びつくのではないか。
これも一種の「膨張の呪縛」と見て、果てしない不安を感じていました。
翌1995年のアメリカ取材時に、ある寄り合いでポール・ホーケンさんは工業社会を危惧し、「あなた方は要りません。あなた方のお金だけが必要です」と言った立場に若者を陥れる、とても心配していた。
別の集会で、もう一人の大統領候補(当時)の報告も聴いたが、早晩アメリカでは中間層が消滅し、貧富格差の拡大が火急の問題になる、と訴えていた。
この時の旅では、外交官が創業した会社・ワイルドプラネット社も訪ねた。創業者・グロスマンさんの危惧も聴いた。彼は「DIGNITY」に満ち溢れた子どもが育つ社会を一刻も早く取り戻さなくては、と外交官を辞めて、オモチャ会社を創業した。
こうしたアメリカの動きは拙著『「想い」を売る会社に』に収録した。この時はアメリカの長女リズがアテンドしてくれた。
30年遅れで、日本はこうした問題が深刻になっている。「日当100万円」云々もしかり。
この「DIGNITY(威厳)」のニュアンスも、もっと掘り下げておくべきであった。
15日にも、初めてお迎えした人との意気投合があった。アイトワの喫茶店は昨年の暮れから仲間が1人増えていた。そのご主人を迎えた。進む方向を見定めておられるホームビルダーだった。いろんな懸案を、相談しながら片付けたくなった。
かくして2度の大雪の合間になった27日に、奥田さんの個展を訪れ、数々の受賞に輝く作品をみせていただいたわけだ。
次いで、2度目の大雪の翌日、この度の同好の士の総仕上げのような熱気がアイトワのゲストルームに漂った。岡田さんがご案内の人たちだった。木造建築が共通項の集まりだった。
午後は、せっかくだからと、映画会を開く機会になった。それがヨカッタ。長津親方夫妻にも参加願えたが、先の同好の士との交歓の好機になった。
6 その他
当月は金婚式で始まったようなところがある。また、SDGsがらみの叢書の原稿造りも佳境に入っており、“生涯年表”のようなものを初めて作っており、とても驚かされてもいる。記憶が幼い頃の2か所に集中していたからだ。
戦時中に疎開した地で、3歳の時の幾つかの鮮明な思い出と、小学1年生で敗戦を迎えたが、その後10歳前後に結核菌が肺に浸潤したが、その頃に鮮烈な記憶が集中していた。今ある私は、この時に形作られていた、と言って過言ではない。
終の棲家にしてしまった居宅。このエコライフガーデンと自称する時空は、その頃の想いが形作らせた。そのために、ほかの選択肢をすべて切り捨てて、金婚式にまでこぎつける人生にさせた、とでも言わざるを得ない心境にされた。
もちろん波乱はあった。就職、離職、再就職などの沿革、結婚、離婚、再婚の変革、あるいは天災、怪我、病気などの災難が絡みあって幾度となく悩まされている。
これらを丁寧におもい出そうとして、驚いてもいる。物理的な時間と認識上の時間のあいだのはなはだしい乖離のこと。6歳で迎えたお正月は、元日までの数日が、とても長かった。「もういくつ寝るとお正月」という歌を幾度となく歌った。
だが、初婚の6年は記憶をたどれない。最後に会した最後の、感謝の数分しか定かでない。金婚式をこのたび迎えたが、この半世紀も夢のごとしだ。離婚を有意義にできた半世紀になったと、これも感謝の思い出だが、一睡の夢とはよく言ったものだとおもった。
それだけに、著作や寄稿など作文とか記録に取り組んでおいてヨカッタ、とおもった。
モミジのマルチング。11日、年を越してしまったモミジ(の落ち葉の)マルチング作業を、池田望さんに撮影していただけた。かつては燃して灰にしていたモミジの落ち葉だが、何年か前からマルチング材として活かすことになった。それはいつからか。この点は『自然計画』に記してきた。それはどうしてか、はいつでも語ることができる。
この度は、前日の準備作業で手を付けた石畳道沿いの帯状地から仕上げた。
次いで果樹園。まだ、ブルーベリー畑の2つの手作り防鳥ネットは健在だった。
