大阪での講演。月に2つの講演依頼は久しぶりだった。これは恭祐・知範両君に自然計画のリニューアルと庭仕事に取り組んでもらう上で、誠に好都合と見た。2つ講演に求められた演題が、若者2人にアイトワを理解してもらう上でおあつらえ向きの内容だ、と思われたからだ。
群馬で要請された演題は「地域資源の利活用と、持続可能な社会の構築」であった。アイトワは地域資源に恵まれていると見ているだけに、妻の喫茶店経営を許すときに、幾つかの条件をつけた。その1つはその「地域資源にたよるな」「あてにするな」であった。常寂光寺にもアイトワの吸引力を評価してもらえ、相乗効果を誇り合えるようになれ、であった。つまり、地域資源の積み上げをめざすように厳命した。
地域資源は健全に活かすことによって、より豊かな資源にするやり方もあれば、食いつぶす(ただ乗りする)やり方もある、との指摘だ。
健全に活かす人たちが信用を積み重ねれば重ねるほど、それにフリーライド(ただ乗り)する人が現れやすくなるのも事実だ。幸か不幸かそうした事例も紹介してほしい、という。そこで、「京都ボッタクリ」で検索できるわが家の向かいの商法も紹介した。アイトワの真向いにある貸し物件を借りて、アイトワの入り口を挟んだ両側にある入口で道行く人を待ち受け、「オーナーは村上春樹と並び称せられる世界的なアーチスト」その「オーナーが世界のVIPを招く迎賓館」など、ひっこい呼び込み商法を、いまだに繰り広げている。
おりよく、桑原・下村両君は、これまで私たち夫婦が知らなかったアイトワの世情評価を見つけだし、自然計画リニューアルの一環としてリンクしてはどうか、と提案してもらえた。これも、両君のおかげだ。それで思いあたるフシの謎も解けたからだ。
欧米系外国人客が増えたのは良いのだが、「なぜ向かいのフリーライドを許しているのだ」と言わんばかりの不満や不信の声を聴かされていたからだ。西洋人には「フリーライド」はとても卑劣な行為と映るらしい。
もちろんアイトワは大打撃を受けている。だが、わが家が騒ぐと、商売上の競合問題の次元に引き落とされ兼ねない。そう考えて控えており、閉開店時間を各1時間縮めて耐えている。だが、来店客の立場からも考えてほしい、と不満げだった。
2つ目の講演依頼は、中小企業を支援する機関に求められたもので、演題は「『庭宇宙』から見えた未来」であった。紹介者は岡田さんで、岡田さんは30年前にアイトワで拙著『ビブギオールカラー』に目をとめてもらえた人だ。ときどき妻から、素敵な噂を聞かされていた。「ご本を携えた人が、1~2時時間ほど読み耽った上で去ってゆかれる」と。それが岡田さんだとごく最近になってが分かった。拙著もすべて求めていただき、2度3度と読み直してくださっていたことも知った。
そのようなわけで、このたびは甘えついでに、副題に提案された~「エコライフ」と「人と地球に優しい企業」がつくる「第4時代」~を選ばせてもらった。だから、両君にアイトワを理解してもらう上で誠に好都合の内容になった。しかも、鎮痛剤のおかげで、元気に役目を果たせた。
未来は「願望の未来」と「必然の未来」があるが、今や「必然の未来」を目指さなければならない時になっている。「必然の未来」とは、いずれ誰しもが追い立てられ、踏みこまなければならない未来だ。企業活動もそれに従わざるを得なくなる。だから、それに気づき、早く踏み出せば踏み出すほど、誇りや信用の源泉になる、と訴えた。
幸いにして私は、不運と能力不足が吉と出て、今がある。肺浸潤と受験の失敗という負のダブルパンチに見舞われ、それが2つの覚醒に結び付けたわけだ。まず本当の定期預金に気付かされた。そして真の金利は、目には見えないもの<a>だと悟らされた。
この気づきが、やがて望ましき企業の在り方や個人の生き方<b>に思いを馳せさせるようになり、循環型社会を「必然の未来」と見定めさせている。
大企業には不利な時代となる。価値観や美意識を転換すること自体も、大きい組織ほど容易ではない。あらかたの大企業は無用の長物になる、と私はかねてから睨んできた。たとえば、2つの巨大企業を引っ付けた新日鉄はその典型だろう。体良く1つをつぶしているようなものだ。粗鋼生産、雇用人員、あるいは売上高など、2つを足したときより少なくなっているはずだ。
こうした想いの下に、社会人生活と私生活を一致させて繰り広げ、手に入れたそれなりの成果を清豊と位置づけており、それを紹介したかった。要は、バイオロジカルエコロジーと呼ぶ(ことにした)自然循環型の私生活と、インダストリアルエコロジーと呼ぶ(ことにした)企業社会が織りなす社会の追求だ。そこに「第4時代」<c>を見ている。
これまでの社会(私生活者と企業社会は共に)この対極をなす手の携え方をしていた。両者は、自然破壊や資源枯渇などを推し進め合う共謀・共犯の関係にあった、と断言してよい。つまり、私たちの「ヒト」の部分を、底なしに満たそうとするかのように「欲望の解放」を推し進め、その弊害として地球の復元能力を台無しにしつつある。
だから、近年の気象上の異常などを地球の反撃と見てよい、と私は考えている。かつての安定した状態に戻すための地球の微調整だ。たとえていえば、雨に濡れた犬が身震いをして水滴を飛ばしているようなものだ、と気付いてもらおうとした。
エコロジカルフットプリントの説明と、現実を語った。アースショートデイの意味と現実も説明し、深刻な現実に気付いてもらおうとした。こうした現実に気付き、生き方を変えないと、旧来型の企業や社会の餌食にされかねない。いまやメディアまでが、真夏日には冷房機を「ためらわずに使ってください」と叫び、販促活動の片棒まで担いでいる。
わが国は地下資源小国ゆえになすべきことがある、と気付いてもらいたかった。間違っても、濡れ雑巾を絞るような「働き改革」をしてはいけない。それは従来型のやり方を加速するだけだ。武力戦争時代に犯した失策を、経済戦争時代に繰り返すようなものだ。要は「生き方改革」が求められている。
その1つのモデルとして、わが家のありようを紹介した。ヒトのみが有する固有の潜在能力・創造的個別性の発露を促し「人」にする生き方を願ってきた。
だから、〆には、日本の安全保障のあり方を選んだ。日本がもし率先して「第4時代」を体現する国になってみせれば、それこそ「サムライ・ニッポン」にふさわしい、と世界に認められるだろう。そして、その延長線上の在り方として、自衛隊を改革する。
自衛隊員とその予算をそのままにして、自衛隊を「世界の自然災害救援隊」に改組すればよい。その方が、よほど国の安全保障上で貢献するに違いない、と訴えた。
こうした想いは、私の反省から生まれたものだ。社会人生活の初期は、工業社会化する社会にあって、いわゆる増収増益パターンを感受したが、その反省が生じさせた。増収増益パターンを維持させるセオリーを渡しは発見し、やがて反省した。それは人々が自己責任能力や自己完結能力を心地よく手放させるように工夫すれば、その工夫は歓迎された。処女作ではこの詳述にもペイジを割いたが、そうと気づいて恐ろしくなった。
要は、リストラに泣く人をこしらえているようなものだ、との気づきだ。しかも、それが地球を壊している根本要因である、と気付かされた。
そこで、いわゆる脱サラして、自己責任能力や自己完結能力を失いながらスペシャリストになっていると誤解している人たちに呼び掛けることにした。多彩な全人になろう<d>、と。それは単色人間ではなく、ビブギオールカラー<e>だ、との提唱だった。
工業社会を脱却し、次代を創出する企業を目指したかった<f>。その次代のありようをうまく説明したくて<g>、そのモデル(私生活サイドだけでも)創りに専心することにした。
わが国は、第4時代を創出する上で最も有利な立場にある。人類は、第4時代に移行できなければ生きとし生けるものを道連れにして破滅しかねない。いずれは追い立てられ、従わざるを得なくなる在り方、考え方、あるいは各個人の生き方に、少しでも早く気づき、出来るだけ早く切り替えておこう、と訴えたかった。