そしてコンクリプールの側へ、と進んだ。
久しぶりの鯛麺。暮れに大きな鯛を頂き、冷凍のまま(わが家のグリルでは焼けないので)年を越させた。急遽、小さな睨み鯛を買い求めた。妻の好みではないが、鯛麺を造ってもらい、一人で味わった。
ハッピー4世の選択。大雪が降った。ハッピー3世は、まだ若くて元気なので、試練のチャンスンにさせた。「案の定」の選択をした。
先代・ハッピー3世で試みた実験をおもい出した。水を嗅ぎ分ける実験だった。水道水、雨水、そして純水をランダムに置き、いずれを好むか、確かめた。
結果は、初代ハッピーならどうしていたか、と忍ぶだけに終わった。放し飼いをしていた初代は(個有の能力があったのかもしれないが)、鋭敏だった。
当時、私は食べず嫌いだったチーズの魅力に目覚めた頃だった。欧州出張が多かった。だから、初代ハッピーに随分お世話になった。
カマンベールなどは、オレンジ色のカビだらけになるまで放置して、その風味を楽しだものだ。それは、初代ハッピーの毒見を経てのことで、舌を刺す鉛のような色になった分も賞味できた。
鎖につないで飼わざるをえなくなると、とたんに鈍感になる。ヤギでも、小屋に閉じ込め、飼い葉として与えると、馬酔木(アセビ)まで食べてしまう。
この現象は初めて見た。氷点下53度の中国でのこと。魔法瓶に入った熱湯を振りまくと瞬時にして! この現象。
キャベイジゾーンを想いだした。雪に閉じ込められて、しかも畑の青菜が雪に埋まり、凍てついたセイかオカゲか、すべて買い求めた食材の炒め物が2度も、朝食に出た。
かつてイギリスにはあったと聞いたキャベイジゾーンをおもい出した。冬の朝の街を歩いていると、どの家からも漂って来る同じ香りが由来であったとか。
澄まし雑煮。暮れに作った正月用の餅は最後になり、2日に分けて白みそ雑煮と澄まし雑煮の朝食で使いきった。澄まし雑煮は、濁った汁と色合いが妻は気に入らなかったようだ。是非、是非、とリベンジすることを勧めた。
2度目の糧飯。七草粥に次いで、頂き物の最後に残っていたサツマイモを糧飯に活かした。
耳を疑ったスイカ。「このようなスイカができたんですって」と妻が、ゲストルームに自慢げに見せに来た。「ウラナリスイカに、この程度の(小さいの)はできた」と、いなした。すぐさま取って返し、今度はケイタイをかざして戻って来た。
コロナ時代のデザートにピッタリ、とおもって知人が造り出した、という。「シッカリ甘かった」らしい。
阪急の座席。すべての駅で、駅中を見渡した。皆さんマスクをつけていた。六甲アイランドからの帰途、阪急電車に乗り込み、初めて見る座席があった。使用状態を観ていないから憶測だが、ステンレスの横パイプを手前に引けば座席が飛び出すのだろう。
「それにしても」とマスクの現状と、車内でのケイタイの使用史に想いを馳せた。ケイタイはいくら車内放送で要請があっても、平気の平左でだべり続ける時代があった。優先席は今、その状態だ。ここまでしなければならないのか。
秋刀魚の味。映画会は小津安二郎監督の『秋刀魚の味』。私が社会人になった年の作品であり、小津安二郎監督の遺作。
当時の女性は婚期トラウマだった。団地が憧れの対象で、まばゆい存在だった。それまでなじみがなかった家電やスポーツ用品などが垂涎の的で、購買競争の対象になっていた。また俳優や女優は皆美男美女と決まっていた。こうした社会のるつぼに放り込まれた私だったが、岡田さんには指摘されるまで分からなかあったことがあった。
それは東野英治郎が演じた元国史の教師でラーメン屋を営む“周平”の立場。とても卑屈な姿を晒していた。
小津は岩下が演ずる失恋のシーンを100回以上も撮り直させたらしい。
イチジクの木を切り取った。今村さんのこの日の最後の作業になった。昨年は、この一帯では新顔のカミキリムシが大量発生した。その虫のセイか、この虫を大量発生させた気候などのセイか、不明だが、イチジクの木が瀕死の状態に追い込まれた。
今年は根から新芽を吹かせて、再生したい。